FC2ブログ

ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

自作自演の副産物としての「生」×義務教育人生×私が常識を憎む訳

▼(1)人間の社会活動は基本的に自作自演

メジャーのワールドシリーズや日本シリーズを見ていてふと思った。結局のところ、ありとあらゆるイベント(祭り、社会活動)とそれに付随する盛り上がりは、全て自作自演によるものだよなあ、と。つまり、自ら動機を生む舞台装置を作り出し、自らそれで盛り上がっている。しかし自作自演であることを意識してしまえばそれはわざとらしさとなり、盛り上がりは一気に失われてしまうだろう。だから盛り上がりを得るためには、いかに上手くその自演性を意識下に隠匿した形で自演出来るか、ということが鍵となる。
---------------------------------------

人間は常に動機に飢えている。当たり前だ。その者が全く何の動機も獲得できないとしたら、その者が持つ「生」は苦痛や恐怖、恥といったネガティブな感情や感覚を生み出すだけのただの拷問機でしかなくなってしまう。だから人々は動機(希望)を下支えするための物語や宗教、精神論、或いは憧れの肩書きや生活スタイルなどを生み出し、盛り上がりを得るための舞台装置を整える。管理した上で偶発性を際立たせようとする。或いは無理矢理にでも祭りを起こし、心を揺り動かそうとする。そしてその流れに上手く乗ることによって初めて己の「生」を価値あるものとして実感することが出来る。要するに自作自演だ(一応念のために言っておくと、それによって具体的な社会情勢自体が思惑通りに制御されているとかそういうことを言っているのではありません)。

何一つ動機を獲得することが出来なかった人間でも、「死にたくない」という動機くらいは獲得できるかもしれない。が、やはりそれだけではその者の「生」は無価値なものにならざるを得ないだろう。初めから生まれてこなければその拷問機に掛けられる必要も、そこから逃げる必要もないのだから。それは「生まれてこなければよかった」という「生」の否定にしか辿り着かない。

そういった「生」を獲得した者は、こう思うだろう。好きで生まれてきたわけでもなければ、好きで生きているわけでもない、と。この場合、その者の人生は「他作自演」の人生と言える。その人生は所詮、他者の自作自演(ここで言う自作自演とは自由意志によるものではなく、自分の意志で子供を生み、自分の意志で希望を獲得し、自分の意志による努力で何かを獲得することが出来たのだ、と“認識することが出来ている”状態を指す)を彩るための人生でしかないのだ。もっと言えば、それは自作自演の人生が生まれてくるための副産物として生み出された「生」でしかない。物語でいえば、主役達を際立たせるために副次的に生み出される雑魚キャラや悪役のような存在。

 ▼(2)義務教育としての子育て

勝間和代の『誰でも出来る』日本支配計画

そういう意味からしても、こういうタイプの自作(舞台装置の製造)はちょっと許せないなあ。ヤンキーが無計画にごろごろ子供を生むことを肯定できたとしても、これは無理。

というのもヤンキーの子供の場合、幼少期に道徳という毒花の種を植え付けられ、それに雁字搦めにされて養分を吸い取られる(つまり存在の主体が他人が生み出した道徳に乗っ取られる)ようこともないだろうし、それによって獲得した状態を自己責任という道徳で叩かれるという道徳の矛盾(そもそも道徳は基本的に生存と競合する)に苦しむ必要もないだろう。つまりそこでは「生」は副産物化し難い。

道徳なんて意に介さない人間だけが生まれてくればいい。そういう者達だけがこの世に生まれて来て、そういう者達同士だけで勝手に争い合い、盛り上がっていればいい。

だが勝間氏の主張はそれ自体が道徳的だ。よってそれに流されて子供を生んだ人間は、またその子供に道徳という毒花の種を植えつけることになるだろう。そして尚且つ、その出産と子育ては義務感を出自としているが故に、義務教育を受ける生徒のような立場で行われることになるのは避けられない(もちろん、後に義務から抜け出す者もいるだろうが)。

(↓ここからは自分語りが入ります)

続きを読む »

スポンサーサイト

子育て成功/失敗の分水嶺

子供が「生まれて来て良かった」と思うことが出来たら子育て成功。幾らその者が破廉恥事件で捕まろうと、殺人鬼になろうと、人類の歴史的汚点としてその名を残すことになろうと、その者が本当に心から「生まれて来て良かった」と思うことが出来たならば子育ては成功。その親は胸を張って良い。こと子育てという分野に関しては。

逆に、子供が「生まれて来て良かった」と思うことが出来なかったら子育て失敗。例えその者がどれほど華々しい経歴を手に入れようと、如何に周りから祝福された人生を送ろうと、その者自身が「生まれて来て良かった」と思うことが出来なければ子育ては失敗。断じて失敗。
----------------------------

社会的評価は子育て成功/失敗の根本的な判断材料にはならない。何故なら、所詮人は自分以外の誰かが幾ら悩もうが苦しもうが生きようが死のうがそんなことは大してなんとも思っていないからだ(そもそも、殆どの人間のそれを知りもしない)。

いや、それを大したことのように思えたとしても、それはその者の一部として内部に作り出された他者像の苦しみや生死が引き起こす自分の感覚を気にしているだけであって、純然たる他人のそれを気にしているわけではない※1。或いは、自分の人生にとって役立つ道具として、自分の世界観を補強(布教)するための、感情的満足を得るための材料としてその誰かを気にしてるだけだ。もしくは、己にとって邪魔な存在として如何に自分に影響を及ぼしているか、ということでその誰かを気にしているだけだ。

所詮人はそのような形でしか他人を評価出来ない。しかも世界は、「自分にとって」を「社会(世間・みんな)にとって」に置き換えることで己の主張の正当性を印象付けようと(そう思い込もうと)するインチキ野郎で溢れかえっている。そもそも、他人の感覚や経験を知ることすら出来ないのに、つまり評価下すのに必要最低限の前提情報を得ることすら出来ないのに、(評価する側の都合に依存しない)正当な評価なんて下せるはずもないだろう。だからそんな他人がどう思っているかなんて、世間がその者に対してどのような評価を下しているかなんて、そんなものは全く成功/失敗の判断材料にはならない。勿論、傾向的に言って高い社会的評価を獲得した者ほど「生まれて来て良かった」と思うことが出来る確立は高まるだろう。しかし、それは成否を判断するための根本的な判断材料にはならないということだ。

それでももしそれによってその成否を判断しようとするなら、それはその者が如何に他人にとって都合のよい人間であるかを判断しているだけでしかない。或いは、その者が如何に親にとって都合の良い子供であったかどうかを判断しているだけに過ぎない。

――ただ誤解のないように一応付け加えて置くと、別に成功した者の判断や行動が正しくて、失敗した者のそれらが間違っていたとかそういうことを言っているわけではない。誰も物事の因果を知ることは出来ないし、最善と思われる方向に最大限の労力を払い続けた結果が最悪の事態を招いたりするのが現実なので。



※1 他人に対する虚偽の情報を与えられてもそれを本当のことと認識し得る。また、虚偽の情報を事実として認識することによって作り出された感情、感覚自体は嘘ではない。

 | HOME | 

プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

FC2カウンター

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。