ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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入力条件が変われば吐き出し結果が変わるのは当然

佐村河内問題で、曲そのものは変わらないのに、曲に付随する情報の嘘が発覚したからといってその評価が変わるのはおかしい、というような主張をよく見かける。だがそれは何もおかしなことではなく、むしろ当たり前のことであると言えるだろう。
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例えば、数値の羅列を入力するとそれを受けて何らかの結果を吐き出すプログラムがあるとしよう。そこに例の「HIROSHIMA」を数値化して入力する。生演奏だったならともかく、それがCDなどのデジタル録音だった場合、それは基本的に同じ数値に変換され、それを受け取ったプログラムは同じ結果を返すだろう。

「曲そのものは変わらないのにそれに対する評価が変わるのはおかしい」に代表される、作品が作られた背景やそれを作った者の人格といった作品にまつわる情報と作品そのものは分けて考えるべきだ、という主張は、このような状況を目指すべきだと言っているわけだ。

だが問題は、「人間」という「プログラム」は音楽だけを独立して取り込むことができない、というところにある。人間は生まれた時から、外部から様々な分野の情報を一緒にまとめて取り込み続けている。人間の内部に特定の分野専用の部屋があり、そこにその分野に関する情報だけを独立して取り込み、閉じ込めているわけではない。其々の分野の情報はどんどん混ざり合い、お互いに影響を及ぼし合い、そしてそれらがまた「プログラム」自体をどんどん書き換えていく。それが人間というものだろう。

つまり、曲に付随する情報が変わるということは、入力情報そのものが変更されることを意味する。そしてその変更はプログラム本体の状態にまで影響を及ぼす可能性がある。だからそれらが変更されれば、曲の感想や感じ方、評価といった吐き出し結果が変わるのは当然のことと言える。

そしてそれは何も、佐村河内氏の嘘がばれた後と前で曲への評価を変えた者だけに起こっているわけではない。全ての人間に起こっていることである。よってそれを嗤うならば、それは己自身を嗤っているにも等しい。

例えば、幾ら作品そのものとそれ以外の事柄は分けて考えるべきだと言ったところで、それを作ったのが自分を散々苦しめたストーカーや虐めっ子だと知ってしまったら、その作品はもうその者にとって二度と前とは同じものには戻らないだろう。

吹奏楽部だが佐村河内の大ファンだった部長死ぬほどからかった結果w

実際の例を挙げてみれば、こんな嫌がらせをされて尚、嘘の発覚前と後で曲に対して同じ感情を抱けるはずもない、ということは、誰にでも直ぐ想像が付くのではないか。そして「同じ感情を抱けるはずもない」とは即ち、曲に付随する情報の嘘が発覚したことによって曲の評価が変わらないはずがない、ということを意味する。要するに「おかしい」どころか、むしろ当たり前なのだ。

今回の騒動では、「音楽よりも物語を聴いていた」というようなことが盛んに言われた。だが物語などなくとも、曲に関する理論的解説を聞いただけで、或いは体調が変わっただけで、その曲の聴き方や聞こえ方は変わってしまうだろう。DTMをやっている人なら、DAWやVSTにおいてGUI(装飾)が如何に重要かということ、そしてそれが道具自体の評価さえ変えてしまう程の力を持っていることを知っているだろう。人間の感じ方や評価の仕方は、元々それほど脆く危ういものなのだ。

こういったことは、社会的観点から見ても言える。例えば書籍におけるベストセラーなどは、大抵は数年経てばブックオフの百円コーナー行きだ。あれだけ皆がこぞって買い求め、熱中したはずのものが、数年後には誰も見向きもしなくなる。作品の中身は何も変わっていないのにもかかわらずだ。この例一つ取っても、中身が変わらないのに評価が変わるのはおかしい、という考えがどれほど現実離れしたものであるかが分かるだろう。

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もちろん、作品への独立的評価の困難性を理解した上で、それでも尚、それをしようとするのは別に悪いことではない。

しかし、音楽はそれが非常に困難な部類に入ると言える。というのも、幾ら曲を緻密に解析し、その構造の絶妙さや稚拙さを見出してみても、それはあくまで構造の絶妙さや稚拙さでしかなく、それイコール良い曲/悪い曲ということにはならないからだ。幾ら構造が絶妙でも下らなく聞こえるものもあれば、幾ら稚拙な手法で成り立っていても多くの者が良いと感じるものもあるだろう。

よって曲の良し悪しという評価に関しては、結局その者がその時それを聴いてどう感じるか、という部分に委ねられてしまう。そしてその感じ方は、曲以外の要素(体調や気分、知識、経験など)に常に左右される。

逆に言えば、構造部分に関しては作品そのものの独立した評価を下しやすいと言えるが、それも大抵はエポックメイキングという概念に阻害される(作品の構造そのものを絶対評価するなら、手法や技法の先駆性はむしろ無視されるべき)。

その点、ロジックそのものが「作品」に相当する言論は、音楽などにくらべ独立した評価が下しやすいジャンルであると言えるだろう。しかしながらそのようなジャンルにおいてでさえ、大抵は何を言ったかより誰が言ったか(属性)が議論の焦点になってしまう。作品そのものとそれにまつわる情報を切り分けて評価を行うというのは、それほど困難なことなのだ。
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多分ずっとこんな感じ

http://ja.favstar.fm/t/215273426535976960

「負け組を放置すると犯罪者になって社会にダメージを及ぼすので税金から生活保護を献上して大人しくしていて貰う」と「山の神様が暴れて村を破壊しないように毎年処女を献上する」は似ている。@shibata616

その山の神様は元々口減らしのために追放された村の者が変容したものであり、村人はそれを知っているから、追放者が山の神になる前に誰にも迷惑を掛けず自害してもらうことを願い、「ヒトニメイワクヲカケルナ、ヒトニメイワクヲカケルナ」と祈り続け、時折大規模な「迷惑掛けるな祭り」が執り行われる。村人はそれに熱狂することで山の神の脅威を忘れようとするが、それをよりいっそう盛り上げるために、また新たなる追放者が必要とされるのだった…とまあ、多分滅ぶまでずっと人間はこんな感じ。

「立派な社会人」への登竜門×整合性に囚われるほど死に近づく

【速報】 ついに女子のホンネがばらされる!! - Togetter

好きという感情なしで体の関係になる男を理解できないのと同様、別に好きでもない、けど嫌いでもない男と平然と付き合っていける女性の心理は理解できない。
Takuice 2011/10/26 23:07:31

男性の浮気を痛烈に批判しつつも、しっかり男をいくつかキープしている女はずるいよ。。
Takuice 2011/10/26 23:09:52

可愛い子ぶってる女の9割9分は全員意図的。っていう中学のときに、妹にいわれた事は的確だと最近気づき始めている(気づきたくない)。
Takuice 2011/10/26 23:18:21


はてなブックマーク - 【速報】 ついに女子のホンネがばらされる!! - Togetter

はてブではこのまとめは随分と評判が悪いようだが、実際就活では男女問わずここでカリカチュアライズされた≪女≫を演じることが求められ、一種の競技としてそれを競い合うことになる。企業という名の≪男≫の前で。だから就活は気持ち悪い。

「男が何を考えてるかわからない。。」っていう女性は、別に男が何を考えてるか知りたいわけではなく、どうやってコントロールするか方法を考えているだけ。だってさ。。
Takuice 2011/10/26 23:38:43

で、そこで勝ち抜いて立派な≪女≫になった人間は、「近頃の若者(ゆとり)が何を考えてるかわからない。。」とばかり言っているわけだが、実際にはその者を「どうやってコントロールするか方法を考えているだけ。」でしかないという。

女は演技が上手い。って言っている男ほど、どこまでが女の演技なのかわかってない。彼女らの頭の回転は、そういうレベルではない。サッカー選手がピッチ上で、頭で考えず瞬時に的確なパスを出すほど鋭い。(しかも、すべて自動)Takuice 2011/10/26 23:28:44

そして「頭で考えず瞬時に的確なパスを出す」能力がなく、≪女≫であることの競争に敗れた人間は自分みたいになる。

つまり、「立派な社会人」であることを善きことであるとするなら、当然そのための登竜門となっている≪女≫であることの競い合いもまた善きことであるということになるはずだ。ところがここでは、「ずるい」「理解できない」に象徴されるように、それが恰も悪であるかのような前提で話が進められているように見える(この説に対する怒りもまた、ここで示された≪女≫像が悪しきものであるという前提を持っているが故のものだろう)。ではここにいる人達が「立派な社会人」に問題を見出しているのかといえば、そうでもないだろう。そこら辺の整合性のなさがどうも気になる。

まあこれは、「善良な市民」であるためには「立派な社会人」であるだけでは駄目で、それと同時に二重思考もまたしっかりと身につけていなければならない、ということなんだろうけど。いや、皮肉でもなんでもなくて。

 ▼整合性に囚われるほど死に近づく

慣習には不合理がつきものだし、どのような社会システム、社会運動も常に大儀や内容に大きな欠陥を抱えながら存在している。故に整合性に囚われる者は枠組み側から、自らに仇名す者、或いはその可能性を持つ者としてみなされることになる(つまり「善良な市民」ではなくなる)。となれば当然、その者がその環境で地位を維持し続けることは難しくなるだろう。

また、外面的には上手く装っていても、整合性に囚われ始めるとそもそも当人の内部におけるシステムの動きが円滑さを失うことになるので、どのみち状態を持続するのは難しくなる。いや、実際には持続性に問題が出てきたからこそ整合性のなさに目が行くようになるだけなのだろうが。

何にせよ、整合性に囚われれば囚われるほど、それだけ死に近づくことになるのは間違いないだろう。「命あっての物種」で言い表されるように、持続が失われれば持続ゆえに存在するそれの整合性の問題自体もまた消滅してしまう。故に整合性の優先順位は常に持続の後に来る。

世の中、そんなバカな!と思うことは多いが、実はそれもまた持続の秘訣だったりするわけだ。そもそも整合性の問題を突き詰めて考えると、人間社会の再生産自体を否定しなければならなくなるわけだし(人間社会で正当性の根拠とされることの多い自由意志による自己決定や、それを前提とする契約概念、道徳論理などは全て欺瞞。むしろそれを踏みにじることでしか人間社会は持続できないし、また再生産することもできない)。

他人の不幸が希望を紡ぐ

絶対に嘘を付くなよ。もし嘘を付いたことによってどんな損害が生じてもそれは自己責任だぞ、という前提でアンケートを取って、苦労が大切だ、人々はもっと苦労をすべきだ、という項目でよりそれを重んじるべきだとした人達から順に、本人の望み通り、優先的に苦労を負わせるシステムを作るってのはどうだろう。或いは平生から苦労が大切だと人々に触れ回っている者に、本当にそう思うんだな、と念を押し、それでもそう主張し続けたならば、やはり望み通りその者により大きなの苦労が伴う役割を担わせることにするとか。
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仮にこういった政策が実施されたら、自己責任を唱えながら苦労が大切だと主張していた者達は一体どのような反応を示すだろう。恐らく不平不満を漏らし、不公平だと言ってそれまで唱えていた自説をあっけなく覆すのではないだろうか。逆に、良かった、これでもっと苦労ができる、と言って喜ぶ姿は余り想像できない。

思うに、人が苦労の大切さを訴える時、そこでの苦労とは自分の苦労ではなく他人の苦労のことが想定されているのではないか。もしそれが自分の苦労を指すのであれば、わざわざ人に説いて回らずとも、一人で勝手に苦労をしていればいいわけだから。にもかかわらず敢えてそれをするというのは、もっと他人に苦労を味あわせたい、という願望の表われだろう。

苦労は大切なものであるという考えは、自分が受け取った苦労に意味づけをし、それが意義あるものだと思いたいという感情がその出自の一つとなっている。この苦労には必ず何らかの意味がある、そしていつかそれを肥やしとして花が開くはずだ、決して無駄にはならないはずだ、という妄想が人々に希望を抱かせ、それが人々の苦痛を和らげさせる。実際、予めそれが結果の伴わない苦労であると分かっていたならば、それを重んじる者は殆どいなくなるだろう。

問題は、その考えは自分一人で完結させるのは難しいというところにある。例えば、大きな苦労をしてきたはずの者達の多くが全く報われていないという状況が当たり前のこととなれば、もはや苦労に希望を見出すことはできなくなるだろう。また、成功者、或いは普通に生活を送ることが出来ている者達の多くが、自分がしたような苦労を全くしている形跡がないとなれば、不公平感を感じ、やはり苦労に希望を抱くことは難しくなる。要するに、希望を抱き続けるには自分だけではなく他人の様子もまた大きく関わってくる。

しかし、そういった本来希望を抱き続けることが難しい状況にあっても希望を紡ぎ続けることができる方法がある。成功を収めることができない者がいれば、その原因を苦労が足りないからだと結論付けてしまえばいいわけだ。そして大した苦労をしているとは思えないのに成功を収め、普通に生活をおくることが出来ている者達には、それに見合った大きな苦労を負わせ、帳尻を合わせればよい。つまり、他人に今以上の苦労を負わせることで苦労の中に希望を見出し続けることが可能となる。このような、希望を抱き続けるためには他人に苦労を求め続けなければならない、というような構造が存在している。そして希望は人にはなくてはならないものだ。つまりそれは、他人の苦労は自分の人生になくてはならないものである、ということにもなる。

さらに言えば、そういう方法で生きながらえたこの「苦労には意義がある(いずれ価値を持つ)」という希望は、やがて他人の苦労によって生み出される利益の恩恵にあやかりたい、という浅ましさを生み出す。そしてそれがまた総体としての苦労を増幅させることになる。ゆとりのせいで国が大変なことに、といったような主張は、基本的にこの手の欲求の表れだろう。それは「他人の苦労が足りないせいで自分の取り分が減る=他人にもっと苦労をさせ、それによって自分の取り分を増やしたい」と言っているわけだから。

 ▼幸福を求めるが故に人はメシウマする

物理的制限や人間由来の問題を考慮に入れて考えると、今のような時代において、苦労によって生活を底上げするなどということは実際には困難であるということは誰でも直ぐに気付いてしまう。だから苦労すればより良い生活が、などという希望はそう簡単には抱くことはできない。だがそれに対し、下方修正はわりと簡単にできてしまう。

よって、このような時代において人々が幸福を求める時、それは自身の生活環境をより良きものへしよう、という方向には動かない。そんなものは夢物語にしか過ぎないからだ。それよりも他人の不幸によって幸福格差を埋め合わせ、相対的にそれを是正しようとするベクトルでそれは作用する。だからこそ人々は苦労を重んじ、今日もメシウマ探しや帳尻合わせ(苦労の付与)に勤しんでいるわけだ。

負の連鎖

相馬の酪農家自殺、「原発なければ」と書き残し (読売新聞)

「生まれなければ」誰も苦しまず誰も自殺せずに済んだのに。この負の連鎖をどうすれば肯定することができるのだろうか。

人は幻想に溺れることでしか生きながらえることはできない

釣り - Wikipedia

* 釣り(電子掲示板)

インターネット掲示板で議論を盛り上げるために他人が憤りそうな話題をわざと出すのを「釣り」という例もある。逆に、発言自体は釣りではないのに、「釣り」のレッテルを貼って、その発言を無効化させる用法もある。

「インターネット掲示板で」とあるが、「他人が憤りそうな話題をわざと出す」ことで成り立っているのは何もネット掲示板だけに限ったことではなく、テレビや雑誌、新聞のようなものから、はたまた井戸端会議のようなものも含めて、それはあらゆるメディアに共通した事柄だろう。そして次はそこで生み出されたレッテルや盛り上がり方に対する対抗言説が出てきて、闘いが始まる。殆どのメディアはそういうある意味空虚でマッチポンプ的な活動によって生きながらえている。そしてその煽りや闘いで人の目を引く事ができなくなると、そのメディアは社会的な死を迎える。こういったことは、「他人が憤りそうな話題」を「他人を煽り立てる話題」と読み替えるならば、殆どの商品やサービス、思想体系にも当てはまる。

冷静になって考えてみると、こういった動きは実にバカバカしく思える。しかしながら、こういう「釣堀」で大漁旗をはためかせることができるからこそ資本主義は、そして社会は回り続けることができるという側面もある。そこで売り文句として用いられている効用が本当に得られるのか、それは本当に事実に即しているのか、或いはそこで述べられた大儀は本当に筋の通ったものなのか、という判断に対して多くの人間が本当に厳密な目を持ち始めると、人や物の動きは停滞する。何故なら、世の中には建前と内容が一致した活動やサービス、政策、規範などというのはそう滅多には存在しないからだ。そして人や物の動きが停滞すると、経済もまた停滞する。

結局のところ、人間社会においては、そこで説明された事柄が実態に則しているか否かなどということよりも、如何に活動を活発にし、それを持続可能にするか、ということの方が重んじられる。「生きる意味」は生まれる前には存在し得ないのと同じように、大儀があるから活動があるのではなく、活動が生まれるからこそ大儀が生まれ、むしろその活動を守るために大儀は――内容的にではなく、体裁的に――守られる。

しかしその出鱈目性が認識され、その不当性に囚われ始めると、活動を持続させ、状態を維持することは難しくなる。個人的にも社会的にも。つまり人間は、幻想に溺れることでしか生きながらえることはできない、そういう性質を持っている。

 ▼「釣堀」に穴を開ける行為

多くの社会問題はその幻想と実態との齟齬から生まれてくる。故に、それらの問題と向かい合うためには、その幻想に切り込まなければならない(別にそれと向かい合ったからといって問題が解決するとは限らないが)。だがそれは、既存の「釣堀」に穴を開ける行為でもある。だからこそそういった行為は忌み嫌われ、阻害される※1。そしてその阻害には、「幻想に溺れることでしか生きながらえることはできない」という人間の本質が関わっている。

実際、既存の「釣堀」に穴を開ける行為を行った人間もまた、別の「釣堀」に馴染むことができなければ生きていくことはできないだろう。自己が持つ状態の内容を建前と一致させようとすればするほど、その者の生命の存続自体が危うくなる。このことは、その人間が生き残ることができるか否かを分け隔てる一つの重要な鍵となっているように思う。



※1 その阻害は大抵、問題を個々人の問題解決の意欲の強さに置き換えることによってなされる。つまり、問題は既に解決しているのだが、其々の精神的未熟さ故に問題が生み出されている、というようなような形でそれはなされる。こういった、自己の状態は己の自由意志によってコントロールされている、という自由意志幻想は、近代以降の人間社会における最も一般的で、最も強靭な幻想と言っていいだろう。

