ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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侮蔑対象に己の判断基準を委譲する人達

【サヨク悲報】タクシーの客「ああいう人達(官邸前の抗議)が反対してるから、やっぱり安倍さんが正しいのかしら」 - 政経ch

「安倍総理がやろうとしている解釈改憲なんてとんでも無いと思っていたけど、ああいう人達(官邸前での抗議)が反対しているから、やっぱり必要なのかねえ」安倍内閣がやろうとしている解釈改憲に反対の人が多いのだが、今回の官邸前での抗議が知れるにつけ、上記のような話をする方が増えた。

これはつまり、その者達の逆の判断をするという形で、侮蔑対象として見ている「ああいう人達」に己の判断基準を委譲していることになるのだが、こういうことを言う人達はそれに関して何も疑問を持たないのだろうか。

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敵の存在が人生に活気と希望をもたらす

大阪維新の会を待ち構える落とし穴 - 中央公論.jp

 厳しいのは大阪府である。橋下知事は過去一〇年以上、ずっと赤字続きだった大阪府の財政を黒字に転換したことを強調するが、その中身は実にお寒い限り。一般企業と違って行政の台所は借金でも歳入に組み入れることが合法的に可能なため、借金を増やせば収支を黒字に見せかけることもできる。しかし、それは見せかけの黒字にすぎない。借金がどれだけ財政の負担になっているかという「実質公債費比率」の推移を見ると、平成十九年度から二十一年度まで、大阪府は一六・六%から一七・二%へと増加。逆に大阪市は一一・八%から一〇・四%へと減っている。ちなみに、この数字が一八%以上になると、地方債の発行には国や都道府県の許可が必要となり、二五%を超えると財政破綻の一歩手前、早期健全化団体に転落する。大阪市に比べて大阪府の財政はイエローカードの危機的状況なのだ。大阪市は逆に、關淳一前市長の改革によって財政は緩やかに好転しているのである。
 さて、チルドレン議員の何人かに「大阪府と大阪市の財政はどちらが厳しいか」という質問をしたところ、例外なく全員が「大阪市」と答えていた。

大阪府の財政を黒字に転換したことを強調し、大阪市の財政健全化に対する姿勢の悪さを糾弾し続けてきた橋下府知事だが、実際に内容的に財政が悪化していたのは大阪府の方だったという。

(続)大阪府と大阪市の借金残高について 「実質公債費比率について」

最近になってようやく橋下知事もそのことを認めたわけだが、彼の支持者達はこのことをどう思っているのだろう。というのも、彼を支持してきた人達の多くは、財政健全化への期待やそれを成し遂げた功績を彼を支持する第一の理由として挙げてきたはずだからだ。ところが好転していたはずの財政は、借金による黒字化で好転しているかのように装われていただけであり、実際はむしろ悪化していた。つまり、本来ならこのことによって一番怒らなければならないのは元々彼を支持してこなかった者達より、むしろ財政健全化を最重要視し、それ故彼を支持してきた人達のはずなのだ。財政が悪化していただけでなく、彼はその事実を隠し続けてきたわけだから(内容的に改善している、という直接的な表現は避けてきたかもしれないが)。
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しかしながら、その事実が暴露されたことによって彼の人気が衰えるかといえば、そうはならないだろう。これが何を意味するかといえば、彼が多くの人々から支持されてきた理由は財政の健全化ではなかったということだ。つまり彼の人気は、アンケートなどによって表にあわられる理由以外に、もっと他の要素が関わっている。

では何故これほどまでに彼が人々の人気を獲得することになったのか言えば、それは彼が“みんな”の敵を上手く作り上げ、それを人々に提供する能力に長けていたからだろう。この問題における大阪市がそうだったように、そうやって何者かを憎らしい敵に仕立て上げ、それを糾弾する度に彼の人気は増していった。

 ▼敵の存在が人生に活気をもたらす

しかしこの敵の提供という手法や、そこで提供されたものを受け取ることは別に彼のような人間やその支持者だけに特有なものではない。むしろそれは非常に一般的なものと言えるだろう。

例えば、多くのゲームは敵を倒す場を与えてくれる性質を持つものであることが多い。スポーツだってそうだろう。物語にしても、敵と戦ったり悪を罰したりするようなものほど求心力が強かったりする。ある意味、人々は常に敵を、悪を欲している。何故ならその敵との戦いが人々に活気を与え、その者に人生における興味(意味)と動機をもたらしてくれるからだ。そしてそれに没頭することによって、或いは悪が罰せられることの爽快感によって、人々は生きることの辛さを紛らわそうとする。

だが、そういった娯楽は確かに人生に活気やカタルシスをもたらしてはくれるが、――例外もあるだろうが――希望までは与えてくれないだろう。しかし、政治の場ではその限りではない。あの者達が我々の足をひっぱっている、あの者達のせいで我々の生活は逼迫しているのだ、というような舞台設定を持つ敵の提供を受け入れれば、その戦いによって興味や動機のみならず、あの敵を倒せばこの状況が好転するのではないか、という希望をも抱くことができる。希望をかけた敵との戦いは、その者の人生をより一層強く活気付けてくれることだろう。実際、こういった敵の提供というマーケティング手法は、ゆとりやニート、オタク、モンスターナントカに代表されるように、テレビや出版などの分野でも盛んに用いられてきた。

そして政治の場において、昨今より多くの人々を引き付けるより魅力的な敵を提供することが出来たのが橋下知事だったというわけだ。つまり彼は、この希望なき茨の時代において、より多くの人々に希望とカタルシスをもたらしてきたある種の救世主という側面を持っている。だからこそ彼は大勢の者達から支持されてきたし、それ故に彼を支持してきた人達は、それをもたらしてくれる限り彼を支持し続けることだろう。その希望やカタルシスの配布に比べたら、財政再建化の嘘などほんの些細な事柄でしかない――と、そういうことなのだろう。

橋下知事「政治に独裁を」 資金パーティーで気勢 大阪市長選立候補には言葉濁す - 産経ニュース

そのためには独裁という犠牲も厭わない、とさえ思っている人も多そうだ(大阪都構想に希望を抱いている者などそうはいまい。人々が注目しているのは、むしろそこで行われる戦いの方だろう)。

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ただ、こういった戦いは結局単なる内ゲバを招くのがオチで、それによってその組織や集団が発展していくことはまず考え難い。例えば、幾ら憎いからといってスポーツなどにおけるライバルチームを本当につぶしてしまえば、そのスポーツの人気はそこで途絶えてしまう。余りに力の差がつき過ぎても白けてしまい、やはりそのスポーツ全体の人気は下降することになるだろう。つまり、必要なのは力を拮抗させた上での節度ある戦いであり、本当にガチのつぶし合いになると、集団としての活気は失われてしまう。しかしながら、人々が心の底から敵を憎んでくれないと、敵の提供というマーケティングが大きな成功を収めることはない。

さらにこの手法は、それによって人気を獲得した者がその人気を維持し続けるためには、次から次へと敵を生み出し続けなければならない、という問題を抱えている。敵として魅力的な対象を喪失してしまうと、そこで人気も途切れてしまうからだ(少年漫画などにおいて、次から次へと「最強の敵」が順序よく登場するのもこのためだ)。だがこういった手法が一般化すればするほど、敵として何者かを祭り上げた側にもまた、誰かを引き立てるための敵の役割が回ってくる可能性が高まることを意味する。もちろん、敵として祭り上げられた者が祭り上げた者を敵として認識するのは言わずもがな。つまりそれは、人生という舞台の上で行われるある種の爆弾ゲームのようなものと言ってもよいだろう。この手法はそのような性質を持っている。

――ただ、敵の提供という手法に頼り切るような政治家が増えることはこういった様々な問題を孕んではいるものの、もはや政策で多くの人々に希望を与えることができるような状況にない以上、そういった手法を上手く利用することができる者が政治の場で人気を博すのはある意味当然の成り行きともいえる。そうである以上、敵の提供によって力を増した橋下知事という敵を倒しても、また第二、第三の橋下知事が登場してくることになるのは必定だろう。

まあなんというか、一つの国や組織が没落していく時は大体こんな感じになるのだろうな、としか言えない。

それに、敵の提供という手法で成り上がった者が次から次へと敵を生み出し続けなければならない宿命を背負っているように、その敵の提供を受け取ることに希望やカタルシスを依存してきた者もまた、常に敵を求め続けなければならない宿命を背負っている。だとすれば、その戦いから足を洗って希望やカタルシスを失うよりも、用意された舞台設定の上で敵と戦い続けることの方がまだ健全だと言えるのかもしれない。

批判に資格は必要ない×批判の禁止が誹謗中傷を増長させる

Twitter / 猪瀬直樹

まだ言いたいことがある。ネトウヨは財政破綻した夕張を助けに行け。雪かきして来い。それならインタビュ―うけてもよい。


Twitter / hiroki azuma

猪瀬さんに森川さんを紹介した甲斐があった。コミケ条例適用外の言質を都トップから得た。マンガ規制反対で猪瀬さんやぼくを叩いていたみなさん、これが政治です。

この森川という人物は、夕張で雪かきをしてきたのだろうか。猪瀬氏がネトウヨ認定しない人間はオッケーということか。まあこれは、行政のトップが政策についての意見を、自分の気に入った人間からはだけは聞いてやると言っているわけで、どのみちそんな無茶な主張に乗っかって妙な前例を作らない方がいいに決まってはいるのだが…。

にしても、もし「これが政治」※1なのだとしたら、政治は権力やコネを持った一部の人間だけに許された特権ということになってしまう。
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実際ネットの一部ではこの発言に多くの反発が寄せられているわけだが、逆にそれを非難する声もある。

はてなブックマーク - Twitter / hiroki azuma

tegi おたく文化 これを否定するだけの人ってなんなんだ。自分は何をしてるのか。あんたら聖人かなにかか。

Sigma こういう実績積み上げの努力を叩く人らは、どんな政治活動してたの? 何人の政治家を説得したの? 抗議署名してただけ? / でも、コミケはゾーニングできてるし問題ないのは明白。そんな安全サイドの話はいいんだ

しかしこれは逆だろう。むしろ彼は、コネを持たない多くの人間は行動しても無駄だという内容の発言をしているわけだから。だからこそ多くの人間がそれに拒否反応を示したわけで。

そもそも「実績」というが、これは実績とは言えない。いくら言質を取ったところで、実際に明文化されていない限り、結局のところそれはお上の都合で恣意的に運用されてしまうというのはいわずもがなだ。言質と名文が対決すれば、最終的に名文の方が正しいということになる(そしてそれは手法として戦略的にも用いられる)。また、実際に条例が適用されないとしても、こんなやり方ではお上の配慮によってそれが許されている、というような状況が作り出されてしまうことになる。

