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ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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誤った二分法を用いた批判の禁止について

イスラム国の人質誘拐殺害事件では、事件を利用して政権批判をするな、というような主張をよく見かけた。

政権批判とは主に以下の記事にあるようなイスラム国に敵対する国々への資金援助やそこで行われた声明に関してのものだろう。

「軍事援助」か「人道援助」か?:「イスラム国」に付け入られた言葉 - ハフィントンポスト

「イスラム国」側に、湯川遥菜さん(42)は昨年8月、後藤健二さん(47)は同11月以降に拘束され、1月20日に突然、「イスラム国」側が2人を人質にして身代金を要求した。安倍首相が3日前の1月17日に訪問先のエジプトで行った政策演説を待っていたかのような動きだった。(中略)

援助の目的は、日本語ではイラク、シリアの難民・避難民に向けて「ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるため」、英語ではto help curb the threat ISIL poses となっている。英語の方がやや強く、逐語的には、ISIL がもたらす脅威を抑制するのを助けるため、と訳せる。

 いずれにしてもISの「脅威」に対する対応策である。ISはテロ組織を超える軍備でイラク・シリアを席巻してきた。そんな脅威に対応する助けとしての援助だから、軍事援助か、とIS側が受け取ることは十分予想できるだろう。日本は基本的に援助を非軍事に限定しているが、彼らの文化が異なることも想定する必要がある。

 堂々たる人道援助だったのに、テロ組織に付け入られる隙を見せてしまったことが悔しい。(中略)

 演説草稿を起案した部局と2人の人質問題を担当する部局が異なり、スピーチライターには人質問題の息詰まる状況が伝えられていなかった可能性もあるだろう。

 しかし、昨年12月には、後藤健二さんの妻に約20億円もの身代金を要求するeメールがあり、外務省も状況を調査していたと伝えられる。そのさなか、首相の中東訪問を飾る大型の政策演説だった。スピーチライターが身代金要求のことを知っていたら、もう少し慎重な言葉遣いになっていただろう。「イスラム国」側から映像を通じて身代金を要求されてから、「人道支援」だと強調したが、不用意だったかもしれない。


首相「空爆でイスラム国壊滅を」 エジプト大統領と会談 :日本経済新聞

 【ニューヨーク=永沢毅】安倍晋三首相は23日午後(日本時間24日朝)、エジプトのシシ大統領と会談し、米軍による過激派「イスラム国」掃討を目的としたシリア領内での空爆について「国際秩序全体の脅威であるイスラム国が弱体化し、壊滅につながることを期待する」と述べた。

いくら中立を保つと言ったところで日本は彼らの仇敵であるアメリカの同盟国なわけで、そうである以上安倍首相のこの声明があろうがなかろうが遅かれ早かれあの手のグループに目を付けられることにはなっただろう。また日本は中東にエネルギーの多くを依存していることもあり、そこの治安改善のためにも反イスラム国目的での支援を行うのは別におかしなことではない。

ただその際に、あまつさえ人質が取られていることを分かっていながら何故わざわざイスラム国を刺激するような――或いは(戦いの正当性を与えるという意味で)敵に塩を送るような――物言いをしたのか、それに一体何のメリットがあるのか、ということについて疑問を持つ者が出てくるのは当然のことだろう(そもそも現実主義的立場から見ると使い道が自由である金銭による支援は人道目的か否かの区別ができないという問題もあるが)。

だがこの対応について疑問を呈すると、テロに与するのか、テロに屈するのか、テロを利用して政権批判をするな、などという言葉が返って来ることになる。

イスラム国を「利用」して安倍批判をするな! - Blogos

よく考えるべきだ。だれが悪いのか?安倍さんが悪い?後藤さんが悪い?湯川さんが悪い?政府の対応が悪い?エジプトでの演説が悪い?外務省の訳が悪い?
回答を教えるのでよく聞いてほしい。悪いのは…

イスラム国を名乗るテロ集団と、本質を理解できないアナタの頭の中である。

(向こうには向こうの正義があるのだろうがこちら側からすれば)「「誘拐」した連中が「悪」に決まってる」のは当然だ。幾ら人質の側に不用意に危険地帯に赴いてしまったという落ち度があろうと、或いは幾ら事件に対する当局の対応に不手際があろうと、それによってテログループ側の拉致・監禁・暴行・殺害等の罪が相殺されるわけではないからだ。

しかし逆に、犯行の卑劣さが認定されたからといってそれによって危険地帯に出かけていった者が負う結果責任を免れられるわけでもなければ当局の不手際が相殺されるわけでもない。それらへの評価は其々別個になされるべきものだ。つまり犯行を「許しがたい暴挙」と評価すると同時にその事件における当局の対応も悪かった、と評価することは十分可能なわけだ。

だが「政権批判するな」言説ではこれらに対する評価が天秤の両端に置かれる。そしてテログループの犯行と政府の対応のどちらが悪いのか、という誤った二分法による選択を迫るのである。だから政府の対応を批判するとテログループの犯行よりも政府が悪いと主張しているかのように取られたり、或いはその悪質さを和らげるものだと捉えられ、上のような非難が飛んでくることになる。

だがこの理屈で行くと、例えば桶川ストーカー殺人事件における警察の対応も批判してはならないことになってしまう。何故なら警察批判を行うと実際に事件を起こした者の罪を和らげることになってしまうからだ。しかしそんなバカなことはないだろう。

事件を起こした者がそれについて相応しい責めを負わなければならないのは当然のこと、それと同時に警察側の事件の対応や捜査についてもまた問題がなかったか、もっと上手くできなかったのか、という検証がなされてしかるべきだ。でなければ同じ過ちを何度も繰り返すことになりかねない。しかし「政権批判するな」言説の論理を採用すると後者の検証が出来なくなり、対応の改善もできなくなってしまうのだ。

 ***

またそれとは別に、「政権批判をするな」と言う言葉が出てくること自体が既に妙だ、という問題もある。というのも、資金援助や声明を問題視する言説がありそれに異議を唱えるなら、それらの必要性を説けばよいだけだからだ。

そこで「政権批判をするな」と言ってしまうとその主張は政策ではなく政権闘争としての性質を持つものになってしまう。だが「政権批判をするな」の正当性は政権闘争にするな、ということだろう。つまりそれは自己言及になってしまうのだ。

もちろん政府を批判する側にもまた単なる政権闘争としての性質を持つ言説は多々あったことだろう。ただその場合もその批判が誤りであることを示せばよいだけの話であり、批判自体を禁止する必要性など全くない。

というか、独裁国家でもないのに「政権批判をするな」などという言葉が飛び交うなんておかしいだろう。
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京大には公安警察の特権が優遇される治外法権などない

私服警官、京大でつかまる 大学「通告なく立ち入り遺憾」 : 京都新聞

 4日午後0時20分ごろ、京都市左京区吉田二本松町の京都大吉田南構内で、京都府警の男性警官1人が学生とみられる男性に取り押さえられる騒ぎがあった。大学関係者も加わり話し合った結果、警官は約3時間後に大学を退去した。

 府警の説明では、警官は極左暴力集団などの犯罪捜査に当たる警備2課の巡査部長で別の捜査員とともに私服で勤務中だった。構内では、2日に東京都内でデモ行進していた京大生が警視庁に公務執行妨害の疑いで逮捕されたとして、抗議活動が行われていた、という。(中略)

 京大は、警官が大学構内に立ち入る場合は府警から事前に通告を受け、大学職員か学生が立ち会う取り決めにしているという。杉万副学長は「事前通告なしに立ち入ることは誠に遺憾。事実関係を調査し、府警に申し入れをする可能性もある」としている。

 府警は「捜査の内容や構内に立ち入った経緯は明らかにできない」とした上で、「捜査の都合上、大学への通告なしに構内に立ち入ることはある。捜査員から事情を聴いている」としている。警官が構内にいる間、京大付近に一時、数十人の機動隊員を乗せた車両が待機した。


この件において、京大はいつから治外法権になったんだ、と大学側を非難する者が多数見受けられた。だがそういう理由で京大を非難するのは全く的外れだろう。

▼日本国憲法 第三章

[住居の不可侵、捜索・押収の要件]

 第三十五条① 何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、題三十三条の場合を除いては、正統な理由に基づいて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する礼状がなければ、侵されない。

② 捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する格別の令状により、これを行ふ。

[逮捕の要件]

第三十三条 何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。


当たり前の話だが、警察が令状もなく、また現行犯を追っているわけでもないのに、許可も得ずに勝手に私有地に侵入したら、それが違法行為になるのは言うまでもない(学祭の場合、公務でなければOK?)。京大には、京大の独自法が日本の法律より優遇される治外法権などないが、公安警察の独自法が日本の法律より優遇される治外法権もないのだ。

そもそも別にこんな法律を知らなくとも、ロシアや中国じゃあるまいし、警察が定められた法的手続きを経ずに急に踏み込んでくるようなことが許されたら、それは相当まずいことである、ということくらいは直ぐに想像がついてもいいはずだ。


▼刑事訴訟法

[現行犯逮捕]

第二一三条 現行犯人は、何人でも、逮捕状なくしてこれを逮捕することが出来る。

そして不法行為を行った者がいれば、一般人であってもその者を逮捕することができる。ただし――

[一般人による現行犯逮捕と被逮捕者の引渡し]

第二一四条

検察官、検察事務官及び司法警察職員以外の者は、現行犯人を逮捕したときは、直ちにこれを地方検察庁もしくは区検察官又は司法警察職員に引き渡さなければならない。

とはあるが。

京大を非難し得る争点は、引渡しが「直ちに」行われたか、くらいのものだろう。しかしそれも、そもそも警察側が不法行為を行わなければ端から問題など起きなかったわけで。

この件で注目すべきはむしろ、警察が組織的に違法行為を行った場合、それに対してどう対処すべきか、していくべきか、ということの方だろう。

警察というのは、機能的に見れば国営暴力団だ。しかし、それによる暴力行使が一定の法的制限と手続きに則って行われるからこそ、他の暴力団とは違うものとして特別扱いされることになる。逆に言えば、警察がその制限や手続きを踏みにじってしまえば、それはもうただの犯罪組織でしかない。

そして警察官もまた、あくまでその役割を任されただけの普通の人間であり、そうである以上、性善説は通用しない。必ずしもそのルールを遵守し続けるとは限らない。故に、性善説を採らないならば、システム構築的観点から、警察が単なる暴力団になってしまう可能性を鑑み、それに対する対応策をちゃんと用意しておかなければならない。

実際、未だに転び公妨なんてやっていること一つ取っても、警察組織が現在相当まずい状況になっていることは十分推測できる。しかしながら、強い危機感を持つことの重要性が唱えられ、性善説が鼻で笑われるような昨今にありながらも、何故かこのシステム的欠陥は全く手付かずのままにある(――もちろん、「警察を監視するための組織が必要だ->じゃあその組織は誰が監視するの?」に代表されるように、元々穴埋めするのが難しい問題だからということもあるだろうが、この件のように、その危険性が完全に忘却された上で物事が捉えられている現状がある)。

これは、「危機感を持つことの重要性」や「性善説の否定」は多くの場合において、その内容ではなく、上っ面の装飾部分だけが剥ぎ取られて用いられている、ということを示す証左ではないか(警察が言うところの「極左暴力集団」による危険性があったとしても、それは警察自身が単なる暴力団化することの危険性を相殺しない)。

「敵」の自害と慮りに甘え続ける日本×「生きろ」「戦え」の胡散臭さ

松井知事「自己完結して死んで」 ミナミ通り魔事件で - 47NEWS

松井一郎大阪府知事は11日、大阪・ミナミで男女2人が刺殺された通り魔事件で逮捕された容疑者について「『死にたい』というのなら、自分で死ねよ。本当にむかむかくる。人を巻き込まず自己完結してほしい」と述べた。