正当性に固執すると逆に信頼性を失う

「あけましておめでとうございます」と言う人/言われる人達のうち、一体どれ程の人が本当におめでたいのだろう。
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実際に用いられる言葉は、その言葉が持つ本来の意味とは乖離した形で用いられていることが多い。同じように、実際に行われる行為は、その行為の大儀とされていることとは間逆の行いである場合も多い。よって、意味や行為の正当性に縛られ、この両者を一致させようとすると、身動きがとれなくなる。かといって、不一致に不当性を感じながら仕方がなく行為を行うと、その後ろめたさから動きがぎこちなくなり、挙動不審になる。となれば、その者がその集団の中で良い社会的ポジションを獲得することは難しくなるだろう。しかも、物事の正誤の判断にはその社会的ポジションが大きく関わってくることになるから、結果として、正当性に固執すればするほど、逆にその者の信頼性が疑われることになる。そしてそれによってさらに、今度はその者自身の正当性が問われることになるという悪循環。

――そもそも、大抵の人間はこういった不一致を特に意識することもなく、自然に行っている。それはその者が理屈ではなく感覚を参照して活動していることを意味する。つまり、元々平均的な感覚を持ち、それを参照して活動している者達の集まりの中で、(それを獲得できなかったが故に、元々不一致であることが多い)理屈を参照してその集団に順応しようとしたところで、その努力自体に既に大きな無理がある。そして無理があればその努力も長くは続かないだろう。よってそういった者のチャンスは、そのタイミングも期間もそれだけ限定されることになる。

自意識は自己をコントロールし得ない×「自己変革」という硬直化

まるで小さな悪魔 ロシアの野生ハムスターがやたら攻撃的(動画) : フィストリア

これもまた人生、か。断定はできないが、YouTubeのコメント欄にも指摘がある通り、このハムスターは狂犬病である可能性が高いのではないか。「小さな悪魔」はハムスターじゃなくてウィルスの方。その危険性を分かっていればこんな危険な賭けはしないのだろうが、人生というのはいつも後になってからその時の状態の意味を知ることになる。その時点で知らないものを知ろうとしても、何を知ればいいのかすら分からない。知らないものは見つけられない。よって必要なことを知るための努力はできない。逆に何か有益な情報を知ったとしても、それは知ろうしたから知ったのではない(後から自意識がそういう認識を作り出すだけで)。未来を見通すことができる預言者はいない。だからこそ其々は、「自由意志による自己決定」という自意識(内部)の奇跡に頼らず、外部における蓄積と構築物によって自己の状態を支えなければならない。いや、支えられている。
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 ▼(1)自意識は自己をコントロールし得ない

ここでこのハムスターとの接触を避けることができたとしたら、それはその時そういう状態が成立していただけの話で、それは自意識のお陰ではない。逆にこの者がそれを避けることができなかったのは、そのような状況が成立していただけの話であり、自意識が未熟だったせいでも危機感が足りなかったせいでもない。

もう何度も言っているし、これからも何度も言い続けるつもりだが――我々は誰一人として自分が生まれるか否かを選択することはできない。どのような環境と資質を持って生まれてくるかも、どのような経験を積むかも、何一つ選択できない。その経験がどのような結果につながるかも分からない。それは状態が成立した後になってから意味づけされ、評価されることだからだ。そしてその意味を「過去たる現在」から先取りすることはできない。だがそれによって其々の自己の状態は決定されていく。そこに自意識の介在する余地などありはしない。つまり、自意識は常に状況の後追いであり、後からそれに意味をつけて返しているだけであり、自己をコントロールする機能なんて端から持っていない。

もちろん、意味づけによるフィードバックは自己の状態にある程度影響を及ぼすことになるだろう。だが、それによって自己をコントロールしているなどとは言えない。何故なら、そもそもそのフィードバック自体が状況の産物であり、従属物であるからだ。つまり、原理的にいって自意識は自己をコントロールし得ない。自意識の原因が状況なのであって、状況の原因は自意識ではない(――これを否定するためには、輪廻による“状況から独立した魂の継続”という条件が必要になる)。だが其々の自意識は、自らがその状態をコントロールした/し得たのだと勝手に解釈する。この状況と認識の逆転現象こそが万能感の根源。

しかし、幾ら理屈上において自意識が自己をコントロールすることは不可能であるという明白な解答が目の前に転がっていても、殆どの自意識はそれを認めたりはしないだろう。そして自意識が事後的に生み出す認識とそれによる実感の方を重んじるはずだ。つまり、自意識とは天性の詐欺師でもある。そしてそれ故――万能感を非難の的にする者は多いが、それに反し――殆どの人間は自意識が持つその天才的な詐術によって万能感を維持し、それを抱えたまま死んでいく。「危機感」だとか「甘え」だとか「精神的成熟さ/未成熟さ」だとか、そういう自意識原因論は全てその者が持つ万能感の産物だと考えていいだろう。

しかし、自意識による自己の制御不可能性という現実を意味で覆い隠して見ずに済むのならば、むしろその方が幸いだろう。少なくとも事物の存在意義を「必要」に見出すとするならば、自己の制御者であることに存在意義を依存する「自意識として私」はその存在意義を失ってしまうわけだから。そもそも、自意識が詐欺師としての能力を失ってしまう――つまり万能感が消失してしまうのは、大抵その自己が大変な窮地に陥ってしまったが故のものであり、余り望ましい状態とは言えない。

 ▼(2)自己決定という名のギャンブル

しかし、自己は己をコントロールし得ないのだとしたら、それはどのようにしてより望ましい状態を手に入れればよいのか。まあ結論から言えば全ては運、としか言いようがないのだが、今更そんな分かりきったことを言ってもしょうがないだろう。だから一つの見方を提示すると…自己は原理的にいって、己の意思によって直接自己(内部)を変えることはできない(変えたという認識を持つことができるだけで)。だが――制御は無理だとしても――自己が己を変えることができる可能性が一つだけある。それは外部環境としての「何を入力すれば何が返ってくるか分からないブラックボックス」にボールを投げ入れることだ。そしてその「ブラックボックス」からどのような反応が返って来るか、という賭けをする。外部にシステムやロジックを構築し、知識や知恵の蓄積を行うことは、この賭けにある程度の規則性を持たせ、制御しようとする試みではあるだろうが、実際のところはそれもまたこの賭けに含まれるだろう※1

なんにせよ、自己という状況はその者が生まれ持った資質と環境の組み合わせの連続性の上に成り立っているから、その一方が変化すれば自ずと自己の状況も変化する。

要するに、自己が己を変えるには、一旦外部におけるギャンブルを経由しなければならない。そして誰もが日常的に、知らず知らずのうちにこの賭けを行っている※2。だが、「人生ギャンブル」は全員が違う条件でもってそれを行っているので、統一化された定石やオッズのようなものは存在しない。しかもそれはいつの間にか始まり、いつの間にか終わっている。その繰り返し。その結果として、狂犬病らしきハムスターに噛み付かれたりもする。或いは最善の選択をしたつもりが最悪の結果に繋がったりする。それが人生。そして現代社会ではその「人生ギャンブル」によって導き出された結果を、「自由意志による自己決定」と呼んでいる

 ▼(3)「自己変革」という自己の硬直化現象

とはいえその賭けが衰退すれば、即ち「ブラックボックス」にボールを投げ入れることができなくなればなるほど、自己は今現在の状態のまま硬直化していくことになる。つまり、自己が内部の変革(ex.自意識の成熟化)によって問題を乗り越えようとする時、それはその思惑に反し、現状維持によって問題解決を図ろうとしていることになる。もちろんそういう状態が生み出されるのもまた「人生ギャンブル」の結果によるものだろう。例えば、そのギャンブルで痛い目に遭えば遭うほど、学習によってそれに手を出さなくなっていく。また、初めから負けることが分かりきっている賭けにわざわざ手を出す者はいない。だからそのような環境に身を置く者は、極力ギャンブルに手を出すまいとする。だがその傾向が余りに強くなれば、もはやその者を取り囲む外的環境がその者以外によって投げられたボールで変化でもしない限り、その硬直化から抜け出せなくなる。

恐らく日本社会のこの閉塞感というのは、社会を構成する殆どの人間がこの「自己変革」というベクトルに大きく傾いているが故の結果だろう。

例えば、「社会を変えようとするよりも自分を変えろ」と周りに主張することは、その字議上の意味に反し、実際には自己(内部)ではなく他人としての社会(外部)を変えようとする行為だ。しかしそれは、今現在の外的環境が変化するのを妨げるベクトルに力を加え、変わるはずの外部を変わらないように変えようとすることであり、つまりその主張は、個々人の外部にある環境を今のまま固定化するべきだという訴えであり、誰かに「自己変革」という硬直化を迫るための訴えでもある。要するにこの「自己変革」とは、それを感覚として内面化する側だけでなく、それを外部に訴えかける側にとっての硬直化でもある。

 ***


日本社会がこの閉塞状態から抜け出すためには、外部に今までとは異なったベクトルを持つ環境を増やし、ギャンブルの参入者を増やすしかない。先に言ったように、初めから負けると分かっている賭けに乗る者はいない。日本のシステムにおける「人生ギャンブル」はトーナメント方式のようなものが殆どで、そこで負けると後はもう殆ど「負けると分かっている賭け」くらいしか残っていない。それでも多くの者は、その賭けを「一生懸命さ」の奇跡で乗り越えようとするわけだが、やがて疲弊し、脱落していく。そうやって「ブラックボックス」にボールを投げ入れる者がどんどん低減化していき、自己は、社会は硬直化していく。これが今現在の状態。

逆に言えば、もしかしたらよい結果になるのではないか、自分も参加できるのではないか、というような思いを抱かせるようなものがそこにあれば、自ずと人は集まってくる。つまり本当に他人の変化を望んでいる者は、より多くの者にそういう外的環境を成立させるようなベクトルを持つ主張を述べ、動きを取るだろう(この方法は詐欺師にも使われるわけだが)。だがそのようなベクトルでの主張や動きが活発化したことは未だかつてない。というか、おそらくそいういう動きが見られれば、一斉にそれを叩きつぶそうとするのではないか。すなわち、日本社会は未だ大きな変化を望んだことはない。

もちろん、外的環境が変わることが、自己が変化することが其々にとって良いことになるという保証は全くない。少なくとも大枠としての環境が変化すればするほど「人生ギャンブル」における不確定性もまたそれだけ増すことになる。そしてその環境変化への不安や恐怖が硬直化を生み出す。しかし同時に、この閉塞感を何とかしたいという思いもまた沸きあがってくる。その結果人々は「自己変革」に希望を見出すことになる。つまり「自己変革」への礼賛は、自己が持つ硬直化を維持しようとするベクトルと、変化したい/させたいという意思の衝突によって生み出される現象なわけだ。



※1 このギャンブルを完璧に管理しようとしたのが共産主義だが、その賭けは失敗に終わった。そして今は共産主義の代わり資本主義に規則性を依存し、それによってギャンブルを管理すべきだという考え方が主流になっている。だがこれもまた行き過ぎれば共産主義の失敗と同じ道を辿る運命にある。というのも資本主義的価値観の下では、あらゆる物や者はすべて商品として経済的価値の測りにかけられ、それによって存在意義が判断されることになるからだ。結果、“みんな”のためのシステム(共産/資本主義)に順応できず(役に立たず)その和を乱す者(経済的にマイナスをなす者)は排除、という同じ場所に辿り着くことになる。

※2 asahi.com(朝日新聞社):橋下知事「小さい頃からギャンブルを。国民を勝負師に」

小さい頃からギャンブルをしっかり積み重ね、全国民を勝負師にするためにも、カジノ法案を通してください」と議員らにカジノ合法化を求めた。

こんな主張をなす者もいるようだが、そんなことをせずとも、全ての人間はもう既に「人生ギャンブル」に巻き込まれている。そしてそのギャンブルの結果として今現在がある。確かにこの案は一つの変化をもたらすものではあるが、ここでの「ギャンブル」とは、「胴元が客から金銭を吸い上げるより大きなシステム」のことだろう。そんなものを作ったからといって、それが多くの者にとって良い結果に繋がるとは中々考え難い。むしろそれは更なるポジションの固定化を生み出すだけなのではないか。また、ここでは心的、経済的ダメージの蓄積という条件への配慮が完全に欠如している。そもそも、勝負師になれば上手く行くという考えの根拠はなんなのか。成功する勝負師なんてのはほんの一掴みのはずだ。だからこそ勝負師なのであって、そうでなければ勝負師でもなんでもない。これでは『カイジ』における兵藤和尊の「命はもっと粗末に扱うべきなのだ。丁寧に扱いすぎると澱み腐る」という主張となんら変わらないように見える。

「自由意志による自己決定」こそが自己責任の源

小6自殺、母に編んでいたマフラーで首つる : 社会 : YOMIURI ONLINE

世間の側に立つフリをして自分を守り、社会的ポジションを獲得した者は生き残り、自分よりも世間の側に立ち、その「正しさ」で自分を踏みつけにした者は死んでいく※1
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とはいえ、誰も好き好んで世間の側に立ち、自分を踏みつけにしているわけではないだろう。例えば切腹は何も自分の好きでそれをしていたわけではなく、そうせざるを得ないような状況に追い込まれるが故のものだ。それと同じように、世間の側に立って自分を踏みつけにしなければならないような状況が形成されるからこそ、それは行われる。

だが、「自由意志による自己決定」を前提とした近代主義的な世界観から見れば、そのような状況を招いたこともまた自己責任ということになる。こういった世界観に毒されている者ほど、窮地に陥った時、より激しく自分自身を踏みつけることになる。世界の秩序の中心にソレを備え付けるということは、自己が困窮していれば即ちそれは自分自身が選択を誤った(正しい選択のための努力を怠った)ことの結果であり、自分の責任だ、と認識せざるを得なくなるからだ。つまり、「自由意志による自己決定」を前提として物事を捉え続ける以上、自己責任からは逃れられない。

よって自己責任による自身への踏みつけ行為から脱却するためには、まず「自由意志による自己決定」に疑いの目を向けなければならない。しかしこの考え方は、近代社会におけるあらゆる常識や社会システムの前提となっている。恐らくこれを否定することこそが、近代社会における最大のタブーだろう。故に自己責任もまた否定できない。これが近代主義的な思想の限界であり、現代社会の様々な問題の行き詰まりにもまた、このことがかなりの割合でもって関わっているように思う。



※1 もちろん、環境が許さなくなればどの道死なざるを得なくなるし、一刻も早くこの苦痛を終わらせたいという思惑が働く場合もあるだろう。だがこの場合、一般的枠組みの外には、まだしばらくは生き残ることができる環境は残っていたはずだ。枠組みに残るのか死ぬのか、という二択は、世間の生み出す「正しさ」の内面化あってのものだろう。

大儀は内容ではなく活動によって保たれる

中国人観光客のバスを妨害 福岡、街宣車が取り囲む(朝日新聞)

 29日午後4時ごろ、福岡市中央区の福岡市役所前の路上で、中国人観光客らを乗せた観光バスの周辺に右翼団体の街宣車十数台が集まり、約20分間にわたりバスが足止めされる騒ぎがあった。街宣車から降りた十数人の男らが、バスをけったり、たたいたりして、「降りてこい」などと叫んだという。警察官が現場にかけつけ、バスは無事出発し、けが人はなかった。

 市などによると、現場には福岡市中心部で買い物などをした外国人観光客が集合し、バスに分乗してクルーズ船の待つ博多港に帰るところだった。ツアーには約1300人が参加しており、大半が中国人客だったという。

ある意味、ここには仕事の本質があるような気がする。

何をもって日本の利益とするのかは人其々の見方があるのだろうが、少なくとも国力という観点から見た場合、一番重要なのは経済力であり、それを無視することはできないだろう。よってこの場合、如何にして観光で訪れた中国人により多くのお金を日本に落とさせるか、ということを重んじてこそ、最も現実的な愛国的態度と言えるんじゃないだろうか。ところが、愛国という大義名分を掲げた者達が実際にここで行っているのは、むしろ日本の経済的利益を害する行為だ。

では、この者達のやっていることが全て間違いなのかと言えば、そうとも言えない。というのも、他国との軋轢が大きくなればなるほどこの人達のやるべきこと、つまり仕事が増えるからだ。そしてその仕事をこなすことによって、彼らは存在意義を保つことができる。人間としての誇りを得ることができる。だから他国の人間に憎悪を植えつけるのは、彼らにとっては営業活動であり、仕事作りであり、己の生活や存在意義を守る営みの一環でもあるわけだ。そうであるが故に、これはただ否定すればそれで済む、という単純な問題として見ることもできない。というのも、こういった状況の形成――それ自体が目的化した仕事第一主義――は特殊なものでもなんでもなく、むしろ非常に一般的なものでもあるからだ。

全共闘、港湾労働、そして牛丼:日経ビジネスオンライン

訴訟:賃金未払いなど、すき家側が認める--アルバイト3人訴え(毎日新聞)


例えばこの場合。元々低賃金のアルバイトにサービス残業をさせ、そのことを訴えられると、今度は盗み食いをしたという因縁をつけ、その者達を刑事告訴してみせる(これは結局不起訴になった)。そうやって組織の腕力によって不正の事実を握りつぶそうとするその企業が掲げる理念は、「世界から飢餓と貧困を無くす」だ。掲げた目的と間逆の状況を生み出しているという意味では、街宣車軍団がしていることと全く同じ。

このような状況を作り出しているのは別にこの会社だけに限ったことではないだろう。どの企業も私生活を犠牲にすることを求めていながら、より豊かな社会づくりに貢献するだの、人々の健康と生活を守るだのという大義名分を掲げている。そしてそこで働く人達の多くもまた、その主張を受け入れ、仕事をすることは社会をよりよくすることだ、などと言いってはばからない。まあ実際にそう思っている人間がどれくらいいるかは分からないが、表向きはそのように主張し、それがこのような形での営みを裏で支えているという側面もある。
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▼(1)嘘つきは文化の始まり、嘘の終わりは死の始まり

こういった、現状と余りにも乖離した歯の浮きそうな嘘が(是正されることもなく嘘のまま)まかり通り続けるのは、そもそも企業や世間――これは現代における「お上」に相当するだろう――にウケのよい振る舞いができない者は≪社会人≫としての門を潜らせてもらえない、大人として認めてもらえない、ということも大いに関係しているだろう。つまり、嘘(装い)が下手な人間はその枠組みの中に入れさせてもらえない。そうなればその者は、世間から「不逞の輩」として扱われ、苦々しい人生を送らざるをえなくなる。だから人々は「お上」へのおもねり能力に磨きをかけ、そうならないよう努める。そしてその努力――という名の実感――が成功体験として其々の持つ世界観に刻み込まれていくことによって、嘘はその者の中で徐々にマジになっていく。

