FC2ブログ

ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ディストピアも悪くないよね、という人間が必要とされている

 ▼(1)年中無休の15.22時間労働で貧乏から脱出しよう

上野千鶴子さんが描く、働く女の未来予想図

賃金が上がらないといっても、外食せずに家で鍋をつついて、100円レンタルのDVDを見て、ユニクロを着ていれば、十分に生きて行けるし、幸せでしょう? (中略)女性は年収300万円を確保しつつ、年収300万円の男性と結婚して、出産後も仕事を辞めずに働き続ければいい。


これに対する批判的反応に対してなのだろうが。

@M_znu 2月26日

貧乏でも幸せに生きられるみたいな意見には異常に噛み付くのに、身を粉にして働いて稼いで貧乏から脱出しようという意見には、舌の根も乾かないうちからそれはシバキアゲと批判するのは、頭おかしいと思う。
https://twitter.com/M_znu/status/438730168652156928

時給900円の仕事で身を粉にして年に500万稼ぐためには、365日1日も休まずに1日15.22時間労働をする必要がある(年に400万だと12.18時間、年に300万だと9.14時間労働)。もちろん病気になったらそこで脱落。これをシバキアゲだと言う人は頭がおかしいそうだ。何という修羅の国。
----------------------------

いや、努力してもっと待遇のよい職を見つけろ、ということなのかもしれない。だが、今低賃金労働している者をさらによい待遇で迎えるような社会的潜在能力がない、もしくはその潜在能力があったとしても、各々がそれを実際に獲得する能力を手に入れることができないからこその社会問題だ。それを努力すれば手に入れられると考えるならば、それこそ正に努力を機軸としたユートピアではないか。

要するに「貧乏ならもっと働け」というよくある主張は、現実に対する見立てが甘すぎるのだ。何故そんなに甘い考えができるのか。恐らく自助努力で何とかなると言う人は、これまでの生活で自身の限界を感じるような事態に一度も直面することがなかったのではないか。何にしろここで一つ確かなのは、そういった個人の経験や感覚を(少なくとも同一国家内において)普遍化し、その法則で、実際には全く異なった条件を持つはずの者達までもを平等に解釈しているということだ。それ故成立する主張と言えるだろう。

 ▼(2)自助努力論の順応拒否について

ただ、自助努力理論には一つ妙なところがある。というのも、自助努力理論は、(例えば最低賃金を上げろとか、労基法をもっと厳格化して運用せよ、などといった)システムの変更や是正の要求、或いは社会環境への不平不満に対するカウンターとして持ち出されることがよくある。つまり、問題は自助努力で解決するべきで、システムの変更や是正に頼るべきではない、というわけだ。

だがこれはなんとも奇妙な話だ。もし社会的成功を手に入れられるか否かは個人の自助努力次第であり、人は努力次第で社会に順応可能であり、そうすべきである、とするなら、今のこの社会システムを如何様に変容させてもよいはずで、それに反対する必要など全くないだろう。何故ならば、この社会がどう変わっても自助努力でそれに順応し、そこで新たな社会的成功を手に入れればよいだけだからだ。当然社会に存在する不平不満にも文句を言わず黙って順応すればいいだけということになる。つまり自助努力論的に見れば、社会システムがどのような形であってもよいはずなのだ。

ところが実際には、自助努力理論はそれらを否定するための、つまり変化への順応を拒否するための道具として用いられることが往々にしてある。

自助努力論の一般的主張を整理すると――
・今のこの社会では自助努力で貧乏から抜け出せる
・少なくとも年収300万くらいは手に入れられる
・年収300万でも自助努力で幸せだと感じることができる
・今のこの社会システムを大きく変更すべきではない
・但し不平不満だけはなくさなければならない

ここから想像できるのは、自助努力理論は今のこの社会の規定路線でのみ通用する、という前提になっているということだ。だから自助努力でどうにでもなると主張していながら、この現状の在り様を変えてはならない(無理に変えようとするときっと悪いことが起こる)、となったりするわけだ。せっかく自助努力でなんとかなる社会が成立しているのに、何故それを壊そうとするのだ、と。

即ち自助努力論者は、自分達が獲得したユートピアが破壊されることを恐れ、それを守るための闘いを行っていると言えるだろう。そしてそれをより善きものにするために社会から不平不満をなくそうとしている。この社会の在り様を変えなければならない、などという人間は、彼らには侵略者や略奪者として目に映っていることだろう。

 ▼(3)ディストピアも悪くないよね、という人間が必要とされている

しかしそのユートピアの存在は、他の者達のディストピアがディストピアであり続けることによって守られているという側面がある(実際、時給で働くような者は年300万どころか200万稼ぐのも結構厳しい。しかも不安定。それでも文句を言ってはならないわけだ)。

もちろん、ディストピアの住人達の主張を元にしてシステムを変更すればそれでその者達の生活が今より良くなるとは限らない。だからそのことをもってユートピアの住人(自助努力論者)達は、このシステムを変えればもっと酷いことになるぞ、と言って脅すわけだ。

だがそういうお為ごかし(これはあなた達のためなのです)が通用するのは、そのディストピアでの生活を守りたいと思っている者にだけだ。もしそこでの生活が何の価値もなく、一刻も早く終わらしてしまいたいもの、ただ憎むべきもの、となってしまえば、その者にとっては自殺か自爆テロを行うのが最も合理的な判断ということになる。実際にはそういう合理的判断よりも不合理な判断をする者の方が多いが。

要するに、確かにディストピアだけど、まあそこでの生活も悪くないよね(「幸せでしょう?」)、と思ってくれる人間が大勢必要とされているのだ。それは資本主義的活気とはまるで正反対のベクトルにあるが、しかしながら資本主義は、そういう人達が大勢いてくれないと成立しないという矛盾を抱えている。
スポンサーサイト

日常に溶け込むカルト

カルトと言うと何か特殊なもので、普通に暮らしていればそれに関わったりすることもまずないと多くの者は思っているのではないか。だが実はそうではなくて、むしろそれは常に日常と共にあるのが通常であるように思う。
-------------------------------------------

大抵の人間は、社会的環境の下でカルト的な抑圧を受けているし、また与えている。例えば順応という言葉は、実はカルト的な風習に収斂されていくことを意味している場合も多いのではないか。

というのも、それが用いられる時、何故それが正しいのか、が語られることは先ずない。初めから有無を言わさずそれに従うべき、という文脈でそれは持ち出される。つまり理屈ではないので、理屈でそれに異議を唱えて覆すことはできない。そこではただ、順応するか、それができずに排除されるかの二択を迫られる。

そこで順応できずに排除されても、他に行くところがあればそれは大した問題にはならない。しかし、社会的な順応競争の枠組みは基本的に規格が統一化されているため、実際には逃げ場がなく、否応なくそれに取り込まれることになる。そしてそこでの競争に敗れ、社会システムという大きな枠組みから脱落することは、実質的に生存からの排除を意味する。

現に社会はこういう内容を持っているし、順応できない者は死ね、に近い内容を持つ発言は、順応者達の口から毎日当たり前のように発せられ続けている。

 ***

この順応のための苦痛は努力と読み替えられ、多くの場合、順応者の誇りとなり、アイデンティティとなる。私は多くの苦労をしてきた、だから生きている価値がある、といように。だが、苦労をしたらそれが必ず報われる世界など存在しない。つまり、苦労が順応の原因である、などと言うことはできないし、ましてや苦労の量と成功の大きさが比例するはずもない。そもそも全ての人間はみな異なった条件を持っているわけだから、本当は苦労の量を外部から統一的な規格で計測することすらできない。

しかし、実際にはそれは計測される。個々人の感覚が持つ千里眼によって。そして、大抵は苦労こそが成功の、順応の源であると認識される。それ故、非順応者は苦労が足らない堕落した者達だからどんなに痛い目にあっても当然、いや、むしろ苦労が足りないからこそ順応できなかったのだから、彼らのためにもっと苦痛を与えてやらなければならない、ということになる。それに異論を唱えても、それは同時に順応者のアイデンティティを踏みにじることにもなるから、怒りによって益々それをブーストさせることにしかならないのが概ねだろう。そしてやがてその内容はシステムへと還元されていく。戸塚ヨットスクールの脳幹論やオウムのポアの正当性も正にこういうものであった。

特筆しなければならないのは、こういった世界観、考え方は、何も特殊なものでもなんでもないということだ。それはむしろ非常に一般的なものであると言えるだろう。戸塚やオウムの特殊性は、世界観や考え方というより、暴力を社会システムに代行してもらわず、直接自分達の手で行ってしまったところにある(例え一般的でない世界観を持っていても、暴力をシステムに代行してもらっているうちは大した問題にはならない)。

 ***

もし、ある集団内における大多数の者がカルト的な内容を持つ枠組みに収斂されたなら、その時、その集団において果たしてそれはカルトと認知され得るだろうか。或いは、恐怖政治が圧倒的多数に支持されている時、それは恐怖政治であるとその社会において認知され得るだろうか。結局そういったものは、それがいずれ力を失った後や、それが力を持つ集団の外からしか社会的には認知され得ないものなのではないか。日常においてカルトが存在しないかのように認識されるのは、結局それが日常に溶け込んでいて確認できないだけに過ぎないのではないか。

そしてこれを突き詰めていくと、もしかしたら秩序とは、カルト的な抑圧の下でしか保つことができないものなのではないか、というところに辿り着き、全く救いがなくなるという。

ユートピアを目指す共産主義と、それが既に成立している前提で話を進める資本主義

ちょっと古い記事だが…。

“キリギリスの国”ギリシャ…デフォルトは必然か"(ZAKZAK)

 ユーロのギリシャ救済劇はイソップ物語の「蟻とキリギリス」を想起させる。暑い夏、冬に備えて額に汗して働き、せっせと食べ物を蓄える蟻。一方、キリギリスは蟻を嘲笑し、暑い日中は昼寝、涼しい夕刻に得意のバイオリンを弾き、毎夜、演奏会に興じる。

 しかし、そうしたときは長くは続かない。秋は深まり、寒い冬が訪れる。食べ物がなくなったキリギリスは蟻に助けを求めるが、蟻は拒絶し、キリギリスは死ぬ。さしずめ蟻はドイツ、キリギリスはギリシャであろう。イソップ物語のように、冬はすぐそこまで近づいている。

『蟻とキリギリス』におけるアリの労働とは、そこいらにあるものを勝手にねぐらに持ち帰ることなのだから、ギリシャもアリにならってそこいらのものを勝手に持ち帰ればいいんじゃないだろうか。きっと『蟻とキリギリス』におけるアリの生活形態を称揚してきた大勢の皆さんも応援してくれるはず。
----------------------------------------------

(1)『蟻とキリギリス』は共産主義が理想とする社会の完成系

『蟻とキリギリス』の寓話は、社会主義・共産主義批判、或いは資本主義礼賛のダシにされることが多い。冒頭の記事におけるギリシャ観もその文脈に則ってのものだろう。しかし、そこには奇妙な倒錯がある。

資本主義では、事業主か被雇用者のポジションを獲得した者しか労働することはできない(働いたとみなされない)。しかも、その枠の数や質(持続性)には限りがある。経済状況によって変容するその限りある枠組みを巡ってお互いが競合し合うのが資本主義だ。つまり、そこでは個々人の努力具合や勤勉さではなく、集団におけるポジション争いの結果によって富の在り様が決定される。また、そこで全ての者が労働者のポジションを獲得するということは原則的にあり得ない。何故ならそれは、この世に生まれてきた労働力という名の全ての「商品」に買い手がつき、尚且つその存在がこの世から消え去るまで流通し、機能し続けるのと同じことを意味するからだ。自由主義市場においてそれはあり得ない。

それに対し『蟻とキリギリス』の世界は、「社会的競合なき労働」を機軸にして成り立つユートピア――努力さえ怠らなければ誰もが生き残れることができる世界――だ。そこでの教訓は、労働最高、それを忌避する怠け者や不労所得者(キリギリス)は死すべし、ということだ。これは共産主義の理想とする社会と完全に合致している。即ち、共産主義が理想とする社会の完成系、革命成立後の世界こそが『蟻とキリギリス』の世界なのだ。

つまるところ、『蟻とキリギリス』の寓話をダシにした社会主義・共産主義批判、及び資本主義礼賛は、共産主義における理想を社会のあるべき真の姿だとしながらそれがなされているという何とも奇妙な様相を呈している(そもそも現実における蟻の社会自体が社会主義的)。

(2)ユートピアの成立を前提として組み立てられる資本主義的主張

こういった倒錯は『蟻とキリギリス』をダシにした資本主義礼賛に限ったことではない。

アメリカ大統領選挙の共和党側候補の一人だったケリー氏は、ウォール街で格差改善のデモを行っている者達に対し、私も昔は貧乏だったが、必至で努力して働き続けてきたからこそ今の地位(ピザ・チェーン店の経営者)を手にすることができた。君達もそんなところでデモなんかしていないで働きなさい、というようなことを言っていた。ケリー氏に限らず、資本主義に全幅の信頼を寄せる者達は、必ずといっていいほどこういった主張を行う。要するに、貧乏人は自助努力もせず自らの意思で下流に留まっているだけであり、それ故にどんなに苦しもうと自己責任、というわけだ。

しかし、この主張はどうもおかしい。というのも、もし貧乏の原因が働こうとしないことにあると言うなら、手を上げた人間全てが持続可能――でないと一時しのぎにしかならない――な上にいずれ金持ちになることができる程度の蓄えも可能な職につける状況が成立していなければならない。そしてそれが努力不足のせいだとするなら、精一杯努力をすれば誰もが金持ちになれる世界がそこに成立していなければならない。だが実際にはそういったユートピアは成立していない。だからこそ、共産主義はそういった努力と労働を機軸としたユートピアを作り上げようとしたわけだ。

つまり、資本主義に全幅の信頼を寄せる者達のこういった一般的主張は、既にユートピアがそこに存在していることを前提として論が組み立てられている。

さらにおかしいのは、この手の主張では、その者が持つ身分や富がまるで労働によって決定づけられているかのようにしているところだ。だが、労働がその者の身分を決定付けるのならば、奴隷が最も裕福になっていてもおかしくないはずだろう。どうも、富を獲得した人間の多くは、その原因を自らの労働に見出そうする傾向がある。例えばギリシャの没落に関しても、その原因を労働の忌避にあると思っている人が多いのではないか。だが実際には、ギリシャの労働時間はOECD加盟国の中でもトップ・クラスで、日本の労働時間よりも多い。もし富が労働によって決定付けられるのであれば、ギリシャはOECDでトップ・クラスの金持ち国になっていてもおかしくないはずなのだ。

もちろん、実際には別に労働という行為そのものが直接富を生み出すわけではないので、こういったことは別におかしなことでもなんでもないわけだが、しかし、多くの自称資本主義者達はそのようには解釈しない。大抵はケリー氏のそれのように、恰も労働そのものが直接富を生み出しているかのような前提で物事を主張する。だがそれは正に共産主義における労働価値説に他ならない。面白いことに、殆どの自称資本主義者は、この共産主義の原理に則って現実を解釈している。

(3)倒錯の理由

「この世にユートピアは存在しないのだ」。これは自説の正しさを補強する目的で「資本主義」を持ち出す人間がよく使う定番フレーズだ。ところがその者達の多くはユートピアの成立を前提とした主張を行うのみならず、敵の原理で現実を解釈し、敵の言葉で話している。

何故こういった倒錯が一般化しているのか。それをおかしなことで片付けるのは容易いが、それにはそれなりの必然性があってのことだろう。ではその必然性というのは何かと言えば、結局のところ、より多くの人間を魅了する社会政策は、人々からユートピア感覚を引き出す能力を備えていなければならないからではないか。逆に言えば、人々が希望を抱くためにはユートピア感覚が喚起されることが必要不可欠だから、とも言えるかもしれない。

共産主義に相対する資本主義のセールス・ポイントは概ね二つ挙げられる。結果を見ると資本主義の方が経済的に成功する可能性が高いことと、生活スタイルの自由度が高い、ということだ。しかしこれは共産主義に対する相対的なセールス・ポイントでしかなく、それだけでは絶対的魅力があるとは言えない。

というのも、人類の歴史を見る限り、資本主義社会においても富は常に一握りの人間達に独占され、ある程度上手く行っているとされる国においてもそれなりに転落する危険性が存在するであろうことには変わりないからだ。そしてそれは固定化される傾向にある(だからこそ「稀な例」がセンセーショナルに取り上げられる。それが普通だとニュース・バリューはなくなるわけで、人々に希望をもたらすそれがニュース・バリューを持っていることが逆説的に希望のはかなさを証明している)。

現実をそのまま見ると、地域や状況によって多少割合は変わってくるものの、一部の人間が富を独占し、その他大勢の人間は貧乏人になり、先進諸国においても2、30人に1人は社会的ポジションを確保できず、窮地に立たされる、という大枠は変わらない。そして一端振り分けられたら、それが入れ替わる可能性は極めて低い。

頑張れば皆が金持ちになれるという状況が成立していない以上、富を独占することになった人間が何故そうなったかと言えば、それは運が良かったからとしか言いようがないし、窮地に立たされた人間が何故そうなったかと言えば、この世がユートピアでなかったから、と言うしかない。ここでその原因を個人に求めるのは間違いだ。何故ならその主張は、事実の一部だけを見せて相手を騙す詐欺師の手口と変わらないからだ。そしてここでは「個人」が事実の一部に当たる。もちろん、個々人の物語はあるだろうが、それはあくまで個人的なものでしかない。

今現在の状況を見ると、アメリカの失業率は9%ほど。フランス、イタリアの失業率も9%程度。日本の失業率は4.5%ほどだが、非正規雇用は3人に1人。スペインの失業率は20%以上で、若年失業率に至っては50%以上。しかし力尽きてポジション争いの場から退いた人間はこういった数字には含まれないため、ポジション確保に失敗した人間は実際にはもっと多い。例えば自分はこの4.5%に含まれていない。そして何処でも長期失業者が就職するのは極めて困難。

要するに、現実は余りにも魅力がなさ過ぎるのだ。そしてその現実を下支えしている資本主義も。この現実を直視し続けて正気でいられる人間はそれほど多くはないだろう。そこで現実をオブラートで包むためのユートピア概念が必要になる。

(4)ユートピアが人々を牽引する

資本主義それそのものは原理的にはユートピアを前提とはしていない。しかし、我々が何かに惹き付けられるのは、その原理に魅力を感じるからではない。飛行機に乗るのは早く目的地に到達できるからであって、その原理に惹かれるからではない。食事をしたり眠ったりするのも、原理的にそれが必要だから、という理由でそれをするのではない。音楽にしても、それが持つ原理に惹かれるからそれを好きになるのではない。同じように、資本主義の人気もそれの原理に魅力があるからではないだろう。では資本主義の人気を支えているのは何かと言えば、それはそれに付随して生まれる意思の力によるユートピアという現実解釈だ。

――確かにこの現実はロクでもない。しかしそれは自分をもっと成長させようとする思いや工夫、努力が足りない人間が大勢いるということを表しているだけに過ぎない。全ての人間がその意思の力を最大限引き出せば、誰もが幸せになれるはずだ。ここには既にそういった条件が成立している。そうなれない人間がいるのは単にそれを怠っているからであり、逆に言えばそれを怠ることさえ止めれば誰にでもチャンスはある。現実を形作っているのは人々の意思(魂)であって、今ここにある社会環境ではない。――これが意思の力によるユートピアが持つ世界観・秩序であり、資本主義において現実の在り様はこういったフレームで解釈される。

実のところ、これは皆が本気で平和を望めばそうなるはず、という考え方と相違なく、単なる世迷言でしかないわけだが、こういった現実解釈こそが資本主義の魅力を支え、それによって人々は希望を抱いたり自尊心――私が成功した/するのは私の魂が優れているから――を得たりすることが可能となる。資本主義と自己啓発の相性が良いのはこのためだ。その仮想世界では、魂が無限の力を秘めているのだ。

逆に共産主義ではこういった意思の力によるユートピアの存在を否定するが故に、物理的なユートピア・システムを作り上げることが必要とされる。そしてシステムに上手く馴染めない者は、共産主義社会では革命への意志が足りないと言って糾弾され、資本主義社会では自らの可能性を引き出そうとする自助努力が足りないと言って糾弾されることになる。

要するにこの二つの違いは、意思の力のユートピアが既に成立しているという前提で話を進めるか、それが存在しないが故にシステム的にそれを構築しなければならないとするかの違いであり、どちらもユートピアの存在がその根幹にあり、それが牽引力となっているということには変わりない。

演技と本気と社会不適応

金正日の死を悲しむ北朝鮮人民の動画が外人に大人気。 コメント欄が2chより酷い件

確かに滑稽ではあるが、これを恰も他人事であるかのように言うのは間違いだろう。
--------------------------------

余りにありふれすぎていてもはや違和感を感じなくなってしまっているかもしれないが、冷静に考えてみると、店員の強制スマイルや独特の挨拶もかなり異様なものがある。アレを普段の日常生活で行っていれば、それもまたかなり異様なものになるだろう。学校や会社や同好の集まり内で行われる儀式や風習も、そこでは当たり前であっても、外から見れば奇妙なものでしかない。体育会系独特のノリにしても、面接における「意識の高い学生」の振る舞いにしても、道徳的便所掃除にしても同じこと。お辞儀だって外国の人間からすればやはり滑稽なものとして映っていることだろう。

それらは全て外から見ると異様で滑稽なものでしかないが、その中に入るとそれらは普通であるどころか、むしろそのように振る舞うことができなければ社会不適応者として取り扱われるものに変貌する。そして北朝鮮におけるその振る舞いの一つが、あの「嘆き」だったというだけのことだろう。

逆に言えば、常に前向きで向上心を持ち、趨勢側から求められる無理難題にも文句を言わず、絶対に諦めずに明るくハキハキと従い続ける姿が日本における一般的「嘆き」だったりするわけだ。

つまり、少なくとも各々の社会における適応者は、形態の違いこそあれあの「嘆き」と同じことを普段から行っている。そしてそれが演技なのか本気なのか(自意識の在り様)は、周りからすれば、或いは自分自身からしても、どうでもよいことだ。ただそこで相応しいとされる振る舞いが出来なければ不適応者としてみなされ、排除される。それだけのことだ。それは北朝鮮であろうとどこであろうと同じことだろう。そして自意識はその状態に対し、演技だとか本気だとかの解釈を下しているだけに過ぎない。だからそこに焦点を当てたところで、それはただの解釈合戦にしかならないだろう。

 ***

因みに「嘆き方」に関しては、金日成時代から定番の、大きく振り上げたこぶしを地面に叩き付けて悔しがるというオーソドックスな型も中々漫画チックで良いと思うが、今回は、死去数日前に将軍様がスーパーを視察なさった際にご使用なされたエスカレータにすがり付いて泣く、というのが中々新味があって良かった。

