ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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リアルACジャパン



「こっちに来い」っていうと
あっちに行こうとする。

あっちに行ってみたら
「こっちに来るな」っていう。

そうして、なんども繰り返したあとで
馬鹿馬鹿しくなって、

「もう行かない」っていうと
「なんで来ないんだ」って怒鳴る。

こどものいじめでしょうか、
いいえ、大人でも。



もう一個あったがいまいちだったので消した。
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世間の手先としての自分

<今日の一首>

「ゆとり」と言えば 俺の勝ち
これが私の お仕事なのよ――とある名も無きCO2

30歳で会社を辞めて“寂れた喫茶店”を開くのが夢!?
仕事と恋愛に情熱を持てない「ゆとりくん」の無気力さ(ダイヤモンド・オンライン)


≪労働≫が如何に下劣で迷惑な性質を帯びているかということを、自らの≪労働≫によって日々告発し続ける歴戦の勇士、ダイヤモンド・オンライン。今回のお仕事も、全くお見事です。でも、こんな仕事に情熱を燃やし続ける人の気が知れない。

少なくとも、“氷河期くん”のうちの一人である自分は、梅田氏よりも“ゆとりちゃん”の方につきますよ。ゲームなんてもう長らくしていないけど。
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だって、それはあらゆる外的要因がなければ、家でずっとゲームしているのが楽しいってことでしょう。それって引きこもり的な体質を持っているってことだよ。

むしろ、何かを「楽しい」と思えているうちは、まだ人生的にも社会的にも成功するチャンスがあるということなのだが。

本当にヤバい状態になると、そもそも「楽しい」という感覚自体が理解できなくなる。だから何かをする時は常に、「せねばならない」という(内面化された)義務感に突き動かされる形でしか動けなくなる。例えそれが趣味のようなものであっても。そして、動機が義務感だけになってしまうと、何をするにしても直ぐガス欠になり、長続きしない。人生が苦役のための苦役でしかなくなってしまうからだ。それが社会的なポジション争いに破れ、脱落していく人達の大きな特徴。廃人になる人の典型的パターン。そして世間に価値判断を委ね、それによって自分の価値観を否定して生きてきた人間の哀れな末路。

世間に価値判断を委ねてきた人間は、世間から自らの商品としての価値を否定されると、自らもまた自分自身の存在に価値を感じることができなくなってしまう。それどころか、むしろ世間の側に付いている自分にとって、自分自身が“敵”になってしまう。だからこの国では自分殺しが流行るわけです。

そしてそのような、世間を重んじる「道徳」というマルウェアを埋め込まれた人間の内部では、そのマルウェアによる扇動と生命力や理性が常にぶつかり合い続けることになる。その内紛が苦しみを生み出し続けることになる。そして自分もまた、そのマルウェアを植えつけられた者の一人だ。だからこそ自分は、世間や道徳が、そして何よりもそのようなマルウェアを他人に植え付けようと目論む人間達が、憎くてしかたがない。だからこそ、それらに戦いを挑んだ人達に共感を覚えてしまう。自身がそれから自由になれないが故に、尚更。

廃棄ヒキへの道×マルウェアとしての道徳

<人生トリビア>

・「自分は嫌われている」と思い続けると…死に一歩近づく。

・「相手の立場に立ってものを考える」と…もう一歩死に近づく。

・「他人に迷惑をを掛けまい」とする人間は…基本的に死ぬ。
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一つ前の記事では、「「自分は嫌われている」という前提で行動すると嫌われない」という考え方について書いたが、あの考え方に引っかかったのは、あれがポジティブ思考批判という体をなしていながら実はそれ自体がポジティブ思考そのものであった、ということがポジティブ・アレルギーの自分にとっては見逃せなかったということもあるが、それよりも、そもそも本当に「自分は嫌われている」と思って人生を送って来た人間からは、まずこういう主張は出てこないはずだろう、という大きな違和感を感じたのが最大の理由。

というのも、実際にそれを実践してきた人間の多くは、それが孤立と不幸を生むということを身にしみてよく知っているはずだから。自分がこういう状況に陥り、そこから抜け出せないでいるのも、「自分は嫌われている」という感覚を払拭できなかったことが大きく関わっているように思うし。だからそういう人間の一人としては、「自分は嫌われている」と思うこと――実際には、そのように思わざるを得ない状況の成立と言った方が適切だが――の推奨に対して拒否反応を覚えざるを得なかったということがある。

 ▼(1)廃棄ヒキへの道

では、何故「自分は嫌われている」と思い続けると廃棄ヒキになるのか、その道筋を書いてみると…

自分は嫌われている≪開始≫

他人に関わると迷惑になる

とはいえ、他人と関わって自分を売り込まないと
社会的ポジションを獲得できず死んでしまう

死ぬのはいやだなあ

売り込み(就職)活動、人脈作りしなきゃ

でも自分みたいな欠陥商品が
社会という市場で上手く流通できるはずもないしなあ…
実際、今までことあるごとに「お前(゚⊿゚)イラネ」
と言われ続けてきたわけだし

でもやっぱり死ぬのはいやだなあ

下らない商品やサービスを強引に売りつけ、
一財を築くようなカリスマ営業マンにならなくては

しかし、相手の立場に立ってものごとを考えると、
自分が価値を感じることができないものを
他人に上手く売りつけることなんてできない

幾らそれをしようと努力してみても
後ろめたさで挙動不審になったり、
慣れない生兵法(コミュニケーション技能、儀礼的振る舞い)で
大怪我をして、やはり価値は暴落する一方

かといって生兵法で身を包まずに関わりに行くと、
文化/様式的・感覚的差異という大きな溝に阻まれ、
端から門前払いされる

もはや打つ手無し

もう廃棄ヒキでいいや。
というか、死にたくはないけど、かといって
よく考えてみたら生きたいという動機自体無かったわ。
そう思えるような――そのための糧となるような――
人生経験なんて何一つしてないし。

基本的に死を待つしかなくなる≪終了≫


「自分は嫌われている」と思わなければ上手く行くわけでもなんでもないが、「自分は嫌われている」と強く認識せざるを得ないような状況が続くと、上記のようなチャートに迷い込み、そこから脱出できなくなってしまう危険性がある。

まだ「自分は嫌われている」と思っているだけなら、そこから分岐して抜け出せる可能性もある。が、その者に「他人に迷惑を掛けてはいけない」「相手の立場に立って物事を考えなければならない」という道徳規範が強く埋め込まれていればいるほど、その可能性は低減する。それでもこのチャートを何度も行ったり来たりしているうちに、何らかのキッカケでいつかそこから抜け出せるかもしれない。そういう余地もまだ残されている。しかしながら、生きたいと強く思えるような、或いは、自分は(そこから抜け出すことが出来るほど)有能であると思えるような経験を積んでいないと、やはりその可能性もそれだけ低下する。動機(モチベーション)というのは永久機関でもなんでもないから、肥やしとなるものがなければ、それだけチャートを行ったり来たりするエネルギーも早く尽きてしまうわけだ。そしてそのための肥やしとなる経験は、運でしか獲得できない(最善の経験を積もうとしたつもりが最悪の経験につながるのが現実。預言者はいない。故に、自意識と結果に関する因果関係の認識は、常に後から形成される)。

