ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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コミュニケーション原理主義社会におけるギャンブルの合理性

ギャンブルに手を染めることは一般的に不合理で愚かな行為であるとされている。実際、例えばパチンコで勝ち続け、それで生計を立てるのは至難の業と言えるだろう。しかし、コミュニケーション能力(社会的折衝能力)のない人間がコミュニケーション原理主義社会においてギャンブル以外の方法で金を稼ぎ続けるのもまた、至難の業だ。
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ギャンブルには幾つかの大きな魅力がある。そのうちの一つは、元手さえあれば誰にでも門戸が開かれていることだ。コミュ力がないからといって門前払いされることもない。そしてもう一つの魅力として、その勝敗の左右に運が大きく関わっていることが挙げられる。

実際のギャンブルでは、知識や技術、資金力が関係してくることもあるだろう。よって、いくらギャンブルでも100%が運であるとは言えない。そもそも、一般ではこの運は勝負におけるマイナス要素として捉えられていることが多い。

だが、コミュ力ゼロの人間にとって、この運という要素の魅力は大きい。何故なら、コミュニケーション原理主義社会においてギャンブル以外の方法で生計を立てるということは、コミュ力を使った実力勝負で、社会的ポジション争いに勝ち続けることを意味するからだ。そしてそこでは、ポジションを奪われた場合はもちろんのこと、獲得したポジションを維持し続けるにも、ダメージが伴う。精神論者は、人間の精神が無限に修復可能で無限にエネルギーが溢れ出る永久機関であるかのような前提で話を進めるが、実際はそうではない。コミュ力ゼロの人間にとってのそれは、ヒョードルの群れとイス取りゲームを行い続けるようなものだ。そこに希望などない。

その当人にとってどちらの方がまだマシかなんてのは分からない。だが、その者が「不可能」と感じているものと、「もしかしたら」と感じるもののどちらかを選ぶとしたら、誰だって後者の方を選ぶはずだ。そこでコミュ力ゼロの人間が、実力勝負なら勝ち目はなくても運ならまだ勝てる見込みがあるかもしれない、という希望を抱いたところで、それは決して不思議なことではない。さらに、ギャンブルでは敗北した場合金銭的なダメージは伴うが、精神的なダメージまで伴うとは限らないというメリットもある。

要するに、コミュ力ゼロの人間にとってこの社会は、ギャンブル以上に可能性の無い世界かもしれないのだ。そしてその場合、その者が金を稼ごうとするなら、むしろギャンブルに手を染めることは合理的な判断であるとさえ言える※1

【追記】 逆に言えば、折衝能力によって金を稼ぐ難易度がギャンブル相当かそれ以上、という感覚を持っている場合、その者によほど強いギャンブラーの血が流れていでもしない限り、それによって金を稼ごうとはしなくなる。ギャンブルで勝ち続けようとすることが不合理で愚かしい行為であるなら、折衝能力によって生計を立てようとすることもまた、不合理で愚かしい行為でしかないわけだから。【了】



※1 例えそうであっても、人間は別に合理性に基づいて行動しているわけではないので、その行動の根源に合理性があるとまでは言えないが。
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感覚レベルでの文化的衝突~異文化ギャップは嘘で補えるか

 ▼(1)「上手い嘘を平気でつく」は≪立派な社会人≫への登竜門

「上手い嘘を平気でつく」ことが≪立派な社会人≫になるための登竜門となっていることは、社会生活における自らの行いをよく振り返ってみれば直ぐに分かることだろう。嘘をつくことなしに円滑な社会生活を送ることは極めて困難だ。実際に己の身から全ての嘘を取り除いた上で生活を送ってみれば、如何に自身がそれに救われていたか、ということに嫌でも気づかされることになるはずだ。群れの中で嘘に身を包まずむき出しのままでいれば、様々なトラブルを招きよせ、その者の立場を、命を危機に晒すことになる。つまり、嘘は人間同士の軋轢による衝撃を吸収する緩衝材としての機能も持っているわけだ。もし世界から嘘というものが取り除かれたら、ただそれだけでこの世は混沌の渦の中へと引きずり込まれていくことになるだろう。