ホカホカの失敗事例

小出裕章氏が反原発のヒーローとなった もう一つの理由|香山リカの「こころの復興」で大切なこと|ダイヤモンド・オンライン

前回のコラムについて――お詫びと補足|ダイヤモンド・オンライン

はてなブックマーク - 前回のコラムについて ――お詫びと補足|香山リカ


はてなブックマークでは、謝る必要は無かったという意見が結構あるが、それは大きな間違い。何故なら、当該記事は元々マジョリティ(「普通の日本人/立派な社会人」)をターゲットとしたホカホカ――バッシング対象を提供し、一緒に叩くことで友好関係を築く――商売用としてあつらえられた商品だったから。
----------------------------------------

しかし、反原発的な態度を取る(取っている)人や小出裕章を支持する人はもはや必ずしも少数派とは言えず、それらは既に香山リカやダイヤモンド・オンラインの取引相手としても重要な位置を占めるまでになっている。その顧客に、悪の代名詞としてのニート・ひきこもりのレッテルをはり、自意識批判を行ってしまった。顧客の自尊心を高めることを生業とする幇間芸人がそれをやっちゃ不味いでしょう。

要するに、これは日本の伝統文化としてのDogezaであり、反省文。これからも日本で「普通の日本人/立派な社会人」を標榜する人達相手に自尊心ビジネスを続けていくためには、このケジメは絶対に付けなければならなかった。あの批判はお客様に対してではなく、私自身に対するものでした、というのもお約束。

よって、初めから原発・エネルギー政策なんて関係ないし、記事の内容が持つ妥当性という視点から謝る必要があるか無いかを判断するのも誤り。

個人の迷惑行為を代行するのが社会システムの基本的機能

3%論 | PBR

「犯罪の三分の二は、社会から排除された3%の男性が起こす」という研究結果を「3%論」という。

そもそも、社会システムに上手く依存することができなかった人間は生きることそのものが犯罪ということになるわけだしなあ。
-------------------------

真理としての迷惑が存在するわけではない。それは競合から生まれる相対的認識でしかない。よって、誰の何が「真の迷惑」であると言い切ることはできない。そしてただ生存し続ける、たったそれだけのことでも他の誰かの迷惑にならざるを得ない。要するに、「生きる」とは誰かに迷惑を掛け続けることに他ならない。

見も蓋もないことを言えば、そういった競合から生じる個々人の必然的迷惑を婉曲化し、代行することで迷惑行為の交通整備を行っている――それが文化、社会システムの基本的機能であり、役割であると言えるだろう。

例えば、≪労働≫が絡むと犯罪は犯罪として扱われなくなることも多い。むしろその犯罪に異を唱えた者の方が罪人扱いされてしまうことさえ珍しくない。はたまた、国家、主流派集団によるテロリズムは問題視されず、個人や小集団による反抗やテロだけが問題にされる。こういったことは、その交通整備の結果から生じている現象だろう。

――競合によって生まれる必然的迷惑を、上手く文化、社会システムに代行してもらうか。それともそれがかなわず、個人、或いは主流から外れたアウトサイダー集団としてその放出を行うか。結局のところ犯罪の正体とは、内容に機軸を持つ概念というより、そういう分岐から生じるレッテルや認識でしかない機能的枠組みと考えた方が妥当だろう。即ち、競合が消滅しない以上、犯罪をコントロールしようとすることはその分岐をコントロールしようとする試みにしかなり得ない。

来たれ、ローレンス二等兵、もしくはチャールズ・ホイットマン

Togetter - 「ニートとホームレスの実態の深刻さ」

やっぱり徴兵制が必要なのかもしれないね。2年間くらいぴっちり扱いてる間に精神疾患とかある子もそれを乗り越えたりするだろうし、乗り越えられなかった子は残念な結末を迎えていなくなるでしょ。そうすれば社会への負担は何も残らない
ss11223 2011-01-18 23:54:56

それ、徴兵制やない、戸塚ヨットスクールや。しかし、こういう提案をする人というのは、一体どこまで底抜けにポジティブなんだろう。自分はこの手の発言を目にするたびに『フルメタル・ジャケット』を思い出す。
---------------------------------------------------

 ▼(1)信頼関係の欠落した「鍛錬」は外敵からの攻撃でしかない

フルメタル・ジャケット [DVD]フルメタル・ジャケット [DVD]
(2010/04/21)
マシュー・モディーン、リー・アーメイ 他

商品詳細を見る

子供の頃この作品を見た時は、なぜわざわざ訓練所卒業の前日にもなって、ローレンス二等兵があの鬼教官を殺したのかがよく分からなかった。というのも、彼は訓練によって優秀な射撃主に生まれ変わり、最終的には鬼教官からも認められることになるからだ。しかし大人になってからそれを見た時、その意味がハッキリ分かった。それは、そもそも彼を生まれ変わらせる動機が復讐だったからだ。

 ***

ローレンス二等兵は訓練所に召集されて早々に鬼教官に目を付けられ、精神的、身体的に様々な方法でしごきを受ける。やがて訓練に付いていけない彼がミスをする度に、鬼教官は連帯責任として他の訓練生達に罰を科すようになる。それによって彼は益々疎まれるようになり、他の訓練生達全員からリンチを受けることになる。彼の補助役を負かされ、それまで懇切丁寧に手ほどきをしていた者までもがそれに加担する。

そんな四面楚歌な日々を送っていたある日、彼は鬼教官の講義に釘付けになる。そこで行われていたのは、テキサスタワー乱射事件におけるチャールズ・ホイットマン(元海兵隊)の優れた射撃術を例に取り、「目的を持った海兵が銃で何ができるか」――つまり鍛え抜かれた海兵隊が如何に凄い能力を発揮することができるか、ということを伝える講義だった。その日から彼は徐々に生まれ変わる。

そして卒業式を控えた前日、彼は銃で鬼教官を撃ち殺す。そう、彼はアメリカ合衆国のために生まれ変わったのではない。復讐のために生まれ変わったのだ。そして鬼教官を殺害することで、「目的を持った海兵が銃で何ができるか」を証明した。

しかし彼は結局優秀な海兵隊員になることはできなかった。それは単に彼が軍の規律を破ったから、ということだけではない。

どんな綺麗な大儀を掲げようと、結局のところ、最低限の信頼関係が欠落した間柄で行われる鍛錬の押し付けは、それを受ける側にとっては外敵からの攻撃でしかない。そして「敵」を殺す訓練をするのが軍隊だ。何故軍隊は人を殺して良いのか。それは相手が「敵」だからだ。そして「敵」の死体を沢山積み上げてこそ優秀な兵士と言えるだろう(もちろん優秀さに関しては他にも様々な指標があるだろうが、これは軍隊が持つ一つの普遍的価値でもあるだろう)。

もし彼が兵士として本質的に優秀であったならば、鬼教官だけではなく、リンチを行った訓練生達全員を、つまり「敵」を出来るだけ沢山殺害し、死体の山を積み上げたことだろう。しかし「俺はもうひでえ糞だぜ」というセリフからも分かる通り、彼にとって兵隊であること――即ち「「敵」だから殺す」――は本望ではなかった。そのため、鬼教官一人を殺害して最低限の目的を果たした後、彼は自殺する。

 ▼(2)「死ね」と言った相手からの貢献を期待する奇妙

さて、再び冒頭の発言に戻る。冒頭の発言では、「社会への負担は何も残らない」とあるが、社会というのは趨勢の側だけを指すのではない。趨勢に収まらない者達も含めてそこで初めて社会だ。つまりここで用いられている「社会」というのは社会のことではなく、「私の理想とする社会」のことであり、もっと言えばこれを述べた者自身のことであると言ってよいだろう。そして「2年間くらいぴっちり扱いてる」という部分では、双方の間における信頼関係の構築が全く無視されているのは言うまでもない。

さらに、「乗り越えられなかった子は残念な結末を迎えていなくなるでしょ」とあるように、そこでは実質的に、苦役を負わした末にそれでも自身の思い通りにならない人間は死ね(徴兵制で「いなくなる」はずもない)、と言うのと同じ意味の事柄が述べられている。そしてそれと同時に、それを実際の政策として実現させた方がよいのではないか、というような提案がなされている。

この発言だけに限らず、この手の問題において持ち出される徴兵制論の実体というのは、大抵このようなものだろう。

 ***

しかしこの徴兵制論は実に奇妙だ。

というのも、「最低限の信頼関係が欠落した間柄で行われる鍛錬の押し付けは、それを受ける側にとっては外敵からの攻撃でしかない」わけで、その計画が信頼関係の構築を無視した前提で成り立っている以上、内容的には単なる対象への攻撃でしかない。つまり、特定の属性を持つ者へ攻撃をもくろみ、「死ね」という意味を持つ言葉を投げ付け、そして実際に「死ね」という状況を作り出すことを提案した者が、その対象に対して、自らへの貢献を期待している。

当たり前のことだが、誰かを攻撃したならば、当然その対象から「敵」と認識され、反撃を受ける可能性がある。そして「死ね」という状況を相手に提供するならば、「お前の方が死ね」という反応が返ってきてもなんらおかしくはない。だが、ここではそれらの可能性が一切忘却されてしまっている。それどころか、攻撃を加え、「死ね」という内容を投げつけたその相手の反応が、自身にとって都合の良い人間に生まれ変わるか、もしくは消滅するかの二択しか想定されていない。

 ▼(3)「敵」に「敵」を制圧/殺害するための訓練を行わせようとする奇妙

それだけでも十分奇妙なのだが、さらに輪をかけて奇妙なのは、そのような相手に対し、「敵」を征圧し、殺害するための鍛錬を積んでもらうおうとしていることだ。だが、自らが唱える、じゃまな奴は死ぬべきである、というような「社会」の常識に同意し、「敵」だから殺しても良い、という軍隊が持つ本質的価値を規範として受け入れた者が、それに準じた行動を取ったならどうなるだろう。そこで学んだ知識や技術を存分に生かし、「敵」である「社会」に反撃してきたら?

それがローレンス二等兵のような本質的に兵士に向いていないタイプだったらまだよい。一人一殺で済むわけだから。しかしそれが冒頭の人物のように、自分の役に立たない人間は死ね、というような思想を持っている者だったなら、そしてそれがチャールズ・ホイットマンのように本質的に兵士としての優れた資質を持っている人間だったとしたら、目も当てられない。

だがここでは、そういった当然予測されるべき可能性の数々が、一切消し飛んでしまっている。この手の徴兵制論は、そういった底抜けのポジティブさによって支えられている。

 ***

――いや、まあ確かに、実際日本人の多くは世間(社会的趨勢)を内面化し、心身共にそれによって形成される「正しさ」の奴隷になってしまっているため、その多くは「死ね」という状況を世間から突きつけられると、反撃もせず、勝手に「いなく」なってくれるという実情もあるわけだが。しかし、幾ら何でも日本はちょっと自殺という現象に社会計画を依存しすぎだろう。

権威主義は無知者の知恵

 ▼(1)内容よりも、立ち位置や属性ばかりが話題になる

Togetter - 読売:山崎正和氏「ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある」

2011年1月10日 読売新聞朝刊
日本の改新 識者に聞く 山崎正和氏

もう一つ心配なのが、大衆社会がより悪くなることだ。ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。これが新聞や本の軽視につながり、「責任を持って情報を選択する編集」が弱くなれば、国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある。

「今日の読売新聞の一面社説は最低」というのがRTされまくっているけど、文章で検索すればわかるけどこれ劇作家の山崎正和氏のインタビューじゃん…。読売のサイトを見れば、今日の社説は成人式の話だってわかる。山崎氏の発言が実証されちゃっている http://bit.ly/dJn5zf 
kanose 2011-01-10 15:24:49

ここで重要なのは、その問題提起の内容自体がどうであるか、ということであって、それが「社説であるか否か(より強力な権威を持っているか否か)」は瑣末な事柄だろう。そしてある情報に何かしら誤りがあれば、ただそれが誤りであると伝えればよいだけであり、わざわざ誤った情報を流した者達を見下したりする必要など全くない。

さらに言えば、新聞のように何重にもチェックが入った刊行物でさえ、誤った事実を報じてしまうことは多々あるわけで、この一つの間違いをもってしてネット/大衆社会の知的低下――そもそも、今より知的水準が明らかに高かった時代なんて本当にあるのか?単に今まで見えなかったものが見えるようになっただけなのではないか――が実証されることになるのなら、新聞もまた、遥か以前から既に知的低下を招いていたことになるだろう。むしろこういった間違いを犯すことよりも、(もちろん、誤りが発覚した後にどのような対応を取るかは重要だが)そういったちょっとした間違いをあげつらい、その対象に烙印を刻み付けようとする風潮の方こそが、人々の思考や関心の在り方を狭め、硬直化させる大きな原因となっているのではないか。

Togetter - 「東浩紀氏らの、『山崎正和』評」

山崎正和氏は、サントリー学芸賞をいただいた縁でいくどかお話したことがあるが、たいへんに見識のある、しかも柔軟な方だと感じた。だから、読売新聞談話の一節だけ取り上げて叩くって、ネットの連中はじつに愚かだと思う。本当の敵と「味方になってくれるかもしれないひと」の区別がついてない。
hazuma 2011-01-12 13:19:12

個人的な相性の良さや感じ方を根拠にして「だから」と言われても納得のしようがないし、そもそもここで問題とされているのは山崎氏のパーソナリティではなく――いや、中にはそれを問題としている人もいるかもしれないが――、発言の内容についてだ。よって、もしそれに対してなされた発言に何か問題があるのだとすれば、その発言のどこがおかしいかを指摘すればよいだけのことだろう。それを、知的訓練を受けた/行う側の人間――この発言は大学教授としての肩書きを持つ人物によるもの――が、身びいきする側への批判を十派一からげに「ネットの連中」とひとくくりにした上で、内容的な批判によってではなく、「じつに愚か」などとレッテルを貼ることによってお手軽に糾弾してしまうのならば、それはむしろ山崎氏が唱える主張の正当性がかなり疑わしいものであることを示す一つの事例にしかならない。

大体、ここで言う「味方」というのは一体何の味方なのだろう。ネット上の連中の発言は信用できない、とネット上に書き込む人達が沢山いることからも分かるように、ネットは一枚岩でもなんでもないし、それは新聞やマスコミとて同じことだろう。つまり、「ネットvs新聞(識者)」などという対立の実体なんてのは、端から存在していない。

 ***

この例がそうであるように、何らかの主張が話題となった時、その内容自体が人々の興味の中心になることは滅多にない。それよりも、「ネットvs新聞(識者)」のように、元々存在しない妙な対立軸が作り出された上で、その「どちら側につくのか」や、その主張は敵によるものなのか味方によるものなのか、そしてどうすれば敵により大きなダメージを与え、どうすれば味方を増やすことができるのか、といったことばかりが焦点になることが多い。或いは、主張の内容それそのものよりも、それがどのような属性や肩書きを持つ者によってなされたものであるか、ということばかりに注目が集まることが多い。

そしてそのような印象に基づいて敵/味方の判別がなされると、先ほどの「じつに愚か」のように、批判の内容云々以前に、味方側に対する批判自体を予め封じ込めようとするような力が働き始める。社会全体の知的水準を憂えるなら、むしろこういった属性主義や内容をそっちのけにした二分法に陥ってしまいがちな風潮こそ問題にした方がよいのではないか。

 ▼(2)権威主義は無知者の知恵

で、冒頭の山崎氏の発言について見てみると、やはりこの主張は妙だ。というのも、彼は大衆社会の知的低下を憂えているにもかかわらず、権威主義を前提とした社会を形成し、それを維持することの必要性を唱えているからだ。しかし、そもそも権威主義/属性主義というのは無知者の知恵であり、知的なものとは相反するベクトルのものだろう。

ある事案に対して適切な知識や判断力、分析能力を持たない者は、それに対して積極的な評価を下すことができない。その場合、その者にとってはどちらに付くか、ということが問題の焦点になる。そしてどちらを選ぶことがより適切であり、自身にとって望ましい結果に繋がるのか、というギャンブルに身を投じるしかない。となれば、大抵の者はできるだけ優位な方に賭けようとするだろう。そしてその優位性を見分けるために、属性や肩書き、経歴などから生み出される権威性が利用される。要するにこれはギャンブルに身を投じる人々が「当たる」確立を少しでも上げようとするための一つの知恵なわけだ(と同時に、有限なリソースを節約するための知恵でもある)。

だが、権威というのはイメージによって支えられているものであり、同じ対象であってもそれにどのようなイメージを抱くかは、其々が獲得した経験や感覚によって異なってくる。つまり、権威主義とはイメージ主義であり、個人的な感覚を根拠とした物事の判断方法でもある。

 ***

イメージによる誘引力や拒否反応を完全に払拭することはできない。全ての事柄に精通している人物もまた存在しない。直感が契機となって定説が覆される場合もある。それ故、イメージによる判断を完全に否定することは出来ない。とはいえ、そちらにばかり偏りすぎると危ういのは言うまでもないだろう。人間の持つそういった性質を積極的に利用して人を騙くらかそうと手ぐすねを引いている人間もいるし(というか、それを利用しないと資本主義は回らない)、実体とは全く乖離した方向での動きが取られる可能性もまた高まるわけだから。一方、無知な人間はおとなしくエリートの言うことを信じていればいい、その方が上手く行く、という考え方もあり、確かにその方が良い場合もあるので、どちらかが絶対に正しいとは言えないが、少なくともそのような偏りを帯びた状態が知的であるとは言い難い。つまり、もし大衆の知的低下を問題視するのなら、むしろ先ずはこういった権威/属性主義的偏重をこそ問題にしなければならない。

今回の騒動の在り様にも、権威主義的背景が少なからず関わっているのは間違いないだろう。権威であるというだけで信じてしまう人もいれば、権威であるというだけで批判する人もいる。また、それが権威としての強い力を持っていればいるほど、その影響力も大きくなり、その影響によってダメージを被った人々から恨みを買う可能性も高くなる。そしてその権威に一泡ふかしてやろうという動きが出てくる。だからこそ、「社説か否か」が問題の焦点になったりする。もし新聞が完全に権威を失っていたとしたら、「まあ新聞だから」として大した話題にもならないわけだから。つまり、これは山崎氏の主張が「実証されちゃっている」というより、むしろこういった騒動は彼の望む大衆社会にとっては付き物であると考えた方が適切だ。

 ***

――にしても、これが「マスコミが権威を持つ」ではなく、「マスコミが信頼される」であれば、こんな風に紛糾することもなかったんじゃないだろうか。もしこれがネット上で行われた主張であり、それが単なる言葉尻の問題であったとするなら、直ちにそれを訂正するという手もあったのだが。テレビなどでもそうだが、ある情報が大々的に報じられ世間に周知された後になって誤りが発覚し、その後それを訂正はしたものの、その訂正の方は全く世間に届いていなかった、というのはよくある話。そうやって広まったデマや偏見がそのまま常識として定着してしまった、というような事例も数多くあることだろう。そこら辺はテレビや新聞が持つ一つの大きな弱点と言えるかもしれない。

モチベーションは努力では生み出せない

社会的成功を収める、
或いは社会的失敗を回避する
ためには努力が必要

努力するためには動機が必要

では、動機が無い人間は?

動機を獲得するための努力が足りない

しかし、その努力をするためには予め
その努力をするための動機が存在していなければならない。
その動機はどうやって獲得するのか?

成熟した自意識を持っていれば、自ずと動機は獲得される

成熟した自意識はどのようにして作られるのか?

努力によって

では、その努力をするための
動機がない人間はどうすればよいのか?

以下ループ
or
精神が腐ってる奴はどうしようもない
(=私は優れた魂の持ち主であるが故に、動機を獲得できた。
そしてそれ故、社会的成功を収めることができた。
或いはできる可能性を持っている)

現代日本人のモチベーションの無さが社会的問題として取り上げられることは多い。しかし、それまで多くの日本人のモチベーションを支えていた経済成長と終身雇用・年功序列制度、或いはテレビが作り出す擬似共同体的な雰囲気的一体感――昔は「笑い屋」がテレビを盛り上げたものだが、今は「怒り屋」がその役割を担っている。人々は、外部に敵を作ることでしか結びつきを得られなくなったからだ――が失われて以来、この社会は一体どのような新しいインセンティブを構築することができたのか。多くの人々が共有することができるような目的や希望を一体どれほど生み出すことができたのか。それらを生み出そうとするための動きが活発化したことなんて一度もなかったし、むしろそういう動きが起こりそうな兆しが見られれば、「個人の努力」や「甘え」という念仏を唱えながらことごとく叩き潰してきたのがこの社会なのではないか。そんな国が活気付くはずもない。
--------------------------------------------

 ▼(1)状況形成の原因が「自意識の貴賎」や属性の問題に摩り替えられる

モチベーションは努力では獲得出来ない。何故なら、その努力をする為にはモチベーションを獲得しようとするためのモチベーションが予め獲得されていなければならないからだ。

では、その動機がどのように獲得され、維持され続けるのか、或いは失われてしまうのかと言えば、それはその個人が生まれ持った資質と環境との「組み合わせ」の連続性の上によってだろう。だが個人の自意識は、自己がどのような資質と環境を持って生まれてくるか、ということを選択することはできない。「組み合わせ」を選ぶこともできない。また、仮に一方の側の条件を選択し、「組み合わせ」の半分をある程度選べると仮定しても、多元的未来を覗くことができない以上、どのような環境に身を置くことが自身にとって好ましい結果に繋がるのか、或いはそもそもその先にあるのがどのような環境なのか、ということ自体が既に分からない。最善の選択であるように思われた事柄に最大限の力を尽くした結果、最悪の事態が引き起こされる、というのが現実の怖さ。

つまり、より多くの人間がモチベーションの獲得するためには、「個人の自由意志による選択」や努力に頼っていては駄目で、それが可能となるような「組み合わせ」を増やすしかない。そのための環境を整えるしか、活況状態を作り出すことはできない。よって「自意識」に問題の焦点を当てているうちは、モチベーションの問題に取り組んでいないどころか、考えたことにすらならない。

ところが、自意識(或いは属性)は結果の原因を事後的に横取りしてしまう性質を持っている。それ故、この「モチベーションの欠如」という問題は、一貫して個人の努力によって克服すべきものとして片付けられてきた。しかしそれを努力の問題だとすると、冒頭に書いたように、必然的に「魂の貴賎」の話へと成り代わってしまう。つまり、「でもモチベーションは努力では獲得できないよね」という矛盾が突きつけられそうになるたび、「それは甘えているからだ」というように「自意識」の問題に摩り替えられ、それ故その「努力によるモチベーション獲得不可能性」という事実が暴かれることはなかった。

この自意識原因論は全く理に合わないものではあるものの、成功/失敗という結果(あるいはそこから生み出される属性)を自意識の貴賎(精神的成熟/未成熟)で解釈する傾向が強い日本社会では、それは非常に大きな説得力を持つことになる。そしてそれ故に「組み合わせ」の問題に焦点が当てられることはついぞなかった。

故に、「日本人のモチベーションが他国のそれに負けている」ことは度々問題になっても、「日本社会のモチベーション生成環境が他国のそれに負けている」ことは余り問題にはされない。仮に問題にされても、「甘え」だの「苦労」だのという「魂の貴賎」の話題によって直ぐにかき消される。そうやって個人の努力頼みで、「組み合わせ」の問題に対する対策をひたすら怠り続けてきたのがこの国のあり方だろう。