というか、「自分は嫌われている」という前提を持った上で「相手の立場に立って」自分自身を評価すれば、自分自身に価値が無いということになるから、結果として自己否定せざるを得ないだろう。そして自己否定とは、自身から沸き起こるあらゆる動機を抹殺することでもあるから、そういう人間がやがて生きること自体の意義(動機)を失ってしまうのは、必然的な流れと言える。(かといって、じゃあ「自分は嫌われている」と思わなければ良い、とはならない。それは自意識原因論説であり自己責任につながる。問題は、自分の感覚を自分の自意識によって自由にコントロールすることはできないというところにあるのだから。――例えば、自分の意志で自分の趣味趣向や思想、感覚、体質や記憶を改変し、別人格になることができる人間などいないだろう)

 ▼(2)マルウェアとしての道徳~ボット化する個人

しかしそうして考えてみると、道徳というのはマルウェアみたいなもんだとつくづく思う。

人間もまた他の生物と同じように、生存競争を行っていることには変らない。そこでは生存のための協力関係が築かれることもあるが、それと同時に、生死を賭けた迷惑の掛け合い合戦もまた常に行われている。幾らそれが社会システムによって婉曲化され、その事実が意識の外に追いやられようと、その事実自体が消滅することはない。

そのような状況にいながらにして本気で他人への迷惑を停止しようとするなら、結局行き詰って身動きが取れなくなり、死ぬしかなくなるだろう。つまり、本当は「他人に迷惑を掛けてはいけない」などという道徳を植え付け、それによって他人の動きを制御しようとすることこそが最大の迷惑行為なわけだ。この場合の道徳は、それを植えつけられた者を縛りつけ、内部から直接破壊行為を行っていることになる。まるで悪質なマルウェアのように。

そもそも、生活環境を整備するための競争がゼロサム化、トーナメント化しているような環境を持つ社会――日本もまたそうだろう――では、必然的に他人は生存を脅かす敵としての性質を帯びざるを得ない。しかし多くの一般道徳は、他人からもたらされ、他人へともたらすものだ。つまり、何らかの道徳が植えつけられるということは、その道徳規範が持つ特性を通して、“敵としての性質を持つ他人”から内部に直接大きな影響を及ぼされるということに他ならない。よって、「他人に迷惑を掛けてはいけない」「相手の立場に立って物事を考えなければならない」というような内容を持つマルウェアに感染し、それによって深い階層まで侵食されてしまった者は、生存競争において非常に不利な条件を背負わされていることになる。そしてそのような道徳回路を埋め込まれ、それに対抗する免疫機能を持たない者は、“敵としての性質を持つ他人”の仕掛けたマルウェアによってボット化せざるを得ない。

かくしてボット化した其々の個人は、己の内側に植えつけられたマルウェアによる制御を受けながら、自身もまたマルウェア(道徳)を複製して周囲にばら撒き始める。もちろん、どのような内容のマルウェアがばら撒かれるかということは、その者が接してきた文化によって異なる。ここ日本では、自意識万能論説(精神論や自己責任の基盤となる考え方)や社会的役割説(人間は社会の役に立つために生まれてきていて、社会の役に立つことによって初めて存在価値が認められる、という考え)的な内容を持ったマルウェアが最も流行しているから、そういった内容を持つマルウェアがばら撒かれ、またそういうものと遭遇する可能性が一番高いだろう。そしてそれによってボット化した個人はまた、そのマルウェアを複製して周囲にばら撒いていく。それでもって、たまにその規範から自由でいるように見える人間を見つけると、マルウェアの指示に従ってその対象を攻撃し始める。

そうやって多くの者がボット化し、お互いがお互いを攻撃し合い、マルウェアをばら撒き合っている。そしてそれによって他人を律し、縛り付けることで治安を守り、限られた枠組み――自分は消費財になるのか、廃棄物になるのか。それともそれらを管理する機能を持つ商品になるのか――の奪い合いを少しでも有利にできるようにと、マルウェアの植え付け競争を行っている。つまり、マルウェアによる足の引っ張り合い自体が生存競争のための重要な鍵として組み込まれている。それがこの現代日本社会なんだと思う。一度ボット化したら、自分でマルウェアの呪縛を解くことは難しいから、それならもう後は相手側を自分以上にもっと強く縛りつけるしかない、ということもあって。

これだけ物が溢れかえっている社会であるにもかかわらず、有利なポジションを獲得できなかった人間の多くが、ポジションを確保した者から力業によって奪うでもなく、非合法生存活動によって新たなポジションを作るでもなく、復讐するでもなく、ただただ勝手に大人しく生存という枠組みから降りて行ってくれるのは、そういうマルウェアのばら撒き合戦が一つの理由になっているように思う。そんな中で唯一、道徳に対する免疫を持った者だけが、その泥仕合から抜け出すことができる、と。まあ、ボット化してないからといって世渡りが上手くできるとは限らないが。

 ***

で、自分はどうかというと、もうBIOSレベルで道徳にやられているから手遅れ。もう一つ別の言い方をすれば、自分はハリガネムシ(道徳)に動機を食い尽くされてスカスカになったカマキリみたいなもの。だが水場には行かない。水場に行く気力や、水場に辿り着くことが出来るという自信すらも奴らに食い尽くされてしまったので。ボット化した者の中には、自らをぶち壊して内側をこじ開けることでそのハリガネムシを取り去り、その呪縛から解き放たれる益荒男(ますらお)もいるが、自分にはその勇気も動機も残っていない。仕方がないので、ここでハリガネムシと一緒に死を待っているという、そんなエブリデイ。

――とはいえそれは、あくまでこの「自分という状況」に対する認識であって、自分自身の意志による選択の結果としてのものではないが。それを意志の選択の結果とするためには、己の自意識が自分自身と自分の周囲の状況をコントロールすることが出来るほどの絶大な影響力を持っているという前提条件が必要となる。が、自分はそのような万能感/全能感を獲得し、それを維持し続けることが出来るような経験を積み重ねてくることが出来なかったので、そんな自意識の奇跡なんて到底信じることはできない。

というか、万能感/全能感はこの社会において、まるでそれが精神的な悪性腫瘍でもあるかのように扱われるのが常だが、「自意識を成熟化することで状況を打開しろ(できるはずだ)」という自意識万能論説を唱える人間が、そのような常識でもって他人の万能感/全能感を批判するって本当に無茶苦茶だよなあ。一体どっちなんだよ、という。まあ、万能感/全能感の意味を考えず、単にその単語が持つイメージの悪さだけを利用した結果としてのものなんだろうけど、一体いつになったらそのボケの垂れ流しに歯止めが掛けられることになるのだろうか。

むしろ常識や道徳を真に受けた者がひきこもりになっているんだと思うが

“引きこもり”へまっしぐら どうする?わが子が「4ナイ生」だ(ゲンダイネット)

