ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「ゆとり教育が原因である」←○か×かで答えよ

朝日新聞デジタル:大学生の4人に1人、「平均」の意味誤解 数学力調査 

大学生の4人に1人が、「平均」の意味を正しく理解していない――。そんな結果が、数学教員らでつくる社団法人日本数学会(理事長・宮岡洋一東大教授)が初めて実施したテストで分かった。

 国公私立の48大学に依頼し、1年生を中心とした5934人にテストを解いてもらった。

 「100人の平均身長が163.5センチ」の場合、(1)163.5センチより高い人と低い人はそれぞれ50人ずついる(2)全員の身長を足すと1万6350センチになる(3)10センチごとに区分けすると160センチ以上170センチ未満の人が最も多い――のそれぞれが正しいかどうかを聞いた。正解は(1)は×、(2)は○、(3)は×だが、全問正答率は76%にとどまった。

この手の学力調査で芳しい結果が得られなかったことに対し、その原因がゆとり教育にあるということを前提として話を進める者は多い。
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だが、そういった説をこの「平均の問題」になぞらえ、「大学生の4人に1人が、「平均」の意味を正しく理解していないのは、ゆとり教育が原因である」という設問を設けたなら、それは明らかに×ということになる(真であるとは限らない)のだが、それはよいのだろうか。そしてその時、実際にその可能性もあるのだからそれは間違っているとは言えないだろう、と言うなら、それは「平均の問題」における設問(1)と(3)は○でもよい、と言っているのと同じことになってしまうのだが、それは問題視されないのだろうか。そしてそのような主張を行う者は、一体何人に1人くらいの割合でいるだろうか。

――実際は、学力とそれを結びつけるだけならまだましな方で、学力とは全く関係のない事柄についてまで、ゆとり教育が原因であるかのように主張している者が相当数いるのが現状ではないか(ネタはいい訳にならない。狂人の真似をしてしまっている以上、周りからすればその者は狂人でしかない。さらに言えば、ネタという言い逃れをありだとすれば、テストの回答もまたネタと考えることができる)。

そもそもゆとり教育批判をしている人間が、何故そのような制度が生まれたのかという経緯や、その制度の詳細や実質的な運用について正しく理解しているかと言えば、それがまず怪しい。どうせなら、参加者を一般から募って「ゆとり教育の負の遺産」みたいな会合か何かを開き、同じようなサプライズ・テストをさせてみたらどうだろう。或いは会社や経営者同士の会合などでこの手のテストを行ってみるとか。ゆとり教育自体について問う問題を出してみるのもよいだろう。それらが実施されれば、きっとおもしろい結果が見えてくるのではないだろうか。

【追記】 どうも中途半端で何を言いたいのかよく分からない記事になってしまった感が。なので付け足しておく。

これを書こうと思った元々の動機は、このテストの結果を受けて、近頃の学生は論理的に物事を考える能力が落ちてきていると考えられる、などとニュースで言っているのを聞いたから。しかしそれには幾つかの疑問がある。まず一つは、この手のペーバーテストで論理的思考が測れるとは思えないこと。次に、実社会では論理的な整合性は全く重んじられていないどころか、むしろそれに囚われていると社会不適応者として扱われてしまうような環境が成立していること。考える前に動け、整合性なき理不尽に耐え忍び、それに順応するのが大人だ、とされているのが日本社会だろう。そして殆どの人間がそれに賛同してきたはずだ。そのような環境で論理的思考が摩滅していくのは当然の帰結ではないか。それを善しとしてきたはずの者達が、論理的思考の低調を問題視するというのは、それこそ正に論理的な偽の体現だ。

そしてそういった環境は別に今に始まったことではなく、日本の昔からの伝統文化であるはずだ。ゆとり教育云々というのは、比較的最近になってそうなったということが暗に示されているわけだが、そんなはずはないだろうと。そもそもペーパーテスト上に限った話をしてみても、実際の学生にとってのゆとり教育とは、単に学習要綱が減ったというだけの話なのではないか。その減ったものに含まれていた設問に答えられなくなったのなら、それはゆとり教育のせいだと推測することはできる。だが、「平均」のような基本的なものに関しては、ゆとり教育導入前後で大した扱いの違いはないはずであり――詳しく知らないので断定はできないが――、だとすれば、テストの結果がその影響を受けてのものと考えるのには無理がある。

どちらにせよ、実社会において論理的思考を摘み取るような環境が成立している以上、いくら学校でそれを教育したところで、その芽が育つとは考え難い。論理的思考を重んじるならば、まずその実社会から変えないとどうにもならないわけだが、それを変える気はさらさらないんでしょ、という。【了】
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「必要な不愉快」論と「間違いを恐れるな」論について

「より速く適切に学べる人」:その理由 « WIRED.jp

これは大きな誤解を生みそうな記事だなあ。

人は何度も何度も間違いをおかすことで、正しいやり方を学ぶということだ。教育とは、数々の間違いから搾り取られた知恵のことなのだ。

この結論自体にはさほど異論はない。

間違いをおかすことで生じる不愉快な反応を経験しない限り、われわれの脳が既存のモデルを修正することはない。いつまでも同じ間違いをおかし、自信を傷つけないために、自らを成長させる機会を逃し続けるのだ。

だが、何の留保もなしにこういうことを言い切ってしまうのはどうなのか。というのも、これは正に洗脳において用いられている論理と何ら変わりなく、そういった手法の正当性を認めているとも捉えることができるからだ(まあ教育自体が洗脳の言い換えであると考えれば、それは至極当然のことと言えるかもしれないが)。

そしてこれは、だからもっと努力しろ(苦しめ)、上手くいかない原因はお前の努力が足りないから(そのような怠惰で卑しい精神を持っているから)だ、というような精神論や、それによる苦痛の付与の正当性にもまた援用される可能性を持っている。というか多分されるだろう。
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 ▼(1)失敗が危険である以上失敗を恐れるのは当然

だから予め釘を打っておくと、もしこの実験結果をそういった精神論(努力信仰)、及び人生論にそのまま結びつけるとするなら、それは端的に言って誤りだ。

というのも、この実験には実社会には存在する失敗による精神的・社会的ダメージという重要な要素がすっぽり抜け落ちているからだ。

「自分の知能レベルはこのくらいであり、ほとんど変えることはできない」という固定的な姿勢(fixed mindset)、もうひとつは、「必要な時間とエネルギーさえ費やせば、ほぼどんな能力も伸ばすことができる」という成長志向の姿勢(growth mindset)だ。固定的な姿勢をもつ人は、間違いを「ぶざまな失敗」とみなし、与えられた課題に対して自分に十分な能力がない証拠だと考える。一方、成長志向の姿勢をもつ人は、間違いを、知識を得るために必要な前段階、学びの原動力ととらえる。

この記事では、この「固定的な姿勢」を持つようになるのは「自信を傷つけないために、自らを成長させる機会を逃し続け」た結果であるとしている。だが、本当に自信を失ってしまえば幾ら努力しても無駄ということになるから、その時点でもはやその者は努力をしなくなるだろう。また、失敗するたびに大きなダメージを負ってばかりいると、今度はそれを避けるために行動しなくなるという問題もある。努力のリソースとて無限ではないのだ。つまり、「不愉快な反応」は必要かもしれないが、かといってそれが行き過ぎると元も子もなくなってしまうわけだ。

さらに言えば、そのダメージは精神的にも社会的にも尾を引くという問題がある。教育する側が「必要な不愉快」として与えたそれが、その者にとっては大きすぎるダメージとなり、場合によってはそれが一生その者に足かせとなってまとわり付くこともあるだろう。特に大人の社会ではどんどんトーナメント化が進み、一度の失敗で取り返しのつかない状況に追い込まれてしまうことも往々にしてある。となれば当然、人々は他人の顔色を伺い、失敗を恐れ、なるべくそれを避けようとするようになるだろう。

これは学校社会においても同じことだ。一つの些細な失敗を切欠として、クラス替えがあるまで、或いは学校を卒業するまでスクールカーストの最下層で辛酸を舐め続けることになる、というのは何も珍しい話ではない。そこで負ったダメージがその者の後の人生に大きな影を落とすことになる可能性だって十分にある。そして人は自らがそのような状況に陥り、或いは他人のそのような状況を見聞きすることで、些細な失敗が如何に恐ろしい可能性を秘めているか、ということを学び取ることになるのである。

つまり、実際問題として失敗が危険であるという状況が現に成立している以上、幾ら失敗を恐れるなと言ってもそれは無責任な絵空事でしかない。よって、人々から失敗を恐れずチャレンジする姿勢を引き出すためには、まず失敗を恐れずに済むような状況を作り上げなければならない。