 ***

日本では何か対立や問題が起こっても、お互いの主張の内容が主役になることは滅多にない。その対立は、必ず属性や「自意識の貴賎」の問題に摩り替えられる。或いは自身の主張をもっともらしく見せるための印象補填として、それらが内容とセットで用いられる。このような属性を持っている人間の言うことだから誤りである/正しい、或いは、こういう自意識を持っているから成功/失敗した、というように。ネット上には、「こんな妙な主張をするのはきっと~という属性を持っているからに違いない。そしてそういう属性を持っているあいつの言うことが正しいはずがない」というようなトートロジーで溢れかえっている。~の属性を獲得してからものを言え、というようなことを平気でのたまう大学教授さえいる。

この国には、多くの人間が共有する理念や原理(宗教・世界観)、利害の一致※1が存在しない。故に社会的合意も形成できない(このことも「組み合わせ」の問題に対する対策が取れないことに関係しているだろう)。その代わりにぽっかりと空いたその「正しさ」の穴を、世間的印象によって生み出された社会的抑圧が埋めることになる。そしてそれが理念や原理(「正しさ」)に成り代わる。そのような世間原理主義下においては、上記のようなトートロジーですら大きな力を発揮し得る。「自演」などという概念が生まれたのもそのためだろう。内容を重んじる社会では、「自演」をする意味も「自演」を懸念する必要もない。それによってその場の「正しさ」が左右されることはないからだ。しかし印象の良し悪しが正誤を決定する日本社会では、それもまた大きな意味を持つことになる。そしてその世間的印象に最も大きな影響を与えるのが属性であり、「自意識の貴賎」だ。故に、あらゆる問題は基本的に一旦自意識や属性の問題に置き換えられ、そしてそれがそのまま趣旨に摩り替わってしまうことも多い。

この摩り替えによって「組み合わせ」の問題が隠蔽され続けてきたことが、近年になって特に注視されるようになった日本人のモチベーション低下問題に関係していないはずがない。まあ経済成長と終身雇用・年功序列制度があるうちはそれでもなんとかやっていけたのだろうが、それが失われて一挙にその膿が噴出してきた、というのが実際のところだろう。大勢の人間がそれにモチベーションを依存していたのだから、それが失われれば、それだけ大勢の人間のモチベーションが失われるのは当然のことだ。

ゆとり新人を動かす殺し文句がある(ゲンダイネット) - livedoor ニュース

しかしこの記事のように、そのシステムが失われて尚、それを根拠として成立していた振る舞いや動機を未だに他者に求め続ける奇妙な状況がある。何故そんな間抜けな状況が起こるのかといえば、個人の自意識や属性(ここでは“ゆとり世代”)こそが全ての状況を決定づける根本原因である、という前提で物事を考えているからだろう。そのため、社会的枠組みが根本から変わってしまったことすら考慮されていないこの手の言説が未だに後を絶たない。

 ▼(2)「世間による他者の存在否定文化」の内面化としての自己否定

しかし問題なのは「摩り替え」だけではないだろう。

mixi「メアドでユーザー検索」取り下げ 反発受け3日で見直し - ITmedia

【2ch】ニュー速クオリティ:mixi、常勝ν速民に大惨敗 3日前に登場のメールアドレス検索機能を涙目で取り下げ


そもそも、「お上」からのお達しがなくとも勝手に集団内で「五人組」的状況を形成し、お互いがお互い他人の存在や行為、人格を否定し合い、足を引っ張り合うのが日本文化だ。つまり、共有する理念や原理、利害が一切なく、世間的雰囲気に「正しさ」と行動原理を依存している以上、日本人の本質は「敵の集合体」であり、そしてその集合体の中でモチベーションを維持することができるのは、その否定の嵐に打ち勝つことができる強靭な自己肯定感・万能感を持ち、それを維持することができている者だけだ。というのも、世間の目を内面化し、世間の側に立って、つまり敵の目で自己評価をすることになれば、多くの人間は必然的に己の価値や存在を否定せざるを得なくなるからだ。世間の側に立つフリをするのは重要だが、本当に世間の側に立った人間は自滅する。そのような人間がモチベーションを維持し続けるのは難しい。つまり、日本にはモチベーションを獲得し維持し続けるために、一つ余分なハードルがある。この「世間による他者の存在否定文化」の内面化としての自己否定もまた、モチベーション欠如に大きく関係していることだろう。

 ***

いずれにせよ、他人の人格(自意識)や属性を散々否定しておきながら、或いは誰かが何かにチャレンジすると直ぐにバカにして嘲り笑っていながら、はたまた履歴書などの刻印制度を温存しておきながら、そしてそういうモチベーションの芽を摘むような文化が隆盛を極めるのを目の当たりにしておきながら、「何故やる気がない人間が多いのか」などと述べてみせるのは白々しいことこの上ない。

ポジティブ・アレルギー 競争原理を阻害する≪競争社会≫×安定のための「競争」※2

そしてもし競争原理を働かせようとするのなら、全ての人間がいつでも工程に参加可能にして、尚且つそこでまともな試合(やり取り)ができるような環境を整えなければならない。だが、≪競争原理主義者≫はこれに断固として反対する。反対の理由としてよく言われるのが、それでは努力して結果を出した者が不公平感を感じ、モチベーションを失ってしまう、まるで社会主義のようだ、という理屈だ。だが、実際にこのような≪競争社会≫で多くの者の意欲が奪われている以上、そのやり方は失敗した社会主義と同じ轍を踏んでいることになるわけで、それを維持し、さらに推し進めようとする者が、社会主義の失敗を持ち出して参加への意欲を働かせようとするための環境整備を批判するというのは全くおかしな話だ。

そもそも、≪競争原理主義者≫が競争への意欲が失われた者に常日頃から言っているのは、モチベーションとは個人の意志の強さによって獲得されるものであり、それが獲得できないことを環境のせいにするべきではない、ということではなかったのか。それが競争原理(参加への意欲)を働かせるために必要な環境整備の話になると、突然モチベーションの獲得は環境によって決定付けられる(そんな環境ではモチベーションを失う者が出てくる!)かのように言い換えられる。

それにしても、モチベーションを獲得できずに苦しんでいる相手に対しては、モチベーションは個人の意志によって獲得されるものであり、社会環境のせいにすべきではないと言っておきながら、自身にとって都合の悪い制度や環境が成立しそうになると、突然環境のせいで人々のモチベーションが失われてしまうかのように言い始めるこの手の二枚舌言説のインチキさは、一体いつになったら「発見」されることになるのだろう。そこらじゅうにそびえ立ってるのになあ。「見ないふり~」ってやつか。



※1 日本における≪競争社会≫は、誰かが得をすれば誰かが損をするようなつぶし合いでしかないため、信頼関係が生まれ難い。

※2 ソ連と現代日本は似ている 丸山政男『ソヴェートの市民生活』 - 紙屋研究所
一般的イメージと異なり、実際には旧ソ連は成果主義であり、現代日本社会と内容的にかなり似通っていたらしいけど。まあ元々資本主義や成果主義自体が理念に成り代わると、“みんな”のためのシステム(経済や成果)に貢献できない者は、“みんな”の利益を害する反社会的人間であり排除せねばならない、ということになり、結局同じ場所に辿りつくことになるわけで、旧ソ連と理念無き日本社会の二つが似通ってくるのは当然といえば当然だけど。

ニートひきこもりJournal 勤労の義務
そういえば、日本人の多くは「勤労の義務」を日本国憲法ではなく、スターリン憲法的な意味合いで捉えているという話もあったっけ。そもそも、自己責任と勤労の義務が常識として同居しているということがまずおかしいし、勤労の義務のためには完全雇用という状況が前提として存在していなければならないわけで、じゃあそいう状況を作り上げることを良しとするのかといえば、「公務員を減らせ」が近年の常識人の合言葉なわけで、全く支離滅裂だ。内容や道理よりもとにかく印象を重んじる日本社会の性質というのは、こういうところにも表れている。

≪競争社会≫において「人間同士」の団結なんてあり得ない

「クマがかわいそうだから殺さないで」と感じる皆さんへ - 紺色のひと

* かわいいクマは、人間にとって恐ろしい生き物でもあるということ。
* 日常的に、クマの被害に怯えて生活している方が現実にいるということ。
* 自分の命や生活がクマによって脅かされているとき、「かわいそうだから殺さないで」と言えるか、ということ。

この説は、現代社会において「人間VS熊」という構図を共有し得る者なんて実のところ殆どいない、という事実を完全に見落としているように思う。むしろ殆どの人間は、熊よりも人間に生活を脅かされる可能性の方が圧倒的に高い。なんせ、人間同士のつぶし合いとしての≪競争社会≫に誰もが身を置いているわけだから。つまるところ、大抵の人間が抱えているより身近でより深刻な問題は、「人間VS熊」ではなく「人間VS人間」という構図の上で生じている。この「かわいそうだから殺さないで」自体もまた、その構図より生じているものだろう。
--------------------------------------------------------

 ▼復讐と贖罪としての自然保護

人間同士のつぶし合いたる≪競争社会≫で恐怖や苦痛がもたらされたことに対する「人間」への復讐(或いは、席が空いたことへのお祝いでもあり、苦痛へのモルヒネ)が「メシウマ」。よって≪競争社会≫にメシウマはつきもの。≪競争社会≫において人間同士が本当に団結できるのは、そして他人を心から信頼できるのは、このメシウマ祭りにおいてだけだ。≪競争社会≫というのはそういうもの。

そして自然保護思想にもまた、この意味での復讐という思惑が含まれているのはまず間違いないだろう。ここでの自然とは、≪競争≫で滅ぼされゆく者という性質を帯びているからだ。つまりそこで自然を滅ぼす者は、≪競争≫で「我々」に苦痛や恐怖をもたらす復讐対象としての「人間」でもある。と同時に、誰もが「人間」に淘汰される危険性を抱えている一方、自らが他者を滅ぼしているという側面もまた併せ持っている。自然保護は、その罪悪感より生まれる贖罪としての側面もまた持ち合わせている。

 ***

要するに、普段からお互い熊以上に生活を脅かし脅かされしている関係性を持つ者同士の間で、「我々人間」の生活を守ることこそが重んじられべきだとする主張を唱えるのは、どうも無理があるのではないかと。

まあこれは、自分が≪競争≫に敗れてもうすぐ自己責任で「人間」に滅ぼされる立場にいる者だからこそ、そんな風に考えてしまうということもあるのかもしれないが。

「敵の提供」という政治手法×リアル爆弾ゲーム

テレビをつけると、『たかじんのそこまで言って委員会』が放送されていた。もう長らく見ていなかったが、久しぶりに少し見てみるか、と思ってそのままチャンネルを変えずにいると、そこには、犬がションベンをするのに何故そこでションベンをするのか聞いても無駄なのと同じで、中国人に何を聞いても無駄、というようなことをのたまう勝谷誠彦の姿が。ああ、全く変わってないんだなこの番組、と思っていると、なにやらゲストとして呼ばれている三人の中国人が、如何に中国人にモラルがないかということを熱弁するという光景が繰り広げられ始めた。しかし、敵対する国の人間に自国の不満を述べさせることでその国への敵愾心を煽り、自国の体制の正しさアピールするとは、また随分と古風なプロパガンダ手法を持ち出してきたものだ。

そのうち、日本人は就職する時にまず給料のことを考えるが、それよりもどのような仕事をするかということを考えるべきだと言う話に。仕事で自己実現というやつですか。かと言ったかと思えば、就職活動で仕事口が無いというが、低賃金でもコンビニで働けばいい、日本人は甘やかされ過ぎている、と言って委員会メンバーに絶好のアシストを繰り出す中国人ゲスト。ああ、これが本題か。そして待ってましたとばかりに、その通りだ、中国人はコンビニで頑張って働いているのに、日本人は全然やりたがらない、と食らい付く辛坊治郎。そこに、自分の経営するうどん屋のアルバイトがどんどん止めていく、若者は甘やかされすぎだ、と畳み掛ける勝谷誠彦。そこでもう見ていられなくなってチャンネルを変えた。コンビニアルバイトで自己実現って一体何のこっちゃ。ただ文句を言わず先も見えない不安定雇用で働けと言っているだけの話だろう。というか、コンビニで働いている日本人なんて幾らでもいるが。

実のところ、殆どの人間にとって国籍や人種の違いなんてのは、本当はどうでもよいのだと思う。例えばこの人達にとっての「中国人」とは、「我々の思い通りに動かない人間」の隠喩なのだろう。つまり「甘やかされた若者」もまた「中国人(或いは「犬」)」なわけだ。そして委員会メンバーに絶好のアシストをしてくれる中国人ゲストは「名誉日本人」。たまに自分の意見に反対する人間を誰かれ構わず在日認定していくタイプの人がいるが、それもこう考えれば辻褄が合う。つまり、一見国籍のことを言っているようでいながら、本当は国籍の話なんて全然していなくて、単に自分の意見に賛成してくれる味方としての「日本人」と、賛成してくれない敵としての「在日」に分類しているだけの話なのだ。
---------------------------------------

▼(1)意味よりもイメージの方が重んじられる

にしても、「甘え」というのはつくづくマジックワードだと思う。そもそも社会的な厳しさとは、他人が自分の思い通りに動いてくれないことより生じる苦しさのことだろう。若者が安い給料で思い通りに働いてくれない、というのもまた社会の厳しさの一つだ。ところが、その厳しさに直面した者がそれに耐え切れず、思い通りに動いてくれない他人を「甘やかされている」と言って非難し始める。だがそれは、内容的には「俺を甘やかせ」と言っているのと同じだ。しかしそれをそのままストレートに発すると印象が悪いので、「甘えるな」と言い換えることによってそれがなされる。そしてそれが共感的趨勢を獲得した場合、それはそのまま受け入れられることになる。言葉というのは、案外意味なんてどうでもよくて、むしろイメージの方が重要ということなのだろう。

他人を「甘えている」と言ってを批判する者達は大抵、自分はこんなに苦労したのだから、お前達ももっと苦労すべきだと言う。だが、その苦労は個人的なものでしかない。自分には自分の事情、他人には他人の事情がある。その自分の事情(自分は苦労した)を相手が考慮してくれない、ということこそが社会の厳しさの真骨頂だろう。そもそも、自身の経験や実感という物差しで、其々全く異なった条件を持つ他人の人生の努力度数を平等に測ろうとすることこそが大間違いであり、それこそが平等主義の根源だ。実際には、その者が自身の持つ限界に対してどれ程の割合で苦労したかなんて外からは決して分からないわけだから(当人だってそれは知りえないだろう。限界を超えて破綻しない限り)。その意味で言えば、これまで散々「平等主義」を批判してきた委員会メンバー達は、むしろ平等主義の申し子と言ってもいいだろう。自分が苦労したのだからお前も苦労すべきだ、或いは、誰もが定められたある一つの雛形に収まるべきだ、というのは、平等主義的な思想が前提になければ成立しないからだ。つまり、「平等主義」を批判することで平等主義が推し進められてきた、という側面が間違いなくある。これもまた「言い換え」の一つの例だろう。

▼(2)「敵の提供」という政治手法

大阪は貧乏人の街だ。にもかかわらず、高給取り達が貧民をバッシングする番組が、その貧乏人の街でもてはやされている。困窮者を叩けば叩くほどその人気は上がっていく。この番組を見ると、現代日本社会において貧民と富豪、労働者と資本家、人民と政治家、というような対立構造はもはや重要ではない、ということがハッキリ分かる。

何故このような状況が成立するのかと言えば、それは「敵の提供」という政治手法が上手く状況にマッチしているからだろう。困窮状態にある社会ほどより大きな不満が渦巻いている。しかし、日本では社会的成功者を批判するのは僻みと捉えられ世間体――そう、意味よりも重要なイメージ――が悪いから、それをするのは憚られる。そこに、あいつらが努力不足なせいで社会は低迷しているんだ、お前達は苦しんでいるんだ、というように、不満を晴らすための的としての敵の提供が行われる。それによって、あいつらに苦労さえさせれば社会は上向きになり、自分達の生活もまた上向きになる、というような希望がもたらされる。だからこそ、その不満を晴らすための敵を、希望をもたらしてくれるこの手の番組が人気を博す。その希望ゆえに、貧民同士、お互いに食らいつき合う。その熱狂で、現実の不安や苦痛を吹き飛ばそうとする。そしてその争いによって生まれし不安や苦痛が、また人々をさらなる闘いへと誘う。つまり、現代社会における敵とは富豪でも資本家でも政治家でもなく、世間という実態を持たない化け物なのだ。ブラック企業が蔓延るのも、ブラック世間あってのことだろう。

このことは、周りの者全てが世間という敵になりうる、ということもまた意味している。そこでは資本家と労働者などという分類はもはや意味をなさない。だからこそ日本ではお互いどんどん疑心暗鬼になり、競争原理は働かず、つぶし合いにしかならない。是正も再分配も団結もできない。

▼(3)リアル爆弾ゲーム

自分の経験から言うと、小学校低学年くらいのころから、集団におけるリーダー役は既にこういう「敵の提供」という手法を上手く使いこなしていた。まるで爆弾ゲームのように、中心人物を除いたメンバー全員に「敵」の役割が順繰りで回ってくるのだ。そしてその敵との闘いというイベントによって、メンバーは日常の不満や退屈を紛らわす。いつ自分にその敵としての役割が振られるのかと怯えながら。というのも、ターゲットとされる対象は、「今からお前が敵だ」などと明白にそれが宣言されるわけでもなんでもない。それは、中心人物のちょっとした素振りや一言、そのイントネーションや顔の表情などを周りの者が読むことで、つまり阿吽の呼吸で決定される。だからその行事を妨げるのは極めて難しい。何故なら不要な目立ち方をすれば、用意にその役割が自分に割り振られることになるからだ。

要するに、そんな子供の頃からもう既に大人社会と大して変わらぬ様相が形成されていたわけだ。これはある種の文化といってもいいだろう。そしてその文化の根は相当深い。自分が集団への帰属に大きな恐怖感や嫌悪感を感じ、極端にそれに消極的になってしまうのも、恐らくこういう経験を積み重ねてきたことが大きく関係しているように思う。つまり、集団や枠組みへの参加が、リアル爆弾ゲームへの参加を想起してしまうわけだ。だからどうしても上手くそれができない。しかし、その参加能力の無さ故に、より大きな社会という集団におけるリアル爆弾ゲームにおいて、固定化された敵としてのポジションを獲得してしまうことになるという。

競争原理を阻害する≪競争社会≫×安定のための「競争」

努力信仰が強い日本では、結果の良し悪しは一旦努力度数に変換した上で解釈されることが多い。そのため、例えばある競争で「10対0」の結果が生み出された時、勝者はよく努力した褒美としてもう10点プラスされる一方、敗者は努力が足りなかったペナルティとしてさらに10点マイナスされたりする。そして次にこの両者が相対する時は、「20対-10」の状態で勝負を始めなければならなくなり、一方は以前よりも益々不利な状況での競争を余儀なくされる。

これが≪競争社会≫であり、このベクトルをさらに推し進めるべきだとするのが≪競争原理主義者≫の主張。つまり、より豪華なニンジンを前にぶら下げれば人々の意欲は増すはずであり、より大きな罰を与えれば、その恐怖によって駆り立てられ、人々は競争に励むはずだ、というわけだ。
--------------------------------------

だがこのやり方だと、競争に敗れた者はそのたびに益々不利になっていくから、参加するまでもなく結果が見えてしまうような関係性がどんどん増えていくことになり、参加への意欲を保つことができる人間は逆にどんどん低減していくことになる。貴重なリソースを支払って最初から負けることが分かっているような賭けに参加する者などいない。結果、其々の競争はトーナメント化の様相を呈していき、一回勝負のようになっていく。そしてそれは一部の者達だけのものとして独占され、囲い込まれていく(ex.新卒しか取らない/空白期間があればそれで終わり/保証人がいないと部屋を貸しません。住む場所がない人間は職を得られません/無能な人間は何をやっても駄目、の内面化)。逆に予選落ちした者は、もはやその時点で競争どころか、公式戦に参加する余地すらなくなる。つまり、このやり方は競争原理を働かせるどころか、むしろそれを阻害するためのものだ。

「殴るぞ」と自白迫る録音公表 大阪、弁護団が告訴へ - 47NEWS

元々競争(成果主義)の行き着く先はこんなもの――行政が民間意識を持つというのはこういうこと――であり、社会生活自体が競技化するとロクなことはないだろう。そもそも、本気での競争を続けれ続けるほど、それだけ選手寿命が縮むことになるのは言うまでもない。実生活における選手寿命というのは文字通り寿命のことだから、比喩ではない本当の競争を社会生活に持ち込むのは余りにも無理がある(肉体がそうであるように、精神もまた無限に修復可能な永久機関ではない)。

とはいえ、実際には社会生活の維持に不可欠な関わり合いへの参加自体が≪競争社会≫の「ペナルティ」によって阻害され、そこで意欲が失われてしまう者が出てくるという問題もある。その意欲を競争原理の一つとして見るなら、やはりそれを無視することもできないだろう。

そしてもし競争原理を働かせようとするのなら、全ての人間がいつでも工程に参加可能にして、尚且つそこでまともな試合(やり取り)ができるような環境を整えなければならない。だが、≪競争原理主義者≫はこれに断固として反対する。反対の理由としてよく言われるのが、それでは努力して結果を出した者が不公平感を感じ、モチベーションを失ってしまう、まるで社会主義のようだ、という理屈だ。だが、実際にこのような≪競争社会≫で多くの者の意欲が奪われている以上、そのやり方は失敗した社会主義と同じ轍を踏んでいることになるわけで、それを維持し、さらに推し進めようとする者が、社会主義の失敗を持ち出して参加への意欲を働かせようとするための環境整備を批判するというのは全くおかしな話だ。

そもそも、≪競争原理主義者≫が競争への意欲が失われた者に常日頃から言っているのは、モチベーションとは個人の意志の強さによって獲得されるものであり、それが獲得できないことを環境のせいにするべきではない、ということではなかったのか。それが競争原理(参加への意欲)を働かせるために必要な環境整備の話になると、突然モチベーションの獲得は環境によって決定付けられる(そんな環境ではモチベーションを失う者が出てくる!)かのように言い換えられる。

つまり、≪競争原理主義者≫ほど競争原理を阻害しようとする傾向が強く、そしてその阻害を実現するための政治的手段として、内容ではなく“何となく勇ましく良いイメージを持ったレッテル”としての「競争」が用いられている。

 ▼安定のための「競争」

このことから分かるのは、如何に人々は(ガチの)競争を嫌い、安定を求めているか、ということだ。恵まれた環境に身をおき続けたが故に自身の限界を知らずに済んだ一部の人間を除いて、殆どの人間は競争が激化すればするほど生活の維持が難しくなり、人生という競技における選手寿命が縮んでしまう、ということを実は知っている。そして、全ての人間が安定を手にすることができる社会など存在しない、という強い思いもまた同時に抱いている。