 就職もダメとなると、4ナイ生はそのまま“引きこもり”になりかねない。北海道では、無職の長男(23)が両親を包丁で刺し、母親(55)が死亡、父親(57)は重傷を負う悲劇が起こった。

 長男は大学を中退してから仕事をしておらず、「両親から〈働くように〉と日頃から言われていて、うっぷんがたまっていた」と供述している。

 最悪の事態だけは避けたい。

「早いうちから、社会とのつながりを持たせることが重要です。友達がいないのではないかと感じたら、嫌がられてもいいから学校生活のことをしつこく聞くなどして接点を持つこと。定期的に親子で外食に行く機会をつくってもいい。子供が親に対して反発心を持っているようであれば、自分の兄弟や親戚、会社の同僚などを同席させ、会社や就職の話をしてもらう。親ではない他人の話なら、子供のほうも納得して聞きやすいものです」(石渡氏=前出)

ゲンダイネットの記事にいちいちマジレスしても、と思う人もいるだろうけど、残念ながらこういう考え方こそが世間の一般常識だと思うので言っておくと――「嫌がられてもいいから学校生活のことをしつこく聞く」なんてしたら、「早いうち」からうっぷんが蓄積され、「最悪の事態」が起こる可能性を高めるだけだろう。しかも、「自分の兄弟や親戚、会社の同僚などを同席させ」たらその者達を巻き込む可能性だって出てくる(そもそも、親自体が親戚や兄弟、同僚と上手くやっていけていないケースが考慮に入れられていないのも妙な話だ)。それで事件が起こったら、こういう動きを取ることを勧めたこの人物は一体どう責任を取るつもりだろう?まあ、どうせその提案を真に受けた者、そしてその動きに連動して事件を起こした者の自己責任ということで済ませるんだろうけど。何にせよ、こんな危険な賭けを何の留保もなく勧めるなんて、余りにも無責任だ。
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▼(1)出口を防がれてなお注ぎ続けられるストレスの行方

この記事のように、日本には“はみ子”になる(友達がいない)ことがまるで道徳的に悪であり、恥ずかしいことであるかのように思わせる風土がある。大抵の人間はそれを自身の感覚として内面化してしまう。だが、全ての人間がある一つの枠組みに上手く収まり切るなんてことは現実的にまずありえない(――「現実を見ろ」と言う人間の多くは、この事実を決して「現実」として受け入れようとはしない)。枠組みの形が一様であれば、どうしてもそれに上手く馴染める人間とそうでない人間がでてくる。そして“そうでない人間”がその常識を内面化してしまった場合、その者は内と外の両方からひっきりなしにストレスを受け続けることになる。

ストレスが掛かるのが外からだけだったら、その環境から離れればストレスから逃れることが出来る。外から発せられるそれを真正面から受け止めず、上手くイナすことでダメージを軽減させることも可能だろう。また、何らかの方法で憂さを晴らし、溜まったストレスを低減させることも出来る。しかし常識が内面化されている場合、自分自身がストレスの出所になってしまっているので、それを体現出来ていない以上、どのような環境に居ようともストレスからは逃れられない。よって気晴らしをすることも難しく――さらに言えば、そういった者は気晴らしは現実逃避であり、悪であるという一般的道徳を内面化している可能性も高い――常に大きなストレスを抱え続けていなければならなくなる。

そういった状態に陥った者は、それ以降どうなるか。その流れを幾つかに分けてみると、

(1)常識を体現できるようになってストレスから開放される
(2)常識的感覚が薄らぐことで抱えるストレスの量が減る
(3)キャパシティーを超えたストレスを抱え続けたために精神的に消耗し、自滅する
 (これは道徳的に悪である自分を自身の手によって滅ぼした、とも考えられる)
(4)抱え続けてきたストレスを一気に吐き出して暴発する
(5)自身が世間にとって悪であることを完全に受け入れ、より悪らしく振舞うようになる

大体こんな感じになるだろう。

どうも当該記事では一つ目の流れしか想定されていないようだ。しかし、こういった状況が成立している以上、当然二つ目以降の流れに収まる可能性だってある。記事で触れられているタイプの事件なんかは、(4)と(5)の二つの内のどちらかに収まったケースだろう。そういった危険性について全く鑑みず、“はみ子”により大きなストレスを掛けることで一つ目の流れに追い込むこと/追い込めることだけを考えてそれを行うのだとしたら、それは余りにも無謀な行為なのではないか。

仮に自分の子供が(1)の流れに収まっても、全ての人間が一つの枠組みに上手く収まりきることがありえない以上、それは他の家族に於ける二つ目以降の流れを再生産することになるだろう。何故なら、“はみ子”になるのは悪であるという常識を肯定したまま社会的成功を収めた者は、きっと集団に馴染むために行った――そのために邪魔であった――自己の感覚否定と成功体験を結びつけ、そこにアイデンティティを見出すことでより先鋭的な常識布教者になるだろうからだ。そしてその者が他人からされたように、今度は自らが世間の一部として、自身の成功体験から獲得した実感主義的価値観を常識/道徳として他人に植え付け、“収まりきれない者”に自己否定を迫ることでストレスの絶対量を増大させる要因となるだろう。後は既に述べたことの繰り返しだ。

つまり、そのような常識や道徳観によってこういったループ状況が作り出されること自体が問題視されなければならないのではないか。

▼(2)その者の存在をも否定する、猛毒としての道徳

記事には「子供のほうも納得して聞きやすいものです」と、まるでその常識/道徳を納得させることが出来れば問題が解決するかのよう書かれている。しかしこれはとんでもない勘違だろう。というのも、そういった常識/道徳にある程度納得し、それを内面化するほどまでに強く内に取り込んでいるのにもかかわらず、そこに馴染めない人間がいることこそが問題なのだから。

もしその者が、やろうとすれば出来るが敢えてやっていない、というように、敢えて常識や道徳に抗っているのだ、という認識を持っていればまだ事態は穏便に収まる可能性もある。しかし、その者がその常識や道徳に納得して必死に従おうとしているのに、つまり、やろうとしているのに出来ないという認識を持っていた場合、それはその常識/道徳に照らし合わせてみる限り、己自身の本性は悪であり、存在することすら憚られる恥ずべき存在であるということになる。そしてそれは同時に、己の自意識は自分自身を全く制御することが出来ていないということをも意味するため、アイデンティティを“自分を制御している”ことに依存している自意識――殆どの自意識はそういう認識を持っているだろう――は、その存在意義を失ってしまう。

だからこそ、自分の正体が実は悪であるということを、そして自身が存在意義すら持たない恥ずべき存在であるということを隠すため、家族を避けるようになるわけだ(もちろん、家族を避けるのは必ずしもそれだけの理由とは限らないが)。そのような道徳観を内面化し、抱え込んだままでいる者から「しつこく聞く」ことで学校で“はみ子”になっている事実を無理に聞き出すことは、その者からすれば、家族から自身の悪と恥を暴き出され、その存在意義の無さを正式に通告されるのと同義だ。これはある種の死刑宣告にも近い。実際、その事実が発覚した後、家族がその道徳観に基づいてさらなる抑圧を掛けるということは、その者に対して“今の自分”を殺せと迫ることでもあるわけだから。「やろうとしているのに出来ない」と認識していながらそういう状態に陥っている者からすれば、それはただの「死ね」だ。ましてやそれを「兄弟や親戚、会社の同僚などを同席させ」た場所で行うということは、その糾弾会を公の場に持ち出すということであり、尚更その者を窮地に追い込むことになるだろう。

