「絆を重んじる社会」より「絆が無くても生きていける社会」
「プロジェクト2030」見えないホームレス
ホームレスと言えば、今職場で一緒に働いている自分と同い年の人も、ここに来る前に2度ホームレスになったと言っていた。ここが決まらなければ原発の作業員になっていたのだそうだ。
その人の今の住居は職場からかなり遠い。なので通勤に時間がかかり、交通費も馬鹿にならないため、前々からもっと職場に近い借家を探しているそうだ。だが両親はずっと前に他界していて保証人になる人がいないため、いいところがあっても審査で跳ねられたりして、中々引越し先を見つけられないらしい。
これは自分にとっても他人事ではない。自分の場合、元々一人暮らしをする生活力もないが、そうでなくとも、今の日本のシステム上、結局親が死ねばそれでそれでアウトになる可能性が高い。そもそも、今の低賃金で一人で生計を立て、それを持続させるのは難しいし(同じ職場の彼は最近連日12時間くらい働かされているが、自分にはそれは無理)。
結局、社会的なポジション争いに敗れ、尚且つ親族との絆を失った人々は自殺するかホームレスになる他ないだろう。そして後者になった者は善良な市民らから蔑まれたり、チンピラに襲撃されたりすることになる。だからリンク先の記事のように、ステルス化してそれらから逃れようとするわけだ(――実際、同じ職場の彼はステルス化できなかったために、市民から通報されたり、チンピラから襲撃されたりしたそうだ)。
***
一方、親族との絆故に酷い目に遭う人達もいる。例えば尼崎の連続変死事件では、何度も何度も通報があったにもかかわらず、親族の問題だからという理由でその異常な状況は放置され続けた。つまりあの事件がより大きなものへと発展したのは、親族との絆を重んじ過ぎたが故とも言えるだろう。絆とはしがらみの別名でもあるわけだ。
まああれはかなり特殊な例かもしれないが、親族のありようによって、その人の人生が大きく左右されることになるは間違いないだろう。
改正生活保護法における「親族の扶養義務強化」に象徴されるように、このような構造は「絆」というブランドが牽引役となり、さらに推し進められつつある。そして親族との絆が切れたらそれで終わりになってしまうような状況があるからこそ、それを代替する会社や何らかの組織、集団との絆もまたその分だけ重んじられ、人々はその絆を守るために多くの犠牲を払わなければならなくなる。
要するに、この国は絆を重んじすぎるために、それを失った者にとって極めて過酷な状況が形成されるようになっているんじゃないか。国家運営を絆に依存しすぎているんじゃないか。
そして絆によって人生を滅茶苦茶にされたり、それを失って路頭に迷う人がいる一方、絆のおかげで政治家になったり、高い社会的地位を獲得する人達もいる。そうやって絆による力を獲得した人達は、その力を、絆への依存度をより高めた社会を構築するために使うだろう。そうやって状況がどんどん硬直化し、身分が固定化する方向へと動いているのが現状なんじゃないか。
結局、絆を重んじる社会とはこういうものなのではないか。そう考えると、この国が現在抱えている課題は「絆を重んじる社会」などではなく、むしろ「絆が無くても生きていける社会」であるように思う。実際、「絆がないと死ぬからとにかく無理にでも絆の構築と保護を」は余りよい結果は生まないだろう。
ホームレスと言えば、今職場で一緒に働いている自分と同い年の人も、ここに来る前に2度ホームレスになったと言っていた。ここが決まらなければ原発の作業員になっていたのだそうだ。
その人の今の住居は職場からかなり遠い。なので通勤に時間がかかり、交通費も馬鹿にならないため、前々からもっと職場に近い借家を探しているそうだ。だが両親はずっと前に他界していて保証人になる人がいないため、いいところがあっても審査で跳ねられたりして、中々引越し先を見つけられないらしい。
これは自分にとっても他人事ではない。自分の場合、元々一人暮らしをする生活力もないが、そうでなくとも、今の日本のシステム上、結局親が死ねばそれでそれでアウトになる可能性が高い。そもそも、今の低賃金で一人で生計を立て、それを持続させるのは難しいし(同じ職場の彼は最近連日12時間くらい働かされているが、自分にはそれは無理)。
結局、社会的なポジション争いに敗れ、尚且つ親族との絆を失った人々は自殺するかホームレスになる他ないだろう。そして後者になった者は善良な市民らから蔑まれたり、チンピラに襲撃されたりすることになる。だからリンク先の記事のように、ステルス化してそれらから逃れようとするわけだ(――実際、同じ職場の彼はステルス化できなかったために、市民から通報されたり、チンピラから襲撃されたりしたそうだ)。
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一方、親族との絆故に酷い目に遭う人達もいる。例えば尼崎の連続変死事件では、何度も何度も通報があったにもかかわらず、親族の問題だからという理由でその異常な状況は放置され続けた。つまりあの事件がより大きなものへと発展したのは、親族との絆を重んじ過ぎたが故とも言えるだろう。絆とはしがらみの別名でもあるわけだ。
まああれはかなり特殊な例かもしれないが、親族のありようによって、その人の人生が大きく左右されることになるは間違いないだろう。
改正生活保護法における「親族の扶養義務強化」に象徴されるように、このような構造は「絆」というブランドが牽引役となり、さらに推し進められつつある。そして親族との絆が切れたらそれで終わりになってしまうような状況があるからこそ、それを代替する会社や何らかの組織、集団との絆もまたその分だけ重んじられ、人々はその絆を守るために多くの犠牲を払わなければならなくなる。
要するに、この国は絆を重んじすぎるために、それを失った者にとって極めて過酷な状況が形成されるようになっているんじゃないか。国家運営を絆に依存しすぎているんじゃないか。
そして絆によって人生を滅茶苦茶にされたり、それを失って路頭に迷う人がいる一方、絆のおかげで政治家になったり、高い社会的地位を獲得する人達もいる。そうやって絆による力を獲得した人達は、その力を、絆への依存度をより高めた社会を構築するために使うだろう。そうやって状況がどんどん硬直化し、身分が固定化する方向へと動いているのが現状なんじゃないか。
結局、絆を重んじる社会とはこういうものなのではないか。そう考えると、この国が現在抱えている課題は「絆を重んじる社会」などではなく、むしろ「絆が無くても生きていける社会」であるように思う。実際、「絆がないと死ぬからとにかく無理にでも絆の構築と保護を」は余りよい結果は生まないだろう。
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