だからこそその競争に歯止めを掛け、一度手に入れた安定が覆されないように社会的ポジションの囲い込みや固定化を行い、競争原理を阻害しようとする動きが出てくるわけだ。そしてそれを成し遂げるための政治的手段の一つとして「競争」という“正”のレッテルが用いられる(しかしそれ故にこの安定志向という本音は、アンケート結果くらいでしか出てこない)。つまり、囲い込みによって安定した“上がり”のポジションを確保し、いずれ“上がった”者として安全な立場から他人の競争を眺められるようになりたい、というその希求こそが人々に「競争」を叫ばせている。実のところ人々が連想する競争とは、安定へと辿り着くための工程としてのそれでしかないわけだ。

「これはネタです」と言いながら大路を走る行為について

「ネタにマジギレするマイノリティはキモイ」瓜田事件をめぐって

行為が行為だけに、ここではどうも分が悪いようにも見えるが、ネタだから批判するのはおかしい、という主張がこれまで堂々とまかり通り続けてきたこと、そしてそれが今も尚大きな力を持っていることは事実だ。これは虚構の物語、或いはイジリ、もしくはドッキリだから、その内容に関しての批判は一切なされるべきではない、といった主張も、内容的にはこれと同じものだろう。
------------------------------------------------

 ▼(1)全てのネタは内輪ノリでしかない

しかし、この批判(マジレス)に対する批判(ネタにマジレス格好悪い/すべきでない)は、全く的外れなものだ。というのも、「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」という言葉があるが、マジレスをしている側は、別にその者が「狂人の真似」としてそれを行っているのか、それとも「本気」でそれを行っているのかなんて端から問題にしておらず、「大路を走った」という行為自体を問題としているからだ。それに対して「いや、本気じゃないから」と言ったところで、それは行為を対象としたマジレス(批判)への批判にはなり得ないだろう。

そもそも、その者がそれをネタと思っているか否かなんてのは、当人の自意識の問題であり、他人からすればそんなもの知りようもないし、またどうでもいいことだ。私の、或いはあの人の自意識はそれをネタと認識した上で行っているのだから、批判すべきでない、と言われたところで、それに納得するのは、その行為をネタとして楽しむことができる集団だけだろう。つまり、全てのネタは基本的に、それをネタとして楽しむことができる感性を持った集団の内輪ノリでしかない。その内輪ノリで外部(それをネタとして楽しめない集団)と折衝しようとしたところで、それが通用するはずもない。予めそれがネタ(嘘)であるということが明記されていないなら、尚更のこと。ネタに走るのは結構だが、それくらいのことは最低限踏まえておくべきだろう。

冒頭のケースなどは、そもそもネタであるということ自体疑わしい※1。が、仮にそこに書かれている内容が全て嘘であっても、「書かれたこと」自体が事実であることには違いない。そしてマジレスは「書かれたこと」に対して行われている。つまり、その内容が嘘であったからといって、「書かれたこと」がそれそのものとして実在している以上、その批判が全て無効になるということはない。

そしてもし仮にそれが嘘であれば、それは意図的に流されたデマということになる。それを、デマを流すよりもデマに騙される方/デマを真に受ける方が悪い、ということにするのならば、あらゆるメディアは幾らでもデマを流してもよい、ということになる。全ては各々のメディア・リテラシー(この言葉もすっかり胡散臭くなった)でデマに対処すればよいだけだ、と。

だが、リテラシーも結構だが、人一人ができる情報の真偽の確認量なんてものはたかが知れている。特殊な専門知識が無いと真偽が判断できないケースも多いだろう。情報不足で、そもそも事実確認が実質的に不可能な場合も多い。つまり、氾濫する情報を目の前にして、そこに存在する嘘を全て嘘と見抜くことができる超人なんてどこにもいやしない。ましてや、相手がどのような気持ちでそれを行っているのか、という他人の内面を見透かすことができる超能力者などいるはずもない。嘘を嘘と見抜ける人間の存在というのは、それ自体がネタなわけだ。よってこういった思想が一般化すればするほど、必然的に情報に内包されるデマの含有率もまた増していくことになるだろう。

 ***

また、ネタにマジレスする方が悪いとするなら、例えば、ある特定の人物の周辺で、その人物が持つ特徴を挙げながら、そこで想定された対象をバカにする話をしたり、直接その人物を罵倒するような言葉を投げつけておきながら、それにその人物が反応すると、「いや、これは別にお前のことを言っているわけではない。単なる架空の話だ。それに反応するのはお前が自意識過剰からだ」という、この手の嫌がらせ――これは虐めの常套手段だ――にも打つ手がなくなる。そして「いやこれはイジリだから」と言われれば、「ああそうか、イジリなら仕方ないな」として引き下がるしかなくなる。

しかし「ネタにマジレス格好悪い」思想が抱える問題はこれだけではない。その思想はもっと根本的な欠陥を抱えている。

 ▼(2)「ネタにマジレス格好悪い」思想は自意識偏重主義の産物

というのも、もし「ネタにマジレス」すべきでないとするなら、そのマジレスが実は「ネタにマジレスするネタ」かもしれないという可能性もまた考えなければならないだろう。そしてそれが「マジレスするネタ」だった場合、自らが設けた制約によって、それを批判してはならないということになる。よって、マジレスを批判するためには、まずそれがネタかマジかの真偽を見極めるため、他人の内面を覗き見て、その内容を把握しなければならない。だが、そんなことができる人間はいまい。つまり、「ネタにマジレスすべきでない」としてマジレス批判がなされた時、その批判者は、己が掲げたその主張を自ら踏みにじっているか、もしくは他人の内面を見透かすことのできる超能力者かのどちらか、ということになる。この主張そういった根本的な欠陥を抱えている。

「ネタにマジレスするな」というのは、「相手に批判をさせまいとするための批判」の一種だが、そこで何を根拠としてその行為の可否が判断されているかと言えば、それはその対象がそれをネタと思っているか否か、という自意識によってだ。そして何故、本来見透かすことのできないはずの他人の内面を見透かすことができたという前提で話が進むかと言えば、それは自らの自意識が相手の内面をのぞき見ることができた、と感じるからだろう。つまり、そこでは実際に行われた行為の内容よりも、其々の自意識がそれをどのように感じているか、ということの方が重んじられている。そして自意識の在り様を根拠として、批判という行為自体を封じようとする動きが出てくる。だが、本来は批判をなすべきか否かの判断よりも、なされた批判が的を射たものか否か、という判断の方こそが重要なのではないか。

ところが実際には、行われた行為の内容や批判の内容としての妥当性よりも、本来知りえないはずの個人の内面の方にばかり注目が集まる。それを中心として物事が把握される。では何故そういうことになるのか。それは、日本社会の自意識偏重主義を受けてのものだろう。

何か上手く行かないことがあれば、「未熟な自意識」が原因として槍玉に挙げられ、何かが上手くいけば、「成熟した自意識」の手柄とされる。そして解決せねばならない問題が立ちはだかると、「意識改革」によってそれを乗り越えるべきだ、という処方箋が出され、其々の自意識は自己を改造することを迫られる。――あなたが苦しんでいるのは、あなたの苦しみから抜け出そうとする意識が弱いからです。私が成功した理由は、未熟な自意識を変革させたからです。社会に出て上手く行かないのは、あなたの自意識が病んでいるからです。あなたが枠組みに上手く収まれないのは、あなたの自意識が甘えているからです。…というように、自意識は常に結果や状況をコントロールする魔法の鍵だと認識されている。そして結果や状況の良し悪しから自意識の貴賎が導き出される。それが日本社会の特徴だ。

「キモイ」問題に関しても同じことが言える。――私は正しく、あなたは間違っている。何故なら、私が、そして多くの者がそれを「キモイ」と感じるであろうからだ、というように、個人の「キモイ」という感覚が、一般的・普遍的正しさの根拠にまでなってしまう。例の「必死だな」もそう。あなたの自意識は冷静さを欠き、私の自意識は冷静だ…よって私は正常であなたは異常である、という論理。主張の内容よりも、まず自意識の在り様が問題とされる。「ネタにマジレス格好悪い」思想が大きな力を持ち続けてきたのは、こういった日本社会の自意識偏重主義あってこそのものだろう。

 ▼(3)人はネタとどのように付き合っていくべきなのか

だが、その自意識偏重主義に支えられた「ネタにマジレス格好悪い」思想の行き着く先はこういう場所だ。

"なりきり厨”による被害…『現実世界で荒川アンダーザブリッジのロールプレイ』

もちろんこれもどこからどこまでが本当なのかは分からないが、仮に本当だとすれば、この場合、複数人によってそれが行われていることから、内輪での盛り上がり、つまりネタとしてそれが行われている可能性も十二分に考えられる。「いや、ネタだから」と。要するに、これは膨張した内輪ノリで外部と接触しようとした「ネタにマジレスするな」派の犯行である可能性も高く、その場合「ネタにマジレスすべきでない」という信念を持っている者は、これを批判することができない。

だが、その所業に巻き込まれた人間からすれば、それがネタかマジかなんてのはどうでもよいことだろう。それよりも、そこで行われた行為自体が問題だ。そもそも、実際のところネタとマジは元々渾然一体となったものであり、ここからはネタでここからはマジというように、綺麗に線引きして分けることはできない。つまりそれを行っている当人ですら、それを厳密に区別することはできない。そのようなあやふやな実感を根拠として物事の良し悪しや可否を判断するのは、余りにも危うすぎる。

…とはいえ、ひたすら行為だけを見て全てを判断していく、という考え方にも問題はある。例えば、「瀬戸大橋の光ケーブル切断してくる」や「小女子を焼き殺す」の場合どうなのか、その程度の書き込みで逮捕までされるべきなのか、そのネタにマジで対応する必要はあるのか、という問いは残る。これは警察側からすれば、万が一何かあった時の責任問題を懸念してのものなのだろうが、何も逮捕まで行かなくとも、注意程度でよいだろう、と。

だがこれはどちらかといえば、どのような原理原則でも、それを絶対視すると良い結果にはならない、という原理主義の問題と考えた方がよいだろう。「ネタにマジレスするな」は、内輪ノリを受け入れろ、ということだが、自分達の内輪ノリは常に受け入れられるべきだとする考え方も、それを受けれるか否かは外にいる者の勝手なので、“そんなものは一切考慮する必要はない”とする考え方も、どちらにも欠陥はある。そしてその時、どちらの原理原則がより大きな問題を抱えているかと言えば、やはり「ネタだから批判してはならない」の方だろう。そもそも、自身がその信念に基づき黙っているのは勝手だが、個人的実感を根拠にして、他人の批判まで禁止しようとするのは無理がある。さらに言えば、そこでは個人の内面を根拠としてその行為の良し悪しや可否が判断されるため、この考え方が敷衍され、より広く普及すれば、場合によっては内面の在り様を根拠として権力側から取り締まられる、という可能性だって出てくる。そういう面からしても、やはりこの原理原則は危うすぎる。

まあそれは今すぐにでも起こることではないかもしれないが(いや、そうでもないのか?)、少なくとも、どちらの原理原則の方が良いと信じるにしても、ネタというのは基本的に内輪ノリでしかない、ということくらいはハッキリとさせておくべきだろう。

 ***

ところで、この問題はもっと掘り下げれば、人は道徳という嘘(ネタ)とどのように向き合って生きていけばよいか、という問題にまで辿り着く。現実には、道徳(嘘)を真に受けて生きていけるほど穏健な場所はそう滅多にない。現代社会では、社会システムを通し、婉曲化された形で生存競争という名の殺し合いが行われている。そこで最も強力な武器となるのが道徳という嘘だ。というのも、社会から道徳的であると判断されなければ生きていくのは難しいが、そのためには道徳を踏みにじらなければならない、という矛盾を道徳は抱えているからだ。

例えば、「他人に迷惑を掛けてはならない」という道徳があるが、実際のところ、他人に迷惑を掛けずに生きていける人間など存在しない。生きるとは即ち、それ自体が他人に迷惑を掛けることでもあるからだ。しかしそれを真に受け、なるべく他人に迷惑を掛けまいとすると、行為は萎縮せざるをえない。そうすると群れにおける社会的ポジションにおいて良い位置を獲得できない。そして「良い位置を獲得できない」とは即ち「人気が無い」ということだから、それを自覚した主体は、自分が誰かに関わると他人の迷惑になる、とより敏感に認識するようになり、人と関わることに大きな後ろめたさを感じるようになる。コミュニケーション原理主義のこの社会において、そのような状態に陥った人間が「生まれて来て良かった」と思えるような人生をつむぎ続けることができる余地など、あるはずもない。そして再び「他人に迷惑を掛けてはならない」という世間の目線で自らを顧みた時、その者は自分で自分の存在意義を否定しなければならなくなる。道徳に感染し、世間の常識に存在意義を依存するようになってしまっているからだ。

つまり、「他人に迷惑を掛けるな」という道徳を他人に植え付けることは、現代社会における最大の迷惑の一つでもある。よって、必然的に道徳をより強く内面化した者ほど淘汰され易くなる。これはあくまで一例でしかないが、全ての道徳は大抵こういう性質を隠し持っている。即ち、道徳というネタを真に受けすぎると生きてはいけない。だが一方で、その道徳という武器によって己の身が守られているという面があるのも事実。

――「批判の自由」というのが道徳であれば、「ネタにマジレスしてはいけない」というのも道徳であり、それは「道徳」対「非道徳」の問題ではなく、異なる道徳同士の競合問題だ。よってこのことは本件の論議に直接関わるものではない。だが、ちょっと付き合い方を間違えると命すら奪われかねない…ネタとはそれほどの大きな影響力を持っている、ということでは共通する面もあるだろう。



※1 瓜田純士、アメブロ強制退会か? 公式ブログに「仕返しに出る」「今晩からでもゲイ狩り」等書き込み - みやきち日記
どうやら次の犯行の予告が行われたようで、やはりネタでもなんでもなかったようだ。まあ、ネタで人を暴行するタイプの人なのかもしれないが、暴行される側からすればそれがネタか否かなんてどうでもいいわけで。しかし「ネタにマジレスするな」派は、これで実際に次の事件が起こったら、だから黙って我慢しているべきだと言っただろう、などと言い出しそうで怖い。

世間の「万能感」に対するダブルスタンダードについて

何か上手く行かないことがあった時に、「全部自分のせいです」みたいなことを言うと世間的にはウケがいい。一般的傾向として、失敗は“全部自分のせい(自己責任)”とする考え方は受け入れられ易い。逆に、上手く行かなかったことの原因を自分以外の要素に求めようとすると、それが「万能感」の症状の表れであるかのように言われ、周りから猛烈なバッシングを受けかねない。だが、実はその一般的主張こそが、世間一般が普段から蔑んでいる「万能感/全能感」を肯定する主張に他ならない。
--------------------------------------

 ▼(1)“全部自分のせい(自己責任)”は「万能感」あってこそのもの

そもそも、「万能感」を持たない人間が、結果を受けてそれを“全部自分のせい”などと認識するはずがない。何故なら、ある結果に導かれたことを“全部自分のせい”であるとするためには、状況を決定付ける最終決定権を自分が握っている、という前提がなければ成立しないからだ。それこそ「万能感」そのものだろう。結局のところ、世間一般で支持され易いこの考え方は、「“俺(お前)が本気を出せば”上手くいったのに、そうしなかったから今のような状況に陥っているのだ」という“俺が本気を出せば思想”に他ならない。“全部自分のせい”は、裏を返せば“全部自分の支配下”でもあるわけだ。

だが、「万能感」が薄い人間は、自分(もっと言えば、それを司るとされている自意識)には状況をコントロールする力など端から無い、と認識している。そのような認識を持つ“無能な自己”が、自らが状況を決定付けるほどの大きな力を持っているなどと認識するはずもないだろう。つまり、“全部自分のせい”という考え方は、むしろ堅固な「万能感」が備わっていて初めて成立するものなのだ。――もちろん、実際にはそんなものなどなくとも、処世術としてそのように振舞われることも多いだろうが。

 ▼(2)何故「無能感」が強い人間ほど「万能感」を持っていることにされるのか

「無能感」が強く、処世術にも長けていない人間が――個別の小さな事柄ならいざしらず――人生のようなより大きな問題や、状況の形成に他者との関係性がより深く関わってくるような問題に関して、「全部自分のせいです」と言い切ることは難しいだろう。というのも、その者の「無能感」が大きければ大きいほど、状況の形成に対する自身の影響力の割合を低く見積もることになるからだ。そうなれば必然的に、残念な結果の原因もまた、自分以外の要素により大きな比重を置いて理解しようとすることになるだろう。ましてや“全部自分のせい”なんて考え方は、「無能感」の強い人間からすれば、自身への過大評価であり、驕り以外の何ものでもない。だが、ある意味謙遜とも言えるその振る舞い故に、その者は世間から強い「万能感」の持ち主だと認識されることになる。

では何故、残念な結果の原因を自分以外の要素に求めようとすることが、「万能感」と結びつけて捉えられることになるのか。それはその者の態度が、変えることが極めて難しい「社会」を変えようとしているのか、それともそれが比較的簡単な「自分」を変えようとしているのか、そのどちらなのか、という二分法によって分類されるからだろう。そして、自分以外の要因に原因を求めようとすることは即ち社会批判であり、社会批判をするのは、己のその批判によって社会を変えることができるという「万能感」を持っているが故だ、ということになる。それが、上手くいかないことの原因を自分以外の要素に見出そうとするのは「万能感」の表れである、とする主張の根拠になっている。

だが、批判というのは別に、それによって他者を変えることができると信じているが故になされているものばかりとは限らないだろう。それによる影響のことなど考えず、ただ納得がいかないから批判することもあれば、批判したつもりなどないのに、周りから勝手に批判したと認識されてしまうことだってあるだろう。或いは、自分の批判だけで変わることはなくとも、多くの者の批判が集まれば…、という希望をもってなされているものだってあるかもしれない。また、中には絶対に変わることがないと思っている事柄に対して行われる批判だってあるはずだ。

それに、批判を「それによって他者を変えることができる“から”するもの」と規定するなら、“失敗の原因を自分以外の要素に見出そうとする者”を批判する者もまた、それによって他者/社会――趨勢から外れる傾向を持つ他者もまた、社会の一部だ――を思い通りにコントロールすることができると信じている者である、ということになり、自らの規定する「万能感」への自己言及にしかならない。つまり、その主張には根本的な欠陥がある。

――そもそも、本当に「万能感」が薄い人間は、社会どころか、自分(自意識)には自己を変革させる能力がある、ということさえ信じることができないだろう。そしてさらに「無能感」が強くなると、自意識が自己を制御しているということすら信じられなくなる(「万能感」の根源は状況と認識の因果の逆転現象。自意識が自己をコントロールしているという考えには、その逆転現象である「万能感」が不可欠となる)

 ▼(3)「万能感」に贈られる二つの正反対の評価

一般的に「万能感」は幼児性の表れとされ、常に糾弾の対象とされている。しかしながら、成熟性や大人の片鱗が、「他人のせいにして当り散らしたけど、本当は“全部自分のせい”だということは分かってる」というような心情で表現されることも多い。つまり「万能感/全能感」は、ある時は未熟な精神の表れとして否定される一方、またある時はそれが肯定され、逆に成熟性の表れとして取り扱われることになる。

では何故そのようなダブルスタンダードが生まれてくるのか。それは、それが用いられる状況によって、その単語が持つ内容が主として捉えられる場合と、イメージが主として捉えられる場合があるからだろう。つまり、それが保持する内容とイメージが分離しているため、そのどちらの面を重視して捉えるかによって、全く異なった二つの評価が生まれてくることになる。それによって、“全部自分のせい(自己責任)”という内容的側面が肯定されると同時に、幼児性というイメージ的側面からは否定されるという、妙な事態が生じてくることになる。

依存巧者ほど自立を標榜するという問題~自立は依存でできている

若者のバイク離れによって起きている事

企業や肩書きに、そして健常者であるという運の良さにどっぷり依存している人間がなぜ「自立していない」ことを理由として他人を批判できるのだろう。しかも、この記事自体が「もっとバイク事故に依存したいです」という内容なわけで。
--------------------------------------

▼自立というブランド


依存をせずに生きていける人間は存在しない。全ての人間は、社会システム、組織・集団、資源、自然環境、文化、様式、マニュアル、世論(人気)、肩書き、或いは思想、巡り合わせ、出自、資質、容姿、経験、目的、そしてそれら全てに深く関わっている運といった様々な要素に依存して生きている。つまり、生きている限り「依存していない」という状態は在り得ず、其々はどのような依存の仕方をしているか、ということでしかない。では自立とは何かと言えば、それは巧妙な依存に他ならない。

依存は概念的なものとしてだけでなく、常に実在のものとしても存在する。全ての生きとし生けるものには、生存のための前提としてまずこの依存が必要になる。が、自立はある特定の依存形態をそのように分類するが故に生じる概念的な存在であり、実際に予め線引きされた枠組みとして「自立」という状態が存在するわけではない。それは一種のブランドのようなものと言っていいだろう。よって、自立を獲得するためには、自己や他者に「自分は自立している」と認識させるような依存形態を獲得しなければならない。もっと言えば、その依存形態にもまたゼロサム的な競合性が関わってくるわけだから、自立という状態は、依存下手な組織や人間に依存して獲得されている、という側面すらある(ex.全ての人間が就活で持続可能な依存先を獲得できるわけではない。となるとあぶれた人間は自立が難しくなる。「バイク事故に依存したい」というのも正にゼロサム的な問題)。

つまり、「自立できない」のは依存の仕方が下手であるが故のものであり、世に言う「自立できていない人間」に突きつけられた本当の問題は、如何に上手くより充実した依存状態を獲得し、それによって現在の依存状態から抜け出すか、ということになる。そして自立とは依存に内包されるものであって、その二つは決して対立するものではない。

そうして考えてみると、依存が上手いが故に自立を獲得した人間が、それを理由として「自立せよ」と言い、他人の依存を批判してみせたりすることが如何に欺瞞に満ちた主張か、ということが分かってくる。というのも、そこで言われる「自立せよ」とは結局のところ、善性を帯びたものとしての≪自立≫と対極にある、悪性を帯びたものとしての≪依存≫を断ち切れということでもあるだろう(そういうイメージが付加されているからこそ、その力を借りるために「自立」や「依存」という単語が重宝される)。しかしながら、自立とは依存の一形態であり、依存そのものなのだから、このような対比は明らかに誤りだ。ここで生じている対立とは、「依存していない人間と依存している人間」という対立ではない。「依存が上手い人間と依存が下手な人間」という対立だ。そこを見誤ると、それ以降の自立/依存に関する議論は、全てがまがい物になる。