▼(3)何の考えも無しに「しつこく聞く」は一か八かのギャンブル行為

つまり、ここでこのジャーナリスト(及びゲンダイネット)が勧めている方法は、「出来ないなら死ね」とはっぱをかける行為であり、一か八かのギャンブル的行為だと言える。しかしそうであるなら、ギャンブルが失敗した時の危険性もまたちゃんと情報開示として通告しておかなければならないだろう。そのギャンブルによって子供が「じゃあ死ぬ」と言って自殺するかもしれないし、「むしろお前が死ね」と言って親を殺しに掛かってくる可能性だってあるわけだから(現に、記事で触れられている事件ではそうなったわけで)。

自己責任という概念は、選択の自由と適切な情報開示という二つの前提条件が成立している時にのみ認められる極めて限定的な枠組みだ。常識や道徳の抑圧で選択肢を奪い、情報を隠蔽しながら特定のベクトルへと追い込んでおいて、起こった結果は全て追い込まれた者達の自己責任と言うのは、詐欺師や恫喝師のやることだ。

▼(4)「“はみ子”は恥であり悪である」の内面化は孤立を固定化する作用がある

問題はそれだけではない。「“はみ子”になることは恥であり悪である」という道徳観が厄介なのは、孤立をより堅固に固定化してしまう機能をも持ち合わせているということだ。というのも、自分の本質が悪であり、その存在が恥であると感じている人間にとっては、その後ろめたさ故に、他人と上手く接することが極めて難しいものになる。尚且つ、それが「他人に迷惑を掛けてはならない」や「相手の立場に立ってものを考えなければならない」といったこれまた非常に一般的な道徳と混ぜ合わされてしまうと、よりその毒性が強まることになる。何故なら、自身が悪であれば他人に関わること自体が悪行となるし、自身の存在が恥じであると感じているような自己評価の低い人間が他人の目線で自分のことを見れば、自ずとその他人にとっても自分自身は価値が無いということになるからだ。自分から売り込みのアクションを起こさなければならないコミュニケーション原理主義の現代日本社会において、これ程大きなハンデを背負わされることは他にあるまい。

▼(5)後ろめたさが生存競争の鍵

逆に言えば、こういった常識的・道徳的感覚を他人に上手く植え付けることが出来れば、その者の社会的競争力を骨抜きにして追い落とすことが出来る、という見方も出来る。そういう視点から見れば、現代社会においては、如何に後ろめたさを抱かせるか/抱かずにいられるか、ということが生存競争の一つの鍵になっているとも言える。くしくも、そのちょうど分かりやすい例を当該記事は自ら体現して見せてくれている。

「〈ヘタな会社に入ったら、子供が大変だ〉なんて考えるのもよくない。仮にブラック企業だったとしても、働いて苦労することで成長する例はゴマンとあります」(石渡氏=前出)

法的・人道的に問題のある活動を低減させるのではなく、そういった活動が行われることを前提とした上で、それへの順応(=成長)を迫ることの一体どこに正当性を見出せばいいのだろう?なぜ、そういった活動の是正を訴えるのではなく、それへの順応の方を訴えるのか。ブラック企業の広報がそういう主義主張を並べ立てるのならわかるのだが、仮にもジャーナリストの名を名乗る人物がそういう主張を行って恥ずかしくないのだろうか?このようなゴシップ記事を次から次へと生み出し続けることに罪悪感は感じないのだろうか?――恥ずかしくないのだろう。罪悪感を感じないのだろう。少なくとも、それを問題なく継続できる程度にしか。

つまり、恥を感じる感覚が薄く、世間の常識や道徳などものともしない強靭な自己肯定があるからこそ、この者達は立派な社会人としての地位を獲得し、その活動を維持することが出来ている。要するに、常識的・道徳的感覚なんてものは、社会生活を送る上で一切必要ないものなのだ。そんな感覚よりも、ただその場その場の状況に合わせて上手く振舞うことが出来る能力さえあればそれでいい。感覚として内面化され、固定化された道徳感や常識的感覚は、刻一刻と変化していく環境への適応ということからすれば、邪魔なものでしかないだろう。

▼(6)常識/道徳への最適化と自主性の抹殺は背中合わせ

そもそも、周囲の常識に合わせるために無理して自身の感覚を殺し続けるということは、同時に個の内側から出でる自主性そのものを抹消しようとする行為でもある。それが行き過ぎれば、例えその場所の常識に自身を最適化することが出来たとしても、一度自らを規格化するために参照した環境を失ってしまったら、その時点でもうジ・エンドだ。自分殺しによる最適化なんてそう何度も出来るわけではないし、自らを否定し続けたそんな人間から生きる動機が湧き出てくるはずもないから。仮にその環境に上手くしがみつき続けることが出来たとしても、それはもはやただの奴隷でしかないだろう。

即ち、周りの言いなりになって世間一般の常識や道徳を(知識として教えるだけならともかく)感覚化して子供にホイホイ植えつけるということは、その者の自主性や生きる動機を抹殺し、世間に生贄として差し出す行為に他ならない。そしてその行為は恐らく、自身が常識的・道徳的に優れた者であることを世間に証明するために行われるのだろう。結局それは、親自体が既に世間の奴隷となっていたということでもある。だが、そうやって作られた家族は、ある種の奴隷栽培工場みたいなものだ。そしてその末路は悲惨なものだ。

 大学を卒業したら自活するように今から言い聞かせておく。カネを稼ぐのは厳しいことだと教えておけば、必要以上の依存心は抱かなくなる。

これにしても、どう考えても逆だろう。「カネを稼ぐのは厳しい」、そして自分にはその能力が無い、と思うからこそ、そのための動きを取ることが出来なくなるのであって。そもそも、自身の存在意義を一般常識や道徳に依存した形で獲得している人間、或いは他人の存在意義をそれによって判断している人間が、「依存心云々」と言ったところで何の説得力もない。自主性を重んじるなら、必要以上に一般常識や道徳に惑わされないよう、それらが余りに強く内面化されてしまうのを防ぐことをまず考えなければならない。

まあだから、どうせギャンブル的な賭けを行うなら、まず自らの存在価値を世間の目に依存した形で獲得することを止め、その子供を奴隷たらしめるカセにもなっている常識/道徳の起爆装置を外しに掛かることを目指した方がいいだろう。但し、失敗すれば自らも爆発に巻き込まれることになるが。