 ▼(2)現実逃避としての精神論

だが実際はどうかと言えば、厳罰化や、軽犯罪やマナー違反を犯した者をとことん追い詰めるメシウマ祭り、或いは競争の激化(という名のトーナメント化)の称揚に象徴されるように、社会はどんどんより些細な失敗でもより大きな罰やペナルティを、というベクトルに向かって邁進しているのが現状なのではないか。それどころか、ちょっとしたミスや、ミスですらない文化的・感覚的差異から生じるちょっとしたすれ違いでさえ落ち度(趨勢の在り様に順応しない者が悪い)としてみなされ、叩かれたりすることも珍しくない。

厄介なのは、こういった不寛容は必ずしも文化的な要因だけによって生み出されている現象とは言えないことだ。その根っこには社会的競合という人間社会の前提条件がある。資源もポジションも基本的にはゼロサムであり、人々はそれを奪い合って生活を営んでいる。つまり、不寛容さはその奪い合いの一環としてなされている部分がある。そしてこの前提条件は未だかつて覆ったことはないし、おそらくこれからもないだろう。不寛容がその前提条件に起因している部分がある以上、それはそう簡単には克服することはできない。

失敗に対する寛容さを妨げているのはそれだけではない。私が間違った時は痛い目に合わされたのだから他の者もまた同じように痛い目に遭わされるべきだ、或いは、間違いを犯した者より犯していない者の方が優遇されるべきだ、でないと不公平だ、というような平等主義的欲求もまた、失敗に対する不寛容さの大きな原因になっている。さらには、間違いへの恐れは規範の遵守を支える重要な柱でもあるので、規範を重んじれば重んじるほど、必然的に失敗に対する恐れを引き出すような環境作りがなされていくという問題もある。

サミュエル・ベケットは適切にもこう言っていた。「試してみたら失敗した。それがどうしたというのだ。もう一度試せ。もう一度失敗し、よりよく失敗するのだ」

即ち、多くの人々からこのような姿勢を引き出せるか否かは、人間や人間社会が元々持っている平等主義的欲求や社会的競合、規範の構築から発生する不寛容さを如何にして克服するか、ということにかかっている。

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しかしそれを克服するのは難しい。実際、多くの者は失敗を恐れるなと強弁しながら、結局ゼロサムゲーム上における一つの武器として失敗に対する不寛容さを利用しているのではないか。平等主義的欲求に熱を上げ続けているのではないか。

ゼロサムゲーム上における武器として不寛容を利用することは止めたくないし、平等主義的欲求も規範による画一化や統制も捨てたくない。しかし、もっと他人の教育効果から生まれる成果の恩恵にあずかりたい。このような相反する二つのベクトルが衝突し、それが現実の制限から解き放たれた妄想へと転化されることによって精神論は生まれてくる。そしてそこでは精神的・社会的ダメージによる影響という重要な要素は隠匿され、「不愉快な反応」を与えてやれば問題は解決するはずだ、問題が解決しないのは「不愉快な反応」が足りないからだ、というお決まりの主張へと相成る。要するにこの手の精神論はそういった現実逃避の一つの形として存在しているのだ。

敢えて精神論者が好んで使う言い回しを借用するなら、失敗への不寛容さを捨てようとする努力なしに、本来それなくしては成立しない成果だけを受け取ろうとする甘えや怠惰、或いは義務(失敗を恐れずに済むような状況を作り)を果たそうしない権利(教育による果実の取得権)の要求によってこういった精神論は成り立っている。

 ▼(3)箱庭世界の論理は現実には通用しない

この実験結果をそのまま人生論に結びつけるのは誤りだと言ったが、それが誤りである理由は何も「不愉快な反応」がもたらす精神的・社会的ダメージによる影響への考慮が抜け落ちているということだけではない。それが根本的に問題なのは、条件がごく限定された人工的な箱庭での結果を、実社会に当てはめてしまうところにある。

例えば、ここでは絶対評価を主軸として実験が行われているが、現実社会はむしろ相対評価として評価されることの方が多い。相対評価の場合、自分では精一杯努力したはずなのに良い結果がでなかった場合、それは他の者に比べて知性(能力)が足りないと言われているのと同じことになる。つまり、その時点でもはやこの実験の前提となっている根幹が瓦解してしまうわけだ。

また、ここでは努力の方向性は一つだけに限定されていて、さらに「正解」もまた一つしかないという前提の下で実験が行われているが、実際には努力は数え切れないほど多様な形態と方向性を持っている。そしてそのうちのどれが将来の自分にとっての「正解」により近い場所に導いてくれるのか、どれが周りから「正解」であると認識される結果へと結びついているのか、ということは未来になってみないと分からない(実際には未来の「分かった」ですら後付の解釈でしかなかったりするのだが)。人は皆、異なった条件の下で人生を送っているから、ある者があるやり方で成功したからといって他の者もまたそれで成功するとは限らない。当然、人によって必要な「不愉快」の程度やそのあり方だって異なってくる。つまり「正解」は一つではない。だからこそ努力や教育は難しい。

そもそも「正解」が競合するという問題もある。極端なことを言うなら、テロを起こし、それを成功させるのにも大きな努力が必要だし、その成功は一部の人々にとっては紛れもない「正解」なわけだ。元々努力というのは何らかのベクトルへと向かおうとする力のことでしかない。そこには善も悪もなければ、それがその者にとってプラスになるかマイナスになるかさえ、後になってみないと分からない。その純粋な力であるところの努力に善を見出したり、恰もその先により良い結果が待っているのが自明であるかのように考えること自体が大きな誤りなのだ。

 ▼(4)褒めて育てる、の落とし穴

最後に、褒めて育てるの落とし穴にも言及しておく。

賢さをほめられた生徒たちは、ほぼ全員が、自分よりテストの出来が悪かった生徒と自分を比較することで、自尊心を強化するほうを選んだ。これに対し、努力をほめられた生徒たちは、自分より成績のよかったテストを見るほうを選ぶ確率が高かった。彼らは失敗を理解し、失敗から学び、よりよい方法を編み出したいと思ったのだ。

アメリカではどうなのかは知らないが、日本では自分の賢さを誇っている人間なんて余りお目にかからない。では多くの人間が何を誇っているかと言えば、己の努力具合なのではないのか(ex.イチローの努力強調)。つまり、「自尊心を強化」には努力もまた無縁ではない。

そもそも、ここでは恰も「賢さをほめられた生徒たち」だけが人の目を気にしているかのように述べられているが、「褒めてもらえるから」という他者からの評価を原動力としてしている以上、結局のところそれはどちらもナルシズム――社会という鏡に映った自分の姿によって自己の存在意義を確認する――型の動機であることには変わりない。つまり、それが原動力の重要な部分を占めていくにつれて、次第にナルシズム・タイプの人間に近づいていくことになる。そうなれば否が応でも常に他人の目を気にせざるを得なくなるし、何らかの形で常に周りから評価(注目)されていないと不安でしかたなくなってしまう、というような者だって出てくることだろう。

以前、ニコニコ生放送で未成年が人々の注目を集めるために奇行や露出に走っていることが話題になっていたが、そういったものもまた、他者からの反響を原動力とする努力行為であることには違いない。そこでは「賢さ」など気にせず、注目を集める(評価される)という結果を出すために、多くの人間にとって困難であるはずの愚行に尽力するという不断の努力がなされていたわけだ。

平生から努力の重要さを訴えている者の多くはきっとその努力を嘲笑うことだろう。しかしながらそれもまた努力の一つの形であることは紛れもない事実なのだ。努力とは所詮そのようなもの――それ自体に良し悪しはないもの――でしかない。そして褒められるから、という他者からの反応を期待することによって生じる力を利用した教育には、人々をそういった状況へと導いてしまう危険性もまた秘めているわけだ。

自虐と他虐、「自虐史観」と自己責任、戦争と内戦

橋下維新「自虐史観でない教科書を」 大阪市会で決議提案へ - MSN産経

今現在、多くの日本人がこの国の政府や世間的風潮を批判し、また、自国民同士で批判し合っていることだろう。それを自虐と言う人間はどこにもいない。だが何故か、戦前・戦中の政府や軍隊、世間的風潮への批判だけを特別視し、それにのみ自虐というレッテルを貼り付ける人間がいる。
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ここで言う自虐の「自」とは、恐らく「日本」のことをさしているのだろう。しかし、「日本」というのは日本政府や社会的趨勢、橋下維新だけを指しているわけではない。この集合体を形成している、それら以外の者もまた「日本」だ。よって、其々が己の持っている世界観は他人のそれよりも劣っていて、それ故自らのそれを否定しなければならない、というような自虐的発想に溺れていない限り、自ずとそれらの「自」同士はお互い衝突し合うことになる。これはその衝突の一つであり、それ故「自虐」はその対抗相手への批判の根拠にはならない。

ここで何故「自虐史観」などという言葉が出てくるのかと言えば、それはその者が大日本帝国時代の世間的風潮や軍隊と自らを同一化しているからだろう。そしてそれに唯一絶対の「日本」であるかのような前提を与えるが故に、このような表現が出てくる。だが、当時の風潮や軍隊と自らを同一化していない人間からすれば、その「自虐史観」とやらは、今多くの人間が行っている、自国内における何らかの思想や風潮への批判と同じことでしかない。

