ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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仕事は苦しくなくてはいけないという固定観念がブラック化を生む

市職員、勤務中にゲームや昼寝 京都・向日市 (京都新聞)
 京都府向日市のごみ収集を担当する清掃職員の大半が、所定勤務時間中にもかかわらず、市庁舎横の職場でテレビ鑑賞やゲーム、昼寝などをしていることが19日、京都新聞の取材で分かった。背景に、業務内容が勤務時間に比べて少ない実態もあり、それを市は把握しながら是正に積極的に取り組んでこなかった。市は「徐々に仕事を増やしてきたつもりだが、踏み込めていなかった」としている。
 清掃職員の所定勤務時間は午前8時半~午後5時15分で、現在、アルバイトと嘱託を含めて17人いる。市や関係者によると通常、ごみ収集は午前中には終了し、それ以降の勤務時間については大型ごみ収集などを行う当番以外、犬や猫の死骸収集といった急な出動に備えて待機することになっている。
 しかし、急な出動はまれで午後は仕事がない状態が少なくとも十数年、恒常化しているという。関係者の話や取材では、正午前から多くの職員が職場にこもり、携帯電話のゲームや音楽鑑賞、読書のほか、仮眠をとる状態が続いているという。
 市は「今後は外部委託や事務事業の見直しを含め改善したい」としている。
――マジかよ京都新聞最低だな。

これだから公務員は、みたいなことを言う人もいるが、これは別に公務員だけに限られたことではないだろう。例えば自分が以前勤めていた食品工場では、監視役の上司が実際に働くのは製品の出来の確認やトラブルなどに対処する時だけだった(まあ他にも会議などはあるだろうが)。実際裏でゲームをしていたこともあった。でもその方がよかったりする。後ろでじっと監視されていたらやりにくくて仕方がないので。



なんにせよ、これが大勢の者から叩かれているところを見て、日本の職場がブラック体質から抜けられないのは政治家や経営者だけのせいではないのだな、と改めて思った。

そもそも、直ぐに出動できる態勢さえ整っていれば、待機時間中に何をしていても仕事に支障なんてないはずだ。

消防士さんの「待機中」が知りたい! - ウォッチ | 教えて!goo

それとも消防士が待機中に「テレビを見たり、卓球をしたり」「仮眠をとる」のも批判するのだろうか。逆にごみ収集の人達のそれを批判して消防士のそれを批判しないとすれば、それは一体何故?

というか、待機中にも賃金支払い義務が生じるのはどこの民間企業でも同じはずだ。そしてもし待機中には賃金を払わなくても良いというルールが出来たら、ブラック企業は大喜びでそれを悪用するだろう。

この勤務の在り方を非効率だとして見直すにしても、ゴミ収集を午前中だけのパートにすると、小遣い稼ぎでゴミ収集をする酔狂な男性は滅多にいないだろうから、長期的に安定した人員を確保できなくなる可能性が出てくる。仮に他で仕事にありつけない人が仕方なくそこで働いたりしたら、ワーキングプアの出来上がりだ。そういうやり方は経済にとってもマイナスになる。

またそういうやり方で仮に午前の人員を確保できたとしても、午後の勤務で待機時間が生まれることには変わりはない。その時彼らがずっと「洗車」でもしていれば満足なのだろうか。

もちろん、仕事に支障が出ているのならそれは問題視されてしかるべきだろう。しかしそうでもないのにこれをことさら批判するということは、批判者は彼らに仕事の内容を求めているのではなく、単に苦しむことそのものを要求していることになる。

そもそも、ごみ収集だってゆっくりやれば午後にまで持ち越すことは可能なはずだ。よく、入力にマクロを使ったら上司に怠けていると叱責された、というような話を聞くが、これはそれと同じ類の問題と言えるだろう。正に今、大勢の人間がその上司になって彼らを叱責しているのだ。

この、仕事は苦しいものだ、いや苦しむべきものだ、という妙な固定観念は、労働環境を必要以上に悪化させる一つの大きな原因になっているのではないか。


▼ブランドとしては不人気だが、内容としてはまだまだ人気のある共産主義思想


このような批判がなぜ起こるかと言えば、あいつらだけズルい、というような気持ちがあるからだろう。

しかしもし自分の労働条件や環境に不満があるなら、もっと条件のよい仕事を探したり、自分が勤めている会社を批判したり、それと交渉したり、或いは法律の改定やその運用の仕方の改善を求めたりするべきだろう。

そしてそれは大抵利害の衝突を含む内容を持っているので、当然双方での綱の引っ張り合いになる。それが民主主義であり(其々が自己の利益を最大化しようとすることが社会に活力を与えると考える)資本主義というものだろう。

しかしこの場合、彼らを余分に苦しめたところで批判者達の労働条件・環境が良くなるわけでもなんでもない。利害が衝突しているわけでもなければ、彼らに富が集中しているわけでもない。それどころか待機中は賃金を支払わなくても良い、ということになれば、自分達にも不利益をもたらすことになる。つまり資本主義的な発想からはまず生まれ得ない批判と言える。

何故か日本では「公務員批判=社会主義・共産主義批判(即ち資本主義的)」であるかのようになっているが、むしろこの批判は、底辺に合わせることで平等化を図ろうとする共産主義的な発想の下でしか生まれてこないものなのだ(――なりたい職業ランキングにごみ収集が上がることは先ず考えられないし、実際彼らの労働条件や環境が批判者らのそれよりも恵まれているのかどうか自体疑わしいが)。 

日本では表面上「共産主義=悪」ということになっている。つまりブランドとしてはそれは大変不人気なわけだ。しかしこのような批判を行う者が大勢いるということは、表面上はそれを毛嫌いしているように見えても、実は内容的にはそれに近しい思想を持っている人達が大勢いる、ということを示している。

しかもこの、内容的に共産主義的なものが「資本主義」という人気のブランドに包まれることで許容されるという、実に奇妙な現象が起こっている。このことが元々欠陥だらけの資本主義のパフォーマンスをことさら低下させているように思えてならない。
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働けど無職~「仕事なんて探せばあるはずだ」とは何か

なんだかんだいって働き始めて3ヶ月以上がたったが、無職問題が解決するどころか、益々廃人度合いが増しただけのように思う。今月はまた会社側の都合で自分だけ一週間休みを入れられたわけだが、休みになっても何の嬉しさもなかった。休みが終わればまたあのクソな仕事が待っているんだな、という気持ちがそれを台無しにする。(この仕事は消耗戦なので)もちろん体を回復させるという意味ではマイナスではないが、とにかく何もする気にならないのだ。結局、働いていなかった時以上に何もせず、何も考えず長期休暇を終えた。自分の長い無職生活でも、ここまで無為な時間を過ごしたことはかつてなかったのではないか。
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この仕事は一人で生計が立てられるようなものではなく、持続性もない。小遣い稼ぎにはなるかもしれないが、それ以外に得られるものが何もない(その上、フルタイムなのに健康保険も厚生年金もなければ、通勤費すら出ない。まあ自分のような未来のない人間にとっては厚生年金なんて無い方がいいかもしれないが)。次に繋がるための何かが全く存在しない。ただひたすら消耗していく、それだけの仕事だ。よく言われる、仕事した後の充実感などまるでない。仕事が終わっても、早く帰って寝て明日の仕事に備えないと体が持たないという、それだけしか頭に無い。そして起きたらまた直ぐに仕事に行き、仕事が始まれば、早く次の休憩が来ないか、早く仕事が終わらないかと、ただそれだけを考えている。そうやってただ時間だけが過ぎていく。

この無為さ度合いは、働いていなかった時以上と言えるだろう。働く機械とは正にこのことだ。そこに何の目的も意義も見出せない。この先に何か一筋の光明でもあるならまた話も変わってくるのかもしれないが、それが無いのがこのポジションだ。このようなポジションでこのような仕事をしていると、まともにものを考える気力すらなくなってしまう。

分別のある大人を演出するためによく使用される定型フレーズとして、「好きなことを仕事にするのは間違っている。できることをやりなさい」みたいなものがある。だが、ものには限度がある。好きとまでは行かなくとも、少しくらいの興味はないと成功を得たり長続きさせたりするのは難しいだろう。嘘だと思うなら、例えば、ただひたすら足元の缶に定量のブツを詰め込んで、それを積み上げて運ぶだけの仕事をずっと死ぬまで続けることができるか己に問うてみればよいだろう。自分に「できること(獲得できる仕事)」とはそんなものしかないのだ。そんな人生を誰が肯定できるだろうか。少なくとも自分はそれを肯定的に捉えることはできない。誰かが言っていた、「せめてやりがい搾取してくれ」という言葉が自分の頭の中でどんどん大きくなる一方だ。

  ***

働いてみて分かった――というか再確認した――のは、働いたからといって何一つ問題は解決しないということだ。例えばこの仕事は一ヶ月単位での更新となる。それ以前に、こんなことやっていたら体が持たないんじゃないかという懸念もあり、もう3月末で辞めることにしていた。今もまだ辞めていないのは、代替員が育たなかったことと、他に行くあてもない弱みから、ずるずるとここまで来てしまったからにすぎない。また、この現場ではもう一つブツを加工する仕事もあるのだが、どのみち続けたいとは全く思えない下らない仕事だ。

それに、今は一人暮らしではないから何とかやっていけているが、これを一人暮らしでやっていけるとは到底思えない。持ち家もないし、時給制なのに突然一週間休みを入れられたりするので(そのくせ、その後に休出があったりするのだ)。そもそも、こんなクソな労働に一生を捧げることに、そんな人生に一体何の意義を見出せというのか(日本人全員がこんな仕事をしていれば、まだ少しは我慢もできるのかもしれないが。そう考えると、やはり格差という要素は大きい)。

要するに、契約的にも金銭的にも体力的にもモチベーション的にもこの仕事は全く持続性がない。そもそも持続させる意義も感じられない。かといって、履歴書書けない、組織に上手く取り入ること(就職活動)ができない不治の病にかかっている自分は、もっとマシな新しい職――持続可能なそれ――を得ることもできない。そして持続可能でないということは、いずれまた無職に戻るということが確約されているということを意味する。即ち、このような条件でいくら働いたところでいつまでたっても無職なのだ。何度も言うが、労働問題、無職問題とはポジション問題であり、行為問題などでは決してない。

そしてポジション問題であるからこそ、ポジション取りに成功した者は失敗した者に、「お前みたいな奴が就職できるわけ無いだろw」と「グダグダ言わずに働け」を同時に投げつけるわけだ。年齢制限や、未経験者不可、職歴の汚れ、その他就活に伴う様々な儀式によるふるい落としも同様。

即ちそれは、既存の優位なポジション、その砦を守るためのものであると同時に、そこに侵入することを許されなかった者達に圧力をかけ、誰も引き受けたがらないポジションへと追い込むためのものなのだ。つまるところ「働け」「仕事なんて探せばあるはずだ」とは、誰も引き受けたがらない(しかし誰かにやってもらわねば困る)役割をお前らが担え、そしてそれに俺達を依存させろ、という叫びであると言えるだろう(――ここでは普段唱えられる市場原理やインセンティブが一切無視されている。所詮それらの概念は政治的道具でしかないのだ)。そしてそのような社会構造・システムへの巧みな依存を「自立」と人は呼んでいる。

 ***

中東の貧困地域だと、行き場のない人間が「世の中をよくするために働かないか(テロリストにならないか)」とリクルートされたりするらしいが、今の自分の立ち位置は結局それと何も変わらない(働き始めた発端は、母の知り合いの知り合いが派遣会社の社長で、誰か手の空いているものはいないか、と電話がかかってきたこと)。そして時が来ると、「俺、何でこんなことしてるんだろう」と思いながら死んでいくのである。

働くことは他人のため、社会のためになると多くの人は言う。そしてそれが生きる価値の社会的証明書のようになっている。だがその他人や社会は、自分が死のうが苦しもうがなんとも思わないどころか、ただメシウマするだけなのだ。そんな奴らのための労働など何故しなければならないのか。何故そのような構造を守る歯車のひとつにならなければならないのか。人間の流儀にそって善悪という概念の俎上に載せて鑑みてみれば、この労働は自分の中では明確に悪である。それでも今働き続けているのは、自分の弱さによって、ある意味(社会的に)楽な方向へと流されているからにすぎない。

全ての者にとって良き社会など存在しない。「社会が良くなる」とは、その者にとって都合の良い景色が見られるようになることでしかないだろう。そう考えると、自分にとって「社会が良くなる」ことは決してないだろう。かといって、実態のない「社会」にダメージを与え、復讐を果たすこともできない。であるならば、自分がなすべき仕事は社会のためでも社会に報復するためでもない、もっと別のことということになる。その上で自分が何を出来るのかといえば……結局、こうやって人間社会への憂さを書き募ることくらいしかないように思う。

それは誰のためにもならないし、誰にダメージを与えることもできない。他人から見ればとてつもなく下らないことに思えるだろう。だがそれでも、今やっているこの仕事よりはよっぽどましに思える。何にせよ、残された時間は余りないだろうし、こんな日本版「何とか武装勢力」みたいなところに所属して「世のため人のため」に活動している場合などではないのだ。残された仕事をさっさとやり終え、死ぬ時にはもう何も言い残すことなど無い、と言えるようになっておかなければならないのだから。

というか、働いているはずなのに一日中ツイッターとかやっている人って一体どんな仕事をしているんだろう。自分もそんな余裕のある(収入付き)仕事に付きたいよ。それで、今自分がやっているような類の仕事は「仕事なんて探せばあるはずだ」とか言う人達に全てお任せします。――いや、マジな話、そういった全く異なったものを「労働」として一括りにすることは、「労働」という概念が行為や内容を主体としたものではないということを認めているようなものではないか。にもかかわらず、労働問題や無職問題を行為問題であるかのように語るからおかしくなる。

