ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

自己責任は国が職務放棄や職務怠慢をしてよい理由にはならない

「身代金、自分で払わせれば良い」「危険承知していた」 拘束された2人にネットで吹き荒れる「自己責任論」 - J-Castニュース

自己責任とは逃れえぬ結果責任についての事前警鐘であり、人質は既にその結果責任を負っている。というか結果責任である以上、誰が何と言おうともそれは負わざるを得ない。

しかし適切な情報公開を前提とした選択の自由にそのような結果責任が付きまとうように、国家には常に自国民保護のため最善をつくさなければならないという責務※1が付きまとう(もちろんそれはテロリストの言いなりになれとかそういうことではない)。そして一方における自己責任はもう一方の側たる国家が職務放棄や職務怠慢をしてよい理由にはならない。

中にはメンタルに問題を抱えた人が妙な行動をとって面倒な事件に巻き込まれるなんてことも起こってくるだろう。だがそういった問題に対処するのもまた国家の仕事なのだ。そしてそれは、「現実は厳しい(面倒な問題に対処しなければならない)」ということを予め分かっていながら国家を作るという選択を取った自己責任から生じた結果責任としてのものでもある。

つまり自己責任と言うならそれもまた自己責任であり、そうであるなら尚更国家の構成員たる我々もまた何らかの形でその結果責任を負わなければならないということになる。

凶悪なテロリストが存在するように、世の中は善人ばかりで構成されているわけではないのだから、人質なんて助ける必要はないといような主張が出てくるのは仕方がない。だがその根拠として自己責任を挙げるのは誤りだ。むしろそれは「自己責任なんて知るか(俺達に責任を負わせるな)」という主張と相性が良いものなのだから。



※1 もちろん全ての国家がそのような責務を負っているわけではない。だがそのような責務を負わない国家にするなら、構成員は今以上に厄介な結果責任を背負い込まなければならないことになるだろう。
スポンサーサイト

政治的力関係によって決定付けられる自由意志

物理的制限という観点から見ると、自由意志が存在するためには、それから解き放たれた魂というものの存在が大前提となる。しかし仮に魂が存在するとしても、それ自体が自由意志で生まれてきたのでなければ、やはり自由意志はないことになるわけで、だとしたら自分の意志で生まれてきた、というのは一体どういう状態なのか。
------------------------------------------

そこまで遡らなくとも、もしかしたら現世の魂は、あの世でどこかの偉いオッサンに「今すぐ窓から飛び降りろ!さもなくば生誕せよ」と恫喝された末に現世にやってきたのかもしれない。それでも、いや、そうだからこそ、それが自由意志と呼ばれている、という面がある。というのも、社会的正当性はその嘘の上にしか成り立たないからだ。

もしそれが自由意志によるものでなければ、その行為から生じた問題の責任を「窓から飛び降りろ」のオッサンが負わねばならないことになる。だが責任とは結局政治的に決定されるものでしかない。故にその行為は、政治力がないが故に責任を取らされる者の自由意志だったということになる。そもそも自由であることが明白なら、態々「これは自由なんです」と言う必要はないだろう。

  ***

「意識が状態の原因」なのではなく、「状態が意識の原因」なのだが、その状態が「意識が状態の原因」であるという意識を生み出しているという現象。

とはいえ、「状態が意識の原因」であると(知識ではなく)感覚的に認識してしまうような状態は、その者にとっては決して好ましい状態ではない。その上において、つまり意識に状態を一致させることの重要性という点において、「自由意志による自己決定」という嘘は、(環境整備のために)便宜上必要になってくる。

問題はそれが――自由意志による自己決定は正しい。よって、どんなに意識と状態が不一致でもそれはあなたが選んだ結果なのだ、というように解釈されてしまうことだ。「自由意志による自己決定」は、そういう現行の政治的力関係の正しさを担保するための道具として使用されるのが常になってしまっている。

つまり、それは嘘であるから問題なのではなく、そのような使われ方をするからこそ問題なのではないかと。

動機は自然選択

これだけ自己責任や競争による自然選択の「正しさ」が称揚される社会なのだから、そろそろ、「自己責任!」「自然選択!」を決め台詞にして自己責任論者や選民思想論者を惨殺していくダーク・ヒーローものが流行してもいいはずだし、殺人の動機やそのいい訳として、「自然選択がやった」「殺されることを止めることが出来なかった者の自己責任」と言い出す者がどんどん出てきてもおかしくないように思うのだが、何故か中々そうはならない。

その一方で、直接自分の手で暴力を行使するのではなく、社会システムにそれを代行してもらっている者達の多くは、常日頃からそういった理屈で暴力を正当化しているという状況がある。こういった現象にはもっと焦点が当てられてもよいのではないか。