仮にこれを実績だとみなしても、実績を出したとされる者をそれを出していない者が批判してはならない(或いはその批判が嘲笑の対象にされる)、ということになれば、多くの者はそこで口をつむぐしかなくなる。また、実績を出して初めて政治活動をしたことになるのならば、予め成果が約束されている一部の人間だけしか政治に参加しなくなるだろう。これは、社会的に大きな影響力を持っていない者は黙っていろ、と言っているに等しい。もちろん、批判としての条件を満たしていない非難は「叩き」として蔑まれてもしかたがない。だが、それはその者が実績を出したか否か、或いはそこでの主張以外に何か他に派手な活動をしていたか否かとは全く関係のない話だ。

つまり、政治参加や政治活動を重んじるのであれば尚さら、「これが政治です」の持つ問題性に注目せざるを得なくなってくる。また、批判をすること自体に何らかの条件を課すのだとすれば、それは多くの人間から政治参加の機会を奪うことになるわけで、そのような主張をするのと同時に、より積極的な政治活動をしていなかったことを問題視するというのは、全く筋が通らない。

 ▼批判に資格は必要ない

民主主義は内容を一切保証していない。ただし、誰もが自由に主張することができる。それが民主主義が持つ唯一の長所。その長所を奪ってしまったら、一体民主主義に何が残るのか。

批判の価値は、それが批判としての条件を満たしているか、批判として的を射たものであるか、ということによって判断されるべきであり、その者が持つ肩書きや属性や経歴で判断すべきものではない。また、批判すること自体に資格を求めるのも誤りだ。もしその者が別の案件で全く異なった逆の主張をしていたとしても、或いはそこでなされた主張とは間逆の行動を取っていたとしても、それはその主張自体が間違っていることの証明にはならない。そういった整合性の無さによって損なわれるのはあくまでその者自身の信頼性であって、そこで述べられた批判自体の評価はまた別にあるはずだ。

それに、実際にそれによって成果を出した者や出せる者だけしか批判をしてはならないのだとすれば、それは一部の人間だけに限られた特権となり、多くの者は目の前にどんな酷い状況が成立していても、ただただその現状を追認するしかなくなる。また、そこで述べた主張と己の状態とを常に一致させなければならないのだとすれば、「聖人」は滅多にいないわけだから、世の中の主張は自ずと自己の状態と簡単に一致させることができるような粗悪な主張で溢れかえることになるだろう。そしてそれは同時に、過去の過ちによって行ってよい批判や主張がどんどん狭められていくことをも意味しているから、人々から修正の機会を奪うことにもなってしまう。

 ▼批判の禁止が誹謗中傷を増長させる

そもそも、批判に資格が必要なのだとすれば、一体誰がその資格を判断するのだろう。そしてその資格を判断する側の正しさは何によって担保されるのだろう。結局のところ、それは武力であったり、社会的抑圧であったりするのではないか。

何かが批判され始めると、それが持つ内容の判断以前に、批判自体を封じ込めようとする動きが必ず出てくる。この社会は、批判を武力によって封じることは問題視されるが、社会的抑圧によってそれを封じることには非常に寛容だ。実際、実社会(とネットの外の社会を仮にこう呼ぶ)で体勢の側を批判すれば、人生そのものを危機に晒すことにもなりかねない。そこでは、抑圧による押し通しによって「正しさ」が担保されている。それ故に、多くの者は批判をする機会を、批判の仕方を学ぶ場を得ることができない。そしてその代わりに、「押し通し」を学ぶ。

ネット上に誹謗中傷があふれている※2のは、このことと無関係ではないように思う。実社会では、体勢の側を批判することは実質的に禁止されているに等しい。よってその分の鬱積を、人生を危機に晒すことなくものが言えるネット上で晴らすことになる。しかし、批判や議論の仕方について学ぶ場が殆ど無いため、多くの者は、批判一つとっても、それをどのようにして行ってよいのかが分からない。となれば結局、実社会でみっちり仕込まれた、抑圧による「押し通し」で其々の「正しさ」を証明するしかなくなる。それが誹謗中傷として表れる。そしてネット上におけるその抑圧は、再び実社会が持つ抑圧の「正しさ」の根拠として利用される。

どうもこのような悪循環があるように思えてならない。



※1 「猪瀬さんやぼくを叩いていたみなさん」をコネも抑圧も使わず纏め上げて、「これが政治です」と言っていれば格好よかったのに。それこそ政治だと思うが。明文化に漕ぎ着けたのならともかく、コネ使って言質を得たことで威張られてもなあ。「みなさん」は、コミケの心配だけを理由として騒いでいたわけでもないだろうし。

※2 実際には誰もが見られるような形で可視化されていないだけで、ネットの外もまた誹謗中傷で溢れているのは間違いないだろうけど。

競合相手の摩り替えによる希望の製造×忖度主義と祈り

「普通の人」を代弁してくれるのは誰だ?

外国人、少数民族、女性、被差別部落、障害者、貧困者(ホームレス・労務者)等の属性に当てはまったら、

社民・共産とかリベラル左翼な人たちが立場を代弁してくれたり、生活を支援してくれたりする。

農家や経営者だったら自民党が、大企業のサラリーマンや公務員だったら民主党が、

その人達の利益に沿うような政策を掲げて、政権を取ったら政策を実現してくれる。

創価学会員なら公明党が動いてくれる。

ところが、普通の日本人男性で、労組もないような中小企業のサラリーマンの俺は、

どこに行っても利益を代弁してくれる人がいない。

俺のような日本社会でのマジョリティは、必然的に無党派にならざるを得ない。

「自分で労組作れよ」とか「自分で選挙に立候補しろ」ってのは、全く非現実的だ。

そんなことする労力の余裕なんかあるわけ無いし、労働運動して会社に睨まれたり、

立候補して落選したあとの生活を考えたら、とてもそんなことできない。

今のところ、マジョリティの利益を代弁してるのは、河村たかしみたいなポピュリストか、

「日本民族の利益」を代弁してる在特会あたりのネトウヨくらいしかない。

在特会は、暴力と無根拠な陰謀論があまりにもアレすぎて支持できないけど、

ポピュリストに減税を掲げられると、自分の利益を考えれば支持せざるをえない。

石原慎太郎も、橋下徹も、そりゃ大衆に支持されるだろう。

「皆さんの税金をマイノリティに分配するくらいなら、給付を削って財政再建します」って政策のほうが、

「マイノリティを助けるために増税します」よりも受けがいいのは当たり前だ。

この言説で一番問題なのは、本来大して脅威でもないはずの一部のマイノリティばかりが競合相手として強調され、本当に重要な「日本人男性で、労組もないような中小企業のサラリーマン」同士、或いは労組を組織することを妨げ、「自分で選挙に立候補」することを非現実的にしている世間との競合というという要素が完全に抜け落ちていることだ。
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 ▼(1)競合相手のすり替えによる希望の製造

もしこの者の生活水準が落ちているとするなら、それは日本経済が国際社会の中で競争力を失っていることだったり、この者自身が社会的競争力を失っていることこそがその主たる原因だろう。つまりそれは、この者が社会的趨勢というマジョリティが作った一般的枠組みの中で、それも主に一般的属性を持った者同士の競争において優位に立つ能力がないが故のものであり、一部マイノリティとの競合のせいではない。もちろん職に就けない人からすれば、障害者枠や外国人労働者というのは競合対象にもなりえるが、この者は既に職についているのだから、それらは主な競合相手にはなりえない。それに、もしこの者の生活水準が下がるベクトルに乗っているのなら、自身が貧困者になる可能性も十分あるわけで、にもかかわらず貧困者の立場の代弁や生活支援を敵としてみなすのは全く理にかなっておらず、自分で自分の首を絞めているのも同然だ。

要するにこの者にとってより大きな脅威となっている競合相手は、自分で立候補したり、労組を作ったり労働運動をすることを妨げる会社であったり、それを忌まわしいもの、汚らわしいものとして見る世間の目だ。或いはこの者と同等かそれよりも競争力のある「普通」のサラリーマン達だ。即ちそれはマジョリティといわれる存在。だが、それでは希望は見出せない。会社や世間に立ち向かい、自分よりも競争力を持ったサラリーマン達と争って競争に勝つことは難しいだろう。社会的趨勢によって作られた枠組みの形を変えるにしても、そのためにはまず趨勢と闘わなければならない。これもやはり困難だ。でも社会(要するに自分の生活)は変えたい。

その八方塞の状況に希望をもたらしてくれるのがマイノリティだ。主要な競合相手を、立ち向かい勝利することが極めて困難であろうマジョリティから、少なくとも簡単に立ち向かうことができるマイノリティに摩り替えることで、希望を獲得することができる。それによって闘いのためのモチベーションが生まれる。あいつらさえ倒せば、きっと社会は、自分の生活は良くなるはずだ、と。この競合相手のすり替えによる希望の製造こそが陰謀論の根源であり、そして――何故ここに在特会の名が登場するのかは意味不明だが、それはともかく――くしくもここに名前の挙がった河村たかし、石原慎太郎、橋下徹といった連中は、そのすり替えによる希望の製造と頒布が上手いからこそ人気を博しているのだろう。

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一般的属性を持った者同士の競合という要素がクローズアップされれば、その属性を持った多数派である自分が、同じく多数派である相手側からより明確な形で敵とみなされる可能性もまた高まることになる。政治的提案者からしても、そこで求心力を得るための対立軸を作ることは難しいし、そうなればその群れの統率を取ることもまた難しくなる。それに、競争力の無いサラリーマンがもっと良い生活をしたいと言ったところで、「自分で何とかしろ」と言って世間(マジョリティ)から叩かれることになるのは必至だ(それは自身がマジョリティでなくなることをも意味している)。そんなわけで、「普通の人(自分はマジョリティであると信じて疑わない人、或いはそうでありたいと強く願う人)」がそのリスクを避け、矛先をより安全なマイノリティに向けようとすることになるのは、まあ自然なことといえば自然なことなのかもしれない。にしても、こういうのは本当に大人の社会も子供の社会も変わらない。

 ▼(2)忖度主義

この言説でもう一つ気になるのは、仮にこの者が本当に「普通」という水準を獲得しているなら、それ以上他人に何を望むのだろう、ということだ。(二つの概念は必ずしも排他的ではないが、ベクトルとして)全ての人々に「普通」の労働環境と生活水準を、というのが社会主義で、全ての人々に言論の自由という「普通」を保障するから、後は自分達で何とかしろ、というのが民主主義。どちらも「普通」以上のものは何も保証してくれない。

前者に重きを置くなら、自分の持つ労働環境や生活水準は「普通」よりも下回っているから何とかしてほしい、と主張すべきだし、後者なら、せっかくこれだけ注目を集めることができる場所があるのだから、立候補とまではいかなくとも、先ずは自分の生活が少しでも改善されそうな政治的提案をすれば良いだろう(それが思いつかないからこういう主張をしている、ということもあるかもしれないが)。或いは、それを妨げるような状況があるならば、その状況の改善こそを訴えるべきだ。だがこの者はそのどちらもせず、ただ「普通の人」である自分の思いを汲み取り、代弁してくれる者の登場を願う思いを書き綴るばかりだ。つまりこれは社会主義的でも民主主義的でもない。あえて言うなら忖度主義といったところか。