ポジション争い問題である労働問題は何故道徳的に解釈されるのか

――以下、しばらくただの愚痴が続く

監督役の社員って基本働かんよね。うちの部署の監督役社員が現場ですることといったら、生産しているものの出来がラインに流していい程度のものかどうかを判断することと、必要があれば2、3の情報を伝えるだけ。後は現場にいてもやることがないのでずっとボ~っとしているだけだ(ずっと現場にいるわけではないが)。まあそれだけなら大してなんとも思わないのだが、そういう人間から、効率が悪いだの作業の合間にボ~っとして人がいるだの言われると腹が立つ。一番働いてないのはお前だろうと。

効率のことにしても、ノルマ分が達成できないペースで回っているなら、それに対して注文をつけるのなら分かる。だが、十分それが達成可能なペースで回っているのに、何を文句を言うことがあるのだろう。どうもその監督社員は、通常より1サイクル多めに回したい野望のようなものを持っているようだ。だが自分達は工場ではなくラインとの契約になっていて、そのラインでの生産が追いつかない時に臨時で雇われている身でしかない。つまり、通常よりも多めに生産すればその分体を消耗するだけでなく、生産に余剰が出ればそれだけ早く契約が打ち切りになるわけで、こちらとしては全く何の得もないのだ。それで頑張る気になるはずもないだろう。

この社員は以前にも、使い捨ての自分達に対して向上心がどうだの、早く一人前にだの言っていて、何か勘違いしているな、と思っていたが、やはり思った通りの人間だったようだ。その上――この工場は食品関係なので、帽子から髪の毛を出さないようにしなければならないのだが――自分は帽子から髪の毛を出しながら、髪の毛が出ている人がいる、と言って注意したりして、あきれ果てた。ギャグかと思ったわ。

――ここまでただの愚痴

 ▼ユートピア不在の現実におけるポジション争いとしての労働問題

何が言いたいかと言うと、結局労働問題というのはポジション問題でしかないということだ。3Kな上に人手が足りない時だけ発生する一時的ポジションもあれば、実際に行為としての労働をせずに、自分が出来てもいないことを偉そうに言っているだけで労働をしたことになるポジションもある。つまり、行為としての労働と「勲章としての労働」は全く別のものなのだ。さらに言えば、大きな資産があれば、そもそも労働問題は免除される。即ちその問題は所詮ポジション次第ということだ。

純粋な行為としての労働を幾ら沢山したところで経済が良くなるわけではない。それで収入が増えるわけではない。国民が皆「せーの」で一斉にそれをしたところで国家の財政が安定するわけではない。利益は行為としての労働そのものから生み出されているわけではないからだ。それどころか、いくら生産(労働)したところで、その効率を上げたところで、ものが売れなければそれはマイナスにしかならない。つまり、行為としての労働は経済的豊かさとも全く別のものなのだ。こうしたことを考えると、労働における主軸はあくまでポジションであり、行為としてのソレは従たる物であるということになる。実際、ポジションとしてのソレを獲得して維持していれば、行為としてのソレをしていなくとも労働していると看做されるが、ポジションとしてのソレを獲得出来ずに行為としてのソレと同等のことをしたところで、世の中的には労働したことにはならないだろう。

さらに言えば、労働がポジション問題であるということは、赤字の会社がそれでも経営を続けようとするところにも表われている。労働とは必ずしも利益そのものを出すためのものではなく、あくまで持続可能なポジションを獲得し、守るためのものなのだ。

こういったことから、恰も行為としての労働から富が沸いて出るかのような前提を持って進められる話や、労働を苦労や努力と読み替え、それ故に労働は尊いとする言説が如何に現実離れしているかが分かる。実際には、漠然と「労働している」という時、それはその者が何らかの収入を得られるポジションを確保している、ということしか示さない。

逆に言えば、その者にとって収入を得ることができる持続(乗り換え)可能なポジションを手に入れることができなければ、いずれその者は無職になる。つまりその社会において、全ての者に“(人間は平等でない以上)その者にとって”収入を得ることができる持続可能で獲得可能なポジションが用意されていなければ――そのようなユートピアが成立していなければ――その分だけ無職が存在することになる。その中で人々はポジション争いという競争を行っている。しかし競争だから、当然全ての者が社会的に認められたポジションを獲得することはできない。

労働問題というのは結局このような、全ての者に持続可能で獲得可能な社会的ポジションが用意されていないというユートピア不在の現実において、誰がどのようなポジションを獲得したか、という話でしかない。

 ▼労働問題は何故道徳的に解釈されるのか

ところがその現実問題は、観念的な道徳問題に摩り替えられてしまう。そこではユートピアの存在を軟弱者の夢想と嘲笑う一方で、恰も全ての者に社会的に認められる持続可能なポジションが用意されているかのようなユートピア的状況※1が、或いは苦労した人ほど報われ(てい)るそれが既に成立しているかのような前提で話が進められる。競争の負の側面である敗者(離脱者)の出現という現実は、それにより個人の意志の問題に置き換えられる。

さらにそこでは、競争は表向きには賛美されているが、実際には競争原理を働かせるために必要な要件――出来るだけ多くの者が参加可能で、持続可能なものであること。そして参加した全ての人間に勝利や良い勝負の可能性を予感させること――が根こそぎ刈り取られ、極力それが働かないような仕組みになっている(しかもそのような仕組み作りは大抵、競争意識を高めるため、という大儀の下で推し進められる)。

だが幾ら現実を意志の問題として精神論に置き換えてみても、解決しないものはしない。それに極力競争原理が働かないような仕組み作りをしているわけだから、当然そこから離脱する者も出やすくなる。問題を改善するには、先ずそこに手をつけ、より多くの人にとって持続可能且つ獲得可能なポジションを増やすしかない。だが実際にはそれは難しいし、かといって、自分達のポジションをよりよきものとして守るために、或いは不公平感のために、その者達にプラスのインセンティブを与え、それに向かい易くするような状況の改善もしたくない。それなしに何とかその者達を働かせたい。こういった思惑と現実のギャップを埋め合わせ、辻褄を合わすために労働問題は道徳的に――つまり個人の心掛けしだいで解決できる問題として――解釈されるわけだ。



※1 この公然の嘘を余りにはっきりと否定してしまったが故に「社会に受け皿がない」判決は問題になった。もしそれが本当なら、初めから社会に見捨てられていた彼にはそもそも社会規範を守ったり、責務を果たす必要が全くなかったことになる。つまり彼はそもそも近代法の外にいたことになる。そして刑罰を報復と捉え、それを筋の通ったものとして認めるなら、彼の行為もまた筋の通ったもの(彼の存在を否定した集合体への報復)であったということになる。

不労問題における職の獲得可能性と持続可能性の重要性について

十二月初旬頃に、母の知り合いから仕事があるが誰か手の空いている人はいないか、という電話がかかってきた。じゃあ行きます、ということで行ってみたら、その母の知り合いの知り合いが人材派遣の社長で人数合わせに奔走していたらしく、ただ今派遣で社会の使い捨て調整弁として絶賛バイト中。最初の二週間が研修期間で、来年から一ヶ月半短期(最初は一ヶ月だったのに、急に半月延ばされた)の夜勤になるのだが、その前にお歳暮時期の人数合わせで四日間行かされたバイト先で手首を傷めてしまい、さらに今の場所で変な物の持ち方をしてそれをさらにこじらせてしまったので、最後まで体が持つかどうか不安。
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で、実際に十数年ぶりに社会に出て働いてみて改めて思ったことがある。それは職の獲得可能性と持続可能性の重要性だ。

――作業をしただけでは労働にはならない。労働を行うためには、予め作業を労働にならしめる環境を獲得していなければならない。労働とは、そういった環境を含めた社会的ポジションを守るための活動のことに他ならない。故に、態々労働をしなくとも社会的ポジションを維持することができる人間は労働をする必要なんてないし、逆に未だ作業を労働にならしめるポジションを獲得していない人間は、決して労働をなしえない。これこそが不労問題の根幹だ。

よく無職の人間に「働け」と言う人間がいるが、こんな馬鹿げた話はない。何故なら、無職の人間は作業を労働にならしめる環境を獲得することが出来ないが故に無職なわけで、そういう人間に向かって「働け」と言うのは、ボッチであることから抜け出せない人間に対し、その問題をすっ飛ばしていきなり「キャッキャウフフしろ」と言っているのと同じようなものだからだ。「働け」というセリフは、そういう環境、能力を既に獲得し、後は作業さえすればそれが労働になる状態を獲得している者にのみ向けられるべき言葉なのだ。

つまり、世間一般では不労問題は個人の意志の問題とされているが、本当はそれは労働可能な環境を手に入れることが出来ない人間がいる、という問題に他ならない。

だから自分のような、生まれてこなかった方が良かったと思っているし、今後もその思いが覆ることもないという確信を抱いているような、人生に何の意義も感じない後はただ死を待つだけの人間でさえ、職(世間一般ではバイトは職にすら入らないのかもしれないが)に就くためのハードルが低ければ、即ち自分にとってその環境が獲得可能であるならば、ついうっかり働いてしまったりするわけだ。

 ***

実はこのことは、本当は誰もが知っていることなのではないか。しかし皆全力で目の前にあるその事実に気付かないフリをしている。というのも、本気で不労問題を改善しようとすれば、今既に社会的ポジションを獲得している者達にも、それなりの負担や努力や変化が求められることになるからだ。だが「労働問題」の実際は「ポジション争い」なので、皆それをしたくない。それ故結局不労問題は、個人の自意識の問題に摩り替えられる(時には万能感がどうこうという批判を織り交ぜながら。状況成立の原因を自意識に見出すことこそが自意識万能論であるのに)。

そもそも、手を挙げた者全てに職が与えられる環境が成立していないどころか、むしろそこに辿り着けないような様々な障害を設けておきながら、「働け」も何もないだろう。とりわけあの就活という奇妙な儀式・選別は、カルト以外の何ものでもない。あの儀式のせいで作業を労働にならしめる環境の獲得を諦めた人間は大勢いるだろう。そうやって態々多くの者がそこに辿り着けないよう仕向けておきながら、「やつらは何故働かないんだ」と本気で思っているなら、正直それは救いようのない馬鹿と言う他ない。

だがもちろん、多くの者はそんな馬鹿ではないだろう。あの儀式や様々な障害は、社会的競合により生まれるポジション取りの一環として行われているものだ。そこで上手くやれば社会のコアとしてのポジションを得やすくなるし、そうでなければ末端として自分のように、コアを守るための使い捨て用品としての活躍を求められることになる。皆が不労問題に関して「馬鹿のフリ」をするのはそれを期待してのものだろう。日本人は基本的に自身の感覚に真理を見出す一神教の集合体で、それ故社会的合意も全く出来ないわけだが、これに関してだけはものすごい団結力を発揮する。普段は自らの賢さを競い合っている者達も、この時だけは皆こぞって馬鹿になりたがる。

このことは、「競争原理」や「インセンティブ」に分かり易く表われる。負けると分かっている競争(就活)に参加する者はいない。獲得可能なポジションが使い捨ての消耗品としてのものであれば、それを得ようとする意欲も低下するだろう。競争原理から言えば、極力多くの者が参加が可能で、持続可能な競争環境を作るべきだし、インセンティブという面から考えるならば、働かない者はその意欲を持てない、或いはそれが可能でない状態にある、ということになるはずだ。「インセンティブ」の出自は、意識は行動の原因ではない、という行動主義にあるわけだから、それを元にして考える以上、問題の原因を自意識に求めるなどあり得ない。ところが、普段は「税の累進性を高めれば労働意欲がなくなるからやるべきでない」というようなインセンティブ理論を唱える者達が、不労問題では急に、何故彼らは労働意欲がないんだ、と憤り、(行動主義的ベクトルと間逆の)精神分析を始めたりするわけだ。

 ***

実際に社会に出て労働をしてみたものの、全く未来の展望は持てない。無職の頃となんら変わっていない。というか、自分に残された時間はどのみち後僅かだろうし、元々この時間は余生でしかない。その余生をこんな下らないことをして過ごすべきなのかと考えれば、この状態は決して前よりよいものとは言いがたい。労働行為そのものは、状況を変えないのだ。「雇用のミスマッチ解消」とは結局この――コアを守るために取りこぼし無く末端を使い捨て用品として利用し尽くす――ことだったんだなと、今さらながらその理論の下らなさを噛みしめている。

そもそも、口ではともかく、実際は誰も端から労働なぞ重んじていない。労働を苦労に読み替え、それが少しでも報われるようなシステムにしようとするならば、同一労働同一賃金にしなけらばならないし、辛い仕事ほど高い報酬を得られるようにしなければならない。だが実際は全くそうなっていない。それどころか、むしろ逆の場合の方が圧倒的に多いだろう。重要なのはポジションなのだ(バイトが職とみなされないところにも、労働が重んじられていないことが表われている)。そして作業を労働にならしめるポジションを獲得することができていなければ、そもそも決して労働はなしえないし、仮にそのようなポジションを獲得していても、それがロクでもないものであれば、やはりそこでの労働もロクでもなかったり、持続不能なものにしかならない。

重要なのは、それがその者にとって獲得可能であるというだけでなく、持続可能であるということだ(人間は平等でないからこそ、「その者にとって」という要素もまた非常に重要になる)。この二つの条件を満たしていなければ、その者にとってその環境を獲得することが、あるいはそれを獲得しようとすることが意義深いものにはなり得ないし、そうであればいずれそれは不労へと繋がることになる。