▼(7)「昔ながらの日本人」は時代に取り残される

就活で苦労している子供に、〈しばらくフリーターでもいいから、ゆっくりやればいい〉なんて言うのも大間違いだ。

うちもこういう考えだった。今の若い人は知らないかもしれないが、昔はフリーターが今のニートに近い扱いを受けていた。でまあ、ちょっと髪を染めた者でも「不良だ!」というような時代錯誤の価値観を受け継いでいたうちの家族は、自分も親も、フリーターなんて到底受け入れがたかった。だからその選択肢を初めから捨てて、正社員だけに狙いを定めていたわけだが、特別秀でた能力があるわけでもなく、ただでさえ自分を売り込むことがど下手な上に、さらに就職氷河期が重なったこともあって、自分には余りにもその壁は高すぎた。今考えてみれば、初めからそれを諦めてフリーターを目指していれば、もしかしたら何らかの職にはありつけていたかもしれない。まあ無理して何かを続けている以上、どの道最後は同じ結果に落ち着くことになるだろうが、もしかしたらそうでない道を見つけられていたかもしれない。つまり、時代はどんどん変化しているのに、こういう時代錯誤の道徳感や価値観を植えつけられ、いつまでもそれを捨てることが出来なかった昔ながらの古いタイプの日本人は、時代に取り残され、ニートやひきこもりにならざるを得ない(もしくは世間の奴隷として生きながらえるか)。ニートやひきこもりは、恰も最近出てきた新しいタイプの人間であるかのように言われることが多い。だが、実際のところはむしろその逆だろう。

そもそも、刻一刻と変化する社会環境に柔軟に適応しろ、という要求と、古い価値観を守れ、という要求を同時にすること自体に無理がある。というか、今の日本経済(企業)はフリーターのような低賃金・不安定雇用の上に成り立っているという事実を知らないのだろうか。ゲンダイネットを運営している会社、及びこの手のフリーター批判に同調する者が所属する会社だって、そういった存在に依存した形で成り立っているという面もあるはずなのだが。

▼(8)「問題」とは常に「つながり」そのもののことである

社会とのつながりを持たせることが重要です。

この者が言う「社会」とは一体何のことなんだろう。社会と「つながり」を絶つことができる場所なんて、一体この地球上のどこに存在するというのか。ニート、ひきこもりという概念が生まれるのも、誰かにその肩書きが付されるのも、その者が社会の渦中に身を置いて「つながって」いるが故のものだろう。本当に一人でいれば、その者は決してニート、ひきこもりにはなり得ないわけだから。つまり、この問題に限らずこの社会に存在するありとあらゆる問題は、元々社会との「つながり」の中で生み出されている。即ち、「問題」とは常に「つながり」そのもののことなのだ。

そしてこの問題は特に、一方では社会における一般常識や道徳を、自分殺しを行うほどまでに強く内面化してしまう、それほど深い社会との「つながり」を持ってしまったが故のものであると同時に、もう一方では、一度その経歴を持ってしまえばそこから脱出することは極めて困難になるという、「つながり」の在り方の硬直化によってその状態が固定化されてしまうというものだ。つまり、むしろこの問題は、その非常に深く硬い「つながり」の在り方を如何にして変えるか、ということこそが問われるべき性質のものなのだ。よって、つながりを持たせれば解決、というのは、その問題をその問題のまま温存させよ、と言っているのと同じことになる。

 ***

それにしても、ものを考えることを生業としている者達がこれなんだから、所詮労働の機能なんて建前であり、役割なんて嘘っぱちだということがよく分かる。実際は、機能や役割、そして(他人に押し付けるものではなく、自身のものとしての)道徳や常識なんてのはどうでもいいことで、本当に重要なのは処世なんでしょ、という。そういった情報を常識/道徳によって隠蔽しておきながら自己責任も何もあったもんじゃない。

要するに「はみ子」問題

大人社会で「はみ子」になって、いきがれば「(スラングとしての)ニート」。いきがらなければ「ひきこもり」。

しかし、病気など、幾ら努力してもそうならざるを得なかったのだ、と他人を納得させることが出来るような、より具体的で分かりやすい理由を持ちながら「はみ子」になった者は、「名誉社会人※1」としての肩書きを獲得できる場合もある。



※1 本当は社会人でない人間なんて存在するはずもないのだが、一般性を帯びた者とそうでない者は、其々「社会(的)/非社会(的)」という枠組みで区分されることになる。

「恥知らず」というスキル

日立「我が奥義を受けるがいい…ッ!【Inspire the Next】ッ!」 無題のドキュメント

再びこの記事から。

「こうみると企業の対外向けスローガンって厨二的だな」というコメントがあるが、自分でそれを作ろうとしてみると分かる通り、この手のキャッチフレーズというのは内向きであろうと外向きであろうと、どう頑張っても何かしら気恥ずかしさを伴ったものにしかならない。その気恥ずかしさを押し隠そうとしたら、キャッチフレーズ自体の存在感も失せてしまうだろう。もしくはそれを生み出すことすら出来なくなってしまうかもしれない。だからそれを避けようとするよりも、むしろ「厨二的」な枠組みの中でどれだけのことが出来るのか、ということを追求した方が良い結果が得られると思うし、実際こういったものはそういう前提(割り切り)の下で作られているようにも思う。

つまり、如何に恥という感覚に囚われないでいられるかというのは、実は実社会に於いて最も重要なスキルのうちの一つなんじゃないか、という。恥という感覚が強すぎるが故にひきこもりになった(抜け出せなくなった)者も多いことだろうし、そうでなくとも、その感覚があるが故に人と円滑なコミュニケーションや関わり合いを持つことが出来ない、という人もいるだろう。
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道徳の一種である恥という概念は、それを持つ者の思考や行動を縛り付け、その方向性を限定化する機能を持つ。つまりその感覚を上手く植えつけて刺激すれば、それで他人を制御することが出来る可能性がある。だから人々は躍起になってそれを試みる。そしてそれが上手くいかなければ憤ることだろう。「この恥知らず」などと言って。

だが制御と言っても、この恥という感覚は基本的に縛り付けるものでしかない。それ故、その縛りを受けてしまった者の動きは鈍り、思考は偏りを帯びることになる。それが引き金となってひきこもる者もいれば、優柔不断になったりコミュニケーション不全に陥る者もいるだろう。ところが、そうやって動きが鈍り柔軟性が無くなる者が出てくれば、今度はそのことがまた問題化されることになる。当然、恥を他人を制御するための手段として用いることが風習となっている社会では、さらにその道具を使ってその者達を思惑通りに動かそうとすることだろう。だが、それは既に鎖で縛られている者を再度縛り付けることにしかならない。

仮にその締め付けに絞られて動き出す人間がいても、恥という概念の拡張としての文化やシステムは、すねに傷(=恥「ex.履歴書の空白期間」)を持つ者達を出来るだけ弾き飛ばそうとするだろう。やがてその除け者扱いは内面化され、さらなる呪縛となってその者を内側から縛り付けることになる。そしてそれを見た者は、またそれを恥で制御しようとする…以下ループ。

この連鎖に巻き込まれると、行き着く先には自殺という出口しか待っていない。ところが生き残った者達はその自殺という行為を見て、「自殺をするなんてけしからん」と言ったりするのだ。恥知らずにも。恥の文化を土台とする社会の内実とはこんなものだ。恥を知らない人間ほど生存率が高まる。逆に恥という概念に囚われている以上、いつこの連鎖に巻き込まれてもおかしくない。