自分の意志で生まれてきた人間なんていない。人間の一生は無理矢理社会に巻き込まれることで始まり、社会とのもみ合いのなかでその在り様が決定されていく。よって、生活することも死ぬことも、自己完結などあり得ない。よく言われる「自立」のパッケージの中身にしたって、それは社会システムへの巧みな依存でしかない。

リアルタイム検索でこの事件に関する注目キーワードが幾つか上がっていたので見てみたところ、松井知事発言のように、「甘えるな、死にたいなら自分で死ね」で溢れかえっていた。だが、この甘え発言は倒錯と言うほかない。ちょっと回りくどくなるが、何故それが倒錯であるかについて書いてみる。
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 ▼(1)似非自由競争主義者と二つのトレードオフ

黒葛原歩先生の生活保護に関する怒涛のツイートをまとめたよ。 - Togetter

実際ね,ホームレス支援とかしてるとね,どー考えても生活保護しかないのに「本人が保護を受けたがらない」っていうケースが,結構あるのよ。でも,そしたら解決は【1】役所以外で助けてもらう,【2】自力救済,即ち窃盗・詐欺,【3】死ぬ,しかないでしょ。で,残念ながら【2】になる例がまた,結構あるのよ
ATsZRA 2012/05/27 22:27:01
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丸囲み数字は確か機種依存文字だったように思うので、丸囲みは【】に変更している。

実際には、【3】が自殺のことだとすると、もう一つ、【4】全てを投げ打って敵と戦う、という選択肢もある。

現代社会における常識では、労働問題もまた、市場での自由な競争に任せておけば全て上手くいく、ということになっている。だが、競争には敗者がつきものだ。そして競争に破れ、市場から淘汰されたからといって、労働力という商品がすぐさま現実から消え去るわけではない。

この問題に対し、多くの自由競争主義者は、再び競争に参加させる、という処方箋を出す。しかし、物としての商品は価格をどんどん下げて再び市場に投入ということも可能だが、労働力を売るのは生活を維持するためであり、それにも限界がある。また、物であれ人であれ、それにとって無理な条件で使用され続ければ壊れてしまうのは同じことだ。その時、物なら廃棄すればそれで済むが、人はそう簡単にはいかない。だから、物では取れる対策を人でもまた取れるとは限らない。そもそも、幾ら価格や条件を下げたところで、自由市場において全ての商品に買い手が付くことなどあり得ない。さらに、一度市場で淘汰された者が就活するというのは、市場の意向に反して無理矢理商品を誰かに売りつけることを意味するから、市場の意向を尊重する者ほどそれが困難になるという問題もある。

つまり、「再び競争に参加させる」という解決法は、自由競争であればこそ尚更それが功を奏する可能性は低くなる。そして競争であれば必ず、競争に参加することすらできなくなる敗者が生まれる。「労働」を重んじるのならば、市場で価値を失った者を国が雇う、という解決策もあるが、自由競争を重んじる者はこれを否定するだろう。

そこで次に、ではこの問題にどのように対処し、それにどれ程のコストを払うのか、という問題が突きつけられる。留意しなければならないのは、これは自由競争導入に伴って必然的に生じる、自由競争そのものの問題だということだ。故に、この問題に配慮することに対して――自由競争主義と相反するものだという意で――社会主義的などというレッテルを貼る自称自由競争主義者がいるとすれば、それは似非と見るのが妥当だろう。自由競争主義者であれば尚更、この問題に真剣に取り組む必要があるからだ(それをしないというのは、例えば原発を推進しておきながらそのリスクについては無視、と同じ)。

しかしどのような対策を取ろうとも、それにはコストがかかる。そして一線で競争を続けている者達の多くは、なるべくならそれにコストを払いたくない、と思うことだろう。何故ならそこにトレードオフの関係が成立しているからだ。

 ***

其々がどのような形態で生活を営むかはともかく、誰かの生活やその水準を守ろうとすれば、他の誰かのそれを犠牲にしなければならない。そのためには誰かをシステムから切り捨てなければならない場合もあるだろう。ある一時点を切り取って見れば、あるいはこれ以上経済成長が望めないとすれば、ここにトレードオフの関係が成立しているのは事実だ。しかしそこには同時に、システムに包括出来ず、【1】の選択肢も持ち得なかった人間は、否が応でも【2】【3】【4】のうちのどれかを選択せざるを得なくなる、という問題もまた存在している。これもまたトレードオフの関係にある。

ところが、前者のトレードオフは「現実は厳しいのだ」という決め台詞と共にやたらと強調され、切り下げや切り捨ての正当性の根拠として頻繁に持ち出される一方、それとセットになっているはずの後者のトレードオフについては、逆に恰も存在しないかのようにして扱われるのが通常だ。もし切り下げや切り捨てを野放図に行い、何も問題が起こらないのであれば、それで生活が守られる側の人間にとっては、これほど「甘い現実」はないだろう。

だが、もちろんそう上手くいくとは限らない。包括化の努力を怠り、安易に切り捨てや切り下げという手法にばかり頼りすぎると、トレードオフとしての【2】【3】【4】から生じる問題がどんどん増えていくのは当然のこと、自らが切り捨てられる側になる可能性もまた高まっていくことになる。貧困層と富裕層の財産ばかりが増加し、中間層が消滅することを後押しする危険性だってある。さて、それらを踏まえた上でどうバランスを取るべきか、というのが社会政策の出発点のはずだ。

であるが故に、一つの意見として、安易に切り下げや切捨てをすべきではない、という主張が出てきたりするわけだが、多くの場合そういった主張は道徳的意見とみなされ、道徳だけでは社会は上手く回らないのだ、という主張に丸め込まれる。その一方で、包括化失敗のトレードオフとして必然的に生じてくる問題に対しては、自己完結しろ、甘えるな、という道徳的非難が寄せられる。つまり、個人の道徳による解決が求められる。だが、それこそ正に道徳では絶対に解決しない問題なのだ。

 ▼(2)宥和策の失敗に伴って生じる必然的紛争

全ての人間が生活を維持し続けることはできないし、全ての者が納得の行く人生を送ることもできない。全ての者が納得の行く社会を作ることもできない。この世がユートピアでないという事実は、生きるとは、生死をかけたポジション争いであり、迷惑の掛け合いであるということを意味する(――生まれてきて良かったと思うことのできない人間からすれば、産み出されること自体が既に大いなる迷惑)。つまり、例え同国人であろうと、其々は元々お互いに「敵」としての性質を絶えず水面下に備え持っているわけだ。

だが、その性質をむき出しにしたままだと、お互い常に「敵」に怯え続けなければならなくなる。それではよろしくないということで、なるべくその性質を直接的にぶつけ合わずに済むよう婉曲化することで人間社会は発展してきた。つまり、社会制度・政策は、「敵」同士が集まって生活せざるを得ないこの社会における宥和策としての性質を持っている。

これが何を意味するかと言えば、その宥和策で下手を打てば、それだけ紛争が激化するということだ。宥和策は基本的に社会システムへの包括という形で行われるが、それが失敗すれば、システムに包括化された人間とそうでない人間は、お互い「敵」としての性質をむき出しにして向き合わなければならなくなる。

そうなれば、前者の側から見れば後者の人間は、生きることを選択しようと自害しようと最後まで戦いぬこうと、その存在自体が常に暴力性を帯びることになる。一方、包括化されなかった側の人間からすれば、された側の人間から絶えず「死ねという状況」を投げつけられることになる。

その時、自らが包括化されている側にいるからといって、つまり、戦力的に圧倒的に優位な側にいるからといって、その紛争の被害から全く無縁でいられると考えるのは間違いだろう。相手に「死ね」という状況を投げつければ、その者から「お前こそ死ね」というカウンターが返って来るのを覚悟しなければならない。その反撃を無いものと予想するなら、それは見立てが「甘い」と言うほかない。ましてや、自害でなく討ち死にを選んだ「敵」に、「甘えるな」などと言うにいたっては全く支離滅裂だ。

 ***

宥和策に失敗すれば紛争が起こる。紛争が起こればそれによる被害を被る可能性が出てくる。だからそれを緩和するために力を尽くさなければならない。しかしそれにはコストがかかる。しかも、幾ら手を尽くしたからといってそれが上手く行くとは限らない。そもそも全ての人間をシステムに包括することなどできない。逆に言えば、幾らシステムに収まろうとしてもそれに収まることができない人間もいる。そういった者は嫌でも強大な包括勢と「敵」として向き合わなければならなくなる。だから紛争が、それによる被害がこの世からなくなることはない。だからこそ現実は厳しい。

一方「甘えるな」言説は、甘えなければ全て上手く行くはず、という甘い見立てが背景に想定されていて初めてその説得力を獲得し得るものだ。そして「厳しい現実」が現れると、それに向けて一斉にその甘い見立ての成果物が投げつけられる。「甘えるな、死にたいなら一人で死ね」と。だがそれもまた、紛争が起こっても「敵」は「誰にも迷惑を掛けず」勝手に自害してくれるに違いない、という甘い見立てが裏切られたからこその拒否反応だろう。そうやって問題解決を「敵の自害」に依存し、その慮りに甘え続けてきたのが今のこの社会ではないか。冒頭の事件における甘え発言は、こういった倒錯の上に成り立っている。

 ▼(3)「生きろ」「戦え」の胡散臭さ

『もののけ姫』のキャッチコピーは「生きろ。」だったが、この手の、生き抜くことの大切さ、生命の大切さ、を説く言説にはどこか胡散臭さが漂っている。

社会システムに上手く依存することが出来ている人間は、ただそれを持続すればよいだけで、態々「生きる」という選択を積極的にする必要はない。その選択が迫られるのは、そのシステムの外に追いやられた時だ。そして「生きる」を選択するということは、冒頭の例で言うと【2】を選択することに他ならない。宮崎駿は果たして、そういう状況に追い込まれた者に対し、「【2】を選択しろ」と言うことができるだろうか。自分は出来ないと思う。そしてそれは彼だけでなく、殆どの者がそうなのではないか。生きることの素晴らしさを説く言説がどこか胡散臭いのはこのためだ。

結局、殆どの人間は生き抜くことや生命の大切さなど肯定できない。ましてや「逃げずに戦え」を肯定できる人間などそう滅多にはいないだろう。何故ならそれは、【4】を選択すること推すことになるからだ。実際にそんな主張をした人間は、頭のおかしい奴扱いされるだろう。もちろん、システム内での競争もまた戦いとは言える。しかしそれは所詮婉曲化されたそれでしかない。それだけを切り取って肯定しても、「戦え」を肯定したことにはならない。お互い「敵」としての性質をむき出しにして向かい合った時、自害を選ばず戦い抜くことを肯定してこそ「戦え」を肯定していると言えるだろう。

要するに、「生きろ」「戦え」は、生きるか死ぬか、戦うか逃げるか、という本当に差し迫った状況にない時にだけ支持され、本当にそれが現実味を帯びてくると途端に否定される、そういうイメージだけで中身空っぽなオシャレ・アイテムとして使用されているだけにすぎないのだ。

柔軟性が命取りに

コースター転落死:手でバー確認「客の苦情でやめた」 - 毎日jp

安全確認の内容が形骸化し、ただの儀式になっていたわけか。そこは譲っちゃ駄目だろう、というのは正論だが、こういった柔軟性が社会的ポジションを獲得し、それを維持するための重要な処世術となっている、ということも忘れてはならないだろう。
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背景に個々人や組織が持つポジション的優位性などでは太刀打ちできないような理念や原理に関する社会的合意※1があれば、ポジション的に不利な側にいる人間もまた、それを根拠にしてポジション的に優位な側に対抗することができる余地が生まれる。だがそういった後ろ盾が一切なければ、ポジション的な優位性がそのままモラル的優位性をも獲得してしまうため、そこで作り出された関係性においてその優位性を持たない側の人間は、ただ一方的に相手に従うしかなくなる。そしてそれが大人の対応、ということになっている。