むしろ全てを「日本」と一まとめにしてしまうなら、多くの自国民に不幸をもたらした戦前・戦中の思想や風潮、動きこそ(結果論ではあるが)自虐的だったと言えるのではないか。実際、ここで批判的に扱われている「自虐史観」には、単に外国への侵略行為だけでなく、そのような自国民に対する虐への批判や反省もまた同時に込められていることは疑う余地がないだろう。例えば、勝ち目の無い戦いを強いるということは、無理に自殺を強いるのと同じことだ。当時の多くの人間は戦争を行うことをはやし立てたかもしれないが、全ての人間がそうだったわけではないし、そのせいで嫌々何かを強いられ、苦しめられた人間も大勢いたはずだ。他ならぬ日本人から。無計画な作戦を元に戦地に送られ、戦う前に餓死した人間だって大勢いる。つまりそれは単に外国との戦争というだけでなく、自国民同士の殺し合いでもあったわけだ。そのような自虐行為への批判や反省を「自虐史観」であるとして斬り捨てるということは、「日本」であっても自らの認める「自」以外の者には、或いはその「自」による大儀のためなら虐をもやむを得ず、と言っているのと同じことなのではないか。

そもそも、他虐を真に受けてしまうと自虐になるわけで、気に食わないことがあると直ぐに他虐に走ったり、それを頼りにして人気を獲得してきたような人間が自虐を問題にするとしたら、それは全く筋が通らない。自虐を問題視する人達は果たして他虐が持つそのような問題に対して気を配ってきただろうか。

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「自虐史観」批判には、他にもまだ大きな問題がある。それは現在の潮流であり、多くの「自虐史観」批判者もまた賛同しているであろう自己責任理論との相性の悪さだ。

「弱い人間は好きで弱くなったのだからもっと強く踏みつけてやればいいのよ」というのは、「自虐史観」批判の急先鋒である金美齢の言葉だ。要するにこれは、人が窮地に陥るのは努力不足と精神的未熟さが原因であり、それ故、そのような人間が苦しむ/苦しめられるのは自業自得である、という考え方だ。こういった考え方は、今現在――どこからどこまでが努力不足や未熟さのせいなのか、という線引きは其々で異なっているだろうが――多くの日本人に支持されている。そして金美齢や橋下知事など、「自虐史観」批判者の多くはとりわけこういったことを強く主張してきたはずだ。

しかしこの考え方からいくと、当時の日本が窮地に陥ったのは努力不足や未熟さ故であり、それを反省しなければならないということになる。それどころか、それは「もっと強く踏みつけて」やるべき対象ですらある。そしてその対象は、その踏み付けを甘んじて受けねばならず、それに対して不満を漏らすのは「甘え」ということになるはずだ。つまり、自己責任論はこういったマゾヒズム的趣向を強要するものであり、「自虐史観」批判とは本来相容れないもののはずなのだ。

「自虐史観」を問題とする者達がよく行う、日本は石油を止められ、追い詰められて仕方なく戦争に…という主張も、自己責任論からすれば自業自得の一言で済ませてしまうことができる。実際、それは中国や仏印への侵攻がその引き金になっていて、落ち度がありまくるわけだし。政治下手だったが故に…という主張も、コミュニケーション能力――実質的には折衝能力――は努力で補える。よってその能力の無さ故に痛い目にあってもそれは自業自得であり、不平不満を漏らすのは甘え、というような一般的主張からすれば、断罪されるものでしかない。他の列強がやってたから(みんなやってるから)、という理由に関しては、いちいち言うまでもないだろう。

また――自国民の命を大切にしない人達がこんなことを言うのはおかしな話だが――仮にそれらを生き残るために、人々の生活を守るためにはやむを得ない侵攻だったとしても、それをよしとするなら、資源不足や財政難に悩まされる多くの国々(「自」)は、それを理由として侵攻を行ってよいということになってしまう。果たしてそのような理屈を仕方がないこととして受け入れることができるだろうか。

さらに言えば、生活のために仕方なく…を擁護すべき理由とするなら、生活のために強盗や窃盗をしている人間もまた擁護すべきだろう。実際、どのようなシステムを作ってもそこに上手く収まらない者が出てくるわけで、そういった世渡り下手な人間は、正規のシステムの外で非合法の生存活動を行うか、飢え死にするか自殺するかしか選択肢がない。こういった問題は古今東西、どの国も抱えている問題であり、その前提こそが社会問題における出発点だ。つまりそこには、ただ断罪すればよい、というだけでは済まない難解な問題が存在している。しかしながら、それを擁護するでもなく、幾ら同情の余地はあっても法は法、でもなく、ただ「努力不足」や「未熟さ」という言葉で斬り捨ててきたのが「自虐史観」批判者の一般的態度だったのではないか。そうである以上、生活のために仕方なく…を理由としてそれを擁護することもできないはずだ。

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社会に身を置いていない人間が己を卑下するなどあり得ない。自虐と言うのは常に社会の中における他者との関わり合いの中で生まれてくるものだ。取り分け、他虐を受けることはその者に自虐の芽を芽生え易くする。他虐が自虐を生み、自虐が(「苦痛の平等」により)他虐を生む。よって自虐が問題であるとするなら、まずその大きな元となっている他虐をこそ問題にすべきだろう。

しかし「自虐史観」批判者の多く――少なくとも金美齢(ウィキペディアによると日本国籍)や橋下知事――は他の日本人に対し、むしろ積極的に他虐を行ってきたのではないか。本来「自虐史観」批判とは相容れないはずの自己責任理論を用いたりしながら。もちろん、こういった矛盾はその者達が他虐を行った人間は彼らの思う「日本」ではなかった、とすれば全て氷解してしまうわけだが。――まあ要するにそういうことなのだろう。自己責任を自分ではない他人に向けているうちは、それは自虐にはならないのだし。

しかしだとしたらそれは、(自らの想起する)お国のために尽くさない者は非国民、という考え方となんら変わらないだろう。というか、先の戦争が自国民同士の殺し合いという側面を持っていたように、今の状況もまた、文化・社会システムを介した内戦の最中なのかもしれないが(足の引っ張り合いとしての競争しかできない体質。まあどこの国も似たような問題は抱えているだろうが)。だから自虐や他虐が絶えない。

そんな、何の理念も原理も共有しない烏合の衆であるところの日本人同士による内戦がより本格化するのを避けるため、結果的に生み出されたのが先の戦争であり、終身雇用制度であったりしたのだろう。しかし前者はより大規模な自国民同士の殺し合いを生み、後者は世代間抗争を生み出した。まあそういう国なので、他虐によって他人の自虐を引き出し、それによって足を引っ張る※1というのは個体間の生存競争においては合理的と言えば合理的な判断なのかもしれない。但し、その集合体たる国家として見て、或いはより長いスパンで見てどうなのかは分からないが。



※1 本当に自虐的な人間は、欠陥品としての自分を上手く社会に売り込むことができないので、まともな社会的ポジションを獲得するのが難しい。その分ポジションが空くことになる。足の引っ張り合いであるゼロサムゲームにおいては。

「始めに戻る」→「画一的雛形社会」

【ノーベル化学賞】「私は受験地獄の支持者だ」「若者よ、海外に出よ」根岸さんが会見(MSN産経ニュース)

「私は日本の(悪名高い)受験地獄の支持者だ」。理由は、高度な研究になればなるほど、「基本が大事になるから」。それをたたきこんでくれたのが、日本の教育だった、というわけだ。

ある人物にとって組み合わせが良かった環境が、他の者にとってもまた良い組み合わせになるとは限らない。というか、地獄に身を置いたことのある人間が地獄を支持するはずなどあるまい。その者のモチベーションと存在意義を枯渇させる環境こそが地獄なのだから(希望があれば、それは本当の意味での地獄とは言えないだろう)。自分にとって意義ある行為に邁進するのは、地獄でもなんでもない。何故「受験地獄」が悪名高いのかというと、画一化された雛形に無理矢理全ての人間を押し込もうとした結果、多くの人間のモチベーションを奪う結果になったからだ。全ての人間を似たような環境に置き、全ての人間が同じ目体を共有し、そこで求められた作業に邁進することさえ怠らなければ、誰もが幸福を手にするチャンスがある、という平等主義的ユートピア論が「受験地獄」の生みの親(最初からそれがほんの一掴みの人間にしか実りのないものだと分かっていたら、多くの者はそれに乗っからない)。そしてこのユートピア論の崩壊が「ゆとり教育」の出自。よって、もし「受験地獄」を復活させるなら、それは双六で言うところの「始めに戻る」に当たる。
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学校でも会社でも家庭でも、或いは地域社会や同好の士の集まりでも、新参者がやってくると、まず予め用意された雛形にその者を押し込もうとするのがこの国の慣わし。日本ではそれもってして≪教育≫と呼び、その雛形に上手く収まることを≪成長≫と呼ぶ。そこで上手く≪成長≫できなかった者は、様々な罰とペナルティが与えられる。人々はそのような環境に身を置くことで、雛形に収まれないことが如何に恐ろしい結果を招くか、ということを実際の経験を通して学んでいく。その恐怖という動機の後押しによって、雛形に収まる努力と苦痛を強いられるのが日本的雛形社会。

