ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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順応努力による人生破壊の可能性という留意事項

あらゆる場所に合致する一般的感覚を持ち合わせている人間などいないだろう。そうである以上、ある社会において適応者となるためには、その場所で支配的な風習や様式に振る舞いを合わせるために、ある程度己の持つ感覚的傾向を曲げて押し隠さねばならない。そしてその場の趨勢からより大きく外れた感覚を持ち合わせている人間ほど、より優れた演技力が必要とされることになる。
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そういう演技能力の才能を潜在的に持っている人間は、ひたすらそれを伸ばしていけばよい。だが、元々それが不得手な者もいれば、演技では乗り切ることができないほど大きな感覚的差異を持っている者もいるだろう。その場合、己の感覚を否定することでしか適応者になることができない、という状況が生じる。

しかし注意しなければならないのは、生への欲求(動機)や人生の価値、存在意義もまたそこから生み出されている、ということだ(――自分という存在が他人よりも重要なのは、唯一無二の感覚を共有しているから。そしてその感覚から個人的な動機や価値は生まれる)。つまりそれを否定してしまうと、そもそも生きること自体の価値や意義、欲求もまた同時に否定してしまうことになる。

人生の価値や意義、生きようとする欲求を守ろうとすれば社会に適応できなくなり、社会に適応しようと努力すればそれを否定しなければならない。個体と社会形態の組み合わせにもよるが、順応努力はこういった危険性を潜在的に持っている。

では実際にこの二択が現出した時、人はどちらを選ぶべきか。それはもう明白に前者ではないか。

何故なら、人生自体に価値が無くなれば、その適応自体にも価値はなくなってしまい、元も子もないからだ。それに、社会は様々な形に変容する。そのたびに自分殺しをするわけにはいかないし、積極的に自分を売り込まなければならないような環境――それは決して珍しいものではないだろう――にやってきた時、自己否定で乗り切ってきた人間にはどうすることもできなくなる。要するに後者は完全に詰みルートなのだ。

一方前者は、その環境では適応できなくとも、別の環境では上手く行くかもしれない、という望みがある。もちろんそんな環境は無いかもしれないが、まだ可能性はあるわけだ。それに、どうせ世間の鼻つまみ者のまま適応できずに死ぬにしても、その人生を肯定して死ぬのと否定して死ぬのでは、前者の方がいいに決まっている。少なくともその者にとっては。

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だが自分の場合は後者を選んだ。もちろん選んだと言っても、実際にはそうなっていた、と言う方が適切だが(状況が選択するのであって、意思が選択するのではない)。しかしそれでも適応することはできなかった。いや、学校には適応できた、と言うべきか。ロクでもない学校生活だったが、一応卒業はできたわけだから。しかし、環境が切り替わった時点で詰んでしまった。

生きようとする欲求も自身に対する誇りも持たない者には、他人に自身を(労働力として)売り込む能力もなければ、そんなことをしてまでわざわざ苦しみを味わいに行く――自己否定による順応努力に心血を注いできた人間は、そのようにしか想像できなくなる――動機もない。

そして自分自身の感覚を否定し、その価値が失われてしまえば、その価値の無い感覚が認識するこの世の全てもまた同様に価値はなくなる。そういう者にとってかろうじて価値を獲得し得るのは、苦痛を和らげてくれるものだけだろう。しかし生まれてこなければ苦痛を誤魔化す必要などないわけで、それは決して苦労を乗り越えてまで手に入れたいものにはなり得ないし、生きる動機や目的にもなり得ない。結果、生まれてこないことがその人間にとっての最善になる。一度そうなってしまったら、その後にどんな奇跡が起きても、もうそれがひっくり返ることはないだろう。これが後者のルートを選んだ者の末路だ。

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順応努力には、それを重んじすぎると人生の価値や意義自体を取り返しの付かないレベルで破壊してしまうという罠がある。それに陥ると、適応のために生きること自体を否定してしまうという本末転倒な状況が生じる。故に順応努力について考える際には、こういった人生破壊の危険性について細心の注意を払わねばならない。だが、実際にはそれが留意事項として顧みられることは殆どないのではないか。

そういったことに留意することもなく、ただ順応努力の大切さを説く人間は多い。そういう人は、他人よりもより大きな順応努力をしてきた、という自負があり、それが適応の原因だと認識しているのだろう。だから集団に上手く馴染めない人間がいれば、順応努力が足りない、でかたづけてしまう。

