人民は国家の共有財である、という共通認識
何故、自殺はしてはいけないこととされるのか。
一つには道徳的理由が挙げられるだろう。しかし、道徳的理由とは即ち宗教的理由であり、それだけでは説得力に欠ける(実際には其々が備え持つ世界観そのものが宗教だが、日本では多くの者に「宗教」と認識された時点でそれは従うべき理由としての求心力を失ってしまう)。
それに、今正に自殺しようとしている人間には自殺をするなと言いつつ、それを避けるための生存活動――それは常に他の“誰か”の迷惑になる――を行っている人間には、「死ね」或いは「死ね」と同等の意味合いを持つ言葉や状況を投げつけるような人間は決して珍しくはない。つまり、大抵の人間は一般的道徳を理由として自殺をしてはいけない、と言っているわけではない。
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では何故それは禁止されるのか。それは、人民は国家の共有財である、という共通認識が裏で強い力を持って作用している結果ではないか。というのも、そのような認識からものを見た時、自殺とは国家の共有財たる命を私的な理由で勝手に破棄してしまうことを意味することになる(――ここで言う「国家」とは、具体的な実体を持ったものとしてのそれではなく、あくまで一人一人の頭の中のにある「こうであるべき」という国家観、その妄想を集約した象徴上の存在としての国家を指す)。
故に、それは許しがたい罪悪であるとされる。尚且つ、その共有財が「私が思う国家観」に害をもたらす/もたらしていると認識された時、或いはそれが役に立たないと判断された時、“勝手に破棄してはならないもの”は、逆に廃棄せねばならないものとなる。
つまり、この「人民は国家の共有財である」という認識が自殺の禁止を言わしめている理由だとすれば、「自殺するな」と「死ね」が同じ人間の口から発せられることの矛盾もまた綺麗に解決する。
一つには道徳的理由が挙げられるだろう。しかし、道徳的理由とは即ち宗教的理由であり、それだけでは説得力に欠ける(実際には其々が備え持つ世界観そのものが宗教だが、日本では多くの者に「宗教」と認識された時点でそれは従うべき理由としての求心力を失ってしまう)。
それに、今正に自殺しようとしている人間には自殺をするなと言いつつ、それを避けるための生存活動――それは常に他の“誰か”の迷惑になる――を行っている人間には、「死ね」或いは「死ね」と同等の意味合いを持つ言葉や状況を投げつけるような人間は決して珍しくはない。つまり、大抵の人間は一般的道徳を理由として自殺をしてはいけない、と言っているわけではない。
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では何故それは禁止されるのか。それは、人民は国家の共有財である、という共通認識が裏で強い力を持って作用している結果ではないか。というのも、そのような認識からものを見た時、自殺とは国家の共有財たる命を私的な理由で勝手に破棄してしまうことを意味することになる(――ここで言う「国家」とは、具体的な実体を持ったものとしてのそれではなく、あくまで一人一人の頭の中のにある「こうであるべき」という国家観、その妄想を集約した象徴上の存在としての国家を指す)。
故に、それは許しがたい罪悪であるとされる。尚且つ、その共有財が「私が思う国家観」に害をもたらす/もたらしていると認識された時、或いはそれが役に立たないと判断された時、“勝手に破棄してはならないもの”は、逆に廃棄せねばならないものとなる。
つまり、この「人民は国家の共有財である」という認識が自殺の禁止を言わしめている理由だとすれば、「自殺するな」と「死ね」が同じ人間の口から発せられることの矛盾もまた綺麗に解決する。
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