 *祈りによる主義の貫徹*

ただ実際、この忖度主義こそが日本に最も深く根付いた一般的イズムなのではないかとも思う。というのも、例えば「もういい帰れ→分かりました→おい、本当に帰る気か、このバカもんが!!」みたいな、相手はきっと自分の思いを汲んでくれるはずだ、それができない奴は常識はずれ、というような暗黙の了解で日本社会は成り立っていたりするからだ。そしてその裏ルールの方が実際に明示された表ルールよりも重んじられていることも多い。つまり、社会的振る舞いとしての事実上の正しさが必ずしもルールとして明示されていないどころか、むしろ間逆であることも珍しくないから、結果として評価者(他者)が望むものの当てっこ、即ち忖度競争が社会的ポジションの獲得において非常に重要な位置を占めることになる。そうやって忖度を迫られ続けてきた者からすれば、相手もまた自分の思いを忖度してくれて当然だ、政治家なら一般的属性を持つ自分の思いを代弁するのが仕事のはずだ、というような思いを抱くことになるのは決しておかしなこととは言えないのではないか。

そもそも、社会主義であっても結局ポジション争いに敗れれば悲惨な目に遭うし、民主主義であっても、折衝能力のない人間は地獄を見ることになる。ではそれらの能力の無い人間は何をなし得るのか?もう祈るくらいしかないんじゃないか。多くの国ではそれは宗教的分野にお任せ、ということになるのだが、日本には大勢が共有する明示された宗教的原理が存在しない。その一方、相手の気持ちを汲み取ることを最も重んじる忖度主義では、祈りはむしろその正統的な地位に位置することになる(誰かがその思いを汲んでくれるかもしれない)。つまり冒頭のあの記事は、祈りの書き付けであり、それによる主義の貫徹なのではないかと。

しかしながら、この手の忖度主義が大手を振って歩いている以上、当然公正な競争が行われることもない。明示されたルールよりも暗黙のルールの方が重んじられることも多いわけだから(ついこの前も、まだ仕事が残っているのにサビ残もせずに直ぐに帰ったあの後輩は駄目だな、みたいなツイッターの書き込みを見た)。また、その慮りの文化に頼り続けてきた者が国際的な交渉の場で下手うったり、その暗黙の了解を逆手に取った詐欺に騙されたり、相手との内面の読み合いに溺れて精神を病んだり、企業や行政※1がルールをやぶり、そのルール破りを世間が支持する、というようなこともまた低減することはないのだろう。

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まあそういう自分もまた、その忖度主義に溺れた者の一人なわけだが(ex.きっと相手は社会的にも経済的にも自分の存在に価値を感じないだろうから、他人に関わると迷惑になるし、誰も欲しがっていない自分を企業に売り込むこともできない)。感覚と意識(理屈)は必ずしも一致するとは限らないわけです。そして理屈でその感覚を払拭するのもまた容易ではない。



※1 <追記> 行政のルール破りが支持されることは余りないか。ここでは尖閣ビデオの流出が念頭にあったのだが、あれは個人だった。しかし警察などの行為は、権限を逸脱したものでもわりと受け入れられ易い傾向にあるように思う。

人間の資質をゼロサムゲームに見立てるのは誤り

「カジノも風俗街も大阪が引き受ける」…橋下知事(読売新聞)

大阪府の橋下徹知事は29日、大阪市内で企業経営者ら約750人を前に講演し、関西の活性化には都市ごとの役割分担が必要との考えを示したうえで、大阪について「こんな猥雑(わいざつ)な街、いやらしい街はない。ここにカジノを持ってきてどんどんバクチ打ちを集めたらいい。風俗街やホテル街、全部引き受ける」と述べた。

何だろう、この奇妙な「選択と集中」は。幾ら得意分野だ(と思われている)からといって、猥雑さといやらしさ全て引き受けます、というのはどうなのか。いよいよもって現実が星新一の世界に追いついてきた(←いや、ちゃんと読んだことないけど)。
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しかしながら、――「財政再建を放棄するかいやらしさを全て引き受けて金儲けするか、お前は一体どちらを選ぶんだ」という典型的な詭弁(誤った二分法)は論外として――カジノや風俗を行政が管理することで、それらに闇社会が介入することを絶ち、そこから収入源を奪う、ということを期待してそれに賛同するという意見もあるようだ。

だが、この考えには大きな欠点がある。というのも、ギャンブルや風俗という分野は、それを表舞台に出したからといって危うさ自体が消えて無くなるわけではない(――麻薬が出回ることは防げないから、それを合法化して国が管理すれば問題がなくなる、というようにはいかないのと同じ)。つまり行政や一般企業自体が(その資質を引き出されて)ヤクザ化する可能性がある。そもそも、世評によると「公務員は信用できない」はずだ。しかも民間にはブラック企業がそこらじゅうに蔓延っているというのが現状。危うさを上手くコントロールするどころか、むしろ深淵に取り込まれてしまう可能性の方が高そうだ。行政や企業に余程大きな性善説的信頼を置いているわけでもなければ、中々この主張を支持するのは難しい。

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他府県に住む賛同者には、汚いものを大阪が引き受けてくれることで自分達の住む街は綺麗になる、という期待を抱いてそれに賛成している人もいるようだ。だが、行政や企業と暴力団が結びつけば(或いはそれらがヤクザ化すれば)それはそれで周りにも影響を及ぼすことになる。かといって仮に暴力団をカジノや風俗から完全に追い出すことが出来たとしても、その暴力団は他で活動するようになるだけだろう。或いはまた別のシノギに力を入れ始めるかもしれない。物事はそんなに簡単ではない。

例えば、誰かが「私があなたの代わりに性欲や金銭欲、下品さや雑さを全て引き受けます」として精一杯それに励んだとしても、それによって他の誰かのそれらが無くなるわけではない(近くに風俗やホテルや賭博場がないと困る人達だっているだろう。自分の好き勝手で自由に移り住むことが出来る人間も余りいないだろうし)。或いは、「世の中から殺人事件がなくなることはない。だから俺がお前らの代わりにその役割を引き受けてやる」と言って誰かが大勢の人を殺したからといって、それによって他の人間が殺人事件を犯す割合が減るわけではない。

これは集団という単位でみても同じことだ。イスラエルがえげつなさを精一杯引き受けたからといって、世界からえげつなさが消えて無くなるわけでもない。戸塚ヨットスクールがリンチを引き受けたからといって、他でのリンチが無くなるわけでもない。つまり、ある場所に於ける何らかの性質を増長させたからといって、その周辺に於けるその性質が減退するとは限らない。元々それはゼロサム的な交換ゲームではないからだ。それどこか、むしろとある場所に於ける何らかの性質の増長は、他の地域へと波及する可能性すらある。

猥雑さやいやらしさの文化・商売にしても同じこと。それらは元々人間が持っている資質の拡張。大阪にそれらを集めてきたところで、他の場所に於けるその資質が減退するとは限らないし、むしろそれが引き出される結果になるかもしれない。

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要するにこれは、金に困った自治体の長が町ぐるみでギャンブルや風俗に手を出すことを提案した、ということでしかないだろう。それをよしとするか否かだ。それ以外の効用は期待しない方がよい。…まあ、わざわざ言うまでもないことかもしれないが。

現実に於ける「選択」なんてこんなもの

「やると言ったらやる」 知事当選の森田氏が一夜明け会見(産経新聞) 

 29日の千葉県知事選で100万を超える得票で圧勝した俳優の森田健作氏(59)が一夜明けた30日朝、千葉市中央区の事務所で記者会見し、「千葉にはポテンシャル(潜在能力)があり、日本一(の県)になれる」と選挙戦中からの持論を改めて訴えた。

 マニフェスト(政権公約)に挙げた東京湾アクアラインの通行料引き下げ、成田-羽田間を結ぶリニアモーターカー建設などの実現性を問われると、「恋愛してるときにふられることを考える人はいないでしょう。おれはやると言ったらやるんだ」と、さっそく“モリタ節”で意気込んでみせた。

う~ん、また凄い人が知事に選ばれましたねえ。この人、リニアモーターカー建設を夢(そして公約)の一つとして語っていたみたいだけど、そんな25年くらい前に既に消費期限が切れてしまったような腐りかけた夢を今更持ち出されても…と自分が千葉県民だったら思うけどなあ。どこかズレているとしか思えない。しかもバリバリの精神論者ときた。そういった古き夢の数々が行き詰まり、その後始末をさせられているのが今現在の社会だと思うのだが、それでも尚この手の復古主義の権化みたいな人が再びリーダー役を任せられることになってしまう、と。他の候補も似たり寄ったりの人ばかりだったらしいし、これがリアル『オトナ帝国の逆襲』という奴か。
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しかし、それでも千葉県民はこの結果を「選択」したことになり、そしてそれによって起こって来る結果の責任もまた否が応でも背負わせられることになるわけで。まあ、「選択」が備え持つ可能性の力が如何に頼りないものであるかを示す良い例ということでしょう。「麻生と小沢、貴方はどちらを選びますか?」とかも。そんな「選択」しか出来ない時点でもう駄目だろ、という…。だが、そういった其々に与えられた「制限された選択」の数々によって人々の人生は決まっていく。

取り合えず、「選択の自由とその責任」とか言うのなら、自分がどのような資質と環境を持って生まれてくるのかという情報開示を徹底した上で、まず「生まれるか生まれないか」から「選択」させてくれ。

民主主義は自傷する

新時代 沸き上がる熱気 オバマ米大統領就任式ルポ 人の波 2キロ歩いて3時間 氷点下5度 6時間待ちも(西日本新聞)

 「バラクは温かい人よ。だからみんな彼に付いていこうとしている」。コートの継ぎ当てを自分で「これって変よね」と笑いながら、ロードンさんはそう話した。

 後ろを振り返れば、これまで見たこともない200万人の人々がいた。それぞれに雇用、教育、医療、人種差別問題などを抱え、オバマ氏に解決の思いを託す。米史上初めての黒人大統領誕生という「歴史のリセット」に踏み切るほど深刻な超大国・米国の現実。就任式は、解決困難な過去から希望の未来へと転換する国民それぞれの儀式のように思えた。大統領就任の瞬間。200万人の最後尾からせり上がってくる歓声に、たじろぐほどのエネルギーを感じた。

 「さあ、元気を出そう。嵐に耐える勇気を持とう」。みなぎる自信、米国再生への強い意欲。オバマ新大統領は、いつものように引き締まった表情で、大群衆に向かって暖かい風を吹き込んだ。