だから嘘がつけない者、嘘が下手な者は、その緩衝材を持たない者、それを上手く使いこなすことができない者であるとみなされ、危険人物として取り扱われることになる。そしてそうであるが故に、上手い嘘をつく能力が低い人間ほど、社会生活における嘘の重要性をよく知っている。逆に、上手い嘘をつく技術に長けている者は、それとは裏腹に、その事実に全く気づいていなかったりする。それは即ち、意識せずに嘘をついている可能性が高いということだ。
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嘘は、それが積み重ねられることにより、やがて様式となり文化となる。と同時に、その場所の趨勢となった文化は、そこにいる者達に、嘘によってその形に収斂することを迫る。それができない者は様々な形で非難され、疎外される。嘘の表情、嘘の意見、嘘の振る舞い、嘘に基づいた行動、嘘による装い。それらを上手く使うことなしに、社会(群れの文化)に馴染むことはできない。社会に順応するということは、即ち如何に上手い嘘で自らを包むことができるようになるか、ということでもある。

しかし、意識してそれをしていると、どうしても不自然な嘘、下手な嘘しかつくことができない。いや、正確に言うと順序は逆だ。上手い嘘をつく能力が無い者は、そのことによって日々トラブルに直面しているから、嫌でも嘘というものが持つ機能の重要性について意識せざるを得なくなる。逆に、上手い嘘をつく能力がすでに備わっている人間は、基本的にそれを意識する必要がない。というのも、そういう人間は自然とついた嘘によって自らを上手く文化に溶け込ませることができているから、問題は起こらず、それに関してことさら意識をする必要がないわけだ。もちろん例外もある。中には、常にNLP的な技法としてそれを意識し、どのような嘘が効果的かを考えながら会話や振る舞いを行っている者もいるだろう。だが、基本的に上手い嘘をつく能力を身に着けている者は、それを意識せずに行っている。

 ▼(2)言語情報は思っている以上に個人の経験や感覚に依存している

我々が普段使っている言語情報は、何か特定の事柄を表すことにおいてかなりの部分が省略されている。例えば、「ちゃんとやれ」という言葉。ここには具体的な情報が殆ど何も含まれていない。コンピュータに「ちゃんとやれ」と命令をしたところで、コンピュータ側は何をしていいか全く分からないだろう。だが人間同士では、こういった半端な情報しか持たない言葉を用いたコミュニケーションが日常的に行われている。では、人間がそのような半端な情報をどのように扱っているのかと言えば、自らに蓄積された「経験」や「知識」、そして「共有された(実際には傾向的に近いと思われる)感覚」を参照することによって情報の欠損を補い、それによって意味を解釈しているわけだ。

しかしながら、誰しもが同じ「経験」や「知識」、「感覚」を持っているわけではない。というより、近い/遠いという差はあれど、基本的にそれらは全て別個のものだ。よって、其々で参照する情報が違うから、同じ言葉であってもそれを使う側や受け取る側によって、其々微妙に、時には極端に大きく異なった解釈や感じ方が生まれてくることになる。実際、参照する情報が大きく異なることによって生じる異文化ギャップなどは、誰もが一度は体験したことがあるだろう。

 ▼(3)異文化ギャップは嘘で埋め合わせなければならない

「経験」や「知識」によって生じた異文化ギャップは、経験の場を手に入れることさえできれば、そして知識を仕入れる能力さえあれば比較的簡単に埋められるかもしれない。問題は、「感覚」の差異から生じるそれはそう簡単には埋めることができないということだ。つまり、社会(ここでは、群れにおける文化的趨勢を指す)に上手く馴染めない人間の多くは、参照する「感覚」が一般的傾向と大きく外れているが故にそういった状態に陥っているのではないか。そしてそのために、日常的に大きな異文化ギャップと直面している。

だが、その場所に身をおき続けなければならない以上、何とかしてその異文化に溶け込まなければならない。でないと酷い目に遭う。だから自身の「感覚」にとってその文化が如何に奇妙で受け入れ難いものであっても、それを隠すための嘘で身を包み、そこに溶け込まなければならない。つまり、感覚的な傾向が一般から外れる者が社会に上手く馴染むためには、とりわけ多くの嘘を、それも自分にとって困難な嘘を付き続けなければならない。そういう課題が突きつけられる。