経済成長を諦め、貧しくてもなんとか生きていける道を見つけよう、という考え方はよく揶揄される。確かに経済成長がゼロならば、その国はどんどん貧しくなっていくだけだし、それを目標にするには政策として問題がある。だが逆に、経済成長さえすれば問題が全て解決するかのような考え方もそれと同じくらい駄目だろう。

今の若い人は、バブルの頃は皆が豊かだったかのように勘違いしている人もいるかもしれないが、実際はそうではない。バブルの頃も貧しい人間は貧しかったし、誰もが安定した職に就けていたわけでもない。バブルの頃でさえ、一度コースを外れた人間はやはり今と同じ不安定雇用だったのだ。そしてやはり底辺労働者は持続が困難な、消耗品的なポジションで働いていた。もちろん、それでも職があるだけマシと言う人もいるだろう。そして景気が良くなればコアのポジションを獲得する人は増えるし、末端の同じような仕事でも、例えば今より自給が50円~100円高くなったり、残業が多くなるためその分給料が増えるということもあるだろう。だが所詮その程度だ。末端が使い捨てられる状況は結局今と変わらない。結局それだけだと、誰がコアのポジションを獲得し、誰を末端へと追いやるか、という問題にしかならない。

まあ労働問題の根幹がそれ(ポジション争い)である以上、それ自体の性質を変えることはできないだろう。しかし少なくとも不労問題については、その者にとって獲得可能であり尚且つ持続可能である労働環境が予め用意されているか、ということこそ考えなければならない(――この持続可能とは、必ずしも一つの職に留まり続けるということのみを意味するのではない。例えば、ある労働が何らかの積み重ねになるのであれば、それは次へと繋がる可能性が出てくる。だが今自分がやっているような仕事は、ただ消耗していくだけで何の積み重ねにもならないし、全く次へと繋がらない。それでは駄目だということ)。それを考慮に入れない論考や解決策は、全く評価するに値しないものであることは間違いないだろう。

労働という名のポジション維持活動

【7/7】最初は時事ネタと絡めて書いていたが、この手のものはそういったものと絡めても余りよいことがないと思い、その部分を削ると同時に、他の部分にも手を加え再構築して投稿し直した。

 ▼労働を規定するのは勤勉さでも努力でも内容でもない

勤勉さや努力が労働の源であるかのように解釈されることは、よくある。だがそれは誤りだ。何故なら労働は作業ではないからだ。幾ら作業をしたところで、それだけでは労働にはならない。作業を労働にするには、まずその作業が労働とみなされる環境を手に入れなければならない。それを入手できなければ、一般的な意味としての労働は為し得ない。そして作業を労働にならしめる環境を手に入れていない状況での勤勉さは、以下のようなものになってもおかしくない。

てきとう:ネトウヨが平均3・5時間しか眠らず、1日1000回書き込みしていることが判明しネットでは騒然

これは努力についても言える。報われる可能性が極めてゼロに近いのに「絶対に諦めないストーカー」などは、ちょっと通常では考えられないほどの努力家だ。だが、作業において人並みはずれた勤勉さや努力を発揮したからといって、それだけで労働であると判断されることはないだろう。こういったことから、労働の源は勤勉さや努力ではないということが分かる。

そしてそれが労働の源ではない以上、労働に関する種々の問題を勤勉さや努力の問題に読み替えることもまた間違いということになる。もちろん、作業を労働にならしめる環境上において発揮される勤勉さや努力もあるだろう。だがそういった状況が存在することは、労働を勤勉さや努力に読み替えることの誤りを払拭するわけではない。

労働は勤勉さや努力によって生みだされるのではない。作業を労働に変える環境によってこそ、それは生み出される。それを手に入れているなら、その内容が皆から尊敬の念を抱かれるようなものであろうが、眉をひそめられるようなものであろうが、それらは全て等しく労働とみなされる。極端なことを言えば、何もしていなくとも労働しているとみなされ、給与を獲得できるポジション(環境、肩書き)だって存在するだろう。

或いは、本来規制側の仕事を請け負っていたはずの原子力安全保安院が実際にはその逆の役割を担っていたように、掲げられた看板と間逆のことを行い、それが労働であるとみなされている場合もある。これらは一見妙にも思えるが、労働は内容によって規定されるのではない、ということを押さえた上でそれらを見れば、決して不思議な出来事ではないことが分かる。

 ***

結局、労働を労働たらしめているのは、勤勉さでも努力でも内容でもなく、その状態を労働にせしめる環境であり、ポジションなのだ。よって、その環境を手に入れ守り続けなければ労働は存続できない。そうである以上、必然的にそれを獲得し、守ることこそが労働の第一使命ということになる。つまり、作業を労働にならしめる環境を手に入れた者が、それを守り続けるために行うポジション維持活動こそが労働の正体であると言えるのではないか。

だから、幾ら内容を重んじようと、それは維持活動という「主」に対する「従」の立場しか獲得し得ない。もちろん、場合によってはそのポジション維持活動において内容が重んじられることはあるだろう。だがそれは、逆に言えば看板に書かれている内容がポジション維持の邪魔になれば、それが踏みにじられることをも意味する。労働がこういった性質を持っている以上、「何をしているか」という内容よりも「仕事をしている」という体裁を取り繕うこと自体が目的化していくことになるのは避けられないだろう。

であるからして、内容を蔑ろにした労働が招く災いに対して、「しっかり労働せよ」という抑圧を掛けたところで、それは全く的外れな解決法にしかならない。何故ならそれは、実質的には「もっとしっかりポジションを維持せよ」と言っていることにしかならないからだ。それはむしろ、労働を重んじるが故により内容が軽んじられるような自体を招きかねない。

これは不労問題についても言える。そもそも作業を労働にならしめるポジションを獲得できていない者に対して幾ら「働け」と言ったところで、ポジション獲得が前提条件である労働をすることなどできるはずもない。結局のところ不労問題の多くは、労働しようとする意志云々というより、維持することが可能な社会的ポジションを獲得する能力の無さに起因している。

市場で値踏みされるのは労働者の側だけではない

 ▼其々で異なる「会社」と「労働」の中身

若い世代でネガティブな労働観が増えている! - ダイヤモンド・オンライン

藤野 私は、明治大学でベンチャー・ファイナンスの授業をやっています。そこで感じることなんですが、日本の大学生は最近、すごく保守的になっていて、海外に出ていくどころか、ベンチャー企業や小さい企業よりも大企業に就職したい、さらには地方公務員になりたいという志向が強まっています。

 その背景には、「会社嫌い」、さらには「労働嫌い」の思想が広まっていると思うんです。「働くことによる社会的な充足感」をすごく否定する雰囲気が広がっている。なるべく働かない方がいいという……。(中略)

 僕が言っているのは、一所懸命働くことを是とする会社を、一律に「ブラック企業」とか呼ぶ風潮に対する疑問です。それは、「労働というのは、ストレスと時間とをお金に換えている」というような考え方であって、今、こうした労働に対するすごくネガティブな価値観が急速に広がっている気がするんです。

 これって、ものすごく古びたマルクス主義じゃないですか。資本者家がいて、労働者を搾取しているという価値観。働くということは、時間とストレスの代償としてお金をもらうことだから、なるべく労働時間は少ないほうがいいし、残業はない方がいい。でも、そうした考えの人は、働くことの充足感があまりないんです。

「会社」や「労働」はそれの持つ内容を表さない。一言で「会社」「労働」と言っても、其々にとってのそれらとの関係や内容は、全て異なる。もし仮に「会社嫌い」や「労働嫌い」が多くの者に広がっているとすれば、それは労働市場において多くの者に忌み嫌われるような会社及び労働条件が溢れかえっていることを意味する。「労働というのは、ストレスと時間とをお金に換えている」と考えるのは、思想のせいではない。実際にその者が携わっている労働との関係が、取引でストレスを金に代えること以外に意義を見出すことができないような内容を持っているからだ。

逆に言えば、「会社嫌い」や「労働嫌い」の思想を持っている人間でも、それらが持つ内容が内容であれば、それに好印象を抱く可能性もある。よって、「会社嫌い」や「労働嫌い」を口にする者は、会社や労働という概念そのものを嫌っていると言うより、自らが関わってきたそれらや、今現在における趨勢としてのそれらの在り様に嫌悪感を抱いていると考えた方が妥当だろう。

そして、彼らは変に理論武装していて、こちらが働くことの充足感を伝えようとすると、「資本主義をうまく働かせるために、そういう幻想を振りまこうとしているんだ」と反論してくる。

このことを理解できていないからこういう発言が出てくる。其々にとって「働くこと」は其々別の内容を持っている。そして「充足感」はあくまでそこから導き出された個人の感覚でしかない。だからそれを他人に伝達することはできない。

其々にとっての会社や労働の価値判断は、それらがその者の人生の中でどのような位置を占めているかという背景によっても変わってくる。そういう留意点はあるにせよ、基本的に「働くことの充足感」を教えるには、其々にとってそれを感じさせるような労働環境を提供することでしか叶わない。よって、より多くの人間に「働くことの充足感」を感じてもらうためには、市場にそういった労働環境がより多く出回るようにするしかない。それを思想の押し付けで達成しようとするのは無理がある。

それに、この論者は学生の理論による反論に不平不満を漏らしているが、自然科学の授業ではないのだから、お互いの理論をぶつけ合ってこそ大学の授業と言えるのではないか。理論での反論を否定し、自身の個人的感覚に正当性を依拠した思想を一方的に押し付けるのは、講師が大学でやるべき仕事ではないはずだ。

 ▼自由市場への称揚と非難のダブスタから生まれる自意識批判

しかしこの記事でなされている何より大きな勘違いは、会社は労働者側を一方的に値踏みする側だと錯誤していることだ。終身雇用が崩壊した現在において、会社は労働者にとって単なる取引相手でしかない。そこでは会社が労働者を値踏みするように、会社もまた労働者から値踏みされる。市場とはそういうものだ。そして、多くの日本人、取り分け経営者達は、自由市場を機軸とした資本主義を称揚し、市場をより自由化すべきであると唱え続けてきたのではないか。

だが、「ベンチャー企業や小さい企業よりも大企業に就職したい、さらには地方公務員になりたいという志向が強まってい」るとすれば、それもまた市場によって導き出された一つの評価であると言える。この人物が言うところの「一所懸命働くことを是とする会社」が何故ブラック企業と言われるかと言えば、それはそれらがなるべくなら忌避したい、粗悪な取引相手だと市場で判断されているからだ。

 消費者のニーズや評価に関係なく、独善的に一所懸命に技術開発に打ち込んで、自己満足な高技術テレビを実現すればそれでいいと思ってるんだろうかと驚きました。

人は労働のために労働をするのではない。多くの者はただ単に自身の社会的ポジションを維持するためにそれをしているにすぎない。労働にそれ以上の特別な意味を見出すか否かは、信仰の領域での話しだ。よって、(信仰の自由を重んじるなら)自身のそれを他人に押し付けたり、他人のそれを否定したりすべきではない。

そして今、市場において多くの会社が「“労働者”のニーズや評価に関係なく、独善的に一所懸命に“自身の自己実現の押し付け”に打ち込んで、自己満足な“会社運営”を実現すればそれでいいと思ってるんだろうか」と煙たがられているわけだ。そういった市場の動向に対し、この者達は不満を漏らしている。だが自由市場であるなら、会社が労働者側から値踏みされることは避けられない。

つまり、この記事でなされているそれは、自由市場を機軸とする資本主義そのものへの不満なのだ。しかし一方で、「より自由な市場」を大儀として持ち出すことで得られるであろう政治的効果は手放したくない。その結果その不満は、労働者(及び潜在的なそれ)に対する自意識批判という歪んだ形で表れることになる。それがこの手の言説の正体だろう。

労働/失業問題は作業問題でも心の美醜の問題でもなく、ポジション問題

 ▼(1)「働かない/働きたくない」は何を意味するか

作業をしたから労働になるわけではない。労働をしたから金が得られるのでもない。金の流れの中に上手く身を置くことができているからこそ金銭を獲得することができ、それによってその者は労働を獲得する。そのポジションを上手く確保することさえできていれば、活動の内容によってそれが労働であることが否定されることはない。例え大儀と違ったことをしていても、幾ら下劣な行為によってそれを確保していたとしても、それらは全て「労働」という一つの枠組みで捉えられる。

労働は、活動の内容によってそれになっているのではない。ポジションがそれを労働にならしめている。労働問題と言うのは、そのポジションを如何にして獲得し、維持するか、という問題。そしてそれを獲得できなかったり失ったりすると失業者になる。逆に言えば、そのポジションを獲得することができなければ、幾ら作業――例えば他の労働者と寸分変わらぬそれ――をしてみたところでそれは労働にはならない。

つまり「働かない」が持つ内容とは、作業をしないことではなく、そのポジションを獲得する能力が無いということを意味し、「働きたくない」とは、持続不能なポジションしか獲得できず、遅かれ早かれ同じ結果になることが分かっているから、それならもうポジション争奪戦には参加したくない、ということを意味する。

ところが実際には、ポジション争奪能力の欠落、喪失ゆえに生じる「働かない/働きたくない」問題は、その個人が活動をする気を持っているか否かという意志の問題や、作業問題であるかのように捉えられていることが多い。

 ▼(2)「心の美醜の物語」の市場価値

当たり前のことだが、社会的ポジション争奪戦には常に競合相手がいる。よって自分の意志(一存)だけでそれ――ひいては労働を行うか否か――を決定することはできない。また、全ての人間に、その者にとって持続可能なポジションが用意されているわけでもない。故に、必ず誰かが脱落していくことになる。