まるで救世主であるかのような眼差しを受けるオバマ大統領。人々の民主主義(の健全化)に対する期待と信奉はそれだけ大きなものなのだろう。
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しかし結局のところ民主主義というのは、人間が生きていく為に必要な最低ラインを設定し、尚且つ其々が出来るだけ自由に意見を述べることが出来る様な状況を作り上げ、それらを維持し続けることを前提とした上で、「後は好きにしろ」として人々に放り投げるだけのシステム※1。だから、仮にある場所に民主主義が成立したからといって、それによってその社会の内容までもが保証されるわけではない。いわんや、個人の幸せをや(本当はそれ――相対的なものも含めて――こそがあらゆる主張や考え方の根本的な動機であるはずなのに)。つまり、民主主義は別に高尚なものでもなんでもなく、非常に志の低いものだということ。

とはいえ、デフォルトで余り高い目標を設定し過ぎると、それを実現させる為という大儀の下、「志が高くなちゃった人達」が暴走し、多くの人々がその渦に巻き込まれて不幸になっていくであろうことは想像に難しくないので、ならばここらで手を打っておくか、として生まれたのが民主主義。つまり、人類が生み出した低劣なる志の偉大なる妥協策、それが民主主義。

ところが、民主主義が理念の世界から現実の世界へと踏み出した時、もはやそれは理念の上でのそれとは別物になり、上部構造の「好きにやれ」で、自らの根幹部分である前提条件をいとも簡単に覆してしまう。(理念が全く共有されていない)似非民主主義国家である日本がその前提を守ろうとする気が全く無いのはまあ当然なのだが、他の民主主義国家に於いてもその前提を完全に守り切っている国、或いは本気で守ろうとしている国なんて先ず無いのではないか。要するにこれは、それらの国もまた日本と同じ様な似非民主主義国家であるというより、結局のところ、民主主義は現実に於いてはそういう形でしか存在出来ないということだろう。つまり、現実に於ける民主主義は基本的に「自傷」するものなのだ。

 ***


この記事では、一端社会的弱者となった者が法律や道徳を使って地位を確保することが如何に難しいかということについて書いた。法律や(他者に向けた)道徳は結局政治的道具でしかないので、そもそも政治能力が無いが故に社会的弱者となった者達にとって、それらは自らを利するどころか、むしろ仇名すものとして機能することも多いわけだ(それでも尚、それに頼らざるを得なかったりするのだが)。そして民主主義に関しても、ちょうどこれに似たような問題を抱えているように思う。

どういうことかと言えば、一般的にはどんなに良好とされる社会が成立していたとしても、その社会のシステムや文化を上手く利用することが出来ない者達は、やはりそこでも悲惨な目に遭うことになるだろう。逆に、どんなに劣悪とされる社会であっても、それらを上手く利用することが出来る一部の者達は、幸せな人生を送ることも可能だろう。つまり、民主主義に救いを求めなければならない様な者達が困難に陥っている根本的な理由は、その者達がその社会のシステムや文化を上手く利用することが出来ていないということなのだ。だから、幾ら民主主義が成立し、それが正常に機能していたとしても、その環境を上手く利用することが出来ないその者達は、どのみち救われることはない。何故なら、その者達は民主主義に予め組み込まれている「自傷」の部分を受け持つことになるのだから。つまり、本当に根本的な問題は民主主義の成立やその健全化だけでは決して解決出来ないということ。

さらには、そもそも民主主義は「人間が生きていく為に必要な最低ライン」しか保証しないという問題もある。だが、だた生存することだけが保証されたとして、その人生に何の価値も感じることが出来ない人間が沢山いるとしたら、それが苦痛でしかないと思う人間が沢山いたとしたら、その社会は果たして良い状態だと言えるのか。こういった問題に至っては、端から民主主義の感知するところですらない。やはりこれもまた、民主主義では解決出来ない問題。

民主主義が成立し、それが正常に機能したならば社会的弱者が救われるかのうような言説がどこか嘘臭く、また、「民主主義だと言うのならせめて前提条件くらい守ろうとしたらどうなんだ」と主張することがどこか空々しく思えてしまうのは、民主主義の持つこういった資質に起因している。とはいえ、他に希望のない人間は、やはりそれに期待せざるを得ないという。自分が民主主義の自傷行為によって切り付けられることになるのを恐れながら。そうならないことを祈りながら…。

結論:民主主義は基本的にメンヘル。


追記: 日本は似非民主主義国家だと言ったが、その分り易い例の一つとしては、日本では何らかの主張が「政治的性質」を持つことを暴くこと自体がその主張に対する批判になり得ると思われており、実際にそれが批判としての一定の効果を持ってしまっている、ということが挙げられる。これは民主主義ではまず考えられない――いや、限定的にはそういったこともあるかもしれないが、それが常態にはならないはず。何故なら、民主主義では前提条件の上部で政治闘争が行われるのは当たり前のことなので。

こう言うと、このブログのプロフィール欄の注意書きに於ける「政治活動的」という言葉に対する違和感を感じる人もいるかもしれないが、あれは別に「政治活動」自体が悪いと言っているわけではない。ただ、「(所謂狭義の)政治活動」は相手にしない――そういったものは、単に属人的、属党的なものになる可能性が高く、そうなればお互いに何ら得る物はないだろう――可能性がありますよ、という情報開示としてのもの。ああいった表現を用いることへ経緯と葛藤はここらへんに書いた。言うまでも無く、このブログ自体もまた政治性を持っているし、あの注意書きもまた政治的妥協としての産物。



※1 民主主義の根幹が多数決であるというような説が一般的には唱えられているが、それは誤りだろう。独裁国家でも多数決という手法が重んじられることはあるし、また、民主主義国家だからといって必ずしも全てに於いて多数決原理が貫かれているわけでもない。ただ、「後は好きにしろ」の結果としてそれが頻出する傾向があることから、それが民主主義の象徴であるかのように思われているだけで。多数決は、あくまで「後は好きにしろ」の一形態でしかない。そしてその根幹は、前提部分にこそある。

参考までに…私のYahoo!支持率は、58%です。

【田母神氏招致・詳報】(8)「yahooでは…58%が私を支持している」(3/3ページ) (産経ニュース)

浜田議員「今官房長官からもご答弁をいただきましたが、ご発言を、短くご答弁」

 田母神氏「国民に不安を与えたと、文民統制についておっしゃいますけど、今朝9時の時点で、私はYahoo!の『私を支持をするか』『問題があると考えるか』『問題がないと考えるか』っていったら、58%がですね、私を支持しておりますので、不安を与えたことはないと思います」

 浜田議員「どういうデータを使っているか分かりませんけれども、トップであった方が、そういうことをもて自分の行動を正当化するのは非常に私は問題だと思っております。

…田母神さん。
残念ながら、そのスカウターからはじき出された数値の信頼性は0%ですから。

しかし、よくもまあこんな人間に空幕長を任せていたな。
どうやら自衛隊には能力主義の「の」の字も無かったようだ。

追記:
Yahoo!意識調査の信頼性が0%だというのは言い過ぎだと思う人もいるかもしれない。しかし、無作為抽出によるアンケートでない上、同一人物による複数回投票も可能であると推測されることから、そこではじき出された数値が国会のような公式の場で用いることが出来るようなものであるかと言えば、全くそうではないと言う他無いだろう。

平和ボケって言うけど

「有事(危機)に直面すれば人々は覚醒する!」という「平和ボケ」思想は、ニュータイプ思想と同じくらいヤバくて稚拙なものだと思う。何故ならそれは、人々を覚醒させるためという大儀でもって安易に危機的状況を作り出すことを許容してしまったり、既に陥っている危機的状況をそのまま放置してしまうことにも繋がりかねないのだから(ところがそういった主張をする当の本人は、大抵既にセーフティー・ゾーンを確保済みだったりするのだが)。そしてそれはさらに、危機に直面しても覚醒しない(環境に適応出来ない)人間は滅べばいいじゃない、ということにも繋がっていく。
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だが、先の戦争において多くの政治家や軍の指揮官がボケまくっていたように、結局、平和であろうがなかろうがボケている人間は基本的にボケているわけで、憂慮すべきなのはむしろ、他人の命や人生を直接左右することが出来るような大きな権限を有した者が、「平和ボケ」思想などが生み出す妙な大儀に基づいて他者に危機を押し付けようとすることの方だろう。注視すべきはそちらの方なのだ。

田母神前空幕長が記者会見、スーツ姿で謝罪・反省の弁なし(読売新聞)

 政府見解と異なる論文を投稿して更迭された田母神俊雄・前航空幕僚長(60)の処遇は3日夜、定年退職という異例の形で決着した。

 田母神氏は3日夜、東京都内で記者会見し、「(論文の内容について)今でも間違っていない」「日本は決して侵略国家ではない」などと述べ、持論を撤回しない考えを示した。(中略)

 「日本が悪い国だという認識は修正されるべき」などの持論を、終始、繰り返した田母神氏。「戦後教育による『侵略国家』という呪縛(じゅばく)が国民の自信を喪失させ、自衛隊の士気を低下させている」とし、現役自衛官に対しても、「自分のことより国家、国民のことを常に優先した言動を取ってほしい」と神妙な面持ちで語った。

そういう意味からすれば、下らない大儀でもって自国と他国の人間に無理矢理危機を押し付け、それによって多くの人間を苦しめ、死に追いやった過去の失敗から何も学ぼうとしないこういう寝ぼけた人間が軍のトップの座に付けてしまうというのは非常にまずい事態だと思う。

というか、別に「日本が悪い国だという認識」なんて誰も持ってないと思うけどな。過去に日本が国として行った、「国家、国民のことを常に優先した」どころかそれを蔑ろにして踏みにじった行為が誤りであったという認識を持っているだけで。そもそも、「“過去に侵略行為を行ったという事実を認めること”=“その国が悪い国であると認識される”」という発想からして妙。その理屈を採用するならば、今現在日本と友好関係にある多くの国々は過去に侵略行為を行ってきた「悪い国」ということになるのだが、軍のトップが友好国に対してそういった眼差しを向けていたのだとしたら、それは非常に問題があるだろう。そしてさらに彼の理屈が正しければ、それらの「悪い国」の国民達は、過去の侵略行為を侵略行為であると認めることで自信を喪失し、その国の兵士達はそれによって士気が低下しているということになるのだが…、そんなわけないよね。

理念は己の分身によって踏みにじられる

・自由→「働けば自由になる」※1

・平等→同化政策

・平和→“みんな”と仲良く出来ない者、
 “みんな”の安心を阻害する者への弾圧と排除
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理念は頭の中にあるからこそ純粋に理念でいられるのであって、一歩頭の外へと踏み出してしまえば、それもまたただの政治的道具になってしまう。その結果、外界へと踏み出して道具となった理念によって、それを生み出した元々の母体である純粋な理念が踏みにじられてしまうというのはよくあること。誰も社会を覆う人工的暴力システムから逃げることは出来ず、そしてそれを上手く利用しなければ生きてはいけない状況がある以上、何人たりとも政治的であることから逃れることは出来ない。理念という概念でさえも。

