ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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一億二千万の一神教

放射性物質が怖いから福島を差別するけどがんばろう日本 - Togetter

これは「皮肉だと分かっていない」が故の反応だということになっているようだが、むしろ「皮肉の核心部分だけを受け取った」からこその反応と考えた方が妥当なのではないか。

皮肉は誰かに何らかの内容を伝えるために存在しているのではない。(罵倒ほど直接的ではないにせよ)それは言葉に悪意を乗せて誰かにぶつけることを目的として存在している(内容を伝えることが主なら皮肉る必要はない。むしろ対立を煽り、場が荒れ易くなる皮肉は邪魔なだけ)。要するにこれは、不特定多数に向けて悪意を投げつけたら不特定多数から悪意が返って来た、というただそれだけの話だろう。ただ、思わぬ場所にいる人達がそれが持つ悪意だけを、つまり皮肉の持つ核心部分だけを受け取ってしまい、予想外の方角からそれに罵倒で応えてきたと。
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 ▼「正しい感覚」を持たぬ者は叩き潰されて当然、という風潮

それよりも自分が問題だと思ったのは、「放射性物質が怖いから福島を差別するけどがんばろう日本」を皮肉であることに気付かなかった人間が、それだけの理由で見世物にされ、バカにされ、こきおろされていることだ。

彼らがこきおろされているのは皮肉に罵倒でもって応えたからではない。というのも、罵倒でもって応えたのはここに掲載されているうちの3人だけで、後の7人は単にセリフを額面通りに受け取っただけに過ぎないからだ。実際にコメントを見ても、いきなり見ず知らずの人間に罵りにかかることを問題視するよりも、「皮肉だと分からない」という部分に焦点を当てて対象をこきおろしているものの方が圧倒的に多い。

こーゆーツイートやめてほしい。 RT @rinkoro0503: 放射性物質が怖いから福島を差別するけどがんばろう日本
mememechama 2011/09/19 21:33:24

(゜o゜)差別しなくてもいいと思うよ、放射性物質を恐れるのは正しいけど。 QT @rinkoro0503: 放射性物質が怖いから福島を差別するけどがんばろう日本
nonchat 2011/09/19 21:56:04

さらに言えば、この二人はこのツイートだけを見る限り、皮肉だと気付いていながら敢えてこういったコメントをしていた可能性もある。後者などは、見方によっては皮肉に皮肉で応えたという可能性すら考えられる。しかしここに掲載されているということは、皮肉が通じない(皮肉に素直に付き合ってくれない)人間として晒されているということだろう。

つまり、このまとめで掲載された者達は、「いきなり見ず知らずの人間を罵りにかかる人間」としてピックアップされたわけでなく、皮肉であると気付かない人間、或いは皮肉というノリに素直に乗ってくれない人間という枠組みでピックアップされ、晒し者にされている。そしてそこでは、「放射性物質が怖いから福島を差別するけどがんばろう日本」が皮肉であると分かる「正常な感覚」を持つ人間と、それが皮肉であると分からない、或いはそのノリに素直に乗ってくれない「異常な感覚」を持つ人間という選別が行われた後、前者による後者へのリンチが行われている。

要するに、少なくともここに掲載された7人は、単に趨勢から外れる感覚の持ち主だというそれだけで晒し者にされ、こき下ろされている。

もちろん、全ての人間が自ら積極的にそのリンチに参加しているわけではない。しかしながら問題なのは、これだけの人数がいてそのリンチに苦言を呈する人間が殆どいなかったということだ。差別への問題提起に端を発して生まれたこのような場でそういった状況が作り出されるというのは、それこそ皮肉な結果というしかない。

 ▼一億二千万の一神教

【初音ミク】放射性物質が怖いから福島を差別するけどがんばろう日本

放射能が怖かったりボランティアに行かなかったり福島の野菜を買わなければそれだけで差別をしたことになるらしいが、その一方で単に感覚が趨勢からずれているというそれだけの理由で行われるリンチは全く問題にされない。