だが、雛形に収まることだけに全身全霊を尽くしてきた者は、後になって、自分はどうやってもその雛形に収まることが不可能だった、ということを知った時、或いは自らが依存してきたその雛形を失ってしまった時、もはやなす術がなくなり、廃人になるしかなくなる。逆に、雛形に上手く収まり続けることができたとしても、自らが順応したその雛形に沿った思考や行動しか取れなくなってしまう。切迫した事情により、雛形に収まることばかりを重んじ、それ自体が目的化してしまうと、そういった雛形依存症に陥ってしまう危険性がある。其々の個人、或いは其々の局面に相対する時、その都度それに最も相応しいであろう関わり方を探り出し、形成していくのは非常に骨の折れる作業だ。しかし用意された雛形こそが真理であり、最も正しい関わり方であるとするならば、そんな努力をする必要はなくなる。つまり「受験地獄」は、教育者がその(意味での)努力を放棄し、怠けるための手段でもあったわけだ。

さらに、恐怖による後押しと苦痛による代償によって雛形への順応を手に入れた者の多くは、「恐怖と苦痛の平等」を保つための復讐に手を染め、それにモチベーションの多くを費やすことになる、という問題もついてまわる。自分はこれだけ苦しんだのだから、お前達ももっと苦しむべきだ、と。だが、他人の苦痛は自分の感覚として直接感じ取ることはできないから、必然的に自身が受け取った苦痛を過大評価することになり、それ故、認識上における自身と他者との苦痛のバランスはいつまでたっても改善されず、その復讐というミッションは永遠に達成されることはなく、際限なく続く。それを諦めない限り(メシウマ祭りが良い例)。この憎悪と恐怖の渦の中で、本来育つはずだったモチベーションが奪い取られ、ねじ伏せられ、すりつぶされていく。これが現代日本社会が抱えている問題。

「受験地獄」を復活させたところで、この問題を悪化させることはあろうとも、その解決には役立たないだろう。というか、一度失敗したものをそのまま蒸し返したところで、良い結果が生まれるはずもない。根岸氏がそれを支持するのは、予め用意されたその雛形に自らの体質が上手く合致していたからだろう。つまり、彼にとっての「受験地獄」とは、己の獲得したモチベーションを存分に注ぎ込むことができる「天国」だったというわけだ。だが、冒頭でも言ったように、ある人物にとって組み合わせが良かった環境が、他の者にとってもまた良い組み合わせになるとは限らない。ならば、如何にして其々にとっての「天国」を用意するか、ということこそが次の教育の課題なんじゃないか。

いずれにせよ、かつてその画一化された雛形への押し込み行為が多くの者のモチベーションを奪い去る結果になり、それによって「ゆとり教育」が生み出された、という経緯を忘れてはならないし、ノーベル賞は復古主義の正しさを担保したりもしない。それだけはしっかりと認識しておかなければならないだろう。

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同国人が何らかの分野で世界的に評価されると、その権威を利用して世論を特定のベクトルへ誘導しようとする動きが必ず出てくるのが世の常。だが、その者がどのような肩書きや属性を持っていようと、それに惑わされず、その主張の内容こそを検討し、評価する、というのはあらゆる学問における大前提のはずだろう。それを蔑ろにするなら、学問よりも政治の方が重要であり、前者は後者の犠牲になるのもやむなし、と言っているのと同じだ。そういった権威主義を払拭することも、教育の持つ重要な役割の一つなんだと思う(教育は権威を根拠として行われるので、原理的に無理という声が聞こえてきそうな気もするが、肩書きよりも内容で判断することの重要性を説くことくらいは可能だろう)。まあそりゃ政治も大事だけどね。でも、そういった安易な権威主義に頼る政治もまた、それはそれでクオリティが低すぎる。

他人への「厳しさ」は、自分への「甘さ」によって成り立っている

【Sports Watch】“満塁男”駒田氏が、最近の虐待事件に怒り露わ

「また、幼児虐待の事件が。」というタイトルでブログ綴った駒田氏は、同事件を「90年以降、どんどん増える傾向にある」とし、「90年と言うと、僕らが親になった世代。親や先生にビンタを食らった最後の世代だ。それから、どんどん大人が子供に手を上げる事がなくなり、今の幼児の親達は全くそんな経験がない人がほとんどだ」と述べると、「それなのに、なぜ虐待が減らないのか。自分がされた事がない、一番嫌な事をなぜ子供に出来るのか、全く理解出来ない」と持論を展開する。

また、その持論に賛否こそあるだろうが、ブログの最後では「原因は何であれ、甘やかされた子供が大人になって虐待事件を起こしているのは間違いない。綺麗事の教育では、今後もこのような事件が減らないと思うのは僕だけか」と語る駒田氏だった。

“虐待を減らすために「大人が子供に手を上げる事」を推奨する”という余りにも矛盾に満ちた主張。このような論理は、余程自分に甘い人間の口からしか出てこないだろう。というのも、このような余りにも大きな欠陥を持った主張は、その者が少しでも自らを疑い顧みる「厳しさ」を持っているなら、それによって、表に出てくる前に消し去られるか、出てきて直ぐに訂正されることになるはずだからだ。それが表に出てきて訂正されることもなく放置され続けるということは、その者が自らに対する「厳しさ」を元々持っていないか、もしくはその審査基準が余程甘く設定されているかのどちらかだ。つまり、他人への「厳しさ」を推奨するこの主張は、自分への「甘さ」によって支えられている。
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▼(1)≪厳しさ≫というブランドで隠蔽される、自分への「甘さ」

これに限ったことではなく、結局、他人へ「厳しさ」というのは、自分への「甘さ」が出自となっているものが殆どなのではないか。例えば、子供が自分の思い通りに動いてくれない時、それによって生まれる鬱積を、シバいたり怒鳴りつけたりして発散するのは非常に簡単だ(あくまで“それ自体”は。一連の流れを通しては、無間地獄に陥る可能性があるが)。一方、そういったストレスを抱えながらも、暴力的欲求を封印し、もっと他に上手くやる方法はないか、とあれこれ考え工夫するのは非常に骨が折れる。このどちらの方が自分にとってより辛く厳しいことであり、より楽で甘いことなのか、ということはわざわざ言うまでもないだろう。

これは何も子供相手の場合だけに限ったことではない。自らの方が腕力や立場において勝っている相手と接する時にも同じことが言える。その優位性に甘え、ごり押しによって一方的に自らの唱える「正しさ」を相手に押し付けた時、その「正しさ」は、「自らを体現することができない力なき正義は正義たり得ない。正義とは即ちそれを実現する力のことである」というような短絡的な「正しさ」にしかなり得ない。だが、そのような結果論から導き出された「正しさ」を、そのまま概念的な「正しさ」と一致させることが如何に危険なことかということは、少し考えれば誰でも分かることだ。そのような「正しさ」が絶対的なものとして幅を利かせ始めたとしたら、或いはその「正しさ」が自らに襲い掛かることになったら、今その時点で優位性を根拠として「正しさ」を押し通そうとしているその者も、きっと納得はしないはずだろう。つまりその「正しさ」は、その者にとってすら「正しく」ない。

その「少し考えれば誰でも分かること」に思いを馳せることもなく、整合性を保つための「正しさ」を模索する努力をすることもなく、ただ「できるからする」。立場的優位に依存しなければ力を持ち得ないであろう出来の悪い「正しさ」を、「押し通せるから押し通す」。ここから生まれる他人への「厳しさ」は、自分への「甘さ」が前提としてなければ成立しない。

要するに、“虐待を減らすために「大人が子供に手を上げる事」を推奨する”というようなどうしようもない出来損ないの論理がもっともらしい顔をして出歩くことができるのも、「非常に骨の折れる」工夫を放棄し、暴力的行為でストレスを発散するのも、腕力や立場的優位を根拠として「正しさ」を押し通すのも、≪厳しさ≫というブランドで隠蔽された、自分への甘さに他ならないわけだ。

▼(2)目的が「厳しさ」の遂行自体に摩り替わるという現象

もう一度冒頭の駒田氏の主張に話を戻すと――もし彼の言うように、自分が「嫌な事」をされたことが無いから人に「嫌な事」をするのだとすれば、人に「嫌な事」をしない人間を育てるには、その人に「嫌な事」をしなければならないことになってしまう。だが、そもそもそういった行為自体が問題とされているのだから、この主張は全く本末転倒だろう。