自己責任の根っこを踏みにじりながら「自己責任」と唱える行為について

自己責任は、選択(行動)の自由が保証され、その選択の判断のために必要となる情報が出来うる限り開示されている、という二つの条件を満たしていて初めて成立する。

実際には、自由意志による自己決定自体が虚構の産物であり、それを根幹としている自己責任はその根っこの部分に大きな瑕疵を抱えているということになるのだが――まあそれはさておき、自己責任というベクトルを重んじるということは、同時に情報開示や選択・行為の自由を重んじるということでもある。
---------------------------------------------

よって自己責任なら、ルールを守った上で他人が何をしようとそれは勝手、ということになる。ところが実際には、自己責任の大切さを説く人間が、それを言ったそばから、或いはそれを言うと同時に、他人の行為の自由を奪い、制御すべきとの説を唱えていることは案外多い。

また、何かをして失敗した人間を「自己責任w」と言って嘲笑し、嫌がらせをする人間もよく見かける。だが、自己責任は失敗した人間に追い討ちを掛けたり、それを嘲笑ったりすることの正当性を担保したりはしない。そんなことが一般化してしまえば、多くの者は失敗を恐れ、自由な行動を取ることが難くなってしまう。そしてそれは、実質的に人々を恐怖で縛りつけ、選択の自由を奪っていることを意味する。つまり、自己責任的にはむしろ、失敗に追い討ちを掛けたりそれを嘲笑ったりすることこそ否定されるべきことなのだ。

こういった、自己責任の根っこを踏みにじりながら「自己責任」と唱える行為が横行しているのが現状だ。

類似するケースとしては、重要な情報を隠すことによって罠をこしらえ、それに嵌った人間に、「注意を怠った者の自己責任」と言うものなどが挙げられる。だが、情報の開示が行われていない以上、当然それは罠に嵌った者の自己責任でもなんでもない。自己責任的には、情報を隠蔽し、罠を仕掛けた側が問題とされるべきなのは言うまでもない。

デマ騒動の裏に潜むある種の自己責任論

http://twitter.com/cortexlife/status/66670776560001025

ユッケで死亡した人達は全員福島からの避難民らしいです!実はみんな放射線の急性障害による腸粘膜破損が原因だそうです!これを隠すために大腸菌0-111のせいにしてますが、被害者の1人は当初医者でも原因不明と説明していました。これは国ぐるみの隠匿です!緊急拡散お願いします!

こういうデマを流す人がいたそうで。

「ユッケで死亡した人達は全員福島からの避難民」というのは2ch発の釣り情報(情報の海の漂流者)

このツイートは、いわゆる釣りだったらしい。

はてなブックマーク -Twitter / c_ten: ユッケで死亡した人達は全員福島からの避難民らしいです! 実はみんな放射線の急性障害による腸粘膜破損が原因だそうです!

だがその釣りに引っかかってこのツイートをRTしてしまった人達がいたらしく、その人達が非難――というより実際には馬鹿に――されるといういつものパターンが繰り広げられている。しかし、この釣りに引っかかってしまった人達への非難は本当に妥当なものと言えるのだろうか。
-------------------------------------

放射能と放射線を蛍に例えると…みたいな解説を池上彰がしていたが、話題が話題なのでせっかくだからこのデマ騒動も一旦放射能と放射線に例えて考えてみる。その場合、デマ拡散による釣りを目論む人間が放射能で、それによるデマツイートが放射線、デマツイートに接することで行われた粗忽なRTが放射線による影響といったところだろう。

今回のデマに接触することは、その内容が下らなく、尚且つ開設して間もないユーザーの呟きということもあり、線量的に言えばそれほど高くない被曝と言えるかもしれない。しかしそれが極端に高い線量でなくとも、ある程度被曝すれば一定の確率で癌になる人間が出てくる。そうでなくても、精神的に不安定になって体調を崩してしまう者が出てくる場合もあるだろう。同じように、世の中には騙され易い人がいて、どんな下らない嘘やデマでもそれに強い影響を受けてしまう人間が一定数出てくる。

さて、こういった前提条件を鑑みた上で今回の騒動を見てみた時、果たしてこのデマをRTしてしまった人達は、こんな下らない釣りに引っかかってしまったのだから非難されて当然、と言えるか。

もしそれを是とするなら、それはある種の自己責任論と言えるだろう。何故なら、その非難が正当性を獲得するためには、皆が意識を高く持つ努力をすればこんな下らないデマには騙されないはずだ、という前提が必要になるからだ。もちろん、「馬鹿」は生まれつきと考える人もいるだろうし、これらの非難は実際そういう考えの下で行われたのかもしれない。が、「生まれつき」を根拠にした非難が今の時代に社会的正当性を獲得するとは考え難い。つまり、少なくとも建前的には――デマをRTして非難されるのは、デマに対する意識が低くそのための努力を怠ったからであり、故に自己責任、という理屈が裏づけとしてなければその非難が正当なものとして社会的に認められるのは難しい。そして実際に非難は許容されているように見える。

