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ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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自意識批判という「私の高貴な魂」の見せびらかし行為

「~な俺カッコイイ」「ナルシズム」「自分に酔っている」「自意識過剰」などと言って他人の内面自体を批判する時、そこでは、その相手の自意識(精神/魂)よりも相対的に優である「「~な俺カッコイイ」とは思わない私」「ナルシズムに陥っていない私」「自分に酔っていない私」「自意識過剰ではない私」が同時に想定されている。

つまり、全ての自意識批判は自意識のランク付け行為であり、「私の高貴な魂」の見せびらかし行為でしかない。
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そもそも原理上、自意識は自己をコントロールし得ない。自意識に焦点を当てその内容を探る行為は、その者が置かれた状態を知るための一つの手段としてはある程度有効かもしれない。が、自意識は常に状態の後追いであると同時に、それは自己の状態を正しく認識できているとも限らない※1。そうである以上、そこで観察された自意識上の認識と状態をそのままイコールで結びつけるのは誤りだし、それをある状態を形成させるに至った主犯として槍玉に挙げるのもまた間違いだ。

もし相手の行為に何か問題があるのであれば、その行為の内容を批判し、その状態が何故そのようなものとして形成されねばならなかったのか、ということを探ればよいだけのことだろう。その際において、その者の自意識自体を批判する(貶す)必要は全く無い。だが実際には、真っ先に槍玉に挙げられるのが自意識であったりする。逆に言えば、そういった自意識批判には批判としての価値は全く無いという社会的合意が得られれば、少しは今までとは違った状況が生み出されることになるのではないか。

――とはいえ、己の個人的感覚に条理性を依存する一神教徒※2の集まりであり、敵の集合体としての要素が色濃い日本社会において、そのような社会的合意が得られる可能性はゼロに近いかもしれないが。



※1 例えば、「病気という状態」を自意識は正しく認識できない。そのあらましは、医師の診断を受けるなどして漸くその一端が見えてくることになる。これは「成功という状態」でも「失敗という状態」でも同じことだ。しかし厄介なことに、因果の糸を解きほぐし、その状態を正しく診断することができる「因果科」などというものは存在しない。故に、其々が個々人の感覚で好き勝手に診断を下せてしまう。そしてより人気のある診断が「正しさ」を獲得することになる。内容の如何にかかわらず。

※2 だからこそ、「キモい」というような個々人の感覚的趨勢が他になんらもっともらしい理由を伴うこともなく、それ単独で決定的な力を獲得することになる。或いは、自分とは全く異なった感覚と環境を持っているはずの他人の人生を、己の感覚という物差しで平等に測り、解き明かすことができるかのような主張が力を持つことになる。
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古代の逆襲?

精神論で大火傷。いや、比喩じゃなくて。

社員のやる気高めようと「火渡り」、足やけどして終わる

イタリアの大手不動産会社が、社員の士気を向上させる目的のイベントで、熱した石炭の上を裸足で歩く「火渡り」を行ったところ、9人がやけどを負い、病院で手当てを受ける結末となった。

 企業向けの自己啓発指導を12年間やっているというアレッサンドロ・ディプリアモ氏は、ロイターの取材に「火渡りは恐怖を克服して新たな目標を求め、限界というものはたいてい自分自身が作っていると理解するのに役立つ」と説明。

これって傷害罪とかにはならないのだろうか?この怪我によるコストは一体誰がどのように負担するんだろう。なんにせよ、企業からすれば大損であることには間違いないはずだが。
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恐怖を克服させることが目的なら、実際の業務を通して社員に自信を持たせるような経験をさせればいいだけのことだろう。この事件では、くしくも「限界というものはたいてい自分自身が作っている」という認識が誤りであるということが証明されてしまったわけだが、ディプリアモ氏はこれからもその誤りを正さずに、こういった主張や活動を続けるつもりなのだろうか。――できればこういう人達は、他人を啓発するよりも自己を教育し直すことにこそ力を注いで欲しいものだが。こういうものを採用する経営者も含めて。

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しかし、この手の儀式は全く百害あって一利無しだと思うのだが、それがどれほど明らかであっても、やはり「無限の可能性を秘めた精神力の奇跡を引き出す儀式」みたいなものに頼ろうとする人間が現れてくるのが現実。しかもそれを信じている者は、一人で勝手に奇跡を起こしていればいいものを、他人にまでその奇跡を起こすよう要求してくるから全く困ったものだ。その上、その儀式の後に誰かが何らかの良い結果を出せば、それはその儀式のお陰ということになる一方、奇跡が起こらなければ、その者の精神が未熟だから奇跡が起こらない、というように結論付けられるので、いつまで経っても間違いは是正されない。

まあそれが是正されないのは、そういうものを信じる人間がそれを他人に強要できる立場に居座り続けるから、ということもあるが。というのも、何らかの分野で成功した者は、大抵自らの自意識の在り様とその成功(結果)を因果で結びつけて現実を理解しようとする。そして、こういった儀式による選別と、それに基づく承認もあいまって、次から次へとそういう成功者が再生産され、人の上に立っていく。その時、その者を取り囲む者達は、立場上、誰もそれを是正できない。

しかし、「労働」とか「教育」という肩書きが付くと、本来ならば問題視されるはずの行為が途端に免罪され易くなるというのは、どうも世界的にある傾向みたいだな。――いや、もしかしたらこれは、自意識は己の自意識を自由改変する力と、その改変によって周囲の状況をコントロールすることができる絶大な力を秘めているという、自意識原因(万能)論説が世界的に流行しているが故のものなのかもしれないが。だとすれば、ある意味日本は先進諸国の中でも最先端を走っている、ということになるのではないか。最先端といっても、その内容は「古代の逆襲」みたいなものだけど。

マッドサイエンティストとしての神×精神論と科学の残念な邂逅

「「心」を変えてヒトは進化する チンパンジーとの差極少」:イザ!