つまり、日本社会がそういった世間(空気)原理主義※2で回っている以上、こういった柔軟性や形骸化を発端とする事件や不祥事が低減化することもないのではないかと。

<追記> まあ外国でもこういった事件は起こるだろうから、そういった文化的な要因が原因の全てということはないだろう。ただ、こういう事態を生み出し易い一つの条件が成立している、ということ。



※1 もちろん、ろくでもない社会的合意が形成されてしまうという問題もあるが。

※2 理念や原理を絶対視すれば原理主義になるが、かといってそれらが全くなければ、それはそれでまた必然的に世間/人気原理主義にならざるを得ない。その結果、社会的抑圧によるごり押しや阿吽の呼吸でその都度恣意的に「正しさ」が決定されることになる。また、手段が持つ理念が消し飛んで単なる儀式と化し、場合によってはその形式/雛形自体が原理(バイブル)化する。

生きる(届け出ない)べきか、死ぬ(届け出る)べきか


それが問題だ。

asahi.com(朝日新聞社):大阪の「91歳」遺棄 年金詐取容疑で長女を聴取

 大阪府和泉市の民家の洋服ダンスから高齢男性の遺体が見つかった事件で、大阪府警は12日、男性の長女(58)が数年間にわたって厚生年金数百万円を詐取した疑いが強まったとして、任意で事情聴取を始めた。容疑が固まり次第逮捕する方針。捜査関係者が明らかにした。府警はDNA型鑑定の結果、男性は生きていれば91歳になる宮田浅吉さんと断定。2004年ごろに死亡したと推定される。

 捜査関係者によると、長女は、宮田さんが死亡して受給資格がないのに、厚生労働省から厚生年金数百万円を詐取した疑いが持たれている。府警によると、宮田さんの口座には2カ月ごとに約30万円の年金が振り込まれていた。ここ数年は長女と2人暮らしで、府警の任意での聴取に対し、長女は「父の口座に振り込まれる厚生年金を定期的に引き出して生活していた」と説明しているという。

懲罰の入れ子構造~日本人が結束するのは誰かに罰を与える時だけ

【児童虐待死】厳罰化新法などを求め、署名10万人、国会へ(産経ニュース)

別に親に対する罰則を強めたからといって、子供が救われるわけでもなんでもないと思うが…。これはむしろ、事件をダシにして「誰かに罰を与えたい」という欲求を満足させるためのもの、として見た方が妥当だろう。

そもそも、全ての親が子供を育てる環境や能力に恵まれているという前提で物事を考えること自体が大間違いだ。その部分に切り込まないようでは、問題に向かい合ったことにすらならないだろう。「生んだんだからちゃんと育てろ」と言っているようではどうにもならない。そもそもそんな環境や能力を持たない人間がいる、という問題なんだから。
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もし本当に他人を救いたいのなら、自らそれなりのコスト(金銭的負担や労力、社会システムの変更など)を支払って、他人の苦痛を緩和しようとする動きを取るだろう。だが、日本でそのような動きが力を持つことは余りない。それよりも先ず、問題が起これば取りあえず他人に罰をもたらし、その苦痛を増幅させようとする動きがより積極的な形で出てくる。とりわけ親子間の虐待という問題において、子供を救うのに厳罰化なんてさほど必要ないはずだ。それでもやはりこの傾向は変らない。つまり、この動きの本当の目的は救うことではなく罰することにある。

このような動きが社会的正当性を獲得してしまうのは、他人により大きな罰を与えれば問題は改善の方向へと向かう、という前提や大儀があるからだろう。しかし、そもそもそのような「物事が上手く行かないのは苦しみ(め)方が足りないからだ。だからもっと苦しま(め)なければならない」という常識こそが、虐待やリンチを正当化し、それを増幅させる役目を担っている。どうも日本では、「教育」が罰による脅しや苦痛によって相手をねじ伏せ従わせること、と理解されている節さえある。

そしてそれがまた、こういった厳罰化――即ち、群れ(国家)による個人への虐待強化――を後押しする原因にもなっている。虐待をするのは、その後に待ち受けている彼らに対する苦痛や、そのことによる恐怖が不足しているからであり、よってもっと強い罰を用意しておかなければならない、というわけだ。だがこれはちょうど、親に怒鳴られたりドツかれたりすることを恐れる余り、かえってなさなければならないことを上手くできない子供に対して、上手くできないのは罰が足りないからだ、と言ってさらなる罰を与えようとする親の行為にそっくりだ。

そのような流れの中で生まれてくる(相対的)成功者が、自己同一化のため、罰による脅しと苦痛を成功体験と結びつけ、それこそが成功の源であるかのように真理化してしまうのは何ら不思議なことではない。そしてその真理が罰を強化させ、その罰がまた罰を増幅させるという、まるで『そっくりハウス』のごとき懲罰の入れ子構造。


そっくりハウスそっくりハウス
(2002/10/23)
谷山浩子

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そっくりハウス♪ おうちの中に 

そっくりハウス♪ うちがある 

そっくりハウス♪ その中にまた おんなじおうち

結局のところ、其々はどの「そっくりハウス」に身を置いているか、というだけの違いでしかないのではないか。どこまで行っても「そっくりハウス」、出口は無い。じゃあその「そっくりハウス」で罰を与える側のポジションを獲得し、それを維持し続けた者の勝ちだよね、という救いの無さ。

 ▼日本人が結束するのは誰かに罰を与える時だけ

形式やしきたり(しかも大抵その原理には全く関心が無い。西洋から輸入されたシステムも、その理念には全く無関心であり、魂を抜かれたただのゾンビに近い状態で入ってくる)を何よりも重んじる日本人には、お互いに共有する理念もなければ宗教(条理性)もない。そのため、個人の努力具合や苦労具合(それを生み出すとされる自意識の成熟・未成熟さ)を成功や失敗と直接結びつけて物事を捉える――どこの国でもそこそこ力を持っているであろう――精神論がその穴を埋め、より力を増すことになる。だが精神論では、どこからどこまでが努力や苦労によって制御可能であり、どこからどこまでが可能でないのか、という大前提が其々の実感主義的判断に委ねられている。よって、誰一人として同じ感覚、同じ経験を持つ者がいない以上、いくら精神論を共有していようとも、それは条理性の競合を生み出すことにしかならず、むしろ敵対化に拍車を掛けるものにしかならない。精神論は元々個人主義的――ただし、この場合のそれは西洋的な意味でのそれではない――なものなのだ。

つまり、本質的に個人主義な日本人は、一般的に精神論という信仰こそ共有しているものの、それが生み出す条理性までは共有していない。尚且つ他に何らかの理念を共有しているわけでもないため、其々は基本的にお互いに異なった思想と条理性を持った敵同士、という性質が強くなる(だから日本における競争は常にゼロサム的な椅子取りゲームにしかならず、優劣が固定化され、補正もなされないので、競争原理はほんの一部分でしか機能しない)。だがその中で、苦痛や危機感(恐怖)を成功の源とする考え方だけは多くの人間が概ね共有している。普段は決して結束しないはずの日本人が、誰かに罰を与える時だけ鉄の結束でもって臨むのは、そういう理由からだろう。

自らが社会の一部であることを根拠として何かを要求するのなら…

ナイフで突然女性襲う=殺人未遂容疑で27歳女逮捕-警視庁(時事通信)

 12日午後9時ごろ、東京都文京区大塚の区立大塚公園で、歩いていた女性(35)が突然、女に背中などを刃物で切り付けられた。通行人からの110番で駆け付けた警視庁大塚署員が、殺人未遂容疑で、自称無職児玉恵子容疑者(27)=大田区鵜の木=を現行犯逮捕した。女性は命に別条ないという。
 同署によると、同容疑者は「人に裏切られ、誰でもいいから傷つけたかった」と話し、容疑を認めているという。

こういった行為は、一見筋の通らない奇怪な行為のように思われるかもしれない。しかし少し考えてみると、実のところそれは非常に理にかなった一般的行為非常に一般的な認識から生じた理にかなった動きだということが分かる。

(追記:4/24)「一般的行為」というと、まるで刃物で切りつけるのが一般的であるかのように読み取れるので訂正。
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というのも、自分という区分を儲け、その区分の内側を個人、外側を社会として認識した時、個人からすれば「人に裏切られ」たことは、そのまま社会に裏切られたことになる。そして大抵の者は、同じように個人と社会という区分を設け、自らが社会という集合体の一部であること、もしくはその代弁者であることを根拠として、誰か(個人)に対し何らかの要求を行い、そしてその要求通りに動かない者を攻撃してきたはずだ。つまり、大抵の者は個人/社会という対立軸の下で、よく知りもしない赤の他人であるところの個人に対し、社会としてある種の無差別性を持って要求をし、攻撃をしてきた。

そうである以上、個人が外部として認識する社会への反発もまた、その一部として無差別に受け取るのが筋だろう。それが嫌ならば、初めから自らが社会の一部であることを根拠にして他人に何かを要求したりするべきではない。それをしていながら社会に対する反発を無差別的に受け取ることになった者が、「何故こんなことに」と言ったところで、それは筋の通らないただの我がままでしかないだろう。例えばそれは、人々から恐れられるある組織の一員を名乗り、その威光によって利益を得ていた者が、その組織に恨みを持つ者に襲われた時に、「何故こんなことに」と言うのと同じことなのだから。

要するに、理屈上、社会の一部として誰かに何かを要求するのなら、それへの反発もまたその一部として受け取らなければならない、ということ。

――まあ、とはいえそれはあくまで主張の一貫性を保持しようとする努力をしているかいないかの話であって、元々この世界は無差別性の上に成り立っているので、その者が普段どのような主張を行っていようとも、結局のところ、お互いに無差別に影響を及ぼしたり及ぼされたりする関係性からは誰も逃れることは出来ないのだが。

「不条理」は不条理に非ず、「悲劇」は悲劇に非ず

恋愛に恵まれない人的『ロミオとジュリエット』>「ガンプラを母親に捨てられた」と自宅放火 実は早とちり、結局全焼(ITmedia News)

ある状況が不条理であると周りから認められた時、それはもはや条理の一部としての「不条理」に収斂され、本当の意味での不条理ではなくなってしまう。同じように、周りから「悲劇」と認識されればされるほど、それによってその出来事の悲劇性は薄まる。真の悲劇とはそれが制御不能の重篤さを抱えていながら「悲劇」とは認識されず、誰からも理解されないそういった状況のこと。その意味でこれは『ロミオとジュリエット』的な似非悲劇よりも遥かに悲劇性が強い出来事だと言える。
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そもそも「悲劇」というのは、その物語を受け取る側がそれを内面化してナルシズム的作用を得るためのもの。つまりそれは、対象となる事象とそれを受け取る側の認識と自意識という三者の共同作業によって成り立っている。そういう共犯関係の上で初めて成立するのが「悲劇」。それに対し悲劇は、他人がそれを内面に取り込んでナルシズム的なカタルシスを得ることを許さない。そのような性質を持っていることこそが、悲劇が「悲劇」に取り込まれず、悲劇そのものとして存在し続けるための一つの条件でもある。この事件はその条件をクリアしていることだろう。

それに加えこのような出来事は、それを受け取る側はそれを内面化して取り込むどころか、むしろそれを自身より劣るものとして積極的に疎外化して蔑み、それよりも優であるところの自分を見つめることで己の価値(存在意義)を確認するというタイプのナルシズムに利用され易い。そして当該人物は、(不特定多数の者から発せられる)その種のタイプのナルシズムを出自とする言動や眼差し――暴力性を帯びたそれ――を受け取ることを余儀なくされる。それがその出来事の悲劇性をより堅固なものとする。

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確かに、一般的な物差しで測ればこの出来事はずいぶんと滑稽なものに見えることだろう。しかしよくよく考えてみれば、だからといって単純にこれを嘲笑うのはかなり難しいことが分かる。

