競争原理のパラドックス
(1)競争原理はユートピア感覚無しには成立しない
この世がユートピアでないということを知ってしまう人間が増えれば増えるほど、競争原理は衰退していくことになる。何故なら、この世界を「頑張ればなんとかなる世界(即ちユートピア)」であると感じることができなくなってしまった者は、新しい競争へと参加することが出来なくなってしまうからだ。また、既にその者が「競争への参加」という状態を獲得していたとしても、ひとたびユートピア感覚を失ってしまうと、その者が保有する世界観の中で「競争の先にある悲惨な未来」が決定づけられることになり、やはりその状態を維持することは難しくなる(悲惨な未来のために努力する人間はいない)。よって、社会が備え持つ「人々からユートピア感覚を引き出す能力」が弱まれば弱まるほど、その分だけ競争原理もまた尻すぼみになっていく。
***
競争をポジティブに捉えることができるのは、「頑張ればなんとかなる」というユートピア感覚を獲得し、それを維持することができている者だけだ。競争をポジティブに捉える者がそれをネガティブに捉える者に対して、「この世はユートピアではないのだ」と言って説教※1をするような場面はいたるところで見受けられるが、そこには、ユートピア感覚で満たされた人間が、それ故にユートピア感覚が低減化した、或いは枯渇した人間を、ユートピア感覚で満たされているがために競争に積極的でなくなっているかのように言って非難するというねじれた構図がある。
要するに、競争原理を活発化させるためには、より多くの人間から「頑張ればなんとかなる」というユートピア感覚を引き出し、それを維持することができるような環境作りを行わなければならない。
(2)競争原理のパラドックス
――しかしここには一つのパラドックスがある。
というのも、より多くの人々がそのようなユートピア感覚で満たされた時、その者達の多くは、己の意志の力と結果を直接結び付けて世界を解釈するような状態――即ち己の努力具合が自己の状態、及び(その状態を決定付けているもう一方の要因である)自己を取り巻く外的環境の在り様をコントロールしているかのような錯覚(万能感の横溢)に陥ってしまうからだ。そうなれば必然的に、社会は精神論を前提とした文化やシステムを形作る方向へと傾いていくことになるだろう。
そしてそこでは、世界は元々個人の努力でどうにかなるように出来ているのだから、各々はそれによって種々の問題に対処すればよいだけ、ということになる。より多くの人間を競争に参加可能にし、その状態を持続させることができるような環境整備などする必要はなく、むしろ個々人を追い詰め、その者が本来持っている秘めたる意志の力を目覚めさせれば自ずと競争原理は働くはずだ、と※2。となれば結局、競争原理は衰退するベクトルへと向かわざるを得なくなるだろう。
***
これらのことから分かるのは――人々が競争に積極的になるためにはユートピア感覚の獲得が不可欠となる。さりとて、多くの者がその感覚に完全に飲み込まれてしまえば、社会全体における競争原理は衰退する方向へと向かう、ということだ。つまり、(その良し悪しはともかく)もし競争原理をより活発に働かせようとするならば、より多くの人間がユートピア感覚を獲得・維持しながら、認識上ではそれを否定できるような状態を作り出さねばならない。
例えば、静止画が動いて見えるような錯覚があるが、だからといってアレが本当に動いているという前提で物事を考えたりはしないだろう。ユートピア感覚に関しても、そのような理解が必要になる。
※1 この手の説教は、この世界が「頑張ればなんとかなる世界」であるということを広めるための布教活動であると同時に、それを自分自身に言い聞かせ、その正しさを再確認するための行為でもある。困窮している者は、頑張らなかったツケとして苦しんでいなければならない。――「悲劇」として娯楽化される一部の例外を除いて――頑張ってもどうにもならない者は、私達が住むこの世界には存在してはならない。何故なら、そのような者の存在は、この世界が「頑張ればなんとかなる世界」であることを否定することになるからだ。そして世界がそうであったからこそ生まれてくることができた希望や、私が一生懸命努力したからこそこの成功を勝ち取ることができたのだ、という人間としての誇り(存在意義)をも消し去ることになる。この手の説教の根っこには、そういった不安がある。
※2 こういった発想は、リンチや躾を理由とした虐待などにも少なからず関係していることだろう。