 ***

勿論、恥の感覚が社会的に無難な振る舞いを指南してくれて、それが助けになる場合もあるだろう。だがそんなものが無くとも、必要とされる時に上手いこと恥じらいがあるかのように振舞ってさえいればそれでいい。それさえ出来れば、恥の感覚を持つ必要なんて全く無い。

何にせよ一つ確かなのは、この社会に於いて恥という感覚はその者を死に至らしめるのに十分なだけの力を持っているということ。これはある種の呪いと言ってもいいかもしれない。銃やミサイルやナイフで殺し合う、なんてのはもはや時代遅れ。現代的な社会空間に於いては、こういった呪術や文化、思想(宗教)、そしてそれらの拡張としてのシステムを使うことによって、それを意識化に隠蔽した形で殺し合いが行われるわけです。生存競争という名の殺し合いが。

まあそんなわけで、意思の力で感覚をコントロールすることは困難であるにしても、其々は極力恥という感覚を拭い去る努力をすべきなのです。少なくとも生き残りたいと思う人間はね。

視点を変えて見れば…

竹原慎二 「ニートは社会のためにそのまま引きこもっとけ」:【2ch】ニュー速VIPブログ(`・ω・´)

どうせいつものパターンが繰り返されているだけだろうし、精神衛生上よくないのでちゃんと読まず(一番上だけ見て)コメントするが、竹原慎二に与えられた能力でこの相談に対して適切なアドバイスを返すことは、ニートが就職することの困難さに匹敵するくらいの難易度を持っていると思うんだよ。

さて、では竹原慎二がこの相談に対してまともな回答を返すことが出来るようになるためには一体どうすればいいのか。それを考えることこそが、ニート/ひきこもり問題を考える一つのヒントになると思う。これは冗談じゃなくてマジな話ね。

というか、相談に応えようとしてすらいないじゃないか、これ。戦意喪失という意味でも同じだな、この両者は。それ以前に、相談者が何故わざわざ彼に相談しようと思ったのか、というのも謎だけど。

ひきこもり記念日

「お前と関わるのは迷惑だ」
と社会が言っているような気がするから
毎日がひきこもり記念日。

賽の河原の鬼が石積みを急かしてくるんですけど

子ども・若者支援法が成立 ニート対策実施へ - 47NEWS(よんななニュース)

こういう話題に関してももっと書いた方がいいのかもしれない。しかし、基本的にこのブログは現実逃避と憂さ晴らしの為に書いているので、書くことによって精神的に大きく消耗しそうなこの手の話題については中々書く気にならない。
-------------------------

だから、取り合えずこのニュースを見てパッと思い浮かんだことだけ書いておくと、ああ、また賽の河原の鬼が石を積め積めと言って騒ぎ出したなあ、と。そんな印象。いや、実際その程度の感想しか抱きようのないニュースだけど。

物事を変えるということは、それに関わる背景や、それを形作っている双方の在り方を変えるということだ。物事を変えるべくして他人に変われ変われと言う人間には、あなたには、あなたが背景にしているその慣れ親しんだシステムや文化、風習、そして今の己自身の在り方を変える勇気が本当にあるのか?と訊きたい。

要は、自分は鬼の役割を止めるつもりもないくせに、「頑張って塔を完成させようよ!」と言うような奴らには本当にうんざりだ、ということ。

つうか、俺はもう若者でもなんでもないけどね。

聞かす声がない

なんか大学時代の友人が結婚したらしく、
その事を告げる幸せオーラに満ちた手紙がやって来た。

所謂、幸福の手紙というやつだ。

別にショックはない。

他人の人生と比べてどうこうという考え方は
もはや捨て去ったし、それを知ったからといって
今更自分の人生の評価が変わるわけでもない。

少なくとも自分は持てる力を全て出し尽くした。
その結果がコレであった以上後悔のしようもないのだ。

ただ、問題がある。

自分で金を稼げない人間が結婚祝いを
贈ることが出来ないのは仕方がないとしても、
本来なら電話の一本でも掛けてそれを祝う為の
言葉の一つくらいは送るべきだろう。

しかし、このような状況ではそれすらもままならない。
合わす顔もなけりゃ、聞かす声もないのだ。

かと言って勇気を振り絞ってそれをしたからといって、
きっとそれはスメアゴル的卑屈さに満ちたものに
なるに違いないのだ。

ああ、想像しただけでも気味が悪い。
そんなのはお互いにとって良い結果にならない。

だから、その代わりと言ってはなんだが、
世界の闇の中心であるこの過疎ブログでそっと呟こう。

おめでとう」と。

いや、少し前の記事で「人類なんか滅んでしまえ」
と言っていた人間がおめでとうも何もないだろうと
思うかもしれないが、自分は集合体としての人類は
憎んでいるが個人としての人間は憎んでいないので。
 

マゾっ子観覧車

日曜日は少しマシだったが、
今日になってまた鬱っぽくなってきた。

今日、ひきこもりの番組が放送される
ということに気付いたせいかもしれない。

去年までは、ひきこもりに関する番組は必ず見ていた。
(明らかに見世物小屋的なものは除いてだが)
なにか義務感というか、使命感というか
そういうものに突き動かされて。

でも、そういう番組を見るのは本当に辛いし苦しい。
だから、本当はそんなもの見たくはない。

昔は怖がりだったが、今は如何なる恐怖映画も、
怪談も心霊特集も怖くなくなった。
だが、ひきこもりの番組だけは怖くて仕方が無い。
その内容がどんなものであろうと。

何故なら、「現実」と目が合ってしまうからだ。
「現実」から目撃されてしまうからだ。

現実の恐ろしさからしたら、
猟奇物や心霊物の恐怖など子供騙しでしかない。

現実こそが何より恐ろしい。

実際、怪物や幽霊に襲われたことは無いが、
現実からは常に目の敵にされてきた。
そしてその結果、こんな廃人になるまで追い込まれてしまった。

ヤツとはそりが合わないんだ。
昔は散々ヤツに媚びて、その共存を試みてみたものの、
ヤツの方にはそんな気など更々無かったんだ。

だから、もう現実から一生隠れて過ごしていたい。
そんなもの忘れてしまいたい。

なのに見てしまうのである、「現実」を。
得体の知れない義務感に突き動かされ、
藪陰からずっと現実を観察しているのである。

なんと言うか、番組を見ている最中は、
高所恐怖症の人間が巨大な観覧車にのって
一周している時の様な気持ちに近いと思う。

そして、その観覧車の中でひたすら
「早く地上に着いてくれ!」と祈り続けている。

しかし、そうやって苦痛に耐えて観覧車に乗ったところで、
なんら問題解決の為の糸口が見つかるわけでもない。
そんなことで恐怖症が直る筈も無いのだ。

むしろ益々気分が落ち込み、
その廃人ぶりを遺憾なく発揮するだけだ。

しかし、今年になってふと気が付いた。
「何故こんなマゾ的行為をしているんだ?」
ということに。

そう、蛮勇ふるって観覧車に乗ってみた所で、
自分にとって何のプラスにもならなし、なったこともない。

いい加減、日の当たる場所での生活を考えるのではなく、
如何に藪陰の中で生き、如何にそこで死んでいくか
ということこそ考えなければならない。
自分は元々藪の中の生き物なんだから。