何故なら、この出来事はその包装部分を取り去ってその中身を覗いて見れば、それはその者が生きるための支えとしてきた掛け替えのないもの――それこそ、それが隠されたことでパニクって自暴自棄になってしまう程のそれ――を、恐らく相当関係が悪かったと思われる者によって破棄された――つまりそれはその者の存在意義をも破棄されたことと同義にもなり得る――と認識したことから始まっている。表層の部分はともかく、誰かがそのような内容を獲得した時、それでも尚冷静でいられる者は一体どれくらいいるだろうか。

いや勿論、その生きる支えが「ガンプラ」だったことが滑稽さを生み出している大きな要因の一つなのだろう。だが、元々価値に普遍性はない。例えばある人物の存在は、その他の殆どの人間にとって大した価値を持っていない。今この瞬間にも多くの命が生まれ、消滅していっていることだろう。だが我々はそれを何とも思わない。その生と死に何も感じることはない。それどころか彼らが存在し、消えていったことを知りすらしない。これはつまり、人一人の命でさえ元々その程度の価値しか持っていないということを表している。

誰かにとって価値あるものは常に他の誰かにとって価値の無いものでもある。その者の命さえ、他の誰かにとっては何の価値も無いものに過ぎない。それゆえ法律や道徳といった類のものが人々から求められるようになる。一人一人の人間の命にもし普遍的価値が在るならば、価値観に普遍的法則があるならば、そもそも法律や道徳なんてものに頼る必要はないだろう。それが無いからこそ、法律や道徳、権利などという概念が必要とされる。

つまり、其々の人間の価値観にはそれほど大きな差異があるということだ。だから他人の価値観を嘲笑することほど浅はかなことはない(まあ自分もその浅はかなことをしてきたし、これからもしたりするんだろうけど)。何故ならそれを嘲笑する者の命でさえ、他の誰かの価値観からすれば何の価値も無いものでしかないからだ。だがそれでは自分の命や人生もまた他人から侵害され、否定されてしまうことを避けられないだろう(少なくともその可能性が高まる)。だからこそある程度統一化された最低ラインを設け、それを守るべきだという動きが生じてくる。他人の価値観を尊重することが重要だという考えが生まれてくる。所謂「情けは人のためならず」というやつだ。「他人のため」というのは、実のところ「自分のため」を出自とする形でしか生まれてこないのだ。

だがそれは逆に言えば、自分の存在価値を否定する者はそれらをあっさりと否定することが出来てしまうということでもある(ex.死刑覚悟の無差別殺傷事件)。そういった者の元に法や道徳による非難が正当なものとして届くはずもない。何故なら、誰かがその存在価値を失った時、その者にとってみれば、それを守ることを目的として生まれて来た法や道徳もまた同時にその存在価値を失ってしまうからだ。感覚上はともかく理屈上は。

まあだから自分としては、彼の持つ一風変わった価値観を嘲笑うことは出来ないし、彼が起こしたこの行為もまた(結局死に切れなかったとはいえ)、少なくともそれを道徳的に非難することは難しいだろうと思ってしまうのだが。

処世術としてのバカ騒ぎ、もしくは安全な脅威への逃避

北朝鮮の「飛翔体」発射、各国メディアも速報(日本経済新聞)

なんか誤発表やらなんやらで偉い騒ぎだったみたいだけど、これでようやくバカ騒ぎも少しは収まるのだろうか。まあ実際にこの「飛翔体」とやらがもたらす脅威なんて、日常の脅威に比べたらあって無いようなものだということくらいは殆どの人が分かっていたことだろうけど、それでもこういったバカ騒ぎが行われたのにはそれなりに意味があり、バカ騒ぎをしていた人も、必ずしもバカだから騒いでいたとは限らない。
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まず、このバカ騒ぎは別に政府主導で行われたわけではない。政府は、この前の北朝鮮のミサイル実験の時にその詳細を把握しておらず、その情報の入手と発表に遅れを取ったことで世論から散々叩かれたため、今度はそういう責めを負わないで済むような姿勢を国民に見せようとしただけだろう。マスコミも同じ。もしマスコミが今日の風潮で今回の事態に対して鷹揚な態度を取ってみせていたとしたら、それもまた「危機感が無い!」と言って叩かれることになっただろう。勿論、マスコミ自体がそういう世論を形成するための一翼を担っているのは事実だが、そもそもマスコミは大衆のご機嫌伺いをすることが仕事なわけで。まあ、そうやって大衆に媚びた結果、そのことでまたさらに大衆から「マスゴミ」などと言われてしまったりするわけですが、それがリッパナ・シャカイジンのオッサンがよく言う「頭を下げることが仕事」というヤツでしょう。

ただそれにしたって、兵器売買の可能性などをちらつかせて行われる北朝鮮のアメリカへのアピールが日本に対して全く影響が無いとは言えないとしても、幾らなんでも「飛翔体そのもの」に対してこんなに騒がなくてもよいはずだろう。しかし、「強い危機感させ持っていれば全て上手くいく(危機感が足りない者はこの世で地獄に落ちる)」という危機感神話がこの国に興隆している以上、そうも言ってられないわけです。

というのも、その危機感神話を信じている人は、ある懸念に関して政府やマスコミ、行政、或いは何らかのコミュニティーの構成員など、「集団(つまりそこに含まれる自分)の利益」に関係してくると思われる者達から危機感を余り感じ取ることが出来なかった場合、そのことで自分もまた連帯的に何らかの被害を被らされることになるのではないか、という不安を感じることになる。神話を信じている人達からすれば、危機感を持っていないその人達は自分の利益を害することになる加害者であり、自分は未来の被害者なわけです。だから危機感を余り持っていないと思われる人を本気で怒る。本気でバッシングしてきます。そうなれば周りの者は、そういった危機を避ける為に、神話を信じていなくとも危機感を演出せざるを得なくなってくる。そしてそれが一般化し、危機感を持っていない奴は叩かれても仕方がないというような風潮が生まれて来ているのが今日の風潮。だから知らない人に付いて行ってレイプされるのは自己責任、みたいなことを言い出す人も現れてくるし、そうなれば、自身が窮地に陥った時に危機感を余り持っていなかったという理由でバッシングが加熱することを阻止するために、「自分はこんなに危機感を持っていましたよ!」といういい訳(証拠)を予め用意しておかなければならなくなる。

つまり、大変だ大変だと騒いでいた人達は、他者から糾弾されないため、処世術の一つとしてその騒ぎを起こしていた可能性があるということ。

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本気で「飛翔体」の脅威を信じていたわけでもないのに騒ぐことの必要性は、他にも考えられる。それは現実逃避だ。

殆どの者の人生にとって、本当の脅威は学校や職場や家庭に於ける人間関係であったり、職や住む家や健康を失うことであったりと、ごく身近な日常に存在しているものだ。そしてそういった日常に於ける本当の脅威は、其々の個人に常に纏わりつき、死ぬまで離れることはない。まあ中にはそういった日常が楽しくて仕方がないという人もいるかもしれないが、多くの者にとって日常は常に痛みを伴うものであり、自分みたいに「本気を出し続けた結果が無職だよ」な生まれて来たことを後悔している人間もいれば、「何とか社会の波に上手く乗ることは出来たものの、もう自分が生きていることに価値を感じることが出来ない…けど死ぬ勇気もない」という人もいるだろう。日常とは、基本的にそういった苦役性を持ったものでもあるのだ。だからこそ、その日常の痛みを和らげるための逃避が必要となる。つまり、「飛翔体」のようなリアリティの薄い安全な脅威へと意識を向けることで、そういった日常の痛みから気を反らすためにバカ騒ぎをしていた人もいるのではないかと※1

北朝鮮、核爆弾の小型化に成功か 米韓当局情報と専門家(47news)

北朝鮮関係で言えば、既に日本向けに実戦配備されているノドンに核爆弾を積む事が可能になったのではないかという、(情報戦によるものかもしれないが)よりリアリティのあるより大きなニュースがあったのにも拘らず、「飛翔体」の一部が落ちてきて怪我をする人が出るんじゃないかという、殆どあり得ないどうでもよいようなことで騒ぎが起こったのがその良い証左と言えるのではないか。

もし北朝鮮が本当に核兵器を使うとしたら、それは向こうにとっては「死刑覚悟の犯行」と同じようなものでもうヤケクソだから、一発、二発ではなく、しこたまそれを打ち込んでくることだろう。その場合、元々加持祈祷くらいの力しか持っていないミサイル防衛システムなんて何の役にも立たない。そしてこの脅威は、幾ら騒いでみたところで解決するわけでもない。隣のムカツク国とそういう事態が起こらないような関係性を維持し続けることでしかその脅威から逃れる術はない。そしてこれは、「飛翔体」に比べればより現実的な脅威になり得るものでもある。

とはいえ、やはりその脅威が現実のものとなる可能性は低く、そのためそれを日常の痛みから気を反らすために利用することは出来ないわけではないが、この脅威に目を向けることは、日常に於ける逃れ得ない場所での継続的な人間関係を彷彿とさせ、逆にストレスが溜まりかねない可能性がある。おまけにクライマックスも無く、イベント(娯楽)性は薄い。だからこそ、このニュースには余り注目が集まらず、「飛翔体」ばかりが持てはやされたのではないかと。

今回の騒動では、そんな風な感想を持った。



※1 怪談なんかもこういったものの一種だと思う。つまり、より現実的な日常の恐怖から目を反らすため、虚構の恐怖へと意識を向けるという。

早くも便乗犯が現れた

「理解に苦しむ」「厳罰化を」=閣僚から発言-小泉容疑者逮捕(時事通信)

元厚生事務次官宅連続襲撃事件で小泉毅容疑者が銃刀法違反容疑で逮捕されたことについて、25日午前の閣議後の記者会見で閣僚から「凶悪にして卑劣な許し難い犯行だ」(森英介法相)など発言が相次いだ。(中略)

鳩山邦夫総務相は「治安を守るため、あらゆる意味で厳罰化が必要だ」との考えを示した。


小泉容疑者の人物像、各地でトラブル(TBS News)

 小泉容疑者のものとみられる、TBSのホームページへの書き込み。そこにも、こんな文面がありました。

 「34年前、保健所に家族を殺された仇討ちである!やつらは今も罪の無い50万頭ものペットを殺し続けている」

 “殺された犬の仕返し”という供述に、地元の保健所は困惑を隠せません。

今回の事件は、直接犯人に繋がるような物的証拠が殆ど出ず、それ故、事件を起こした者が逃げ通そうとすれば逃げ通せた可能性も高かったのではないか。それと同時に、もし犯人が捕まればその者に極刑が科せられることになる可能性が高い、ということもまた容易に想像がついたはずだ。にも拘らず、この容疑者は自ら名乗り出た。
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そういう事件を例にとって「厳罰化が必要だ」などと主張することは、本気でそう思っているのならばそれは極めて稚拙な発言と言わざるを得ないだろう。またそれが事件に便乗して厳罰化を推し進めようとするようなものであるならば、それは極めて悪質な発言と言わざるを得ない。何故ならそれは、「治安を守る」という目的がいつのまにか「罰すること」、つまり誰かに苦痛を与えることに摩り替わってしまっているからだ。この考え方には猟奇的※1なものさえ感じる。結局この人の考え方自体は、この事件を起こしたとされる容疑者が主張していることと何も変わらないじゃないかと。ただ違うのは、一方が直接自分の手を使って己のその欲求を満足させようとしたのに対し、もう一方は社会システムにそれを代行してもらい、その欲求を満足させようとしているということだけ。

でもこの人、これで東大を出ていたりするんだよなあ。この鳩山邦夫氏と、同じく東大出身の中山成彬氏の二人は、図らずも、幾らテストで良い点を取ることが出来る能力があってもそれだけじゃ駄目なんだということを、その言動や振る舞いを通して多くの人々に伝えてくれる良き生き証人としての役割を果たすこととなっている。



追記: ※1 ただし、それが露にされるか否かの違いはあれど、こういった猟奇性は全ての人間が兼ね備えているものでもあるのだが。

またサラリーマンか

無職の人間が逮捕されたら「また無職か」とか言われるけど、サラリーマンが逮捕されても「またサラリーマンか」って言われることはあんまりないよね。サラリーマンだって毎日事件起こして逮捕されているのに。
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以下は、googleのニュース検索「過去 1 日」で、「逮捕 会社員」をキーワードとして検索して出てきたもの。