 ▼(4)感覚レベルでの文化的衝突

例えば、他人と話す時は人の目を見て話さなければならない、という文化規範がある。恐らくこれは、世界的に見ても一般的なものだろう。しかし、全ての人間がその文化規範に関する共有感覚を持っているわけではない。中には、それと間逆のベクトルの感覚を持っている者だっている。そこに大きな異文化ギャップを感じる者がいる。

そもそも、感覚的趨勢が様式化したが故の礼儀作法という理由以外に、人の目を見て話さなければならない論理的な理由などないだろう。逆に、人の目を見て話すことが失礼に当たるという理由ならあるが。というのも、目の前にいる相手が本当に信頼できる人間ならば、常にその者の目を見ていなくともなんら――文化的にはともかく、機能的には――問題ない。だが、それが信頼できない人間となれば話は別だ。突然襲い掛かってきたり、物を盗んだりするなどして、いつその者が自分に不利益をもたらすような行動を取るかもしれないからだ。つまり、その者の目を見て話をするというのは、信頼できない者と折衝する際に必要不可欠な警戒所作でもあるわけだ。となれば、そのような所作を取るということは相手を信頼していないということであり、よってそれは相手への失礼に当たる、と捉えられてもおかしくはない。機能面だけに注目するならば。

実際、ヤクザなどはお辞儀をする際においてさえ、相手の目を見続けるという話を聞いたことがある。頭を下げてお辞儀をするような無防備な状態を作り出してしまえば、いつ相手にブスっとヤラれるかもしれないからだ。まあ知り合いにヤクザはいないのでそれが本当かどうかは分からないが、その者が常に相手への注意を怠ってはならないような環境に身を置いているのだとすれば、その所作は実に理にかなったものと言えるだろう。

 ***

もし目を見ることがコミュニケーションの成立にとって本質的に重要な要件だと言うのならば、それは目が見えない人とはまともなコミュニケーションを取ることができないと言っているのと同義だ。それ以前に、電話や手紙、ネット上のやり取りでは「本当のコミュニケーション」が取れないことになる。まあだからこそ、それらのコミュニケーション形態をワンランク劣るものとして捉える人がいたりするのだろうが、それは結局自身の感覚に基づいた実感主義的正誤による判断でしかないだろう。要するに、元々人の目を見て話さなければならない論理的な理由などないわけだ。その者がヤクザでもなければ。

根拠は無いが、それでもそれは正しくて従わなければならない…というのは宗教の特徴だ。即ち、「人の目を見て話さなければならない」が「正しい」のは、宗教的理由か、もしくはそれが単に感覚的趨勢であるから、ということくらいだろう。

しかし、正当性があろうがなかろうが、その文化がその場所で力を持っている以上、それに上手く溶け込むことができなければ痛い目に遭うこと自体には変わりない。だから大抵の人間は、無理をしてでもその文化に馴染もうとする。植民地における間接支配者が、外部からの規範をその土地の者に押し付け、それに従わない者達を拷問にかけ、虐殺していくのと同じように、「個人」の内部における内面化された文化規範であるところの≪間接支配者≫もまた、「個人」という枠組み内において、信教の自由を踏みにじり、それに従わない感覚を力づくで従わせ、時には抹殺しようとさえする。「個人」という枠組みを、自身の地位を守るために。

いや、本当は心の底からそれに従わずとも、単に“内面におけるみんな”で上手い嘘をついて従ったフリだけをしていればいいのだが、どうしてもそれを受け付けないタイプの感覚も存在する。となれば、≪間接支配者≫はそれを拷問にかけるなり抹殺するなりするしかなくなるわけだ。

社会では常に個人と個人の争いが絶えないが、個人の内部でもまた常にそういう争いが起こっている。そして個人の内部で行われるこの自身の感覚への抑圧から生まれる苦痛は、「努力/苦労」としてステータス化される。ステータス化された「努力/苦労」は、再び文化規範の「正しさ」を再生産する。その繰り返しによって、文化規範はより堅固なものとなっていく。

だが、幾ら圧政を敷いてそれを律しようとしても、其々の個人における≪間接支配者≫は必ずしも内面を上手く統治できるとは限らない。頑なにそれに抵抗し続ける感覚もまた存在するわけだ。こういった現象は、感覚レベルにおける文化的衝突と言ってもいいだろう。