そうやって嘘つき上手でないと生き残るのが難しい環境が作り上げられ、それを保全するような動きを取りながら、偽装問題が発覚すると「嘘を付くな」といって批判する世間の在り様を見るたびに、それは無理な要求だろう、と思ってしまうのだが…しかしながら、この嘘を付くことが下手だったりそれに抵抗がある人間をはじき出し、枠組みの内に入れさせない、というやり方――例えば面接試験/地獄の研修などは、正にその者が持つ対世間用の嘘の強度を測るためのものでもあるだろう――は、非常に理にかなったものでもある。というのも、活動の最中に本当のことを言い出す人間が出てくると厄介な問題が引き起こされることになるからだ。

例えば冒頭の街宣車軍団の中で、これってもしかして日本の国益を害する行為なんじゃないか?もしかして、この組織を解散することこそが、自分達ができる日本への最大の貢献なんじゃないか、などと言い出す人間が出てきて、それに賛同する者が増え始めると、そのプロジェクトはそこで終わってしまう。プロジェクトが終わってしまえば仕事がなくなり、その仕事に存在意義を依存している者達は、己の存在意義を失ってしまう。それはまずいだろう。だからそういった正直者の悪い種を組織の中に侵入させてはいけないし、万が一そういう悪い芽が内側で育ち始めたら、即刻除去せねばならない。

これは一般企業においても同じことだ。――「貧困を無くす」と言うからには、まずできることとして、自社で働く者達の給料を増やすべきなんじゃないか。低価格競争はデフレをより推し進めることになるからやらない方がいいんじゃないか。より豊かな社会を作るためには、個々人の生活を第一に考えなければならないんじゃないか。…などと言い出す人間が出てきては困るわけだ。多くの者がそのプロジェクトに生活と存在意義を依存している。だから決してそのプロジェクトを終わらせてはならない。そしてプロジェクトの存続を最優先にすると、非道な行いもやむなし、ということになる。だが、むき出しの非道ばかりだと、世間から、或いは己の良心から非難を浴びてやがてそのプロジェクトは破綻する。それを避けるためには大儀が必要になる。その非道さを覆い隠すことができる、より大きく漠然とした大儀が。例えば「世界から飢餓と貧困を無くす」ためとか、「社会をより豊かにするため」とか、「国家の繁栄のため」とか。或いは逆に、より大きな大儀を実現させるためには、先ずそれを実現させることができるほどの大きな力が必要であり、そのためには手段を選んでいる余裕などない、という形でそれが機能している場合もあるかもしれない。

その際にこしらえられる大儀は、漠然としてさえいれば、さほどもっともらしいものでなくともよい。おかしな話で、誰もが嘘(理に合わないこと)だと分かっていてもそのことに言及してはならない嘘があるし、そうやって嘘を付き続けていると、やがてそれが文化や規範へと成り代わり、還流して来たりもする。そしてその嘘の還流物を受け取ることで、人は自分の付いた嘘を嘘ではなかったかのように認識するようになる。その時その嘘はもはや、つこうとしてつく嘘とは一線を画したものになっているわけだ。

要するに、非道な行いと立派な大儀は、理屈上反目していても、機能的には共謀関係を結んでいる場合も多い。正しいから活動するのではなく、そこで形成された状況を維持するために「正しさ」が生み出される。活動しているから「愛国者」なのであり、活動しているからこそ≪社会人≫でいられる。そしてその肩書きが活動の「正しさ」を担保し(「正しさ」の根拠として属性や社会的地位を持ち出さずにいられる人間はそうはいまい)、その「正しさ」が立派な大儀をこしらえる。つまり、大儀があるから状況が作り出されるのではなく、状況が大儀を作り出し、それを守っている。これは、実質的には活動そのものが大儀に成り代わっているということでもある。例えば、私は仕事している、だから正しい、というように(そしてそれ自体が大儀に成り代わった「仕事」や「労働」もまた、例によって中身を表さない漠然さと、「社会のため」という諸事を覆い隠す大きさを持っている)。

これは活動の根本である「生きる意味」にも同じことが言える。人間は別に意味があるから生きているわけではない(人間が神の作ったゲームの駒であれば話はまた別だが)。意味があるから生きているのではなく、生きているうちに何かしらの充実感が生まれ、やがてその実感は「意味」という肩書きを獲得し、恰もそれが予め用意されていた大儀であったかのように認識されるようになる。つまり、状況を継続させることができるからこそそれは「正しさ」となり、その「正しさ」から逆算して大儀が生み出され、大儀があるからこそ状況を持続することができる。その循環が断ち切られるとそれはそこで終わってしまう。であるが故に、人は嘘をつき続けなければならない。何故なら、嘘の否定はその循環を断ち切る行為であり、それはそのまま、その状況の継続に存在意義を依存している者達の存在もまた同時に否定することになってしまうからだ。故にその断ち切り行為は、自己否定及び、他人の逆鱗に触れる行為に等しい。現代社会に身を置く人間は、そういった「生き延びたければ嘘を付け、自分を騙せ。それができなくなった時がお前の死の始まりだ」みたいな状況に置かれている。

▼(2)活動への批判が活動のための燃料となる

で、再び冒頭の街宣車軍団の話に戻すと、≪日本≫を守っている彼らは、日本における「正しさ」の象徴である≪社会人≫の門を潜らせてもらえず、「不逞の輩」としてつまはじきにされた者達でもある。そういった者達が日本に人生を賭けているというのはなんとも皮肉な話にも思えるが、しかし、日本によってつまはじきにされた者達が≪本当の日本≫を守る、と称して日本に仇名していると見るなら、それはある意味当然の話とも言えるだろう。結果としてそれは報復になっているわけだから。

さらに言えば、自己の存在意義を「≪社会人≫として国のために働く」ことくらしか見つけることができなかった者達は、そうである以上、幾らその国の社会からつまはじきにされようとも、それを手放すことはできまい。その場合どうなるかといえば、売国奴の手に落ちた「偽の日本」によって自分達はつまはじきにされ、そしてその売国奴の手から≪本当の日本≫を取り戻すことこそが自分達の使命(仕事)だ、として、己の置かれた状況と獲得した存在意義とを一致させることになる。それが冒頭のああいう活動に繋がる。である以上、それをストレートに批判したところで、彼らはそれを売国奴からの攻撃として認識することになるだろう。故に、批判すればするほど、むしろそれがあの手の活動への燃料補給となってしまう。そしてその活動が彼らに誇りと生へのモチベーションをもたらし、それがさらに「生きる意味」となり、活動の源となる。冒頭で「否定すればそれで済む、という単純な問題として見ることもできない」と言ったのは、その裏にこういう構造が成立しているであろうからだ。

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はてなブックマーク - asahi.com(朝日新聞社):「命の値段」、非正規労働者は低い? 裁判官論文が波紋 - 社会

fromdusktildawn 現状では、働きたくないでござる厨の29歳の引きこもりキモオタニートが、重度の障害を負うように上手に車にぶつかれば、才能+努力+運に満ちあふれた前途洋々のイケメン正社員と同じ額の逸失利益をもらえるわけだ

ただ、愛国者による売国奴との戦いも厄介だが、自分としてはこの手≪社会人≫による「不逞の輩」との戦いの方がずっと厄介に思える。なんせ活動人数が桁外れに多いし、日本中常にどこでも行われていて、逃げ場はないのだから。

そもそも当たり屋なんてものは、コミュニケーション能力に秀でた人間にしかできないだろう。それも大抵は組織的に行われる。むしろコミュ能力が低い人間は、事故に遭っても言いくるめられ、泣き寝入りさせられる可能性も高い。よって、脅威の対象として想定するなら、むしろコミュ能力の高い人間を見立てた方が筋が通るはずだ。コミュ能力が無いが故に孤立している者が、こういった犯罪を主導するというのはちょっと考えづらい(行く先がなくなった者が、捨て駒として組織に雇われることはあるかもしれないが)。しかし何故か、そういうこの手の犯罪と最も縁遠い場所に位置するであろう属性を持つ者が、しかも実際には起こってすらいない――というか、「重度の障害を負うように上手に」ぶつかるなんて計算してできるものでもないだろう――事件の引き合いに出され、断罪される。捏造や妄想を元にして対象を断罪する、或いは見当違いの対象に攻撃を加えるというのは、別に街宣車軍団や(正に活動自体が目的化していた)大阪地検特捜部の専売特許でもなんでもなく、多くの「普通の市民」にもまた共有された日常的行為でもあるわけだ(つまり、街宣車軍団や大阪地検特捜部が行ってきたソレは、決して特殊なものとは言えない)。

で、ぶった方がぶたれた(被害に遭った)と言って泣くとはよく言ったもので、恐らくこの手の人達からすれば、無職なんてのはその存在自体が不正行為であり、それ自体が日本社会への攻撃であるかのように認識されているのだろう。だからその攻撃に、被害者として反撃する。そもそも、「≪社会人≫として働くことに存在意義がある」と思っている人間からすれば、無職なんてのは存在してはならない者であり、ただそこにいるだけでアウトなわけだ(その存在を認めることは自己否定に繋がる)。つまりこういったものは、不正を正し、「社会をよりよくするため」の戦いでもある(でなければそれはただの嫌がらせにしかならない)。本来、非正規労働者はもちろん、無職であっても、企業に仕える「サムライ」としての≪社会人≫ではないものの、社会人であることには違いはないはずのだが、街宣車軍団が社会を愛国/売国で分け隔てるように、社会人もまた常識によって社会人/非社会人に分類されるわけだ。

自分としては、こういった≪社会人≫による「不逞の輩」との戦いが、せめて街宣車軍団くらいの頻度や規模になってくれればと思うわけだが、まあそれは無理な願いなのだろう。おそらく、街宣車軍団がそれを止められないのと同じ理由で、彼らもまたそれを止められない。そしてそれへの批判は、≪社会≫批判として、さらなる戦いの燃料となる…と言いながらもこうやって燃料を投下しているのは、まあ自分もこういう下らない戦いに参加することくらいでしか存在意義(生への実感)を確認できない者だからなのだろう。

嫉妬が生み出す厳罰感情

ニュー速クオリティ:ノルウェーの刑務所がヤバイ、とにかくヤバイ

81 ソラスズメダイ(愛知県) 2010/05/14(金) 01:57:13.60 ID:Nzuoeumn
ノルウェーで悪いことしてくるわ

92 ゴマモンガラ(石川県) 2010/05/14(金) 01:59:52.85 ID:ou9VPnO+
ノルウェーって一番重い刑でも懲役21年とかなんだよな
軽すぎるだろ

220 オニイトマキエイ(東京都) 2010/05/14(金) 02:43:31.79 ID:5He5ZM5x
一般的な社会は先進国最低だろうけど、刑務所なら日本はそんなに悪いほうじゃないだろ
健康診断とかもちゃんとするし、労働時間も法律の範囲で決まってるし、食事は栄養バランス考えて作られてるし
読もうとすれば、本とかだって読めるし
一般的な日本の労働者に比べれば、賃金以外はかなりまともな生活送ってるよ

228 タイガーレッドテールキャットフィッシュ(catv?) 2010/05 /14(金) 02:45:29.15 ID:7hizmKEr
>>220
日本の労働者より受刑者のがまともな生活だからなw
アメリカの刑務所は借金負わされたりするw無限ループが待ってる

276 オニイトマキエイ(東京都) 2010/05/14(金) 03:04:01.73 ID:5He5ZM5x
犯罪者をどうするかってのは、世界的に解決されてない問題だからなぁ
放って置いたらまた犯罪して一般人に危害を加えるだろうから、行政が自立支援はせざる得ない
かといって、犯罪したら即死刑か終身刑なんてわけにもいかないし、
結局、やったもん勝ちみたいになってるんだよね、今のシステムは

犯罪行為を「やったもん勝ち」と評する意見は結構よく見かける。しかしこれは全く妙な主張だ。というのも、「やったもん勝ち」というのは先行者が有利になる状況を指して言うものだろう。犯罪行為の一体どこにそのような要素があるというのだろうか?今まで犯罪とされていなかったものが後に犯罪と規定されたことに対し、「あれはやったもん勝ちだった」と後から振り返るのなら分かるのだが。

まあ、犯罪を行って捕まらない人間もいるわけで、そういう状況を指してそのように言うのは分からなくはない…が、その状況を成立させるためには、その者がそれなりの特殊なスキルや条件を持ち合わせていることが必須となり、誰にでも出来ることではないため、やはり「やったもん勝ち」ということにはならない。
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▼(1)実際上の≪包括的犯罪行為≫と想像上の≪純粋犯罪行為≫


大体、本当にそれが「やったもん勝ち」だと思うのなら、やればいいじゃない。勝てばいいじゃない。しかしそう言っておきながらやらないのは、「絶対に儲かりますよ」と他人に言って置きながら自分はやらないのと同じで、結局本音では「やったら負け(割に合わない)」と思っているからだろう。

じゃあ何故、自分が割に合わないと思っていることを実際に行っている者に対して、恰もその者が得をしているかのように言う(感じる)のか。恐らくそれは、純粋な犯罪行為と、必然的にそれとセットになって付いてくる様々な条件――社会システムによって罰を受け、ハンデを背負わせられる可能性や、民衆に娯楽としてリンチされる可能性が高まる/罪悪感を感じることによって精神的に消耗する/衣食住に不自由している/犯罪行為でしか欲求を満たせない資質を有している、など――を切り離して考えているからだろう。そしてそれらを全て切り離した、実際には存在しない想像上の≪純粋犯罪行為≫による利益や快楽の取得だけを見ている。

つまり、自らの行動上における犯罪行為の可否は、それに伴う様々な条件を加味した≪包括的犯罪行為≫を見て判断をしている一方、他人の犯罪行為に対する損得勘定に関しては、想像上の≪純粋犯罪行為≫だけを見て判断を下している。だからこそ、自らは損をしないようにと忌避した行為を他人がしていると、その者が得をしているかのように思える。

――実際には、自意識によってそのように認識されているだけであって、人間の行為は必ずしもそういう理屈上における損得の打算だけで決定されているわけではないが。

▼(2)犯罪の果実への羨望、「勝者」と「敗者」の入れ替わり

ここで一つハッキリするのは、犯罪行為を「やったもん勝ち」と評する者は、他人の犯罪行為に対してある種の羨望を持っているということだ。わざわざ犯罪行為を実際には存在し得ない≪純粋犯罪行為≫にまで分解し、それを使ってその行為者を「勝者」に仕立て上げて羨むほどの、強い羨望を。そしてそれを羨むということは、そこに何かしらの――“善い”ではなく――“好い”を感じている証左だろう。何故なら、あらゆる意味でそれが“悪い”ことであるなら、その“悪い”を取得してしまった者を「勝者」と称したりはしないはずだから。ただ単に“悪い”ものを獲得してしまっただけなら、その者は「敗者」になるに決まっている。つまりこれは、犯罪行為の“悪”の中には、実は“好い”が含まれているということを意味する。

犯罪行為を包括的に見た時、それが“悪い”のは当然だ。これは単に道徳的に“悪”なだけではなく、具体的な損得勘定の上でも“好い”ものとは言えまい。何故なら、犯罪者がその行為によって取得するのと似たような利益や快楽を、犯罪という危ない橋を渡らずに手に入れている人間は幾らでもいるからだ。一口に犯罪者と言っても様々ではあるが、結局それらの人間は、一般道徳上においてはもちろん、そういった実際の一般的損得勘定の評価の上でも「敗者」であると言えるだろう。そして逆に、犯罪に手を染めずに済む者は基本的に「勝者」である。

しかし、これはあくまで犯罪行為を包括的に見た場合においての話だ。そうではなく、もし≪純粋犯罪行為≫上で両者を見比べてみた場合どうなるか。その場合、その行為によって利益や快楽を得た犯罪者は、ただ“好い”のみを獲得した「勝者」となり、それを行わなかった者は、その“好い”を獲得できなかった「敗者」ということになる。つまり、≪包括的犯罪行為≫を前提としてものごとを見た場合と、想像上の≪純粋犯罪行為≫を前提としてものごとを見た場合では、その「勝者」と「敗者」がそっくり入れ替わってしまう。だからこそ、一般道徳や損得勘定上での「勝者」が、本来「敗者」であるはずの犯罪者を、≪純粋犯罪行為≫によって“好い”を獲得した「勝者」として羨むという、ねじれた状況が生じてくる。

▼(3)
    とある強者の厳罰感情(ルサンチマン)

では、何故こういったねじれが生じてしまうのか。それは、その者が犯罪行為の全てを本心から拒絶しているわけではなく、そこに含まれる“好い”に魅力を感じ、他人がそれを獲得するのを羨みながらも、一般道徳や常識という呪縛に縛られているからという、どちらかというと消極的な理由でそれを為さないでいるからだろう。そのせいで、「総合的に見ると結局損をしていることにはなるが、とはいえ、犯罪者がそれによって得た利益や快楽だけを切り離して見ると正直羨ましくなる」というように、素直にそれを羨むことすらできない。他人から押し付けられた一般道徳や常識によって「自由」が奪われているが故に。その奴隷であるが故に――というのも、もしそれが他人によって押し付けられたものではなく、己自身の道徳観に基づく抑制の結果であるなら、他人がその行為によって何かを得たところで、全く羨む必要などないはずだから。

そしてこの「自由」という要素に着目し、「行為と利益の取得」を見てみた時、一方は他人から与えられた道徳や常識という呪縛を打ち破り、自らが欲した果実を手に入れるだけの強さを持っていた強者ということになる一方、他方は、その果実に魅力を感じながらも、他人から押し付けられた規範に立ち向かう勇敢さも、その呪縛を打ち破る力もなかったが故にそれに手を伸ばすことができなかった、弱者ということになる。しかもその者は、他人が手に入れたその果実に対する羨みを、ストレートに表現する力すら持っていない。つまり、他人に押し付けられた道徳や常識に束縛されているが故に犯罪行為を抑制している者は、その点において全く無力なのだ。だが、そうであってもやはり羨み自体が消滅するわけではない。だからどんどんフラストレーションは溜まっていく。となれば、何とかしてそれを解消しなければならなくなってくる。

そしてそれは、総合的見地から割に合わないものとして自らが忌避した行為を、――「日本の労働者より受刑者のがまともな生活だからなw」というように――割に合う行為であったかのように価値を反転させた上で、それを手に入れようとすれば簡単に手に入ったのに、強い自制心によって敢えてしなかったとして、他人から押し付けられた道徳の呪縛を打ち壊せない弱さが故の結果を、想像上で、欲に負けないストイックな強さの結果、に置き換えることで解消される。その価値の反転は既に述べたように、包括的状況と部分的状況を比較するという手法によってなされる。