だから、もうひきこもりの番組なんて見ないんだ…

と言いつつ今日もまた観覧車に乗ってしまった。
こういうのもマゾと言うのだろうか。
 

嫌われても

「人の嫌がることをしてはいけない」
「人に迷惑を掛けてはいけない」

これらの道徳がずっと自分を悩ませてきた。

と言うのも、自分には
「自分みたいな人間が誰かと関わりを持とうと
したら、きっとその人は嫌がるに違いない」
「自分が誰かに関わることで人に迷惑を掛けるに決まっている」
という思いがある。

つまり、その思いを踏まえた上で
それらの道徳に従おうとすると、
自分が他人と関わること自体が非道徳的な行為
ということになってしまう。

だから、その後ろめたさでどうしてもそれが上手く出来ない。

尚且つ、何か動きを取れば他人に迷惑を掛ける
可能性が出てくるので、それを気にしていると
身動きすら取れない状況に陥ってしまう。

その結果、ひきこもりという一択になる。

当然、他人と関わりたいという欲求だってあるし、
他人に迷惑を掛けてでも自分の利益を追及したい
という思いもある。

でも、その欲求はいつもその道徳という拘束具に阻まれて
押しつぶされるか、もしくは中途半端な形で発散され
目的を成し遂げないうちに消えていく。

ところが、そうやって感覚が道徳に縛られ、
人と関わることや身動きを取ることが出来なくなると、
今度は、そのことをさらに道徳によって責められてしまう。

一体何なんだ、と思う。

道徳なんか無ければもっと自由に動けたのに。
もっと人と関わり合いを持てたのに。

自分だって好きでそんな拘束具を身に付けた訳じゃない。
他者から無理やり付けさせられたものだ。

なのにそれで身動きが取れなくなると
全て個人の意志の責任にされる。

でもそうじゃない。

自分が身動きを取れない理由は幾つかある。
だけど一番大きな理由は他でもない道徳によるものだ。
意志ではなく、道徳をはじめとした感覚的縛りによって
動きが取れなくなったんだ。


自分の欲望や利益を第一に追求していれば
こんなことにはならなかった。

勿論、身動きが取れない事を個人の意志の責任
として道徳的に責め立てる人間達には、
彼らの中に彼らなりのストーリーがあって
それに従ってそういう行為に出ているのだろうが、
こちらからすればそれは余りにも理不尽極まりない行為。

理屈では分っている。

本当は道徳なんて他人を縛る為の道具でしかないことを。

その道具である筈のものに使われているからこそ、
こんな事になってしまったのだということも。

でも、道徳に縛られ、そしてそれに裏切られた人間達の
怒りや苦しみ、不条理感は本当に筆舌に尽くし難い。

幾ら理屈でその顛末を理解しても
その感覚までもが晴れることはない。

 ***

そういえば、学校時代みんなに嫌われてるのに
積極的に人に関わっていく人間がいたな。

自分にはその厚かましさが我慢ならなかった。

でも、不思議とそういう人間は何時の間にか
ちゃんと居場所を獲得したりする。

本当は、ああでないといけない。

幾ら嫌われようと、他人に迷惑を掛けようと
自分の欲望に素直でないと駄目だ。

そして、その欲望が成就しようとしまいと、
その欲望に忠実に動いたこと自体が生きる糧となり、
それがその人の生きる意味を形成し続ける。

逆に、欲望を押し殺し続けた人間達は、
それを我慢し続けているうちに
段々と生きる意味が失われていく。

欲望の無い生なんてありえないのだから
それは当然の結果。

そしてそれを失った人間の行き着く先は
自殺か野垂れ死にとその相場が決まっている。

だから、人に嫌がられようが迷惑を掛けようが、
もっと自分の欲望に忠実であるべきだったんだ。
学校時代のあいつの様に。

まあ、それが行き過ぎてストーカーみたいになっても
余りいい人生は送れないが。

要はそのバランスということか。

でもマクロ的にみれば、自分が人と関われない分、
ストーカーとかナンパ師とか厚かましい営業マンとかが
その分のバランスを精一杯取っているのかもしれないな。

いや、彼らの厚かましさの分を自分が人と関わらない
ことでそのバランスを取らされているのかもしれないが

…って、流石にどうでもいいなこの論争は。
 

人間の査定(妄想)

ファースト・シーズン /巧妙なる罠

セカンド・シーズン /偽りの希望

サード・シーズン /浮かばれない代償

と続いてきた「黄昏のダークマター」

そして、その第四弾にしてファイナル・シーズン

     「人間の査定」

人知れず密やかな戦いを続けていくだけ
だと思われたひきこもり達。

しかし、ここにきて物語が一気に加速していく。

それは彼らに隠されていたある重大な秘密が
発覚したことによって始まった。

日に日にその狡猾さを増し続け、
領分を超えた欺瞞と犠牲の上に成り立つ
享楽に身を浸し続ける人類。

人間達はそれを反省するどころか、
無自覚にもその血にまみれた手で正義を振りかざし、
さらなる惨劇を繰り返し続ける。

それに対し彼らひきこもり達は、
そんな人類を今後も存続させるか否かの
判断材料を得る為に、地球の生態系が人の形を施して
送り出した調査員達だったのだ!

それに気付かず過ちを繰り返す人間達。

そこで調査員達が見たものとは一体何だったのか。

そして、自らの秘密に
気付いてしまった彼らの運命とは?

地球の生態系が人類に下した驚くべき最終判断とは?

ついにその全貌が明らかにされる…。

         ・
         ・
         ・

とか、だったらいいのに。

たまにはこういう妄想というアドベンチャーに
耽ってみるのもいいだろう。

どうせ何も無い毎日なんだし。
 

「木の葉になる」からだ

一体、全く家から出ることが出来ないひきこもり
というのはどれ位の割合で居るのだろう。
多分かなりの少数派なのではないか。
かく言う自分も全く家から出られないという訳ではない。

といっても、せいぜい月に一回か二回程度、
周りに人が居ないのを見計らってそそくさと
逃げるようにそこを抜け出す様な有様なのだが。

しかも、自転車という道具を使わなければ
それすら出来ないという条件付きだ。

だが、その脱走劇は度々失敗し、
周辺地域の人間達に目撃されることになる。
そうなると暫くは嫌な気分で過ごさなければならない。

しかし、それでもある程度の間隔で家から
出るということをしておかないと、
今度は本格的にそれが困難になってくる。

家の小窓から外を伺い、人が居ないことを確認すると
急いで玄関に走り、ドアに手を掛ける。

だけど、もしかしたら玄関に行くまでの間に
家の周りに人が現れているんじゃないか、
という疑念に駆られ、再び小窓に様子を伺いに行く。

ところが、小窓から様子が伺えるのは一方向だけなのである。
その他の方向へは音を頼りに様子を伺うしかない。
だから今度は、もしかしたらその他の方面に人が
いるんじゃないか、という疑念が沸いてくる。