≪良い遺伝子をオンにする≫

 心にも、ある種のエネルギーがあり、「思い」や「心の持ちかた」が遺伝子のオンとオフを変えるという事実である。

 つまり、心の働きを変えるだけで、遺伝子レベルでも高次の人間に進化できる可能性があるということが分かり始めた。(中略)

 そして今、ダーウィンの進化論を超える新しい進化論が生まれようとしている。

 私は、笑い、感動、感謝、生き生きワクワクした気持ち、さらには、敬虔(けいけん)な祈りまでもが、良い遺伝子をオンにすると考えている。

 これからの私たちは、意識して、よい遺伝子のスイッチをオンにすることで新しい人間性を生み出すことができる可能性がある。

 この新しい進化に貢献するのが人間の使命であり、すべての生き物の「いのちの親」の望みに添うのではないかと思っている。(筑波大学名誉教授・村上和雄)

「「いのちの親」の望み」って…インテリジェント・デザイン説の亜種か。
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▼マッドサイエンティストとしての神

しかし分からないな。仮にそういった全ての生き物を生み出した神とも言うべき存在がいるとして、その存在は何故、わざわざ低次の存在としての生命を生み出し、その者達に「高次」の存在に進化する使命なんてものを課すのだろう。何故そのために様々な試練を設けるのだろう。そんなことをせずとも、初めから「高次」の存在としてデザインされた生命を生み出せばいいじゃないか。

それを何故、わざわざ低次の存在としての生命を生み出し、尚且つ、「使命」である「高次」の存在への進化にハードルを設け、それを簡単にはクリアできないように設定する必要があるのか。要するにそれは、“本物の生命を使ってシミュレーションゲームを作ってみた”みたいなものだろう。そしてそのゲームの様子をみながら、「ああ、全くなんて愚かなんだ、人間は…」とか、「おおっ、やるじゃないか、こいつら」とか、「このままだ思った方向へ進化しそうにないから、ちょっと疫病でも流行らせてみるか」とか言ってるわけでしょう?その存在は。とてつもなく趣味の悪い遊びだよ、それ。娯楽のために生命を弄ぶ、ただのマッドサイエンティストだよ。そんな存在を一体どうやって尊べというのか。

というか、もしこの世界を神が設計したとするなら、その者は、この世界を多くの不幸や苦痛、矛盾で溢れかえるように設計した、諸悪の根源ということになる。それに、何らかのベクトルを所望しながら意志を持って物事を論理的に考える存在は、根本的には「人間」となんら変わらないだろう。よって、意志を持った存在としての神が実在するとしたなら、それは単に「絶大な力を持った人間」でしかない。だからこそ、自分は意志を持った存在としての神には全く興味を抱けない。何故なら、そこには何の神秘もないし、もし本当にそのような存在が実在するとしたら、それはこの世に多くの不幸や苦痛、矛盾をもたらした諸悪の根源ということになるから、その存在を憎まずにはいられない。でも、そんな空想上の存在を憎んだところでどうにもならないわけで、であるなら、初めから興味の対象としてスルーしておいた方がいいだろう、と。

▼精神論と科学の残念な邂逅、或いは希望と存在意義を賭けた闘い

ただそういったID説的な部分よりも、「これからの私たちは、意識して、よい遺伝子のスイッチをオンにすることで新しい人間性を生み出すことができる可能性がある。」というこの部分こそが、この説の本旨なのだと思う。

というのも、キリスト教的な条理性が信じられている文化圏では、世界の成り立ちの在り様がその条理性を成立させるための重要な案件となるため、今最も信頼されている「科学」というブランドとの間で、その成り立ちに関するすり合わせを図る必要性が出てくる。これが所謂ID説の出自となる。だが、それが全く信じられていない日本では、世界の成り立ちやそれが存在する意味は基本的に余り重要な案件ではない。だからそれは本旨にはならない。

それよりも、日本で最も多くの者に熱心に信心されているのは精神論、つまり自意識原因論的な条理性に基づいた奇跡の存在だ。実際、もはや精神論が起こす奇跡にしか希望を見出すことができないような人間がこの国には大勢いるのではないか。即ち、多くの者にとってもはやそれが唯一の希望の供給元となってしまっているような現実がある。そしてそれと同時に、私は己の意志の力によって社会に“成果”をもたらしている、だから私は存在してよい、というような自意識原因論的な原理と社会的役割説によって己の存在意義を獲得している者も沢山いるはずだ。つまり、精神論が今世界中で最も大きな求心力を持っている「科学」によって否定されてしまった時、多くの者の希望や存在意義が奪われてしまうことになりかねない。そうなってしまえば、この社会は大きな混乱の渦に巻き込まれることになるだろう。そしてそうであるが故に、日本では精神論と「科学」とのすり合わせを図る必要性が出てくる。己の希望や存在意義を守ろうとする動きが出てくる。

事実、「高次の人間に進化」という“成果”の象徴を意味するものが生み出される原因を、心の「ある種のエネルギー」、つまり個人の自意識の努力具合に見出そうとするところや、その“成果”に「貢献するのが人間の使命」、即ち、“何者か”に設定された社会的役割への貢献を自身の存在意義とするところなど、これは原理的に精神論と完全に一致している。