このポジション争いは、市場における商品の流通の問題として見ることもできる。この世に生まれてきた全ての商品に買い手がつき、それが価値を持ったものとして市場で流通し続けるなどということはあり得ないだろう。それと同じで、この世に生まれてきた全ての労働力(商品)が市場で価値あるものとして流通し続けるなどということもまたあり得ない。そこにはどうしても、売れ残りや使い捨て、消耗による流通価値の消滅という問題が付きまとう。

要するに、労働/失業問題とはポジション獲得問題であり、商品流通の問題でもある。失業者はそのポジション獲得(維持)能力が無いが故に、失業者となる。商品として売れ残ったり、消耗などによって流通価値が消滅するが故に、その者は無職になる。だからといって政府が市場に介入し、全ての商品が上手く流通し続けることができるような環境を作り上げることができるかと言えば、それは中々難しいだろう。全ての人間に持続可能なポジションを提供することもまた困難だ。――さて、この普遍的問題にどう対処するのか。それが失業問題の出発点だ。

しかし、この人類の持病たる解決不能なポジション争奪問題は、働く意志があるかないかや、成熟/未成熟などといった、個々人の精神の貴賎の問題に摩り替えられ、矮小化されてしまう。つまり、その普遍的問題はもう既に解決しているのだが、卑しい心の持ち主のせいで未だに問題として残り続けている、というような、「心の美醜の物語」によって現実は解釈される。そしてその物語の話題によって問題の核心はかき消される。

もちろんこれは別に労働/失業問題だけに限ったことではない。「心の美醜の物語」――もう少し具体的に言うなら、内面批判・自意識批判――で問題の核心が覆い隠されてしまう傾向があるのは、他の様々な問題についても言えることだ。

何故そういったことになるのかと言えば、それは「心の美醜の物語」に強い市場価値があるからだろう。それゆえ、その物語をより魅力あるものとして提供することができる人間は、ポジションの獲得や維持が容易になる。だがこの「心の美醜の物語」は、問題を適切に捉えたり、それを改善しようとするベクトルにとっては邪魔なノイズでしかない。よって、その問題の解説や解決のための処方箋としてそれを提供しているのなら、それは大儀と違った内容の活動をしていることになる。

――しかし、労働は内容によって労働になるのではない。ポジションによって、市場価値によってそれは労働になる。よってその条件を満たしている以上は、「心の美醜の物語」の提供もまた、他のそれらと同じ尊く崇高な労働であり続けることができる。人々を魅了する美しいノイズとして市場に流通し、鳴り響き続けることができる。労働とはそういうものだ。

「労働」という名のマクガフィン~労働問題は作業問題ではない

人間社会を『アリとキリギリス』的な世界観で理解しようとする風潮は昔から根強くある。しかし、人間社会には『アリとキリギリス』のような作業さえしていれば誰もが幸せになれるユートピアは存在しない(社会的競合も資源の枯渇も存在しないという前提条件の下で、其々が落ちているものを自由に持ち帰って蓄えるのが『アリとキリギリス』における労働)。人間社会における生存活動について知ろうとするならば、作業について考察するだけでは不十分だ。何故ならそれの本質は作業ではなく、社会的競合という条件の下、「労働」というマクガフィンを巡って行われるポジション争いだからだ。
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人間は「労働」というマクガフィンを巡る物語に依存した形でしか大きなまとまりを得ることができない。人間とはそういう生き物。

そして「労働」は、具体的な条件を伴った明確なものとしてそれを定義づけることができない。何故なら、それがなされてしまった時、もはやそれはマクガフィンではなくなってしまうからだ。その魔法が解けてしまった時、その「労働」は人々を結びつける力も神聖さも尊さも誇り高さも全て失ってしまい、ただの作業へと成り代わる。そして「労働」は「労働」としての価値を、人々はまとまりを、一般的共有物としての世界観を失う。

故に「労働」は決して明確で統一的な定義を持ち得ない。ただその都度、マクガフィンとしての力を獲得した活動がそれとして認識され得るのみだ。そしてそれが「労働」という称号を、つまりマクガフィンとしての力を獲得しているうちは、その内容について問われることはない。「労働」とは元々内容を表しているわけではないからだ。幾ら阿漕な商売をしていても、幾ら道義に反する方法でその称号を手に入れ、守り続けていても、それがその称号を保持しているうちは、他のそれらと同じ神聖で尊く誇り高い“何か”でしかない。そしてその“何か”を保有しているが故に、その者は世間に対して胸を張ることができる。

逆に幾ら努力や作業をしてみたところで、その称号を、マクガフィンとしての力を獲得することができていなければ、その活動はただの個人的趣味や利己的行為、或いは無駄な行為としてしか認識されない。例えば二人の人間が全く同じ作業をしてみたところで、公認労働環境を獲得することができた人間とそうでない人間では、一方は労働をしたことになるが、もう一方は労働をしたことにはならない。

 ▼(1)何がそれを「労働」へと変化させるのか

単に作業しただけでは「労働」にはならない。それが「労働」に成り代わるためには、他にも何らかの条件をクリアしなければならない。では、そもそも世間一般では何をもってしてその作業が「労働」であると判定されているのか。一体どのような条件を満たせばそれをしているとみなされるのか。

金を儲けるための動きを取れば「労働」をしたことになるのか?しかしその考え方は、「しようとした」という個人の感覚を根拠にしようとする論理であり、全くお話にならない。では実際に金銭獲得に繋がる活動をすればそれが「労働」になるのか?いや、必ずしもそうとは言えないだろう。例えばホームレスは非常に過酷な条件の下、日々働き続ける労働者であるはずだ。もし「労働」にともなう苦労、即ち「内容」がそれを神聖で誇り高いものにしている正体であるとすれば、一般よりもより大きな苦労が伴うであろう金銭獲得活動を行っている彼らは、より神聖でより誇り高い存在ということになるはずだ。

だが実際にはそうはならない。それどころか、「ちゃんと仕事してくださいよ~(by加藤浩次)」などというように、働いていないことにされ、むしろ人々から蔑まれてしまうことの方が多い。暖房や冷房が効いた快適なスタジオでくっちゃべっていることが立派な「労働」とみなされる一方、正に『アリとキリギリス』のアリに最も近い活動をしている彼らは、『アリとキリギリス』的教訓が生み出す怠け者(キリギリス)として扱われてしまうわけだ。

なぜそうなるのか。稼ぐ金、動かす金が小さすぎ、経済的貢献をしていないとみなされるからだろうか?しかしそれで怠け者とみなされるというのは理屈が合わない。また、より大きな金銭を動かすための活動が「労働」なのだとするなら、ただのギャンブルもまた「労働」とみなされてしかるべきということになるはずだろう。だが、実際にはそのように認識されることは余りない。

さらに、より大きな金銭を獲得するための活動が「労働」なのだとしたら、会社員はいつ「労働」をしたことになるのか。というのも、その考えからいくと、少なくとも会社員は作業を行っているその時点ではまだ「労働」をしたということにはならない。何故なら、獲得する金銭の多寡以前に、会社員が実際に金銭を手にするのは作業よりもずっと後のことであり、もしかしたら賃金不払いでそれをもらえない可能性もあるからだ。つまりその考え方では、サービス残業や賃金未払いによる作業は「労働」には含まれないことになる。と同時に、より大きな金銭を得たり動かしたりすることほど尊い「労働」ということになる。

だが実際にはそのようには認識されていない。よってこれもまた「労働」であるか否かを分け隔てる分水嶺になっているとは言えない。それに、もし金銭獲得行為、金を動かす行為が「労働」なのだとしたら、強盗や詐欺は――法律違反ではあっても――内容としては「労働」の条件を満たしていることになるはずだ。だがそれらは内容的にも決して「労働」であるとは認められない。

では、利益を生み出す行為が「労働」なのか?しかし、だとしたら赤字の会社はさっさと廃業した方がよいということになる。赤字の国家はさっさと解体した方がよいということになる。それらは絶えず負の利益を生み出し続けているわけだから。

だが実際にはそうはならない。日本の多くの企業、そして世界の多くの国々は赤字だが、だからといってその負の利益を生み出す行為を簡単に止めようとはしない。それは、利益を生むことよりも自分達の状態や社会的ポジションをより好ましいものとして維持し続けることの方が重要だからだろう。もちろん大きな利益を生んだ方が良いに決まっている。だがそれはあくまで己の状態をより良く保つために望ましいからであって、そのためにはむしろ負の利益を生み出し続けることもやむなし、とするのが実情だ(ex.原発はたかだか数年間の発電のために、その後十万年間管理し続けなければならない廃棄物を出す。しかしそれを分かっていても止められない)。

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つまり、一般に用いられる「労働」とは決して内容のことを指しているわけではない。作業のことを指しているわけでもない。「労働」とはあくまで称号であり、マクガフィンとしての力を伴っているかいないかが、その称号が付与されるか否かを分け隔てている。

マクガフィンとしての力は、「社会の役に立っている」と多くの人々に認識される状態を持っていること、と言い換えてもいいかもしれない。もちろん、そこで重要なのは内容ではない。内容がどうであろうと、そのように認識されていればそれは力を獲得することになるし、そうでなければそれは力を獲得し得ない。

そもそも、「(こうあるべきという)社会」や「役に立っている」自体が認識上の存在でしかない。ある人物が思い描く理想にとって必要なものだけがこの世に存在する、という状態はまずあり得ない。世界は常に人間が生み出す規範やシステムの外にも広がっている。そのことから考えると、理想の外側にあるそれらも含め、あらゆる全てのものはこの世界の存続に必要であり、役に立っていると言える。しかし同時に、理想の形は人の数だけ存在し、その多くは競合しているため、「役に立っている」ものは必ず誰かの迷惑にもなっている。つまり「社会の役に立っている」とは、そういった個々人の捉え方の問題でしかない。

しかしなんにせよ、それが生み出す力が、称号の獲得が、其々が社会的に良好なポジションを獲得し、それを維持するための大きな鍵となっているのは確かだ。

 ▼(2)「労働」と「努力」が織り成す煌びやかな物語への見果てぬ夢

「労働」は内容を指しているわけではないし、作業とイコールで結びつけることもできない。ところが実際には、労働問題は恰もそれが作業問題であるかのようにして取り扱われることが多い(ex.労働者はみんなのために役立つ作業をしているから、苦労をしているから偉い)。

なぜそうなるのか。恐らくそれは、「労働としての作業」が「努力」として読み替えられるが故のものだろう。

「努力」は魂の気高さの象徴。その多寡によって尊ばれるべき者と蔑まれるべき者、つまり其々の魂の貴賎が判断されることが多い。そうやって「作業」を「努力」と読み替え、それを通して魂の貴賎と「労働」を絡めることで、マクガフィンを巡る物語はより煌びやかで求心力のあるものへと昇華する。例えば『アリとキリギリス』はその煌びやかな物語の代表的存在だろう。

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しかしそういった物語を創造しようとする試みは、何も創作物という舞台の上だけで行われてきたわけではない。現実世界という舞台においても、そういった物語を作り出そうとする動きは常にある。その一番分かり易い例が共産主義だろう。

――本来、個々人の努力具合は決して測ることはできない。全く異なった条件を持つ個々人が、其々自分が元々持っている力の一体どれほどまでを引き出してきたのか、ということは誰も知り得ない。よって其々の努力具合を比較対照することもできない。しかしながら、努力が測れないと煌びやかな物語を成立させることができない。

それを可能とするため、其々の努力具合を作業によって平等に計測するシステムを考案し、それによってはじき出された努力具合に応じて報酬を受け取る、という社会を作ろうとしたのが共産主義だ。つまり、「みんなのための作業」としての「労働」さえしていれば誰もが幸せになれるユートピアを作ろうとしたわけだ。

しかしながらその試み上手くは行かなかった。何故なら、元々この世界は作業量や苦労の多寡によって国家や人々の貧富が決まるようにはできていないからだ。そもそも、其々の理想や目的を一つに統一することがすでにできない。それは常に競合し続けるようにできている。そういった条件に抗い、人間社会を『アリとキリギリス』的ユートピアへと変貌させようとする社会実験は失敗に終わったのだ。

しかし未だにそういった、作業さえしていれば、努力さえすれば誰もが幸せになれるユートピア、「労働」と「努力」のハーモニーによって醸し出される煌びやかな物語への夢を、多くの人々は捨て去ることができない。

何とかしてそれを現実世界という舞台の上に作り上げたいという思い。或いは既にそれが現実世界において成立していると信じたい、という思い。そういった人々の思いの強さが、労働問題が恰も作業問題であるかのような錯覚を生み出し、支えている。

プロパガンダ広告化する日本の風景

教育学術新聞 : 教育学術オンライン 第2405号|日本私立大学協会

さて、「就職力」だが、2階建ての瀟洒なキャリア支援センターの入口には1万円の札束が山積されている。2つの札束の山がある。大きいほうが2億9000万円、もうひとつは、半分ぐらいで9120万円。キャリア支援センター事務部長の久保裕道に聞いた。
 「正社員とフリーターの生涯賃金です。このように、卒業後の現実をわかりやすく形にすれば、学生も真剣に就職に取り組むのではないか、とつくりました」。むろん本物の1万円札ではない。

最近思うのは、現実の風景が益々昔の共産主義国家のプロパガンダ広告のようになってきたなあ、ということ。
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流石に実際に札束(の模造品)の山を積み上げているような大学はそう多くはないだろうが、どこの大学でも大抵はこういった情報を学生に耳がたこになるほど教え込んでいるだろう。また、別に大学でそれを聞かなくとも、殆どの人間はどこかしらからかこういった情報を仕入れて来て、既にそれを知っているだろう。にもかかわらず、それを知っていて尚、フリーターになったり職に付けなかったりする者が出てくる、というのが問題の出発点なのだ。