しかしながらこの反転は、欲に負けた弱い心を持っていた方が得をし、強い自制心によって道徳的な「正しさ」を守った方が損をしている、という認識を生み出す。それが人々の不公平感を刺激する。それによって、ただの羨みであったものは――道徳によって外出を禁止されていたそれは――嫉妬に変換された上で表に姿を現すことになる。しかも犯罪者が手に入れている≪純粋犯罪行為≫による利益や快楽は、想像上にしか存在し得ないものであるが故に、例え実際に自分が犯罪を行ったとしても決して手に入らない、そういう貴重性を持っている。その上そこには、背徳感とセットでしか手に入らないプレミア的快楽も含まれるだろう。それを犯罪者は手に入れている(ことになる)わけだから、余計にその嫉妬は強くなる。となれば、何とかしてその「不公平」を埋め合わせようとして、その結果、厳罰化が叫ばれるようになるのは必然的な流れだろう。

即ち他人への厳罰感情というのは、ルサンチマンの一つの形なわけだ。

――まあ「276」自体は別に厳罰化を唱えているわけではないし、この「まとめ」の上では、厳罰化を望む声はさほど強くはないけど。だが、一般社会において、不公平感から生じた厳罰化への欲求がどんどん強まっていることは、今更言うまでもないだろう。

▼(4)虚構の不公平を埋め合わせる「罰としての嫌がらせ」

とはいえ、ここでは別にルサンチマン自体を批判したいわけじゃない。ルサンチマンというものは、人間の資質がある一定の環境におかれた時に必然的に形成されるものだから、それ自体は批判の根拠にならない。それを指摘するということは、怒っている者に対して「怒っている!」、笑っている者に対して「笑っている!」と指摘するようなものでしかない。

そうではなく、自分がここで言いたかったのは、ルサンチマンというのは必ずしも所謂「弱者」だけが抱くものではないということ。そしてもう一つ、自身が持つ包括的状況と他人が持つ(都合の良いものだけを選り分けた)部分的状況を比べるようなことをすれば、それによって不公平感が生まれてくることになるのは当然だということ。そしてそのような形での比較を止めない限り、どんどん虚構の不公平が生まれて来て、それが人々を厳罰化の欲求の渦に巻き込んでいくことになるのは避けれらないだろう。

これは別に犯罪に絡む事柄に関してだけの問題ではない。ごく一般的な人々が送る社会生活の上においても、そのような比較から生じた不公平を埋め合わせするための「罰としての嫌がらせ」が行われたり、或いは誰かの不幸が、罰による不公平の埋め合わせであるかのように言われたりするようなことは、よくある。「叩き」なんかも、その埋め合わせの一つの形として行われている、という面もあるだろう。

ニート、ひきこもり、障害者などが叩かれるのも、多分、単純にその属性が蔑まれているからだけではない。その叩きには、ある種の嫉妬心や不公平感が関連していると考えて間違いないだろう。自分はこれだけ(他人から押し付けられた道徳的要求に応えるために)苦労しているのに、あいつらそれをしないでいてズルい、というように。しかしながら、そういった不公平感が生まれるのは、それらが持つほんの一部分だけを切り取って、そこだけを見ているが故のものだ。そしてそれは、その者が他人に押し付けられた道徳に逆らうことができず、それによって苦しめられながらも、その道徳に依存した形で己の「正しさ」を獲得しているが故のものでもあるだろう。

「自意識(認識)=自分(状況)」ではない

はてなブックマーク - とあるアイドルの話。

Amerikan 「大変だ!ゾンビが襲ってきたぞ!」と言いながら、既にゾンビに噛まれていて感染していた人の図(ということでいいのか)

言い得て妙。

しかし、こういったことが起こってくるのは必然的なことと言えるだろう。というのも、起こっている状況に後から意味づけをして返すことこそが自意識の主な機能であり、それは“自分という状況”を思い通りにコントロールし、管理する力なんて端から持ち合わせていないだろうから。勿論、意識化によるフィードバック効果で“自分という状況”にある程度影響を及ぼすことは出来るだろう。しかしそれとて単独で“自分という状況”を大きく左右することが出来る程の力までは持っていないはずだ。「自分」は、個体と環境との関係性に規定され、その状況が成立しているわけだから。そもそも自意識は常に状況を受けて受身的に作り出されているものだから、意識化すらコントロール出来ているとは言えないかもしれない。むしろそれは、ただ環境の副次的産物として存在しているだけと言った方がいいようにも思う。自意識が「自分」を上手くコントロールすることが出来ていると感じるのは、“自分という状況”の在り様と自意識が認識する欲求のベクトルがたまたま似たような方向を向いているが故に起こる、単なる錯覚でしかないだろう。

例えばこの場合、「ゾンビ」に噛まれて既に自分も「ゾンビ」になっている、というのがこの人(自分)のおかれた状況なわけだが、自意識はまだ(この記事を書いた時点では)そのことに気づいていない(――もちろん、他人の内面を覗くことは出来ないので、あくまで記事の内容から判断すれば、の話だが)。「自意識(認識)=自分(状況)」ではないため、“自分という状況”と自意識の認識の間には自ずとズレが生じてくるわけだ。そしてもし、当該人物が自身のおかれた状態に気づいたり、それによって「ゾンビ」であることが解消されたとしても、それは他人(或いはそれらが発する情報)や時間経過などの環境との関わり合いの中でその状況が生み出されているだけであり、自意識は後からその結果を認識するだけに過ぎないだろう。所詮自意識が持っている力なんてのはその程度のものなわけですよ。

まあだから、自意識自体を的にして行われる自意識批判(それは裏を返せば、自分の自意識の方が優れている、という自意識の優劣競争でもあるだろう)は下らない、と思うのだが。何故なら、その批判が批判として成立するためには、自意識は“自分という状況”を上手くコントロールし、管理することが出来るだけの力を基本的に持っている、という前提条件が成立していなければならない。それはつまり、自意識が――例えば霊魂のように――個体や環境から完全に独立したものとして存在しているという条件と、尚且つそれが個体と環境との関係性に割って入り、その状況決定を大きく左右するだけの絶大な力を持っている、という二つ条件がその前提として必要になるということでもあるわけだが、そんな前提条件が実際に成立しているとは到底思えないので。

逆に言えば、霊魂が存在していて、それが誰かに憑依してその者を大きくコントロールすることが出来る、というようなことを主張する者がその流れで自意識批判をするのなら、それは一応理屈としては筋が通っているようにも思う。その考え方の上では、自意識(霊魂)が独立して“(個体としての)自分という状況”をコントロールすることが出来る、ということが前提になっているから。ただその場合、この世界ではどちらの魂が強いか、という魂力合戦みたいなものが常に起こっていて、肉体はそれらの代理戦争を行っているだけに過ぎない、ということになるが。「ソウルパワーたったの5か、ゴミめ!」「私のソウルパワーは53万です」みたいな。そういう意味では、『ドラゴンボール』の世界においてあの世が存在し、肉体を失っても強さがそのまま継承されるというあの設定は非常に理にかなっているわけだ。

自己防衛のための同一化と「積極的踏み絵踏み」

Twitter / 岩屋たけし: 「自民党が徴兵制を検討!」なんていうニュース

「自民党が徴兵制を検討!」なんていうニュースはガセだが、「徴用制」なら検討の価値はあるかも。つまり、一定期間を国家社会のために費やす仕組みを設けるという案だ。介護でも森林整備でも海外協力隊でもいい。現政権の政策は国民をいたずらにスポイルし、腑抜けにしてしまうような気がしている。

「労働の義務」も「徴農制」もそうだけど、こういう主張って、「人民は国家の共有財である」という思想が根底にないと中々出てこない主張だよなあ。そういう考えがあるからこそ、国家の頭脳として相応しい私が、共有財としての人民の有効活用法を提案してみせましょう、とか、人民を甘やかしてはいけません、というような意味を持つ主張を平気な顔をして述べることが出来る。

しかしながら、「徴用制」で国家運営や国民生活を維持・向上させることが出来るような「甘い」現実があるなら、誰も政策で悩まないし、今頃世界中で資本主義の代わりに共産主義が大流行しているはずだ。要するにこの考え方こそが正に甘い見立ての上に展開された共産主義思想そのものなわけだけど、どういうわけか、そういう思想を持つ者が内容をそっちのけにした単なるレッテルとしての「共産主義」や「甘え」を用い、他人を批判するというような現象がよく見受けられる。
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 1.倒錯型批判

こういった現象は他の用語を巡っても見られる。

例えば「依存」。機能的に見れば、社会システム、資源、組織(群れ)、文化、様式、一般的思想・感覚傾向などへの巧みな依存の在り様を「自立」と言うわけだが、そういう状態を獲得するに至った依存上手な人間ほど、他人の依存性を悪しきものとして批判するというような傾向がある。そこでは、本来なら依存の難渋性や内容の偏り具合、継続困難性こそが問題とされなければならないケースにおいて、何故か依存そのものが問題とされ、批判がなされる。

つまり、機能的には依存の一形態であるはずの「自立」がイメージ上で依存と対立するものであるかのように捉えられてしまう――もちろん概念上では依存と自立は対立するものではあるが、実際には人間は依存なしに生きてはいけない――ために、依存上手である者が、自らが依存上手であることを正当性の根拠として、依存下手な人間を「依存」というレッテルの名の下に批判するというような倒錯した現象が起こる。だが、もし本気で依存や自立について考えてみたならば、それを思想のレベルにまで引き上げて俎上に載せてみたならば、それが如何におかしな主張であるかということに直ぐに気づくはずだ。「自立」が持つ「甘い」イメージを払拭した上でそれを捉えることが出来るはずだ。ところが実際には中々そうはならない。

 <自意識原因論思想が背後にないと、自意識批判は成立しない>

他にも「自意識過剰」なんかが、こういった倒錯型批判のレッテルとして用いられることが多い。本来、誰かが自意識過剰という状態に陥っていることをもってしてその者の自意識を批判するなんてことは、「自意識過剰ではない優れた私の自意識を見て!」という自己言及でしかなく、批判としては成立し得ない。しかし実際には、そういう倒錯した自意識批判が後を絶たないという。

――そもそも、社会的関係性よりも個人の自意識こそがこの状況をこの状況たらしめている主原因であり、故に自意識はこの状況を制御している/することがことが出来る、というような(セカイ系的な)自意識原因論思想に立たたなければ、其々の自意識に優劣を付けるなんてことは出来ないはずだ。何故なら、その思想の担保無しに行われる自意識批判は、単なる人格批判にしかなり得ないのだから(状況形成ベクトルの決定に大きな影響力を持たないはずの自意識をその状況を導いた者として批判するなら、それは中傷でしかない、ということになる)。つまり、その批判が人格批判でないとするならば、自ずとその者は自意識原因論思想を背後に持っているということになる。そうであるからこそ、個人の自意識に焦点を当てた物事の見方が採用される。だがそこでもまた、その思想を足場にしながら同じベクトル上にある「セカイ系」的なものを、未熟な自意識だとして、自意識に焦点を当てた形で批判してみせるという、何とも倒錯した批判がよく見受けられる※1

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一般的には、自分と似たような性質を持っている者を忌み嫌い攻撃するというこの手の現象は、同属嫌悪という概念を使って説明がなされることが多い。これは要するにアレルギー反応のようなものと考えてよいだろう。つまり、ある性質を持った者が、それを持っているが故に、単なる上辺だけの知識ではなく、自らの感覚を通して直接深いレベルでそれが持つネガティブな面を知ってしまう。その結果、その感覚とそれを否定する感覚とが内部で激しくぶつかり合い、アレルギー反応が起こる。そういった状態に陥った者が、自身が持つ否定されるべき感覚や性質を彷彿させる存在と接触してしまうと、その感覚がざわつき始め、より反応が悪化することになる。だから似たような属性や感性やを持つ者を、そうであるが故に憎まざるを得なくなる。

 2.自己防衛のための同一化と「積極的踏み絵踏み」

しかしこの現象――倒錯型批判の発生――を同属嫌悪だけで説明してみせるのならば、それはちょっと乱暴すぎるようにも思える。まあそれも一つの要素としてはあるのだろうが、ここで挙げた例などは、むしろ自己防衛反応が元となって生じている現象と捉えた方がもっとすっきりと説明がいくのではないか。

例えばここに挙げた「共産主義」や「甘え」「依存」「自意識過剰」「セカイ系」といった単語は、世間的に余り良いイメージをもって受け入れられていない。それ故、その“汚名”を着せられた者が糾弾される様を多くの者が目の当たりにして来たことだろう。或いはそういう予感くらいは感じてきたはずだ。だがそういった経験を積み重ねて行けば、自身もまたその肩書きを背負わされ、糾弾されるのではないか、という恐怖心が芽生え、精神的に不安定な状態な状態が作り出されることになる。そしてそれと同時に、そのような状況を如何にして回避するか、という課題が生み出される。

しかし精神論的にその恐怖を克服しようとしても、それが意識化されて感覚にフィードバックされるだけで、むしろ益々恐怖感が増幅され、より不安定な状態へと導かれる可能性の方が高い。また、仮にそれで幾ら精神的に強く――正確に言えば鈍感に――なることが出来ても、実際にその矛先を向けられてしまえば(集団内で)社会的に不利な状況へと追い込まれてしまうことは避けられず、問題は全く解決しない。

じゃあ一体どうすればその危機を回避することができるのか。一番合理的な方法は、自らが糾弾する側に回ることだ。糾弾する側と心情を一体化させることが出来れば、恐怖心を払拭し、精神的な安定を保つことが出来る。そして自ら率先してターゲットを見つけ出し、その者を糾弾して見せれば、積極的に進み出て踏み絵をガンガン踏みつけて見せれば、自身がそのレッテルを貼られ、ターゲットとされる可能性を低減させることができる…かもしれない。だからこそ、世間的に悪いイメージを持つものを踏み絵として、単にイメージが悪いからという理由だけで、その内容如何にかかわらず取り合えず踏みつけてみせる、というような現象が起こってくる。或いは、その者がレッテルを貼り付けられても、例えば「私はこの依存を恥ずかしいことであると思っていて、自立に向けて一生懸命頑張っています」「甘えたの自分が、自意識過剰な自分が全て悪いんです」という態度を採り、それを踏み絵として踏みつけてみせることで、己の“潔白”を晴らそうとする。そうやって矛先から逃れようとする、そのための行為としての対象批判が巻き起こる。

つまり、自己防衛反応として生じる趨勢側への心情的・振る舞い的同一化を出自とする、思想とは別レイヤーから巻き起こる批判やバッシングというものが存在するのではないか※2。しかし、その同一化は所詮思想とは別レイヤーで起こっているものでしかないため、必ずしもその過程において思想までもが同一化されるとは限らない。その結果、その者が自己防衛のための同一化によって矛先とするその思想が、実は自らが信念として抱え続ける思想そのものだった、というちぐはぐな結果が生まれてくることになる。そしてその同一化のための踏み絵踏みが新たな恐怖や危機感を生み出し、さらなる「積極的踏み絵踏み」を再生産するという構造。倒錯型批判が後を絶たない一つの原因として、そういうものがあるのではないか。

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以前の記事で、日本は感覚趨勢主義である、というようなことを言ったが、人々からこういう恐怖心や危機感が払拭されない限り、結局議論はただのイメージ合戦に陥り、思想や理念を世間的なイメージの良し悪しではなく機能や理屈で捉え、その上で意見を交し合う行うことが出来るような土壌は中々育たないだろう。



※1 因みに自分は、創作物の外で繰り広げられるリアル・セカイ系的な主張は何度も批判しているが、創作物上に於けるそれを“セカイ系であること”だけで批判したことは一度もないので誤解なきよう。

※2 というか、自分自身がかつてこういうことをしてたわけだが。経験上、「普通」でない人間はこの社会では生きて行けないという危機感を抱いていた自分は、「普通」と同一化するために邪魔な己の感覚を踏みつけ、否定し続けた。だが結局後に残ったのは、「普通」と同一化することも出来ず、かといって自身の特徴を伸ばすことも出来なかった、自己否定でボロボロになった自分の姿だけだったという。

「個人」という人間資質の出口

『責任という虚構』 - 障害・介助・ベーシックインカム

本書でとられる見方によれば、自由意志や主体性というのは、言って見れば、誰にトラブルの落とし前をつけさせるかを追求し、その責任の所在を明確にするために社会的に要請される、ある種の虚構である。お前がやったことだから、お前が責任をとれ、と恫喝するための虚構である。やってしまったことに対して、本人には明確の理由や意図はなかなか見いだされない。

「ベンジャミン・リベットが行った有名な実験がある。手首を持ち上げるよう被験者に指示する。いつ手首を動かすかは被験者のまったく自由だ。我々の常識ではまず手首を挙げようという意志が起こり、その次に手首を動かすための信号が関係器官に送られ、少ししてから最終的に手首が実際に動く。ところが実験によると、まず手首の運動を起こす指令が脳波に生じてしばらく時間が経過した後で意志が生じ、そのまた少し経ってから手首が実際に動くという不思議な結果になった。<コメント欄より>

責任が虚構というより、「トラブルの原因は特定個人の意志にあるから、その意志の持ち主である個人がその責めを負わなければならない」という責任の根拠が虚構といった方がよさそうだ。そこに原因があるから責任を負わされるのではなく※1、誰かに責任を負わせるための言い訳として自由意志という原因が採用される。だが自由意志というものが存在するかといえば、どうも怪しい。意識はただひたすら起こってくる状況に解釈をつけているだけかもしれない。勿論、意識の感覚に対するフィードバック作用はあるだろうが、かといってそれは行為を制御しているとまでは言えないだろう。とすれば、責任というのは実際のところただの八つ当たりの一種でしかないということになる。

では、影響を原因と言い換えてみた場合どうなるか。つまり、フィードバック作用は行為を制御する力までは持っていないが、その者の行為に影響を与えることは出来る。それを以ってして原因と考える、と。

だが、状況は常に個人的因子が環境的因子と接触して起こる反応の連続性の上に成り立っている。一方だけでその状況が作り出されるわけではない。そして環境的因子は自然環境と社会を構成する其々の個人の相互的な反応の連続性の歴史の上に成り立っている。つまり、影響という観点からみれば、全ての者が人間活動によって生じるあらゆる状況の形成に何らかの影響を与えているということになる(そしてこれは相互的な歴史の積み重ねである以上、誰がより強い影響を持っているか、という単純な考え方は出来ない)。よって、影響が原因であり、その原因を以ってして責めを負う理由とするならば、全ての人間がその責めを負わなければならないことになる。自由意志が無いとするならば、影響を原因と考えてもやはり責任の根拠としての正当性を担保するには無理がありそうだ。