ここ数年で虐待の認知件数が増える傾向にある(とニュースでは言っていた)、ということにしても、それは現象としてのそれが増えているというより、単に認知件数が増えたと考えた方が妥当だろう。なんせ、「奇麗事」によって、彼が推奨する「大人が子供に手を上げる」という「汚い事」が世間的に許されなくなってしまったわけだから。もちろん、死亡に至るほどの事件にでもならない限り、その実体を実数として明確に把握し、時代ごとに比較するのは難しいだろう。ただ、昔は虐待と認識されなかったものが、彼の否定する「綺麗事の教育」によって、虐待であると認識され、問題視されるようになってしまったということだけは事実だ。そうなれば、認知数としてのそれが増加することになるのは当たり前だろう。ここでは、その「認識の変化」も関係しているであろう虐待の認知件数の増加を受けて、それがより認知され易くなったことに一役買ったはずの「奇麗事」を否定し、それでは駄目だ、といって憂いてみせるという構図になっている。確かに、「汚い事」が許されるのであれば、認知数としての虐待は減少するだろう。今虐待とされているものが虐待とは認識されなくなってしまうわけだから。だが、そうなれば当然、現象としてのそれは増加することが予想される(躾や教育と称して暴力を振るうことが、世間的に良いこととされるので)。

そもそもこの問題で重要なのは、時代によってそれが増えているか否かではない。今そこで起こっているそれそのものだろう。よって、実体としての虐待や嫌がらせを本当に心配しているなら、過去と比べてどうこうではなく、今現在におけるそれを如何にして抑制するか、という視点からものを考えるはずだ。ところが彼は、むしろ「大人が子供に手を上げる」という、虐待と紙一重の行為を後押しするような説を打ち立てている。このことから見るに、彼はここで虐待や「嫌な事」がなされること自体を憂いているというよりも、「大人が子供に手を上げる事」や、教育によって他人に厳しく当たることが許されなくなった現状の方を嘆いていると見た方が妥当だ。つまり、ここでは虐待や嫌がらせが問題だというそもそもの目的や大儀が、結果として見事に消し飛んでしまっている。目的が他人への「厳しさ」そのものに摩り替わり、虐待云々はむしろそのための手段に成り代わっている。これを欺瞞と言わずしてなんと言おう。

――だが、このような無茶な論理を打ち立てた駒田氏を笑ってばかりもいられない。何故なら、こういった主張は別に特別なものでもなんでもなく、ごく一般的なものとして、今まで多くの人々に受け入れられてきたものでもあるからだ※1。彼は単に、その「古きよき伝統」の伝承者の一人でしかない。いつの間にか目的が「厳しさ」の遂行それ自体に成り代わっているということだって、決して珍しいことではない。そういう現象はいたるところで見受けられる。さらに言えば、立場的な優位性を振りかざし、無理のある「正しさ」を強引に押し通そうとしたことは、誰にでもあるはずだ。つまり、誰もが他人へ「厳しさ」を求めるという形を取って、自分を甘やかしたことがあるはずなのだ。その≪厳しさ≫という名の甘い誘惑に負けたことがあるはずなのだ。

▼(3)何故人は、他人に「厳しさ」を押し付けなければならなくなるのか

では、何故人は他人に「厳しさ」を求めてしまうのか。そうやって自分を甘やかさなければならなくなるのか。それには幾つかの理由があるように思う。

 <(i)「苦しみ」に意味がないことに耐えられない>

例えば駒田氏は、あの主張からすると、自分は厳しく育てられたと認識しているようだ。彼がそう認識しているのならば、彼にとってはそうなのだろう。だが、他人から受けた「厳しさ」には、当然「苦しみ」が伴う。人間は、この「苦しみ」に意味を見出そうとする傾向がある。ただ無駄に苦しんだとは思いたくないわけだ。大抵の人間は、あの時のあの「苦しみ」に耐えたから、自分はより大きく成長できたのだ。あの「苦しみ」による試練が、私を一段高いステージへと引き上げることになったのだ――というような物語を作り上げ、その物語によって現実を理解していく。そうやって自分という存在を世界に関連付け、安定した自我像を作り上げていく。

だが、もしその「苦しみ」に意味がなかったとしたらどうなるだろう。その場合、それを前提として「現実」を形作ってきた物語は崩壊し、今までその物語の主人公として活躍してきた「自分」は、単なるほら吹き道化と成り下がる。ただ一人虚空の世界にポツンと取り残されることになる。その時、その物語に依存することで自身の存在意義を保ってきた「自分」は、存在意義を完全に失ってしまう。故に、その物語の主人公である「自分」は、その物語の筋書きを、そして「苦しみ」の意味を守り続けなければならない。

だが、何らかの「正しさ」をただ一人だけで信じ続けるのは中々難しい。大抵の人間は、他人もまたそれを「正しい」と信じているから、という理由でもって、ようやくその「正しさ」を心の底から信じることができるようになる。――だからこそ、人は他人を崖へと突き落とす。突き落とされた者達が再び這い上がって来て、「この試練があったからこそ、自分は一回り大きく成長することができたのです」という姿を見るために。そうやって、自らが作り上げた物語の「正しさ」を他人の信心によって確認せねばならない。「苦しみ」の意味を守り、物語への新たな参加者を生み出し続けなければならない。

その時その崖下と崖上は、必然的に「正しさ」の境界線となり、人々を分け隔てることになる。それ故、崖下の惨状が崖上の人間から省みられることはない。物語の筋書き上、その惨状は自業自得でなければならないからだ。そしてこの「突き落とし行為」には、選民思想のようなものを生み出す効果も備わっている。そこでの這い上がり行為は、一種独特の自尊心を人々に植え付けることになるからだ。それ故この手法は、自己啓発セミナーや会社の研修、就労の社会的意味、形式の確保、或いは派閥の地盤固めなど様々な場所において、より積極的に活用されることとなっている。

 <(ii)人は平等に苦しまなければならないという思想>

幾ら「苦しみ」に重要な意味や価値があると自分に言い聞かせてみても、それはそのような「苦しみ」を獲得せざるを得なかった事実が前提としてあるが故のものであって、本当は誰だって、できることなら苦しみたくなんかない。だから、自身が何の見返りもない「苦しみ」を散々獲得しているのに、大した「苦しみ」も獲得せずに、大きな利益を得ている他人を見ると、どうしても不満が噴出することになる。この不満の根底には――これもまた「苦しみ」の無意味性への拒絶に関連したものでもあるが――、大きな「苦しみ」を得た人間ほど大きな見返りを得なければならない、或いは、大きな利益を得た者は、その分沢山苦しまなければならない、という平等への渇望がある。

「平等」という思想は、何も教育によって後天的に植えつけられるものばかりとは限らない。何故ならその思想は、元々人間が持っている不公平感を出自としているからだ。現に、普段「平等」を鼻で笑っているような人間も、大抵はこの(不公平は正さねばならないという)平等思想への強い信仰心を抱いている。そしてそれを信仰している者は、その教義に照らし合わせて納得がいくように、他人に「苦しみ」を与え、人々が受け持つ「苦しみ」のバランスを取ろうとすることになる。その信仰行為が、世間では「厳しさ」という言葉で言い表されている。

だが、人間は決して他人の感覚を知ることはできない。つまり、自分の「苦しみ」を感じることはできても、他人の「苦しみ」は想像力を通してしか感じる取ることができない。すると必然的に、幾ら相手を苦しめてもその「苦しみ」を自分は感じ取ることができないから、結果として自分の方がもっと苦しんでいると認識することになり、ついついバランスを整えるための「苦しみ」の付与が、行き過ぎてしまう。教育のためと称して行われる行過ぎた虐待やリンチには、この平等への渇望や他人の苦痛への不可知性が、少なからず関わっていることだろう。

 <(iii)他人を捻じ伏せることによって得られるカタルシスへの依存>

他人に「厳しさ」を求める時、それを求める側は大抵、相手が手出しすることができない安全地帯にいるか、もしくは自分の方が腕力や立場において優位に立っているかのどちらかの条件を満たしている。もし逆ならば、むしろ自分の方が相手がもたらす「厳しさ」に晒されることになるからだ。この、立場的優位を利用して相手を一方的にねじ伏せる行為には、その者に大きなカタルシスをもたらす効果がある。そこに先に挙げた物語性や、平等信仰上の摂理を正すという使命が加われば、尚のことその爽快感は増すことになるだろう。他人への「厳しさ」の遂行には、そういった娯楽性や快楽性が備わっている。だからついついそれに手を染めたくなる。

 <(iv)単純に楽>

どのような場所でも、状況は常に変化している。しかし、次から次へと移り変わる新しい状況を受けて、その都度より相応しい手法、より望ましい人との関わり方を模索し、新たにそれを作り上げていくのは非常に困難なことだ。それよりも、目の前の状況を予め用意された雛形の中に無理にでも押し込んでいくことの方が、遥かに楽だ。しかし、その自分が楽をするための雛形への押し込み行為が、他人への「厳しさ」となって現出する