なのに、今更このような分かりきった情報をことさら強調することに一体どのような意義があるのだろう。それは単なる精神論――就活に真剣に取り組みさえすれば誰もが2億9000万を手にすることができる※1チャンスがあるというユートピア――への逃避なのではないか。

そもそも、この格差が事実であるということは、この社会が一回勝負であるという事実を証明することでもある。そしてそれが強く意識に焼き付けられるということは、その勝負で負ければ後はもう少なくとも経済的にはロクな状況が待っていない、と思わざるを得なくなることをも意味するわけで、それを焼き付けられながらそこでの勝負の在り様について行けなかった人間は、その後、完全に(賃金収入という要素に関する)競争意欲を失ってしまうだろう。つまり、社会全体から見た競争原理の活性化という点からすれば、この現実の風景は、本来の思惑とは逆の最悪のプロパガンダ広告として機能しているのではないか。



※1 そもそも、正社員になったからといって2億9000万を手に入れることができる保証なんてどこにもないが。

「ハラキリ」できないサムライ企業~受け継がれる武士の商法

日本企業にそっぽ向く日本人留学生たち 大人気ボスキャリだが、海外有名企業は早々に青田刈り JBpress(日本ビジネスプレス)

 一方、ボスキャリに参加した米国トップスクールの女子学生B子さんは、「業界を絞り切れず就職戦線に出遅れたので、ボスキャリで起死回生を目指しています。間違っても、男性優位で風通しが悪く、給与の低い日本企業ではなく、外資系企業のポジションを獲得する」と意気込んでいた。

 ボスキャリ初日で見られる状況は、日本人留学生が、外資系企業のブースに長蛇の列を作る一方、日本企業のブースに閑古鳥が鳴いているのが現実だ。

 ここでも、日本企業の魅力度は低く映っているのである。そして、日本企業に勤めることが決まった学生は、心なしか肩身が狭いようにも見受けられる。

 それでも、ボスキャリに出展している日本企業は日本においては就職人気ランキング上位の企業ばかりである。そうした日本の人気企業であっても、有力な米国大学の優秀な日本人留学生からは敬遠されるのが実態である。

ボスキャリで学生を採用した某大手日本企業のC氏は次のように話す。

 「初めてボスキャリに参加しましたが、希望するトップスクールの学生からは全く応募がありませんでした。とりあえず、語学のできる学生を採用したものの、米国的に自分の権利だけ主張して、義務である仕事の内容はお粗末。もうボスキャリには参加しません」

雇用状況が極めて悪いのはアメリカでも同じこと。企業側にとって労働者を獲得し易い「買い手市場」なのは間違いない。しかし就職活動というのは、労働者側が「労働力」を売っているという側面があるのと同時に、企業側は「労働環境」を売っているという側面もある。その側面から見た時、とりわけ学生側としては、なんとかして「労働環境」を買い付けなければ、と思っていることだろう。しかもこういう場所だ。とにかくそれを買いたくてしかたがない、というような客ばかりがわんさか集まっている。「労働環境」という商品を売る側としては、絶好の機会。にもかかわらず――それだけ好条件がそろった場所・市場にありながらにして「閑古鳥が鳴いている」というのは、余程その商品に人気がなかったのだろう。

しかし、その不人気商品が売れないことに逆切れする某大手日本企業。これは正に武士の商法そのものだ。本来、市場原理からすればそういう商品は改善されるか、もしくは淘汰されることになっている。だが、日本においてはその原理が全く働かない。その必然性がないからだ。
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もし「労働力」の売り手である学生側が、何故自分を買わないんだ、ケシカランと言って逆切れすれば、きっと頭のおかしい人扱いされるだろう。よって多くの学生は、「労働力」としての自分を売るために、或いは頭のおかしい人扱いされないために、企業側にとって望ましい商品になろうと努める。そうやって買い手である企業側の望みに従って、「労働力」という商品は改善され、淘汰されていく。

そして企業側の望む労働者の姿とは、上意下達を絶対視し、それを体現することのできる「サムライ」だ。日本社会における人間は、その常識によって概ね二種類に分類される※1。「サムライ」と「不逞の輩」だ。そして企業側の「労働環境」を買うということは、自らが「サムライ」の一員になることを意味する。と同時に、それを買いそびれるということは、「不逞の輩」になることを意味する。そういう環境が成立しているからこそ、武士の商法は安穏としていられるわけだ。そして日本が――「サムライ」が生き残り続けることのできる――神秘の国であり続けるためには、市場原理は機能してはならない。市場原理主義が叫ばれる昨今の日本社会だが、実のところこの国には市場原理主義者なんてどこにもいない。日本で言うところの≪市場原理主義≫とは即ち、自らを体現することができる力こそが唯一の正義である、という結果論から導き出された力関係の真理化を言い換えたものでしかない。

――だが、神秘の国を一歩出てしまうと、武士の商法は通用しない。「サムライ」が「サムライ」でいられるのは、この日本という領域においてだけだからだ。ところが、この某大手日本企業は、ちょんまげに袴に帯刀という姿でそのまま外へ出て行き、堂々と武士の商法を始めてしまったわけだ。そりゃ白い目で見られて当然だろう。

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いずれにせよ、こういったサムライ企業が大手を振って歩くことができる環境が日本に成立している以上、日本企業が内容的にグローバル化することなんて先ずあり得ないだろう(グローバル化の脅威に晒されることはもちろんあるが)。何故なら、サムライ企業にとってのグローバル化とは、サムライとしての自己を否定することであり、「ハラキリ」そのものでもあるからだ。だが、いくら「サムライ」といえども、「ハラキリ」をするほど勇気のある者はそう滅多にはいないようだ。別に本当に死ぬわけでもないんだけどねえ。


※1<追記:9/13>「日本社会における人間は、その常識によって概ね二種類に分類される。」というのは極論に思えるかもしれないが、「サムライ」を「社会人」に言い換えてみると、それは必ずしも極論とは言えない、ということが分かると思う。

求めているのはプロなのか、それともアマチュアなのか

【求人募集】GIGAZINEのために働いてくれる記者・編集を募集します

端的に言うと、自分の時間を切り売りして時給換算し、「仕事は仕事、プライベートはプライベート」というような消極的考え方をする人ではなく、「自分は GIGAZINEだからこそできることをするためにGIGAZINEで働きたい、ほかのところでは働きたくない!」というプロフェッショナル的な考え方をする人を求めます。余所でも働こうと思えば働けるような人ではなく、「GIGAZINEだからこそ働きたい!」という人を求めます。

「求む、GIGAZINEに人生を捧げる24時間労働志望者」ってやつですか。まあ、どんな求人を出そうと勝手だけど、ここで求められている人間像は、明らかにアマチュア精神を持った人だろう。プロであればあるほど厳密な給与(利益)換算をするはずだし、プロ精神を持った人間ならば、「GIGAZINEで働きたい、ほかのところでは働きたくない」なんて前提を初めから設けるはずもない。
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ましてや仕事のプロは、上下関係を仕事上に必要なシステム形態としてしか見ないだろうから、日本的な上下関係から生じる(法的、契約的に逸脱した)正当性無き不文律をそのまま見逃したりはしないだろう。そういう場所にはさっさと見切りを付けて出て行くはずだ。実際それができるだけの有能さを持っていてこそのプロなわけだから、そのような人物がその場所にとどまり続ける理由はない。そしてそういう人間は、自分が力を発揮できるなら、スキルを身に付けることができるなら、場所にはこだわらないだろう。そうでなくとも本当に有能な人間は、どのみちスキルを身に付けるとさっさとその場所を出て行って、自分で会社立ち上げることだろう。つまり、「ほかのところでは働きたくない」なんてアマチュア的感傷に流されているようでは、プロとしては一流とは言えない。

元来、上司の意向をそのまま飲んでくれるということと、自分の考えで自発的に優れた仕事をこなす有能な人材であることは両立し得ない。しかしアマチュアとなるとそれは必ずしもそうとは言えない。採算を度外視しても誰々の下で働きたい、何処何処でしかできないことをしたいというのが、アマチュア(ファン)心理の最たるものだから。そういうアマチュア心理を上手く利用して無茶な労働をさせることを「やりがい搾取」と言うわけだが、しかしながら――ジブリ作品に携わりたいとかならともかく――そもそもGIGAZINEでしかできない仕事なんて無いだろうから、そういう独自性やブランド力を持っていない会社が、そのような人材を求めるのにはちょっと無理がある。

というか、GIGAZINEは広告収入で生計立ててるわけだろう(違うのか?)。であるなら、本当に有能な人間はGIGAZINEの名なんて借りずに、自分で勝手にサイトを立ち上げ、記事を書いて人を集め、アフィで設ければいいだけのことだろう。GIGAZINEが求めるような自主性を持った有能な人間ならそれができるはずだ。そんな有能な人間が労基法にひっかかりそうな無茶な求人募集を出す脇の甘い企業に雇ってもらうメリットなんて全く無い。それを望むのは、GIGAZINEの名を借りないと利益を上げられないような人間なわけで、すなわちそれはGIGAZINEの求めるような有能な人材では在り得ない。

それに、「「仕事は仕事、プライベートはプライベート」というような消極的考え方をする人ではなく」という条件にしても、プロならば当然自己管理がシッカリできているだろうから、そういう人間は自分がつぶれてしまいかねないような無理なスケジュールを組んだりはせず、ちゃんと仕事とプライベート峻別し、持続可能なペースを維持することにこそこだわるだろう。もちろん、趣味と仕事が一致している人間もいるだろうから、一日中仕事のことばかり考えている人間がいてもおかしくはないが、そういう人間がこういう上司の下で期待通りに動いてくれるとも思えない(そういう人間は、自身の規定する「仕事」を最上位に置くが故に、上司へのおもねりは重視しない)。むしろ、自分の能力をかさにきて「これ以上の働きを求めるなら、もっと金を寄越せ」というのがプロであり、プロの力を借りようとするなら、そのような折衝は不可避だと思っておいた方がいい(ex.メジャーリーグの契約更新や代理人制度)。

つまり、ここで求められているのは優秀なアマチュアであって、優秀なプロではない。そして「払われた金の分だけしか働かない」ことを問題とするのであれば、その雇い主もまたプロとは言えないだろう。

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どうも、日本では名義上の仕事そのものよりも、集団内における「固定化された力関係を前提とした上での良好な関係性」を維持することの方が仕事に成り代わっているように思う。そちらの方が本来の仕事よりも重要視しされているように見える。だが、それを仕事とは思わない(思えない)人間もいる。近代化という名の――伝統派からすれば――悪魔の洗礼を受けてしまった人間には、その考え方が理解できない。そういう人間とそうでない人間が上手くやっていけるはずがない。

そのような洗礼を受けてしまった人間からすると、この愚痴付き求人募集における「同士」という言葉も、洒落にならないような意味を帯びたものとして捉えざるをえないだろう。ただ、それでもこの求人募集の悪質度は低いと思う。何故ならこの愚痴は、結果として「適切な情報公開」という性質を付加させるような効果を持っているからだ。「明るく笑顔の絶えない職場です」というから入ってみたら修羅の国だったというより、「君も修羅の国で働いてみないか?」と初めから明言されていれば、それだけ危険回避のチャンスが生まれる、というわけだ。まあ、そもそも初めから既に修羅の国のような職場しか残ってなかったらどうしようもないが。

「労働」という免罪符~市場原理は働かない


長時間残業と人権侵害に抗し、東横インの女性たちが労組結成

25時間勤務なのに、仮眠・休息も取れず、サービス残業は膨大で、深夜は1-2人で全館を管理させられる。半畳の閉所に8日間拘束される「内観研修」も強制される。大阪地裁でも「過労死的労働・人権侵害研修」と女性達に訴えられているが、会社は、未払賃金請求は「教条主義的な左翼理論」、内観研修は「唯物論的理解では把握できない精神心理技法」と反論している。

市場の「見えざる手」に任せた結果がこれだったという。もうこの手の企業はブラック企業というより、犯罪組織と呼んだ方がいいんじゃないか、とさえ思ってしまう。というか、幾ら市場原理主義による自由な競争と言えども、競争が成立するためにはその前提としてルールの共有が必要となるわけで――例えば、野球をしているところで急にボクシングを始める人間がいたらどうなるか。それで幾ら相手を殴り倒しても、それは野球における競争とは言えないだろう――、そのルールを破り続けているような企業が市場に居座り続けている以上、そもそも市場原理は働いていないということになる。では、何故それを機能させようとはしないのか、何故敢えてそれを放置し続けるのか、ということを考えると、「市場原理」というものがどのように扱われているか、ということが明白になってくるように思う。つまり、本当は「市場原理」なんてどうでもいいんでしょ?という。
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労働相談:「退職」が大幅増加 「嫌がらせ」初の7000件台--09年度 /東京(毎日jp)


asahi.com(朝日新聞社):「新卒切り」に気をつけて 甘い採用計画
うちの妹も最近これに近い状況に遭っていたなあ。新卒でもなんでもないけど。

実のところ、「労働」という肩書きが違法行為や嫌がらせの免罪符になってるケースってもの凄く多いんじゃないかという気がする。善――世のため人のため――であるところの≪労働≫を獲得し、維持するためにはそれくらいの痛みは耐えなければならない。自分もまた手も汚さなければならない、それが現実だ、そんなの「民間なら当たり前」みたいな感じで。だから、「労働」がらみの違法行為や嫌がらせはことさら歯止めが掛かり難くなる。

恐らく、≪労働≫に伴う「苦労」にアイデンティティを依存している人間が大勢いる以上、このような流れになってしまうのは避けられないのだろう。

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いつも思うのは、「法人」が「労働」がらみで行う違法行為や嫌がらせを、ただの一個人が「労働」という肩書きなしに行ったら、果たしてそれはどのように扱われることになるか?ということだ。

例えば記事の東横インの場合。「唯物論的理解では把握できない精神心理技法」なんてものは宗教以外の何ものでもない。そしてその宗教的理由から、「半畳の閉所に8日間拘束」されたりするわけだ。別にその宗教に入信したわけでもなんでもない者が(入信した者であっても、強制されれば問題だが)。さて、もし「法人」という肩書きを持たない者が、「労働」という大儀もなしにこういう行為を行った時、一体その者はどういう扱いを受けることになるだろうか。発覚すれば、即刑事事件として扱われることになるんじゃないか?