要するに、希望や存在意義を守るために、それを支える精神論の正しさがどのような原理によって成り立っているかということを、無理矢理科学的な視点から説明しようとした結果、「ある種のエネルギー」が「良い遺伝子のスイッチをオンにする」という妙な説が生み出されることに相成った、と。多分、そういう文脈の上でこういう説が生まれてくるんだと思う。



※注意 このブログには、「ある種のエネルギー」によって多数の悪い遺伝子をオンにして、人間をチンパンジーにする仕掛けがなされている…かもしれません。そうなりたくない人は、「笑い、感動、感謝、生き生きワクワクした気持ち、さらには、敬虔(けいけん)な祈り」によって「良い遺伝子のスイッチをオン」にして対抗…した方がいいかもしれません。

努力のブレーキ機能、「努力」に逃げない考察・解説

時事ドットコム:野村克也氏が放送席で観戦=大相撲

NHKの『サンデースポーツ』で、この話題が取り上げられていた。

ここでは触れられていないが、そこで放映されたVTRの中で野村氏は、日本人力士の不甲斐ない成績の原因について訊かれたところ、ハングリー精神の無さや、努力の足りなさという理由でそれを説明していた。曰く、努力には即効性がないのに直ぐに効果が出ると思っているから、効果が出ないと直ぐに努力を止めてしまうのだと。そしてそのVTRあけに、ナントカ親方が一言。「その通り!」

一体この手のやり取りを何万回見せられてきたことか。しかし、実は「努力」という便利な概念に状況の説明を頼り切りにし、誰かの努力の足りなさを解消することだけで問題の解決を図ろうとしてきた、その思考の硬直化とルーチン・ワークこそが、様々な場所に於ける状況打開の機会を奪って来た、という面もあるのではないか※1
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・その者が本来どれ程の可能性を持っていて、努力によってそれをどれ程引き出すことが出来るのか、ということは実のところ誰にも分からない。

・世の中には様々な制限がある。心身共に無限のエネルギーと修復性が備わっているわけではないし、機会費用・比較優位の問題もある。つまり、誤った方向で努力をしてしまえば、努力故に身を滅ぼす結果にもなり得る。身を滅ぼすとまでは行かなくとも、実際にそういった失敗を繰り返して来た経験を持つ者も多いんじゃないか?要するに、どのような方向で努力をすればその者にとって良い結果になるのか、ということ自体が分からない。だからこそ人々は努力することを躊躇してしまう。

・逆に言えば、それらが分からないからこそ、何でも「努力」が原因であるかのように言うことが出来てしまう。それ故、物事を説明する際に安易にその概念に頼ってしまう人達が大勢出てくる。まあそれはその者が最大限の力を尽くした結果としての思考能力の限界なのかもしれないが、もしそうでないとすれば、そういった安易な「努力」概念の利用自体が思考の怠惰と言えるだろう。

・何らかの努力を続ける人間の多くは、その努力が功を奏しているという実感を持っている。それがモチベーションとなり、その継続を可能としている。そこには必然的な理由がある。

・だから、直ぐに効果が出ないが故に努力の継続を止めてしまうという現象は確かにあるだろう。しかし逆に、直ぐに効果が出始める者もいる。ということは、それはむしろ努力の持つブレーキ機能と考えた方がいいのではないか。つまり、効果が中々出ないということは、その方向での努力は限られた資源の無駄遣いになる可能性が高い、ということを示しているとも考えられるのではないか?

・大抵の事柄には競争相手がいる。そして結果はその相手との関係性によって形成される。仮に後から効果が出て来るとしても、直ぐに効果が表れる者とそうでない者の間には、大きな差が生じる可能性が高い。そしてその差が成果の大きさとして反映される。――もちろん、後の急成長という可能性も無くは無いが――効果の出なさ具合は、もっと他に努力の方向を向けた方が良いよ、という危険信号なのかもしれない。

・野球選手になれなかった者が、四十過ぎても「いつか俺もメジャーへ行ってイチローを超えてやる」と言って一日中バットを振り続けていれば、それはただの愚か者だろう。しかし、結果も出ないのに様々なものを犠牲にしてそれだけのことを続けていたのだとすれば、それは恐ろしいまでの努力継続能力だ。単純に外見上から見れば、その者の努力度合いの高さはそこいらのプロ野球選手を遥かに上回っていると言えるかもしれない。でもやっぱりその努力は愚行だとしか言いようがない。

・もしある者が誰かの吹聴による努力の継続で、人生に於ける貴重な資源を無駄遣いしてしまったとしたら、それが取り返しのつかない結果を生んでしまったとしたら、それを吹聴をした人間は、一体どうやってその責任を取るつもりなのだろう?