因みに、法律家が法の理念を踏みにじろうとするのもこの国ではよくあること。

園児の農園を大阪府が強制収用…第2京阪道路建設で(読売新聞)※2

 2010年3月供用開始予定の第2京阪道路の建設工事を巡り、大阪府は16日、「保育園児の農園がある」として用地売却を拒否している同府門真市の社会福祉法人「北巣本福祉会」に対し、用地を強制収用する行政代執行を行った。

 用地は、同法人が運営する北巣本保育園近くの約770平方メートル。売却交渉は約5年前から始まったが、園児らが耕作した農作物を給食に利用するなどしており、同法人側は「食育の場として重要」と売却を拒否。府収用委員会が今年3月に土地収用の裁決を行ったため、同法人は大阪地裁に行政代執行の停止を求めたが、「農園を代替地に移すことは可能」などとして却下され、大阪高裁に抗告中だった。


○○○!知恵袋 橋下知事は鬼畜ですか? (いしけりあそび)

 一審の執行停止決定に対しては行政側から、執行停止却下決定に対しては申立人から、高等裁判所に不服申立=即時抗告=ができます。(中略)

申立から決定までは、どんなに早くても、1ヶ月弱程度はかかります。即時抗告の場合は、それより早くはでるもの、やはりある程度の時間がかかります。

 この間に、執行をすることはできるでしょうか。
 してよいという意見もあるのかも知れませんが、実務上はしていません。なぜなら、上記の趣旨からすればあきらかなとおり、執行停止が申したてられた以上、当該行政処分が停止された場合に「公共の福祉」が害されるかは、裁判所が判断するというのが日本の法律の基本的な考え方であり、それをまたずに執行することは、裁判を受ける権利を実質的に奪うことになるからです。

 その意味で、一審の却下決定に対して即時抗告があり、今月30日に大阪高裁が決定を出す予定であるにもかかわらず、それを待たずにした大阪府の行政代執行は、異例中の異例の措置といわざるをえません(※1)。司法判断を待たなかった理由について、「10年3月末に予定されている第2京阪の全線供用開始に間に合わなくなるため」と弁明していますが、こうした不利益が「公共の福祉」を害するか否かを、行政の独断にゆだねず、裁判所が判断すべきとしたのが、執行停止制度なのです。(中略)

 日本の裁判所はいっぱんに行政と個人が対立する場合に、行政よりの判断をするとされています。しかしながら、個人が、行政によって権利が侵害されたと考えたときに、それを救済するための制度があるけどなかなか勝てないのと(※2)、そうした制度すらないのでは、雲泥の差があります。
 橋下知事について、わたしは同業者とおもったこともないので、弁護士のくせに、とはいいませんが(※3)、その判断には、イモがどうのではなくて、法治国家の根本をゆるがす危険がひそんでいることに注目していただきたいとおもいます。


山口県光市母子殺害事件の弁護団に対する懲戒請求扇動騒動を起こした橋下知事に賠償を命じた広島地裁での判決文より

 弁護司法1条1項に、弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とすると規定されていることから明らかなように、弁護士は議会制民主主義の下において、そこに反映されない少数派の基本的人権を保護すべき使命をも有しているのであって、そのような職責を全うすべき弁護士の活動が多数派に属する民衆の意向に沿わない場合がありうる。多数の者が懲戒請求をしたことをもって懲戒相当性を認めるということは、弁護士が上記のような使命・職責を果たすべきこととは相容れない。(中略)その活動が違法なものでない限り、多数の者から批判されたことのみをもって当該刑事事件における弁護人の活動が制限されたり、あるいは弁護人が懲戒されることなどあってはならないことであるし、ありえないことである。したがって、弁護士に対する懲戒自由の存否について多数決で決することは本来許されるべきことでなく、懲戒請求の多寡が弁護士に対する懲戒の可否を判断するに当たり影響することはない。被告の主張は上記のような弁護士の使命・職責を正解しない失当なものである

判決の全文は以下のページで読める(PDFファイル)。
光市事件懲戒請求扇動問題 弁護団広報ページ

これらの問題に限らず、「民主主義は多数決だから、多数派の言う事が正しいに決まっている」みたいなことを平然と言ってのける人がやたらと多いのには本当に呆れる。そんなことを言うのならば、多くの独裁国家は基本的に「多数決」の条件を満たしているわけだから、それもまた民主主義国家ということになってしまうんだけど。勿論、本当はこの判決文が示すように、それだけじゃ民主主義とは言えないのだが。まあ日本は偽装民主主義国家だから、そういう認識を持っている人が沢山いても当然と言えば当然なのかもしれないが、これもまた、外界へと進出して政治的道具となった理念によって元々の理念が踏みにじられている一つ例と言っていいだろう。

大阪・橋下知事、私学助成金削減めぐり高校生と意見交換会 「日本は自己責任が原則」(FNNニュース)

そういや、うちの知事がまた教育に関して色々とオーサカらしい主張や動向を取り始めているが、教育に於いて一番重要なのは、先ず子供達にこういった民主主義の土台となっている理念をちゃんと理解させることなんじゃないのか。この国が民主主義であると言うのなら。しかし、「ガクリョク」とやらの重要さを説いて回る人達って、大抵そういうことには無関心だったりする…というか、むしろそういう人達に限って、「民主主義とは多数決である」という矮小化された民主主義観を他者に押し付けようとしたり、逆に教育予算を減らしてみたり、子供から「数々の大型公共事業の失敗によって借金塗れになったのに、何故また大型公共事業重視の政策を取るの?それよりも教育、医療、福祉にお金を使うべきなんじゃないの?」みたいな疑問を投げ掛けられたら突然激昂して、「じゃあ、あなたが政治家になって」「国を変えるか、この自己責任を求められる日本から出るしかない」などと言ってその子供を面罵してみせたりするから始末が悪い。まあ日本は偽装民主主義国家だから…以下略

「高速道路なんか、正味あんなたくさんいらないと思います」と税金に無駄遣いがあると指摘すると、橋下知事は「それは、あなたがそう判断しているだけで、わたしは必要な道路は必要だと思っている」と反論し、

というかこれ、反論とは言わんだろ。何故そう判断したかその根拠を訊いているわけで、そのことに対する明確な理由を述べる説明責任が政治家にはあるはずだ。もし橋下知事がそれを述べていたのならば、その部分こそ報じるべき。そしてそういった説明がなされ、論拠が提示されることで初めてこの対談に価値が出てくる。そうでなきゃ、公費を使ったただの個人的広報活動。まあこの記事における彼の言動からして、「根拠は俺」だと思うけど。

彼はここで「自己責任」を連発しているが、他者に軽々しく「自己責任」を突きつけるのは、その相手に「責任のスポットライト」を当てることで自身の言動の責任や政治性を暗闇に隠し、何を以ってそれを正しいとしているのかという論拠の提示を放棄しようとする行為に他ならず、それは自分に対する最高の甘やかし以外の何物でもない。そもそも、「自己責任」はその元を辿れば、愚行権行使の自由を認めようというような理念から生まれてきたんじゃないのか(いや、正直その出自についてはよく知らないけど)?それが何時の間にか、社会的趨勢に於いて優位に立った者や、社会システムを掌握した権力者が己のタガを緩め、権限の行使や言動の自由を何の論拠も提示せずに拡張するための道具に成り果てているという。

ただし、日本における「自己責任」は、始めから己の責任を闇に隠すための道具として一般に広まったようだけど。日本で「自己責任」という言葉が普及し始めたのはイラク人質事件以降ということになっている。しかし、自分がその言葉を意識し始めたのは九十年代中盤くらい。ちょうどその頃に、専門的な知識を持ち合わせていない個人の顧客が軒並み証券会社にカモられてちょっとした問題になり、テレビなどでもその問題が取り上げられたりしたのだが、その時に証券会社側が出してきたのが「自己責任」という言葉だった。おそらく、あれが日本における「自己責任」の出自だと思う。つまり、ヤツが日本に住み着いた時は、もう既に相当胡散臭い野郎に成り下がっていたわけね。なんせ、インチキ証券会社の助っ人として登場したわけだから。で、今もまたその手の人達から助っ人として引く手数多であると。



※1 Wikipedia『働けば自由になる』より

働けば自由になる(ドイツ語: Arbeit macht frei)は、そもそもは19世紀後半のドイツ人作家が用いた小説のタイトル。20世紀前半、ナチス政権が強制収容所のスローガンとして用いたことで幅広く知られる語となった


※2 この件に関して、これは国主導の事業だから、府側に、つまり橋下知事には責任はないというような意見を見かけたが、それは明らかに誤り。

橋下知事が霞ヶ関に 第2京阪道の整備促進など陳情(産経新聞)

 大阪府の橋下徹知事は国などに対して、第二京阪道路の整備促進や、関西空港の2期事業の推進などを要望するため30日、1泊2日の日程で上京した。初日は国土交通省を訪問し、府と守口市、枚方市など沿線7市で組織する第二京阪道路整備促進大阪協議会の会長として沿線市長らとともに、同道路の平成21年度供用開始のための予算措置などを求めた。(中略)

 要望を終えた橋下知事は、第二京阪道路については「全力を尽くす」という回答を得られたと説明。「関西の都市基盤にとって必要なものは必要と声を上げていかなければ」と述べた。

この件に限らず、国主導だから県側に責任はないというのはただの責任逃れ以外の何物でも無いだろう。まあ確かに、場合によっては国の意向にさからったら「補助金減らすぞ」と脅されることはあるかもしれないが、かといって県側に責任が無いとも言えないだろう。というか、本当に大型公共事業が好きなんだなこの人。なら最初からそのことを公約に書いとけよ。「道路を重視して、節約のために教育予算を削ります」とか。公約の破棄どころか、公約に示されたベクトルと間逆な方向へと向かっているのが橋下府政。

それは既に到来しているのか?