つまり、本来刑事事件として扱われるべき性質の問題が、「労働」が絡むと民事として処理されてしまうという傾向があるんじゃないかと。

企業と個人との間で取り交わされた契約の違反にしたって、法的にはともかく、実質的には金を脅し取られたり詐取されたりしているのに近い場合だってあるだろう。或いは、「新卒切り」の記事のように、嫌がらせなどで無理矢理意に沿わない事柄に同意したかのように仕向けられる場合もある。では、こういったことを「法人」という肩書きを持たない者が行ったとすれば、どうなるのだろう?

個人が自分の生活を守るためにおにぎりを買って、「代金を払うなんて教条主義的な左翼理論だ」と言ってそのまま持ち帰ったら、或いは、契約を交わした相手に組織的な嫌がらせや脅しをしたりして、意に沿わない事柄を強引に同意させたら、恐らくそれは刑事事件として扱われる可能性が高くなるんじゃないか?だが同じように、個人の群れが自らの生活を守るために、「法人」という形で同じような性質を持つ行為をしても、その場合は民事として扱われれることになる。

もちろん、民事不介入の原則は重要だし、何でもかんでも刑事事件にしてしまうのは問題があるだろう。だが、この手の問題は個人と個人ではなく、個人と組織との関係性の間で起こる問題だ。対等とはいかない。しかも個人の生き死にが懸かった問題だ。裁判だって誰もがそう簡単に起こせるものではない。しかもその裁判に勝ったところで、それで問題が解決するというわけでもない。結果的に、時間もお金も余計に掛かっただけ、ということにもなりかねない。その上、その経歴ゆえに扱いにくい人物だと思われ、次の職を得るのが難しくなるということもあるかもしれない。

そういった状況が成立しているのをいいことにして、平気でルールを破る企業が勝ち残っていくとすれば、そしてルールが破られることを放置し続けるとすれば、それは市場原理が働いているとは言えまい。何故なら、そこで行われている競争は市場としての競争ではなく、もっと別のタイプの競争なのだから。そしてその競争に市場が乗っ取られている。

本来、市場原理主義者であればあるほど、ここら辺のルールの徹底にはシビアであるべきはずだろう。ところが、何故かそのことの重要性を訴える原理主義者は余り出てこないという。それとも規制緩和を行って、市場にも総合格闘技を!顔面踏み付けを!ってことなのか。自分としては、そういうのは東京ドームの地下闘技場で好き者だけが集まってやってくれ、って感じなのだが。

『アリとキリギリス』はユートピア寓話

『アリとキリギリス』という寓話がある。知らない人はいないと思うが、その内容は大体以下のようなものだ。

アリとキリギリス - Wikipedia

夏の間、アリたちは冬の間の食料をためるために働き続け、キリギリスは歌を歌って遊び、働かない。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、アリたちに頼んで、食べ物を分けてもらおうとするが、「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだ?」と断られる。

要するに、――働き者のアリは夏の間に備蓄した食糧で冬を越すことができた一方、怠け者のキリギリスは、冬が来ると寒空の下で飢えて死んでしまいました。怖いですね。だから皆さん、このキリギリスみたいに痛い目に遭いたくなければ、アリのように一生懸命働きましょうね――というお話。
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(1)『アリとキリギリス』の世界が持つ秩序性

もちろんこれはあくまで道徳教育(他者コントロール)のために作られた寓話でしかない。だが世間を見渡してみると、現代社会の出来事を、この虚構の異世界が持つ秩序性を下地にして読み解こうとするかのような言説に直面することも少なくない。実際つい最近も、「貧困は「キリギリス」的態度の帰結」、みたいなことを言っている人を目にしたばかりだ。

しかしながら、現代社会の問題を『アリとキリギリス』的な文脈に当てはめて解釈しようとするのは誤りだろう。というのも、この物語と現代社会の間には、その前提条件において余りにも大きな隔たりがある。

  • 『アリとキリギリス』の物語には、アリ同士の関係性から生まれる摩擦、つまり社会性が存在しない。そこには(一まとめにされた)アリとキリギリスという一対一の関係しか存在しない。いや、単にそこがクローズアップされているだけと考えた方がいいのかもしれない。しかしどちらにせよ、クローズアップされていない部分(社会性)がその世界の秩序に大きな影響を与えることはない。

  • そしてその世界の根底には、自分の見つけたものは自分のものとして自由に持ち帰ってよい、という秩序がある。アリの労働とは即ち、自分の見つけたものを自分の物として持ち帰って蓄える作業のことだ。そして持ち帰る資源が枯渇することもない。

  • そこには社会が存在しないため、その作業を妨害する競合相手がいない。キリギリスもまた、競合相手にはなり得ない。彼は生存の危機に晒されているにもかかわらず、殺るか殺られるかのサバイバルに持ち込もうとせず、大人しく死んでくれるわけだから。

『アリとキリギリス』の物語は、こういった前提の上に成り立っている。

(2)労働は自由に出来ても、≪労働≫は自由には出来ない

――さて、ではかの世界に住む働き者のアリが、現代社会に人間としてやって来たとすればどうなるか。当然、大変な働き者である彼は、せっせと仕事をこなそうとするだろう。その仕事とは、自分の見つけた土地をねぐらとして占拠し、そこに自分の見つけた物を自分の物として自由に持ち帰ることだ。だがそこで彼は、かの世界には存在しなかった社会性というものの壁にぶち当たることになる。

というのも、この世界には何をしようとしても常に競合相手がいる。彼が見つけた土地だからといって彼が自由に利用出来るわけではない。彼が見つけた物だからといって、それを自由に持ち帰ることが出来るとは限らない。それどころか、この世界ではありとあらゆる資源は既に何らかの集団/システムによって囲い込まれてしまっている。だから彼の労働の前には、常にその何らかの集団/システムが立ちはだかり、それを妨害しようとするだろう。

彼の得意とするタイプの労働は、この世界では一般的に犯罪と呼ばれるものに該当する。なんせここはゴミを持ち去っただけでも、盗みを働いたとして牢屋にぶち込まれたりすることさえある世界だ。ましてや、空き家に寝泊りすることなど許されようはずもない。つまり、かの世界で(労働信仰的視点から見て)善の象徴だったはずの彼の労働は、この世界では悪行そのものとなる。従って、彼が彼であり続ける限り――当の本人はかの世界でそうしていたのと同じように、持ち前の勤勉さを発揮しているだけに過ぎなくとも――彼はこの世界に於いては悪人にならざるを得ない。二つの世界は、その根底部分が余りに異なり過ぎているのだ。

現代社会では、ありとあらゆる資源は既に集団/システムの手中にある。よって、生きるために何かを手に入れようとすれば、まず何とかして既存の集団・組織に取り入らなければならない。或いは、それらが作った文化/システムを上手く利用する術を身につけなければならない。その条件をクリアすることが出来た者達だけが、物資を得るための社会的資格を手に入れることが出来る。世間/システムが認可した公式利益活動――つまり、曖昧でなんとなく善的なイメージを持つ一般的意味としての≪労働≫を始めることが出来る。

とはいえ、予め自明なものとして定められた労働定義など存在しない。よって、その一般的意味としての≪労働≫は、あくまで数多ある労働の内の一つでしかない。実際、この世界にもアリの彼と同じようなタイプの労働で生計を立てている者もいるだろう。しかしながら、先ずは主流派の集団・組織に上手く取り入ることが出来なければ、労働は出来ても≪労働≫をすることは出来ない。

(3)「世界の在り様は、個人の自意識によって決定されている」という思想

この世界に於けるあらゆる問題は、常に環境(及びそれを形作る個々人)と個人との関係性の上に生じている。≪労働≫をしている者であろうとそうでなかろうと、困窮者は基本的に周囲の環境との関係性を上手く保つことが出来ないが故に苦しんでいる。一方、実質的には社会が存在しない『アリとキリギリス』の世界では、問題は常に当該主体の「やるかやらないか」という意向の上にしか発生しない。そこでは自意識のあり方がそのまま結果を決定することになっている。つまり、かの世界とこの世界では、問題の形成過程が全く異なっている。

いわゆるセカイ系的な世界観には社会性が欠如していて、個人的な自意識の在り様がそのまま世界の在り様とリンクし、連動していると言われる。そして『アリとキリギリス』の寓話や、その裏にある精神論/努力信仰などの思想もまた、それと同じような構造を持っている。もちろん実際には、全てが自意識によって決定されているかのようなあからさまな形でもってその思想が表出することはない。何処から何処までが自意識の反映であり、何処から何処までがそうでないのか、という境目を個々人の実感主義的判断に任せるという形でそれは表れ出てくる。

(4)アリはまだ現代社会の問題に直面していない

かの世界は、自分の「やるかやらないか」の意志決定がそのまま結果に反映される――つまり、世界の秘密は全て明らかにされている――完全なる自己責任世界。そして自由な活動を阻害する社会性も存在しない。そうであるが故に、別に働かなくとも誰かから責められることはないし、それで自責の念に駆られて苦しむ必要もない。自分は冬を越そうとするのか、それとも越さずに死ぬのか。前者を目指すなら働けばいいし、後者でいいのなら働かなくてもよい。かの世界の住人は、ただそれを自由に選択すればよい。競合相手はいないし、個と社会(他人という集団)とが交じり合うことによって生まれる摩擦や不確定要素も存在しないから、その選択がそのまま結果に反映される。この世界のように、≪労働≫に辿り着く前に集団/システムとの関係性という壁が立ちはだかることもなく、自分の意向だけで自由にその世界に於ける一般的意味としての≪労働≫を行うことが出来る。死を、生存を選び取ることが出来る。

即ち、『アリとキリギリス』の世界はある種のユートピアであり、アリはそのユートピアの住人だ。そしてこの世界はそのようなユートピア性を持ち合わせていない。故に、そのユートピアの秩序性でもって現代社会の問題を読み解こうとしても、それは見当違いの見立てしか生み出すことは出来ないだろう。また、その世界の住人が持つ「勤勉さ」をそのままこの世界の「勤勉さ」に置き換えるのも、大きな誤りだと言わざるを得ない。かの世界のアリにしても、ユートピアに留まっているからこそ――現代社会が持つ社会的関係性という問題にまだ出会っていないからこそ――「勤勉さ」の象徴でいられるのであって、一度ユートピアを抜け出してこの世界にやって来れば、その魔法は解けてしまい、結局前述したような問題に直面してしまうわけだから。そうなれば彼もまた、この社会の問題の一部にならざるを得ないだろう。

人生に共通の目的や道筋は存在しない~労働に関する考察のまとめ

 *構成*

 (1)やってることは同じなんじゃないか?
 (2)ブランドとしての≪労働≫
 (3)人生に共通の目的や道筋は存在しない
 (4)≪労働≫は誰かの役に立つと同時に誰かの迷惑にもなっている
 (5)共通の目的が無ければ共通の役割も存在しない
 (6)社会的役割説の罠

この記事では、より広範な意味での労働を(括弧無しの)労働、個人的定義としての労働を「労働」、保守的で何となく善的なイメージを持つ一般的意味としての労働を≪労働≫として書き分けている。

  *導入*

たけしがニートに激怒 「働けよ、バカ野郎!」(ニッポンのミカタ!/テレビ東京)

少し前に、この番組に出演したphaという人物のブログが、番組を見た人達によって荒らされるなどして、ちょっとした騒ぎになっていたようだ。その時は心身ともに調子が悪かったので、精神衛生上良くないと思ってスルーしていたが、ようやく見た。今も調子悪いけど。
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 *(1)やってることは同じなんじゃないか?*

これを見てまず疑問に思ったのは、ビートたけし氏はこの人物に向かって「働けよ、バカ野郎!」と言うが、このphaという人物がやっていることは芸能人のやっているそれと何ら変わらないんじゃないか?ということ。ネットを使って広告代理業を行ったり、ある種のコンテンツを提供し、それによって人々の興味を引き付けることで収入を得ているわけだから。

――「ネットに「お金無くて困ってるんです」って書いたら 割と誰かが振り込んでくれたり。」

人によってはそれが物乞いみたいで卑しいと言う。しかし、物乞いはそういった何らかの態度をとって見せ、人々の心に訴えかけるという労働をすることによってお金を得ている。それはテレビだって同じことだろう。誰かが敢えてフザケタ態度を取るなどして人々の注目を集め、それを上手く利用してお金を得ている。「企業に「お金無くて困ってるんです」って言ったら、割と誰かが振り込んでくれたり。」みたいなものだ。そしてこれは、もっと一般的な職種でも似たようなものだろう。その場合もまた、組織/上役に従順な態度を取って見せるなどしてご機嫌を取り、それによってお金を得ている。