 ***


批判対象としての依存から抜け出し、自立というブランドを獲得するには、より充実した依存状態を手に入れなければならない。だがそもそも、「自立できない人間」は元々依存の仕方が下手であり、今以上の新たな依存方法や依存先を見つけることができないからこそ現在の依存状態に甘んじている。つまりそこでの問題の本質は、“依存の仕方が下手な人間がいる”ということであり、そういう人間に幾ら“上手な依存”が前提となる自立を促してみたところで、何ともならないだろう(もちろん、多くの者が「自立しようと思わないからできないのだ」というような自意識原因論・精神論的な条理性を用いて世界を解釈しているからこそ、こういった主張が出てきて、それが受け入れられるのだろうけど)。

そして新たな依存先を獲得することもできないのに取りあえず現在の依存を断ち切れと言うのは、「死ね」と言っているのと同義だ。日本型自殺には、そういうシグナルや、原理的に誤った規範(依存は悪いことである/自己愛は悪である/人に迷惑を掛けてはならない/相手の立場に立って物事を考えなければならない、といった類のもの)を真正面から受け取り、それを内面化してしまうから、ということも大いに関係していると思う。

一方、依存と自立の近しい関係について真剣に考えるほど切羽詰った状況に追い込まれることもなく、そこそこの苦労で充実した依存状態を獲得することができてしまった依存上手な人間は、「依存は悪、自立は善」というような世間的イメージをそのままそれらの概念へと当てはめてその意味を理解してしまうが故に、つまり依存上手であるが故に、他人の依存を悪としてより厳しく批判するようになってしまう。

消えた自己責任×熱狂によって決定される「正しさ」の航路

桂南光氏がAKB商法を批判している動画がYouTubeの話題の動画に上がっていた(――自分が見た直後に消された模様)。そこでの彼の発言は以下のようなものだった。

ゆうたら悪いけど、酷い商売するわけやね。これね、宗教とかね、色んな商売…(?)そんなんをひっくるめた一つのやり方やて。違うて、これごっつ酷い。これはえげつない商売や。秋元康いう奴は、頭(?)このやり方はね、俺は賛成できひん。日本人は駄目になる、こんなことしてたら。おかしい、これは。

これは、人気投票によるメンバー内のポジション争いを「総選挙」と称し、その投票権をCDに添付するというやり方、つまり、購入したCDの枚数分投票権を得られるが故に、場合によっては一人に同じ商品を何十枚、何百枚も買わせることができるという、そういう商売方法に対して向けられた批判だ。

こういったものが「えげつない商売」であることに異論はない。商品そのものを販売するというより、ある種の危機を作り出すことで、その危機から自分が応援する人物を救いたいとか、そこで恥をかかせたくないとか、そういう心情を煽り立て、その気持ちを金の量で示させるそういった商売には、何らかの規制が設けられてもいいだろう。危機を煽って物を買わせるという意味では、根本的には不安商法と変わりないわけだから。
-------------------------------------

しかし、このYouTubeのコメントを見ていると、どうも違和感と危うさを感じた。

というのも、日本は基本的に自己責任社会だったはずだ。本来自己責任という概念は、選択の自由と適切な情報開示が保証された場合に限り成立する、ごく限定的な枠組みだ。しかし、実のところそういった条件が整う状況はそれほど多くはない。というのも、普段の日常生活からして、物理的制限や社会的・道徳的抑圧によって恒常的に自由は奪われているからだ。尚且つこの社会は、常識や道徳などが生み出す嘘の情報で溢れかえっている。それ以前に、「これが最善の選択だ」と思ったことに最大限の努力を払ったことが、最悪の結果を導いてしまったりするのが人生というものだろう。

つまり、人生において適切な情報開示など存在しない(自分は自由意志自体信じていないので、そもそも選択の自由自体が存在しないと思っている。便宜上そういった概念が必要となることは認めるが)。そんな「人生」にすら自己責任という概念が突きつけられるのが、この日本という国の一般的社会規範だったはずだ。

ところが、恐らく数十人もの人間がコメントを書き込んでいたであろうYouTubeのコメント欄は、AKB商法に対する非難で溢れかえっていた。しかし、この商売は倫理的には問題はあるものの、法的には問題がないはずだし、少なくとも、消費者側にもそれを購入することがどのような結果を招くか、という情報開示はなされていたはずだ。貧困ビジネスのように騙しもなければ、それに乗らなければ行く場所が失われるとか、そういう抑圧もない。ただ、商品を買いたい奴だけ買えばいい。買いたくない奴は買わなければいい――自己責任理論からすれば、ただそれだけのことであるはずだ。つまり、「人生」にすら自己責任を適用してしまう日本社会において、こういったやり方が一方的に批判されるというのは、明らかに統一性がない。この事案は、自己責任が成立すると目される、数少ない例の一つであるはずなのだから。

それに、最近は南光氏の姿も余り見なくなったが、以前南光氏がやっていた帯番組などを見ていた自分からすると、南光氏もまた、どちらかと言えば人生にも自己責任を適用するタイプの人間であったような印象がある。何故それが、こういう時だけ急に正反対の論理を唱え始めるのか。非常に違和感がある。

 ***

こういった様子を見ていると、どうもこの国においては理念というものが著しく軽んじられているように思えてならない。そしてそれによって生み出された論理は、単にその時々のイメージの良し悪しによって恣意的に出し入れされているだけなのではないか?だが、それでは対話も議論も成立しようがないだろう。そのことはコメント欄にも表れていた。というのも、そこに存在していた殆どは、論拠を示さないタイプの批判――つまり中傷とも言えるものが大半だったからだ。

確かに選挙っていうには無理が有るな。一人一票のファン投票ならともかく。

投票制度は面白いと思うけど
CDを何枚も買う(買わせる)投票の仕方はいかがなものかと思うな

芸能界やCD業界とかは凄い有難いんだろうけどさ
10代とかの未成年の女の子達を、総選挙とかいうショーレースまでやって
変な気持ち悪い商売してるなあって言うのは同意。これを大人達が倫理上や
彼女達の人権や将来、また商売上どうなのか。カルト宗教などに近くはないかなど
議論や批判。制限していかないといけないだろ。日本は本当こういうのが甘い

ちゃんと論拠を示してそれを批判していたのはこの三つくらいだった。数十人もの人間が書き込んでいたと目されるコメント欄において、たった三つだ。

そして、「そんなことない。これアイドルの基本です」と言ってAKB商法を擁護するような発言をした堀ちえみ氏は、早速バッシングの対象になっていた。おそらく今回のことが原因となって、これからも何らかの機会がある度に叩かれることになるのだろう。

つまり、この国の社会的趨勢における「正しさ」が何によって決定されるのかと言えば、それは人々がその時々に抱く気分と雰囲気と印象、そしてそれに呼応した民衆の怒号とリンチ――即ち、何の理念も持たない空っぽな熱狂、それこそがこの社会の「正しさ」を決定する源となっているんじゃないか?どうも、そのように思えてならない。YouTubeのコメント欄が、理念無き熱狂によって生み出された「正しさ」に支配されていたように。AKBのファンが熱狂による「正しさ」に絡め取られているように。

道徳的抑圧のダシに使われる他国の不幸

あなたの知ってる日本と違う?!データが教える不思議な国ニッポン

「しかしこの国の食料自給率は、たったの40%しかありません。正に外国頼みの食卓と言えますが、それでも人々は、年間2320万トンの残飯を捨てています。それは世界各国の慈善団体が1年間に行う食糧援助の合計、590万トンの実に4倍の量です。因みに現在、世界では10億人が飢餓で苦しんでいます。7人に1人は飢えている計算です。4秒に1人が飢餓が原因で死んでいます」(中略)「それでも日本人は今日もおなかいっぱい食べ、食べきれない分を捨てるのです」(中略)「経済力があり、捨てるほど食料もある日本は、幸せな国のようですが、ここは先進国中トップの自殺率を誇る病んだ国でもあります」(中略)「経済的な豊かさは心の豊かさにつながらないのでしょうか」

<Japan -- The Strange Country>より

別にこの動画自体に直接ケチを付けるつもりはないが、この手の言説を聞くと、どうも釈然としないものを感じてしまう。というのも、こういった事実は大抵その後に、「だから食べ物を残してはいけない」とか、「こんなに恵まれているのに自殺をするなんて甘えている」などと付け加えられ、そういった道徳的抑圧の正当性の根拠として用いられてしまうことが多いので。
-------------------------------------

だが、そこで唱えられる道徳理論は全く馬鹿げたものだ。何故なら、仮に日本人が全ての食料を残さず綺麗に平らげたところで、それによって世界中で飢餓に苦しんでいる人達が救われるわけでもなんでもないからだ。もし飢餓に苦しむ人達がいることを懸念するのなら、「食べ物を残さない」などということではなく、もっと他の方法を取ることを考えなければならない。

さらに、この手の道徳にはもう一つ大きな問題がある。それは、そこでは“恵まれた日本人”と“恵まれない国の人達”という構図にだけしか焦点が当てられないことだ。しかし、資源の奪い合いは何も経済的に豊かな国とそうでない国の間だけで行われているものではない。それは当然、経済的に豊かな国に住む者達同士の間でも、つまり日本人同士の間でも行われている。だから飽食の国と言われる日本においても、飢えに苦しんでいる人間なんてのは幾らでもいる。ところが、遠く離れた国の飢餓問題は度々懸念事項として取れ上げられる一方、国内における飢餓問題はそれとして取り上げられることは全くない。それどころか、国内におけるそれは、恰も存在すらしていないかのように扱われる(貧困は取り上げられることはあるが、それは他国の飢餓問題などとは異なった性質のものとして伝えられているように思える)。

▼(1)国内に飢餓問題は存在してはならない

何故そんな現象が起こるのか。それは、日本人にとって遠く離れた国に住む者達は、資源の奪い合いという争いにおいて、直接的な利害関係の当事者であるという認識が薄いからだろう。その一方で、国内に住む者同士は、お互いそのことが非常に明白だ。

――現代においては、ありとあらゆる資源は既に何らかの組織や集団に囲い込まれてしまっている。よって、その資源を手に入れるためには、先ずその組織や集団に上手く取り入るか、もしくは社会・文化システムを利用して囲い込まれたそれを上手く手に入れる術を身に付けなければならない。現代社会においては、そういう形で資源の奪い合いが行われる。そして幾らこの国に食料が捨てるほど溢れていようとも、社会的にある程度良いポジションを獲得することが出来なければ、或いは獲得したそのポジションを維持することができなくなれば、その奪い合いに敗れ、食料を手に入れることができなくなる。その結果として、飢えの問題が生じてくる。

つまり、もし国内の飢餓問題を解決すべき懸念事項として取り上げたならば、今現在ある程度余裕のある生活を送っている者は、当然その問題の原因と責任の一旦を担っていることになるから、その生活は現状維持、というわけにはいかなくなるだろう。そしてそのことが、多くの者に自身の不利益につながるのではないか、という懸念を抱かせることになる。

実際は、国内の飢餓問題を解決しようとすることは、即ちセーフティネットを強化するということであり、必ずしも国全体として損をするということになるとは限らない。だが、メシウマ現象に代表されるように、どうも日本人は、お互いを同胞として認識するというよりは、むしろ敵対関係としての側面の方を強く意識している。経済的な事柄が絡む問題は特にそうだろう。だから、そういった事柄が絡む問題において、多くの者による理念の共有と合意を必要とするシステムを成立させるのは非常に難しい。

日本人の強い努力信仰(努力の下の平等)もまた、それを阻む大きな原因となっている。努力信仰における努力の摂理に従えば、個人の努力具合は概ね結果として反映されることになっている。少なくとも、不断の努力によって其々に平等に与えられた精神の力を上手く引き出すことができれば、“最低限の人間的生活”くらいは手に入ることになっている。一部の例外を除けば。それによって人々は、努力さえすればなんとかなる、という希望を抱き、苦労を矜持に変えて人生を乗り切っていく。

つまり努力信仰の上では、「資源の奪い合い」に敗れて窮地に陥っている者は基本的に努力を怠った者なのだ。だから、努力の下の平等という原則からすれば、再配分は不公平以外の何ものでもなく、なすべきではない、ということになる。

 ***


もし国内の飢餓問題が表立って取りざたされることになれば、当然その問題を何とかしなければならない、ということになってくる。しかしながら、その問題の解消に向けて動き出すことは、多くの者にとって不利益をもたらすことであると思われている。尚且つそれは、努力の摂理を否定するか、もしくはその摂理の下で不公正が行われることを意味する。その結果、その“解決しなければならないが、解決するわけにもいかない”厄介な問題は、“存在してはいけない問題”として処理される。

▼(2)自国の不幸から目を反らすために取り上げられる他国の不幸


だが、幾らそれが忌避されようと、その問題は厳然として存在し続けている。なにしろ人の生き死にが掛かった問題だ。そう簡単に隠しきれるものではない。

隠しきることもできないし、解決に向けて動き出したくもないとなれば、もうその者達が道徳的に“なっていなかった”からそういう状況が作り出された、として、窮地に陥っている当人達にその原因と責任の全て押し付け、逆に糾弾するしかない。そこで他国の不幸が持ち出されることになる。「あんなに大変な国の人々でも、目を輝かせ、希望を持って生きているのに、お前達ときたら…」というように。

他国の不幸は気軽に取り上げることができる。もちろんそれが国家間の関係において大々的に取り上げられることになれば、日本もそれ相応の負担を迫られたりすることにもなるが、少なくとも、日本に住んでいる会社員がアフリカの飢えた子供達に職を奪われ、衣食住に不自由するなんてことはまず無い。つまりその問題を取り上げたところで、それによって直接自身の生活が大きく変化するという心配はしなくてもよいわけだ。だから、国内におけるそれと違って、遠く離れた国のそれは安心して取り上げることができる。

どこか遠くの国の話で、直接自分の生活に影響を及ぼすことはないという意味では、それはある種お伽の国の話に近いかもしれない。お伽の国のアフリカの飢餓、みたいな。そうであるが故に、国家間の関係において日本がその責任を問われても、特段ナイーブな気持ちになることもない。そういった条件が整っているからこそ、例えば「食べ物を残さない」は、現状を維持したままでできるお手軽な贖罪のための道具として重宝される。そして他国の不幸は、「あんなに不幸な国もあるのに甘えるな」として、自国の不幸を「個人の怠惰」に包み込んで隠すための道具として利用されることになる。

ここでひとつ確かなのは、実のところ、殆ど誰も他人の飢えや不幸など大して気にもしていないということだ。日本人が多くの食料を廃棄処分にするのを止めたところで、世界中で飢えに苦しんでいる人達が救われるわけでもなんでもない。しかし、国内の飢餓問題に目を向けると、それは必ずしもそうとは言えない。例えばコンビニなんかでは賞味期限が切れそうになった商品は基本的にどんどん廃棄処分されることになるが、考えようによっては、それを日本で飢えている人達の下へ届けようとする動きが起こっても、そのためのシステムを作ろうとする動きが見られても全くおかしくないはずだ(もちろんそのためには、様々な困難をクリアせねばならないことになるが)。なんせ、世間では飢餓問題に懸念が示され、「もったいない」を世界中に流行らせよう、などと言っているわけだから。ところが、そういった言説が実際にそのような動きにつながることはない。

つまり、遠く離れた他国の不幸が取りざたされる時、それはその“問題自体”に興味があるからというより、むしろ自国の厄介な問題から目を反らし現状を維持するための、現実逃避の道具として取り上げられていることの方が圧倒的に多い、と考えた方が妥当だろう。

▼(3)国家間の比較を個人に適応するという誤謬

他国の不幸が自国の不幸を隠す道徳的抑圧の正当性の根拠として利用される時、必ず用いられるのが、国家間の比較を個人に適応するという誤謬だ。

国家間における何らかの条件の比較において、「日本人は恵まれている」と言うのなら分かる。その場合において“恵まれた日本人”と“恵まれない国の人々”という構図でものを見るのは決しておかしなことではない。しかし、個々人の問題としてのそれを見るのなら、そのような構図で物事を語るべきではないだろう。何故なら、どんなに恵まれないとされる国でも、一掴みの人間は非常に恵まれた裕福な暮らしをしているかもしれないし、如何に恵まれているとされる国でも、「生まれて来て良かった」と思うことすらできず、ただ苦痛だけを抱えて死んでいく人間もいるだろうから。

つまり、国家という枠組みでの「恵まれている」と、個人という枠組みでの「恵まれている」は全く別問題なのだ。アフリカにはあんなにも恵まれない人々が、などと言われるが、日本にも同じような不幸で死んでいく者達はいるはずなのだから。ただ割合が違うだけで。そして個人にとっては、その割合が低いか高いかよりも、どちらに入るかの方が重要だ。

そもそも、飢餓問題というのは「資源の奪い合い」の結果として生じているものだ。そしてその「資源の奪い合い」がどのような形で行われているかということは、其々の場所や文化によって異なってくる。つまり飢餓問題一つとっても、其々の国では其々異なった事情によってその問題が生み出されている。当たり前の話だが、国内の問題を語る時、遠く離れた国の事情を見てそれを語ってもしかたがない。遠く離れた国のある問題の実情が幾ら酷いからといって、国家としての枠組みで比較的その度合いがましな国のその問題が、個人の努力によって解決するという証明にはならない。そして国家というマクロな枠組みではなく、個々人の問題としてのそれを見るのならば、やはりその枠組みも、国家という枠組みではなく、個人という枠組みで物事を見なければならないはずだ。

ところがこの手の道徳的抑圧が行われる時、国家間の比較というマクロの視点が、個々人というミクロの問題にそのまま適応され、それを土台としてその正当性が語られる。これが意図的に行われているとしたら、かなり悪質だ。

よく、ミクロの問題において「日本人は恵まれている」などという人間がいるが、それは全くおかしな話だ。というのも、「日本人は恵まれている」というのは、あくまでマクロの視点における比較だからだ。だが、言うまでもなく「日本人」は一つの生物ではない。だから、個人という枠組みでそれを見るなら、「私は恵まれている/いない」という比較になる。もし、個人の枠組みにおいて「日本人は恵まれている」と言うのなら、それは「私は恵まれている」ということに他ならない。だが、他の日本人は「私」とは別の生き物だ。それを恰も一つの生物であるかのようにして物事を語るとするなら、それは余りにも滑稽な話だろう。

▼(4)「個人の怠惰」と「心の病」で隠蔽される自国の不幸


この動画においてもまた、「不思議な国ニッポン」の一般的流儀に従い、自殺の原因が恰も「心の豊かさ」の無さにあるかのように仄めかされている。

しかしながら、実際のところその多くは、病気などで現在の生活を維持することができなくなったり、社会のポジション争いに敗れて食料や住居を手に入れることができなくなったが故のものなのではないか。或いは、近い内にそうなることが確実になったからこそ、そして再びそのポジション争いに参加する道を絶たれたからこそのものなのではないか。確かに、「心の病」は自殺に大きく関係しているかもしれない。しかしそれは、「心の病」を煩うから自殺するのではなく、あくまで、それを煩うと社会的なポジション争いや、獲得したポジションを維持することが難しくなり、それによって資源の奪い合いに敗北せざるを得なくなる、という形で自殺と関係しているだけに過ぎないのではないか?

いやもちろん、其々がどのような理由で自殺しているのかということは中々ハッキリとは分からないだろう。例えそれが自分自身のことであったとしても。ただ一つハッキリしているのは、例えどんな人間であろうとも、「資源の奪い合い」に敗北すれば生きてはいけないということだ。そして、衣食住が十分に保証された人間が自殺するのでなければ、それが「心の病」が原因だなどと断定することはできない。つまり、多くの場合「心の病」によって自殺しているのではなく、それによって「資源の奪い合い」に敗北するからこそ自殺しているのではないか。そしてそういった自殺が、結果として飢餓や住居の問題といった、日本における貧しさの問題を覆い隠すことになっているんじゃないか。

日本における貧しさは、「個人の怠惰」によって、そして「心の貧しさ」故の自殺によって隠蔽されている。どうも「恵まれた日本」は、そうやって維持されているように思えてならない。

増殖する「弱者の報い」の伝道師

自分は弱いからこうなって苦しんでいるそして世間はその苦しみを、弱さを克服しなかった人間が受ける当然の報いなのだと言う。それは「正しい」ことなのだと言うその状況に対して異を唱える者も結局はそれを変えることが出来ず、全く無力である力を持たない「正しさ」に一体何の意味があるのか?「正しさ」とは、実際に起こってくるこの状況そのものなのではないかそう、弱さを克服しなかった人間に報いとして苦痛がもたらされるのは、そういう状況が成立している以上「正しい」ことなんだ。私がこうやって苦しみ続けているのも「正しい」ことなんだ。だから私はこの「正しさ」を伝道する。

暴力が立場の弱い者、力なき者に向けられるのは、必ずしも物理的要件だけではなく、こういったある種の道徳(∈宗教)観を熱心に伝道して回る者が沢山いるから、ということもあるのではないか。そしてその伝道師達によって報いを受けた者が、さらに新たな伝道師となってまたその教えを他の者に伝道していく。そうやって鼠算式に伝道師が増殖していった結果生み出されたのが、この自己責任社会なんじゃないかと。

「叩き」の源泉

よく雑誌の商品レヴューなどに対し、スポンサーに気を使った行灯記事だ、というような不満が寄せられているのを目にすることがある。しかし、誰だって職場や職を得る過程で保身のために何らかの太鼓持ち行為をしていたりするだろう。多分、それらの記事はそれと同じことをしているだけなんだと思うが。そもそも、この国の風土(社会――つまるところ社会的趨勢や優位性――を批判する前に自分が変われ)を鑑みると、それが上手く出来ない者ははぶられてニートやひきこもりになるか、もしくは出世して特異な方針を持つ企業の上役にでもなるしかないだろう。或いは、もうこの人なら仕方が無いな、というようなある種の諦めの目で見られるような存在としてそのポジションを獲得するか。
---------------------------------------------

社会的趨勢や優位性への批判は未熟な人間のすることである、という妙な風潮が幅を利かせている以上、保身が必要な場所(集団内)で批判が批判として機能するのは難しいだろう。結局、批判をしたければ、保身を気にする必要がない匿名の場所か、もしくは趨勢側や優位性を帯びた側としてそれをするしかなくなる。逆に言えば、自身がその性質を獲得できないような場所に身を置けば、反論が許されないような形での一方的な批判を浴び続けなければならない。しかしそのような批判を浴び続ければ当然鬱憤も溜まっていく。そして大勢の抱えているそれらが一斉に、自身の安全を保ちながら一方的に批判を浴びせることが出来そうな対象へと向かい、それが「叩き」になる。つまり、「社会に文句をいう前に自分が変われ」という風潮が「叩き」という文化の源泉になっているんじゃないかと。その論理でいくと、叩かれるのが嫌なら叩かれないように変わればいい。叩かれるのはそれをしようとしない者の自己責任、という形で幾らでもその行為を正当化することが出来てしまうし。

――そういえば、「保身でしかない」というのが批判の根拠になるというのもよく考えてみれば妙な話だ。というのも、それが上手く出来ていない者はニートやひきこもりになるか以下略であって、そして稀有な例である以下略組みに入らないかぎり、それは同時に「非社会的」とされ、それ自体が批判の根拠になってしまうわけだから。むしろ保身こそが最も重要なんじゃないか、という。まあ、実際には「保身でしかない」という指摘は、「それは保身の仕方が下手ですよ」という実質的意味を持って機能していたりもするんだろうけど。