・逆に、相手のある方向での努力がお互いにとって必ず良い結果になるという確信があり、それ故にそれをさせたいと思うのならば、単にそれを無理矢理押し付けようとするのではなく(「やらされた努力」の効果は半減するだろうし、失敗した時に怨嗟を生む)、どういう状況を作ればその者がその方向で動いてくれるのか、ということを考えて実践することこそが、努力をするということなのではないか?つまり「あいつが努力をしないから悪いんだ」と言い続けるのは、それ自体が努力とは逆のベクトルなのではないか。

・例えば、実際には努力の効果が出ているのに、当人はそれに気づかないということもある。楽器練習などにおいてメトロノームを用いるのは、ちゃんと効果が出ていることを認識させ、モチベーションを持続させるため、という意味もあるだろう。努力を要求する側は、「相手が努力をしないという問題」に、そういった具体的な方法(提案)で臨む必要がある。

・あらゆる状況は常に、人と人、個人と環境といった、互いの相互的な関係性の連続の上に成り立っている。よって、もしある状況を変化させようとすれば、お互いが変化しなければならない。だが、誰だって自分を変えるのは苦しいし難しい。しかし、もし一方的に相手の努力の足りなさだけに問題の原因があるのだとすれば、その状況の打開において、「自分は変わらなくいい」ということになる。

・だからこそ、人はついつい「努力」という概念に頼ろうとしてしまうのではないか。つまり、「努力しろ」「お前の努力不足が原因だ」という言は、実は「俺は変わる努力をしないぞ」「俺には問題の原因は無いぞ」という言でもあるのではないかと。

 ***

もし小論文で「~が何故そうなったのか、その理由を考えなさい」という問題があったとして、「それは誰それの努力が足りなかったから」なんて答えを書いたとしたら、それはもうどうしようもなく駄目な回答だろう。

自分は壊滅的なまでに小論文とかが書けない人間なので、入試とか全くどうにもならない。だから試験開始と同時にバキバキ論文を書き始めることが出来る人達が羨ましくて仕方がないわけだけど、そういう試験に何度も通ってきたであろう優秀な人達が、こと実技となると、何故「努力云々」というそんな判で押したような陳腐な回答ばかりを出してくるのか不思議でならない。上で書いたように、その方が立場的に有利だから?



※1 大相撲の場合、外国人力士が沢山入ってきた時点で、日本人力士がこれまで通りの戦績を残すことが出来るような余地はもう余り残されてはいないだろうけど。そもそも、身体にも健康にも悪い上、閉鎖的でリンチが蔓延り、若い者に人気もない。無理矢理つれてこられた人達が嫌々練習をし、そして度々部屋を逃げ出す。成績を出さなければお前の努力が足りないからだと一方的に責め立てられ、成績を出しても態度が悪いといって嫌がらせを受ける。そんなスポーツに有望な人材が集まってくるはずもない。まずはそこら辺をどうにかしないと、益々尻すぼみになるだけだろう。

希望の破壊者としての困窮者

 <*死ぬ気になれば何でも出来る?*>

否!死ぬ気になって出来るのは死ぬことだけだ。

…いや、ちょっと言い過ぎかな。死のうとして失敗することもあるので。

だからもう少し説明を付け加えると、仮に「死ぬ気になれば何でも出来る」が本当だとしても、その「何でも」は「死ぬ気になれば(その者が本当に死のうとすること)」が前提である以上、“死ぬための行為なら”という限定つきの「何でも」でしかないということ。つまりそれは「死ぬ気になれば崖から飛び降りることが出来る」とか、「死刑を覚悟すれば沢山人を殺すことが出来る」とか、もっと極端なことを言えば「死ぬ気になれば自殺することが出来る」というようなことを言っているに過ぎない。確かにそれらの行為は普通の人間には到底真似出来ない物凄さを持っている。しかしその凄さは、それ以外のことでは発揮できない凄さなのだ。

そしてもし“死ぬための行為なら”という限定無しで「なんでも出来る」と思えるのなら、その者は少なくともその時点では死ぬ気どころか生きる気満々だろう。何故なら、その者はその「出来る」を向けるための、死というもの以上に大きな目的と情熱を獲得しているからだ(仮にその者が死を覚悟していたとしても、自身が真に望む目的のために死ぬのは生きることに相違ない)。

しかし本当に問題なのは、そういった生の意義が――意識だけでなく感覚的にも――失われ、今一度それを獲得することが出来るという認識すら抱くことが出来なくなっているような状況の方だろう※1。つまりこの言葉は、死ぬ気の無い(或いは生きるために死ぬ)人間には希望になり得ても、本気で死のうと思う人間(または生に意義を見出せなくなった人間)には何の救いにもならない。そもそもこの考えは、上記のような理由で後者の者達は原理的に抱きようがない。

 <*「みんな」の希望を破壊する困窮者*>

「死ぬ気になれば何でも出来る」という慣用句は、懲罰性を伴って用いられる場合が多い。例えば、「死に物狂いになれば何でも出来るはずなのに、それが出来ないのはお前が甘えているからだ。だからその根性を叩き直してやる」とか、「死ぬ気になって頑張れば苦難を脱出するチャンスなんて幾らでもあるはず。それを成しえないのは自ら本気で努力することを拒否してきた証拠。だからそういう人間は幾ら痛い目に遭っても当然の報い。こうやって俺が人生の失敗者であるお前を踏みつけるのも、お前が自分の意思で選択したジコセキニン」といった具合に。

では何故この慣用句は懲罰性を伴い易いのか。何故この出鱈目な慣用句がもっともらしく唱え続けられるのか。

それは多くの死ぬ気が無い者達にとって、「死ぬ気がある」というのは即ち「その者自身が持つ忍耐や努力、工夫、気づきの力――要するに精神力――を最大限に発揮すること」を意味しているからではないか。そしてまた同時に、「其々に与えられた意思の力を最大限に発揮すれば誰でも殆どの困難はどうにかして乗り越えることが出来る」という考え方が、希望や精神安定剤となってその者たちを支えている。