そもそも、自由意志があろうがなかろうが、個人の意思が状況をコントロールすることが出来るという考え自体に既に無理がある。何せその考え方はセカイ系以外のなにものでもないのだから。それに、例えば現代の一般的ルールを全ての人間が全て遵守するなんてことはあり得ないだろう。この場合、そのルールと人間との関係性に於いて、誰かがそこからはみ出ることは予め決まっている。その決定事項を個人の意志が覆すことなど出来るはずもない。要するに誰かがババを引かねばならない。ある状況に於ける被害者も加害者も、そのババを引いただけでしかない。

つまるところ個人というのは、人間が持つ資質の一つの出口でしかないのではないか。そして其々の出口には、解釈役としての意識があてがわれることになる。だが、意識は元々存在し、どの出口を担当するかを自由に選んだわけですらない。原因を作った者が責任を負うのだとしたら、責任を負うべきは出口を作って己を現出させようとする「人間の資質自体」であり、出口とそれにあてがわれた意識はその責任を負うべきではないということになるだろう。

だが、人間の資質という主体に落とし前をつけさせることは出来ない。ならばその資質の出口、或いは出口と思しき場所に落とし前をつけさせようということになる。その結果、運悪くババを引いた出口としての個人及び意識は、その状況を起こした主体と看做され、責任という名の八つ当たりを受け止める役割を引き受けさせられることになる、と。

まあ、元々責任とは発見するものではなく、設定するもの。だからババを引いたものが責任を取ることとする、とすれば偽りは無くなるのだが、それだと体裁が保てないしねえ。

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しかし、こういった自由意志への懐疑という考え方を受け入れることが出来る人間は余りいないだろう。何故なら、多くの人間は自由意志とその意志による状況のコントロール可能性をアイデンティティとしていることだろうから。自由意志が否定されるということは、それまで普通に人間として暮らしていた者が、実は自分がアンドロイドで、己の意思で自由に行動していたと思っていたことは全てただプログラムされた通りの反応を繰り返しているだけだった、ということにある日突然気づいてしまうというのに近いものがあるわけで。それを知って平然としていられる者は余りいないように思う。

そういえば、アメリカでは宗教的理由で進化論が中々受け入れられないという話があったが、自由意志への懐疑はキリスト教的にはどのように受け止められるのだろう。神が人間というアンドロイドを作ったと考えると、必ずしも競合するとは限らない…のか。

一方、個人に平等に与えられた意思の力を上手く引き出せば自身の周りの状況もまた上手くコントロールすることが出来る、という精神論的信仰が非常に強い日本では、ちょうどアメリカで進化論が受け入れられ難いのと同じ理由で、その考え方が広く受け入れられることは先ずないだろう。自由意志への懐疑は、そういった宗教の前提部分を脅かしかねないものなので。


 
※1 自由意志からは少し話がずれるが、裁判などでは、この虚構性が分かり易い形で表れることがある。例えば容疑者が真犯人であるという決定的な証拠が得られなまま争われる殺人事件の裁判。この場合、最終的に有罪の判決が下されようと、それはあくまでその者の犯行であると“看做している”だけであって、必ずしも事件がその者によって起こされたかどうかは分からない。にも拘わらず、被害者側の遺族、或いは不特定多数の第三者がその被告を厳罰に処すことを強く望むというようなことがよくある。裁判に掛けられる前からそういった主張がなされることだって珍しくない。つまりそこでは、先ず感情をぶつけるための対象が求められ、その対象にそれをぶつけるための言い訳として原因が欲せられている、という責任の典型的な性質がくっきりと浮かび上がっている。

世界の中心で、お前の感覚は異常と叫ぶ~それはセカイ系の症状です

サマーウォーズ見たら死にたくなった<わざわざ見なきゃいいのに。予告編からしてそういうオーラが出まくってるんだから。多分、オタクの教養的義務感から見たんだろうけど。

青春モノのアニメにこういう反応が出てくるのはもはや定番となった感がある。そして同じように、この手の話題が巻き起こると、そういう反応を示す者を異常者扱いする人間が必ず出てきたりするのもまた定番。「虚構と現実の区別が付かなくなっている」などとして。多分そういう人達は、自分の感覚こそが世界の普遍の中心だと信じきっているのだろう。で、その感覚から外れるのは認知の「歪み」、或いは「病」故であると。

「正常な感覚」という枠組み内からその外にいる者に対して「お前らは異常者」と叫ぶ。この「叫び」のどこがおかしいのか。それは、その者がセカイ系の主人公としての立場で他人や物事を見てしまっていることだ。
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人間は一見同じ一つの世界に住んでいるようで、実は皆其々異なった感覚と(そこから生み出される)世界観が支配する別々の世界に住んでいる。勿論似通った部分はあるにしても、それらはあくまで別々のものであり、其々の感覚や世界観が直接交わりあったり共有されたりすることは決してない(故に、共有可能な現実というものは存在しないという言い方も出来る。固有の現実=セカイ)。それらはお互いに外部から刺激し合うのみの関係性しか結べない。

だから誰かが死ぬということは、その唯一無二の感覚や世界観を持った一つの世界が消滅することを意味する。そしてその消滅する世界の住人からすれば、自分の世界と同時にその他全ての世界が消滅することにもなる(勿論「広大な宇宙」も。故に「広大な宇宙に比べれば人間の悩みなんてちっぽけなもの」というのは錯覚を利用した精神安定剤)。これがいわゆるセカイ系物語で自分の身近な状況がそのまま世界の滅亡や救済へと繋がってしまう所以だ。だが一方で、どこかの誰かが死ぬことは、その当人からすれば「世界の終わり」であるが、周りから見れば数多ある世界の内の一つが消滅しただけに過ぎない。それは所詮「世界に一つだけの花」が散った程度のものでしかないのだ。

ところが人間は、自分の感覚を通してしか他人の世界を覗くことは出来ない。他の世界へと踏み込んでその内容を知ることは出来ない。だから自分の世界が持つ感覚や世界観を、この世に存在する唯一絶対の真理であるかのように錯覚してしまい勝ちだ。そしてその本来限定的であるはずの真理を他人(他の世界の住人)の背後に敷き詰め、自分の感覚や世界観でそのあらましを解釈し、規定してしまう。だからこそ「本来あるべき正しい感覚」と「そうでない異常な感覚」という傲慢――これはつまり感覚否定であり、それは他の世界の存在自体を否定することにもなる――な分類をすることが可能になり、他人に向かって「お前の感覚は異常」と叫ぶことが出来る。

しかしながら、本来数多ある内の一つでしかない「自分の世界」が持つ限定真理を絶対的な基準とし、それで他の世界を勝手に解釈・規定してしまうということは、元々別々の世界に住んでいるはずの他人を「自分の世界」の登場人物として取り込んでしまうということでもある。つまりその「叫び」を行う時、その者は完全にセカイ系の主人公になりきってしまっているのだ。逆に言えば、その時その主体に捉えられた他人は、「二次元美少女」などと同じレイヤーにしか存在していない。だがそれをその主体は他の世界の住人と同一の存在であるかのように混同してしまっている。

実際、この区別を絶えず意識し続けるというのは中々難しい問題だ。要するに、セカイ系は(一般的意味としての)創作物の中だけに留まる現象ではなく、リアルでも多くの人間に発症し勝ちなごく一般的な症状なのだ。というか、自然体でいれば基本的に人間はセカイ系の症状を発症し続けることだろう。それ故、セカイ系を発症した者が限定真理を根拠にして創作物上のセカイ系を批判するという倒錯を目にすることも珍しくない。セカイ系というのはそれだけ誰にでも身近で根深い問題なのだ。

 *<セカイは拡張される>*

上では創作物の前に「一般的意味としての」と付けた。これは個々人が持つ条理性自体もまたある種の創作物とも取れるからだ。そしてその創作物、つまり条理(限定真理)の生成こそが宗教の根本だと自分は思っている。ただこれは一般的意味としての創作物とは決定的に異なっている部分がある。それは自分の思いだけで自由にその内容を決定することが出来ないということだ。

一般的意味としての創作物では、いかなる荒唐無稽な設定やストーリーでも自分の思う通りに形成することが出来る(勿論、その者の能力に応じてだが)。ところが、条理の生成(認識)は自分の思う通りに…とはいかない。幾らこうであって欲しいという世界観を思い浮かべ、それを信じきろうとしたところで、それはその者が獲得した感覚や経験、環境との関わり合いによって自ずと内容が決定されてしまう。

はじき出された世界観と自分の感覚が希求する世界観が一致しないことによって生み出される苛立ち、苦痛。かといって、自分の持つ個人的因子と環境的因子という制限を超えて自分で自分の認識を自由にコントロールすることも出来ない。例えば周りが燃えていれば、心頭滅却して認識をコントロールしようとしても熱いものはやはり熱いし、それを我慢し続ければ焼け死ぬだけだろう。内面で出来る苦痛の解消法は限られている。では人間がそのような齟齬に直面した時、どのようにしてそれ解消しようとするのか。答えは簡単。周りの火を消そうとする、つまり、先ずその主体の外部へと世界観を拡張し、外的因子を変化させることによってその齟齬を解消しようとするわけだ。

例えばこの記事がここに書き付けられているように、はたまた精神論者が世界の因果を努力で解釈すべきであると主張したりするように、或いはリンチや体罰のように、もっと具体的な暴力を伴った形でその拡張が行われる場合もあるだろう。このような拡張行為は、ある種の布教活動とも言える。人間は自分の認識を自分自身では変えられないからこそ布教するのだ(ただし、人は必ずしもその布教が功を奏するから拡張行為をしているとは限らない。例えば自分は単純に嘔吐によるカタルシスを得るためにこのブログをやっている)。そしてそうやってなされる其々の世界観の拡張が個人の外部へと蓄積されていくことで、文化やシステム、形式的(つまり一般的に言われるところの)宗教が形作られていく。

これは人間の歴史そのものにも言えることだろう。人間はこの齟齬を内面だけで解消することには我慢出来なかった。そして人一人に出来ることは限られている。だから人間は道具を作り、自然に手を加え、道徳や常識、システムを作って他人をコントロールすることで、元々内面にしか存在しなかった世界観を実現させていった。勿論、人間と自然という条件が持つ範囲内でだが。だがこれは逆に、そうやって積み重ねられた拡張としての環境的因子に個人の世界観が規定されてしまうということでもある。

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話を再び冒頭の話題に戻すと、フィクションを見て自己嫌悪に陥る人間が虚構と現実の区別が付かなくなった異常者だとすれば、フィクションを見て爽快感や充足感を得た人間もまた虚構と現実の区別が付かなくなった異常者ということになるはずだろう。ところが何故か後者の方は異常であるとは言われない。では何故こういった破綻した理屈が世間にすんなりと受け入れられるのかと言えば、それはその拡張行為によって蓄積された文化がそれをあたかも筋の通った理屈であるかのように思わせる手助けをしているからだ。そしてそれにより、前者もまた「はいはい、私は異常者ですよ」といったようにその破綻した理屈を受け入れてしまうようになる。

だが感覚の在り方に正誤などあるはずもない。勿論何らかの状況に対し、拡張によって形成された人工的システムによってそのシステム上での正誤の判断を下すことは出来る。しかし、其々が持つ感覚はどれ一つとして同じものは存在せず、それらは決して均一化されるものではないというのは人間という存在自体が元々兼ね備えている前提条件であり、その在り方の部分にまでその人工的システムが正誤の判断を下すことは出来ないはずだ。いや出来ることは出来るが、それをするためには前述したようにその者がセカイ系の主人公になりきらなければならない。

――例えば発達障害などといわれる人達がいるが、その人達も異なった文化を持つ他の場所に行けばそうは判定されないかもしれない。或いはそう判定されるような一定の傾向を持つような者達の群れの中に一般的傾向を持つ者が一人放り込まれれば、そこでは逆にその者の方が異常者扱いされ、何か特別な呼び名で呼ばれるようになるかもしれない。だが、今の環境で一般的傾向を持つとされる者は、そのような扱いに納得しないのではないか。

つまり、どのような社会でもある事柄に対して其々がどのような反応を示すかということにはある程度の傾向や偏りが出てくる。だがその多寡は決してその在り方自体の正誤を表しているものではないということだ。しかし人々の持つセカイ系的欲求が、その拡張としてのセカイ系文化がそれを見誤らせる。そして実際、それに抗うのはとても難しいことだったりする。だからこそセカイ系の猛威が吹き荒れ、今も全く治まりそうにもないという、そういうお話でした。

まあこれはセカイ系といっても序の口で、この後ろには、平等に与えられた精神の力を其々が如何に上手く引き出せたか、引き出せなかったかで個々人の人生や世界のあらましが決定されているというもっと“らしい”思想が控えているのだが。

「社会(他人)に迷惑を掛けるな」という欺瞞

人間社会の営みは、お互いが迷惑を掛け合うことを前提として成り立っている。なんせ、そこは生存競争の場でもあるのだから、他人に迷惑を掛けずに生きていける者なんてどこにも存在しない。生きるとは、即ち他者に迷惑を掛け続けることでもあるのだ。だから、それがごく個人的で得手勝手な主張であるという前提で「俺に迷惑を掛けるな」と言うのならまだしも、“みんな”の総意として「社会(他人)に迷惑を掛けるな」と他者に要求しつつこの世に居残り続けるのは、欺瞞以外の何物でもない。
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そしてその欺瞞を真に受け、「社会(他人)に迷惑を掛けてはいけない」という規範に囚われすぎると、その先には孤立と死しか待っていない。というのも、本気で他人に迷惑を掛けまいとする者は、まず他者との直接的な関わりを断とうとするだろうからだ(関わるということは、迷惑を掛ける可能性の高さを保持することなので)。そうすると孤立せざるを得ない。ところが孤立したらしたで、今度は間接的な関わり(迷惑)を断つことが規範から求められることになる。しかしながら、そもそもこの世に居続ける以上、直接的であろうが間接的であろうが他者との関わりを完全に断ち切ること(≒誰にも迷惑を掛けないこと)は不可能。とすれば、結局その者は最終的に「この世から姿を消す」という一択のファイナルアンサーを迫られ続けることになる。「他人に迷惑を掛けてはいけない」という強すぎる規範を内面に抱え続けている限りは(――勿論、それを迫るのは規範だけとは限らないし、逆にその規範やそれを利用している者達に対して逆襲を試みる者もいるだろう。だが、焦点がボケるのでここではそういった要素は扱わない)。

…ところが、実際にその規範からの問いにアンサーして自殺する者が現れると、今度は必ずその行為を迷惑だと言って非難し始める人間が出てくる。しかし、そもそも自殺というものの多くは、その実行者の資質が他者(人間や自然が作り出した環境)と関わり合うという、相互的な関係性の下で生み出されている。つまり、非自殺者もまた自殺という現象の一部なのだ。だからその現象を問題視するのならば、当然自殺した(する)当人の在り様だけでなく、自殺をしない非自殺者側の在り様もまた問題にされなければならない。そして、もしその現象が備え持つ迷惑が非難されてしかるべきものだとするのならば、むしろ非自殺者の側こそがより厳しく非難されるべきだろう(非難といっても、死んだ者が生きている者を非難することは出来ないので、実際にはその非難を内面化して反省するしかないが※1)。何故なら、自殺者達は非自殺者側に、それこそ文面通り、死ぬほど迷惑を掛けられた結果としてその行為に及んでいるのだから。その者達が迷惑を掛けられた度合いは、非自殺者が受けるそれなど比べ物にもならない。

 ***

人は誰しも簡単に詐欺師になることが出来る。そのための方法は簡単だ。社会という、本来明確な主体も意思も無い、しかし何か偉大なものを感じさせるその存在――即ち「社会」という名の神――の意思を勝手に騙り、社会の代弁者として、道徳人として「社会(他人)に迷惑を掛けるな」と他者に要求するだけでいい。或いはその尻馬に乗るだけでいい。それだけで、誰もが近年話題の振り込め詐欺なんかよりももっと安全でもっと実りある、そしてもっと狡猾な詐欺を働くことが出来る。そういった騙し合いの下で、人間は生きている。


…というか、以前にも何度か同じようなことを書いたような気が。まあこのような認識が常識として定着でもしない限り、自分の気が済むまで何度でも何度でも同じことを書き続ける所存ですが。

関連:
壁で卵を押しつぶす作業始まったな
幻想時代への回帰



※1 とはいえ、その反省の苦しみから逃れたいという欲求が、その現象の原因と責任の全てを一方的に自殺者側に押し付けようとする動機の一つになっていたりもするので、物事はそう簡単ではないのだが。

基本パラノイア

人間は基本的にパラノイア。
余程気をつけて自分自身を見張っていないと、
直ぐにそれが顔を出す。

しかし一方で、そのパラノイア性は常識の源泉となり、
人々を結びつける効果をもたらしていたりもする。

「ギャンブル買い」は正にギャンブル

「ギャンブル買い」に失敗すると、その失敗を取り戻すために「良い買い物」をしたくなる。ところが、そうやって「良い買い物」をしようとした結果、それが失敗してさらにまたそれ以上の「良い買い物」をしなければならなくなるという蟻地獄。
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「ギャンブル買い」の“ギャンブル”はあくまで比喩なわけだが、これが中々どうして単なる比喩とは言い切れない性質を持っているように思う。いや、そもそもその性質は賭け事に於けるそれと同質のものなんじゃないか。つまり、賭け事で「失敗を取り戻したい」と言うと、どうしてもそれは「金銭を取り戻したい」ということだと解釈してしまい勝ちだが、実際のところは必ずしもそうではない。むしろ取り戻したいのは、自身の存在意義であり、自己肯定感なんじゃないかと。

自分の場合、たった100円の買い物に失敗しても、その失敗による自責の念から激しい不快感を抱いてしまうようなことがあった。そしてこういった不快感は、お金が絡まないちょっとした失敗からも抱くことがあった。つまり、その本質は決して金銭では無かったということ。自身が何か行動を起こした時、或いは何らかの状況に対処した時、それが上手く行くか否かで自身の存在価値までを計算してしまう。そしてそれをプラスにしようとして、蟻地獄に嵌り込む。

結局その根底にあるのは、物事の存在価値まで経済的な観点から判断してしまう資本主義的病であったり、無条件には自己の存在意義を見出すことが出来ない人間のサガだったりするのだろう。

「善」とは求心力のことであり、ベクトルが収束する状態のこと

一つ前の記事では書ききれなかったことを別の記事にして投稿。
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悪とは何か。それは何らかの規範(枠組み)を逸脱することだろう。では善とは何か。悪とは逆に、何らかの規範に収まっている状態のことを指すのだろうか?しかしかねてから言っているように、収まるべき枠組みに完全に収まり切ることが出来る人間は原理的にいって存在し得ない。また、全ての人間が納まり切ることが出来るような枠組みを作り出すことも出来ない――故に、人間が悪の概念を捨て去りでもしない限り、人類の存続は常に邪悪なのである。
 