だが順応努力への無邪気な信奉は、その者の努力量の大きさを証明したりはしない。むしろその者が、人生を否定するか社会への適応を取るか、という差し迫った状況に追い込まれたこともなければ、自分殺しに手を染めてしまうほどの努力をする必要性もなかった、ということを証明するだけなのだ。
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努力解釈は平等思想なくして成立しない

一般的に、「努力」と「平等」というフレーズは、間逆のベクトルを持つものであるかのようにイメージされているのではないか。だが、実態はそうではない。むしろ努力の程度の計測、及び結果に対する努力解釈は、平等思想なくして成立し得ないものであると言える。
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其々の人間は全く異なった資質と環境を持って生まれ、全く異なった組み合わせによって生じる固有の経験を積み重ねながら生活している。つまり前提条件が全く異なっている。そうである以上、同じ尺度で其々の努力具合を測ることはできない。もちろん、何らかの規格に乗せて仮にそれを計測することはできる。例えばあるものを沢山作った者ほど努力したとみなすとか、あるものを沢山売りつけた者ほど努力したとみなすとか、或いは競技でより良い結果を残した者ほど努力したとみなすとか。明らかに力の差がある場合は、ハンデなどを作って埋め合わせをした上でそれを測ることもできるだろう。

しかしながら、そこで測られた努力具合は、所詮その規格内でしか通用しない仮想的なものでしかない。それで実際に其々の努力具合を正しく計測できるわけではない。ある規格に照らし合わせて見た時、一見大した努力をしていないように見えても、それはその者にとっては命を削るほど大きな苦しみが伴ったものであるかもしれないし、一見とてつもない努力をしているように見えても、その者にとってそれはそれほど大きな消耗――努力もまた消耗品である。人間が無限に修復可能な永久機関でない限り――を伴ってはいないかもしれない。実際のところ、その者が尽くしうる努力をどれ程尽くしたか、ということは誰にも分からない。その当人にさえ。

その、前提条件が異なっているが故に絶対に同列に並べて測ることのできないはずのものを、何らかの規格、或いは真理化された自らの感覚という物差しに当てはめ、平等に測ろうという試みの結果生み出されるのが努力の多寡という見方だ。つまり、努力の絶対的分量を測ろうとする行為は、それ自体が平等主義の実践に他ならない。

さらに言うと、「上手く行かないのは努力が足りないからだ/努力したからこそ上手く行ったのだ」というようなよくある努力解釈が真であるためには、その前提として、努力さえ怠らなければ上手く行くユートピア――努力に基づく平等世界――が既に成立していなければならない。即ち、努力解釈をすることは必然的に、ここには(一部例外を除いて)既に努力に基づくユートピアが成立している(そしてあなたはその例外ではない。だから努力が足りない)、ということを主張しているに等しい。

つまり、全く異なった条件を持つ者をある特定の規格に平等に押し込もうとする平等主義でしか努力の程度は測れないし、「努力したから/努力が足りなかったから」という結果に対する努力解釈もまた、努力に基づく平等世界というユートピア思想が根底になければ成立しない。

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「努力」に重きを置くとする人間が他の誰かを平等主義的である、と言って批判する場面はよく見かける。だがそこで取り扱われているのは、平等の意味ではなくイメージの方だろう。そしてその衝突は、努力か平等かではなく、異なった規格を携えた平等主義同士の競合の結果生じている軋轢であると見た方が妥当だろう。このことは、相手に「平等主義者」というレッテルを貼り付けることで特定の規格を伴った平等主義を押し通す、という政治手法が存在していることを意味する。

そもそも、初めから平等でないし平等にすべきでもないなら、「不公平だ」という批判は正当性を持ち得ない。すべての人間を何らかの規格に平等に押し込むという前提がなければ、公平/不公平という概念すら成立しないだろう。そしてこの公平/不公平という概念を主張の正しさの根拠として用いない人間は滅多にいない。それは即ち、それだけ平等主義に取り付かれている人間が多いということだろう。実際、それを完全に捨てきることが出来る人間はそうはいまい。結局のところ、――例えば税の問題がそうであるように――現代社会における社会的闘争の多くは、どのような規格に基づく平等主義を推し進めるべきか、という平等主義の規格の違いを巡って行われているものなのではないか。

いずれにせよ、努力の程度が測られる時、そして結果が努力によって解釈される時、その裏には必ず平等主義が存在している。それだけは間違いない。

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後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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