このアンバランスさがどこから来るのかと言えば、それは結局のところ差別という概念がどのようなものであり、何故それがいけないことなのか、というような理念や原理が社会的合意として外部に蓄積されていないからだろう。故に、私が差別だと思うものが差別であり、そう思わないものは差別ではない、というような感覚原理主義に陥らざるを得ない。

そして何故そういった蓄積が行われないかと言えば、それはこのまとめや日々行われるメシウマ祭りを見ても分かる通り、日本人というのはお互いにお互いを隙あらば叩き潰してやろうと目論み合うような信頼の置けない敵の集合体だからだろう。故に、社会的合意は一切できず、外部への蓄積も為されず、ただその時々の感覚的趨勢によって右往左往することになる。実際ここで主に話題になっているのも、どのような感覚が正常か、ということだ。

日本人の中には一神教を信仰していないことを誇りにしている者も多い。だが実際には、日本は多神教国家というより、むしろ自分の感覚に真理を見出す一神教徒の集合体であると見た方が妥当なのではないか(「八百万の神」は、真理である自分の感覚が神と思えば何でも神、というだけのことだろう)。しかし同じ感覚を持つ者は誰一人としていない。それ故必然的に、常にその感覚が生み出す真理と真理がぶつかり合うことになる。

 ***

要するに、外部に蓄積された教義やその解釈、ロジックを理由として争うか、自分の感覚が生み出す真理を理由として争うかの違いがあるだけで、日本人もまた一神教徒であることには変わらないのではないかと。そして感覚が生み出す排他的真理の競合により、利害や理念や思想の対立以前に、ただ少し趨勢から外れる感覚の持ち主だというただそれだけのことで見世物小屋に放り込まれ、民衆から石が投げつけられたりする。それだけの排他性を持っているわけだ、日本社会は。

日本における議論が皮肉や罵倒やレッテル貼りに終始することが多いのも、結局のところ、ロジックよりも感覚的趨勢の方に重点が置かれているが故のものなのではないか。「頑張ろう日本」にしても、元々「(私の感覚が想起する真理としての)日本のために役立てよ、そうでない奴は非国民とみなす」くらいの意味でしかないだろう。「日本」が空っぽの器――個々人が好きなように中身を思い描くことができる――であるが故に、そこまでは総論として社会的合意が出来るという。

何にせよ、多神教国家である日本は寛容、などというセリフは白々しいことこの上ない。
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宗教的無自覚が生み出すアンタッチャブルな現実

日本では「労働」が「労道」になっている。 ニートの海外就職日記

海外ニートさんのエントリを読んでいて思ったのですが、日本では労働が「労道」になっちゃってますよね。

労働は本来は単なる生活手段なのに、精神性や自己実現といった価値観が過剰になり、「労道」という一種の修行と化してます。

完全に宗教でしょ日本人の労働信仰って。最終的に見捨てられるのが信者(弱者)なところも一緒。トップはそもそもその信仰なんかしてすらいないし。

宗教的道路族みたいなものか。
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まあ、その者が自分の好きで道としての労働を信仰し、そこにその身を捧げ続けるのは全く構わないのだが。問題は、人々の命や生活を支える基盤となっている社会・文化システムがその宗教を前提として成り立っていることだろう。これは要するに、実質的には信教の自由が認められていないということを意味する。

しかも「労道」は自らの宗教性に恐ろしく無自覚なので、信教の自由という観点からそれを批判しても全くなしのつぶて。また、正当性を担保するための明確な根拠を持たずとも成立するという宗教の性質上、幾ら理屈でそれを批判しても、決してそれは向こう側には届かないという。故にこの硬直化した現状が、いつまでもアンタッチャブルなものとして幅を利かせ続ける、と。

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宗教というのは結局のところ、「条理の生成」のこと。故に、無宗教な人間なんてこの世に誰一人として存在しない(条理が無ければ不条理すら生まれない)。にもかかわらず、この国では自らのそれに全く無自覚でいながら、他人の宗教性“それそのもの”を悪であるかのように扱うことを良しとしてきた。その結果として、このようなアンタッチャブルな現状が生み出されている、ということもあるのではないか。