▼(4)≪厳しさ≫による誤認現象

――とまあ、他人に「厳しさ」を求めざるを得なくなる理由を幾つか推測して挙げてみたが、何にせよ一つ確かなのは、他人への「厳しさ」は、自分への「甘さ」そのものだということ。これは、例えば自分は苦行をしているから、というのはその「甘さ」の言い訳にはならない。何故なら、“自分の好きで苦行をする”のと、他人に嫌々それをやらされるのでは全く意味が異なってくるからだ。また、自分の好きでやっている苦行は、あくまで個人的なものでしかない。それは他人が自分の思い通りに動いてくれないという「社会的な苦しみ」とは全く別の問題だ。「甘さ」への言い訳にならないのは、その者が過去に大変厳しい目に遭っていた、というケースでも同じことだ。幾らその者の過去に大きな「苦しみ」を受け取っていた事実があろうと、今その時点における双方の関係性の上で、その他人への「厳しさ」が、自身への甘やかしとなっていることには何ら変わりがない。

ところが、本来自分への甘やかし行為であるはずの「他人への厳しさ」が趨勢側によってなされると、それが一種特有の≪厳しさ≫というブランドとして機能し、そのイメージによって、「自分への甘さ」というその内容が隠蔽されてしまう。逆に、そのブランドの威光によって、まるで「厳しさ」を求められた側こそが甘えているかのように認識されてしまう。この≪厳しさ≫というブランドがもたらす錯誤効果、及びそれが生み出す問題は、もっと広く知られてもよいのではないか。

 ***

その「厳しさ」や「甘さ」が其々にとってどのように機能し、其々をどこへ導くことになるのか。それは分からない。だから、一概に甘い方が良いとか厳しい方が良いとか、そういうことは言えない。ただ、自分への甘やかしを「厳しさ」と言い換えることによって押し通そうとするような因習は、そろそろ止めにした方がいいんじゃないかと。

因みに、自分は体罰絶対禁止派ではない。しかしもしそれを行うのであれば、いずれ立場や腕力が逆転した時に、その優位性によって逆に自らがねじ伏せられ、蹂躙されるという可能性があることくらいは頭にいれておき、それを覚悟した上でなすべきだろう。体罰とは、そういった一か八かのギャンブルなのだ。



※1 実際、一昔前は「しつけ=シバく」が常識だった時代がある。現に、自分はそういった常識を真に受けた父に、母や妹と揉めていると、或いは単に母が機嫌が悪いというだけで、訳を訊かれることもなく、取りあえずシバかれた。教育に理念を持つことができず、それを世間の常識で埋め合わせることしかできなかった父にとっては、シバくこと“それそのもの”が教育だったわけだ。

道徳の欺きによって生み出される憎悪の「還元」リスク

どうも、規範の押し付けが憎悪や復讐心の生みの親になる、
ということを分かっていない人が多いような気がする。
道徳はドラえもんのポケットから出てくる便利な道具ではないのだが。
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誰かが何らかの不幸に見舞われても、その者が自分の好きで何かをした/しなかった結果そのような状況を招いたという認識を持っていたならば、諦めもつき易い。その結果を恨むとしても、過去の自分自身の判断や己の運の無さを恨むしかないだろうから。しかし、他人からの道徳的要請によって何かをした/しなかったせいでその結果が生み出された、とその者が認識していたならば、そうはいかない。

そもそも、現実が道徳と乖離している以上、その教えは必然的に欺きとして機能することになるのは避けられない。それはつまり、他人に道徳的要請を行うということは、結果として他人を欺く行為になり、その要請を真に受けた者達に不幸をもたらす結果にもなり得るということだ。となれば、その不幸を生み出す原因となった道徳を押し付けた/押し付けようとしている者は、当然その者達から恨まれることになるだろう。

それも、その者が道徳に強く縛られていればいるほど、それを強く信じていればいるほど、その反動として、その欺きによる恨みもまたより大きく増幅されていくことになる。人は己が強く信じているものに裏切られた時ほど、より大きな憎悪を抱くことになるだろうから。そしてその増幅された恨みは、何らかの形になって世間に還元されることになるだろう。その者が不特定多数の人間から無差別的に道徳的要請を受けたのと同じように、無差別性を伴って。

要するに、こうであらねばならない、という規範の押し付けがより強くより広く行われれば行われるほど、より多くの者達の中でより大きな恨みが生み出されることになり、それは何らかの形になって世間に還元されることになる、ということ。そういった条件を鑑みてみると、他人に規範を押し付ける時は、果たしてそれがその「還元」リスクにつり合うだけの意義を持っているかどうか、ということをよく考えた上で、それをなすべきか否かを慎重に判断した方がよい、ということになるだろう。

だから、ドラえもんから道具をもらったのび太のように、無邪気に道徳を振り回し、力にものを言わせた強引な規範の押し付け方を平気でしている人達を見ると、どうも違和感を感じてしまう。これだけ危機感危機感と叫ばれる世の中で、何故道徳の「還元」リスクについてだけは全く考えようとしないのか、と。

まあ日本の場合、道徳の欺きによって不幸に見舞われても、復讐の道を選ばず、そのまま道徳の奴隷として自滅していってくれる場合の方が圧倒的に多いので、そういうことは余り気にせずに済んでいるということもあるが。しかし、いつまでもそのような自殺依存症国家のままでいるというのはどうなのかねえ。

「ともだちランド」化する大阪

橋下知事に保護者が「公立に期待していない」(産経ニュース)

 大阪府の橋下徹知事が、府内の公立小学校に通う児童や保護者らと教育問題について意見を交わすイベントが8日、大阪市中央区の府公館で開かれた。保護者から「学力面で公立学校に期待はしていない」など学校側への不満や批判が相次いだ。

 公募で集まった小学5、6年生の児童や保護者、教員の計22人が参加。冒頭、橋下知事は「大阪の教育は、学力を伸ばすことに真正面から向き合ってこなかった。全国学力テストの結果公表をめぐり、僕が府教育委員会事務局ともめた理由もそこにある」と問題提起し、参加者の意見を求めた。

 ある母親は「学校の通知表を見ても、わが子がどの程度のレベルなのか分からない。もっと競争心をあおったほうがいい」と不満を口にし、父親の一人は「公立学校に学習のことは期待していない」と痛烈に批判した。

 教員からは現場の人手不足を訴える意見が相次いだほか、「(成績上位層への指導よりも)学力面で厳しい子供をすくい上げることに力を入れてしまう」と明かす小学校教諭もいた。

 一方、児童からは「学校の授業は勉強ができない子に合わせ過ぎている」といった意見が出た。

これ、テレビのニュースで見たけど、「勉強ができない子に合わせ過ぎている」という意見を述べたこの児童が、この前の「私学助成削減をめぐる意見交換」で橋下知事の主張に異を唱えて公共の面前で面罵され涙を流していた女子高生とは対照的に、ニコニコしながら知事の望むような意見を提供し、彼をアシストしていたのが印象的だった。

橋下知事は自分の落ち度を問われたり自身の意向に反対する意見が出ても、それに対して論理による「まっとう勝負」を挑むことはまずない。文句があるならあなたが政治家になって変えればいい。貴方達がそういう私を知事に選んだ。こういう人がいるから駄目なんです。嫌なら自己責任の国である日本を出て行くしかない。世間が私を支持している。こういった屁理屈でまくし立て、何となく自分が議論に於いて優位に立ち、反対意見を述べている者が悪であるかのような雰囲気を作り出す。そしてその雰囲気に呑まれた者達は、橋下知事に反対してイメージ的に劣位に置かれた者を悪として叩き出す。彼は実質的に、バッシング対象提供マシーンのような役割を果たしている。そしてその対象に選ばれた者が酷い目に遭っているのを目の当たりするにつれ、各々は自身がその対象に選ばれることを恐れ、彼に面と向かって反対意見を述べる者は減っていく。

今回の意見交換会は、リンクした記事で用いられた満面の笑みを浮かべる橋下知事の写真が物語るように、そこで出された意見の多くが彼の意向に沿ったものであったらしく、そのためこれまでとは違った和やかな雰囲気で滞りなく進行したようだ。そりゃそうだ。今までの流れからして、あそこで彼を真っ向から批判するようなことをすれば、すぐさまその場が「糾弾委員会」へと変容することは明らかなのだから、彼に対する反対意見を持っていても、せいぜい多様な意見が出たというアリバイ程度くらいにしかそれを述べることは出来まい。そして彼は、この場所で自身の意向が受け入れられたということを、己の主張の正しさを示す根拠として今後用いていくのだろう。そうやって自分にとって心地のよい環境を形作っていくのが彼のやり方。

彼は「子供が笑う大阪」というキャッチフレーズを唱えて府知事選に立候補し、そして当選した。しかし、彼の言う「子供が笑う大阪」とは、大阪を『20世紀少年』における「ともだちランド」の様な、子供が彼の出した方針に対して異を唱えることを一切許さず、ただひたすらニコニコしてその方針に従い続けなければ生きてはいけない様な場所にするということだったのだろうと本気で思う。