≪自然環境≫としてのハラスメント~「ヤンキー」は「大人」の一形態

義家弘介氏は、「ヤンキー」などではなく、いまや「へたれ」そのものだ

 しかし今日も、義家さんは延々と、今年の卒業・入学式における日の丸掲揚・君が代斉唱の実施状況を仔細に明らかにせよ。全部の学校で全部の生徒に歌わせろと迫っておりました。これがあの「ヤンキー先生母校に帰る」で有名になった人の末路かと思うと情けなくなりました。かつて義家氏は「ヤンキー先生」と呼ばれた北星余市高校在職中に雑誌「世界」の特集で、「教育現場に『日の丸・君が代』を持ち込めば、道徳教育を徹底すれば、日本人としての自覚や、国際協調の精神が培われると、文部科学省は本気で思っているのか、ということである」と述べていました。

 そして「安心しろ。卒業式には、お前たちを邪魔するものは何もない。卒業式のシンボルはお前たち自身だ。そしてテーマソングはお前たちが最後の学園祭で、大声で歌ったあの歌だ。胸を張ってあの舞台に立て。お前らは俺の夢だ!『なあ、みんな、学校は好きか?』」と呼びかけていたのです。それが今では、正反対の立場を国会の演壇から声高に叫ぶような人間に成り下がってしまったのですね。

まあ、学園祭で形式以上の意味が付加された青春の歌を大声で歌わされるよりも、純粋に形式的なものとしての君が代をボソボソ歌う方がまだましだ、とも思ってしまうが。というのも、前者の場合、その行為に妙な意味が付加されてしまっている以上、本気で歌っている素振りを見せなければその場の和を乱す者として青春野郎に糾弾されかねない。「お前たち(俺達)」のノリに従わなければ趨勢側から敵として認識されかねない。というか、合唱コンクールの時に実際にそういう経験をした。普段ふざけているくせに、ああいう時だけやたら乗り気になって、「真面目にヤレ!もっと口を大きく開けてでかい声を出せ!」と言い出す厄介なヤンキーがいたりするから。というか、先生自体もそういうノリだったりする。そういう熱血野郎のせいで合唱コンクールがただの大声大会になってしまうのが日本の音楽教育レベルの低さをよく物語っているわけだが。そこでの音楽は、「私はみんなと一緒に一生懸命物事に取り組んでいます」というような、社会的順応精神を育成することを目的としたイニシエーションのための宗教的道具に成り代わってしまっている。まあ、西洋音楽の発展の歴史は宗教(キリスト教)の発展の歴史と切っても切れない関係にあるので、ある意味それは千年後れくらいで西洋の歴史を追体験しているだけなのかもしれないが。

その一方、君が代なんかはドリフのオープニングにおけるいかりや長介みたいな調子で歌っていてもあまり文句を言われることはない。だから「まだましだ」になるわけだが、とはいえ、君が代に形式以外の妙な精神的意味を付加してしまう者がその場を支配していれば同じ結果になってしまう。こんな風に↓

asahi.com(朝日新聞社):橋下知事「思想の自由言ってられない」任命式で

 君が代斉唱は橋下知事の指示で今回の任命式から始められた。知事は「君が代歌えましたか。歌詞わかってますか」と新人職員に問いかけ、「僕が感ずるところ、まだ声が小さい。日本国家の公務員ですから歌うことは義務。しっかりお願いします」と語った。

こんなところにまで大声大会を持ち込んでしまう人間がいる。しかし、単に形式としての行為の有無だけでなく、権力側がその「歌い方」で下の者を査定するようになれば、それはもはや権力側が扱いやすい人間とそうでない人間を振り分けるための踏み絵として君が代を利用しているということにしかないだろう。態度の良し悪しなんてものは、権力側が恣意的に判断できてしまうものでもあるわけだし。つまり、形式的な行為として何かを要求するのと、その形式的行為に何か特別な意味を付加し、その意味を共有することを強要するというのは全く別のことなのだ。

 大阪府庁では、知事部局の新規採用137人の任命式があった。君が代斉唱などの後、橋下徹知事は「思想、良心の自由と言っている場合じゃありません。国家・国民を意識してもらうため、今後事あるごとに国歌斉唱を求めていきたい」と訓示した。

何が「思想、良心の自由と言っている場合じゃありません」なのかさっぱり分からないが、国家の基本原理である「思想、良心の自由」を否定――国歌斉唱に形式以上の一定の意味を付加し、その共有をパワハラ的に要求――している以上、むしろ橋下知事こそが国家に対する逆賊的存在であるということだけは確かだ。もちろん、その逆賊的行為が良いことなのか悪いことなのかという評価は其々で異なってくるだろう。しかし、国家を大儀としながら下の者に逆賊的要求を行うというのはなんとも妙な話だ。いや、それがそのまま世間に受け入れられてしまうことの方がもっと奇妙だけど。
----------------------------------------------

で、再び冒頭の「ヤンキー」についての話に戻すと、そもそも、強きと馴れ合い弱きをネタにしてのし上がろうとする性質こそがヤンキーの最大の特徴だと思うのだが。リンク先の記事を書いた宮本氏は、ヤンキーに妙な幻想を抱いているんじゃないか。それこそ少年漫画に描かれるソレのような。

暴れても骨を絶たれることがないような状況では趨勢の側から嫌な顔をされても意に介せず平気で暴れまわる一方、暴れると本当にヤバイ状況ではおとなしくしているか、むしろその場を支配している者に擦り寄る。そして社会的・経済的成功や一般性を獲得したあかつきには、過去の自らの悪行を「やんちゃ」「若気の至り」と表現を和らげながら自慢しつつ、或いはネタとして笑い飛ばしながら、獲得したそれを根拠にして、他人を道徳という武器で追い込む。それが出世ヤンキーの典型的行動パターン。お笑い芸人の多くも大抵こういうタイプの「ヤンキー」上がりだ。

どうもこの国では、社会的地位や経済的成功を手に入れると「更正」したことになり、生き方を変えたかのような前提で話が進められる。しかし実のところ出世ヤンキーは、脅しの対象を趨勢の側の趣向に沿った形で選び抜き、そのための道具を道徳を大儀とした社会的抑圧に持ち替えただけであり、その生き方自体は全く変わっていなかったりする。長田・杉浦姉妹がその良い例。単にカツ上げの的を絞り、それで生計を立てているだけだろう、という。

つまり、彼らの振る舞いや主義主張には全く一貫性が無いように見えても、実はその一貫性の無さは、上記のようなヤンキー特有の現状追従主義的行動原理を貫き通した結果だったりするわけです。

義家弘介氏は、「ヤンキー」などではなく、いまや「へたれ」そのものだ

義家さん、あんた「ヤンキー」ちゃうやろ、あんたはなあ、同じく大阪起源の言葉で言うたら「へたれ」そのものやんけ。

まあだから、そういう意味からすれば義家氏は正真正銘の立派なヤンキーであると言えるでしょう。というか、「ヤンキー」が畏怖される一方、「へたれ」は蔑まれるというこの風潮にこそ、本当に重大な問題が潜んでいるんじゃないかと思うのだが。

 ▼≪自然環境≫としてのハラスメント

例えば、「ヤンキー」が「イジられキャラ」にハラスメント(「いじめ」よりもこちらの表現の方がしっくりくるのでこちらの表現を使う)を行った場合、それによって「ヤンキー」側は周りから畏怖の念を抱かれたり、笑いのネタを提供することで人気を獲得する一方、「イジられキャラ」は「へたれ」として蔑みの目で見られることになる。本来ならハラスメントを行った側の方が蔑まれてしかるべきなのにもかかわらず。逆に、自身が「イジられキャラ」であることを素直に受け入れ、それを上手く利用して地位を確保するような割り切りの良さや要領の良さを持った者は、「へたれ」とは認識されず、蔑まれることもない。

こういった成り行きには、社会的環境があたかも自然環境と同等のものであるかのように認識されてしまうという社会的風土が大きく関係しているように思う。自然環境に不平不満を言ったところでどうにもならないだろう。もちろん人間は常にその自然に手を加え続けてきたわけだが、そうそう簡単にそれを都合よく改造できるわけではない。例えば、地震のような自然災害や天候に不平不満を言ったところでどうにもならない。だから人間は自然の猛威を前提として受け入れ、それとどのように付き合っていくか、ということを考えなければならない。だが、社会的環境までもがそれと同等の扱いがなされてしまった場合、実際にそこかしこで実権を握り、その力を利用して無茶な要求やハラスメントを行う者が存在する以上、それは「自然」と同義であり、それを批判して変更を促すよりも、その環境を前提とし、それに如何にして順応するかということこそ考えなければならない、というような教義が導き出されることになる。つまり社会的環境と自然環境は同義であるという認識を前提とした場合、「≪自然≫としてのハラスメント」が起こるような環境に如何に上手く馴染み、順応することが出来るか、ということこそが成熟した大人になるための最も重要な課題である、ということになる。

これがさらに――社会的困窮状態にある者は、環境に対する不平不満ばかり言って現実を受け入れようとしない未熟な自意識を持っていたが故にそのような状況に陥り、そして抜け出せないでいるのだ、というような、多くの日本人が共有しているであろう非常にポピュラリティーのある――自意識原因論的な現実解釈と重なり合わさることで、むしろハラスメントを行った側よりもそれを受けた側の自意識(つまり人格)の方が問題視されることになる。それによって、ハラスメントを受けた側の方が、「未熟な自意識を持っていた者」として蔑まれることになる。この考え方は、社会的優位がそのまま「≪自然環境≫=現実」としての正当性を持ってしまい、歯止めが掛かりにくいため、やがてそれはどんどんエスカレートし、一方の側に過度の是認を与えてしまうことになる。「弱い者は自分の好きで弱くなったのだから、もっと強く踏みつけてやればいいのよ(by金美齢)」というように。

 ▼透明化する「ヤンキー」~「大人」問題としての「ヤンキー」問題

もちろん、ハラスメントを行う側よりも受けた側の方が蔑まれるという状況は、他にも様々な要因が重なって起こっているのだろう。例えば、イメージの良し悪しで物事の正誤が決まってしまう文化的背景とか――それによって、ハラスメントを行った側と行われた側は其々、畏怖、勇猛さ、能動的、というイメージと、惨めさ、格好悪さ、受動的、といったイメージに置き換えられ、それらが比較対照された結果、良いイメージの方が「正しさ」を獲得してしまう。

ただここでは、自らを取り巻く社会的環境の欠陥や矛盾に疑問を持つよりも、それをそのまま「現実」として受け入れ順応しようとすることにこそ最大の注意と努力を払わなければならない――それができるか否かで、その者が成熟した大人であるか否かが決まる、という考え方の方に注目したい。こういった考え方は、「大人」の定義として最も一般的なものだろう。しかしながらこの定義が持つ「大人」理念は、ただその場に於ける社会的状況の潮流を読み、その流れに上手く乗ったり利用したりすべきであるという単なる処世術的教訓でしかなく、現状追従主義でしかない。これは実質的には、その者が「大人」であるならば、それが潮流である以上、論理的欠陥を持った要求や二重規範にも疑いを持たず、柔軟に受け入れなければならない、ということでもあるだろう。逆に言えば、冒頭の義家弘介氏や橋下知事のように、実際にその者が権力を握り、大勢の者達からの支持を得ている以上、そうした要求を突きつけることも「大人」理念からすれば「正しい」ということになる。その理念に照らし合わせて物事を見るならば、「できてしまうこと」は「正しい」ことなのだから。少なくともそれができてしまううちは。

しかしながらこの理念は、前半部分で述べたようなヤンキー特有の行動規範と全く同じ性質を持っている。つまり、「大人」と「ヤンキー」はその根本において同じ行動理念/原理を共有している。もちろん、だからといって「大人」と「ヤンキー」はイコールではないだろう。「ヤンキー」はあくまでその行動原理/理念を貫いた結果として表れる一つの文化傾向だ。だがその存在は、「大人」の行動理念を実践し続けている以上、「大人」の一形態であることは間違いないだろう。そしてその行動原理/理念にこそ問題があると思っている自分からすれば、「ヤンキー」問題はそのまま「大人」問題であり、「大人」問題は「ヤンキー」問題でもあると思えるわけです。そしてその行動原理/理念に納得がいかない「へたれ」の一人である自分としては、まるで「へたれ」をそのような行動原理/理念を持つ存在であるかのように扱う一方、「ヤンキー」を反骨精神の象徴であるかのように扱う主張を見ると、どうしても違和感を感じてしまう。

 ***

学生時代はあれほど沢山いたヤンキー系の者達が、大人になると忽然とその姿を消してしまう、という現象がある。これは単にそういう者達との接触の機会が少なくなったということもあるだろう。しかし「ヤンキー」が消失する理由はそれだけではないはずだ。一方で、行動原理に迷いのない「ヤンキー」ほど大人社会での出世が早い、という現象が存在することも忘れてはならない。つまり、多くの「ヤンキー」は「ヤンキー」でなくなったわけでもなんでもなく、「ヤンキー」特有の行動原理を貫いた結果、「大人」が持つ一般的傾向へと収斂していっただけなのではないか。そしてその結果、表面上の文化的特徴が失われ、透明化しただけなのではないか。

というか、学校や地域社会というコミュニティー内での社会的優位性を利用してパワハラを行う「ヤンキー」と、経済社会での地位や肩書きを利用してパワハラを行う「大人」。この両者に一体どのような内容的違いがあるというのか。幾ら姿形が一般性を帯びていても、いじめられっ子としての時代を送って来たことによって備わった自分の「ヤンキー探知機」がビンビン反応するわけですよ。世間の「大人」達に対して。

いつも以上に疎外感を感じる日

だったなあ、エイプリルフールは。
他人が盛り上がっているのを見れば見るほど気分が盛り下がるよ。
クリスマスとかは別に何とも思わないのにねえ。

そんな中で唯一興味を惹いたのがこれ↓

http://www.megavideo.com/?v=JNBN8R5S

『インディー・ジョーンズ』の公式ページが『サウスパーク』に乗っ取られて、『インディー・ジョーンズ』をネタにしたこの回の動画がトップに貼り付けられていたという。まあこの動画自体はエイプリルフールとは直接関係ないわけだけど。

しかしこの風刺はそのまま今の日本の状況にも当てはまるなあ。チャイニーズ・フォビアとか「非実在青少年」規制とか。

  ***

それにしても、アメリカは暴力描写に対する規制が強く、『ドラゴンボール』のようなものまで問題視されることもあるというが、こういうのは大丈夫なわけか。それだけゾーニングが進んでるということか?

しかしこういうタイプの風刺は、日本では絶対に無理だなあ。だって、幾ら日本でゾーニングが進んだとしても、宮崎駿が幼女を脅して――いいから脱げ、何も言わずにやれ。ほらほら、叫んでごらん。ブタのように叫んでごらん。叫んでみろ、ほら、叫べ。「私をこのソープで働かせてください!」と叫べ。大声で叫べ、大声だ――みたいな風刺は絶対許されないもんねえ。いや、それって「非実在少年」を使って本人がやってることそのまんまなんだけど。

千と千尋の神隠し (徳間アニメ絵本)千と千尋の神隠し (徳間アニメ絵本)
(2001/09)
宮崎 駿

商品詳細を見る


↑「普通の感覚」の潮目を見極め、それが持つであろう他人へのコントロール欲――即ち道徳――を上手く利用して正当化すればこうなるだけであって。

その一方で、権威性を手に入れることも潮目も上手く読むことも出来ないロリ達は、そのコミュニケーション能力の低さ故に政治的に稚拙な態度でしか相手の批判に対抗することが出来ず、宮崎駿の分まで集中砲火を浴びることになる、と。これがロリと「名誉ノーマル」の違いですよ。要するに、本当は背景に理念やロジックなんて無いわけです。

――こういったことは別にこの問題だけに限ったことではない。例えば、今まで散々非道徳的な行いをしてそれをネタにのし上がって来た、一般性から遠く外れた位置にいたはずのお笑い芸人が、権威性や社会的成功手にした途端、今度は異端性から一般性や道徳に武器を持ち替え、持ち前のコミュニケーション能力を使い、「みんな」の代表として「みんな」から疎外された存在を抑圧し始める、というのはよくあるパターンだ。そして今度はそれをネタにすることで己の求心力を保ち始める。理屈で考えると全くおかしなことだが、実際、その道徳的欺瞞は概ね世間に受け入れられている。

現代社会の最大の権力者は、政治家でも官僚でも大企業のトップでもない。それは「普通の市民」という主体無き群集だ。そしてその群集の「普通の感覚」こそが本当に深刻な抑圧やハラスメントを生み出す。それこそが現代社会の権力構造の在り様であり、克服されるべき問題点だろう。それ故、「普通の感覚」が持つ無根拠な横暴さや横柄さ、その滑稽さを暴き出してみせてこそ、風刺は本来の機能を果たすことになる。ところが日本の場合、「普通の感覚」の側からそうでない者を嘲り哂うという形でしか風刺はその姿を現さない。というのも、日本では「普通の感覚」がある種の信仰対象になってしまっているから。要するに、それは不人気者への一方的なハラスメントにしかならない。

いや、まあ風刺が機能したからといって別に住み良い社会になるわけでもなんでもないけど。

民主主義というより、感覚趨勢主義×「キモい」という正当性

・上からの圧力でマスゲームをやらされるのが北朝鮮。
・民意の盛り上がりによってマスゲームを強いられるのが日本。

…みたいなことも言いたくなるな、国母選手バッシングを見ていると。今回の騒動は、元々他人に対する暴力的な発言を繰り返していたことが発端となって行われた亀田バッシングとも全然出自も違うわけだし。

それにしても、先住民、つまり異質な文化への尊重と共生をテーマとして打ち出していたバンクーバー五輪で、異質な文化どころか、ちょっとズボンをずらして履いていただけの男が、趨勢の側の望むような態度を取らなかったというだけで袋叩きにされる事件が起こるというのは、何とも皮肉な結果だ。
---------------------------------------

彼へのバッシングは、「服装の乱れ」とそれに伴う謝罪会見での態度の在り様が発端となって行われているようだが、実際のところ、具体的に何が悪くて批判されているのか、という論理的な理由が全く示されていない。

批判の根拠とされているのは、常識から外れる、世間体が悪い、代表としての自覚や誇りに欠けている、和を乱す、などだろう。しかし、例えばリンチが行われる現場では、リンチを行うことが常識となっている。そしてそれに加担する者は、その場所での世間体を考え、地位を守るためにそれに加担していたりする。そういうことから考えても、常識や世間体は何かの正しさの根拠にはならない。

また、代表としての自覚や誇りに欠けている、というのもおかしな話だ。彼は自分は代表選手だと“思っている”わけだから、当然「自覚」があることになる。インタビューなどから、彼は彼なりの理念があってオリンピックに出場していたということも明らかだ。あのファッションだって、誇りがなければ態々あんな格好をしないだろう。「そういうことじゃない」と言う人もいるかもしれないが、それ以上の「自覚」や「誇り」の内容は、個々人の感覚に拠るものでしかないだろう。初めから全ての人間に共有された真理としての「自覚」や「誇り」なんて無いわけだから。そして「個人の感覚」は好き嫌いの根拠にはなり得ても、批判の根拠にはならない。

それは「和」に関しても同じことだ。どのような形が「和」として望ましいものであるかということは、個々人で其々異なっていて、全ての者が納得するような「和」の形なんてものは存在しないだろう。ということは、「和」の在り様もまた数多存在するということであり、単に自分の感覚に依拠した「和」の形と照らし合わせてその状態が相応しくないというだけでは、批判の根拠にはならない。

要するに、これら批判の理由として挙げられているものは、全て個人の感覚に依拠するものでしかない。つまり結局のところ、その個人の感覚に「不快感を抱かせた(≒迷惑を掛けた)」ということがこの批判の本当の理由なのだろう。しかし、単なる「不快感」が批判の正当性になり得ないのは皆百も承知だ。だから、「常識」や代表としての「自覚」、「誇り」の欠如、という何となくそれらしい(しかしやはり個人の感覚に依拠するものでしかない曖昧な)理由に置き換えてそれが主張される。税金が云々と言う批判もあるようだが、それとて、個々人の快感・不快感の趨勢を根拠として税金が払われたり払われなかったりするわけではないので、やはり的外れなものでしかない。

晴耕雨読の信之介: 国母問題についてのスノーボードチームコーチの説明

どの団体に所属していても選手はほぼ100%プロのスノーボーダーです。しかし日本でオリンピック選手になるには全日本スキー連盟に選手登録をしてFIS 公認の大会を優先的に出場しなくてはなりません。プロとしての活動が全日本スキー連盟の選手登録をすることでかなり制限されてしまいます。全日本の選手として海外遠征中に現地で大きなプロの大会があったとしても、出場は不可能です。
オリンピック出場にからむFISのワールドカップが競技レベルで最高のものかというと残念ながらそうではありません。
問題点はスノーボードの強豪がそろうアメリカはこういった垣根無く選手にとって(賞金額も含めて)最良のイベントを選択して出場してくるという点です。アメリカ選手はFISのワールドカップには出場権を得るための最低限の出場をしてさっさと出場権を勝ち取りあとは高額賞金のイベントに出るのです。日本の選手たちに強いアメリカの選手と常に同じ舞台で戦わせて競わせたくても全日本スキー連盟や日本オリンピック委員会の意向で不可能なのです。

そもそも、むしろ彼はお偉いさんの意向によって賞金獲得の機会を奪われてすらいる。そしてその意向に沿って大きな大会に出場することを自粛しながらも、自分の技術で大会への出場権と金を勝ち取ってきた。よって、税金が云々と言ったところで、別に彼のパトロンでもなければ、ましてや普段から特にスノーボードに興味すら持っていないような者達にゴチャゴチャ文句を言われる筋合いはない、ということになるだけの話だ。

まあ謝罪会見での態度が悪かったのは事実だが、確固たる理由も示されず、ただ世間の感覚的趨勢から外れる着こなし方をしていたという理由だけで入村式への参加を拒否され、出場停止の脅しまでかけられて謝罪せざるを得ないような状況に追い込まれれば、ああいう態度を取りたくなるのはむしろ自然なことなのではないか。それでも彼が生粋の嘘つきであれば、その「自然」を押し殺し、心の中では舌を出しながらも、最初の会見でもっと上手く立ち回ったことだろう。だが彼は嘘を付くのが下手だった。

もし彼が正直者でなければ、これ程大きな騒動になることも避けられたかもしれない。また、元々彼が感覚的趨勢の側にいれば、そもそもこんな批判を浴びることもなかっただろう。要するにこの社会は、常に世間の感覚的趨勢の側に拠って立ち、そのためにはそれに対して表立って異議を唱えたり疑問を投げかけたりせず、何かおかしいと思っても、場所によっては平気で嘘をついたりすることが出来るような、そういう術を身に着けていないと酷い目に遭ってしまう、そういう性質を持っている。