そう考えた時、この慣用句を用いる人間達が困窮者に激怒し、懲罰を下そうとするのはある意味当たり前のこととも言える。何故なら、「死ぬ気がある(≒意思の力を最大限に発揮している)」のにも拘わらず困難を脱出することが出来ない人間がいるとすれば、「意思の力を最大限に発揮すれば…」という希望が否定されることになるからだ。そんな人間は存在してはいけない。

つまりその者が「希望を捨てない」ことを前提とした時、困窮者達は嘘を付いていなくてはならないことになる。本気を出しもせず、余裕があるあるのにも拘わらず、そうでないフリをしていると。或いは、あいつらは死ぬ気もなく、甘ったれたまま死んでいくのだ、と。そんな中で「死ぬ気に(本気に)なっても大したことは出来ない」と主張するような輩がいれば、それはその者達の希望を踏みにじり、コケにする大悪党ということになるだろう。だから精神論的思想が文化やシステムの土台となっている日本では、(「今はこうでも私に与えられた意思の力を存分に発揮さえしていればいつかは…」というような精神論的希望と競合しないポジティブな思考、或いは振る舞いを持つ者達以外の)困窮者達に様々な形で懲罰が与えられる運びになる、と。

 ***

しかしまあそういったこと以前に、死という巨大な恐怖や苦痛――曰く、自殺すると地獄に落ちるらしい――を受け入れることが出来るのなら、それよりは幾分ましであろう地獄の社会生活が持つ恐怖や苦痛くらい受け入れることが出来るはずだ、という考え方が嫌だ。何故でどちらに転んでも先ず地獄ありきの前提を死守しようとするのか、という。…まあメシウマ・スパイラルに陥っているからなんだろうけど。



※1 喉元過ぎれば何とやらで、こういった状況に陥った者も、一度そこを抜け出すとまたぞろ「自分が生きる意義を失ったのは自分の意思の働かせ方が悪かったからであり、そして再びそれを獲得することが出来るようになったのはそれが改善されたからだ」というような認識を抱き始めたりするのだが。そして(意思の力によって自身の境遇をコントロールすることが出来るという幻想を抱くことが出来る程度の)中途半端な絶望を見た脱困窮者達程、その絶望による苦労と精神論的思想のコンビによってやっと獲得することが出来た貴重な誇りと希望、そしてそれを支える物語としての文脈を守ることに必死になり、より激しく現役の困窮者を叩き始めたりするから厄介だ。

「俺が本気を出せば…」は国民的フレーズ

主将宮本、ショック大〔五輪・野球〕(時事通信)

 アテネに続き、2大会連続で主将の大役を担った宮本。選手としてだけでなく、一塁ベースコーチに入るなど首脳陣とのパイプ役も務めて悲願の金メダルを目指したが、その願いはかなわなかった。
 「今年は五輪を考えながらのシーズン」と、年明けから話していた宮本。前回金メダルを逃した教訓から、「(勝利への)思いが強いところが金メダルを取ると思ってやってきた」。それだけに、最終打者となった阿部の打球が相手右翼手のグラブに収まった瞬間、「思いの強さの差を感じた」とがっくり。3位決定戦についても「いまは何も考えられない」とショックは大きいようだった。

日本が野球でメダルを取ることが出来なかったことは別になんとも思わないが、こういった精神論的な発言に関してはどうしても疑問を抱かずにはいられない。
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もし宮本選手のこの発言を額面通りに受け取ったならば、選手達は試合で本気を出すこともなくそのまま敗れ去ったということになるわけだが、本当にそうなのか?いや、そりゃ其々の選手達がどういった気持で試合に臨んでいたかなんて本人にしか知りようがないので実際の所は分からないが、選手達は其々自分なりに精一杯力を尽くしたものの、それでも負けたんじゃないのか?

幾ら勝ちたいという思いが強くとも、どうしてもモチベーションが上手く上がらないということもあるし、気持が空回りすることもあれば、その思いの強さ故に逆に萎縮してしまって力が発揮できないということもある。まあ負けた理由はそういった精神的なこと以外に幾らでもあると思うし、実力差を「思い」だけで埋め合わせることなんて出来るはずもないが、もし精神的なことを惨敗の理由として挙げるのならば、「選手達が中々上手く精神的にベストなコンディションを作り上げることが出来なかった」と言うべきだろう。でないと「思いの強さの差を感じた」なんて言ってしまったら、「私達は彼ら程には本気でプレーしていませんでした」と言っているのと同じことになってしまうわけで。まあもし仮に彼らが本気でプレーしていなくとも、この国にはそういう本気でプレーしない者達しか代表の座を勝ち取ることが出来る者がいなかったのだから、そしてもし彼らにメンタル面での弱さがあったとしても、そういった弱さを持った者しかその座を勝ち取ることは出来なかったのだから、誰もそれに関して文句を言うことなんて出来ないと思うけど(勿論、監督選考の不透明さなどシステム自体の在り方を批判することは出来るが)。いや、正確には文句を言うことは出来るが、それを言えばただの無いものネダリになるので。結局、手持ちの人材をどう上手く生かすかしかないわけだから。

それはともかく、「思いの強さの差を感じた」ことを惨敗の理由として第一に挙げるということは、「もし思いさえ強ければ自分達は勝てた」ということでもあるだろう。

星野監督「勝った者が強い」=野球代表が帰国〔五輪・野球〕(時事通信)