――いや、自分達はその活動によって利益を生み出し、社会に貢献しているから彼とは違う、と言う人もいるかもしれない。だがその主張を採用するならば、赤字の会社はむしろ社会に損害をもたらしていることになる。そして赤字の会社に勤める者は、給料をもらえないどころか、むしろ働けば働くほど大きな借金を背負わなければならない、ということになるだろう。…だが実際にはそうはなっていない。そもそも、完全にではなくとも、この社会もまたゼロサム的な側面を持っているのだから、単純に利益を上げたからそれが社会のためになる、というような見方もできない。結局のところ、所詮「金は天下の回り物」でしかない、というのが実際のところだろう。だから、金銭を獲得する際に最も重要な要件は、如何に金回りの良い場所や時代の傍にいるか、如何にそのポジションを獲得するか、ということに尽きる。そう考えれば、道徳的労働論と金銭との間に生じるような無理が生じることもない。――

話を戻すと、つまり芸能人とpha氏は、基本的には同じことをしている。ただし、一方は既存のルートを使い、旧来型枠組みの一員としてそれを行っている。それに対し、もう一方はネットという新しいルートを使い、(基本的に)個人でそれを行っている。ただそれだけの違い。だが何故か、既存の一般的ルートに於けるその活動は≪労働≫という何かもっともらしい肩書きが付され、もう一方のそれは卑しい活動であるかのようにみなされる。そしてその肩書きを得た側は、それを大儀としてもう一方の側に暴力的な態度を取ってみせる。

 *(2)ブランドとしての≪労働≫*

妙なのは、こういった新規ルートを使った活動が卑しいものであるかのように扱われる一方、坂本龍馬や織田信長などといった、新規ルートを一般化し、新しい時代を切り開いた象徴としてのイメージを持つ過去の偉人達は、常に高い人気を誇っているということだ。現にpha氏を卑しい者のように扱ったテレビは、何度となくそういった歴史上の人物の新規ルート開拓活動を称揚してきた。彼らの中には非道徳的どころか、非道の限りを尽くしたとさえ言える者だっているのに。そして一般視聴者の多くは、その称揚とこの罵倒をそのまま素直に受け取っているようなところがある。新しい時代を切り開いたとされる過去の偉人を好む者が、自らは頑迷なまでに保守的だったりするというのはよくある話だが、その傾向はここにも表れている。

しかしもしその者が、過去の偉人が行った事柄と言うより、その偉人の老舗ブランドとしてのイメージの方に惹かれているのだとすれば、それを好む者が保守的であるというのは、ある種当然のこととも言えるだろう。そして同じように、≪労働≫もまた、一般的にはむしろそういった保守的なブランド・イメージとしての部分に注目が集まっていることが多いのではないか。

例えば、ブック・オフなどに出没するセドラーは、忌み嫌われていることが多い。まあ店の利用者からすれば、彼らがやって来れば掘り出し物は全てゴッソリ持って行かれるので、余りいい気がしないのは確かだ。しかし安く仕入れて高く売るというのは、商売の基本中の基本だ。多くの企業は、内容的にはセドラーと同じことをして利益を上げている。或いは、ホームレスがやっているような、資源を集めてそれを売るという仕事もまた、非常に一般的なものだ。企業が行っていれば。そしてそれはpha氏がやっている広告代理業にしても同じことだ。これらが一般的≪労働≫と違うのは、それを組織的に行っているか否か、或いは既存の馴染みある形式やルートを使っているか否かの違いくらいだろう。

ところが、結果としてその両者の間には著しいイメージ的落差が生じる。どうやらこの社会では、馴染みのある形式や組織/集団を通さずに行われる活動は、著しく悪いイメージを伴ったものとして捉えられてしまうらしい。一方、内容的には同じことをしていても、一旦馴染みのある一般的ルートを通せば、むしろそのイメージは反転し、「人の役に立っている」という良いイメージでもって人々に迎え入れられる。

 *(3)人生に共通の目的や道筋は存在しない*


この手の「労働」論議は、何故いつも紛糾するのか。それは結局のところ、自身の存在意義の獲得を「(「他人の役に立っている」というなんとなく善的なイメージを持つ一般的意味としての)≪労働≫」に依存している人が多いからなのではないか。私は≪労働≫をすることで「他人の役に立っている」。だから存在してもよい、というように。そしてその感覚をそのまま他人に当て嵌めてみれば、≪労働≫をしていない――或いはブランドイメージの悪い「他人の役に立たない」労働をしている――人間は存在意義が無い、ということになる。

逆に言えば、存在意義を≪労働≫に依存している人間は、その重要性が他人に認められなければ、それによって己の存在意義自体が否定されたかのように感じてしまう。だから他人のそういった認識に対し、拒絶反応を示す者が出てくる。つまり、双方の間に相手の労働観を否定することでしか自身の存在意義を肯定できないような関係性が作り出され、結果、議論というよりは、お互いの存在意義を否定し合うことを目的とした泥仕合に発展してしまう。

…だが、そもそも生命は何か確固たる意味や価値、目的があって存在しているわけではない。それらは本来、今そこにそういう状況が形成されているという、ただそれだけの事実しか示さない。それは人間の存在や、≪労働≫という状況の形成にも言えることだろう。

しかし人間はそこに様々な意味を見出す。ただ一つ言えるのは、其々が見出したそれらは、決して一つには統一されることはないということだ。何のために生き、何に価値を感じ、世界をどのような意味で捉えているか。何をもって「労働」とし、何をもってそうでないとするのか。その解釈もまた人其々。元々人間はその資質からして、皆が同じ道筋を辿って同じ枠組みに納まるようには出来ていない。もちろん、全ての人間が共有すべき意味や目的があると主張する者もいるが、その主張はもやは信仰上のそれでしかないだろう。そしてそれを無理に統一しようとすれば、全体主義になる。だがそのベクトルを目指すことが多くの者にとって良い結果にはならないであろうことは、歴史的知識として既に蓄えられているはずだ。だからこそ、宗教には信教の自由という歯止めが掛けられ、全体主義は忌み嫌われる。

――予め設定された自明な労働定義など存在しない。神が事前にそれを設定していでもしない限り。だから労働というのは本来、常に其々が定義/イメージするそれでしかない。もちろん、信教の自由という観点からして、自らの定義する「労働」に何か特別な意味や価値を見出し、それを人生の目的の上位に置くのは自由だ。また、一般的意味としての≪労働≫をしている自分に誇りを抱くのも構わない。だが同じ観点からして、他者の「労働」解釈もまた尊重すべきだろう。

 *(4)≪労働≫は誰かの役に立つと同時に誰かの迷惑にもなっている*

では、自分は労働についてどのような認識を持っているか。少なくとも特に一般的意味としての≪労働≫については、考えれば考えるほど、それは手放しに賞賛できるような代物ではないとの思いが強まっていく、というのが本音だ。

――例えば、冒頭で取り上げたあのテレビ番組。あそこで行われている≪労働≫の内容とはどのようなものか。

あの番組はジャンル的に言えば、所謂「報道バラエティー」というものに当たるだろう。しかし扱っている問題は現実に起こっている社会問題であり、人の人生や生死、国の行く末にも関わる重大な問題だ。それ故、扱う話題上、どうしても報道という性質、つまりジャーナリズムとしての機能を伴ってしまうことは免れないだろう。そういう視点から見た時、幾ら後ろに「バラエティー」というエクスキューズが付こうとも、若年層に無職者が急増していることの原因が「ゆとり教育」にあるかのうように伝えるのは、報道として余りにもお粗末過ぎる。状況分析を行う頭脳労働の質としても、それは下の下だろう。

また、例によって無職者を極端にカリカチュアライズした形で伝えると同時に、失業問題を、恰も完全雇用社会下における個々の労働意識の欠如の結果であるかのように伝えている。彼らがジャーナリズムとして労働問題に真剣に向かい合おうとした姿勢は、あの番組からは露ほども見受けられない。つまりあそこでは、本来彼らの仕事に課されているはずの重要な役割の一つが、初めから放棄されている(――それは、彼らが彼らの立場に求められる社会的機能/役割のために≪労働≫をしているのではない、ということを示している)。これをもし、「いや、あくまで“報道バラエティー”であって、“報道”ではないから」と言うのなら、その態度は、「いや、虐めじゃないよ、イジリだよ」というあの態度と何ら変わらないだろう。

――人々の興味を惹くために、「ゆとり教育」のせいで無職者が増えたなどというような怪しげな情報を流して社会を混乱させ、問題の核心から目を背けさせる。或いは誰かを貶めることで人々の注目を集めようとする。それがあそこで行われている≪労働≫の内容だ。まあ確かに、それを娯楽として提供することによって人々に喜びをもたらしているということからすれば、この≪労働≫もまた誰かの役に立っているとは言える。だがそれは同時に、他の誰かに大きな迷惑を掛ける行為であることもまた間違いない。

そしてこれ――誰かの役に立っていると同時に、誰かに迷惑を掛けている――は何もテレビに限ったことではなく、多くの≪労働≫についても言えることなのではないか?「果たしてこの契約を結ぶことが、相手にとって本当に良いことになるだろうか?」「いきなり電話なんかかけたら迷惑なんじゃないだろうか?」「相手の気の弱さに付け込んで物を売りつけるのはいかがなものか」なんてことを考えていたら、営業成績が上がるはずもない。実際、相手に損をさせることを目的とした仕事なんて山のようにあるだから(――そういう意味では、VTR上における営業成績の悪い“仰天おゆとりさま”の「これ以上は もう無理です」は、むしろ道徳的には正しい態度と言えるだろう。それとも、「バイク王」のアレのように、相手の意向を無視した形で成績を上げるような活動がもっと活発化した方が良い社会になるのだろうか?)

それは≪労働≫行為の前提となる、≪労働≫環境獲得の段階でも言える。例えば就職活動というのは、自分という商品を他人に売り込む行為でもある。よって、自己評価の低い人間は、価値の無い商品を他人に売りつけるような気持ちでそれを行わなければならない。だがそういう認識がある以上、それはその当人にからすれば他人への迷惑行為ということになるだろう。しかしそんな気持ちでは、競争に勝ってまともな≪労働≫環境を手に入れることは難しい。エスカレーター式の終身雇用時代なら忍耐さえあればなんとかなったかもしれないが、今の時代はそれと同時に、まず前提としてある程度の自己評価が必要となる。それが無いと、内面に植えつけられた道徳感によって阻害され、競争の場に辿り着くことさえ難しくなる。

――つまり、自分の行為や他人との関わりが、誰かに迷惑を掛けることになるのではないか、などといちいち真剣に考えていたら、≪労働≫をすることはおろか、≪労働≫環境を手に入れることすらできなくなってしまう。そもそも、道徳的に「相手の立場に立ってものを考える」人間が、競争に勝てるはずもない。

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しかし、道徳は常に人に≪労働≫環境を獲得し、そこで成果を出すことを求める。そしてそれと同時に、他人に迷惑を掛けずにいることもまた迫る。少しでも≪労働≫や道徳について鑑みたことがある者ならば、その二つの要請の間で引き裂かれ、苦しんだことが必ずあるはずだ。それ故に≪労働≫環境の獲得や、≪労働≫の成果を逃してしまったこともあるかもしれない。

では、その獲得されなかった≪労働≫環境や成果はどうなるのか。多くの場合、他の誰かが持ち去ることになるだろう。だが、もしその者が道徳によって逡巡していなければ、それらはその者が獲得できていたかもしれない。にもかかわらず、それを持ち去られたことを、その原因の一旦でもある道徳を根拠にして再び誰かから叱責される。――そうして考えてみると、競争社会で道徳を吹聴し、その感覚を他人に植え付けるという行為は、他人を欺き、フェアな競争を疎外している大きな要因の一つにもなっているんじゃないか?それ自体が、誰かに迷惑を掛ける行為そのものであるとも言えるのではないか?