では部分的にそこに収まっていることを善というのかと言えば、やはりそれも違うように思う。守って当たり前とされている規範を守っているからといって、いちいちそれを善行とは言わないだろう。それに、それだと普段は真面目な人間がちょっと羽目を外しただけで腹黒い悪人であるかの様に見られる一方、普段からワルさばかりしている人間がたまに“ちょっと良いこと(発言)”をしただけで「良い人」だと言われたりすることの説明もつかない。

じゃあ結局善とは何なのかと言えば、それは個人の内部にある様々な目的や「こうであるべき」という正しさを求める欲求が、或いは何らかの集団に於ける――普段は様々なベクトルへとその赴きを向けている複数の――それらが、ある一つのベクトルへと収束しようとするその状態やそうさせる力のことを言うのではないのかと思う。だとすれば、先に例に挙げたような状況が生じることにも納得がいく。

そして善が求心力やベクトルが収束する状態そのもののことである以上、その求心力や状態を作り出すことさえ出来れば、ありとあらゆるものが善になり得る。例えば、秩序を保つという大儀で国家権力の行使し、人々を弾圧、疎外、虐殺すること(つまり既に成功を収めているテロリズム)が善であれば、テロリストが「世直し」と称して市民を襲うのもまた善である。ただし、(個人の内部や集団の中で)そのベクトルへの求心力や収束性が薄れていくと共に、その内容や行為の持つ善性もまた薄れて行くことになる。

要するに、「善」は内容を指すものではない。その中身は基本的に空洞であり、その空っぽな入れ物の中に色んな物が出たり入ったりしているだけなのだ。そうやって中身を入れ替えながら、「善」は進み続ける。そしてそこに積み込まれる中身は基本的に何でもよい。求心力や収束性を維持することが出来るものでさえあれば。それを前進させ続けることが出来るものでさえあれば。

だから、それが進み続ける以上、人々を魅了する求心力を持ち続ける以上、例えどんな物を積んでいようと、それが善であることを否定することは出来ない。何故なら、その牽引や魅了そのものが善なのだから。しかし、その牽引や中身を悪であると認定することは出来る。

つまり、善と悪は両立し得るということ。

「魔女」とは幻想の存続を脅かす存在のこと

CNN.co.jp:ガンビアで魔女狩り横行、幻覚液で死者も アムネスティ

(CNN) 国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは18日、アフリカ西部の国ガンビアで魔女狩りが横行し、1000人あまりが捕らえられて幻覚を起こす液体を飲まされていると伝えた。

液体を飲まされた人のうち少なくとも2人が死亡、多数が深刻な腎臓障害を起こしているほか、暴行を受けてけがをした人もいるという。アムネスティはガンビア政府に対し、直ちに魔女狩りをやめさせるよう要求した。

アムネスティは同国のジャメ大統領の関与も指摘。親類の死に魔女がかかわっていると信じた大統領が、呪術医を呼び寄せたとの報道もあるという。魔女の疑いをかけられ連行された被害者や家族は、呪術医が警官や兵士を連れてやって来て、銃を突きつけられ連行されたと証言している。

もしこういった状況を途上国だけが抱える病理のように捉えるのならば、それは先進国側の思い上がりでしかないだろう。
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 *(1)人は現実逃避無しには生きてはゆけない*

そもそも、人間の精神は過度の不確定性を持った環境に耐え得るようには出来ていない。例えば、分刻みでどんどんその思想や趣向や性格が変容してしまうな人物がいるとしたら、多くの人々はそういう人物を危険視し、その者を何らかの方法で矯正するなり隔離(排除)するなりしようとすることだろう。何しろ、その相手は今何を考えていて次にどのような行動を取るか全く予想が出来ないから、周りの者は不安で不安で仕方がないわけだ。そしてそういった不安(不確定)要素があるならば、何らかの方法でそれを取り除き、それによって整然とした秩序を形作り、それに拠りすがることによって安寧を得ようとするのが人間のサガ。

逆のケースでも同じことで、もし誰かが己の判断基準となり得る程の信頼性を持った法則を全く見出すことが出来ないような環境――例えばそれは、先ほどまでは何の問題もなかったはずの振る舞いを次にした時にはそのことで激しく糾弾されるかもしれないし、今の今まで大きな価値を持っていたはずのものが次の瞬間無価値になるかもしれない。数分前まで安全だったはずのものや手順が突然命を脅かしかねない程の危険性を持ち始めるかもしれない、そういった何も拠りすがることが出来る法則が存在しない世界――に放り込まれるようなことがあれば、きっとその者は酷く消耗し、精神を病まずにはいられないことだろう。だからそういった状況を回避するため、人間は自身の内と外に様々なシステムやモラル、常識、思想、宗教、経験則、分類などを作り出し、現実をそれらで整備し、その秩序の中に押し込めて理解することで、恰もその秩序が現実そのものであるかのように錯覚しようとする。そうやって現実を幻想のオブラートで包み込み、直にそれを目にしたり触れたりしないようにすることで初めて人間は己の精神を安定した状態に保ち続けることが出来る。

だから、よく虚構の世界に現実逃避しようとしている者に対し、その行為をまるで悪しき(危険な)ものであるかのように捉え、「現実を見ろ!」と言ってそれを咎めてみせる者がいるが、あれは(勿論、程度の問題はあるにしても)トンデモない間違いなわけです。何故なら、現実を幻想のフィルター無しに直視し続けるのはその者の精神を確実に蝕む非常に危険な行為であり、そしてそもそもその説教をする側の者が己の精神を安定した状態に保っていられるのだとすれば、それはその者が現実を何らかの幻想のフィルターを通して見ることが出来ている――つまりそれは、虚構の世界ではなく現実の世界で秩序という幻想を用いた現実逃避をしているわけでもあるのだから。現実に見出す幻想だけで精神の安定を保っていられる者は虚構に現実逃避する必要はなくとも、そうでない者にとってはそれは生きていく為に必要な行為なわけで。

実際に精神を病んでいる人も、それは結果としてその社会の主柱となっている幻想を人々と共有することが出来なくなったり、拠りすがる幻想を失ったまま新たな幻想を手に入れることが出来なくなったり、或いは余りにも現状と乖離し過ぎた、もしくは何のモチベーションも得ることが出来ないようなガラクタ同然の幻想しか手に入れられなかったからこそ、そういう状態に陥っているという人も多いことだろう。つまり、それを虚構の世界を主として行うか現実の世界を主として行うかはともかく、(その者にとって)良質な幻想に支えられた現実逃避は人間にとって必要不可欠なものなのだ。

 *(2)破れかかった幻想を継ぎはぎするために行われる「魔女狩り」*

しかしながら、そうやって作り出された保護膜としての秩序(幻想)は、所詮人間が作り出した仮想的枠組みでしかないため、例えそれがどれ程優れたものであっても現実全てを包み込むというわけにはいかず、それ故現実は常にその外側にも広がっているし、それは常に例外や欠陥という穴や矛盾を抱え持つものでもある。だから、いつその例外や欠陥が生み出す問題を自分が受け持たされることになってもおかしくないし、それが持つ矛盾に苦しめられ続けることだってあるだろう。そして幾ら虚構に逃げ込もうとも、誰も現実から完全に逃げおおせることは出来ない。となれば、自身が頼りにしていた幻想が崩壊し、現実が持つ毒気を帯びた視線を直接浴びざるを得ないような状況に陥ってしまうこともまた、往々にして起こって来る可能性がある。

それでも、もしそうなったとしてもその崩壊した秩序への依存度を他の幻想へと振り分けたり、他に代わりになるような何らかの新しい幻想を獲得したりして、それで己の精神を保護することが出来ればよいのだが、それが出来なかった場合、今までその幻想によって押さえ込まれていた不安が一気にそこから飛び出して、その者の精神どんどん蝕んでいくことになる。これが拠りすがる者が少ないマイナーな幻想だった場合、それは単に個人の問題として捉えられることになるのだが、それが社会的な主柱の一部を担っているようなよりメジャーなものだった場合、その幻想の崩壊は大きな社会問題となる。

そしてそのような社会問題となる程多くの人々から厚い支持と信頼を勝ち取っていた幻想が崩れかけた時、人々はその崩れかかった幻想を中々捨て切れず、「今までちゃんと機能していたはずの秩序がどうも上手く機能しなくなっている。これは誰かが良からぬ考えや行いをしているからに違いない。だからその者を見つけ出してその原因となっているものを除去するなり改善するなりして、再びこの秩序の安定を取り戻さなければならない」というような考えを持ち始め、その犯人探しと原因への対処が行われることになる。そしてそれによってその犯人(原因)であると“される”存在こそが「魔女」であり、それに対する処置が「魔女狩り」なのだ。つまり、「魔女」とは何らかの幻想が現実的なものであり続けることを脅かしていると“される”存在のことであり、「魔女狩り」とは崩壊しかかった幻想の裂け目を塞ぎ、そこから漏れ出す不安を押さえ込むための新たな幻想の構築のことなのだ。ガンビアで起こっている状況もまた、こういったその土地での一般的幻想が崩れかかって尚、多くの者がその幻想を捨て去ることが出来ず、その犯人探しと対処が行われた結果としてのものだろう。

 *(3)「魔女狩り」は変形する*

しかし、こういった行為は何も所謂途上国だけで行われているわけではない。

ロボトミー - 葉っぱの~終わりある日常。

 翌朝、その医師(フリードマン医師)は自分の「ロボトモービル」ーロボトミーの器具を搭載した小型トラックーを運転してやってきた。彼は病棟を巡回すると「そいつ、それから、あいつ」と無作為に患者を選んだ。患者一号が彼の前に押し出された。彼はその女性のこみかみに電極を当てると気絶するまでショックを与え、それから彼女の左まぶたを上げて、アイスピックに似た器具を彼女に眼の中に突き刺した。それを引き抜くと、血のついたアイスピックをアルコールの入った嘔吐盆に浸し、それから次の患者に移った。(中略)次から次へと管理された暴力の流れ作業を無慈悲に進めていき、その後には血だらけで盲目になった40ー50人の患者が残された。

1948年、フリーマンは米国精神医学・神経学委員会の会長に選出された。国中で講演を行い、特に統合失調症患者、同性愛者、共産主義者などといった社会の不適応者を制御するためにロボトミー(中略)を賞賛してまわった。1955年までに四万人以上の患者が手術を受けた。

これは、バーバラ J. キャラウェイ著『ペプロウの生涯―ひとりの女性として、精神科ナースとして』に書かれていた一描写だということだが、これと冒頭で引用した記事によるガンビアでの「魔女狩り」と比べてどちらが残虐な行為だろうか。これもまた典型的な「魔女狩り」なわけだが、当時、ロボトミー手術はノーベル賞をも獲得した画期的な最先端技術でもあった。その最先端技術と呪術医の施し、先進国のそれと途上国のそれ、一体どちらが野蛮な行為だろうか。どちらが多くの犠牲を出しただろうか。

ロボトミー lobotomy(新・サイコドクターあばれ旅)

しかも日本では、こういったロボトミー手術が1975年までに3万人~12万人くらいの人間に対して行われたという。つい30年程前までこういった行為が科学医療として行われていたわけだ(自分も30年早く生まれ、直ぐに医者を頼りにするようなたちだったらやられてたかもね)。しかも「3万人~12万人くらい」って。何この曖昧さ。これはつまり、如何にずさんな体制でそれが行われていたかということを示すものでもあるだろう。

「でもそれはもう30年も前のことでしょ?今はそんなことはないでしょう」と思うかもしれない。確かに、今はもうロボトミー手術は行われてはいない。しかし、ロボトミーが無くなっても「魔女狩り」が無くなったわけではない。それは教育・更正・治療・償いなどの名で、より洗練された形で行われ続けている。勿論、それによって心身に傷害を負わされた者は今尚増え続けていることだろうし、それが死者を出すようなより明確な形になって表れることもある(何らかのコミュニティーや教育施設などで行われる精神的・肉体的リンチ事件などがその典型例)。そしてそういった強引な手法を取ることを支持している者も多い。つまり、昔よりはそれがまし(或いは婉曲的)なものになってきていることには違いないかもしれないが、先進国は途上国(日本は経済以外はどちらかと言えばまだ途上国なんじゃないの?という議論はさておき)で行われるそれを嗤うことは出来ないだろうということ。何故ならそれは、其々の土地々々に於いて名を変え形を変え、ちゃんと今尚息づいているものなのだから。「魔女狩り」を見たければ、わざわざ遠い異国の地に目をやる必要はない。身近な場所に目を向けて見れば、それはいつもそこに存在している。

例えばその様式の一例としては、本来一対一で直接対になって繋がっている非常に限定された関係にある原因と結果を除いては、それは常に因果のブラックボックスを挟んだ向こう側とこちら側という関係にあり、こちらでどのような働きかけをすれば向こう側(未来・結果)がどうなるかということは、少なくともその時点では誰にも知り得ないことのはずであり、そしてまたある一個人の力で社会全体が大きく変わることなんてあるはずもないのだが、こういった不可抗力的な分野までを、恰もブラックボックスを挟んだ向こう側の結果が分かり得たかのような前提で以って、その結果を、或いは未来に予測されれるそれを、特定個人の「責任」であるとしてバッシングするような行為はごく日常的に行われている。これは正に「魔女狩り」そのものなわけだが、こういった「個人の選択による(ブラックボックスの向こう側の)結果のコントロール性とそれに伴う責任追求により形成されるとする秩序(幻想)」を保つためのバッシングに一度も加担したことがない人なんて、恐らく一人もいないんじゃないか?

さらにもう少し具体的な例を一つ挙げてみれば、其々の個人に平等に与えられた無限に修復可能で無限に溢れ出る精神の(持つ努力や忍耐、工夫や気づきの)力を其々の意思によって最大限に発揮さえすれば、誰もが最低限の社会的地位や幸せくらいは獲得出来るという精神論的ユートピア幻想が一般的なものとして定着してきたこの国では、その最低限のものを獲得出来ない根本の原因は(余程大きな分り易いハンデでも背負っていない限り)基本的にそれを発揮しようとしない人格にあるとされ、そういった人格を持つ者や、その精神論的事実を認めようとしない人間が「魔女」として扱われているような光景は、ごくありふれたものとして存在している。

 *(4)「魔女狩り」抑制の難しさ*

人間が幻想に拠りすがって生きていく他ない生き物である以上、「魔女」の恐怖が払拭されることも「魔女狩り」が消滅することもない。とはいえ、だからといってそれが行われることを放置していればよいというものでもなく、やはりそれを抑制しようとする意識を持つことは重要だろう。しかし、「魔女狩り」抑制には二つの大きな問題が常に立ちはだかっている。

その一つは、「魔女狩り」をする側は自身を被害者(或いは未来に被害を被る可能性のある者)だと思ってそれを行っているということ。実際、それを行う側はその行為に関しては加害者ではあるが、幻想の崩壊によって精神を蝕まれ始めているという面ではある意味被害者でもあるわけだ。だから当然被害者感情を抱くことにもなる。例えばアメリカがイラクで行った戦争なんかは、石油利権や軍需産業の発展(による仕事や雇用の確保)という要素も多分に含まれていたかもしれないが、それだけであの戦争が為しえたわけではないだろう。それはやはり、アメリカ側の911のテロによる被害者感情と未来のテロへの恐怖心があったからこそ、そしてそれとイラクとが(事実としては911のテロと関係ないと分かっていながら)感覚の上で結びつけられたからこそ、ああいう結果になったのではないか。つまり、「魔女狩り」はそれを行う側が実際に何らかの痛みや不安を感じ、それが動機となって行われているものである以上、その元となるものが解消されない限り、中々それを止めさせるのは難しいということ。

そしてもう一つの問題は、「魔女狩り」が行われる時、それは必ず「秩序を守るため、人々の安全を守るため」という大儀で以ってそれが為されるということ。しかもそれは、その社会や何らかの集団に於ける大勢となっている側の要請(もしくは納得)によって執り行われる傾向が強く※1、それ故そこではそれを行うこと自体が「常識的」なものであると判断とされ、無自覚なまま行われていることも多い。つまり、「魔女狩り」に異論を唱えるということは、大勢の側が主張する「秩序と安全の守護」という大儀に真っ向から立ち向かうことであり、無自覚な常識に反旗を翻すことでもある。それが如何にその者に大きな危険をもたらすことになるかということは言うまでも無いだろう。

だからこそ我々は、無自覚に、或いは自分自身の身を守るために、日常の一部として「魔女狩り」に参加する。そして日頃から自身の所属する集団内で行われている身近なそれには何の違和感も感じないで、他の集団で行われているそれを外から見た時に初めて、その行為の異様さに気づくのである。



※1 でないと多くの人々の支持を得られないし、それを行うだけの力を獲得するのも難しいだろう。というか、例えば一個人でそれを行う場合、それはむしろ「魔女の復讐」と言った方がしっくりくるように思う。

「キッパリ割り切る」という生存戦略、「選択」という精神安定剤

無抵抗のガザ市民殺害 イスラエル兵証言次々、軍調査へ(asahi.com)

イスラエル軍が昨年12月から約3週間にわたってパレスチナ自治区ガザを攻撃した際に、無抵抗の市民を殺害したとする兵士の証言が相次ぎ、国内で波紋が広がっている。軍は19日、軍警察に「作戦上や道徳上の問題」について調べるよう命じたと発表した。

 地元紙によると、ガザから帰還した複数の兵士が2月、同僚らによる民間人殺害の実態を、入隊前に通っていた教育施設で証言。事態を重く見た施設の責任者が、軍上層部に「告発」したという。民間人殺害については、これまでもメディアや人権団体が住民の声として伝えてきたが、イスラエル兵の証言で明らかになるのは極めてまれだ。

 19日付ハアレツ紙は、ガザ攻撃に加わった歩兵分隊長の証言を掲載。小隊がパレスチナ人家族を家の外に出す際、「右側へ進め」と指示したが母子3人は理解せず左側に進んだため、狙撃兵に射殺された。小隊は、この母子の移動が「問題ない」ものであることを狙撃兵に伝えることを忘れていたという。 (中略)

 ガザの「パレスチナ人権センター」が19日に発表した調査結果では、イスラエル軍によるガザ攻撃で1417人が死亡。そのうち18歳未満の子ども313人を含む926人が一般住民だった。国連関連施設や避難所になっていた学校も攻撃を受け、国連は独自の調査委員会を設置すると発表している。

敵か見方か、善か悪か、正か誤か、必要か不必要か、社会的か非社会的かをキッパリと割り切ることが出来れば楽なんだろうけど。それが出来れば、思考と感覚を整理し、効率よくそのリソースを使用することができる。