 空港近くのホテルで記者会見した星野監督は「五輪は難しい。強い者が勝つのではなく、勝った者が強いと実感した」と、考えた言い回しの中に実力では負けていないとの主張を忍ばせた。 

「実力では負けていないとの主張を忍ばせた」とあるように、どうやら星野監督も宮本選手と同じ様に、「実力を発揮していれば勝てた」といった類のことを言いたかったようだ。

だが宮本選手が言っていることは、「思いさえ強く持てば(本気を出せば)、俺達はメダルを取れた」ということだし、星野監督が言っていることは「俺達が本領を発揮すれば(本気を出せば)勝てた」ということだろう。つまりこの一連の発言は、俗に言う「“俺が本気を出せば”発言」に他ならない。

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渡辺会長がWBC指揮官に星野監督後押し(スポーツニッポン)

 渡辺会長はメダルを逃した今回の五輪については「やっぱり韓国とかキューバはハングリー。日本の選手が飽食暖衣とは言わんが、甘ったれているから良い勉強になったと思う」

今回の星野ジャパンの惨敗に於いて「“俺が本気を出せば”発言」をしているのは何も宮本選手や星野監督だけではない。

例えば渡辺氏は、ハングリー精神の足りなさや甘え云々といった、選手個人の精神の持ち方にこそ日本チーム惨敗の大きな原因があったかのような発言を匂わせている。こういった類の論調は、ネット上でちょっと検索を掛けただけでもゾロゾロと出てきたが、結局こういった論調を唱える人達は、今回の日本チームの惨敗に関して、「お前らが本気を出せば(精神的努力を怠らなければ)もっと良い結果が出せたはずなのに、それをしなかったからこんなことになったんだ」と言いたいわけだろう。だがこの「お前ら」という主語を「俺」に入れ替えてみるとどうなるか。すると、「俺が本気を出せばもっと良い結果を出せたはずだが、それをしなかったからこの程度の結果に収まっているんだ」ということになるわけで、正にこの手の論調もまた、「“俺が本気を出せば”発言」と同じ考え方に基づいた内容のものであるということが分かる。

で、今回の件について、こういった選手個人の精神の持ち方にこそ惨敗の最大の原因があるかのような発言をした人達が一体どれくらい居たのかということだが、決してそれは少ない数ではないだろう。つまり、それだけ多くの人々が今回の件で、(主語の違いはあれど)「“俺が本気を出せば”発言」と同内容の発言をしたわけだ。

そもそも、何らかの失敗の原因を第一に個人の努力の程度に求めようとする精神論というのは、元々「“俺が(お前が)本気を出せば(出していないから)”思想」でもあるわけで、そういった精神論的な発言を行うことは、基本的にその都度「“俺が本気を出せば”発言」と同内容の発言をしていることになる。そしてそういった精神論がこの国に於いて如何に多くの者達に支持されているかは言うまでもないだろう。つまり「俺が本気を出せば」というのは、日本という精神論の国の人々にとっての国民的フレーズなのだ。

 ***

「今は駄目な状況にあるが(今回は駄目だったが)、俺が本気を出しさえすれば凄いことができるんだからっ!」※1

こういった「“俺が本気を出せば”発言」は、それを本気で信じているかただの負け惜しみで言っているかはともかく、一般的には「普通」未満の社会的地位しか獲得することが出来なかった社会的失敗者が発する特有の妄言として知られており、その発言は「普通」以上の社会的地位を獲得した者達の間で嘲笑のネタとしてしばしば用いられる。そしてその社会的失敗者達は、そういった「馬鹿げた考え方」を持っていたからこそ、社会的失敗をしたかのように言われる。

だが、例えば今回の勝負では負けはしたものの、その人生に於いて今までずっと勝ち続け、これからもその社会的成功を抱えていくであろう宮本選手や星野監督が「“俺が本気を出せば”発言」をしていたように、そしてその勝負を見ていた渡辺氏やその他多くの社会的成功者がそれと同内容の発言をしていたように、そういった発言は決して社会的失敗者特有のものではないし、そういう「馬鹿げた考え方」を持っているが故に社会的失敗をするのでもない。

ただ同じ様な内容の発言をしていても、社会的弱者はより何らかの事柄に於いて成功することが難しい状況に置かれているが故に、そして社会という集団内で政治的に弱い立場に置かれ、より嘲笑され易い立場にいるが故に、その発言のバカバカしさが際立っているだけなのだ。実際は、精神論的思想が支配的な風潮を持つこの社会では、その常識にコミットしている多くの者達が、社会的に成功したか失敗したか如何に拘らず、その手の発言をしている。それが目立つか目立たないかの違いはあるが。

そして今日もまたこの国では、朝も昼も夜も、社会的成功者が行う取り立てて注目されることもない「“俺が本気を出せば”発言」と、そのポジション故にバカバカしさが際立つ社会的失敗者の「“俺が本気を出せば”発言」が至る所で交錯し合い、こだまし続ける。

それが途切れそうな気配は、今の所ない。



※1 そういや、先の戦争では「俺達が本気を出せば、アメリカだって倒しちゃうんだからっ!」って言ってたな。ほんと、あれだけ痛い目に遭ってもそういった根本的な考え方自体は固持し続けるんだから、ある意味凄いよ。個別の事柄に於いて、そういった考え方を一つ一つしらみつぶしに完膚なきまでに叩き潰されでもしないと変わらないんだろうな、この国の精神論的常識は。