――そして自分もまた、この文化的衝突の結果、≪間接支配≫による統治に失敗した人間だ。例として挙げた「人の目を見て話さなければならない」も、やはり自分にはどうしても上手くできない。感覚がそれに対して拒絶反応を起こす。例えそれをしたとしても、そのことが自分にとっては著しく不自然なことだから、どうしても無理が出てくる。自分の場合、他人と会話をする時は声に集中してその内容を読み取ろうとする。相手の感情は、表情ではなくイントネーションで読み取る。しかしその時に「目を見る」という著しく不自然な行為を同時にすることを迫られると、そちらに意識が行って、話しの内容が頭に入らない。結果として、自分が相手の目を見て話をしている時、話の内容は余り聞いていないという本末転倒な状況が生じる。

 ▼(5)言語情報の内容的欠落が「知識」の参照を困難にする

とはいえ「酷い目」には遭いたくないから、自分もまた感覚に圧制を敷き、嘘で身を包もうとする。だが、その際に大きな障害となるのは言語情報の内容的欠落だ。

というのも、一般的傾向から外れた感覚を持っている場合、文化規範に溶け込むための嘘を付こうとしても、「共有された感覚」を参照できないから、どのような嘘を付けばいいのかということは、「経験」や「知識」を参照するしかない。ところがその両輪の一方である「知識」の元となる言語情報は、前述したように著しく欠損している。

『目を見て話す』のは何%が最適? | 転職マニュアルl

面接の時『目を見て話す』ことが重要、とよく言われます。

ご支援した転職者の方で『目を見て話さない』という理由で面接不合格になった方が実際いらっしゃいます。

では、『目を見て話す』とは、具体的にどうすればいいのでしょうか。じっと見つめ続けるのも、相手を睨んでいるようで違和感があります。

『人は見た目が9割』(新潮新書 竹内一郎著)という本の中に参考になることが書いてありましたのでご紹介します。

二者間の会話で、目を見ている時間は通常は30~60%。60%はかなり親密な関係の場合。そして実際に両者の目があっているのはそのうちの10~30%だそうです。この辺りが『目を見て話す』状態と言えるようです。

では、面接時は如何すればよいでしょうか。初対面ですので、目を見ている時間は、会話の1/3くらいで良いのではないでしょうか。また、目を見るといっても、目の周辺を含めて見ていることで目を見ていることになります。

このような行動も大事ですが、実は形だけにとらわれず、まずは『本当に相手の話を聞こうとする心』が大事のように思います。その心を持って臨むと自然にこのような態度をとれる気がします。

「自然にこのような態度をとれる」ためには、それが「自然」であるための共有感覚を予めその者が持っていることが大前提となる。その感覚を持っていない人間からすれば、決してそれが「自然」にはなることはない。そういう者は内面に圧制を敷き、不自然によって「自然」を演じるしかない。だが言語情報による説明は、どのように振舞うのが「自然」であるとされるのかということにおいて、余りにも多くの情報が欠落している。

例えば面接の時、多くの者は『目を見て話す』ことの重要性だけを唱える。だが、それをそのまま実践するとむしろ不自然な振る舞いになってしまう。実際に「自然」にそれをするためには、適時目を反らさねばならないし、その目を反らす方向でもまた、大きく印象が変わってくる。人と「自然」に目を合わすプログラムでも作ってみれば、『目を見て話す』が「自然」にそれをしていると判断される状態を作り出すのに、如何に多くの情報が欠落しているか、ということがよく分かるだろう。適時に関しても、実際には具体的な数値を用いてそれを作り出すしかない。ところがそれが「自然」にできてしまう人間は、「共有された感覚」を参照することを前提として情報を発信しているから、自らが発信した情報が如何に内容的に欠落しているか、ということに気づかない。結果的にそれは、デマ(嘘)をばら撒いていることになる。

自分もそのデマにやられた内の一人だ。もはや遠い昔になった就職活動時における話だが、面接時に『目を見て話す』ことが如何に重要であるかということを口をすっぱくして訴えられ続けた結果、自分はそれを真に受けて、会話の際、ずっと相手の目を見続けた。後からその情報がデマであったことを知ったが、もう後の祭りである。まあ、自分が就職できなかったのはそれだけが原因ではないが。しかし一つ言えるのは、その手の文化規範、そしてそれに関するデマは無数にあるということだ。そしてことごとくその偽情報に騙され続けたという。とにかく、世間に溢れている内容的に欠落した言語情報をそのまま真に受けると本当に酷い目に遭う。