もっと言えば、何らかの方法でそれらをキッパリと割り切ることが出来るものであるかのような錯誤状態を作り出すことが出来るからこそ、その者は己の生き残りの可能性を高めることが出来るという面があるのではないか。分り易い例で言えば、「戦場」で逡巡を抱えていればその者はそれだけ命を失うことになる可能性が高くなることだろう。「敵だから殺しても仕方が無いんだ」「こいつらは世界にとって不必要な存在なんだ」「社会の為、人々の為に正義を断行しているだけだ」「俺は軍規(法律)に従うだけだ」と割り切ることが出来るからこそ、その者は己の生存率を高めることが出来る。
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しかし生存競争は所謂「戦場」だけで行われているわけではない。平穏な日常にもまたそれは存在している。パレスチナでは昨年末からのイスラエルの攻撃で千四百人以上もの人間が殺害されたようだが、「戦場」ではないはずのこの国でも、毎年何万人もの人間が社会にとって「不必要な者」として生存という枠組みから追い落とされている。やはりアメリカでも、イラクやアフガニスタンで命を落とした者よりも自殺という形で命を落としていく者の方が圧倒的に多い。

まあそれはただ現実の一部を幾つか抜き出してきて並べてみただけで、それを以ってして「だから「戦場」よりも平穏な日常の方が危険だ」などと言う事は出来ないが、そもそも地球上では常に何処かが「戦場」と化しているのが常である以上、「戦場」が存在することも含めて「この世界の日常」と言う事は出来るだろう(世界中から「戦場」が消え去ることの方が非日常的)。そして先天的・後天的に恵まれた環境を獲得出来た者は、「戦地」に身を置く必要がない。つまり「戦地」に身を置く者の多くは、まず「この世界の日常」に於ける先天的・後天的競争に敗れ、それによって生活の為、或いは他に行く当てがない為、「日常の一部」としてそこに身を置いている(中には己の誇りや生き甲斐を見つける為に態々そこへと向かう者もいるかもしれないが)。そしてせっかくそこから生き延びて帰ってきても、他に行く当てを見つけることが出来たとしても、または日常の「戦場」化から解放されても、その社会で上手くやっていくことが出来なければ、どのみちその者には生存枠から脱落せざるを得ない運命が待ち受けている。結局、生存競争という戦いから逃れることが出来る場所なんてどこにもないわけだ。

だからこそ「キッパリ割り切る」ことは非常に重要な手段となる。「戦場」という場所だけでなく、平穏な日常という場に於いても。自分の存在は社会にとって必要だから、生き延びようとすることは善い事だから、「善良な市民」の安全を確保しなければならないから、ルールや風習に従うのは正しいこととされているから、など様々な理由で以ってモラルやルールや文化が抱える矛盾を乗り越え、そうやって罪悪感や逡巡を取り払うことが出来るからこそ、有効にリソースを用いることが出来るからこそ、その者はその社会に於ける恵まれた環境を入手し易くなる。必要なものとそうでないものをハッキリと区別することが出来るからこそ、「不必要なもの」を平気で切り捨てることが出来る。それが上手く出来ない者は己の安全を保つことが難しくなり、平穏な日常に身を置きながらにして命を落とす確率が高まってしまう。或いは実際に「戦場」へと身を置かなければならないような状況へと追い込まれてしまう。

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しかしこの生存戦略にも弱点はある。というのも、割り切りをつける為に参照とすべき基準は幾つも存在していて、それらは常に競合しているからだ。また、同じ基準でも其々がそれを全く違った解釈をしてしまうという問題もあれば、その基準に表の意味と裏の意味が存在する場合だってある。

例えば冒頭に引用した記事の例で言えば、状況からみて狙撃兵は「支持に従わなかった者は即座に射殺せよ」と上から支持されていたのだろう。そして「この母子の移動が「問題ない」ものであることを狙撃兵に伝えることを忘れていた」以上、狙撃兵がその命令に従わなければ、その行為はそこでは「作戦上や道徳上」問題のある行為として取り扱われる可能性があったはずだ。そしてもしその支持に従わなかったことで味方の安全を脅かすような結果を招いてしまえば、その者はその責任を厳しく問われることとなっただろう。ところが命令に忠実なその行為は、別の基準では「作戦上や道徳上の問題」として捉えられるものでもあった。「幾らなんでもそれはやり過ぎだろ。それくらい“常識”で考えれば分かるはずだ」と。だが、その“常識”という基準もまた時と場所でまちまちであり、その解釈の仕方も個々人によって全くといってよいほど変わってくるものなのだ。

まあ実際にこの行為を行った狙撃兵やそれを告発した兵士が今後それによってどういう人生を歩んでいくことになるのかは分からないが、キッパリと割り切った行動を取るにしても、その割り切りの基準とする規範の選び間違い、読み間違い、或いは其々の規範の齟齬によって、その行為が他の規範で以って糾弾されることになり、それによって人生を棒に振ってしまうような者が出てくる可能性があることは容易に想像がつくだろう。リンチ事件や企業・行政の不正行為なんかにしても、コミュニティーの内と外で規範に齟齬があり、内側の規範に忠実であり過ぎたため生じているわけだし。或いは、割り切って「告発」を行ったがために棘の道を歩いて行かなければならなくなった者だっていることだろう。

つまりこの戦術を取る場合、割り切って規範の矛盾を乗り越える前に、先ずはそのためにどの規範を参照すべきなのかという逡巡を乗り越え、その時々において適切な基準を見つけ出してそれを「選択」していかなければならないのだが、しかし問題なのは、どの基準を「選択」すれば本当に良い結果になるのかということは、予想することは出来ても、誰も知り得ることは出来ないということだ。また、良いと思った方向で割り切ることが出来る感覚を持ち合わせていない場合もあれば、「競合の罠」に引っかかって割り切りが糾弾されてしまうこともある。選んだ基準が無難なものであっても、それを読み違えてしまうという問題もある。そもそもその者にとって「最善の選択」なんて存在していないかもしれない。

とすれば結局のところ、どの基準によって割り切り、割り切らないでいるかということは、それが上手く行けば「良い選択をした」と認識し、悪い結果になれば「悪い選択をした」と認識しているだけの話なんじゃないのか。だが現実は個人の意思による「選択」なんかではコントロール出来ないからこそ恐ろしいのであり、未来は知り得ないからこそ不安なのだ。だから後から事の顛末に説明をつけることで、恰も「選択」で未来をコントロールすることが可能であるかのように錯覚しようとする。あの時(アイツ)はああして失敗したけど、次(自分)は違う「選択」をするからから大丈夫だ、と。そう認識することで現実が持つ不可知・不制御性の恐怖や不安から逃れ、それ以外の感覚や思考にリソースを割くことが出来る。そういう機能が人間には備わっている。そしてその機能は「キッパリと割り切る」ベクトルへと導く。

しかし中にはキッパリと割り切った結果失敗した者や、感覚的に割り切ることが出来ないが故に泥沼に嵌っていく者もいる。そしてそういった者達の存在は、「選択」と「キッパリと割り切る」という決断で以って少なくとも最低限のまっとうな人生を勝ち取ることが出来ると信じている者達からすれば、現実が持つ不可知・不制御性の恐怖や不安そのものとなる。だからこそ割り切りが持つ現実への制御性や「選択」の魔法を信じている者達は、「その結果は自分の意思で選択したジコセキンだろ!」「決断の意思を放棄したからだ」と言って割り切りの失敗者や不能者が“そういう存在”であることを否定し、単なる「選択」の失敗者、「決断」の意思を持たない者と認定することで不安を振り払おうとする。さながら悪霊(不可知・不制御性)を追い払うためのお経でも唱えるかのように。或いは「幽霊(「選択」と「割り切り」でまっとうな人生を獲得出来ない者)なんて本当はいないんだ!」と虚勢を張って恐怖を紛らわそうとする者のように。

 ***

いずれにせよ、「戦場」とはそもそも「生存競争という日常」の一部であり、その(捉えられ方の)一形態に過ぎない。そして戦場は「戦場」にだけ存在しているわけでもない。我々は何処にいようとも、現実が持つ不可知・不制御性を介した戦いから逃れることは出来ない。勿論、便宜上「戦場」と戦場を分類することは可能だが、実際にはそれらの間に予めハッキリとした境界線が存在しているわけではない。もしこの二つの間にハッキリとした境界線を引くことが可能であり、其々を全く別個のものであると「キッパリと割り切る」ことが出来るとするならば、それはつまり…そういうことなのだ。

自己批判は必要だが

自己否定はすべきでない。

「自己否定=(内面で分化された)他者の存在への否定≒他人の存在への否定」

…とはいえ、これは個人の意思の力だけで自由にコントロール出来るようなものではない(当然、個人の意思だけを原因として作り出された問題でもない。それは常に他者との関わり合いの中で生まれている)。よってこういった問題に於いては、むしろそのことにこそ注目せねばならず、それを踏まえずに幾ら動きを取ってみたところで、それはこの問題に取り組んでいると言うことは出来ない――例えば、この問題を単なる「自己否定の否定」によって解決しようとすることは、単なる自己否定と同じ轍を踏んでいることになる。

残虐機関は魅了する

オアシスのノエル「もっと不況が悪化すればいいのに」(BARKS)

オアシスのノエル・ギャラガーが、現在、世界中で問題となっている金融危機はもう少し悪化してもいいと話した。不況のときこそ、いい音楽が生まれると考えているからだ。

ノエルは『That's Shanghai』のインタヴューでこう話したという。「金融不安がもうちょっと悪化すればいいのにと思っている。少なくとも、俺ら、もう何枚かいいアルバムを作れるだろ」

オアシスが結成した1991年も英国は不況の真っ只中だった。そして『Definitely Maybe』という傑作が誕生した。「俺らがスタートした90年代初め、まだ保守党が政権を握ってて厳しいときだった。危機が訪れてるときっていうのはたいてい、音楽やファッション、それに政治なんかで最高のものが生まれるんだ」

オアシスに限って言えば、バンドを結成した当時といまでは彼らの経済状況も社会的地位も違うため、いくら世間が不況に陥りようが当時のハングリーさが戻ってくるとは思えないが、彼の説には一理ある。ノエルの言っていることとは少しニュアンスが違うが、ザ・キラーズも同時多発テロ事件の余波で仕事が見つからず、バンド活動に専念することができたと話していたことがある。

Ako Suzuki, London

不幸が足りない。「最高のもの」を生み出す為には、もっと人々の不安が、苦痛が必要なんだ!

不況は現代のドラッグなのかもしれないな、芸術家とやらにとっては。でも、いちいち不況が悪化するのを待つまでもなく、どうせならいっその事、今すぐにでも世の芸術家を名乗る者達を全て収容所にでも送って、様々な手段で以ってその人達に直接もっと大きな不安や苦痛を体験してもらった方が手っ取り早いんじゃないかなあ。そうしたら、きっとすっげえ良い作品が生み出されることになるんじゃないの。んで、それでも良いものを生み出せなかったら、その人は再び収容所送りにして、さらに念入りに不幸の根付けを行ってもらう。それでも尚良い作品を生み出せないような者は、…価値が無いから要らないや。日本的システムで追い込んで、出来るだけ誰にも迷惑掛けないような方法で自殺でもしてもらえばいいんじゃないの。良い作品を生み出すことが出来ない芸術家なんて邪魔なだけだもんね。

え?それは残酷過ぎるって?でも、「最高のもの」を生み出すために芸術家は存在しているのだから、仮にも芸術家を名乗るのであれば、それくらいのコストを払う覚悟くらいはしてもらわなくちゃね。ね?あなた達もそう思うでしょ?ギャラガーさん、Suzukiさん。
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経済人が「不況はチャンス」と言うように、精神論者が「抑圧が強い人間を育てる」と言うように、芸術家もまた「不幸が良い作品を生み出すのだ」と主張する。そして、「ほら、こんな不況にも拘らず大躍進を遂げた企業があるじゃないか」とか、「彼は人よりもずっと辛い目に遭い、それに耐え続けたからこそ、あれ程大きな成功を収めることが出来たのだ」とか、「彼の不幸な生い立ちと、不安定な社会情勢があったからこそ、これ程の名作が生み出されることとなったのだ」などと言い、それが恰も全ての者にとって普遍的な価値を持っているかのように述べ、人々に希望をもたらす。しかし、そうやって生み出された価値は、実際には特定個人にのみ有益なものでしかない。その特定個人に含まれない者にとっては、そんなものは何の価値も無い。むしろ迷惑で有害なものだったりすることすら珍しくない。

不幸には、不幸に打ち勝つことが出来る様な大きな価値(希望)の創造が必要だ。
↓             ↑
大きな価値を生み出す為にはさらなる不幸が必要だ。

不幸が生み出す大躍進がそうであるように、芸術もまた、こういった残虐機関の一部として機能している面がある。しかしながら、芸術には社会批判の可能性が秘められていると主張する人達もいる。そしてそれらは体制に屈しない力を持っていると。まあ確かに、それらの持つ価値が個人的なものとして留まっている間は、それが体制批判として機能し得る場合もある。しかし、それが集団にとって価値あるものとなった時、それは既に体制側に取り込まれてしまっている。芸術はいとも容易く体制側に寝返るのだ。果たしてそんなものに社会批判の可能性があると言えるのか。自分はそうは思わない。だから、芸術が社会に対する批判的可能性を持っているなんて希望は、自分は一切信じない※1。所詮芸術なんて、人間秩序の荒波の中で個々人が持つ資質が滲み出ることによって出来た吹き出物みたいなものでしかないのだ。そしてそれに価値を見出すことが出来るか否かは、其々の個人の問題。

少なくとも自分にとっては、『Definitely Maybe』とやらよりも、何百億もする絵画(の持つ芸術的価値)よりも、不幸によって生み出された唯一無二のそれらよりも、幾ら質素でありふれたものであっても、屋根や布団やコタツや風呂や食事の方が、そして平穏な日常の方が、余程大きな価値がありますよ、と。

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(追記) ※1 芸術に社会に対する批判的可能性が全く無いかの様な表現を用いたのはちょっと行き過ぎだったかもしれない。つまるところここでは、芸術の持つそういった機能が、時に実質的にそれが持っているものの内実とは余りにもかけ離れたものとして取り扱われてしまうことや、そのささやかな部分ばかりがクローズアップされ過ぎてしまうことのバランスの悪さに対する違和感を述べたかったということ。

平等は「個人」の敵であり、「平等」は慢心の表れである、という話

オバマ大統領が就任する直前の記事。

オバマ米次期大統領:ワシントン入り 結束訴え「移動式典」220キロ(毎日jp)

 ◇5万人、期待口々に

 【ウィルミントン(米東部デラウェア州)大治朋子、ボルティモア(同メリーランド州)及川正也】オバマ次期米大統領は17日夜、米独立ゆかりの地、東部ペンシルベニア州フィラデルフィアを起点とする約220キロの「列車の旅」を終え、ワシントンに到着した。途中下車して開催した二つのイベントには、地元や近隣州から計5万人近くが駆けつけた。20日に就任するオバマ氏は「これから毎日、ワシントンであなたたちのために働く」と約束した。(中略)
 会場にいた白人の女子大生、ホルーセックさん(18)は、オバマ氏が米国初の黒人大統領に就任することで「アメリカではどんな人にも平等にチャンスがあることを、世界に示すことができる」と誇らしげに話した。

この「平等にチャンスがある」という発言には、どうも釈然としないものを感じる。というのも、これは日本でよく見受けられる、外面的に分り易いハンデを背負った者が大きな社会的成功を収めた例を後ろ盾にして行われる、「こんな例だってあるんだから、日本では努力さえ怠らなければ誰もがある程度の社会的成功を収めることが出来るはずだ」というような主張と根本の部分で繋がっているような気がするので。つまりそれは、個人の意思が因果に介入し、その結果(未来)をコントロールすることが可能(な環境が成立している)であり、尚且つその意思の力の使い方さえ上手く行えば、誰もが最低限の社会的成功くらいは収めるチャンスはあるはずだという思想。

しかしこの考え方の行き着く先は、「社会的成功を収めることが出来なかった人間は平等に与えられたチャンスを自ら不意にした愚か者だから、どんな窮地に陥っても全てその者のジコセキニン。そして自らの意思でその失敗を選らんだのだから、その失敗者を成功者の俺が踏みつけるのもまた、踏みつけられる者が自らの意思で選択したジコセキン」というものであり、成功者の際限ない自己肯定を生み出すだけだ。実際は、自分では最高の選択肢を見つけ出したつもりで、それに最大限の努力を注ぎ込んできたことが、むしろ最悪の事態を招く大きな原因となってしまったりするのが現実なのだが。
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しかし、何故この「平等」という言葉はこんなにも人々を魅了するのだろう。現実には「平等なチャンス」など存在し得るはずもないが、仮にもし本当に平等なスタートライン――つまり、其々に与えられる環境は勿論、容姿や声や性別、体重など、外見的な「個」の識別を完全に不能にし、生まれ持った資質による能力差を何らかの手段を使って標準化し、精神的な「頑張り」や「工夫」や「判断」だけでその者の人生のあり方が決定されるような状況――を人工的に作り上げることが出来たとしても、それは全ての成り行きが運によって決定されてしまうという現実が惨いまでにまざまざと自己主張を始め、現在人々が精神安定剤として服用している「個人の意思の力が因果に介入し、未来の結果をコントロールすることが(少なくとも少しは)可能である」という甘やかな幻想を完全にぶち壊すことになるだけなのに。人々はきっとその惨い現実と向き合うことで生じるストレスに耐えることは出来ないはずだ。

そして平等が成立した時、少なくとも外面的には「個」の認識は失われる(そうでなければ平等の条件を満たせない)。勿論、全ての人間には「世界に一つだけの花」的な意味での特別性(固有の感覚)が予め備わっているので、自身を「個」(というより異者)として認識することは可能かもしれない。だが、他者からは決して「個」として認識されることはない。勿論、其々の他者を其々の「個」として識別することも出来ない。誰がどのポジションに付こうが、誰が生き残ろうが死のうが全て同じ。全てが交換可能。ただ、誰かがどこかに収まり、誰かが生き残って誰かが死ぬという結果の繰り返しだけがそこにはある。そして「個人」としての存在意義はゼロとなり、其々は完全に全体の一部位としての存在となる。新陳代謝によって幾ら細胞が死滅していこうが、我々はそれらを「細胞」としてしか認識しないように。つまり、平等は「個人」という存在にとっての最大の敵なのだ。

だが、そういう世界で人間が幸せに暮らせるとはとても思えないし、またそういう世界を望む者も(完全にゼロではないかもしれないが)先ずいないだろう。つまりこれはどういうことかと言えば、人々は「平等」という言葉に平等以外の何かを見出しているということだ。恐らくそこには「公正なルール」といった抽象的なものが想定されているのだろうが、「公正なルール」は余りにも具体を想起させ過ぎる。要するに、幻想を生み出す力が弱すぎる。だからこそ、「平等」は魅了する。