つまりこの国は、まず其々が自らが持つ宗教性を自覚し、信教の自由の重要さを認める、というところから始めなければならないのではないか。まあこういった認識は近代国家であるならば本来言うまでも無いほど当たり前過ぎることなんだけど、どうも、「古代」から「近代」を経ず、いきなり「現代」がやって来た、みたいな感じなんだよなあ、日本って。それが状況を益々ややこしくしている。

 ***

因みに自分が持っている宗教性というのは、個人の意志による状況コントロール不可能性(人生は攻略不能なギャンブル――その上で人間は足掻き続ける)とか、誕生の暴力(生まれて来なかったこと以外にこの不幸を回避することは出来なかった)とか、そんな感じ。もちろん最初からそうだったわけではなく、紆余曲折あった末に今のこの考え方に辿り着いたわけだけど。少なくとも自分の人生にはチャンスなんて一度も無かった。

「特別な日本」を守る、「駄目なものは駄目」という守護神

日章旗切り貼りし民主マーク!鳩山氏「神聖なマーク、きちんとつくるべき」<よくよく考えてみると、布切れの切り貼りが問題視されたり、「われわれの神聖なマークなので、きちんと作られなければいけない」という理屈がすんなりと――少なくとも謝罪しないよりは――人々に受け入れられる状況って結構凄いことなんじゃないだろうか。つまり、如何に日本人が宗教的なものにどっぷりと浸かっているかという。

・核や天皇について語ることはもはやタブーではなくなった。しかし、日本人が持つ呪術性や宗教性について問うことは未だタブーであるようにも思う。

・例えばこの問題の場合、何故それが駄目なのかという理由もハッキリしないまま、いつの間にかそれが「悪いこと」に認定され、「悪いこと」をしたとされる側もまた、その咎めに対して何か疑問を呈することもなくあっさりとその非を認め、謝罪してしまう。

・恐らく、この行為に対して本気で怒っている者なんて殆どいないだろう。そもそもこれは、旗を焼いたり踏みつけたりすることでその裏に想起される共有イメージを通して何かを傷つけようとするような類のものでないことは明らかなわけだし。

・だが本気で怒っている人はいなくとも、この社会がこれをすんなりと「悪いこと」として認めてしまう素地を持っていることは確かだ。

・で、結局これは何故「悪いこと」なんだろう。その理由は、常識に外れる、不謹慎、人を不快にする、ふざけている、とかそんなところなんだろうけど、それはあくまでパッケージであって、その中身を説明したことにはならない。

・例えば、「コスト削減にも繋がるし別にいいじゃない」というような意見が出てきても良いはずなのだが、実際に公式の場所で大っぴらにそんなことを言う人間は出てこない。「何故それが悪いことなのか」という問題に真剣に向かい合うことを促す人間も出てこない。

・何故なら、本気でその中身を確認しようとすれば、「駄目なものは駄目」という守護神が現れて、その中身を明らかにしようとする行為を阻もうとするからだ。それでも尚その中身を明らかにしようとした者は、神聖な場所を侵そうとした者として民衆から責め立てられ、地位を剥奪されたりするだろう。

・だから誰も怖がってそれに手をつけようとしない。そうやって神聖な場所に隠されているその“何か”は決して表舞台に晒されることはない。つまりそれがタブーであるということ。

・切り貼りに関して「宗教的配慮が足りない」と言ったなら、それは一応批判理由にはなる。宗教的配慮というのもまたパッケージであるかのように思えるが、そもそも誰もが共有出来る具体的な根拠がなく、それでも尚尊重されるべきものというのが宗教なので。

・しかし、宗教的配慮をしなければならないということは、当然それを信仰しない他の者の行為を制限することでもあり、自由と競合することになる。そこで法やモラル、マナーなどの観点から、其々どこまでその配慮のために自由を制限すべきなのか、という一般的な議題が持ち上がって来て、そのすり合わせが行われるようになる。