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「いいレッスン(≒チャンス)」だそうで

埼玉でも宅配装う?玄関に印鑑 元厚生次官宅連続襲撃(日本経済新聞)

 元厚生事務次官らが相次いで殺傷された事件で、殺害された山口剛彦さん(66)夫妻のさいたま市内の自宅玄関に山口さん名の印鑑が落ちていたことが19 日、埼玉県警の調べでわかった。吉原健二さん(76)の妻の靖子さん(72)は東京都内の自宅で、宅配便業者を名乗る男に襲撃されており、同様の手口だった可能性が強い。

ラジカセでテレビ音声に切り替えてみると、『とくダネ』でこの事件のことを取り上げていた。
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そこで、声からして(尚且つ、最後に「サッサさん有難うございます」と司会者が言っていたように聞こえたこともあって)恐らく佐々淳行氏と思われる人物が、被害者の無用心さを指摘して、今回の事件はそれを改めるための「いいレッスンだと思います」と言ってそのコーナーを締めくくっていた。しかし、そういった表現は幸いにも大きな被害が出るにまで至らなかったケースに於いて用いるべきものであり、実際に大きな被害が出ているこういったケースに於いて用いるべきものではないだろう。これは兵庫県の井戸知事が、関東大震災が起きたら東京一極集中を脱却するチャンスだと言ったのとちょうど同じ類の発言だ。しかもこちらは起きたらという仮定でなく、実際に起こったこと対して言っているわけだから、より不謹慎だといってよい。

じゃあこの発言が井戸知事の発言のように激しく非難される対象になるかといえば恐らくそうはならない。この記事では、件の井戸知事の発言が世間から一斉に激しく叩かれたことに対して、その反応はバランス的にいってもちょっと行き過ぎではないか、というような事を書いたが、それは結局こういうこと。つまり、実際には多くの人間が普段からこういった(自らの力で招きよせたわけではない不幸を好機と捉えるような)不適切発言※1を幾つも行っているわけであって、それを一々激しく非難して(されて)いたらきりが無いでしょ、という。

ただし、井戸知事の場合は己のその過ちを中々認めようとしなかったことで、余計に傷口を広げてしまったということはあると思うが。どうせそれを認めるのなら、サッサと認めた方がいいよね、と。

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それはそうと、こういう事件が何度も起こると、宅配便業者の人達は不審者扱いされることが多くなって大変だろうな。



※1 それ自体が他人に不幸を招きよせるような不適切発言は激しく非難されても当然だと思うけど。それは単なる不謹慎な発言とは分けて考えるべき。ただし、ただ不謹慎なだけの発言も人の心を傷つける(つまり不幸にする)可能性は充分あるので、そこまで考えると、その境界線は曖昧なものにならざるを得ないということはある。

安全を重視すれば安全が奪われる

個室ビデオ店火災:狭い部屋、廊下…客から危険性指摘の声(毎日新聞)

 数回利用したことがあるという男性は「(個室のスペースからの)出口は1カ所しかない。手前で火事があったら奥の人は逃げられない構造だ」と言う。系列店でバイトしていたことのある大阪市浪速区の男性会社員(31)は「廊下は狭く薄暗い。また廊下の幅も、2人がすれ違うにはよけあうのが必要なぐらいなのに、ジュースの段ボールが積んであった。火事が起きたら逃げるのは難しい」と話した。


【個室ビデオ店火災】“個室店難民”、再起半ば絶たれた希望
(産経新聞)

 大阪・難波の個室ビデオ店「試写室キャッツなんば店」で起きた火災は、同種の店がホテル代わりに利用されている実態を浮き彫りにした。現場となった店は、終夜過ごしても1500円程度という業界でも屈指の低価格が売り。犠牲になった15人のうち、介護ヘルパーの舞野学さん(49)は、この店に泊まることで家賃を切り詰めて資格取得に励んでいたという。3日午後には舞野さんの葬儀が営まれ、参列した同僚らは「きちんとした家を借りていれば…」と、志半ばで人生を終えざるを得なかった無念さを思いやった。(中略)

 「そろそろ家を借りたらどうか」。事件の数日前、連日のようにビデオ店に寝泊まりしていることを心配した同僚がこう切り出したが、舞野さんは「なかなか難しい。近いうちに」とはぐらかした。同僚は「もっと強く説得するべきだった」と悔やむ。

 個室ビデオ店は1時間ごとの料金が基本だが、店舗が集中する大阪のキタやミナミの繁華街では一晩中滞在できるような割引価格設定をめぐり、熾烈(しれつ)な競争が繰り広げられている。ミナミでの相場は2000円前後。ネットカフェでは5時間のナイトパック(個室)でも3000~1500円で、個室ビデオ店のほうが安い。このため終電に乗り遅れた会社員や家を持たない「ネットカフェ難民」と呼ばれる若年層の利用も増加。宿泊施設としての利用がメーンになっている。(中略)

 ワーキングプアの問題に詳しい「派遣ユニオン」の関根秀一郎書記長は「日雇い派遣の労働者が、『個室ビデオ難民』になっている。雇用対策がきちんとされない限り、今後もこういう店は増え続けるだろう」と指摘している。

テレビで系列店の内部構造を取材しているのを見たが、確かにあんな場所で火災が起これば逃げようがないだろう。ましてや就寝中であればなおさらのこと。煙が充満するのも相当早かった(1~2分で店内に充満したといわれる)ようだし。実際、焼失した部分はほんの一部なのに、それでいて15人もの死者を出すというのは、幾ら建築基準法や消防法の条件を満たしていても(建築基準法に関しては、石こうボードで窓を覆い隠すなど違法性があった可能性も出来ているようだが)、やはり実質的には店の構造や運営の仕方に大きな問題があったのは間違いない。メディアでも、安全よりも利益を優先した経営方針などが取り上げられ、「安全性の重視」という点が強調されたものが多かった。しかし、どうもそこには何かしらの白々しさを感じざるを得なかった。
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確かに「安全性を重視すべし」というのは正論だ。だが、何故店側が安全を軽視した運営方針を取るのかといえば、それはそれを経営する側の人間達が自らの経済的安全を確保し、それを蓄積するためだろう。では何故利用客側が個室ビデオ店を本来の目的以外の目的でそこを利用するのかといえば、やはりそれによって経済的安全を蓄積するためであったり、既に直面している危機をなんとかして乗り越えるためであったり、若しくは、自然環境や「他の人間」から発せられる暴力や眼差しによるダメージから身を守るためには、それ以外の選択肢がなかったりするからだろう。

そういう状況に於いて、全ての個室ビデオ店が安全を第一にして店を運営し始めたらどうなるか。当然、安全にコストを払えばそれだけ収益率は落ちるから、経営が厳しくなって淘汰されていく店が増えるだろう。狭いスペースに多くの個室を設けるという構造だって見直さなければならないし、価格だって引き上げなければならなくなる。そうなれば、宿泊としての需要に対して供給が追いつかなくなる可能性だって出てくるし、価格が高くなるから、ケチって小遣いを浮かせようという人間はともかく、既に経済的危機に瀕している者達は、火災に対する安全が重視されることによって、益々経済的安全が圧迫され、路上生活をやむなくされる者が増えてくるかもしれない(自分がこういう場所で寝泊りせざるを得ない人間だったとしたら、火災による危険よりも、むしろ経済的安全の方に気を払った運営をしてくれ、と思うだろう)。そして路上生活者が増えれば、所謂「普通」の人達は、「安全が犯される」といってその者達を邪魔者扱いして迫害するだろうし、そうなればその暴力を受けた者達だって当然腹は立つわけで、両者の間にはより「殺るか殺られるかの関係性」が成立し易くなり、新たな危険性が芽生え始める。

つまりこの問題の根っこには、経済的安全の偏りという問題が深く根ざしており、既に誰かの下に磐石過ぎるまでに蓄積された経済的安全を如何にして振り分けるか、そして、その安全の分配ルートやシステムを改め、如何にしてより多くの者に最低限の安全が行き渡るようにするか、ということこそが本当に注目されてしかるべき箇所であり、またそれこそが本当に解決すべき事案なのである(勿論それ以外にも、蔑みや自己嫌悪という要素が払拭されない限り、こういった事件はなくならないが)。そしてそれがどういうことを意味するのかといえば、この問題に於いて本当の意味で安全性を重視するということは、自分の経済的安全を如何にして他者に譲り渡すか、という問題であるかもしれないということだ。

この事件に際した安全論議がどこか白々しく感じるのは、多くの者達が、そこに目を向けてそれを改善しようとする姿勢を見せず、むしろその核心を覆い隠し、それがさっさと通り過ぎてくれるのを願うために、安全という呪文を唱え続けているようにしか自分には見えなかったからだ。まあ確かに、個室ビデオ店の「火災」に限っては、その被害を受けるのは基本的に低所得者層だけだろうから、中流以上の「普通」の人達にとっては他人事だという思いもあるのだろう。だが当然、この問題の本質は個室ビデオ店内部に留まるものではない。故に、もしかしたらその呪文は各々の場所に「自己責任」というバケモノを召還するためのものであり、それによって「普通」の人達にも何かしらの危険性がもたらされることになる可能性だって充分にあるわけだ。

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大阪・個室ビデオ店火災:生活保護、受給前日に放火 小川容疑者、借金続き悲観か(毎日新聞)

 大阪市浪速区の個室ビデオ店で15人が死亡、10人が負傷した放火事件で、殺人などの疑いで逮捕された東大阪市加納7、無職、小川和弘容疑者(46)の生活保護費受給日が事件翌日だったことが分かった。小川容疑者は事件を起こした1日、金をほとんど所持していなかったことも判明。翌日の10万円弱の生活保護費の受給を待つこともなく、事件を起こしたことになる。

 大阪府警浪速署捜査本部は、小川容疑者が借金やギャンブルのため生活保護費では追いつかない生活を続けるうち、将来を極端に悲観し、自暴自棄になったとみて、さらに追及している。小川容疑者は4日、接見した弁護人に「生活保護を受けて生活するのは恥だと思っていた」などと話したという。関係者の証言によると、小川容疑者は現在の賃貸マンションに転居した今年春から、家賃と生活費の計十数万円を生活保護費として受給していた。実際に手元に残るのは、家賃を除く10万円弱だった。

 このほかに、小川容疑者は東大阪市周辺にある福祉関係の支援施設2カ所に通い、若干の収入を得ていたという。小川容疑者は心臓病を患い、定職には就いていなかった。一方で、競馬などギャンブルにのめりこみ、消費者金融から数百万円の借金があった。

 小川容疑者は事件直前の約1カ月ほどは、ネットカフェや個室ビデオ店で寝泊まりしていた。事件の2~3日前、放火事件で重傷となっている露天商の男性(46)と知り合い、現場の個室ビデオ店を紹介され、事件当日、一緒に訪れたという。(中略)

 小川容疑者は、放火の動機と当時の行動について「自分としては1人で死ぬつもりだった。でも、煙で苦しくて、我慢できなくなり部屋から出てしまった」と明かした。火の燃え方は「予想外だった」と言い、25人が死傷する大惨事になったことについては「思ってもみなかった」と振り返った。

こういった者に対し、ルールを破ったとしてより厳しい罰を与えてみたり、道徳の名の下に断罪してみせることは容易い。だがそれはあくまで事後的な事柄に過ぎない。どうも未だに勘違いしている人が多いように思うが、事前に、今正に淘汰されつつある個体を道徳や厳罰という呪縛によってコントロールしようとすること、つまりその道具を使って、淘汰する側の者が淘汰される側の者に、自らの側に対して都合の良い配慮をさせることはもはや出来ない。それが如何に馬鹿げていて、如何に無駄であるかということは、いい加減子供から大人までもっと広く一般に理解されてもいいんじゃないかと思う。

