ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「逃げちゃ駄目だ」云々について~嫌なことから逃げるのが駄目なら死ねばいいじゃない

――『エヴァ序・破』を見て思った内容とは全く関係のない感想。一応言っておくと、基本エヴァとは殆ど関係ないので、それを期待している人は読まないほうがいいです。――

使徒に負けると人類が滅ぶとか願ったりかなったりだし、全然危機感を覚えない。そんなのむしろ救済だろう。簡単に死ぬこともできず、何の希望も救いも見出せない苦々しい毎日をいつ死の時が訪れるのかとビクビクしながら送り続けなければならない。本当に恐ろしいのは、現実がそういう人生の可能性を潜在的に秘めていて、それが牙をむくことなわけで。

それより使徒に負けると日本人は全員国を追われ、難民として他国でホームレスになって人間どもに迫害されるという設定はどうか。そして難民となった日本人が「出て行けこの糞ジャップが!」と罵られたり襲撃されたりしながら「逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ」と言って毎日を過ごすんだよ。そして人々はやがて使徒の力(エヴァ)を使って人間に復讐することに希望を見出すようになる。

その方がよっぽどスリルがあるし、現実との対峙というアナロジーとしてもずっと的確だろう。まあアニメなんて現実逃避のためにあるわけで、余りに現実的すぎる脅威を描いた作品なんて観たくはないが(人間的軋轢が使徒の代わりだった『リヴァイアス』とか、暗黒の学生時代を思い出してしまうからもう怖くて観れないもんね)。
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そもそもアニメや漫画に登場する非人間的外敵は、最も身近で切実な現実的脅威である人間同士の軋轢から目を反らすことを目的として生み出された現実逃避の権化なわけで、それと向かい合うというのは、現実を失念しようとすることに他ならない。しかし劇中ではそれと向かい合うことを「闘う」とし、それによって現実から目を背けない(逃げない)ことの大切さを問う――作り手がそれを意図したかどうかはともかく、そういう解釈が可能であり、少なくとも番組案内と子供店長はそのようなことを言っていた――という、なんともアンビバレンツな構造になっている。

そこでの闘いとは「動作」に他ならないわけだが、これもまた現実とは大きく異なっている。現実での闘いとは動作というよりむしろ、主にコミュニケーション能力を介して行われる人間同士のポジション争いだからだ(例えばエヴァのパイロットが大事故を起こした原発の収束を図るための捨て駒作業員のことを意味していたら?闘う相手――敵――は原発?それとも人間?)。

故にポジションを追われたコミュ能力も付加価値もゼロの人間がそれでも何とかして闘おうとすれば、無差別殺傷犯にでもなるしかなくなる。――「逃げるな!」「ああ、逃げないよ…まずお前から始末してやる!」となるわけだ。そして皮肉なことに、決して好ましいものではないとされるその闘いは、「動作」として行われることになる。ちょうどエヴァが使徒と戦うように。

こういった闘いの動作化は、虚構の上だけでなく現実社会でも当たり前のように行われている。本来社会的ポジション獲得・維持問題であるはずの労働問題が、恰も作業問題であるかのように摩り替えられてしまうように。

労働が作業であるとすれば、やろうと思えば誰にでもできるはずのものになる。なのにそれをしないのはその者の自意識が腐っているからだ、このidle manめ、とこうなるのが現実社会の慣わしだ。しかし実際は作業をしただけでは労働にはならない。そのためにはまず作業が労働になるポジション(現実的には持続可能なそれ)を獲得しなければならない。エヴァに乗って闘うためには、まずエヴァにのる資格を獲得していなければならないように。多くの人間は、その資格を得る能力がないが故に闘えないのだ。

しかし資格を得ることができないが故に闘えない人間は、逃げたことにされる。いや、資格を得ようとする闘いから逃げたのだ、という主張もあるだろう。だがその主張が正当性を獲得するためには、潜在的に皆が社会的に認められるポジションを獲得し、そこで持続可能な競争を行うことができるようなシステムが前提として完成していなければならない。有象無象のモブキャラがエヴァに乗って闘い始めることができるような可能性が用意されていなければならない。

だがそのようなシステムは人類史上未だ何処にも完成したことはない。虚構の物語ですらそれ(モブキャラがしゃしゃり出てくる)を成立させるのは困難だろう。要するにそれは解決不能な人間問題なのだ。ところがその人間問題が、個人の「逃げずに闘う意志」の問題に摩り替えられてしまう。それ故にシステムを改善するコストや努力を払わずに済み、そこから漏れた者を助ける必要もなく、現在既にポジションを獲得している者もまたひとまず安泰、ということになるわけだ。

 ***

そもそも、「闘う」や「逃げる」に善性や悪性という属性を割り当ててしまうことがおかしい。実際には闘いが必ずしも良い結果に繋がっているとは限らない。これは「努力」についても言える。

其々は自分のできるやり方でしか闘えないし、努力できない。どの方向で闘い努力すれば良い結果になるのかさえ分からない。さらに人間もまた消耗品なので、いつまでも闘い続けられるわけではない。無理な闘いをすれば壊れたりもするし、取り返しの付かない失敗をする恐れもある。そして成功や失敗は常に人間同士の競合の結果として生まれる。何か正しい方向が予め定められていて、それに向かっていく者とそうでない者がいるわけではない。それらは単に衝突するものなのだ。こういった能力的制限や不確定性、不可逆性、競合性を帯びているのが現実の闘いだ。よってそれらの要素が欠落した善性としての「闘い」は、現実における闘いのアナロジーにはなり得ない。

というか、人間が最も嫌なことは「簡単に死ぬこともできず、何の希望も救いも見出せない苦々しい毎日をいつ死の時が訪れるのかとビクビクしながら送り続けなけること」であり、死そのものなわけで、闘いはその嫌なことから逃れるためのものだろう。だから嫌なことから逃げるのが駄目なことだとするなら、ひたすら惨めな人生に留まり続けるか、もしくはさっさと死ぬしかない。

なので、「嫌なことから逃げるな!」には「じゃあ今すぐ死ね!」と返すのが内容的には最も適切な返答と言えるだろう(政治的には適切とは言いがたいが)。

 ***

なんにせよ、物語が道徳規範を与えるためのものになってしまったら、それはもうただのプロパガンダでしかなくなってしまうわけで、そういう見方をすると、あるいは作者が込めたその意図が全面的に出てくると、その物語は本当にくだらないものになってしまう。よってそうでない見方をするならば、劇中における「逃げちゃ駄目だ」は、単にシンジがそういうコンプレックスを持っていた、と解釈するのが妥当なところではないか。
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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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