そうやって、家から出たくてもドアと小窓の往復を
繰り返すだけで一日が過ぎていってしまう。

余り長い期間家を出ないでいると
そういう状況に陥ることを余儀なくされる。
だから、特に用事がなくともある程度の間隔で
外出をしておかないといけない。

でも、本当に怖いのは家を出る時と、
その周辺地域を移動している時なんだ。
そこを離れると少し気が楽になる。
自転車なしでも移動可能となる。

昔は、人が大勢いる所へ行っただけで
気分が悪くなり吐き気を催したものだったが、
それは既に克服することが出来たし、
(ただ、電車の中は何時までたっても苦手なのだが)
今ではそこをクリアするのが外出することに於いて
一番難しい課題となっている。


では何故、家の周辺地域を離れると気が楽になるのか。
それは「木の葉になる」からだと思う。

「木の葉は森の中に隠せ」とよく謂うが、同じ様に、
ある人が自分のことを知る人間が全くいない場所に
行くと、そこではもはやその人はひきこもりですらなく、
その他大勢の中の有象無象の一人、
つまり、木の葉の一枚でしかなくなる。

だからこそ気が楽になる。

しかし、家の周辺地域は「森」ではないので
木の葉にはなれない。

依然としてひきこもりのままなのである。
そして、近所の人間にその姿を晒すことによって、
彼らが自分のことに付いて色々と悪い噂を立てている
ことを頭の中に思い描いてしまう。

それは、家の中に居ても隠れることすら
出来なくなるということを意味している。

だからこそ辛い。

だけど、森へ行って木の葉になっている筈なのに、
どうしても億劫になってしまうことがある。
例えば、何か買い物をする為にレジへ向かう時だ。

それは多分、他者と普段より少し濃密(自分にとっては)
な関係に置かれることで、自分が木の葉に化けていることが
バレてしまうのではないか、という懸念が頭の中に
芽生えてしまうからなのだろう。

でも本当に問題なのは、木の葉でいることがバレるよりも、
木の葉のままでしかいられないということだ。

何故なら、木の葉になって出来ることは隠れることだけ。
後はせいぜい、その不幸の木の葉が苦痛によって分解され、
他者の幸せの養分となることくらいしか出来ない。

逆に言えば、それは木の葉ではなくなってしまう様な、
他者と一過性でない関係を持つということが出来ない
という事を意味し、そうである以上、
それ以降の新しい展開は望めないということである。

結局、家から出ることが出来る様になっても、
木の葉でしかいられないうちは、家の中に
隠れているのと余り変わらないのである。

だから、家から出ることが出来ないひきこもりと
それが出来るひきこもりを比べて、どちらの症状が
重いとか軽いとか言ってもあまり意味が無い。

この問題を解決出来ない限り、
どちらのひきこもりにも未来はないのである。

 ***

そういや、最近は自分では木の葉に化けている筈なのに、
チラシ配りの人ですら自分を避ける様になってきた
気がするのだが、気のせいだろうか。

まあ、チラシは余り受け取りたくないので、
自然と身に付けた受け取らないぜサインを
送っているということもあるが、
そのサインを送っていないのにも拘らず、
避けられたりすることがあるんだよな。

そのせいで、ティッシュをもらい損ねることが多い。
ティッシュは欲しいのに。

まあ、配っている人が女性だった場合、
単にキモイと思われて避けられているだけかもしれないが。

いやしかし、ティッシュを配るのにいちいち
そんなことを気にするものだろうか。
彼らからすれば、ただ捌けばいいだけなんだから。

もしかすると、凄い悪い顔になっているのかもしれない。

実際、気分が乗らないのに
無理やり奮起して表に出た時なんかは、
もう誰も彼もが憎々しい敵に思えてきて、
すれ違う人間すれ違う人間を見えない刀で
次から次へとぶった斬ってるもんなあ
(あくまで頭の中でですよ勿論)。

ティッシュ配りをしている人も、自分のそういう
禍々しい殺気を感じ取っているのかもしれない。

尚、その見えない刀で斬り付けられた人は、
その子孫に必ず恐怖症を発症する人間が現れ、
それによって彼らはごく普通の日常生活を送ること
でさえ困難な状況に追い込まれることになりますので、
斬り付けられた人は、責任を持ってその子孫を
支えていってあげて下さいね。

よろしく頼みますよ。
 

…はたまた執行を待つ死刑囚

時々思う。

どうせ今の状態から抜け出せないのなら、
グジグジ思い悩んだりせずに、
その自由になる時間を思う存分謳歌すればいいのに。
何か自分の好きな事でも見つけて、
それに精を出せば良いのに、と。

でもそれはあくまで理屈上の考え。
実際には、そのダブついた時間は殆ど有効に活用出来ない。

それが出来るくらいの精神状態ならば、
もう既にこの様な状況を脱しているだろう。
それすら出来ない状態だからこそこうしている訳であって。

勿論、中には過去の経験で得た生きる糧を利用して、
傷を癒し、力を回復してここから抜け出して行く人間もいる。
でも、自分にはその糧すら無い。


ああ、死にたい…。

でも本当に死にたい訳じゃない。
この苦痛から解放されたいだけなのだ。
それから解放される手段が「死」しか無いという
前提があるからこその「死にたい」。

どうせこの先有意義な時間を過ごすことも無く、
苦痛を唯一のパートナーとして生き長らえるだけならば、
さっさとそれを終わらせた方が良いんじゃないか、という思い。

しかし、自らの力でそれを終わらせるのは矢張り難しい。
そもそも、心からそれを望んでいるのではなく、
あくまで消極的選択でしかない訳だし。

だから、死を恐れながらもそれを待ち望む。
そうやって、未来の無い死んだ時間を過ごす。

きっと、死刑が確定した囚人達もこんな気持ちで
毎日を過ごしているんだろうと思う。

と言うのも、死刑囚には当日に
その執行が言い渡されるらしいからだ。

つまり、死刑囚はその判決が決定しても、
何時それが執行されるのかも分らず、
今か今かと怯えながらその執行を待つだけの
残り時間が与えられる。

今の自分の状況が正にそんな感じだ。

ただ、ひきこもりの執行には段階がある。
先ずは今現在のこの環境が奪われ、
身一つで表に放り出されることになる。
それが執行の言い渡しと言っていいだろう。

そしてその後、自殺するのか野たれ死ぬのかを
自分の意思で選択しなければならない。
つまり、自らの意思でその執行方法を選ぶ訳である。

そして、自殺を選んだ場合は、
結局自分自身でその刑を執行せねばならない。

一方、野たれ死にを選んだ場合、
この狭い日本に於いて、一人で安心して
死ねる様な場所を確保することが難しい為、
衆人環視の嘲りを浴びながら、
じわりじわりと死んでいく事となる。

何れその選択をしなければならない。
それを考えると本当に嫌になる。
でも、それは確実にやってくる未来なんだ。

だけど、どうせなら誰かが自分の
処刑を執行してくれればいいのにと思う。

それだと気付きすらしない内に
死んでしまう様な上手いやり方でね。
 

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プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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