殺るか殺られるか、或いは淘汰する側か淘汰される側かという関係が完全に確立してしまった時、そこにはもはや、道徳や厳罰という呪縛が己の力を効果的に発揮することが出来る場は存在しない。いや、勿論多くの淘汰されゆく人間にはその道徳や厳罰の縛りが効いているからこそ、復讐ではなく自殺へとその舵を向けることになるんだろうけど、その自殺というベクトルへと向かう動きでさえ、こういった事態を招きかねないわけで。つまり、本当の意味での安全が保たれるか否かは、そういった関係性の確立を如何にして回避することが出来るか、ということにこそ掛かっている。よって、目先の安全にばかり気を配り、それを回避するために必要なコストを払うこともせず、それでもって総合的な安全性の改善を願うのは、余りに虫がよさ過ぎる話だと言えるだろう。

それは極めて「常識的」な判断


ユーチューブに犯行予告! 10人死亡、フィンランドの銃乱射
(産経ニュース)

 【英中部マンチェスター=木村正人】ロイター通信によると、フィンランドの首都ヘルシンキから北西へ約300キロ離れたカウハヨキの職業訓練校で23日、男子学生が銃を乱射し、少なくとも学生ら10人が死亡。犯人の男子学生も銃で頭を撃って自殺を図り、搬送先の病院で死亡した。負傷者もいるもようだ。

 ロイター通信などによると、事件前、動画投稿サイト「ユーチューブ」に男子学生が犯行を予告したとみられる複数のビデオ映像が投稿されていた。カウハヨキ在住とする22歳の男が、射撃訓練場で銃を撃つ姿などが映っており、「人生すべてが戦争であり、人生すべてが苦痛だ」などとの書き込みもあった。

(中略) 人口約524万人の同国は米国、イエメンに次ぎ世界で3番目に銃保有数が多く、100人当たりの銃保有数は56丁。狩猟人口が多いためで、15歳から銃の保有が認められている。昨年の事件をきっかけに、欧州連合(EU)と同じ銃保有年齢を18歳に引き上げる法案が協議されている。

「人生すべてが戦争であり、人生すべてが苦痛だ」

彼が置かれたような状況を戦争だと言ったならば、きっと「本当の戦争はそんなに甘いものじゃない!」などと言って捨てる人がいるかもしれない。だがもしそう思う人が居たなら、その人は生存競争という名の戦争、或いは画一化を目論む社会的ベクトルと人間の持つ多様性との衝突を甘く見すぎていると言わざるを得ない。
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戦争というものは、何も国同士によって行われるものばかりとは限らない。そもそも、国同士の間で行われる戦争は、必ずしも全ての人間にとって恐ろしいものとは限らない。何故なら、自国が他国と所謂戦争を行って幾ら多くの死傷者を出そうとも、その者がもしその国内で優位なポジションを獲得し、それを維持し続けることさえ出来ていれば、その者はその戦争によって命を落としたり、尊厳を踏みにじられたり、困窮した生活状況に陥ったりする危険性を回避することが出来るからだ。それどころか、そういったポジション獲得能力に長けている人間は、他の者達が戦場で地獄を見ているのを横目に、優雅で平和な生活を送ることさえ可能だ(勿論そういうことが可能となるには、その者が国内で優位なポジションを保つだけでなく、その国自体が国際社会というより大きな集団の中である程度優位なポジションを保ち続けているということもその条件として必要となってくるかもしれないが)。その一方で、もしその者がその国に於いて最下層のポジションしか得ることが出来なければ、別に国同士が喧嘩なんかしていなくても、その者は常に命の危険に晒され続けることになる。「社会」という名で匿名化された個々人や、その集団によって運営されるシステムや風土による拷問に耐え続けなければならなくなる。

例えば一般的には「平和」だと言われるこの国に於いても、実際には多くの者達がその尊厳を踏みにじられるような状況に直面しているし、命の危険に晒されるほど困窮した生活状況を迫られている。そして現実に毎年多くの人間が順次淘汰されていっている。結局日本に於いても「平和」なんてものは、ある一定の社会的地位を獲得することが出来た者達だけに支給される幻想に過ぎないというわけだ。だがその幻想の外ではちゃんと殺し合いは続いている。より洗練された婉曲的な形で。

人間がその生存を維持するためには、それに必要なだけの外的(物理的)環境と内的(精神的)環境の二つが整っていなければならない。この二つのどちらが欠けてもその者は己のその生存は維持することが出来ない。だが、全ての物理的資源は既にその社会を覆い尽くすより大きな暴力システムの下に統括された其々の集団(暴力団の様な非合法組織であっても、そのシステムの作る秩序の恩恵は受けている)の手の内にある。そして生存の維持に必要な外的環境や内的環境は、社会という集団との関係性の中でしかそれを獲得することが出来ない。つまり、その者が其々の集団に上手く取り入る(馴染む)ことが出来ず、そこからはぶられてしまえば、そうやって集団によって生み出される風土やシステムを上手く利用することが出来なければ、それは即ち死を意味する。そのため其々の個人は、(その自覚があるか否かはともかくとして)常に命を懸けたポジション争いを行っている。当然個人差はあるものの、基本的には不利なポジションしか獲得出来なかった者ほど、集団(の力を上手く利用することが出来た他者達)と一方的に不利な関係を結ばされることとなり、精神的にも肉体的にも激しい消耗を強いられ、その生存を維持することが難しくなっていく。事実、多くの者達がその生存という枠組みから脱落することを余儀なくされている。そういった間接的な形で殺し合いが行われるのが、現代的な社会に於ける生存競争の在り方。

しかも社会はより画一化されたシステムや様式を求めるベクトルへと向かう一方、人間が始めから兼ね備えている多様性の方は変わらないから、その分だけその社会にとって邪魔になるはみ出ざるを得ない人間は増えていくことになるという。こういった人間の持つ多様性の一側面を受け持たされて生まれてきた者が、己の意思で以って幾らその画一化された社会の風土やシステムに馴染もうとしても、それによってその資質を変更出来るはずもなく、その為の努力は全て徒労に帰す。つまりその者は、その社会にとって邪魔な存在として、それと対立した関係でしか生きて行くことは出来ないということ。

こういった戦いを指してそれを「戦争に満たない甘いもの」と言うのなら、それはその者を取り囲む状況が甘いものであるという告白でしかない。現に、所謂戦争よりもこういった日常に於ける生存競争に敗れて死んでいく者の方が圧倒的に多いのだから。「平和」が支給されるような「普通」の人達は、そのポジション争いの能力に長けすぎているが故に気づきもしないのかもしれないが、その「平和」の幻想の外では、常にこういった命を懸けた戦いが行われている。そこには生存という枠組みの崖っぷちで、一方的な関係を強いられながらもぎりぎり踏みとどまっている者や、社会にとって不必要と判断されながらもそれに抗って生きている者が厳然として存在する。

つまり、事件を起こした彼がどんな人間であり、どのような思想や感覚を持っていたかは分からないが、彼が「社会」と謂われる既存のシステムや風土を上手く利用することが出来る集団一般とずっと戦争状態にあったのは状況から見て明白であり、彼からすればそれらは全て「敵」という存在でしかなかったわけで、戦争なら人を殺しても良い、もしくは戦争で人を殺すのは仕方が無い、というのが社会的な常識であり、それが良識ある「普通の人達」の普段の一般的主張なり認識である以上、そういった「普通の人達」はこういう事件が起こっても、その行為に対して筋の通った批判をすることなんて出来ないということ。勿論、己の主張の一貫性を放棄したなりふり構わぬ駄々こねや、「敵」に対する不平不満という形でそれを非難することは出来るが。

そもそも、ある個人をただその現状を打開したいというだけで、その先に何の希望も勝ち目も無いのに、それを分かっていながら、「社会」という実体の無い概念上の存在に命を懸けた戦いを挑むまでに追い詰めてしまった時点で、「社会の一部」として「平和」を謳歌してきた者達は、その個人からどのような仕打ちを受けようと、なんら説得力のある批判をすることは出来ないだろう。何故なら、「社会」という体制側に身を置いた多くの者達は、社会的に劣位な位置に居る者達に対して、己の生存維持には不必要な蔑みを行うことで無駄にその者達の尊厳を踏みにじってきたし、それらを「出来るだけ生かさず殺さず利用して、それが出来なくなれば誰にも迷惑を掛けずにひっそりと死ぬべき存在」として扱ってきた。その関係性を改めようともしなかった。他者に対してそういった一方的関係を強いてきた者、或いはそういう眼差しを向けてきた者が、その他者からどんな反撃を受けたところで、一体何を驚くことがあるのかという。

或いは、こういった事件は画一化のための抑圧を掛けてきた社会的ベクトルへの反動として、人間の持つ多様性がそれに反旗を翻した結果と考えることも出来るが、その場合に於いてその役割を受け持たされることとなったその者に突きつけられる、何故自身という社会に不必要とされる存在が生まれて来なければならなかったのか、何故その不必要なはずの自身の存在無しに世界は存在し得なかったのか、という矛盾した問いに対する答えには、その社会の要求に応じてただ慎ましく消え去ることによってその矛盾を解消するか、もしくはそれに対して結論を出すことを保留し続け、その矛盾を抱え続けたまま生き続けるか、それともそれと真っ向から戦いを挑んで「せめて一太刀」を入れることによって己のその存在に価値を見出すか、という三つの選択肢しか用意されていない。そしてフィンランドに於ける「常識」がどのようなものかは知らないが、日本に於いては「逃げる」ことは非常に恥かしいこととされ、さらに決断を下さずに態度を保留し続けることは「モラトリアム」などという名前が付けられ、それ以上に恥かしく愚かなこととして非難される一方、「戦う」ことは賢明な判断として賞賛、称揚されるのが一般的だ(そのため、実際には「社会」という体制側におもねっているだけで全然戦ってもいないのに、「戦っている」ことを自称する者が続出するる始末)。少なくともこういった日本的な「常識」に照らし合わせてみれば、三つの選択肢から「戦う」ことを選んだ彼の行為は極めて「常識的」なものだったと言えるわけだ。

社会に於ける常識的様式にはどうしても馴染むことが出来なかった者が、判断に関しては極めて常識的な結論を下したという皮肉な結果。というか、人間が一つの様式に染まりきることなんて出来るわけもないのに、何故人は一つの様式へと収束させることばかりに拘るかねえ。全ての者が収まり切る様な様式を作ることは不可能であっても、より多くの者が収束出来るように出来るだけ様式を多様化するという方向性だってあるだろうに。

 ***

それはともかくとして、日本には私設暴力団や国立暴力団以外には余り銃が普及していなくて良かったね。というのも、もし日本にもアメリカやフィンランドほど銃が広く一般に普及していれば、きっと出口のない一方的関係性や、そこから抜け出せないように幼い頃から「社会」によって植えつけられた己の道徳的呪縛を清算するために、アメリカやフィンランド以上にあちこちでこういった玉砕覚悟の「せめて一太刀事件」が起こっていただろうから。まあそれ以上に、銃を使った自殺という形での淘汰が今以上に進んでいたことだろうとも思うけど。

黒色のタッグなんて貼り付けなけりゃいいのに

まだクサクサした気分が収まらないので、
再び個人の暴力は糾弾され、集団の暴力は称揚されるの続き。
また下らないこと書くけど、これが自分の吐き出し行為なので。
--------------

【秋葉原無差別殺傷】人間までカンバン方式
(何かごにょごにょ言ってます)

まあ、トヨタのような日本を代表する企業がこういうことを平気な顔してやっていられるのだから、この社会がどのようにして成り立っているか、といったことは推して知るべしといったところだろう。