――だが。こうした道徳による欺きや、≪労働≫活動に伴う迷惑行為の発生は、ある種当然起こるべくして起こっていることとも言える。というのも、人間の社会生活もまた、他の生物と同じように、生存競争という一面を持っているからだ。その視点から見てみると、人が生き続けるということは、他人に迷惑を掛け続けるということでもある。道徳による欺きや≪労働≫による迷惑行為は、その一環として生まれて来ているものでもあるだろう。

要するに、≪労働≫の正しさの根拠を、道徳や「誰かの役に立っている」という理由に求めるのには無理がある。また、道徳と≪労働≫が一枚岩で、常に同じベクトルを向いている、などという単純な問題でもない。そもそも道徳自体が、根っからの詐欺師みたいな性質を持っているわけだから。

 *(5)共通の目的が無ければ共通の役割も存在しない*

では、一体≪労働≫とは何なのか。

社会を上手く泳いで渡ることが出来る人間が生き残り、それが下手な人間が死んでいく。その中で、前者の多くはある一定の枠組み――周りからそうであると認識される、大抵は労使関係を伴ったそれ――に収まる傾向が強い。そしてその枠組みに収まり続ける状態のことを、人は≪労働≫と呼ぶ。≪労働≫の存在は、それ以上のことは何も示さない。ただそれだけのもの。…というのが自分なりの≪労働≫に関する見方だ。

だが、多くの者はそれに何か重要な役割があるに違いないと信じる。――もちろんそれ自体は何も悪いことではないし、そこに何を見出そうがそれはその者の勝手だ。(ここからは「(2)」で述べたことと被る部分もあるが、)ただ一つ注意しておかなければならないのは、そこで信じられている役割とは、初めから個人の外部に存在しているものというよりは、後から個人の内部に思想として生み出されているものであろう、ということだ。

――例えば。多様性というのは、後から獲得されるものではない。それは、人類が既に獲得しているものだ。全ての人間が一つの枠組みに収まることが無い性質を持っていたからこそ、人類はここまで生き残って来れた。そこから逆算してみると、その多様性を支えて来たあらゆる類の人間は全て、今のこの状態の形成のために役に立っていた、ということになる。何故なら、それらの存在無しに今のこの世界は存在し得なかったのだから…。

役割説とは大抵こういったものだ。ただ、こういった役割説には大きな瑕疵があると言わざるを得ないだろう。地球は一つの生命体であり、地球上の全ての生物は、地球存続の役に立っている、というような考えに無理があるのと同じように。

というのも、それは結果として今そういう状態が作り出されているというだけの話であって、何も其々の生物は地球存続を目的として活動していたわけではないだろう。そこで言われる役割は、あくまで逆算から生み出された後付けのものでしかない。同じように、其々の人間は、人類を存続させるという共通の目的のために活動して来たわけではないし、社会のために生まれてきたのでもない(そもそも、統一的な意図や目的を持った主体としての「社会」自体存在しない。それはあくまで群集。よって、「社会のため」の「社会」は、「自身の内面に作り出された社会像」であり、即ち自分自身)。そして当然ながら、共通の目的が無ければ共通の役割も存在しない。つまり、社会という曖昧な枠組みを支える役割のために≪労働≫が行われているというよりは、そこにある状況(≪労働≫)に後から役割が見出されているといった方が適切だ。

もちろん、あるシステムや理念を設定した上での共通の役割というものは存在する。しかしシステムの理想像はこの世の全てを包括し得ないし(それに挑戦するのが全体主義)、一つの理念や理想、社会/世界観を全ての人間が共有することもない。つまり、社会的役割というのは基本的に個々人の内部に思想として見出されるものであり、個人の外部に初めから全ての者が共有し得るものとしてその実態が存在しているわけではない。――ただし。其々との間で何らかの理念を共有することができれば、当然そこに共通の役割というものも生まれ得る。権利と義務という関係は、そこで初めて誕生する。だがそれは、共通の役割を誰かに求めるならば、まず前提として、その者と何らかの理念を共有できるような信頼関係を築かなければならない、ということを意味する。

 *(6)社会的役割説の罠*

包括的な社会的役割説は、一見弱者に優しいようにも見える。「今そうしているあなたも、きっと何か社会の役に立っているはずですよ」と言われれば、自身を失っている者も自分の存在に何か価値を見出せるかもしれない。

だがこれは逆に言えば、現状をそのまま受け入れるということだから、今の状況を変える必要性が無いということにもなりかねない。pha氏のように、「今の状況がずっと続けばいい」と思う人はともかく、今の状況から抜け出したいと思っている者だっているはずだ。そういう者が、「いや、今のままのあなたで十分他人の役に立っていますよ」と言われたところで、それは果たして救いになるだろうか?例え本当にそれが何かの役に立っていたとして、その役割による状態と目的が自分の望むものと異なっていれば、やはりそれはその者にとって良いこととは言えないはずだ。というのも、社会的役割説を採れば、「あなたは社会のために苦しみ抜いて死ぬ、そういう役割を担わされて生まれて来たのですよ」みたいなことも十分にあり得るわけだから。「生贄」なんかは、正にそういう役割を担わせられている。

というわけで、自分は人間一般に課された画一的な社会的役割説という考え方は採らない。もちろん、自身が望んでやっていることが結果として誰かの役に立てば、それに越したことはないが、その逆であるべきではないだろう。

 *結び*


他にも色々書きたいことはあったが、そろそろ気力が尽きて来たので、もうここら辺で止めにしておく。余裕が無くなってくると、また曖昧な集合体としての“何か”と戦い始めてしまいそうになるので。そうなれば自ずと冷静さも失われ、後でそれを見てガッカリするような結果を生むだけだろう。

「労働=善」とは言えない

バイク王呼んだら 女性社員に泣き脅しされたでござるよ の巻 - 『姉ログ』

阿漕な商売してるなあ。一般的に査定と言えば、調査した価格情報を双方が知ることを思い描くだろう。ところがこの場合、調査によって得た情報を調べた側だけが握り、それとはまた別の情報が相手側に告げられている。そうでなければ、“「ではぁ~、1万円でぇ~」”から“揉めにもめて「7万5千円でどうですか?」”というような大幅な提示価格の変更は起こりえないだろう。
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自ら査定が無料であるとうたっているのだから、価格に納得が行かないのなら売らなくても構わない。だが、それでも向こうから来てもらっていることに必要のない「申し訳なさ」を感じてしまうのが日本的道徳感に蝕まれてしまった者のサガ。おまけに個人情報を握られているという状況がある以上、気の弱い人間ならそのまま言い値で売ってしまうだろう。半端でない粘り方をするみたいだし、そういった対応に恐怖感を覚える者だって少なくないはずだ。

この商売は、初めからそういった人間の持つ心の弱さ、或いはもう早くこの状況を終わらせてしまいたいという心情的疲労を狙って行われているものなのだ。要するに、如何に相手に不利な状況で丸め込むか、というのがここで行われている労働の内容。これは法的にはセーフでも、モラル的にはアウトだろう。

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…とはいえ。ここまであからさまなものがゴロゴロしているわけではないかもしれないが、別にこういったタイプの労働は珍しいものでもなんでもない。よく鑑みてみると、大抵の労働は誰かに迷惑を掛けながら行われていることに気づくはずだ。それどころか、本気で一般的道徳を守り切ろうとしたり、誰かに迷惑が掛かることを本気で避けようとすれば、労働の継続どころか、仕事にありつくことさえ難しくなるだろう※1

人間もまた他の生物と同じように、生存競争の渦中にいる。そういう視点から見れば、他者に迷惑を掛けずに生きて行くなんてことは先ずあり得ない。むしろ、生きることは他者に迷惑を掛け続けることである、と言っても決して言いすぎではないくらいだ。

この記事では一般的意味としての「労働」の性質について、「ただ社会を上手く泳いで渡ることが出来る人間が生き残り、それが下手な人間が死んでいくだけ。そして前者の多くは「労働」を獲得する傾向が強い。ただそれだけの話」と書いた。さらに付け加えると、それが生存競争という土台の上で生じているものである以上、そうやって獲得される「労働」の内容は必ずしも道徳と一致するとは限らない。むしろリンクした記事で紹介されていた仕事のように、それと相反するような内容を持つ迷惑な「労働」は幾らでも存在する。だがそれでも「労働」は「労働」。むしろ「労働」の内容が道徳と一致しないのは、ごく当たり前のことなのだ。

そんなわけで、“「労働」=善(道徳的)”であるかのような言説を目に、耳にすると、自分としてはどうしても気持ち悪さを感じてしまうわけです。労働や生存と善悪はまた別の問題でしょ、と。



※1 例えば、自分を欠陥品であると思っている人間は、商品としての自分を他者に売り込むことが出来ない。他人に迷惑が掛かるので。そうすると一般的な方法やルートによって仕事を入手することは極めて難しくなる。

予め設定された自明な労働定義は存在しない


「失業者は甘えすぎ」 「人手不足」社長の怒り : J-CASTテレビウォッチ

なんと正社員採用した人達が、次々に止めていくのだ。「体調が悪い」、「仕事が合わない」など様々な理由で、結局誰1人として会社に残らなかった。

その止めていった人達がこの会社の社員として役割を果たせなかったことは事実だろう。しかしこの未曾有の不況下で誰一人残らなかったというのだから、この社長もまた社長としての役割を全く果たせていない。この社長が言うように、芳しい「結果」を残せなかったことがその者の甘え(怠惰さ)を証明するのだとすれば、この社長はとんでもない甘えん坊ということになる。要するに、社長としての役割を上手く果たせなかったのは社員が悪かったからだ、というような一方的な見方しか出来ないからこそ、こういう非難の仕方が出来る。

絶えず求人広告を出しているのだが面接の際に絶句するという。履歴書を見ると、職歴が10個ぐらいズラズラ並べてあるケースが多いそうだ。

職歴の多さをまるで履歴書の傷であるかのように語っているが、自社が持つ離職率の高さという傷は気にならないのだろうか。この不況下で正社員として雇われた者が誰一人残らないような会社が存在することの方がむしろ絶句だ。

「失業者は甘えすぎだよ!昔は働かざるもの食うべからずで、働かなくちゃ生きていけなかったのに、今は働かなくてもいろいろと助けてもらえるからね」

助けてもらえずにいっぱい人は死んどるがな。仮に働かなくても誰かに助けてもらうことで生きていける者がいるとしたら、それはそいつの才能であり、スキルであり、環境適応能力だ。そもそも、働かずに人から助けてもらったり社会システムを上手く利用して生き続けるということは誰にでも出来る芸当ではない。尚且つ、そこにも当然競争がある。そしてその競争の激しさは、恐らく普通に働いて生きていくよりもずっと過酷なものだろう。
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▼(1)副次的存在としての労働

さらに言うなら、「働かざるもの食うべからず」というのは宗教上の戒律(真理としての「正しさ」は存在しない。神が予めそれを設定していない限り。正しさは思想によって初めて生まれる)であって、その宗教に帰依していない者にとっては全く与り知らぬ事柄だ。勝手にそういった思想的共同体を思い描き、誰もがそれ(即ち自分の思想)に貢献してくれるという考え方自体が甘すぎる。

そもそも、労働というのは社会生活の流れの中で副次的に生まれてくるものであって、労働があるから社会生活があるのではない。考え方の順序が逆なのだ。社会を上手く泳いで渡る人間の多くは、結果として「労働」というものを獲得している、というだけの話でしかない。

それ以前に、何を以って労働とするかに関してもまた真理としての形は存在しない。あらゆるものが「労働」になり得る。例えば、人間が生まれて来て死ぬまでに獲得する苦痛そのものが労働である、なんて定義の仕方も出来る。「そんなことはない、労働の正しい定義はこれだ」と言う人もいるだろう。だがそれが真であるためには、予め自明なものとしての労働定義が存在していなければならない。それはつまり、それを設定した神の存在が前提となる。故に、それ以降はもはや宗教論争にしかならない。

恐らく労働教を信じている人達は、予め自明なものとして定義された「労働」を誰かが行えばその分だけこの社会に“人を生かすエネルギー”みたいなものが蓄積されていき、人々はそのエネルギーを分け合って生きている、みたいなイメージを頭に思い描いているのではないかと思う。だから、「労働」によってそのエネルギーの蓄積に寄与しない人間が生き続けるのはおかしい、という話しになる。しかしそんな“人を生かすエネルギー”みたいなものは存在しない。ただ社会を上手く泳いで渡ることが出来る人間が生き残り、それが下手な人間が死んでいくだけ。そして前者の多くは「労働」を獲得する傾向が強い。ただそれだけの話なのだ。

▼(2)敵対的な関係にある者に共同体的規範が求められるおかしさ

大体日本人というのは、お互い不幸な目に遭えばメシウマし合い、窮地に陥っている者あれば自己責任といって追い討ちを掛け、相手を道徳という偽のルールで縛りつけて出し抜いたり、誰かを祭りの生贄に捧げることで己の求心力を高めようとしたり、その祭りに参加することでストレスを解消し、自尊心という快楽を手に入れようとしたり、そういう足の引っ張り合いばかりしている民族だろう。そういう現状がありながら、今更半分敗れかけている張りぼての共同体思想を持ち出してこられても、何を眠たいこと言うとんねん、としか思えない。同じ国籍を持つというだけで元々敵対状態に近い者に共同体規範を求めてどうするのかと。勿論その要求に応えてしまうお人よしの人間もいるだろうが、本来、相手から共同体的配慮を得ようとするのならば、まずお互いに良好な関係性を築き上げることの方が先のはずだ。ところがその手順がすっとばされ、敵対状態のままでいるはずの相手からいきなり共同体規範に従うことが求められたりする不可思議。

▼(3)労働環境/思想という商品

再び引用した記事の話題に戻るが、市場という視点から見てもこの社長の言い分には相当無理がある。就職活動は、求職者からすれば自分と言う商品を企業へと売り込む行為でもあるが、それは同時に、企業側からすれば“労働環境(条件)という商品”を求職者に売っているという側面もある。当たり前の話だが、市場というのはそういった相互的な関係の下に成り立っている。この社長はそこを完全に勘違いしている。市場を一方的なものであると思い込んでいるのだ。

会社の経営としては難しい時期かもしれないが、日本の法的緩さ、甘さも伴って、純粋に“労働環境という商品”を売る側からすれば、これ程恵まれた環境もないだろう。そういった恵まれた環境にありながら、その商品の返品や販売不振がそれだけ続くということは、よほど酷い商品を売りつけていたとしか思えない。

大して魅力もない商品を適当に並べて売ってみたものの、誰も買いに来なくて憤慨するというのは正に武士の商法そのものだ。それは市場というものを余りにも舐め過ぎた態度だろう。

そしてそれは彼の唱える規範の後ろ盾となっている共同体思想にも言える。もしそういった思想的共同体を作り、人々にそれが備え持つ規範に従ってもらおうとするのならば、その提唱者は単にそれを要求するだけでは駄目だ。それを唱える側の人間は、規範に従ってその共同体の一員となることの魅力や有益さを人々に説いて納得させなければならない。そのためには当然人望だって必要になるだろう。武士の商法のように偉そうに踏ん反り返って「お前らこれ(思想)を買え」と命令しているだけではお話にならないのだ。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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