だが、趨勢の側が発する欠落した情報を真に受けたが故におかしな振る舞いをすることになった者が異常者扱いされ、観察対象・研究対象にされることがあっても、趨勢側として半端な情報を発信した者は検証されることはない。だから、いつまでもデマとも言える半端な情報が流通し続けることになる。

 ▼(6)「感覚」の参照を前提とした「内輪ノリ」コミュニケーション


思うのだが、予め共有された「知識」や「感覚」を参照することを前提とした言語情報で会話を行うということは、「内輪ノリ」コミュニケーション以外の何ものでもないだろう。例えば、オタク趣味を持つ者がそうでない者と会話する時、いきなり相手もまた自身と同じようなオタク的「知識」や「感覚」を共有していることを前提とした上で会話を行えば、大層キモがられることになるだろう。「内輪ノリ」コミュニケーションは、その文化の外にいる人間からすれば、基本的にキモいものなのだ。

だが、趨勢側である≪立派な社会人≫が、同じように「内輪ノリ」コミュニケーションで相手との折衝を行っても、それは「正しい」ことになってしまうという…。それどころか、むしろそれについてこれない者が異常であるとされる。どちらもやっていることは同じことのなのに。「基本的にキモい」ことをやっているはずなのに。

つまり、趨勢から外れる者がそれをするのと違って、「普通の人間」が幾ら「内輪ノリ」コミュニケーションで相手に迫っても、その態度が検証の対象にされることはない。観察対象にも研究対象にもならない。だから、多くの人間は必至で自身が「普通の人間」であることをアピールする。そのための嘘を付き続ける。周りから異常者にされないために。モルモットにされないために。

もちろん、自分もまた同じことをしてきた。だが、その慣れない生兵法で一体どれほどの大怪我をしてきたことか。かといって嘘をつかなければ、それはそれでやっぱりアウトなわけで、いかんともしがたい。

▼(7)上級嘘つき技能者が下級嘘つき技能者を「嘘付き」といって批判する奇妙

文化的趨勢と完全に同じ「感覚」を持っている人間は誰一人としていない。だから、「感覚」が近い/遠いという違い、嘘を付くことに関する負担の大きさの違いはあれど、誰もが嘘を付いている。文化的趨勢に収まって、≪立派な社会人≫になるために。再度言うが、「社会に順応するということは、即ち如何に上手い嘘で自らを包むことができるようになるか、ということでもある。」

ところが、卓越した嘘つき能力で≪立派な社会人≫となった嘘つきエキスパート達の間では、何故か「平気で嘘をつく」ことが悪いことであるとされているような所がある。しかしながら、上手い嘘をつくことの重要性を、嘘が持つ機能の重要さを痛いほど思い知らされてきた自分からすれば、意識することすらせず非常に上手い嘘をつき続けることができる卓越した嘘つき能力を持つ嘘つきエキスパートが、下手な嘘を連発する下級技能者を、「平気で嘘をつくこと自体」を根拠として批判しているのを見ると、どうも違和感を感じてしまう。

いや、もちろん理屈では何故そうなるのかは分かる。「平気で嘘をつく」として糾弾されるのは、下手な嘘をつき続けたことによる結果だ。そこでの「平気で嘘をつく」は、イコール「嘘が下手だ」という意味として機能しているわけだ。つまり、「嘘つき」として糾弾される者達は、嘘をついているから糾弾されているのではなく、嘘が下手であるが故に糾弾されている。とまあ、そういう原理は分かっているのではあるが、理由が分かっていてもやはり気持ちが悪いものは気持ちが悪い。

だから、嘘が社会に馴染むための重要な鍵となっているこの社会で、社会的順応が声高に叫ばれるこの世の中で、「平気で嘘をつく」ことが恰も一部の人間のみによってなされる特異な行為であるかのような物言いをする≪立派な社会人≫を見るたびに、それこそ「嘘つけよ、それは≪立派な社会人≫でいるための必須条件だろうが」と思ってしまうわけです。まあそんなことを言ったところで、それは食虫植物に対して「虫を騙してんじゃねえよ!」と言っているようなものなんだろうけどさあ…。

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プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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