ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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生死の掛かった取引では市場原理は働かない

過酷な労働環境で働く労働者は奴隷的であると言われることがある。だが――自分の今の職場がそこまで過酷であるかどうかはともかくとして――自分のような使い捨て用品としての労働者は、そうであるが故に奴隷的であるとは言えない。というのも、奴隷というのは主人の財産でもあるからだ。だから主人はその価値を毀損しないよう計らう必要性もでてきたりする。それは例えば、継続的に使い続けるためのカメラと使い捨てカメラの扱いの関係を見れば分かり易いだろう。つまり、自分のような人間はある意味奴隷以下の存在であると言える。
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これに対し、企業側からの法に抵触する形での労働の強要やパワハラなどに何ら抵抗を示すこともなく、唯々諾々と従ってしまう会社員は「社畜」と呼ばれ、揶揄されたり非難されたりする。何故それが非難されることになるかと言えば、そういう者がいることで市場原理が働かなくなるからだ。

市場原理には、経済効率性を高めると同時に、労働者の質と労働環境・条件の質の改善もまた期待されている。それによってより多くの人々の生活もまた改善されるに違いない――この蓋然性が、極力市場に委ねるべきである、という主張の大儀になっている。ところが「社畜」が一定数存在すると、企業は現状の労働環境・条件を改善する必要がなくなってしまうため、その質の改善は阻害されてしまう。ルール違反が野放しにされ、市場は健全なものではなくなってしまう。それ故そのような存在は、侮蔑の意味をこめて「社畜」と呼ばれたりするわけだ。

だがその攻撃が当の本人達に効いているかと言えば、それは疑問だ。大抵そういう者達は「社畜」と呼ばれても開き直っているし、むしろ何の関係もない話題に態々それを持ち出してきて誇らしげにしている者さえいる。何故「社畜」がそのような鎖自慢をしたがるのかと言えば、彼らはそれ以下のポジションが存在することを知っているからだ。そして自らのそのポジションは多少我慢さえすれば持続可能である(或いは次の飼い主が見つかる)と考えているのだろう。だから幾ら「社畜」呼ばわりされても動じない。

この問題の根っこには、「社畜」が潤沢に供給されるからこそ労働環境・条件が改善されないのと同じく、自分のような使い捨て用品が潤沢に供給されるからこそ、「社畜」はそのポジションを維持し、誇り続けることができるという問題がある。

もちろん、それらが潤沢に供給されるのにはそれなりの理由がある。そこには生死がかかっているため、取引における選択の余地がなくなり、死の恐怖に後押しされる形でそれらは潤沢に供給されることになるのだ。畢竟、労働市場におけるそれのように、生死がかかっている取引に関しては、一方的関係性が形作られ対等で自由な取引が出来なくなるため、市場原理は働かなくなる。さらに言えば、労働市場に関しては、実際にそこで働いてみるまでその内容が分からないという情報の不透明さの問題もある。そんな状況でまともな市場が形作られるはずもないだろう。ましてや「職を選り好みするな」「直ぐに離職するな」などという(市場の自由を真正面から否定する)主張が常識的なものと認識されている社会では尚更だ。

要するに、――そもそも市場原理などというものに過剰な期待を抱くこと自体が間違いではないのか、ということもあるが――もし仮に市場原理を働かせようとすれば、まず取引の際に死の恐怖が付きまとい自由な選択ができなくなるような状況を改善しなければならない。そして実際にそこでどのような労働をするのかという情報が徹底的に開示されていなければならない。さらに言えば、市場のルールを無視し続けるプレイヤーには速やかに退場してもらわねばならない。そういった環境作りを諦め蔑ろにすることは、市場原理を捨てることに他ならない。だが、実際にそういう環境を実現させることに熱心な人間は一体どれほどいるだろうか?

そういったことを踏まえて現状を見てみると、「市場原理」は言葉では正当性の根拠としてよく持ち出されるものの、実のところ殆ど誰もそれを重んじようとする者などいないことが分かる。結局、重んじられているのは市場の機能ではなく、その言葉が持つイメージの政治的効用であり、それを利用しようとする者が大勢いるだけなのだ。

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ただし経済効率性という面だけに注目すれば、もう少し違ったものも見えてくる。合理性や効率性という言葉は、「誰の何の目的にとって」という前提条件によって中身がガラっと変わってくるということに十分留意しなければならない。その上で、実際に人を使い捨てにしたり無茶なこき使い方をした方が誰かの何らかの目的にとって合理的で効率的である(それによって守られるポジションが増える)場合が存在するのもまた事実だ。

だが市場におけるそのような機能だけが重んじられるのであれば、市場とは所詮そういうものであるという情報――つまり特定の誰かの目的を達成するために他の誰かが割を食うのはやむなし――がはっきりと明示されていなければならない。そしてそれは市場原理をただの利害対立に変貌せしめ、社会的共有物としての性質を排斥することになるだろう。

そもそも経済効率性を高めることが何故良いことであるとされるのかと言えば、それによってより大勢の人達の生活が改善されるはずで、そこに自分もまた含まれるのではないか、と期待されるからだ。それが期待できず、単に割を食うだけであると認識した側の者にとっては、市場原理はただマイナスをもたらすだけのものでしかなくなってしまう。そうなれば市場を重んじる故はなくなってしまう。

問題は、自らの労働環境や条件が多少悪くなろうと、他の者が、或いは自分が使い捨てにされようと、企業にとっての経済効率性(というか利益)を重んじることで自分の今のポジションを維持することができるのであればそれでいい、と考える者が大勢いるであろうことだ。そしてこの考え方は、彼らの立場からすれば必ずしも間違いであるとは言えない。結果として、このような経済効率性を追求することだけが市場に求められることになる。

この場合、労使における対立軸はもはや経営者vs労働者、正規vs非正規という単純なものではなくなる。これは政治の場における制度設計においても言える。経営者が賛同しているだけではその政策は通らないわけだから。よくある「労働者同士がいがみ合えば経営者が高笑いするだけ」というようなセリフがどこか陳腐で時代遅れなものに聞こえてしまうのは、こういった状況が既に成立してしまっているからだ。
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後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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