精神論を信じるのは構わないが

何故、その宗教を他人に押し付けようとするのか。
何故、それで他人を縛りつけようとするのか。
何故、それで他人を動かそうとするのか。
何故、それを自らの暴力の免罪符とするのか。
何故、それに基づいて社会を最適化しようとするのか。

自らがそれを信じ、自らがその規範に従い、
自らがそれによって希望を抱き、
自らがその思想から生み出される苦悩や喜びを
受け入れてさえいればそれで充分な筈だろう。

だが精神論を信奉する者達の多くは、
自身よりもむしろ他者にそれを押し付けようとする。

彼らは基本的に他者の信仰の自由を認めない。
己のその宗教でこの国を満たさないと気がすまない。
それどころか、それが宗教であることにすら気づいていない。
恐らく、こういったこともまた精神論という宗教の特徴なのだろう。

だから精神論は嫌いなんだ。

…と何も考えずにただ叫んでみるのもたまにはいいだろう。

「努力」で現実を解釈したならば

社会的に優位に立つ者とそうでない者。
自身の存在に価値を感じることが出来る者とそうでない者。
「現実」は常にこれらの両者を同時に欲する。

ではそういった現実に於いて、「努力」はその其々の者達に対して
一体どのような眼差しを向けるのか、ということについて。
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▼社会的弱者(或いは自己価値認定不能者)には…

・努力認定されなかった(しなかった)場合

努力しなかったんだからどんなに痛い目にあっても自業自得。

あの時もっと努力していればこんなことにはならないはずだったんだ。それをしなかった自分自身を呪いたくなる。

参考例:弱い人間は好きで弱くなったんだから
もっと強く踏みつけてやればいいのよ(by金美齢氏 )


・努力認定された(した)場合

駄目な奴は何をやってもとことん駄目だなw

幾ら努力しても何一つ上手く行かない俺は生きている価値がない。


▼社会的強者(或いは自己価値認定者)には…

・努力認定されなかった(しなかった)場合

やっぱり才能のある奴は出来が違うな。

もしかして俺って天才じゃね?


・努力認定された(した)場合

やっぱり成功する人間はそれに見合うだけの努力をしているということか…、偉いねえ。

成功したのは努力のお陰。だから、それだけの努力をした自分自身を褒めたあげたい。

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社会的に優位に立つ者とそうでない者。
自身の存在に価値を感じることが出来る者とそうでない者。
「現実」は常にこれらの両者を同時に欲する。

その現実という舞台に於いて、
「努力」は社会的優位に立つ者にはさらなる快楽を齎し、
劣位に置かれた者には拷問装置としてその機能を果たす。
誰かの存在価値が否定される現実に於いて、
「努力」は自身の価値を信じる余力のある者には希望を齎し、
その余力を失った者には絶望を突きつける。

あいつ(「努力」)はそういう奴なんだよ。

己の限界を知らずに済んだ者ほど勇ましい

<経験と言動の逆転現象>

よく「辛い体験をした者ほど逞しくなる」
などという理論を唱える人達がいる。

そして、脆弱な精神の形成は辛い体験の欠如、
もしくは、その体験からの逃避が原因であるとし、
他者により辛い体験を強いることを提案する。

つまり、それが精神的脆弱性の
治療や予防に繋がるというわけだ。

だが、物事はそれ程単純ではないだろう。

中には、「辛い体験」による精神的疲弊や
消耗が原因で引き起こされる脆弱性や、
幼少期に継続的な精神的ダメージを受け、
それによって強固な精神を形成するための
順風な成長が阻害されてしまったが故の
脆弱性という可能性もあるはずだ。

そういった場合にさらなる精神的負荷を課す
ことは、返って逆効果になるどころかその者を
窮地に追い込むことにすらなりかねない。

冒頭の言説はそういった危険性を秘めいてる。

 ***

確かに適度なストレスは必要だ。
例えば肉体でいえば、筋肉は適度な負荷に
よって一旦破壊され再構築されることによって
より強くなるし、骨も常にある程度の負荷が
かかっていないとどんどん弱くなる。

しかし、行き過ぎた負荷を掛けることは
取り返しの付かない結果を生むこともある。
関節を骨折したり、腱を切ってしまった時は
一生その後遺症が残ることもあるだろう。

怪我にしても、浅い傷だと完全に回復して
その傷跡も無くなってしまうこともあるが、
深い傷や火傷などは一生その跡が残ることに
なるし、神経を損傷すれば元通りに戻ること
は難しく、手足を切断してしまえば二度と
生えてくることはない。

そしてそれは精神に於いても同じことなのだ。
精神とて肉体と同じく無限性はなく確実に
疲弊もすれば消耗もするし、受けたダメージも
必ずしも回復可能なものばかりとは限らない。

だから、何らかの原因でそういった行き過ぎた
負荷がかかり、その後遺症の辛さを身をもって
体験した人は、他者に「辛い体験をした者ほど強く
なれる」などという無責任なことは絶対に言わない。

仮に「精神にも負荷が必要だ」ということを
主張する場合も、それはあくまで「適度な負荷」
であるということを傍から見れば滑稽なくらい
強調するだろう。それは、度を越えた負荷が齎す
結果の恐ろしさやその後遺症からくる大変さを
実際の経験を通して嫌と言うほど知っているからだ。

ところが、己の限界を知る必要のない程度の
精神的負荷しか経験せずにその人生を送って
くることが許された人達の多くは、
その恐ろしさに気付くことが出来ない。


そして精神もまた肉体と同じ様に無限性はなく、
枯渇してしまうこともあれば回復不能な損傷を
負ってしまうこともあるという「精神の有限性」
という条件の考慮を忘れ(軽視し)がちになる。