この世がユートピアでないということを知ってしまう人間が増えれば増えるほど、競争原理は衰退していくことになる。何故なら、この世界を「頑張ればなんとかなる世界(即ちユートピア)」であると感じることができなくなってしまった者は、新しい競争へと参加することが出来なくなってしまうからだ。また、既にその者が「競争への参加」という状態を獲得していたとしても、ひとたびユートピア感覚を失ってしまうと、その者が保有する世界観の中で「競争の先にある悲惨な未来」が決定づけられることになり、やはりその状態を維持することは難しくなる(悲惨な未来のために努力する人間はいない)。よって、社会が備え持つ「人々からユートピア感覚を引き出す能力」が弱まれば弱まるほど、その分だけ競争原理もまた尻すぼみになっていく。
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競争をポジティブに捉えることができるのは、「頑張ればなんとかなる」というユートピア感覚を獲得し、それを維持することができている者だけだ。競争をポジティブに捉える者がそれをネガティブに捉える者に対して、「この世はユートピアではないのだ」と言って説教※1をするような場面はいたるところで見受けられるが、そこには、ユートピア感覚で満たされた人間が、それ故にユートピア感覚が低減化した、或いは枯渇した人間を、ユートピア感覚で満たされているがために競争に積極的でなくなっているかのように言って非難するというねじれた構図がある。
要するに、競争原理を活発化させるためには、より多くの人間から「頑張ればなんとかなる」というユートピア感覚を引き出し、それを維持することができるような環境作りを行わなければならない。
(2)競争原理のパラドックス
――しかしここには一つのパラドックスがある。
というのも、より多くの人々がそのようなユートピア感覚で満たされた時、その者達の多くは、己の意志の力と結果を直接結び付けて世界を解釈するような状態――即ち己の努力具合が自己の状態、及び(その状態を決定付けているもう一方の要因である)自己を取り巻く外的環境の在り様をコントロールしているかのような錯覚(万能感の横溢)に陥ってしまうからだ。そうなれば必然的に、社会は精神論を前提とした文化やシステムを形作る方向へと傾いていくことになるだろう。
そしてそこでは、世界は元々個人の努力でどうにかなるように出来ているのだから、各々はそれによって種々の問題に対処すればよいだけ、ということになる。より多くの人間を競争に参加可能にし、その状態を持続させることができるような環境整備などする必要はなく、むしろ個々人を追い詰め、その者が本来持っている秘めたる意志の力を目覚めさせれば自ずと競争原理は働くはずだ、と※2。となれば結局、競争原理は衰退するベクトルへと向かわざるを得なくなるだろう。
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これらのことから分かるのは――人々が競争に積極的になるためにはユートピア感覚の獲得が不可欠となる。さりとて、多くの者がその感覚に完全に飲み込まれてしまえば、社会全体における競争原理は衰退する方向へと向かう、ということだ。つまり、(その良し悪しはともかく)もし競争原理をより活発に働かせようとするならば、より多くの人間がユートピア感覚を獲得・維持しながら、認識上ではそれを否定できるような状態を作り出さねばならない。
例えば、静止画が動いて見えるような錯覚があるが、だからといってアレが本当に動いているという前提で物事を考えたりはしないだろう。ユートピア感覚に関しても、そのような理解が必要になる。
※1 この手の説教は、この世界が「頑張ればなんとかなる世界」であるということを広めるための布教活動であると同時に、それを自分自身に言い聞かせ、その正しさを再確認するための行為でもある。困窮している者は、頑張らなかったツケとして苦しんでいなければならない。――「悲劇」として娯楽化される一部の例外を除いて――頑張ってもどうにもならない者は、私達が住むこの世界には存在してはならない。何故なら、そのような者の存在は、この世界が「頑張ればなんとかなる世界」であることを否定することになるからだ。そして世界がそうであったからこそ生まれてくることができた希望や、私が一生懸命努力したからこそこの成功を勝ち取ることができたのだ、という人間としての誇り(存在意義)をも消し去ることになる。この手の説教の根っこには、そういった不安がある。
※2 こういった発想は、リンチや躾を理由とした虐待などにも少なからず関係していることだろう。
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