大阪の橋下知事、衆院選出馬「2万%」あり得ない(読売新聞)

 大阪府の橋下徹知事は30日、府庁で報道陣の取材に応じ、次期衆院選への立候補の可能性について、「あり得ない。世のため人のために働くような男ではない。ただ、国のためではなく、大阪のためだったら頑張れる」と否定、立候補しない確率を「2万%」と断言した。

 橋下知事は昨年12月、知事選への立候補を取りざたされた際、いったん、「2万%出馬はない」と表明しながら、直後に発言を翻して立候補。議会などから「発言が軽すぎる」との批判を受けたが、183万票余りを獲得して初当選した。

ここで敢えてまた「2万%」という表現を用いてみせるって、一体どういう神経をしているのだろう※1。お笑い芸人が同じボケを何度も繰り返す“てんどん”じゃあるまいし。自分は府知事や弁護士である以前にお笑い芸人である、ということをアピールしたかったのか?それとも、この「2万%発言」はむしろ衆議院選挙への出馬表明と捉えた方がいいのか?だとすれば、ある意味一貫性があるとも言えるのだけど。まあ、自らが断固否定したことを行ってみせることが一貫性を保持することになるというのもおかしな話だけど。

これと直結するわけではないんだけど、なんとなくこんな発言を思い出した。

 「僕が属しているカテゴリーというのは、カテゴリーをまったく気にしないというカテゴリーだ。これでさえ、多分、資本家の搾取にたいして究極的な抵抗にならないことは分かっている。僕は単に“予測不可能な”という部類に入れられて、つまりそういう点では予測可能になり、選別され、マーケティングの対象になる。僕の作品の根本が概念的であるとしたら、僕もギー・ドュボールが選んだ道を行くね。自殺さ。僕の作品の根本は直感的であり、計画よりも運に左右されるようなものだとしたら、何も問題ないけど。僕は新たな社会を作り上げるほど大物ではない、と自分でも分かっているさ」

<タワーレコード発行「musee(ミュゼ)VOL.48」掲載『スクエアプッシャー(トム・ジェンキンソン)』インタビューより>

せめて橋下氏もトム・ジェンキンソン氏のように、「僕は新たな社会を作り上げるほど大物ではない」という自覚を持って、お笑い芸人のままでいてくれれば良かったのにね。でも彼はその自覚がないから、概念的でもないのに、自らをナポレオン的英雄と勘違いしたラスコーリニコフのごとき発想(自らの抱く大儀――つまるところそれは個人的欲望なのだが――さえ実現させることが出来れば、そのために支払われた犠牲は大儀の実現によって得られるより大きな利益によって埋め合わせて余りあるものとなるから、そのための犠牲はやむなしとして、自らの暴力を肯定していく考え方)でどんどん突き進んでいく。そういう迷走者が本当に英雄扱いされるような世の中が到来しなければよいのだけれど…。いや、もう既にそれは到来しているのか?

 ***

因みに、このインタビューが印象に残っていたことや、傷物が安くで売り出されているのを見つけたこともあって、スクエアプッシャーの以下のアルバムを入手してみたんだけど、これがまたインタビューでのヒネクレ発言から連想されるような何ともまとまりがなく分裂気味な内容だった。ライブ録音とスタジオ録音が入り混じっていたり、やけに親しみ易い叙情的な曲があるかと思えば、計算しているのかただの思いつきなのかもよく分からない、人の神経を逆なでするかのようなノイジーな曲があったり、かと思えばアコギとベースの穏やかな二重奏があったりと…。

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しかしこの表情がまた何とも言えない風合いを醸し出しているなあ。いかにも屈折してそうだ。



※1 もしかしたら、インタビューする側がこういった答えを期待させるような何らかの問いを彼に投げかけ、その期待に応じる形でこういった発言をしただけなのかもしれないが。まあ、彼は彼一人で今の彼になったわけではないし、彼一人の力で今の地位や権力を手に入れることが出来た訳でもないので、いずれにせよ、こういったことは彼一人の問題というわけではないのは確かなのだが。それを支持する者達が他に多数いると予想されるからこそ、それがなされるということもある。もしメディア側がそれを期待させるような問いを投げかけていたとしたら、それはその後にそれを期待する多数のメディア視聴者がいると予想されたからこそ、そういうったことが行われたということもあるだろうし。

ギアス抜きでコードギアスをやろうとしたら

多分、こんな感じになるのではないかと。

United States Presidential Candidate from Japan(外山恒一)



実際、福山潤氏がこの台詞を「ゼロ」のあの口調で
言ったとしても、何の違和感も感じないように思う。
 

橋下氏の強さの秘密

橋下知事、中国重視の姿勢を猛アピール(asashi.com)

大阪府の橋下徹知事は19日、大阪市内のホテルで、来日中の中国の楊潔(ヤン・チエ)チー外相と会談し、「関西一丸となって中国との結びつきを深めていきたい」と中国重視の姿勢を積極的にアピールした。

 橋下知事は、2月の唐家セン国務委員との会談や3月の上海訪問を紹介。5月の胡錦濤(フー・チンタオ)国家主席の来日の際には「関西にお越し下さるよう伝えて欲しい」と話した。一方「外交問題は政府の問題」としてチベット問題には触れず、「今年は北京五輪もある。ますます中国と日本、中国と関西のきずなを深めるようがんばりたい」と述べた。

楊潔外相
 ↓        
(*^-^)八(^∇^*)<中国と関西の、き☆ず☆な b(゚ー^〃)
       ↑ 
   橋下府知事


----------------------------------------------

バリバリの嫌中派だった筈の橋下氏が、
チベット騒動の真っ只中でこんな発言をするようになるとは…。

もしかして絆って「ODA≒売春(橋下解釈による)」のことだったりして。

まあ、「いつも心に二万%を」の橋下氏が
何を言おうが別に驚くことはないんだけど。

それはそうと、結局彼の「強さ」の秘訣は、彼が自分の感情を
その場の空気と一体化させることが出来る特殊能力を
持っているが故なのではないかと、この前の嘘泣き騒動
みて思うようになった。あれは嘘泣きではないと自分は思う。

現実に於いて、「強い個人」なんてものは存在しない。
基本的に個人は集団の力に決して勝つことは出来ないからだ。
だからこそ、「個人」という存在のコンプレックスの表れとして、
娯楽として生み出される物語や物語化された歴史の中にはやたらと強い
個人が登場することになる。しかしそれは所詮捏造された物語の上での話。
現実では集団の蠢きが生み出したウネリの力や、それによって
構築されていくシステムや風土を上手く利用することが出来ている
者こそが強者であり、それが下手な者がこそが弱者なのである。
つまり、一個人の力だけで強者や弱者に振り分けられている
訳ではないということ。

だから、当然強者である橋下氏はそれを上手く利用することが
出来ている訳だが、彼が特殊なのはその集団が生み出すウネリと
自らの感情を完全に一体化することが出来るということだ。

例えば(支持を受ける層はかなり違うが)橋下氏と
似たようなタイプのメディア大衆芸人にみのもんた氏がいる。
だが彼の場合は、あくまで理性によって空気を読み、理性によって
怒ってみたり、喜んでみたり、深刻ぶってみせたりする。そうやって
視聴者の気持を代弁してみせることで、見ている者達にカタルシスを齎す。
一見激怒しているようでいても、その裏にはちゃんと理性がいて、
その激怒を仕切っているというのが彼のやり方。

それ故彼の喜怒哀楽はどこか白々しさを感じ、求心力は弱い。
しかし、逆に言えばそうやって裏で理性が仕切っているからこそ
安定感や安心感を感じるということもあるだろう。
長年長寿番組を任され、様々な局がバカ高いギャラを払ってまで
彼を起用しようとするのはそういった安定感や安心感故だろう。
彼の芸は、マンネリ化した一種の様式美芸なのだ。

これに対して橋下氏は、何らかの空気と感情を完全に一体化させ、
イタコ状態になって本気で怒り、本気で喜び、本気で泣いてみせる。
その為、突然頭の悪い中学生みたいな発言をして物議を醸し出すことも
珍しくなく、安定感や安心感には欠けるが、その代わりに見ている者に
スリルと興奮を齎す。そしてその頭の悪い中学生みたいな発言も、
実は誰もが本心では思っていながら、普段は規範や世間体や論理的
整合性を気にして中々発言出来ないような、人間の持つ原始的な
欲求を代弁しているものだったりする。

それを橋下氏が先ず先陣を切って発言してみせることで、
人々は堂々とそれを口に出来るようになる。
橋下氏の存在は、そういった役割も果たしているのである。

彼が稀代の大嘘つきであることはもはや誰もが知るところであろうが、
しかしそれも、発言の「内容」は嘘まみれではあっても、少なくとも
その発言を行ったその時点での彼の「感情」自体には嘘偽りがなく、
心の底から本気でそれを発言しているのだと思う。
(そうでもないと、その後ろめたさがオドオドとした態度として表れ出たり、
己の罪悪感で内面が攻撃され精神的にボロボロになっている筈だ。
しかしどうもその様子はない)

みのもんた氏があくまで理性によって事後的に空気を読み、
予めテンプレ的に用意された雛形のどれかを選んでその主張を行う
という受身姿勢であるのに対し、空気と感情が一体化した橋下氏は、
その空気の欲求を先読みし、他の著名人が言わないことを真っ先に提示
してみせる。あたかも個人ではなく、集合体の一部であるかの様に発言を為す。
ここに橋下氏とみのもんた氏の決定的な違いがある。

勿論、実際には世間や社会、国家などという主体は存在せず、
ありとあらゆる主張はあくまで個人のものでしかない訳だが、彼は空気の
イタコと化すことでその集団の蠢きが生み出すウネリの動きを先読みし、
その流れの先陣を切ることが出来るため、そう見えるのである。

映画『イノセンス』で、世界の管理を任されるようになった電脳ネットワーク
と一体化し、もはや個人ではなくその集合体の一部となったた草薙素子が
無敵だったのと同じように、空気のイタコと化し、あたかも世間という
集合体の一部になったかの様に振舞える橋下徹もまた無敵なのだ。

少なくともその能力が衰えない限りは。

ただ、彼の人気の秘密はそれだけでなく、彼が優れた「善と悪の物語」
の提供者であり、それによって人々の暴力欲を正義の名の下に心置きなく
発散することを可能としてくれる人物であるから、ということもある。
しかし、これもその生み出される物語は何でもよいという訳ではなく、
その場所や時代に適合したものでないとそれは効力を為さない。

ある時代や場所では大多数の者に熱狂的に支持された筈の物語が、
時代や場所が変わっただけで総スカンを食らうというのは珍しくない。
つまり、彼が優れた物語の提供者でいられるのも、やはり彼がその場の
空気と一体化することが出来る特殊な能力を持ち合わせているからこそなのだ。

 ***

ただし、今回の(というか知事職についてからの中国側の要人に対して
どのように振舞うかという)判断は彼にとっても中々難しいものであっただろう。
恐らく彼の支持者の多くは、きっと彼が中国側に対して厳しい非難を
叩きつけることを期待していただろうから。

しかし、幾ら彼が中国を厳しく非難してみたところで、楊潔外相に
「フリー・チベット!」と叫んでみたところで、それがチベットでの
弾圧解消にとって何の効果もないことは誰もが知っている。彼はそういった
事実や己の府知事という立場を鑑みて、所謂大人の対応を取った訳だ。

しかしこの対応は、彼の支持者達の多くを落胆させる結果となったことだろう。
かといって、この大人の対応を取って見せたことが、彼の不支持者が支持者へ
と転向するきっかけになるとも余り思えない。つまり、どちらの選択をしても
彼にとってはプラスにならない選択肢しか用意されていなかった。