――正直、自分は彼の様なタイプの人間は苦手だ。というのも、過去の経験から、ああいうタイプの人間がもし自分の傍にいたら、その者によってきっと嫌な目に遭わされていたに違いない、と連想してしまうからだ。だから彼のようなタイプには余り良い感情は抱かない。とはいえ、実際に彼自身に嫌な目に合わされたことはないわけだし、過去の経験と連想、そして彼の持つ属性だけを理由にして、彼を批判することは出来ないだろう。嫌いだと言うことは出来ても。もし彼が何か問題のある行動や発言をしたならば、その時、その理由で批判をすればいいだけのことだ。

そうでもないのに、ただ彼が持つ属性やそこからなされる連想だけによって彼への批判に乗っかるなら、それは、例えばメディアなどで作り出された「ひきこもり」像やたった数行の文章などごく限られた情報に触れただけで、まるでその属性を持つ者の内面の全てを見通しているかのように言う――その限られた情報によって自身の内部に作り出された仮想人格を外部の実体と混同しながら、虚構の世界に逃げているなどと言う――そういう類の人間となんら変わりないということになる。

▼感覚的趨勢がそのまま正当性の根拠に置き換わる

晴耕雨読の信之介: 国母問題についてのスノーボードチームコーチの説明

別に日本政府が、または全日本スキー連盟が、または日本オリンピック委員会、が選手に出場権を与えている訳じゃない。

とはいえ、オリンピックは幾ら奇麗事で取り繕っても、その内実が「ナショナリズムの祭典」であるということは否定出来ない。よって、こういった国家との自己同一化から生じる代表へのイメージコントロール問題というのは、恐らく他の国でも抱えていることだろう(日本とは異なった形をして)。だから、それ自体は別に特別な問題ではないのかもしれない。

ただ問題だと思うのは、このような問題が起こった時、日本では(国家という大きな枠組みはもちろん、其々のコミュニティにおいても)感覚的趨勢がそのまま“何の理屈もなく”正当性の根拠に摩り替わってしまう、ということだ。そしてその時、その正しさ、もしくは誤りの訴えは、「世間(社会)」という実体を持たない曖昧な集合体のものとして提示される。それによって、発言の一貫性や責任の在りどころは実質的に匿名化され、消し飛んでしまう。例えば、今回の件では国母選手の側の態度は問題視され、責任を問われたが、それを批判する側の態度や暴力性に焦点が当てられたり責任が問われたりすることはない(際立った犯罪性を伴わない限りは)。批判の手法やその根拠となる正当性を精査し、その情報を今後に生かそうとする大きな動きが起きることもない。要するに、視線が完全に一方通行なのだ。

そもそも、曖昧な集合体としての「世間/常識」の代弁者達とは、積み重ねのある議論は不可能だ。それどころか、バッシングが「世間/常識」を後ろ盾にして行われることによって、まるでそれが自然現象か神罰であるかのような性質を帯びてしまう。そしてその正当性の根拠は元々感覚的な趨勢であってロジカルなものではないが故に、理屈による反論の機会は端から奪われているに等しい。また、それは自然・社会という、個人を超越した意思(つまるところ神のような存在)として捉えられているが故に、それを批判することは神への冒涜に近い意味合いすら持ってしまう。そういった背景を持つ社会で、注目度の高い人物、及び注目度の高い場所にいる人物がそれをするのは、決して賢明な行為とは言えないだろう(次はその人物がバッシング対象にされる可能性が高い)。

国母選手の服装問題、文科相も苦言 「代表の自覚欠く」(NIKKEI NET)

 川端達夫文部科学相は15日の衆院予算委員会で、バンクーバー冬季五輪スノーボード男子ハーフパイプ代表の国母和宏選手が服装の乱れで批判された問題で「代表の服装としては全く適切ではない。極めて遺憾だ」と批判した。

民主主義とは本来、其々が出来るだけ(前提となるルール上で)自由に意見を出し合い、活発な議論を交わすことで物事の正誤やルールを決定していくもののはずだろう。仮にも民主主義を標榜する国の文部科学相であれば、むしろそのことこそを促すべきであり、また、確固たる理由も無く雰囲気だけを後ろ盾にして行われているバッシングにこそ遺憾の意を述べるべきだろう。ところが、日本ではその議論の過程が省かれ、個々人の持つ感覚的趨勢がそのまま正当性の根拠に成り代わり、いきなり力を行使し始める。そして教育の長であるはずの者までもが、「賢明な行為」としてそれに加担する。感覚的趨勢自体が正当性の根拠であるが故に、そこから外れるものは、そのこと自体でもって誤りとして処理されるわけだ。よって、一般的傾向とそこから外れる個人との間で何か問題が起こった時、その問題の焦点はもはや、その個人が感覚的趨勢の側に収まるのかそうでないのか、ということに移り変わっている。

尚且つ、日本では個々人の自意識が世界の在り様を決定しているという精神論(セカイ系)的思想が一般的なものとして普及しているので、それは個人の自意識の問題へと置き換わる。そしてそうであるが故に、問題はさらに自意識批判、つまり人格批判へと移り変わっていくことになる(何か問題が起こったり上手く行かないことがあれば、その問題の原因は基本的に個人の自意識にある、と捉えるような文化を持つ社会がストレス社会になるのは当然だ)。

感覚的趨勢がそのまま正当性の根拠となり、全ての問題を自意識(人格)の在り様と結びつけてしまうそういった社会で、自由に意見を出し合ったり、議論と言えるようなものを成立させたりするのは極めて難しいだろう。趨勢の威勢が増す、注目度の高い問題になればなるほど、その難易度は増す。「趨勢から外れたら叩かれるに決まってるのに、敢えて自分の意思でそうしたのだから、その人格が世間によってバッシングされるのは自己責任※1」というような論理で動いている社会なわけだから。それは趨勢から外れる意見は出すな、と言っているのに等しい。要するに、日本は民主主義というよりはむしろ感覚趨勢主義である、と言った方が適切なんじゃないかと。

▼「キモい」という正当性

そしてそういう視点から見てみると、自身の暴力的行為の正当性を訴える時に、何の理屈もなく、いきなり「キモい」という最も感覚的に強烈なニュアンスを持つ単語を持ち出してくる者がいるという「キモい問題」も、そしてそれが実際にある程度の力を持ってしまうことにも、説明がつく。感覚的趨勢を形成してしまえば、その「キモい」という感覚自体が、同時に暴力の正当性の根拠になってしまうわけだから。

――NHEのオリンピック中継など、「心優しい国母選手」とか、彼の自意識に対して良いイメージを想起させることで悪いイメージを相殺し、バランスを取ろうとしていたところもあったようだ。途中から見たので、何が「心優しい」のかは分からなかったが。

「国母は命を救ってくれた」 スノボ仲間が語る素顔(asahi.com)
もしかしたらこのエピソードなのかな、とも思うが。

しかし、彼へのバッシングに問題を感じた時、そのバッシング自体の正当性を問うのではなく、悪いイメージに良いイメージで対抗するというのは、全く象徴的だ。日本的な文脈で言えば、それは正解と言えるだろう。だがそれは同時に、そのベクトルは逆であっても、イメージを根拠として行われるバッシングと根っこの部分で繋がっている性質のものであるとも言えるのではないか。何故なら、もしイメージを取り繕うための材料を見つけ出すことが出来なければ、その者はバッシングされても仕方が無いと認めているようなものだから。

例えばそれは、キモいから虐められて当然なんだと主張する者に対し、いや、彼にはこんなキモくない一面もあるんですよ、だから虐めを止めましょう、といっているのと同じことだろう。本来その二つは分けなければならないことなのに。

 ***

もちろん、日本のように感覚的趨勢によって押し殺されるという状況もあれば、理詰めで押し殺されるという状況も当然ある。そしてどちらに重きを置くにせよ、最終的には他人の感情に如何に上手く受け入れられるか否かということが問題になるわけだから、必ずしもどちらの方が良いとは言い切れない。ただ今回の件では、日本における「民主主義」とは、結局のところ「国母選手がついた綺麗な嘘」みたいなものでしかないよなあ、とつくづく思った。



※1 バッシングをする側からすれば、自分は趨勢から外れて叩かれないような努力を日々しているのだから、それをしない人間は叩かれて当然であり、むしろそうならなければ不公平だ、みたいな思いがあるのかもしれない。しかし些細なことでバッシングをするということは、その努力のハードルと自らが叩きに遭う可能性を自分自身で高めていることになる。

我慢という自傷×「祭り(バッシング)」はメンヘルの社会的拡張形態

ニコニコ生放送でとうとう リスカ したやつがでたらしい:【2ch】ニュー速VIPブログ(`・ω・´)

これ、リスカ云々以前に、ただのネットリンチ事件のようにも見えるが。そしてリンチを受けた者がそれに耐え切れなくなってにリスカをしたら、今度はまたそれが呼び水になってさらに「祭り」好きな者達が集まって来て、その者をバッシングするという構図。こういうのを「日本スゲー」って言うんだっけ。違うか。
---------------------------------------------

▼(i)人間は基本的にパラノイア

それはともかく、ここで気になったのは「構ってちゃん」の使われ方※1

「構うなバカ」というコメントを態々バカでかいgifファイルに置き換えて強調しておきながら、「祭り」用ブログで取り上げるという欺瞞もどうかと思うが――そもそも、全く見ず知らずのその人物に自ら掲示板やブログやブコメを通して関わりに行っておきながら、そこでその者を「(まるで自らが構わされる被害を受けた/受けさせられるかのように)構ってちゃん」呼ばわりするのは、正に「ぶった者がぶたれたと言って泣く」行為そのものだろう。つまり、内面に思い描かれた当該人物に構わされる想像上の“誰か(被害者)”と自分とを混同してしまっているのだ。そしてまるで自分が実際には行われていないその架空の行為の被害者であるかのような態度がそこでは取られている※2。そういう立場で、向こうから構ってもらいに来たわけでもない全く見ず知らずの人物に自ら積極的に関わりに行っている。

 ***

だがこうした混同やそれ故の振る舞いは別に珍しいものでもなんでもない。ここで殆どの人間がそのパラノイア的解釈を追認してしまっているのを見ても分かる通り、我々は普段大して意識もせずに、わりと普通にこういったパラノイア的振る舞いを行っている。要するに人間は基本的にパラノイアなのだ(「パラノイア性」∈「共感能力・想像力」)。

ただ、それを発症する者が多数派である場合、それは「変」にはなり得ないから、「普通(≒正常=非パラノイア性)」ということになる。つまり、その場所でごく普通に存在している数多のパラノイア的振る舞いによって振るいに掛けられた非一般的な振る舞いだけが、パラノイア的であると認識されているに過ぎないのではないか、と。

▼(ii)内に向けば自傷、外に向けばバッシング

 *(1)我慢という自傷*

さらにこの手の騒ぎを見ていつも思うのは、バッシングとリスカの内実に一体どれほどの違いがあるのだろう、ということ。

人は自分にとって好ましくないものや状況と遭遇した時、不安や恐怖、気持ち悪さなどを感じ、それによってストレスを獲得することになる。このストレスを獲得した状態というのは、エネルギーがその者の内部に蓄積されている状態と言い換えてもいいだろう。この状態を他の現象で言い表してみるならば、例えば缶詰が火にかけられて熱せられているような状態。

一人の人間の中でそのような状態が起こってしまった時、そのエネルギーを気分転換や忘却という方法で気化させたり、或いは趣味や仕事など何らかの作業に打ち込むなどして上手くそれを昇華(流用)出来れば何も問題ない。しかし、実際には中々それだけではストレスを消化し切れないことも多い。しかも、多くの人間は継続的にストレスを獲得し続けなければいけない状態に置かれている。全ての人間が、獲得するはずのストレスを上手くいなしたり吸収したりすることが出来る能力を持っていればいいのだが、実際はそういった能力を持っている者ばかりではない。さて、ではある人間が己の処理能力を超えるようなストレスを抱え込んでしまった場合、その後どのような流れが考えられるか。

一つには、我慢という状態が作り出されることが考えられる。これは蓄積されたエネルギーをとにかくなるべく外に出さないようにして押さえつけておき、それが自然と消耗していくのを待ち続けるというもの。だが無理してそれを抱え続ければ、その分だけそのエネルギーによって内側からダメージを受けることになる。何故ならそれは、蓄積されたエネルギーのベクトルを内側に向ける行為でもあるからだ。即ち自傷。呼び方は異なるものの、我慢と自傷は内容的には同じものなのだ。そしてそれは更なるストレスの再生産にも繋がる。

もう一つ考えられるのは、とにかくエネルギーを外部へと放出してその緊張状態を抜け出そうとする状態への移行。これの一番単純な形態は八つ当たりと言われるものだろう。しかしそれが八つ当たりであると自身や周りが認識してしまうと色々と差し支えが出てくる。それによってさらなるストレスを獲得してしまう危険性も高い。よってその多くは、まず何らかの大儀とそれに関連した「的」を見つけ出すという手順を踏んだ上で行われる。そしてこれが所謂バッシングや「正義の戦い」となる。――他人に迷惑を掛ける(大儀)おかしな「メンヘル」(的)は叩かれて当然だ、というように。

 *(2)*

これらを踏まえた上で再び冒頭の「構ってちゃん」問題を見てみる。先ず、「構ってちゃん」という表現がネガティブな意味で用いられているのは誰が見ても明らかだろう。つまり、あそこで「構ってちゃん」を用いている者の多くは、他人に構ってもらおうとするのは悪いことであるという考えを持っている。ところが実際には、その者達は別に相手から頼まれたわけでもないのに、全く見ず知らずのその人間――恐らくその関わり方を迷惑がるであろうその対象――に態々関わりに行っている。要するに自ら率先して「構ってちゃん」行為を行っている。

この場合、その者の内部には、他人に構ってもらおうとすることが悪であるとする自己と、他人に関わりに行かずにはいられない自己の二つが同時に存在している。もしこれを内部完結しようとするならば、この二つの自己はお互いに衝突し合い、自傷へと至るだろう。そしてそういう状態に陥った者特有の態度は、しばしば「メンヘル」と言い表される。だがこの場所では概ね、両者のエネルギーは《内部にいる他者》ではなく、《外部にいる他者》へとそのベクトルが向けられている。それによってそのストレスは自傷ではなくバッシングへと導かれた。所謂「メンヘル」になるのではなく、「祭り」の参加者となった。

リスカについても考えてみる。リスカが行われるということは、その者はそれ以前から既に我慢という自傷状態に突入していたと考えられる。しかし、我慢という自傷は基本的にその者の内部で行われるもの。もちろん、その者が置かれた状況やその所作などから見て「我慢(自傷)しているな」という憶測は出来るものの、それはあくまで憶測の域を出ない。つまり外からその様子を具体的には観察出来ない。だが、リスカというのは(それでその者の苦しみの大きさが測れるわけではないが)外からも具体的にその様子を観察することが出来る。何故かと言えば、それは同じ自傷でも、精神が肉体を傷つけるという具体的暴力を行使しているからだ。同じ個人が持つものであっても、意識と肉体もまた他者同士なのだ。そしてこの場合、そのエネルギーのベクトルは他人には向けられていなくとも※3、ある意味「外部」へと向けられている、と言うことが出来るだろう。

 *(3)*

要するに何が言いたいかといえば――実際に行われたそれらの行為は別ものとして扱うべきであるにしても――自傷とバッシングは、どちらも「元々抱えている/新たに獲得した」ストレスを上手く処理することが出来ないという同じ状態・問題を出自とし、それを解消するための手段として行われているものであるということ。その意味では、この二つは同じ性質を持った行為であると言える。

とりわけリスカとバッシングは、《自分の肉体という他者》に切りつけるか、他人にコミュニケーションという武器で切りつけるかの違いでしかなく、それらが持つ内実は非常に近しいものなのではないのか。そして日々「祭り(バッシング)」に参加したり、それを捜し求めて放浪したり、それを起こそうと焚きつけたりすることは、己の処理能力を超えるストレスの処理(と同時に生の実感や自尊心の獲得)を「祭り」に依存しているということであり、それはつまり、一般的に個人的なものとされるメンヘル的振る舞いが、より社会的に拡張されたものに該当するのではないか、と。

▼(iii)どこまでを内と見て、どこまでを外と見るか

それに加え、内と外の枠組みをどのように設定するかという視点を設けて見ると、自傷とバッシング、「メンヘル」と《祭り人》が如何に近しい存在かということがより明確になってくる。

 *(1)*

唐突ではあるが、『範馬刃牙』という格闘漫画…の皮を被ったギャグ漫画の中に、こんなワンシーンが登場する。――「地上最強の生物(笑)」である範馬勇次郎が、用あって米軍施設の正面門にやってくる。当然、施設を守る門番の米兵達は勇次郎が施設へと侵入することを阻止しなければならないわけだが、何せ相手は核爆弾を使っても倒すことが出来ないであろうと言われる「地上最強の生物」だ。戦いを挑めば殺されるし、その性格からして、己の役目を放棄して逃げ出しても殺されるだろう。そのような進退窮まる状況に追い詰められた門番達は、どうしようもなくなった挙句、仲間同士で必死になって戦いを始める…。

範馬刃牙 11 (少年チャンピオン・コミックス)範馬刃牙 11 (少年チャンピオン・コミックス)
(2008/01/08)
板垣 恵介

商品詳細を見る

うん、なんておバカなシーンなんだろう(と言っても、この漫画はずっとこういうシーンの連続なのだが)。…とこれを最初に見た時は思った。だが、この場面は案外自傷という現象を上手く可視化しているという部分もあるのではないか。というのもこの場合、「門番」という枠組みを作ってそこで内と外を分けて見ると、この門番同士の戦いは「自傷」として見ることも出来るからだ。

前にも後ろにも進めない。かといってただ突っ立っていれば向こうから命を奪いにやってくる。そのような窮地に立たされれば、当然ストレスはどんどん溜まっていく。死を前にしながら、もはやそれを我慢することくらいしか出来ない。だが我慢というのは、ストレスを外へ出そうとする自己とそれを押さえ込もうとする自己の内なる戦いであり、自傷である。門番達は仲間同士で殴り合う(バッシングする)ことでその状態を抜け出したわけだが、「内」の枠組みを個人から「門番」にまで広げてみると、それもまた「自傷」ということになる。

件のネットリンチも、この状況と似ている。あの場合、組織化された民衆の集団リンチに対して個人として戦いを挑んでもまず勝ち目はない。かといって組織を作ってそれに対抗させる能力も(恐らく)持っていなかった。そして逃げても彼らは追いかけて来る(つまり逃げられない)。じゃあそこで出来ることは何か。リンチで獲得したストレスを上手く昇華出来るのはよっぽどのマゾか、もしくは「よく訓練された出川哲郎」くらいのものだろう。つまるところ実質的選択肢としては、我慢するかネットから姿を消すかしかない。しかし、もし彼女がネットでの活動に自尊心(存在意義)を依存していたとしたら?そうだとすれば、もうひたすら我慢するしか方法はない。そしてその自傷はやがて精神的な枠組みを超えて精神と肉体の戦いとなり、可視化された。門番達の殴り合いのように。

 *(2)様々なメンヘル形態*

では、この内と外を分ける枠組みを集団――何らかの集まりやコミュニティ、属性、或いは国民という枠組み――にまで広げてみるとどうなるか。そうしてみると、その内部で行われるリンチや社会的バッシング、メシウマなどもまた、枠組み内で行われる「自傷」ということになる。つまりリスカやバッシングというのは、内と外を分ける枠組みをどこに設定するかによって呼び名が変わっているだけの同質行為として見ることも出来るわけだ。これは逆に言えば、所謂「メンヘル」的振る舞いと《祭り人》的振る舞いの違いは、同じ内実を持つそれがどのような形態になって表面に表れ出でているかの違いでしかない、ということにもなる。

☆メンヘル形態1(所謂「メンヘル」):

     被害(ストレスの獲得)
---------------↑---------------------
            ↑            ↓←←「的」の発見by《祭り人》
依存→「存在意義の確認作業(∋触れ合い)」 --------↓---------
        ↑            ↑            ↓
  「リスカ(可視化)」∈「個人的自傷=我慢」→「特有の所作/表現」
                     ↑
             「ストレス/自尊心飢餓」→昇華


☆メンヘル形態2(《祭り人》):

    被害(ストレスの獲得/自尊心の裂傷)
------------------↑---------------------
              ↑
 「バッシング/社会的自傷(∋触れ合い)」∈「祭り」→昇華
           ↓                 ↑   ↑
  依存→「存在意義の確認作業」   「ストレス/自尊心飢餓」

向こうから関わりを求めて来たわけでもない見ず知らずの「メンヘル」に自ら構いに行きつつ、その相手を「構ってちゃん」と行って非難する行為はパラノイア的であるということは既に述べた。しかしそれだけでなく、実はそのような形で行われる「メンヘル」叩きは、それそのものがメンヘル的振る舞いの一形態でもあるのだ。

さらに言えば、バッシングやメシウマ、説教ナルシズムといった生贄を必要とする「祭り」はもちろん、もっと他のポジティブな――といってもそれは別の誰かにとってはネガティブなものであったりするのだが――「祭り」であろうとも、ストレスの解消や生の実感、自尊心の獲得などをそれら(「祭り」)に依存している以上、その者は立派なメンヘルであると言えるだろう。「ごく普通に存在している数多のパラノイア的振る舞いによって振るいに掛けられた非一般的な振る舞いだけが、パラノイア的であると認識されている」のと同じように、それらは余りにも普通であり過ぎるが故に、メンヘルであると認識され難いという違いはあれど。

 *(3)再生産されるメンヘル行為*

だがそのような(「メンヘル」であると認識され辛い)一般的メンヘル――「祭り」――行為は、むしろ所謂「メンヘル」がもたらすそれ以上に深刻な被害を人々にもたらすことも少なくない。というのも、それらのメンヘル形をなす者は所謂「メンヘル」よりも人数的に圧倒的に多く、その行為は集団として行われることが多い。尚且つ影響を及ぼす範囲もまた広範で、全く見ず知らずの者にまでそれは及ぶ。よって必然的にその被害もまた、より広く、より大きなものになる傾向がある。つまるところ、所謂「メンヘル」と一般的メンヘル形態のどちら側に転んでも被害は生まれる。そしてその被害は新たなメンヘル行為の燃料となり、それを再生産することになる。

▼(iv)メンヘル問題≒「祭り」を捨てられるか問題

 *(1)「メンヘル」と《祭り人》はコインの裏と表*

結局メンヘル問題の根本とは何なのか。それは、周囲の環境との関係によって作り出された状況により、その者が処理能力を超えるストレスを獲得してしまったり、自尊心や生の充足感を獲得出来なくなって難渋してしまうことだろう。そしてある者はそれを我慢してやり過ごそうとし、ある者は他人に触れ合いを受け入れてもらうことでその不安定さをカバーしようとする。またある者はバッシングやメシウマ、説教ナルシズムといった「祭り」に参加することでバランスを保とうとし、ある者は宗教やイデオロギー、及びそれらによる結びつきによってまとまりを得ている集団に所属することによって、その不安定さを解消しようとする。そうやってメンヘルは様々な形に派生していく。