「公正なルールが成立していれば、自分はきっと成功するはずだ。そして成功して存在し続けるべきだ」という何の根拠もない「個」の自己慢心。その自己の存在に対する(意思というよりも感覚的に否定し難い)無邪気な思い込みが、「平等」という言葉を媒介して表れる。しかし、その「無邪気な思い込み」を持ち続けることこそが、「個」が存続し続けるための重要な条件でもある。そして其々がそれを持つが故に、「平等」という言葉は他者の「慢心(個の性質)」に働きかけて魅了することが可能であり、やがてそれは「個」の集合体を作り出し、ウネリとなって大きな力を持ち始める。しかし皮肉なことに、その力は「個」が持つ感覚を否定し、そのウネリの一部として統合されることをひたすら迫り始める。そしてそのウネリの流れにしがみ付いていた幾人かの「個」は、消耗、或いは人間の資質が持つ「予め獲得されていた多様性」という遠心力によって振り落とされていく。

そしてそこに統合されることがなかった「個」や、そこから振り落とされた「個」達は、それによって見事「いらない個」としての転生を果たすこととなるのだ。

罪のロンダリング

盗む、奪う、騙す、脅す、殺す。こういった行為を全くせずに生きていける人間は誰一人としていない。しかし、一般にこういった行為を個人として為すことは「やってはいけないこと(罪)」とされている。この矛盾を解消する為に、これらの行為を一端(文化)システムを通すという過程を経ることで、結果としてのそれらは「綺麗なもの」になり、尚且つ個人の行為(罪)ではなくなるという逃げ道が作られる。

結局のところ、人間は綺麗な罪人になるか汚い罪人になるか、そのどちらかしかない。この二つはロンダリングが上手いか下手かという違いはあれど、根本的な内容はどちらも同じなのだが、しかし、多くの人間にとってはそのどちらになるかこそが最も重要なこととなっている。内面的(道義的)にも外面的(政治的)にも。よって人間はいつも、主にこのことについて争い合っている。

大っぴらに無銭飲食 若者ら「困窮」アピール フランス(朝日新聞)

 【パリ=飯竹恒一】大型スーパーで棚から食料品を勝手にかき集め、持参したテーブルに載せて買い物客らに振る舞う――。こんな過激な方法で経済危機による国民の「困窮」を訴える運動を、フランスの若者たちのグループが続けている。

 先月31日はパリ郊外パンタンのスーパーで「不況のツケを国民に払わせるな」「生活必需品への税金をなくせ」などと訴え、野菜やチーズ、パン、お菓子を代金を払わないままほおばり、買い物客らにジュースを勧めた。

 これで5回目だが、毎回メディアが取材し、注目を浴びている。店側から抗議はあるものの代金は請求されず、警察ざたにもなっていないという。「取り組みが支持されているから」とメンバー。総菜売り場に勤務する女性も「私も支持する」と笑顔で見守っていた。

日本じゃ絶対認められないであろうこういった活動がフランスでは一定の理解を得ているというのは、この活動自体がそのシステムの正常化や新陳代謝の役割を果たしていると認識されているからなのかなあ、と。まあ一定の理解といっても、単にこの一帯がだけが取り分けこの活動に理解があるだけなのかもしれないが。

しかし、流石にフランスの抗議活動は洒落ている。日本は真面目とふざけが相反するものだと認識されていて、ガチでふざけるという感覚が余りないから、まずこういうものは理解されない。昔は日本にも一揆とか打ちこわしとか「ええじゃないか」とか素敵な伝統や文化があったはずなんだけど。

もし本当に日本の伝統を守るべきだと思うのならば、「昔の日本人は慎ましく品位と思いやりに溢れ、規範意識が高かった」などという妄想によって形成されたありもしない紛い物の伝統に思いを馳せるのではなく、こういった本物の伝統を復興させることにこそ力を注ぎ込むべきでしょう。

人を見たら「親戚」と思え、一般的道徳を見たら政治と思え

有名になると親戚が増えるというが、オリンピックで誰かがメダルを取ったり取れなかったりすることで、その国の国民が一喜一憂したりするのもそれに近いものがあるなあ、と思った。いや、別にそれが悪いと言いたいわけではなくて。
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オリンピックなどでは、その選手達が同じ国籍を持っているというただその一点だけで「親戚」と化した人達が、直接的には関わりのないその選手達に対して、そして普段は興味もなく、下手すればそのルールすらよく知らない競技に対して、同国人がそれに参加しているというただそれだけの理由で関心を持ち、ああだこうだと好き勝手な要求をしたり、不平不満を述べたり、或いはその背景に作り出された物語に酔いしれる。こういった「親戚」は選手達にとって迷惑な存在でもあるだろう。

しかしその一方で、そういった「親戚」がいるからこそその舞台が成立しているという事実もあれば、その同国人という「親戚」達と目的を共有することで自身の持つ目的に対してより大きな価値を見出せるということもある。そういう意味では、選手達もまたその「親戚」達を(それを意識しているか否かはまた別として)利用しているとも言える。

ただこういった「親戚関係」は、何も著名人ばかりを軸としてそれが出来上がっているわけではない。自分の様に名も知れぬただの有象無象の一人であっても、社会というその同じ集団に所属しているというただそれだけの理由で、自分に関して全く何の情報も持たず、自分がどれだけ苦しもうが生きようが死のうが何とも思わないそういった者達から、自分が持つ環境や肩書き、属性を通して多くの思いや要求が突きつけられる。同じ様に、自分もまたそういった見も知らずの者達に様々な思いや(「要求」してもそれを受け入れさせる政治力がないのを知っているので)願望をぶつけるだろう。

「社会」という誰も逃げだすことが出来ない檻の中にいる以上、この見ず知らずの「親戚」同士がお互いの思いをぶつけ合い、自らが足場としている「集団によって作り出されたシステムや風土」、そして「道徳」という道具で以って、お互いがお互い相手を自身にとって都合よく制御し、都合よく利用しようとするそういった関係性からもまた、逃れることは出来ない。

例えば、よく「引きこもり」は社会参加していないと言われるが、それは大きな誤りだ。「引きこもり」とて社会からは逃れられないし、逃れてもいない。というのも、元々「引きこもり」という肩書きは、ある者が社会と関係を持つことによって形成されたポジショニングの形態を指して、それを同じ社会という檻の中にいる誰かがその形態に置かれた者をそう呼ぶことによって生み出されているのであって、もしその者が社会参加をしていなければ、その「形態」もそれをそう呼ぶ人間も存在しない為、その者は決して「引きこもり」にはなり得ない。社会参加することによって初めてその者は「引きこもり」となり得るのだ。同じ様に、あらゆる肩書きや属性は、その社会を舞台とした「親戚」同士の関係性の中で生み出され、これまた同じ様に、その舞台でどのように振る舞いどのようなポジションを得るのかということによって、その者がどのような生活を獲得し、どのような生や死を獲得するのかもまた決まっていく。そしてその舞台には予め一般的道徳という無形の舞台装置が設置されており、その屋台骨は集団によって形成された暴力システムによって支えられている。

つまり、この世に人間として産み落とされ、その社会という舞台に身を置いている以上、その者が他者を「親戚」として利用しようとする意思や利用しているという意識を持っているか否かにかかわらず、既にその者はそれを利用しているし利用されている関係にある。そしてそういった関係性の中で、お互いが意識的・無意識的に「親戚」を制御し、利用しようとする折衝の結果として一般的道徳なるものの形が決定されていく。一般的道徳とは(外的には)そういった政治的産物でしかないわけだ(内的には宗教にもなり得るが)。

尚且つその一般的道徳は、大抵生存と競合するような形で落ち着くことになる。故にそれを遵守することを重んじ、自らをその規範で縛り付けてしまえば、外からは自由に身動きが取れないため「親戚」同士のポジション争いで不利な立場しか獲得できず、生存を維持することが困難な状況へと追い込まれることとなり、内からは「生」を受け入れるにせよ「死」を受け入れるにせよ、道徳の矛盾が生み出す「悪」という出口のない迷路の中で彷徨い続けることを要求され、最終的に自身の存在を否定しなければならなくなる。

だから其々の社会で其々の個人は、その都度その都度、その一般的道徳に様々な「例外」を上手く設けることによってそういった状況を回避していかなければならない。或いは、その生活の維持に必要な非道徳的行為を集団によって匿名化された状態で行使するなり、集団によって作られ運営されている暴力システムへとそれを委譲するなりして、自らが直接手を汚さず間接的にそれを行使することでようやく、(政治的に)健全な「生活」や健全な「生死」を手に入れることが出来る。そうやって道徳の罠を回避することが出来るからこそ、その者は社会的にも自意識的にも常識人(善人)になることが出来る。一般的道徳とは、常にこういった欺瞞を孕んだ存在なのだ。故にそれは政治的存在として信頼することは出来ても、非政治的なものとしては全く信頼するに値しない。

 ***

その者の人生に於ける「結果としての責任」を背負うことが出来るのはその者自身だけ。「親戚」がその責任を負うことは決してない。だがその「親戚」達は、自らがその責任を負うことはなくとも、例えそれが自身からしてどこの誰であるかさえ分からない様な者であっても、同じ社会に身を置く「親戚」の権利として、その者に対して様々な要求を突きつけることだろう。予め社会に仕込まれている舞台装置や、その舞台を支えている暴力システムを用いて己のその欲求を実現しようとするだろう。そして「親戚」達から要求を突きつけられるその者に生きる意思があるなら、生や死をコントロールしようとする思いがあるのなら、やはりその者もまたその環境を上手く利用しなければならない。

だからもし道徳を重んじるのならば、そういった「親戚」同士のエゴとエゴのぶつかり合いによって生み出される一般的道徳という道徳の皮を被った政治の権化よりも、自分自身の内的道徳をこそ本当に重んじるべきだよねえ、というそういう話。それで、一般的道徳は政治的にのみ重んじていればそれでよい。

そのままの方がよかったのに

どこに目をやっても腹の立つことばかり。イライラしてしょうがない。
特に、西成騒動関連のネットでの反応を見ると本当に吐き気がする。
どこまで自分の暴力や残虐さに無自覚になれば気が済むんだ。
コレコレで書いた通り、今のところ持続可能な依存先から疎外された
人間にとって、「樹海」でも「秋葉原」でもない唯一の選択肢なのにね、
「蜂起」って。それも許さんか…。

「お前らもう道具として利用価値がなくなったからさっさと死ねよ。
あっ、でも俺に迷惑が掛かるような死に方はするなよ」
ということなんだろうけど。
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幾ら世の中が複雑化したところで、結局のところ
生きることは即ち(人的なものも含めて)限られた資源の奪い合い。
上手くそれを奪い利用することが出来る者達がいる一方、
それが上手く出来ない者達もいる。当然、それを上手く奪うことが
出来なくなった者達は死ぬしかない。つまるところ、どんなに取り繕っても、
どんなに婉曲化してそれを誤魔化そうとも、どんな形態でそれが行われようとも、
生活の営みが資源の奪い合いであることには違いなく、そしてそれは同時に
他者を死へと追いやる可能性を秘めた加害行為でもある。

そう、人間に限らず他者への加害行為なしに生きて行ける生き物なんて殆どいない。
人間達が作った多種多様の幻想の檻。その檻から少しでも外へと目をやれば
誰でも気づくはずの当たり前の事実。しかし、人間は他者の加害行為を様々な
形態をした「道徳」という大儀で以ってそれを禁止する。そして自身の加害行為は
また同じ様に様々な「道徳」で以ってそれを肯定する。そうやって他者を騙し、
制御することで自身が生活の糧を得る為に有利なポジションの獲得を狙うと共に、
己を騙すことで自身の残虐性を隠蔽し、心の安寧を得ようとするのが人間。

まあ、欺瞞が服着て二足歩行しているような生き物な訳ですわ、人間って。

資源の囲い込みと疎外という黄金セット。
さらにそれと「社会(集団の利益)」を神とする宗教によって構築された
システムを複合的に用いることで、自覚することさえなく他者を殺戮しまくる。
そしてそれに対する反撃は全て単純に悪と見做し、さらなる暴力の口実とする。

余りにもえげつない。でも生存競争だから。そこにあるのは上手いか下手か、
そして自覚してそれをするのか、自覚せずにそれをするのか、ただそれだけ。
それは分かってはいるのだが…。

 ***


祖先はナメクジウオ ヒトと遺伝子6割共通--国際チーム、ゲノム解読

ヒトなど脊椎(せきつい)動物の祖先はホヤ類ではなく、ナメクジウオ類であることが、ナメクジウオの全遺伝情報(ゲノム)解読で分かった。京都大、国立遺伝学研究所や英米などの国際研究チームが突き止めた。19日付の英科学誌「ネイチャー」に掲載された。

なんで人間みたいなゲスい生き物に進化したんだろうな。
そのままの方がよかったのに。

人生には「進歩」も「成長」もない

それはあくまで比喩表現、
或いは、その比喩表現から生まれた幻想でしかない。

そこにはただ「変遷」と「政治」、そしてその政治的成功や失敗が
人々に抱かせる不確かな「評価」のみが存在している。

しかし、例えそれが幻想であっても、
その幻想が織り成す虚構の物語を信じることが出来るからこそ、
その者は己の人生を有意義なものとすることが出来る。
物語に浸り、自らがその一部を担っていると
認識することによって初めてそれが可能となる。

人間は、自らが一個の独立した生命体
であることが恐ろしくて堪らない。
その孤独に耐えられない。

だから、物語という母体に抱かれ、その母体から
承認という授乳を受け続けないと安堵を得ることが出来ない。
己自身の価値を見出すことが出来ない。
一個体だけでは自己の存在すら肯定出来ない。
そういう脆弱性を抱えた存在。

だが、その脆弱性が克服されることは決してない。
人間がどこか一方向に向かってその歩みを進めることもない。
人生に「進歩」や「成長」がないように、
人間もまた「進歩」することもなければ「成長」することもない。
道具やシステムが進歩することはあったとしても。

人間はただ人間として、その枠の中で変遷し続ける。
脆弱性の海を泳ぎ続ける。

そして「進歩」や「成長」は、ただその変遷の中で生み出される
幻想の中でだけ人々と共に存在することが出来る。

そういうモンスターにわたしはなりたい

「モンスターペアレント」対応マニュアル作成 大阪市教委(産経ニュース)

モンスターペアレント対応に専門家活用-県教委(四国新聞)

------------
どうもメディアのテコ入れは大成功だったようで、予想通り
この話題に便乗した書籍なんかも次から次へと登場して商売繁盛、
儲かりまっか?ボチボチでんな、といった塩梅。
民衆もまたこの“サーカス”が大変お気に入りみたいで、
その声に押されてついに行政をも動かす運びへとなりましたとさ。

しかし、普段マスコミ不信を自称している人達が簡単にこういった
マスコミ提供の娯楽に飛びついてしまったりするのは一体なんなのか。
結局マスコミ批判も、それ自体が“サーカス”としての
機能を果たしているということでしかないということか。

 ***

だが、実際のところメディアを騒がせているモンスターペアレント
なんてものはモンスターとしては三下もいいところ。
本当に恐ろしいもっと格上のモンスター達は、
自らがモンスターであると悟られずにその活動を行っている。

というのも、周りからモンスターであると認識されたその時から、
その者は狩られる者としての宿命を背負わなければならなくなる。
つまり、抑圧される者としての側面を持ち合わせることになってしまう。
賢明な格上モンスター達は決してそんな下手を打ったりはしない。

自身がモンスターであるかということに気づかれず、
如何にリスクを負わずにモンスター活動を行うことが出来るか。
これによってモンスターの格が決定される。
だから、直ぐにモンスターだと認識されてしまうような
モンスターなんてただの下っ端モンスターでしかないのだ。

真に優秀なモンスターは常に良識人の皮を被っている。
いつも正義の仮面を付けている。
善と悪の物語を上手く利用し、人々扇動する。
正義という麻薬で人間達を篭絡する。

そして、いつも社会という群れの中に身を隠し、
何か行為を行う時はその群れの一部としてそれをなす。
決して個体としての姿で活動を行ったりはしない。
幾ら屈強なモンスターといえども、組織には勝つことが出来ないからだ。

しかし、それだけではまだ一流モンスターになるには条件が不足している。

何故ならば、モンスターは自らがモンスターであることに悩むからだ。
幾ら優秀な秘匿能力や空気操作能力を持っていたとしても、
己の醜さや一貫性のなさに罪悪感を感じ、自己嫌悪に陥って
勝手に自滅してしまうモンスターは決して珍しくない。

故に、本当の一流のモンスターになるためにはそういった
モンスターとしての基礎能力の高さだけではなく、
自分自身がモンスターであるという自意識を隠蔽し、
己の矛盾や過ちを自身の道徳心の評価の対象外とすることで
その罪悪感から逃れる特殊な才能が必要になる。

善悪とは内容ではない。認識だ。
だから、他者と自分自身にそれを善だと認識させることが出来れば
それは善であり、悪だと認識させることが出来ればそれは悪になる。
少なくともそう認識させている間は。

道徳的に言えば、こういった自意識の隠蔽行為は
卑怯極まりない行為ということになるだろう。

しかし、これは生存競争なのだ。
生存競争に善いも悪いも無いだろう。あるのは上手いか下手かだけだ。
そもそも善悪や道徳という概念自体がその競争を有利にするための
モンスターアイテムでしかないのだから。

とはいえ、そのアイテムは諸刃の剣のようなもの。
多くのモンスター達はその剣によって自分自身をも傷つけてしまう。
だが一流モンスターは、その善悪という諸刃の剣を完全に制御し、
決して自分自身をそれで傷つけることはない。

そうやって諸刃の剣を使いこなすことで群れを上手く扇動する。
何か主張する時は群れの一部としてそれを主張し、
決して個体として責任を負わないように活動を行う。
その上、自らがモンスターであることすら気づかない。
そんな一流モンスターに私はなりたい。

そうなれば、何も悩み苦しむことなどなくなるのだから。


東に鬱病の子供あれば 行って精神論を唱えてやり

西に疲れた母あれば 行って自己責任と追い討ちを掛け

南に死にそうな人あれば 行って迷惑を掛けずに死ねといい

北に喧嘩や訴訟があれば 盛り上がってきましたといい

感動秘話には涙を流し 弱者の心をズカズカ歩き 

みんなに普通と呼ばれ

気づきもせず 気づかれもせず

そういうモンスターに わたしはなりたい 




(4/19) 少し記事に手を加えた。

人の命は軽い

重いのは、その命が生み出す苦痛だけだ。

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プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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