この自己責任論が「これはネタです」と言いながら大路を走りまくる人達と、リテラシーの低い人間は叩かれても当然、と考える人達を結びつけている。そして当人達が意識するか否かにかかわらず、結果として、前者は人を騙す遊びを享受すると同時に後者にバッシング対象を提供し、後者は叩きを享受すると同時に釣りを行い易い環境を作って前者にそれを提供する運びとなっている。この手の騒動はそういった相互依存関係によって成り立っている。

 ***

だが、幾ら騙されて非難されるのは自己責任といっても、殆どの人間が騙されないような下らない嘘にさえ騙されてしまう人間が常に一定数でてくるのは事実だろう。そういった条件が大前提として存在している。にもかかわらず、それによる結果を個人の意思の問題として片付けてしまうのはどうなのか。

というのも、その大前提を踏まえた上で考えてみると、殆どの人間が騙されない下手な嘘に騙されてデマ拡散の一端を担った人間が叩かれるのは当然、という考え方は、殆どの人間が癌にならない程度の被曝しかしていないのに癌になり、それによって他人に負担を掛けてしまうような人間は叩かれて当然、という考え方と本質的には変わらないのではないか。そして、下らないデマに騙されてRTしてしまうような人間は危ないから「措置入院」という考えは、誰かに迷惑を掛ける可能性を示唆する印しを持つ人間は隔離すべし、という考えと同じものなのではないか。つまり、この手の叩きは見ようによってはいわゆる二次被害として見ることもできる。

自己責任的に言えばスクリーニング検査は正しい

東日本大震災:転入者に放射線証明の提示要求 茨城・つくば市が撤回(毎日新聞)

 東京電力福島第1原発事故で福島県から避難してきた転入者に対し、茨城県つくば市が放射線量検査(スクリーニング)を求める措置を決め、抗議を受けて撤回していたことが分かった。市原健一市長が19日に会見し「対応に不備があり誤解を生じた。被災者への配慮が足りず本当に申し訳ない」と陳謝した。

 転入届の窓口の市職員が11日、放射線量検査済み証明書の提示を求めたため発覚。市は即日、福島県からの転入者に検査を求める措置を撤回した。3月14日に福島県からの避難者受け入れを始めたのに合わせ避難所などで検査を実施し、同17日付で転入者にも検査を求める措置を決めていた。

 放射線医学総合研究所(千葉市)の神田玲子・放射線防護研究センター上席研究員は「エックス線診断を受けた人から放射線がうつることがないのと同じで人からの汚染はない」と話した。

其々は己の行動を自由に決定する権利がある。それを決定するのはお上でも世間でも専門家でもない。そしてその判断のために必要となる――リスクとリターンを計算するための――情報は徹底的に開示されなければならない。それによる判断は尊重されねばならない。その代わり、そこから導き出される結果は其々が責任をもって受け止めなければならない、というのが自己責任。その考え方でいけば、この場合、情報を求められた転入者側は出来うる限りそれを提示しなければならないし、受け入れ側はその情報に虚偽がない限り、自己の判断から生じた不利益は甘んじて受け入れなければならない。そして第三者はその判断を尊重しなければならない。
---------------------------------------

ネットではこれ(スクリーニング検査)を差別だとする声が強いが、それは的外れだろう。これは差別問題というより、相手の持つ自己責任的理念を尊重するか否かの問題。

自己責任の「正しさ」は、現実における事象は全てメリット(リターン)/デメリット(リスク)に置き換え可能である、という前提と、自由意志による自己決定という思想・理念の上に成り立っている。スクリーニング検査を否定するためには、この「正しさ」に勝る何らかの「正しさ」を提示しなければならない。或いは自己責任が持つ「正しさ」自体を否定しなければならない。これはそれができるか否かの問題。

まあ実際にはそういった理屈云々ではなく、悪党であると判断された一方の側が世間的にねじ伏せられることによって「正しさ」が決定されてしまうわけだけど。結局、善と悪の戦いからしか「正しさ」が導き出されないという勧善懲悪的現実。

 ***

にしても、「エックス線診断を受けた人から放射線がうつることがないのと同じで人からの汚染はない」というこの放射線防護研究センターの回答も妙だな。スクリーニング検査の提示を求めたのは、衣服などに放射能が付着しているのではないか、という恐怖心故のものだろう。それに「放射線がうつることがない」と答えてしまうのは一体どうなのだろう。放射線がうつるなんてことは初めから誰も思っていない――いたとしても極めて稀だろう――わけで。

 | HOME | 

プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

FC2カウンター

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。