そして件の事件の容疑者は実際にこういった環境暴力を受けていたわけで、しかも、

そもそも犯人の環境は、他者と関われないシステムとして存在している。

見知らぬ土地に連れて来られ、社員からは顔を覚えてもらえず、あたかも部品の一部として明日の生活を奪われる。俺はボルトじゃねえ。

といったように、それが環境暴力という間接的に行われる形態の暴力であるが故に、暴力を行使する主体はその対象と直接関わることなく、自らが暴力を振るっているという事実さえも忘れてしまう。だから罪悪感に苦しむこともなく、それ故その暴力に歯止めが掛かることもない。むしろ、そういった環境を形成することが日本経済をより強くするのだ、という集団の利益という大儀の下、その暴力は加速していく。

絶望の背景を他者に見出すことができたなら、それをなぜ別の手段に訴えられなかったのか。歯がゆくて悔しくて、悲しく憎らしい。

と、この方は言うが、そもそも彼はそのような手段を行使するコミュニケーション能力、政治力を持っていなかったが故に、このような絶望的な環境しか獲得出来なかったのではないか?つまり、やはり彼にはもう「樹海」か「秋葉原」かの二択しか無かったのである。だからこそ、どんな大儀があろうとも、そういった暴力環境が形成されること自体が問題にされねばならないのではないか、ということを前の記事では書いた訳で。

しかし、そのような生きながらにして黒のトリアージ・タッグを貼り付けられてしまった人間の殆どは、前者の方を選択する、いや、してきた。そういう形でこの国の治安は守られてきた。そのことは、もし仮に今まで自殺していった多くの者達がそれをせず、己が生き残ることを第一義的に考えて行動していたら、或いは、その最後の力を復讐へと注ぎ込んでいたならば、一体この国の治安はどのようになっていたか、ということを考えてみればよく分かる筈だ。

そう、自らが道徳的恩恵の外部へと追いやられて尚、その規範を守る論理的な理由を失って尚、内部の規範を遵守しようとする個人の道徳感によって、その道徳感という刃によって不特定多数の“誰か”が自殺という形で間引かれることに頼って治安を守ってきたのがこの社会なのである。

だからこそ、こういった事件が起きる度、人々は口々に道徳を唱え始める。まるでそれに魔法効果でもあるかのように。いや、実際今までその道徳感という刃によって多くの者達が自殺に追い込まれてきた訳だから、それに魔法効果があると言えば言えるのかもしれない。むしろ呪いといった方が適切かもしれないが。

だが、前々回の記事でも書いたことをもう一度言うが、道徳的恩恵の外部へと切り捨てた人間に内部の規範を遵守してもらうことを期待すること自体がそもそも間違っているのである。というか、そういう一方的関係を形成すること自体が本来なら非道徳的なものとして捉えられなければならない筈なのだが。

 ***

それはともかく、こういった道徳の魔法効果にも当然限界がある。特に、近年ではもう早い段階で自分の未来がある程度想像出来てしまうような環境が整ってしまっているが故に、そして経済倫理学的発想を無批判に是とするような認識が世間に行き渡ってしまっているが故に、一方的関係を強いる者と強いられる者、切り捨てる者と切り捨てられる者、という構図が、より明確に、より早急に人々の意識の中に形成されることになる。これまでならば、いよいよもうどうにもならないという時になって初めて自分が切り捨て要員であったということに気づいていたのが、これからはもう、十代、二十代という早い段階で、「俺には既に黒のトリアージ・タッグが貼り付けられている」と気づいて(思わせて)しまう可能性があるのだ。そういう環境下に於いて、果たして今まで通り道徳の魔法効果を期待出来るだろうか。

特に就職氷河期には、破廉恥極まりないと言ってよい程あからさまにそういった切捨て行為が行われた。このことは、実際に切り捨てられた者だけでなく、全ての世代がそれを目撃し、その構図が嫌でも脳裏に焼きついている筈だ。そしてそれにより、それが意識化されるか否かは兎も角、「世の中には切り捨てる者と切り捨てられる者がいる、それは動かせない事実だ」という感覚が、多くの者達に刻み付けられたのではないか。

いや、それでもやはり多くの者達は「樹海」の方を選択するのだろうけど、ただ一つ言えるのは、「自分には黒のトリアージ・タッグが貼り付けられている」と感じざるを得ない人が増えれば増えるほど、こういった事件や自殺が起こる可能性もまた高まるということだ。つまり、それらを減少させようとするのならば、まずはそんな風に感じざるを得ない人間を減らすためにはどのような環境を作り上げなければならないのか、ということこそ本当に考えなければならないことなんじゃないかと。

まあ、物理資源は限られているので今の状況を改善するのは難しいという人もいるだろう。しかし、本当に黒のタッグが貼り付けられたと感じざるを得ない人間をこれ以上減らすことは出来ないのだろうか。本当にこれが限界なのだろうか。自分には分からない。ただ、何故かこの手の問題になると、普段はうっとうしいまでに自己主張してくる「諦めるな精神」は、突然どこかへと姿をくらましてしまうんだよな。なに都合の悪い時だけひきこもってんだよ。俺じゃあるまいし。いや、もし仮に物理資源はどうにもならないとしても、現在は「仕方が無いこと」として許容されている、生存の維持に不必要な悪意の投げつけや蔑み行為に関しては幾らでも改善出来る筈だろう。こちらは限られた資源云々などという話ではないのだから。だが、それをどうにかしようという大きな動きが形成される気配もまたない。よって、それらの悪意を受け取り続けることによって消耗し、自身の存在価値を信じられなくなり、他者と関ることにすら後ろめたさを感じるような感覚を獲得してしまうような人間もまた、増えることはあっても減ることはない。そしてそうなってしまった人間は、何らかの依存先を獲得したり、獲得した依存環境を維持し続けることが極めて困難となる。黒色タッグ人間の一丁上がり、という訳だ。まあこういった蔑み行為は、出来るだけ生存競争のライバルとなる他者を弱らしておこう、という人間の本能のようなものも関係しているのかもしれないが。

だが、個人というコップに苦痛という水を注ぎ続ければ、やがてその水が溢れ出すのは当然のことだ。そしてそのコップにひびでも入れば、中の苦痛が外へと流れ出すであろうことは一々説明するまでもない。しかし、実際はそうなったとしても、多くの人間がその苦痛を派手に外へとぶちまける前に、それを抱え持ったままこの世から消え去ってくれるが故に、人々はその当たり前の事実さえ忘れてしまう。散々コップに水を注いでおいて、それが溢れ出ると「うわっ、溢れた!」といって大騒ぎする。で、そうなったらなったで今度は、「このコップの精神がなっとらんから水が溢れ出るのだ!」などと言って憤る。もうなんじゃそりゃ、と。

いや正直なところ、例え理屈上は可能であっても、自分も実際にこういった状況を今よりも改善することが出来るなんて露ほども思っていない。だって人間って元々こういう生き物だから。

ただ、集団によって許容され行使される不特定多数の個人への環境暴力が避けえぬ摂理でもあるかのように主張するのなら、せめてそれに対する反撃として行われる個人からの不特定多数の集団への暴力もまた、摂理として甘んじて受け入れる覚悟くらいはすればいいんじゃないの?と思う訳で。

ところが、普段「現実主義」などとのたまい、前者の摂理性を強調するような人間が、それとセットで付いてくる筈の後者の摂理に対しては激しく拒否反応を示し、その上、その受け入れたくない現実を目の前にすると、「大人になりきれていない者がいるからこんなことになるのだ」とか、「個人の未成熟さがその原因だ」などと言い出す。そして本来技術的な問題である筈の事柄を、善悪の問題にすり替えて物事を主張し始める。一体、その様な振る舞いのどこら辺が「大人」でどこら辺「成熟」なのかと。そしてそれのどこが「現実主義」なのかと。

そんな風に思う訳ですわ。

 ***

道徳といじめ、自殺、治安の関係性や、経済倫理学の欺瞞性については、もう一度他の記事でも書くかもしれない。というか、それにつてい書こうと思いながら、中々上手く文章化することが出来なくて悶々としていたところにああいう事件が起こってしまったのだが。ただ、これまで「後で書く」と予告したことは何度かあったが、それを実際に成し遂げたという実績は今のところ無い。つまり書かないってことか。

個人の暴力は糾弾され、集団の暴力は称揚される

例の秋葉原無差別殺傷事件の関連記事について書いた
悪意はちゃんと個人に蓄積されていくの続き

一昨日はついカッとなって書きなぐってしまったが、そういうことをするとロクな記事にならないな。いや、まあ元々断末魔ブログだからそれでもいいんだけど。ただ、前の記事だけでは自分が一体当該記事(というか、実際はあの手の論調)の何に腹を立てているのかよく分からない部分もあるかもしれないので、補足として前の記事では書けなかった怒りの理由についても書いておこうかと。
-------------

自分があの手の論調に腹を立てるその理由を一言でいえば、それが独立した個人による他者の暴力を糾弾していながら、自ら(我々)が集団で行ってきた(いる)暴力(集団を形成することで匿名化し、道徳によって肯定された暴力)を隠蔽しているからだ。

現代社会に於いて、人間は何らかの利益集団や利益システムに依存し、それによって集団の生み出す力を上手く吸収することが出来るようになって初めてその生存の持続が可能となる。つまり、完全なる孤立は即ち死を意味する。故に、誰かをその利益集団やシステムから排除することや、依存の継続や獲得が難しい状況を作り出すこと、その依存先を獲得するのが難しい状態に個人を追い詰めることは、それ自体が不特定多数の集団によってなされる個人に対する極めて悪質な暴力行為以外の何物でもないのである。

しかし、この暴力は集団によって間接的になされるものであるが故に匿名化され秘匿化される。尚且つ、依存先の獲得、或いは獲得した依存先でのポジション争いの得て不得手という技術的な問題が道徳的な優劣に置き換えられることによって、そして集団の利益という大儀が用いられることによって、それは正当化される。そういう過酷な依存先しか獲得出来なかったのはその個人が努力をしなかったからだ、能力の低い者を依存させると皆の利益を損なうから、そういった者は依存先を獲得出来なくても仕方が無いのだ、そういった厳しい競争によって社会はより強くなっていくのだ、といったように。

これは何らかの属性に向かって投げつけられる悪意にしても同じことだ。その属性が奇妙だから、キモいから、皆を不快にさせるから、そしてその属性を捨てようとしないから、悪意を投げつけられて当然なのだ、といったようにその暴力は肯定される。当然、その投げつけられた悪意が蓄積されれば蓄積されるほど、その個人は消耗し、最終的には自身の存在価値を信じることが出来なくなって、依存先の獲得や依存の継続が極めて困難な状態に陥っていく訳だが、誰かがそのような状態に追い込まれることもまた同じ様な理由で、「仕方が無いこと」として片付けられる。

だが、こういった「集団の利益」を大儀にし、制度やシステム、風土を通して匿名化、秘匿化された状態で行われる集団による暴力は、実際は単に「誰もやりたがらない過酷な役割を自分以外の誰かがやって欲しい、しかも出来るだけ低コストで。出来れば切捨て要員や、バッシング要員もそれなりに用意しておきたい。それが自分の利益に繋がるのだ」という単純化されたトレードオフ関係が個々人の頭の中に想定され、その意思が働いた結果許容されている暴力でしかなく、大儀なんて本当は全て方便でしかないのだ。

そしてその暴力が振るわれる対象は、特定の誰かである必要はない。誰かがそういった嫌な役割を引き受けてくれさえすれば、正にそれは「誰でもよい」のである。こういった、集団による不特定多数の個人を対象とした暴力が日常的に行われていることは、自分自身の行いを少しでも省みる気持があるなら、誰でも直ぐに気づく筈なのだ。だが、ネガティブさが全て淘汰されてしまうポジティブ社会に於いては、それすら適わない。よって、集団による暴力にブレーキが掛かることもない。で、自分達が(物理的・観念的な)群れを形成し、その群れによって個人に対する無差別攻撃を行ってきた(いる)ことを忘却しているが故に、個人がその群れへの反撃として行う無差別攻撃に対して意表を突かれたように感じ、より一層驚愕することになる。