とはいえ、嫌中というのは彼の幾つかある柱の一つでしかない。

ならば、普段は「人権イラネ」とか、「世の中は弱肉強食だから弱い者が
痛い目に遭うのは仕方がない」とか、「予め危険だと分かっていることを
行って痛い目に遭っても自業自得」とか、「多数決こそ正義」とか、
「市民活動をする奴はキモい」とか、言っていたはずなのに、
遠く離れたチベットで危険だと分かっていながら行われたデモが
武力で鎮圧されたことに対し、突然マイノリティーの人権を守る為のデモ
として市民活動を行い始め※1、差別的なプラカードを掲げてみたり、
何故か「竹島を返せ」などとシュプレッヒコールをあげてみたりするような
人達のイタコとなるよりも、大人の世界の空気に一体化し、その一人として
振舞うことの方が自分にとってプラスになると彼は判断したのだろう。

まあ、ついこの間までは彼もその中の一人だった筈なんだけど。
ここら辺は、散々一緒にツルんで悪さをしてきた仲間の一人が、
出世して社会的地位を獲得した途端、急にその仲間達によそよそしい
態度を取り始めるのと何となく似ているような気もするが。

それはともかく、彼の最も重要とする柱は「民対官」という対立軸によって
作り出された「善と悪の物語」だ。そしてこの物語は未だに多くの者達を
惹き付け続けている。恐らく、この物語が求心力を持ち続ける限りは、
多分彼の今の人気もまた安泰であり続けるのだろう。

しかし、もし仮に現・橋下氏が求心力を失ったとしても、
次に彼に代わって大きな求心力を獲得する者は、やはり彼と
似たような能力を持ち、同じ様な手法を使うことで人気を獲得する
新・橋下氏でしかないように思う。自分の学校人生に於いても、
やはりいつも橋下氏的な者がその場の秩序を仕切っていたし。

そうやって延々と繰り返される橋下フーガ。
或いは、一見表舞台からその姿を消したかのように思えても、
その裏ではずっと橋下的固執低音が鳴り響いている。

きっと世の中はそういう風に出来ている。
つまり、橋下氏が社会を動かしているのではなく、社会が
空気の申し子としての役割を受け持つ橋下氏的な存在を欲している。
そして、それによって人間の原始的な欲求の揺り戻しを常に目論んでいる。

だから、結局その場所や時代に出現する「橋下徹」達とどのように
向き合っていくかということでしかないんだろうな、実際のところは。



※1 恐らく、この国内と国外で180度変化する彼らの主張には、
単なる嫌中趣味だけでなく、意思の力を上手く使えば全ての人間が
最低限の社会的地位や幸せを獲得出来るという精神論的ユートピアが、
日本国内にのみ成立しているという、日本的宗教の特殊性が
それに関係しているのだろうけど。

続・印象派的現実

<他候補が橋下公約に着替えたら>

やっぱりまだ気持の区切りが付けられないので
コレの続きを書いてみる。(最後に追記2/4あり)
----------

 *(1)*

前回の記事では、自分みたいな絶対橋下氏に当選して欲しくなかった派や、
逆に絶対に当選して欲しかった派以外の殆どの有権者は、結局
「この人なら何か流れを変えてくれるんじゃないか」という印象だけで
その投票先を決めてしまうのではないか、ということについて書いた。
そしてその一つの要因として対立候補の「テレビ映りの悪さ」を挙げた。

だが、自分が多くの有権者が結局「印象」によってその投票行動を
決定したに違いない、と確信したのにはもっと別の理由がある。

それは、もし他の候補が橋下氏と公約を取り替えて立候補していたら
一体どのような結果になっていただろうか、と考えた時、それによって
今回の投票結果が大きく覆ることになったとは到底思えなかったからだ。
いやそれどころか、もし他候補が橋下氏と同じ公約を掲げていたのなら、
その候補者は今回の結果以上に酷い結果を手にすることになっただろう。

例えば、橋下氏は当初掲げていた「府債発行ゼロ」の公約を当選直後に
取り下げた。これは当然公約違反になる訳だが、しかし大方の人間はこの
行為を、現実的に無理な公約であるならばさっさと取り下げた方が良いし、
むしろ潔い行為だ、と捉えたんじゃないだろうか。実際、彼はこの公約
違反によって大きなダメージを受けることにはならなかったように思う。

確かに、無理な公約を何時までも引きずり続けるよりはさっさと取り下げた
方が良いだろう。だが、そもそも府債を全く発行しないという方針が
現実的ではないということは当初から誰もが知るところだった筈だ。
つまり、これは公約の達成を断念したのではなく、始めから無理であると
分かっていながら敢えてついた「嘘」に他ならない。もし普通の人間が
こんなバレバレの嘘をついたのならば、その後ろめたさでオドオド感が
滲み出て、もうその時点でその候補者の当選は彼方へと遠のいていたに
違いない(その後ろめたさこそが良心であり、誠実さの表れなのだが)。
ところが、橋下氏は本来ならば大きなマイナス要素になる筈のその嘘で、
逆に無駄に税金を使わないという「緊縮財政への強い意志」を府民に
印象付けることに成功し、むしろそれをプラス要素へと転換した。
つまり、「不適切な内容」を「イメージの力」で覆したのである。

こんな離れ業をやってのけることが出来る人間が他候補にいただろうか。
いや、他候補だけでなく、そんなことが出来る人間を他に思い浮かべる
ことが出来るだろうか。自分にはそんな人間は思い浮かばない。

「二万%出馬しない宣言」に代表されるように、必要とあらばどんな
あからさまな嘘でも平気でつくことが出来る、正に百戦錬磨の嘘つき
エキスパート橋下氏ならではの荒業。この場合、嘘つきエキスパート
といっても別にバレない嘘を付く為の高い能力を持っているという
ことではない。嘘を付いても集団内に於けるその人気や地位を保ち続ける
ことが出来る能力、その嘘をマイナス要素にせずに使うことが出来る高い
能力を持った者のことだ。

しょっちゅう嘘をついていながら、その嘘で全く評判を落とすことのない
人物がいる一方、滅多に嘘をつかないのに、たった一つの嘘でその評判が
ガタ落ちになってしまう人物がいるのを目の当たりにしたことはないだろうか。
橋下氏は前者のタイプの中でも取り分けその能力に長けた非常に稀有な人物
であったのだろう。だからこそ、その公約が「嘘になる」ことを府民が
知っていたのにも拘らず、その評判は全く落ちなかった。他候補ならば
致命的になりかねない「内容」のことをその「コミュニケーション能力」で
取り繕い、プラス要因に変えるという方法でその局面を乗り切ることが出来た。
つまりそれは、府民が内容ではなくイメージで彼を選んだということだろう。

 *(2)*

そしてこれは彼の他の公約についても同じ様なことが言える。

例えば「小学校の校庭の芝生化」。こんなことを他候補が言い出したら、
それこそ指を差さされて笑われていたに違いない。それ程典型的な無駄な事業。
金が無いので節約しなければならない、いつ財政再建団体に転落しても
おかしくないという自治体が、何故こんな何の必要性もなく経済的波及効果
も期待出来ない贅沢事業を行わなければならないのだろうか。さながら沈み
行くタイタニック号の上で演奏される弦楽四重奏を想わせる贅沢さだ。
「もうどうしょうもないから、せめて最後に贅沢したんねん」
というのなら分からないでもないのだが。

ところがだ。これが「高齢者ら社会的弱者の予算が減るかもしれないが、
それは仕方ない」という、「命」の部分の予算にまで手をつけようとする
吉宗的なまでの倹約を訴える橋下氏側からの発案なのだ。そして何故か
それが受け入れられてしまう妙。こんなこと理性の世界では到底考え
られないのだが、やはり彼はこの難所もその卓越したコミュニケーション
能力で感覚の世界を巧みに操り乗り切ってしまう。
もしや彼は新手のスタンド使いなのではないか、と勘ぐりたくなる程だ。

「石畳と淡い街灯の景観づくり」などは言わずもがな。
あれが他候補からの発案であれば、一発レッドで即退場だっただろう。
だが、やはり彼はそのスタンド能力で、テレビの電波の届く範囲一帯に渡って
特殊なmixi空間を作り出し、その空間内の人間を「コッミュ、コミュ」にして
有権者という審判の目を軽くいなしてしまった。

「理性の知らない世界」は他にもまだある。
それは、彼の公約は露骨なまでのバラマキ政策で埋まっているのにも拘らず、
何故か「緊縮財政の橋下」というイメージが定着してしまったことだ。
勿論、バラマキ自体が悪い訳ではない。それも行政の重要な仕事の一つだ。
要は如何にその地域を上手く活性化させる為に効率よくばら撒くかが重要
なのだが、それ故、(バラマキ自体のイメージも悪いが)取り分け直接個人
に対するバラマキは特に厳しい非難が浴びせられることが多い。

彼の提案した「全公立中学校において小学校の給食費と同程度で給食
を実施」などは、結局子供のいる家庭の食費の一部を府が負担するという
ことだろう。つまり直接個人へのバラマキ。
「子供のいる若い夫婦への家賃補助制度」に至っては、「地域振興券」に
匹敵する程の露骨な直接個人へのバラマキといっていいだろう。
そして「出産・子育てアドバイザー制度の創設、小児科・産科の救急
受け入れ促進、乳幼児医療費助成の拡充、駅前・駅中に保育施設の整備促進」
といった余りに一部の層へと偏った明らかにバランスを欠いたバラマキ。

これらの政策の是非はともかく、この手の直接個人へのバラマキや
バランスを欠いたバラマキ政策を他候補、いや民主や共産の候補が唱えた
ならば、「だから民主は」「だから共産は」と激しくそれが非難される
ことになるのがいつものパターンだ。少なくともこれで「緊縮財政」という
イメージを取り繕うことなんてとても出来ないだろう。
だが出来てしまうのである。橋下氏と自民党の力をもってすれば。
ここでも「理性」は「イメージ」に大差を付けられて敗北する。

ただ、その手法として一つ素直に上手いなと思ったのは、
「子供」という要素の使い方だ。

「集団」という主体が存在しない以上、誰かが何らかの利益を得る時、
それは「個人」として受け取る他ない。だが、日本は民主主義を標榜
しておきながら「個人主義は悪」という偽装民主主義国家なので、建前上
それが個人の利益であることを忘れさせる為に、一旦「集団の利益」や
「他者の為」を想わせる何らかの理由を付して「マネーロンダリング」
ならぬ「個人ロンダリング」を行うことによって、「個人」という意識を
洗い流すという作業をしてからでなければそれを受け取ることが出来ない。
何故ならば、その手続きを省いてそのまま個人として利益を受けとることは
日本に於いて悪に他ならず、激しく他者から非難されることになるからだ。