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其々の依存症

フリースクール:入所後すぐ暴行 恐怖心で反抗抑圧…京都(毎日jp)

傷害容疑で逮捕された京都府京丹波町のフリースクール「丹波ナチュラルスクール」経営者の江波戸聖烈(えばと・せいれつ)容疑者(60)が、施設に到着したばかりの入所者にいきなり暴行を加えていたことが12日、京都府警の調べで分かった。恐怖心を植え付け反抗を抑圧するのが目的だったとみられる。教育の実態がほとんどなかったことから、入所者を“金づる”とみるスクールの姿勢が一層浮き彫りになった。

 調べなどによると、入所者の中には家庭内暴力など問題を抱えていた若者も多く、スクール側は連れて来る車内から「お前は悪いことをしとんのや」などと叱責(しっせき)。到着するとすぐに江波戸容疑者や責任者の森下美津枝容疑者(55)のもとに連れて行かれ説教、暴行を受けたという。

フリースクール傷害:入所者の迎え、拉致同然の手口 京都(毎日jp)

 傷害容疑で経営者らが逮捕されたフリースクール「丹波ナチュラルスクール」(京都府京丹波町)が、入所者の迎えに男性3人前後のチームを派遣し、拉致同然の手口でスクールまで連れて来ていたことが府警の調べで分かった。スクール側がこうした「お迎え」で数十万円の別料金を取っていたことも判明。9日の家宅捜索では、木刀などと共に手錠が押収されており、府警は迎えの際に抵抗を抑圧するために使ったとみている。


監禁、お守り作り強要 フリースクール、少女の母証言(asahi.com)

終日、部屋の中で府外の神社のお守りをつくる内職をさせられた。その間、部屋は外から鍵をかけられ、事実上の監禁状態だった。ほかに3、4日は真夏の炎天下に4、5時間、農作業をさせられ、Tシャツを着ていても背中の肌が真っ黒に焼けるほどだった。

「え~、毎度お馴染み、教育の名を借りた拉致監禁暴行カツアゲ業でございま~す。ご不要になりました不登校、ひきこもりなどございましたら、是非お気軽にお声をお掛け下さい。」※1
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人間(に限ったことではないが)は何かに依存することなしには生きて行けない。「自立」という言葉の意味を本気で考えたことのある者ならば、それが己の生活を物理的に支える(資源、システム、組織などといった)何らかの環境的依存先や、その者の心の支えとなって精神的消耗を抑えたり活力の源となる何らかの精神的依存対象を獲得し、その対象に上手く依存し続ける能力のことを指すということは重々承知していることだろう。「自立」とは、その者の生活の維持を磐石なものとするのに必要なより良い依存先や依存対象を獲得し、その対象との関係を維持する能力のことなのだ。そして不登校やひきこもりと言われる存在はそういった能力に欠け、必要な依存対象を獲得することが出来ないが故に己の存在に意義を見出せなかったり、家族という予め獲得している依存先以外に新たな依存先を獲得する能力がなかったり、或いは獲得した依存先との関係を継続し続ける能力がないが故に、そういった肩書きが付与されるような状況へと陥ることとなる。

従ってそういった者達に必要なのは、まともな依存先を獲得し、その対象との関係を継続し続けることを可能とする政治的能力、そしてその政治的行為を遂行する動機として必要となる、死にたくないから生きているとかではなく、社会という決して解消し得ない個々の利害の対立の渦の中で、例えそれが他者に何らかの損害を与えることとなっても(誰であろうと、他者に迷惑を掛けずに生きていくことは出来ない)、例えそのためにより積極的に非道徳的行為を行うことになっても(一般的道徳の遵守は基本的に生存と競合する結果になる)、どんなことをしても生き延びて自身の存在を維持し続けようとする生への積極的渇望だ。故にその能力や動機をその者達から引き出すことが出来ない自立支援施設、及び取り組みは、少なくとも不登校やひきこもり達にとっての「自立」には何の役にも立たない代物といえるだろう。

では何故、そういった本来の目的には何の役に立たない施設や取り組みが存在し続けるのか。それは、そういったものがその施設の運営や取り組みに携わる者達自身にとっての依存対象として機能し、欲せられているからだ。子育てに失敗した親達(勿論その「失敗」という状態には親以外にも様々な原因が絡んでいるが)はそういった施設や取り組みに依存することで己のその負担を減らそうとし、それらを運営している者達は、その親や不登校・ひきこもりという存在に依存することでその施設や取り組みの運営を可能とし、それによって自身の存在に対する何らかの意義や、己の生活に必要な金銭を獲得したりする。そこにはそういった依存関係が成立している。

そういった意味では、この記事の容疑者達にせよ長田百合子らにせよ杉浦昌子らにせよ戸塚宏らにせよ、「自立」能力の無さ加減という点では、不登校やひきこもりと言われる者達に決して負けてはいない。何故なら彼らもまた、偏向的な思想(依存対象)こそ獲得し得たものの、それ以外にはロクな依存先を獲得することが出来ず、それ故こういった私設北朝鮮施設のようなものを自ら作り、そこで不登校やひきこもりという存在、そしてその親達の経済力に依存することでしか己の生活を保つことが出来ない者達なのだから。

せっかく刑務所から出獄して自由になったはずなのに、直ぐにまた犯罪を犯してそこに戻ろうとする人達がいる。何故彼らがそういうことをするかと言えば、彼らは自分達が刑務所という依存先でしか生きていけないことを知っているからだろう。同じ様に、この手の施設を運営する者達もまた、(少なくともその時点に於いて)自分達が不登校やひきこもりと言われる存在、そしてその親達に依存しなければ生きては行けない人間であるということを知っている。そして彼らは、他者と相互的な信頼関係を築く能力に欠けているため、何らかの大儀の庇護の下に隠れ、自分の思い通りにならない者に対して暴行を働いたり、罵声を浴びせたり、環境的に追い詰めたりすることくらいでしか他者との関係を維持することが出来ない。だが、そういった一方的なコミュニケーションしか取ることが出来ない者が活躍出来る場所はそう多くはないだろう。結果として彼らは、同じような偏向した思想を持った自立能力の乏しい者達と連帯し、教育という大儀を後ろ盾として作成した治外法権的施設に、不登校やひきこもり、そしてその親達を引き寄せ、それらに依存することでしか生きて行けない。彼らはそういった重度の不登校・ひきこもり依存症に陥っている。


<一方通行的な教育・道徳観への依存症>


しかし、そういった偏狭的な依存能力しか持たない者達が他者を「自立」させるための「教育」を施すという倒錯や、そのために作成した治外法権的施設や秩序で一方的な隷属関係を維持し続けることは、彼らの力だけで成し得ることではない。それを可能とするためには、先ず教育や道徳といった何らかの大儀を掲げ、(表向きと実際の状況に程度の違いはあれど)そういった隷属関係の確立や維持に対するある程度の理解を世間から取り付け、その力添えを得なければならない。

つまり、こういった強制収容所と化したフリースクールに限らず、時津風部屋の暴行死事件や自衛隊に於ける異常なまでの自殺率の高さになどに象徴されるような関係性があちこちでつくり出されるのには、「教育や道徳は他者を自分にとって都合よく作り変えるための道具である」という一方通行的な考え方がこの社会のマジョリティとなっていることが大きく関わっている。そしてそういった風土が、其々の場所で小さな北朝鮮が生まれ育ち、その体制を維持することを下支えしている。

確かに、教育や道徳という大儀で以って肥大化することが許された圧力や暴力を用い、それによって他者を一方的にコントロールすることが出来るとしたら、それを御旗として掲げる側にとってこんなに都合の良いことはないだろう。実際、その大儀によって世間から理解を得た抑圧によってある程度他者をコントロールすることが出来るのは事実だ。だからついついそういった教育・道徳観に依存したくなる。だが、他者を自分にとって都合よく最適化したいという欲求、或いはそのように他者から扱われたくないという反発心は、全ての人間が持っている。結果として、多くの者達が「我こそが真に正しき教育や道徳の代弁者である」と唱えはじめ、それ故、其々は常に他者からの「教育」や「道徳」を大儀とした抑圧や監視に怯え続けなければならなくなる。

例えば無差別殺傷事件にしても、そういった教育・道徳観を支持するならば、あれもまた、他者の大きな苦痛の上に成り立つ悪業システムに乗っかって無神経に人生を謳歌する蒙昧な一般大衆に対する道徳的鉄槌であり、教育(啓蒙)であると見做すことも出来る。もし教育や道徳を大儀として他者と一方通行的な関係を結ぶことが許されるとするのならば。また、この前の記事で取り上げた、駅のコンセントで携帯を充電していた者がそれを見た通りすがりの者に民衆管理局(警察)へと密告されたケースを始め、多くの国民が、ほんの些細な落ち度(若しくは空気を読まない行為)であっても他者に(その落ち度の大きさとのバランスを欠いた)罰が与えられることを望んだりすることや、ちょっとしたことでも直ぐに国民的なバッシングにまで発展してしまう昨今の風潮なども、こういった教育・道徳観があってこそ成立するものだろう。そこでは教育や道徳というものは、その一時点だけを見て、その前後への配慮や他の要素との整合性を欠いた極めて一方通行的なものであり、単に自分の気に入らないものに対する暴力を正当化するためのものでしかない。