だから、例えば「祭り」に依存することでそのバランスを保っている者がその手段を奪われてしまえば、その者は所謂「メンヘル」、もしくは他の何らかのメンヘル形態に変貌せざるを得ない運命が待ち構えている。一方、所謂「メンヘル」が社会的評価を受けた途端、今までと打って変わって典型的な《祭り人》へと豹変したりする現象があるのはよく知られているが、その場合もまた、その者が再びその社会的評価を失い「祭り」への参加資格が剥奪されてしまえば、またもや裏返って「メンヘル」へと逆戻りすることになるだろう。「メンヘル」と《祭り人》は、お互いにそういったコインの裏と表の関係にある。そして根本の部分が改善されない限り、単にその裏と表を行ったり来たりするだけにしかならない。

 *(2)*


その個人と環境との間で一定の状況が整ってしまっている以上、その部分が改善されない限り、その者のメンヘル問題もまた解決しない。パラノイア的なものでなく、実際に所謂「メンヘル」被害を受けた人も当然いるだろう。しかしその行為者に「「メンヘル」行為を止めろ」、と言ったところでどうにもならない。バッシングに依存している《祭り人》に「バッシングを止めろ」と言ったところでどうにもならないのと同じように。

そもそも、所謂「メンヘル」を問題視する者の中にも、「祭り」に依存することで「メンヘル」にならずに済んでいる人間が相当数含まれているはずだ。「祭り」への依存はごく一般的なものであり、むしろそれに依存せずにいられる者の方が少数派だろうから。つまり、所謂「メンヘル」でない多くの者が「メンヘル」行為を問題にする時、それは己自身が「祭り」を捨てることが出来るか、という問いになって自らに跳ね返ってくることになる。その「祭り」は「メンヘル」を再生産している面もあるのだから。

よって、一般的な傾向を持つより多くの者にとっての最も身近なメンヘル問題とは、「祭り」を捨てられるか問題ということになる。そしてその問題に取り組むことこそが、ひいては所謂「メンヘル」問題に取り組むことにもなる、というわけです。



※1 そもそも、この社会で「構ってちゃん」でない人間が普通の社会生活を送ることなんて不可能だと思うが。むしろ「構ってちゃん」であることが脅迫的に求められるのが今の社会なわけで(ex.「俺なんか100社近く面接受けてようやく試験に通ったぞ」「何事も自分の方からアクションを起こして働きかけないと駄目」)。この「構ってちゃん」騒動にしても、それによってその対象の動向を肴とするコミュニティを形成し、お互いが構い合うための場を作る行為でもある。先ず「構ってちゃん」ありきなのが現代社会なのだ。ところがその構ってもらいぶりが下手だと「構ってちゃん」と呼ばれて問題にされる一方、それが上手い「構ってちゃん」エキスパートは「構ってちゃん」とは決して言われることはないという…。

※2 厄介なことに、この混同で獲得したストレス自体は嘘ではなかったりする。

※3 その様子を積極的に他人に見せようとすることは、その時点で厳密には外部へとそのベクトルを向けているとも言えるが。

全体主義は競合する

これは完全に怨霊の仕業だろ。釣り人が65人水死した港で会社員3人が行方不明。:【2ch】ニュー速VIPブログ(`・ω・´)

ここの南堤の先はもう本当に凄い。今ぐらいの季節がまたいい。


大物がガンガンかかる。250人氏んだって言っても

毎年何万人も釣りに入ってるんだから、氏亡率は1%程度。


100人居て一人氏ぬかどうか。それなら釣らなきゃ損じゃね?

『俺は、釣りのためにこそ死ににいく』みたいな。
-----------------------------------

しかし、この「釣りのためにこそ死ににいく」行為は随分とバカにされているようだが、《何のために》生き、《何のために》死ぬかなんて人其々のはず。当人がそれを死を賭してまで行う価値があるものだと思っているのならば、それは愚行とは言えないだろう。「釣りのためになんか死にたくない」と思う人間がそれをすれば愚行だが。

 ***

個人の《何のために》よりも「社会/国家のために」を上位に置き、本来人によってバラバラであるはずの前者の内容を後者に従わせて画一化しようとするのが全体主義。

全体主義というと何か特殊な思想であるかのように思える。だが、個人の《何のために》よりも「社会/国家のために」を上位に置くべきであるとする思想は極めて一般的なものだろう。同じように、極めて一般的で説得力があるとされている「他人に迷惑を掛けるな」というセリフも、そういった前提があるからこそ力を持つことが出来る。

というのも、その者が身も心も他人の奴隷になり切っていない限り、生存の意識的基盤となっている《何のために》よりも他人の望みである「他人に迷惑を掛けるな※1」が上位に来ようはずもないので。もちろん、何らかの共通の目的を持っている者同士がその目的に於いて「迷惑を掛けるな」と言うのならばそれは無理のあるセリフではない。だが、元々《何のために》が著しく異なっているであろう者同士の間に於いても、当たり前のようにそれが受け入れられる/受け入れるべきであるという考え方は、全体主義的な思想の支えがその後ろに無ければ(無理筋としてしか)成立しない。逆に言えば、そのセリフが一般的なものとして説得力を持っている社会には、それだけ全体主義的な思想が浸透しているということでもある。

つまり、日本に於いて(恐らく世界的に見てもそうだろうが)全体主義は極めてメジャーな思想であると。

 ***


但し、多くの者が全体主義思想を持っている日本が実際に全体主義国家となっているかと言えば、流石にそこまでは言えないだろう(もちろん、個別の事柄や集団に於いては既に全体主義的になっている部分は幾らでもあるだろうが)。

では何故そうならないかというと、それは其々の持つ全体主義思想そのものが競合しているからだ。一言で「社会/国家のために」と言っても、そこで指し示されている社会/国家とは、あくまで“其々が思い描く、よって実際には多様な”社会/国家でしかない。

だから、全ての人間が全体主義思想に染まったからといって、その国が全体主義国家になるとは限らない。多くの人間が全体主義思想を持つことと、その思想の中にある「社会/国家」の内容が一つのものに収斂されることや、《何のために》をそれに従わすべくするシステムが実際に具現化して動き出すことはまた別の話なのだ。



※1 生存競争という一面がある以上、生きるとは他人に迷惑を掛け続けることでもある。また、《何のために》が画一化されることがない以上、それらもまた競合し、お互いに迷惑を掛け合うことになる。即ち、元々社会は誰かが誰かに迷惑を掛けることを前提として成り立っている。「迷惑」もまた社会の一部。「他人に迷惑を掛けてはいけない」と本気で思うのならば、その者はこれ以上他人に迷惑を掛けないようにサッサと死ぬか、もしくは自分が掛ける迷惑に対する強力な鈍感力を身に付けるかしかない。

所謂「情報の非対称性問題」

例のバイク王の話だけど。

なぜ中古バイク買い取りは、大量宣伝しても儲かるか(プレジデント)

 普通のバイクショップは、買い取った車両を整備して店頭で販売する。同社はそのバイクをオークション運営会社に持ち込んだ。このカラクリこそ中古バイク買い取りビジネスが儲かる秘訣である。オークションでは即時決済。さらに在庫の負担なしで多額のキャッシュを得ることができる。
 オークション価格以下で買い取れば、買い手を心配しなくても落札されれば、赤字にはならない。キャッシュリッチなうえに、極めて手堅いビジネスなのである。(中略)こうして今では主要オークション取り扱い台数45万6000台のうち約15万台を出品する文字通りの“バイク王”になった。

要するにバイク王って、「普通のバイクショップ」と違って個人から買い付けを行うタイプのセドラー集団なんじゃないか。そしてそれは売る側から見れば、ヤフオクの代行を、下手すれば売れた値段が還元されないかもしれないような形でやってもらっているということでもある。
---------------------------------

そういうことを考えてみると、金銭的な面だけを考えれば、一番いいのは自分でヤフオクをすることだ。どうせ整備もしないんだから、どのみち商品の質は変わらない。とはいえ、ヤフオクに不慣れな人間は、いちいちそれ一品だけのためにノウハウを覚えてまでそのシステムを利用しようとは中々思わない。

だとすれば、最初から普通のヤフオク代行業というものがあれば、そちらに任せた方がいいようにも思う。そして予め、例えば「代行手数料幾らとオークション手数料幾ら、そして売却価格の何パーセントを戴きます。事故車であるなど、後から意図的に隠された瑕疵が発覚した場合、その責任は情報を隠していた側が負うこととします」というような契約内容が知らされていれば、双方の間に生じる情報の非対称性問題はある程度解決され、明朗会計化してトラブルも減るんじゃないか(実際にやってみると、それはまたそれで色々とトラブルが生じてくるのかもしれないが)。

元々、一方が相場を知らされない/事前査定と現地査定での提示価格に極端な差が出る/査定は無料で価格に納得しなければ売らなくてもいいはずなのに、中々それをさせてもらえないような状況が作り出される、などの隠されている情報の存在がトラブルの大きな原因の一つとなっているわけだから。

まあそれだとどうしても商売としての旨みは減ってしまうのかもしれないが、少なくとも後ろめたさを感じる必要のない「労働」を作り出すことは出来るはずだ※1



※1 勿論、ああいう商売の仕方をする人達は元々後ろめたさを感じる感覚が鈍く、それを払拭する必要性も感じてはいないだろうけど。

物が売れない一つの理由として

やたら狭いワンルームマンション住まいの人が増えたから、ということが挙げられるような気がする。置く場所が無ければ幾ら物が安くたって買い控えてしまうだろう。

これは不況のせいで広い家に住めなくなったというより、人間生活の最低ラインを低く見積もることを全く厭わない日本人の文化意識があってこそのものだと思う。その結果定番化した住まいの蛸壺化――それは目先の経済性を優先した結果なんだろうけど――が今になって足かせとなって表れ出てきている…という面があるのではないかと。

いずれにせよ、住まいの蛸壺化は成長期の間になんとか解決しておくべきだった。だが、「働くために生活している」というのがこの国の常識。最低ラインが下方修正されることはあっても、それを押し上げようとする社会的意思が働くはずもない。その意思をこそ働かせるべきだったのに。この怠け者め。

「現実物語」への収容という問題

朝青龍頭突き!塩攻撃!子供相手に“やりたい放題”



扇情的なタイトルも伴って、この写真だけを見ると朝青龍が稽古をつけるという名目で子供を虐待しているようにしか見えない。

朝青龍頭突き!塩攻撃!子供相手に“やりたい放題”(別バージョン)

「土俵下の付け人に子供をキャッチさせる「人間キャッチボール」などの荒技を披露し観客を沸かせた。」

しかし後者の方を見ると、実際にはちゃんと向かいに子供を受け止める役の者がいたことが分かる。これはその一連の流れの一部分を切り取ったものだったのだ。実際この「人間キャッチボール」なるものをニュースで見たが、この写真ほどのインパクトは無かった。要するにこの写真が持つインパクトは、枠の外が隠されているが故のものだということ。そしてこれは同時に、これを見た者がその限定された情報から勝手に意味を拡張し、その妄想で枠の外を埋め合わせるが故により大きなインパクトを獲得している、とも言えるだろう。…とはいえ、その埋め合わせは妄想であっても、そこで獲得された驚きの感情自体は嘘とは言えない。
-----------------------------------

結局、人間の人生もまたこの写真のようなものなんじゃないか。

巷では何か事件が起こるたびにその当事者達にまつわる様々な情報が掻き集められ、それによって多くの者達が納得し易いような何らかの分かり易い設定や背景が作り出される。その上で精神分析の専門家とやらがその当時者達の内面を勝手に言い当て、この人間はこういう意識を持っているからこうなったのだ、というような物語化や人物のキャラクター化が行われていく。或いは其々が対象者と自分の些細な共通項を見つけ出し、同じような状況に於いて自分はこういう心持ちをして失敗/成功した――だからあの状況で失敗/成功したあいつはこのような心持ちをしていたに違いない、というように、自身の個人的経験や感覚から導き出された物語の文脈に勝手に他人を当て嵌め、それで恰もその者達の内面が理解出来たかのように錯覚してしまう。

しかしながら人間は、決して他人の経験や意識、感覚を知ることは出来ない。また、幾ら情報を掻き集めようと、ある結果が生み出されるまでに至る因果の糸を解きほぐし、その内容を見極めるようなことも決して出来ない(ましてや、その因果の糸を一個人の意思が操って結果をコントロールしているなんてことはまず考えられない)。つまり人間は――原因と結果が一対一で繋がっているような状況だけを限定して見るならともかく――「人生」というより大きな括りに於いては、幾ら頑張ってもこの写真のような断片的情報しか入手することは出来ない。だからこそ、その枠の外を知りようがないからこそ、人は現実に驚き、恐れおののく。

…ところが。にもかかわらず、まるで現実に於ける因果のあらましが詳しく把握されているかのような前提を持った物語が生み出され、それが「現実」として取り扱われてしまう。そしてその物語の中では、決して知ることが出来ないはずの他人の内面が易々と言い当てられる。

これは冒頭の写真の例に置き換えてみると、枠の外が勝手に妄想で埋め合わされ、恰もそれを事実であるかのように錯誤してしまっている状態と言っていいだろう。

――例えばドットの集合で作られた何らかの絵から幾つかのドットを抜き出し、そのドットだけを見て元の絵を知ることが出来るか?いや、それは無理な話だろう。我々が現実から入手することが出来る情報もまたそういうものだ。だから誰も元の絵を知ることは出来ない。ところが問題なのは、その抜き出したドットを使えば、其々が勝手に自分の都合のいいような絵を再構築することが出来てしまうということだ。そしてそうやって作り出された絵をまるで現実であるかのように錯誤してしまう――その抜き出されたドットが現実の断片であるが故に。その錯誤に実感が伴っているが故に。ちょうど、あの写真自体は現実とまでは言えなくとも、あそこから獲得された驚きの感情自体は事実であったように。その実感があるからこそ、それを真実であると信じてしまう。

 ***


だが、現実から切り取られた断片はもはや現実でもなんでもない。絵から抜き出されたドットがただの点でしかないように。自前で用意したドットで作った物語(漫画や小説、映画など)と、現実から抜き出したドットで作った物語(ワイドショー的精神分析や精神論的・自己啓発的成長物語)。元となる材料は違っていても、どちらも虚構であることには変わりない。

巷ではよく「虚構と現実の区別が付かない」などと言われるが、その錯誤性に於いてより大きな問題を内包しているのはむしろ後者の方なのではないか。ところが、前者の「虚構としての虚構」が持つ危険性が広く喧伝される一方、後者の「現実という名の虚構」は全くその危険性が唱えられることはない。それどころか、むしろ人々はその社会で人気を博す「現実物語」の良き住人として振舞うことが強く要請される。そして其々の個人が置かれた状況は、全てその物語の文脈の上で解釈されてしまう。

こういった風潮は本当にどうにかならないものだろうか。いやもちろん、こういった妄想が社会生活を営む上で重要な役割を果たしているということも分かってはいるが…(例えば文化は妄想の共有。そういった妄想の共有が無い者同士でコミュニケーションを取り合うのは難しい。というのも、コミュニケーション上の情報は大抵その共有を前提として、内容が著しく省かれていることが多い。その省きによってよりスムーズに意思疎通を図ることが出来る。だがそれを共有していない者は、そうであるが故に周りから奇異の目で見られたり、病気扱いされたりすることになる)。

「地方自治体教室化計画」、或いは「みんなCPUにな~れ」


「ネットがあれば政治家いらない」 東浩紀「SNS直接民主制」提案


ネット上では結構賛同意見も多いようだが、これも改革神話の一つのバリエーションなんだろうか。こんなことしたら普通に国全体が2ch化するだけだと思うが。そして民意至上主義により、其々が自由に意見を言い合うことを担保する最低ラインがぶち壊され、独裁政権が生み出されるというお決まりのパターンへ、というのが相場だろう。
---------------------------

というか直接民主主義というのは、学校の教室や田舎の地域社会など小さなコミュニティでは限定的にではあるがもう既に成立しているだろう(ローカル・ルールが法律よりも重んじられることは珍しくない)。要するにこれは、それらを拡張すること、或いはそこからその限定を取り払うことを意味するのではないか。しかしそんなに素晴らしい場所だっただろうか、あそこは。自分にとっては正にリアル2chみたいな場所に思えたが。リンチが制度として合法化されたりしそうな予感。戸塚シティに長田シティ…考えただけでぞっとする。

あ、そうか。教室や地域社会が素晴らしい場所であったと感じる人間がこれに賛成し、そうでなかった人間が反対しているのかもしれないな。

まあ現代的な社会空間で苦々しい思いをしている人間が、その苦しみや抑圧の原因を作っているのは官僚でも政治家でもなく、また大企業の重役でもなく、実は普通の市民という名の群集(及びそれらが生み出す文化)なんじゃないか、という疑問を持たざるを得なくなるという点では面白いけど。つまり、その場所での苦しみや何かが上手くいかない原因として、「普通の市民」という主体(権力者)がはっきりと浮かび上がり、それが「敵」として認識され易くなる。

だからきっと、加藤智大が起こしたような不特定多数の市民をターゲットにした事件や自殺(「(市民≒その構成員としての自分≒)制度」化された個人のアポトーシス的作用)が増えることになるだろう。

 ***

なんにせよ、これは「政治家いらない」というより、むしろ全員が政治家としての(コミュニケーション)能力を求められると言った方がいいだろう。とはいえ、全ての人間がそういった能力を持っているわけではないので、結局それに対して優位な能力を持つ一部の人間が新しいタイプの「政治家」になるだけにしか思えない。

統率(リーダー)役が要らないシステムを作ろうとしたら、先ず前提として其々に(様々な分野に於ける)最低限の能力的平等が成立していなければならない。だが、そもそもその前提が成立していないことが問題なわけで。

「民間思考なら」役人は省益や庁益を追求しても「当たり前」

公務員を批判する際のお決まりフレーズ、「民間なら」に関しての記事なわけだが、言いたいことはもうタイトルに尽きる。

だって「民間なら」自分や自分の依存する組織の利益を第一に考えて行動するのは「当たり前」じゃない。もし公務員が自分達の利益のために本来の役割を蔑ろにしていたとすれば、それはむしろ「民間企業じゃないんだから」と言うべき。ましてや「労働法、守られないのは日本だけ」に象徴されるように、順法精神が極めて低いのが日本の民間企業。それをいいことに、「民間だってやってる」と開き直って官が堂々と違法行為を始めたら益々不味いことになるだろう。

 ***

要するに、公務員を批判する際の「民間なら~」というフレーズは全く見当違いの批判であり、それは「あいつらだけズルい」というひがみ根性か、もしくは「俺達はこんなに苦労しているんだぞ」という自身の精神論的ステージの高さを他者にアピールするためのものでしかないということ。

しかし、そもそも「競争社会」である以上、民であれ官であれズルい奴が得をするのは当たり前。法を逸脱するというルール違反を彼らがしているのならともかく、殆どの者が「競争社会」という社会の在り方に好意的である以上、審判の目を掻い潜った「ズル賢いプレー」はむしろ賞賛されるべきことのはずだ。また、民間はこれだけ苦労しているんだぞ、という苦労自慢に関しては、メンヘルがリスカや自殺未遂を繰り返すことで自身の苦痛の大きさを確認したり他者にそれをアピールしたりするのとなんら変わらない。大きな苦労をした者の精神ほど尊い、という精神論的宗教を信奉していない者からすれば、(良い悪いは別として)赤の他人のそういったアピールは単に鬱陶しいだけだろう。

場所によって問題化の仕方は異なってくる

ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判(時事ドットコム)

 【ロンドン時事】進化論を確立した英博物学者チャールズ・ダーウィンを描いた映画「クリエーション」が、米国での上映を見送られる公算となった。複数の配給会社が、進化論への批判の強さを理由に配給を拒否したため。12日付の英紙フィナンシャル・タイムズが伝えた。
 映画は、ダーウィンが著書「種の起源」を記すに当たり、キリスト教信仰と科学のはざまで苦悩する姿を描く内容。英国を皮切りに世界各国で上映される予定で、今年のトロント映画祭にも出品された。
 しかし、米配給会社は「米国民にとって矛盾が多過ぎる」と配給を拒否した。米国人の多くが「神が人間を創造した」とするキリスト教の教義を固く信じている。ある調査では、米国で進化論を信じるのは39%にすぎず、ダーウィンにも「人種差別主義者」との批判があるという。

この話題がkizasi.jpの「今日の注目の話題ランキング」で一位になっていたので、それらのブログをざっと見てみると、まるで鬼の首でも取ったかのようにアメリカをボロクソに言っているようなものが殆どだった。しかしながら、日本人で進化論(有力な学説)を熟知…とまではいかなくとも、それを正しく理解をしている人なんてかなり少数派なんじゃないか?そういう人達の割合は39%なんて遥かに下回るはずだ。にもかかわらず、それを信じていないという者をバカにするというのは、結局ただ科学というブランドを信仰しているだけなのではないか。
----------------------------

恐らく日本で進化論を信じているという人の中には、それを根本的に誤った形で捉えている人も多いように思う。例えば進化を劣なるものから優なるものへと移行していくことであると捉えていたり、それは努力(個の意思)によってもたらされる(キリンは高いところの葉っぱを食べようとして首が伸びたみたいなアレ)ものであると思っていたり、或いはそこに何か目的があると思っていたりとか。だがこういった考え方は、進化論というよりはただの精神論だ。実際、「この世の中は弱肉強食。だから弱いものは滅んで当然。生き残りたければ努力して進化しろ!」みたいに精神論の裏づけとして進化論(科学)が持ち出されることも多い。

多くの者が進化論を信じないアメリカと、多くの者がそれを誤った形で捉え、信じている日本。

アメリカで進化論を信じない人が多いのは、それが社会規範(常識)の形成に大きな影響力を持つキリスト教的秩序と相容れない部分があるからだろう。そして日本では、その形成に精神論的世界観が大きな影響力を持ち、それゆえ進化論もまた精神論的に都合よく歪曲され、誤った形で広く普及する。世界をキリスト教的解釈で捉えるのが一般的なアメリカと、精神論的解釈で捉えるのが一般的な日本。そしてその解釈に違う意見は排斥され易くなる。

日本で進化論を信じていないことをバカにするのは容易い。何故なら社会規範的な後ろ盾があるからだ。しかしアメリカでは逆にそれが立ちはだかる。事柄によってはこの状況が逆転することになるだろう。つまり表面化の仕方が異なっているだけで、其々同じような問題を抱えているということだ。少なくとも、そういった規範故に生み出される状況を、その影響を受けずにいられる場所から一方的にバカするのはフェアではない。そうではなく、其々の場所でそのような問題がどのような形で表れているか、ということを見るべきだろう。そうやって見た時、他の集団でのそれをバカにするのは難しくなる。何故なら、自分自身もまた違う形で同じような問題を抱えているということに気づくだろうからだ。

 | HOME |  »

プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

FC2カウンター

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。