橋下氏はその点を考慮し(多分、理性ではなく感覚的閃きだろうが)、
有権者という個人がバラマキを受け取り易いように、予め一旦非有権者
(他者)の子供(将来的投資であり集団の利益を想わせる)という要素を
使って「個人ロンダリング」を済ませてからばら撒くという手法を取ったのだ。
これによって、有権者という個人は安心してそのバラマキを受け取ることが
出来るようになるのである。めでたしめでたし…。

 *(3)*

その一方で、熊谷氏は

http://www.kumagai-osaka.com/manifesto.html
大阪にはスウェーデン一国に匹敵する約40兆円の府内総生産(全国第2位)を誇る強みと潜在力があるのです。(中略)これほどの強みと潜在力がありながら「ヒト・モノ・カネ」が効果的、効率的につながっていないことが大阪の最大の弱点です。先に示した経済規模に比較して、一人当たりの府民所得は303万円、全国7位に甘んじている(中略)私は4か年でこれを全国第2位、平均50万円アップの360万円まで引き上げます。(中略)産官学のあらゆる知恵と技術と力を結集して、大企業だけでなく中小企業の売り上げを増やすことが何より重要です。さらに、物流の効率化を進めてあらゆる産業の浮上を図るため、各種施策を実行します。(熊谷さだとし・基本政策より)


という、4年で一人当たり平均50万の所得アップの公約を掲げたのだが、
これが現実的ではないという印象を抱かれ、府民にそっぽを向かれた。

いや、府内総生産が全国第2位なんだから平均所得も全国第2位を目指す
というのは別におかしなことじゃないし、それくらいの目標を達成することが
出来なければ、いづれ大阪府が財政再建団体に転落することになるのは
避けられないと思うのだが。そんなに駄目かなあ、そういう努力目標を立てる
ことは。この公約を叩いていた人は、もしかして「一人当たり平均50万」
の“平均”をすっ飛ばして、「一人当たり50万」と受け止めていたんじゃ
ないだろうかという疑問も。だとすれば、それは確かに不可能だ。
いや、そこまで間抜けな人は余りいないと思うけど。

結局は精神論なのだろう。

精神論という名前の無い宗教で国中が覆われている日本に於いて、
甘いイメージが付加されたものはただそれだけで悪のレッテルが貼られる。
特に大阪という、少しでも気を抜けばその隙にどん底に蹴落とされかねない
世知辛い土地柄で生活してきた者達からすれば、「4か年で一人当たり
平均50万アップ」なんて甘い言葉は悪徳商法の罠以外の何物でもない様に
思えたのかもしれない。

それよりも、彼を支持した人達は「自分たちの給料を削るのか、無駄遣い
を減らすのか。知恵の使い方が府庁職員の腕の見せどころだ」みたいな
“厳しさ”をイメージさせる精神論の方に夢を感じたのだろう。なんせ
精神論では、精神の力は無限に強固で無限に溢れ出るものであり、
意志によってその力を上手く発揮することさえ出来れば誰もが最低限の
幸せを獲得することが出来るという、物理法則から切り離れた一種の無限性
を感じさせる魅力を持っているのだから。精神論的にはそういった厳しさを
イメージさせる方がむしろ“甘く(苦しんだ者ほど報われる説)”感じた
のかもしれない。勿論、本当は物理法則から逃れられる訳もなく、
今更幾ら無駄遣いを減らして職員の給料を削ったからといって
「府債ゼロ」なんて出来る筈もないのだが。

だが、実際により具体的で非現実的な「府債ゼロ」という「嘘の公約」で
「緊縮財政の橋下」というイメージを勝ち取った橋下氏。

そして、より抽象的で夢のある一人当たり平均所得50万円アップという
努力目標を語って、現実的ではないことを言う「嘘つき」だと思われた熊谷氏。

全く皮肉な結果となった。


もしかしたらまだ続く…、のかも。

(2/4追記) ただし、所得アップを「公約」として掲げた熊谷氏の行為はやはり
問題があったと言わざるを得ない。自分がここでそれを「努力目標」と言ったのも、
それが明らかに不可能であるという前提が既に頭の中にあるからであって、やはり
それも「府債ゼロ」と同じく公約違反になることが予め決まっていたということでは
相違ない。実際それを言った熊谷氏自身も、日本では政治家の公約違反が当たり前
のようになっている為、府民がそれを努力目標として捉えてくれるのではないか
という甘い考えがあったのだろう。

要は、嘘の上手い下手は勿論のこと、どうせ嘘をつくのならば厳しい嘘を
ついた方が良かった(それが“善きこと”という訳ではなく、あくまで
勝ち負けを競う場に於ける戦略上での話だが)、ということなんだろうな。
まあ、どちらにせよ熊谷氏が勝利することはあり得なかったとは思うが。

印象派的現実

書く気も失せるが、なんか書かないと気持ちの区切りが
付けられないので。
---------

先ごろ行われた大阪府知事選挙では、やはりというか案の定というか
橋下氏が圧勝という形でその幕を閉じる結果となった。

まあ今回の選挙は「0秒当確」どころか、彼が立候補を表明し、民主党が
その対抗馬として彼の知名度を上回る程の魅力を持った候補者を立てる事
が出来なかった時点でもう既にその結果が決まっていた「期日前当確選挙」
だと思っていたので、その結果自体は何の意外性もなく、ただ用意
されていた儀式が粛々と終了しただけという感じではあったが。

それにしても、今回の選挙では日本の政治や常識(共通認識)は結局
テレビという舞台によって決定されていくのだな、ということを改めて
痛感させられた。何しろ、橋下氏の対抗馬であった熊谷氏はテレビに
出演するや否やその当選の可能性を失ってしまったのだから。

では何故そんなことになってしまったのか。それはテレビに映る彼の姿、
その態度や口調、所作などから醸し出される印象が非常に悪かったからだ。
どんな風だったかをもう少し具体的に言えば、如何にも大阪のワンマン
経営者的なギスギス感の漂う雰囲気を持っていた、とでもいえばいい
だろうか。失礼ながら、テレビで初めて彼を見たとき、正直
「ああ、この人には入れたくないな」と思ってしまった。

対話というのは、相手の投げたボールを一旦受け止めて、そしてその
内容をちゃんと吟味した上で、それに何らかの手を加えてまた相手に
投げ返すということの繰り返しだ。だが、たまに相手の投げたボールを
一度受け止めることもせず、そのままかっ飛ばしてボールを返すタイプの
人間がいる。こういうタイプの人間は非常に厄介だ。熊谷氏はちょうど
そういうタイプの人間に“見えて”しまったのだ。

尚且つ、同和事業の撤廃を拒んだことから、ちょうど小泉改革の時のような
「改革派の橋下氏と守旧派の熊谷氏」という構図まで出来上がってしまった
(実権を握ってきた与党側の人間が“改革”を唱えるという構図まで同じ)。
それに「財界や官僚とベッタリな関係」というイメージが張り付いてしまった
のも痛かった(財界の連中は途中で空気を呼んで橋下氏支持に乗り換えた
みたいだが)。多くの者が、彼が知事になっても何かが変わるという予感を
抱くことが出来なかったのではないだろうか。

いや、勿論これはあくまでイメージだ。実際彼がどういう人物なのかは
ハッキリ言ってよく分からない。もしかしたら、本当はテレビでの印象
とは全く違う、柔和で機知に富み、寛容性と包容力を兼ね備えた非常に
稀有な人物だったのかもしれない。

だが、テレビに映る熊谷氏の姿が、彼が知事になることによって何かが
変わるという予感を全く民衆に抱かすことが出来なかったことが、彼に
致命的なまでの止めを刺した。何故なら、結局殆どの「一般的」な人間は
単純に「この人なら何か流れを変えてくれそうだ」といった印象だけで
その投票行動を決めてしまうからだ。

それが良いとか悪いとかの問題ではなく、それが現実なのだ。

だから、少なくともテレビに出演した時に良いイメージとまでは
行かなくとも、悪いイメージを抱かれない程度の「テレビ耐性」を持った
候補者でなければ、日頃から何百、何千万という視聴者の目に晒され
ながらそのイメージを保ち続け、生き残ってきたタレント候補に勝つこと
など出来る筈もない(その点で言えば、共産推薦の梅田氏は充分水準を
クリアしていたのだが)。

恐らく自民党はそのことを織り込み済みで選挙で勝つ為の候補者を選んだ。
それに対し、民主党はただ「相乗り」や「タレント候補」であることを批判
されるのを逃れる為だけの消極的な姿勢で候補者を選んだように思える。
そしてその動機の違いがもろに結果に出た、というところだろうか。

ただ、熊谷氏の人気が急落した理由について、彼が「橋下氏の批判
ばかりしていたから」だとか、「ネガティブキャンペーンをしたから」だとか
いう意見をネット上で見かけたが、それは関係ない。いや関係あると
いえばあるのだが、それは彼(ら)がネガキャンをしたからではなく、
ネガキャンが下手だったからだ。

そもそも「ユビキタスドラッグ」で書いた通り、選挙で勝った橋下氏は
恫喝芸や貶め芸によってのし上がってきた人物だ。実際、橋下氏に
ネガティブなイメージを付与された「『悪人』達を、正義の味方である
タレント候補がバラエティー番組的に痛快にぶった切ってくれる」ことを
期待して彼に投票した人も多かったのではないか。本当にネガキャンが
嫌いな人間であれば、そういった手法を使う橋下氏もまた支持しないだろう。
だが、結果は知っての通り橋下氏の圧勝に終わった。つまり、ネガキャンを
したか否かは問題ではなく、それが上手かったか否かが問題なのだ。

そして、たとえ「税金を払わない奴は生きる資格がない」だとか、
「高齢者ら社会的弱者の予算が減るかもしれないが、それは仕方ない。
大阪を元気にすることを目標にした」などというようなえげつない思想を
持っている者であっても、テレビに映る姿で視聴者に変革を予感させる
ことさえ出来れば、何かしら良いイメージを抱かすことが出来れば、
多くの者の心を虜にし、勝利することが出来る。

実際うちの母は、病院に寝たきりの祖母を持ち、精神的な病でゴミ屋敷
のような家にひきこもっている妹を持ち、自らも高齢者であり、持ち家も
貯金もなく、無職の息子を持っている社会的弱者なのにも拘らず橋下氏
に一票を投じた。彼が起こす変革が何を意味するのか想像すら出来ず。
だがこれが「一般的」な人間の姿であり、理屈で何を言っても無駄なのだ。

生まれ持った容姿や資質。その材料を使い、自らのイメージを取り繕い、
他者のイメージを貶めるコミュニケーション能力。そしてそのイメージを
増幅させ、一瞬で何百万人という人間に感染させることが出来るテレビ。

その前に於いて、理性はただ敗北を噛み締めることだけしか出来ない。

(追記) 続きを書いた。

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プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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