だから、それによって誰かを窮地に
追い込み兼ねないような危険性を帯びた
言説を平気で唱えることが出来る。
(実際他者を窮地に追い込むために
そういう発言をしているのかもしれないが)

つまりそれは結果として、実際に己の限界を
知らずに済む程度の精神的負荷しか経験した
ことのない者ほど他者に対してより精神的に
大きな負荷を掛けるべきだと主張し、実際に
後遺症を背負うことになるほど重い負荷を経験
してきた者ほどそのことに警鐘を鳴らすという、
経験と言動の逆転現象を生じさせる
ことになる。



<肯定される精神的暴力>

だが限界を超えた負荷を経験し、より重い
後遺症を背負わざるを得なくなった者ほど
社会的成功を収めたり、もしくは一旦
収めた成功を維持し続けるのは難しい。

その一方で、成功を収めそれを維持し続けて
いる者の多くは、上手く「適度な負荷」
を経験してきた(いる)者達だ。
つまり、己の限界を知らない者達。

・世の中の人々が(社会的に)成功した人間
と失敗した人間のどちらの言うことを信じるか。

・日本に於いて、精神的に枯渇しかける
ほど消耗してしまった、或いは回復不能な
までの損傷を負ってしまった人間と
そうでない人間のどちらが多数派か。

・「精神には無限の可能性が秘められている
のだから、今は劣勢でもその力を上手く発揮
すれば貴方にも大きなチャンスがありますよ」
という甘い言説と、「精神も肉体と同じく個人差
もあれば限界もあるので、其々その限られた条件
の中で如何に上手く生きぬいていくかしかない」
という夢のない言説のどちらを信じたくなるか。

・「大きな負荷を掛けるべきだ」という主張
(これは同時にその発言者が大きな負荷を
経験してきた、或いはこれからも強い負荷など
恐れない、というアピールとしても機能する)と、
「負荷は適度なものでないといけない」という
主張のどちらに「勇ましさ」、つまり論戦の勝敗
を大きく左右する「イメージ的強さ」を感じるか。


こういった条件を鑑みてみると、己の限界を知る
ことなく人生を送ってくることが出来た者の主張が
そうでない者の主張よりも広く一般に受け入れ
られることになるのは必然と言えるかもしれない。

そして、それはつまり「精神の有限性」という
条件が軽んじられてしまうことをも意味する。

しかしそのような条件の下で冒頭の様な単純化
された言説が広く社会に浸透してしまうと、
精神的・環境的暴力を際限なく肯定する
ような土壌が出来上がってしまう。

何故なら「有限性」が軽んじられた上での
精神的・環境的暴力という「精神的負荷」は、
それが被暴力者にとって損害であるという
認識が薄まり、むしろそれは「治療」や「鍛錬」
という被暴力者にとっての利益になる行為だ、
という認識がなされてしまう
からだ。

当然、「有限性」が軽視されているから
その暴力行為による損害認定へのハードルは
非常に高く設定され、余程分り易い形で損害が
表出しない限りそれが認められないため、
その暴力行為に対する歯止めも掛かり難く、
歯止めが掛かる時は既に対象が深刻な状態に
陥ってしまっていることが多い。

その結果脆弱性は駆逐されるどころか、
横行する精神的暴力によって回復不能なダメージを
負った、「後遺症」を持つ所謂世間で言う所の
「心の弱い」人間が次々と生み出されることになる。

だが、強い精神的負荷を受けたが故に生まれた
「心の弱い」人間は冒頭の言説によって「辛い体験
の不足」という誤診がなされ、その治療として更なる
精神的・環境的暴力が課される
ことになる。

尚且つその一連の流れは、「強い人間を育てるため」
という大儀で世間から公認された娯楽化した暴力
として消費
され、弱い人間を叩くことを正当化出来る
この言説の麻薬的魅力に魅入られた人々は、暴力を
向ける対象欲しさに大儀をどんどん拡大解釈し始める。

運良くその暴力を受けながら社会的成功を
収めた人間も、その多くがその状況を変えるどころか
自身が暴力を受けたことを大儀としてその暴力の渦を
加速させる役割しか果たせない※1

所謂「俺が我慢したんだからお前も我慢しろ」
という理論だ。

日本に於いて自殺の多さが目立つのも、
「精神の有限性」という条件の忘却や、
それに伴って形成されるこういった暴力の
サイクルが個々人に与える精神的疲弊や
消耗が無関係であるはずがないだろう。

しかし、その暴力のサイクルの中で行われる
生存競争に勝ち残った、自らが自殺という現象の
一部でもあり淘汰者でもある筈の人達が、
「自殺とは自身と周囲の人間に対する許しがたい
暴力行為である」などと言って憤ってみせたりする
のだ。

全く「現実は小説より奇なり」
とは本当によく言ったものだ。


※1 それは一種のコミュニティー参加でもある。
大抵の人間は孤立からくる恐怖感や孤独感、
「独立した個人」が持つの脆弱性回避のために
何らかのコミュニティーへの参加を目指す。
だが、新たなコミュニティーを作るよりも、
ある程度磐石な地盤が整った既存の
コミュニティーに参加するほうが容易であり、
多くの者は後者を選択するし、またそれしか出来ない。
この暴力のサイクルは、それ自体が磐石で
参加し易いコミュニティーとして機能していることも
その求心力の源の一つとなっている。

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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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