だが、そういった教育・道徳観が世間に浸透すれば、自身もまた他者からその大儀で以って暴力を振るわれ、抑圧される可能性もまた認めなければならない。かといってそれを放棄してしまえば、自らの暴力や抑圧を正当化する理由が失われてしまう。そういったジレンマがありながらも、多くの者は結局そういった教育・道徳観にしがみ付き、それに依存し続ける。何故なら、それは自身の価値観で世界を満たしたいという征服欲や、自分の気に入らない者を叩きのめしたいという暴力欲を正当化してくれる麻薬のような存在だからだ。しかもそれは、手を伸ばせば誰もが届く場所にこれ見よがしに転がっている。だから、誰もが一度は必ずそれに手を伸ばす。そして一度その味を占めてしまえば、中々それを止められなくなり、中毒となる。

 ***

人間社会に於いて、個々人の利害の衝突、つまり競合関係は決して解消出来ない。だがそれと同時に、個々人が意識しようとしまいと、何らかの相互利益関係もまた常に形成されている。しかし、本来ならば相互利益的な関係を後押しするための役割を任せられているはずの教育や道徳といった概念が、一方的な関係を形作るものとして用いられれば用いられるほど、その相互利益的な関係性は影を潜め、その分だけ競合関係が強化されていくことになる。そうなってしまえば、主に其々の場所に於ける政治的趨勢の積み重ねによってのみその社会のあり方が決定付けられていくこととなる。そしてその相互利益性と競合関係とのバランスの悪さが、其々の場所で小さな北朝鮮や、硬直した一方的関係を生み出すことを容易なものとする。さらにそうなれば、必然的に趨勢への反発もまたより先鋭化した形で行われるようになることを覚悟しなければならないだろう。何故なら、そういった硬直化した一方的関係の下で幾ら言論で異議を申し立てたところでそれが聞き入れられるはずもなく、その異議を有効なものにするためには、もっと別の手段を用いなければならなくなるわけだから(例えば今回紹介した暴行監禁事件にしても、施設から逃げ出して国家という“より大きな暴力”に頼ることでしかその状況を打開することは出来なかった。そしてもし国家の暴力に頼ることすら出来ない状況であったとすれば、他にその局面を打開するためのにどんな方法があったのかと言えば…)。

教育への公的支出、日本最下位 家計に頼る構図鮮明(asahi.com)

 経済協力開発機構(OECD)は9日、加盟30カ国の教育に関するデータをまとめた08年版「図表で見る教育」を発表した。05年現在の調査結果で、国や地方自治体の予算から教育機関に出される日本の公的支出の割合は国内総生産(GDP)比3.4%と、データのある28カ国中最下位になった。

この国の教育への投資額、つまりそれを重視する姿勢は実際この程度のものなのだが、その割にやたらと「教育が悪いから云々」などと言ってみせる人達が多いのは、結局そういうことなんだろうと。つまり、そこで登場する「教育」とは、他者を自分にとって都合よく作り変えるものとしての「教育」なのだ。だから、そういった教育観が蔓延したこの社会で、それを否定、批判することなしに行われる教育談義というのは、実質的には「世界よ、俺色に染まれ!」と言っているだけに過ぎない。

でまあ結局何が言いたかったのかと言えば、教育や道徳を一方通行的な関係を形成するための道具であるという考え方に依存するのを止め(でなければ、幾ら教育に予算をつけても、そのお金は結局何らかの硬直化した一方的関係をより強固なものにするために使われるだけだろう)、それによって競合関係と相互利益関係がある程度のバランスを取り戻させ、この記事の容疑者の様な人間でももっとましな何らかの依存先にありつけるような環境が整いでもしなければ、個別の人物を幾ら捕まえていっても、色んな場所でその土壌から幾らでも新しい戸塚や長田が生えて来るよ…、というか、自立能力の有無の違いはあれど、内容的には既にあいつもこいつもどいつもそいつも戸塚や長田になっているんじゃないのかと。いや、むしろ戸塚や長田にならなければ(つまり、一方通行的な教育・道徳観を無批判に受け入れ、それを上手く利用しなければ)生きて行けない世の中に既になっているんじゃないのかと、そういう話。



※1 こういう表現を用いるとふざけている様に見えるかもしれないが、これは単にネタというだけではなく、こういった施設は元々、そこに集められた(利用価値がなくなった)人間の感覚や資質を一端解体し、それを社会に最適化されたものとして作り直して再び利用出来るように(リサイクル)することを期待されてそれが存在しているんでしょ?という示唆にもなっている。

「マトモな教育」を受けた人達のご意見です

(6/27)タイトルを変更した。

【秋葉原通り魔事件】「酒鬼薔薇」世代、教育の落とし穴(産経ニュース)

 秋葉原の無差別殺傷事件で殺人容疑で再逮捕された派遣社員、加藤智大(ともひろ)容疑者(25)は、神戸連続児童殺傷事件の容疑者の元少年と同年齢の「酒鬼薔薇(さかきばら)世代」。10年前、教育現場では神戸事件を受け、「心の教育」が問われながら、ナイフを使った少年の事件が相次ぎ、突然「キレる」子供の問題が深刻化した。家庭や学校のしつけ・指導力低下が顕著になり、識者からは「挫折に弱い」「過保護」など、この世代が受けた教育の弊害を指摘する声もある。(鵜野光博)

■「実体験」希薄

 「ヤンキー先生」の通称がある参院議員の義家弘介氏は、平成11年から務めた北星学園余市高校で、加藤容疑者と同世代の生徒を受け持った。

 「幼少期から『個人の自主性が大切』『校則はいけない』『詰め込みは悪』という教育にどっぷりとつかった世代」と振り返る。

 昭和50年代に吹き荒れた校内暴力で管理教育や体罰が問題となり、反動から校則をなくそうという動きも出た時代。埼玉県立所沢高校で平成9~10年、入学式ボイコットの騒ぎを起こした生徒も同じ世代だ。

 学習内容を大幅削減した「ゆとり教育」の学習指導要領改定が行われたのもこの時期。義家氏は「勉強ができる、できないは子供にとって切実な実体験。それが『できなくてもいい』という教師によってぼやかされ、努力の大切さという当たり前のことも教えられていなかった」という。

 生まれた年に「ファミコン」が登場したこの世代。欠けている実体験を補うため、義家氏はイベントなどを生徒にやらせ、失敗を経験させるという教育を繰り返した。「みんな『何とかなる』と思っているが、現実は何ともならない。悔しがらせることで現実を教える教育を、高校でやらなければならなかった」

そうそう、俺なんか学校生活では失敗と悔しい思いしかしたことないもんね。
おまけに、忘れ物をしたってことで、よく見せしめとして先生からビンタされたものだ。
でもそのお陰でこんな立派なひきこもりに…ってまたそれか。
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しかし、まだ「ゆとり教育」と「ファミコン」が事件の原因だとか言う人達がいるのね。
多分、自身が社会的に有利なポジションを獲得したという事実が自説の正しさを
無条件に担保してくれる、といった勘違いでもしているのだろうけど。
だからこういった出鱈目説を平気で唱えることが出来るんじゃないかと。

それにしても「酒鬼薔薇」世代って…酷いなこのレッテル張り。
マトモな教育を受けた人間として恥かしくないのだろうか?こんなことをして。
そもそも、メディアが事件・事故やモラル云々といった話をより積極的に
娯楽として利用し始めた頃に少年時代を過ごしたのがこの世代であり、
もしこの世代が何か特別病んでいるかのような印象を世間が抱いている
とするならば、それはむしろメディア側にこそ原因があるはずなんだけどな。

自らが作り上げた印象を世間が受け入れ、さらに世間がそういった印象を
抱いていることで以ってその印象の正しさが証明されているかのように主張する。
こういった手法は自作自演と呼ばれ、モラルに悖る行為であるとされているはず。
そういったことを何の疑問も抱かずに自らが行っていながら、他者に下らない
レッテルを張って貶めていながら、自らが悪い見本を示しながら、それで銭儲け
していながら(いや、勿論銭儲けは大切なことだけど)教育論を唱えるなんて…。
もし学校教育がその者の人間性を決定する主要な要因であるとするならば、
この人達は一体どんな酷い教育を受けたんだろう、ということになるのだが…。

というか、この記事は全般にわたって突っ込みどころ満載で、
一体何処から突っ込んでいいやら途方に暮れる有様なのだが、
一々こんなネタ記事にまともに取り合っていても仕方が無いので、
最後にひとことだけ。

クソスレでやれ。

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ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
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