・だが実際には、切り貼りに対する問題提起という始点からいきなり「その理由はハッキリとはしないが、とにかく悪いこと」という終点が導き出されてしまう。それが議題化されて持ち上がってくることもないままに。何故なら、守護神にそれを議題化することを阻まれ、結論に辿り着くまでの過程が一切消し飛んでしまうからだ。

・これは別に切り貼りに限ったことではない。この「駄目なものは駄目」という守護神は実に様々な場面に現れては、何故それが駄目なのか、という理由を明確にすることを妨げていく。

・一つ確かなのは、その守護神が現れるということは、人々の間にその理由を明らかにすることを忌避するような意思が働いているということだ。

・しかし何故その理由を隠さなければならないのか。誰もが(納得するかどうかは別として)共有することが出来るような具体的根拠がそこにあるとするならば、さっさとそれを提示してしまえばいいじゃないか。しかしそれはなされない。ということはつまり、実は元々そこに具体的な根拠なんてないんじゃないのか。要するにそれは宗教的理由からなのではないかと。だからこそそれを明かせない。

・そしてこれは単に、「無いから明かせない」というだけではないように思う。というのも、日本では一般的に宗教に対してあまり良いイメージが抱かれておらず、それ故それに対して侮蔑や蔑みのような冷ややかな視線が向けられることも多い。尚且つ、多くの日本人は自分のことを無神論(無宗教)者だと思っている。

・にもかかわらず、もし自分が宗教的な理由を根拠として何かを主張したり支持したりしているということが明らかになれば、かねてから無神論者であると言ってきた己自身の主張が嘘だったことになってしまう。その上、平生から自分がそれに送ってきた冷ややかな眼差しが全て自分自身に跳ね返って来てしまうことにもなる。つまり一種の自傷のような状態に陥ることを余儀なくされる。

・だからそういう事態を避けるために、無意識にそれを忌避しようとする意思が働いているんじゃないかと。そして忌避にはさらにもう一つ理由があるように思う。

・大抵の人間は、自分の国の風土に何か特別性を見出し、それを誇りとしていたりすることだろう。そして日本の場合、社会の大部分が宗教の手によって汚されておらず、日本人の多くが宗教以外の“何か”を共有していて、それによって其々の行動は律され、その秩序が整然と保たれている、というような認識がその誇りを形成する一つの材料になっているように思う。

・それが宗教的なものであると認識されていないことによって神聖さが保たれている宗教というか。そしてその宗教性は、「日本独自の文化や風土」という多少和らげられた表現に置き換えられ、諸外国のそれらとはまた違うものとして差別化が図られる。それによって「日本の特別性」が維持される。

・ところが、その“何か”もまたただの宗教であると判明してしまえば、その神聖さは失われ、もはや日本は(その面に於いて)特別な国ではなくなってしまう。今まで特別なものであったはずのそれは、諸外国のそれらと「宗教」という同一のまな板の上に並べられ、単にそれらの内の一つでしかなくなり、輝きを失ってしまう。つまりその忌避は、そのような変質を恐れてのものであり、ある種のプライドを守る闘いでもあるのではないかと。

 ***

・日の丸を元にしてそれとは分からないようなものを形作った時、人々はそれに対してどのような反応を示すだろうか。一見日の丸を元にして作っていたように見えて、実は全く別のものが元になっていた時、或いは、日の丸を一旦糸に戻し、その糸を使って別の何かを作った時、信仰者はその事実を知っている時と知っていない時でその行為にどのような反応を示すのか。

・そういうことを考えてみると、人間にとっては事実よりも認識の方が遥かに重要なんじゃないかと思えてくる。

・神聖さは何処から来て何処へ行くのか。結局それは、人間の内側からやって来て、また内側へと消えて行くものでしかない。但し、その「行き来」は外部からの刺激によって規定されるものであったりもする。