自分はこんな境遇にいるはずではなかったという一種の被害者意識と、世間に認められたいという自意識が交錯しているように思われる。(中略)私たちはともすれば、何かことがあるたびに、社会が、政治が、教育が悪い--と、安易に、かつ漠然と結論づけてこなかったか。それが「自分は被害者」という甘えの構造、あるいは厳しい現実からの逃げ道をつくる要因になっているように思えるのだ。

「一種の被害者意識」というが、加藤容疑者はこの事件の加害者である前に、こういった集団による暴力の被害者であったことは事実だろう。だからといって彼の加害行為が許される訳ではないというのは確かにその通りだ。もし暴力がいけないことだと定義するのであれば、例えどんな理由があろうと、彼は他者に向かってああいった暴力を振るうべきではなかった。しかし、だとするのなら矢張りそれと同じ様に、例えどの様な理由があろうとも、何らかの個人が依存先を獲得し、それを維持することが困難になるような状況や状態に追い込まれるべきではない筈だ。何故なら、それ自体が既に不特定多数の集団によって為される個人に対する深刻な環境暴力以外の何物でもないのだから。そしてまた、例えどんな属性を持っていようとも、それによって悪意を投げつけられるべきではない筈なのだ。もし暴力がいけないことだとするのならば(だが実際は、そういった集団による個人への暴力は「仕方が無いこと」として片付けられる)。尚且つ、彼が事件の加害者であるからといって、それ以前に被害者であったという事実もまた忘れられてはならない筈だ。だが、ここではそれを隠蔽するような表現が用いられている。

そしてマスコミが何を言おうと、実際に集団による暴力は無くなるどころか、それが明らかに改善されたという現実さえ未だ成立したことはないのだから、この主張は観念論以外の何物でもない。もし集団による環境暴力が大幅に改善した事実があるのにも関らず、その暴力がより過酷だった時期よりもこの手の事件が大幅に増加しているというデータでもあるのならば、その主張にもまだ耳を貸す余地もあるかもしれないが、そうでもなければ、この主張は集団による暴力を肯定する為の援護射撃でしかないだろう。

そもそも、加藤容疑者の行った行為自体を肯定しているのはせいぜい2chのネタスレくらいのものじゃないのか。個人の行う暴力の否定については、もう既に完全に行き渡っているのだ。しかし、集団によってなされる個人への暴力については、否定されるどころか益々それが称揚される一方だ。そして、その集団の利益という大儀の下で行われる暴力というのは、結局のところ匿名化され、道徳によって肯定された、個人の利益のための暴力でしかないという事実は未だ全く世間に行き渡っていない。しかも、今回の事件では加藤容疑者が受けたその集団による暴力が全く事件と無関係であるとは先ず考えられない。

つまり、こういった集団による暴力の性質を明らかにすることこそが頭脳労働者が真っ先に取り組むべき事柄である筈で、それをせずに、もはや世間に完全に行き渡っている個人による暴力の否定をわざとらしく唱え、そして個人の内部に事件の根源的な原因が潜んでいるかのように装うのは、容疑者の外部としてその事件の原因の一端を担ってきた集団による暴力を隠蔽する為の欺瞞以外の何物でもないと自分は思った。だからこそ、自分はあの記事、というかあの手の論調に腹を立てたのだ。

 ***

ある現実がどのような因果によって成立したか、ということは実際のところ誰にも分からない。だが、誰かに悪意を投げつければ、暴力を振るえば、例えそれが集団によって支えられた制度やシステム、風土といったものを介して行われる間接的な暴力であっても、その暴力による苦痛はちゃんと個人に蓄積されていくことは間違いないし、そしてそれが個人に蓄積されればされる程、その(暴力による)吐き出し行為が行われる可能性が高まり、その吐き出し方もまた苛烈なものになるであろうことは予め分かっている。

ならば、その吐き出し行為の在り方を制御したいのならば、先ず個人へ振るわれた暴力による苦痛の蓄積自体を減らす方向へと持っていくのが筋じゃないのか?なのに、集団による個人への暴力を軽減せずに、個人の吐き出し行為の苛烈さだけを改善しようとするのはおよそ現実的なものの考え方とは言い難く、それはデパートのおもちゃ売り場で寝転がっておもちゃをねだっている子供の振る舞いとなんら変わりない。

6月10日付 編集手帳(読売新聞)

◆世の中が嫌になったのならば自分ひとりが世を去ればいいものを、「容疑者」という型通りの一語を添える気にもならない。

まあ、実際こうやって寝転がっている人もいるけど。自分達(容疑者の外部である我々)が「世の中の一人」として匿名化された状態で行ってきた暴力が事件の外的要因となっていることは絶対に明らかにしたくないし、これからもその暴力を止めるつもりはないぞ、という強い意志を感じるよ。

(追記) そもそも彼は、自身のことを「道具として使えなくなったら、後は誰にも迷惑を掛けずさっさと死ねよ」と誰もから思われているような存在だと認識したからこそああいう事件を起こしたわけで。自身が誰かから本当に大切に思われている存在だと認識していたら、彼もあんな事件を起こすことは無かったんじゃないか?つまりこのコメントは、自身に対してそういう認識しか持つことが出来ない人達に対して、「お前らも事件を起こせよ」という煽りに実質的にはなっているのだが、そういうことにすら気づかないんだろうな、こういうことを平気で言う人達って。で、自分が投げた石が他者に当たって跳ね返ってきたらまたワアワア騒ぐと。やれやれだぜ…。

 ***

映画評論家の水野晴郎さん死去(読売新聞)

いや~人間って、本当にクソッタレなものですね。
それじゃまた、美しい国でご一緒に苦しみましょう。

悪意はちゃんと個人に蓄積されていく

発信箱:甘えの構造=与良正男(論説室)(毎日jp)

 「希望がある奴(やつ)にはわかるまい」とか、「夢…ワイドショー独占」とか。

 東京・秋葉原で起きた通り魔事件の容疑者が携帯サイトに書き記した言葉を見ていくと、自分はこんな境遇にいるはずではなかったという一種の被害者意識と、世間に認められたいという自意識が交錯しているように思われる。

 世の中、今の自分に満足している人の方が少ないのだ。それは当然の思いである。しかし、それがどうして、「社会が悪い=誰でもよかった」という無差別殺人に結びついてしまうのか。

 責任の一端は私たちマスコミにもあるのかもしれない。私たちはともすれば、何かことがあるたびに、社会が、政治が、教育が悪い--と、安易に、かつ漠然と結論づけてこなかったか。それが「自分は被害者」という甘えの構造、あるいは厳しい現実からの逃げ道をつくる要因になっているように思えるのだ。

何らかの属性を蔑むことによって不特定多数に投げつけられた悪意は、
ちゃんとその属性を持った其々の個人が受け取り、そこに蓄積されていく。

その蓄積された悪意を抱え続ける余裕が無くなった者は、
その積もり積もった悪意を抱え持ったまま谷底へと身を投げるか、
若しくはそれを辺り一面に撒き散らすしかない。

「誰でもよかった」という気持が理解出来ないなんて、それはないだろう。
様々な属性に対する無差別攻撃は、あんたら良識人を始めとして
誰もが当たり前のようにやってきたことじゃないか。

あんたらは無差別攻撃を不可解だと言うが、
俺もあんたらのことなんて全く見も知りもしないが、あんたらが
俺の持つ属性に投げつけた悪意はちゃんと毎日受け取っているぜ?
そしてその悪意は苦痛に変換され、日々俺を蝕んでいる。
あんたらはその無差別攻撃に身に覚えがないとでもいうのか?

そもそも、誰かをある利益集団(システム)から排除すれば、或いは
その相互利益性が失われることになれば、その排除され道徳的恩恵の
外部へと追いやられた者は、排除した側の利益集団に於ける規範を守る
論理的な理由が無くなることで規範から解き放たれ、それによって復讐に
走ったり蜂起したり、自らの生き残りをかけて犯罪に手を染めることとなる。

だからこそ、誰かを簡単にその道徳的恩恵の外へと
切り捨てることや、一方的関係を結ぶことが躊躇われる。

にも拘らず、多くの者達を平気で道徳的恩恵の外部へと追いやってきた者達が、
一方的関係を結ぶことをよしとしてきた者達が、その外部へと追いやられた者に
まだ内部に於ける規範の遵守を期待するってどんだけ甘えてんだよ。

“誰か”を切り捨てることをよしとするなら、
“誰か”が一方的関係を強要されることを是認するのならば、
自らもその“誰か”から切り捨てられ、一方的関係を強要されることくらい
覚悟すべきだろう。そして実際に道徳的恩恵の外へ追いやられたと
感じる者が増えれば増えるほど、自らもその“誰か”から切り捨てられ、
一方的関係を強いられる可能性が高まることになるのは当然のことだ。
その「厳しい現実」から目を反らしているのは一体どちらの方なのか。
道徳を魔法か何かとでも勘違いしているのか?

いや確かに、今まで数え切れない程の人達が道徳的恩恵の外へと
追いやられて尚、その内部の規範を遵守する為に命を捨てていったよ。
そして今も、相互性のない一方的関係を甘んじて受け入れている
人達が山のようにいる。日本には道徳奴隷が沢山いますから。
で、その構造をこれからも維持したいって?

自らの暴力に無自覚になるのも大概にしろよ。

 ***

(6/14)記事を読んで分かるとおり、自分は当該記事、
というよりこの手の論調に対してかなり腹を立てている訳だが、
しかし、ここに書いたことだけでは何故それに対してそこまで
腹を立てているのかよく分からない部分もあるかもしれないので、
続きとしてここでは書けなかったその怒りの理由についての記事を書いた。



後で読み直して粗雑過ぎると感じた表現を一部変更した。

誰だ、橋下氏に救いの手を差し伸べる奴は!

橋下事務所に脅迫状?=白い粉入り、府警が捜査-大阪 (時事通信)

 橋下徹大阪府知事の法律事務所(大阪市)と府庁の改革プロジェクトチームあてに28日、脅迫状のような書面と白い粉が入った封筒が届いた。府警捜査1課などは脅迫容疑で捜査を始めた。

 同課によると、封筒には脅迫と受け取れる内容の文言が手書きされた便せんがあった。橋下知事を名指した文面ではなかったという。

 白い粉はポリ袋に入っており、府庁に届いた粉はでんぷんだった。消印は2通とも大阪市内の同じ郵便局で、差出人は団体名だったという。 

全くけしからん。

恐らく「橋下改革」で割を食う人の犯行なのだろうが、
こんなことしたら「正義の改革者」対「悪の抵抗勢力」という
構図がより際立ち、益々彼への支持が高まるだけだろうが。

既に様々な問題を抱え、それに悩まされている彼に対して
救いの手を差し伸べているも同然の愚行。
(こういう脅迫を受ければ受けるほど、彼自身も
自分が正しいことをしているという確信を強くするだろう)

ちょっとはもの考えて行動しろよ。
まあ幾ら考えたところでどうにもならんとは思うが。

だから、自分は考えた末「行動しないという行動」を取ることに決めた。
こんな潔い決断を下せる奴はそうそういまい。これぞ決断主義※1

(本当は単に疲弊し、一生分の精神力と錯覚力※2を使い果たしただけが…)



※1 因みに、「死」という人間にとって最大の普遍的恐怖を克服し、
自殺という決断を下すことが出来る人間は決断主義のエキスパート中の
エキスパート。まあ決断主義なんてものは、「結果」に対する因果の
主要な要因を一個人の意思に求めることが出来るという精神論的妄想
の上でしか成り立たない話なのだが。「決断主義はセカイ系に内包される」
ということに早く気づいてくれよ、21世紀の精神論者達は。
「出来るはずなのにしない」のでも「せずにいいのにする」のでもない。
始めから前提として「出来ない現実」や「せざるを得ない現実」があるんだよ。
いい加減、口先だけじゃなくその現実と目を合わしてくれ。

※2 何らかの行動を起こすことが良い結果に繋がると信じることが出来る力。
また、自分の人生に何らかの価値を見出す(感じる)ことが出来る力。

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後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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