「成熟」に見る階級区分内在思想

ある規格を設け、その規格との関係性を調べることで対象となるものの規格上の成熟度を測定することは出来る。しかし、そういった人工的規格の範囲を超えたより広範的な観点から見て、その対象が本質的にどの程度成熟しているのかということを測定することは出来ない。何故なら、それを測定するには成熟/未成熟(優劣)の度合いを測定する為の(人工的な規格を超えた)真理としての物差し※1が必要になるからだ。だがそんなものは存在しないだろう。
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よって、もし広範的観点からも成熟/未成熟の度合いを測定することが可能であるかのように言うならば、或いは広範的観点の文脈上でそれの存在を前提として物事を語るとするならば、その者は必然的にその真理としての物差しの存在を信じていることになる。つまりそれは、成熟/未成熟という線引きを人工的なものではなく、自然に根ざした(優劣の区別がある)一種の階級区分として捉えているということでもある。そしてその語り口が人々に受け入れられることによって、本来人工的であるはずの区分は「自然(神)の成せる業」に置き換えられ、権威化される。

こういった成り行きはまさに宗教に於ける布教と帰依そのものだ。しかし、それが宗教的なものであるということに無自覚なまま物事が語られたり(布教)、それを受け入れて思想や思考の拠り所や足場としたりすること(帰依)は案外多いように思う。

要するに何が言いたいかと言うと、宗教というのは決して一部の特殊な人間達だけのものではないということ。またそれは何か特別なハードルを乗り越えた向こう側の世界にだけ存在するものでもない。それはごくありふれた日常生活の一部として誰の周りにもちゃんと存在していて、多くの者は普段特別意識することもなく、「無神論者(無宗教)」としてそれを信仰したり布教したり、或いは改宗したりしている。

「無神論者」というのはあくまで形式上の話。「無神論者」だからといってその者が「神(真理)」を信じていないということにはならないし、宗教性を持っていないということにもならない。例えば日本では、「社会・世間・みんな・普通・常識」といった概念が「神」としての役割を果たしているように。そしてそこから(例えば「成熟/未成熟」、「甘えている/甘えていない」といったような)様々な宗教的階級が生み出され、それを我々は特に違和感を感じることもなく受け入れている。

日本における階級区分(あるいは人種区分)の成り立ちというのは、システムというよりも、どちらかと言えばこういった宗教方面から来ているものが多いのではないか。

【対馬が危ない!】日本に帰化韓国人男性 海自施設で不可解行動 (産経新聞)

そう考えれば、「帰化韓国人」みたいなシステム的には全く意味不明な言葉が生まれて来たりするのも決しておかしなことではない。そして勿論、こういった宗教的区分は何も帰化した者達にだけ当て嵌められるわけではない。日本生まれの日本育ちであってもそういった区分からは逃れられない※2。例えば、オタク、イケメン、不細工、根暗、社会人、ニート、ひきこもり、公務員、高学歴、低学歴、、ウヨク、サヨク、アスペルガー、ゆとり、メンヘル、金持ち、貧乏人、などなど、日本の文化では属性をそのまま(内在的な)階級・人種区分として認識しているようなところがある。そしてそういった区分は日々新しく生み出され、それがこともなげに人々に受け入れられていく。あたかもそれが「自然」に根ざした区分でもあるかのように。真理としての規格が存在するかのように。つまりそれは、日本の文化もまたそれだけ強い宗教性を持っているということだろう。

「宗教」という形式からは逃れることが出来る。しかし、宗教そのものからは何人たりとも逃れることは出来ない。少なくともその者が人間であり続ける限りは。



※1 そもそも、仮に真なる成熟の形が存在するとしても、その成熟は未成熟と共にしか存在し得ないだろう。であるならば、その真なる成熟は未成熟な対象に依存した形でしか成熟を保てない未熟な存在とも言える。

※2 逆に言えば、こういった区分に当て嵌められるのが嫌だからこそ、多くの者が「普通」や「中立(無垢)」を自称したりするのだろう。

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後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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