ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「資本主義VS共産主義(社会主義)」という偽の対立~システム上の欠陥温存を「資本主義的」と見なす風潮について

情けない国に成り下がる英国 ジェレミー・コービンという病 - Market Hack

英国労働党の党首を選ぶ選挙でジェレミー・コービンが圧勝しました。

これはマーガレット・サッチャーの登場以来、英国が歩んできた新自由主義(市場原理を信じ、個人の自立と利益追求を社会の活力の源泉とする考え方)の路線にNOを突きつける出来事だと思います。

ジェレミー・コービンは平等でフェアな社会を理想に掲げており、大きな政府、強力な労働組合、高所得者層に対する重い課税などを主張しています。(中略)

マーガレット・サッチャーのヒーローがF.A.ハイエクならば、ジェレミー・コービンのヒーローはカール・マルクスです。(中略)

ケインズやハイエクがいかに資本主義を手懐けるか? ということに思いを巡らせたのに対し、マルクスは資本主義そのものを放棄することを提唱したのです。このためマルクスは共産主義の父と言われています。(中略)

ジェレミー・コービンの主張の問題点は、我々が歩んできた過去から、何も学んでいないという点です。大衆は忘れっぽいし、オツムが弱いので、ウケを狙うなら「お花畑社会主義」をぶら下げるのが、最もカンタンな方法というわけです。

低所得者層のルサンチマンをくすぐり、カラッポな約束をすることで有権者の歓心を買うことなら、誰にだってできます。

いまの英国は、ヴィジョンのかけらもない情けない国に成り下がりました。ジェレミー・コービンの登場は、atavism以外の何物でもないのです。

これは典型的な相殺法だろう。幾ら共産主義/社会主義に問題があってもそれは現行の資本主義が抱えている問題を相殺するわけでもなんでもないのに、ひたすらマルクス批判に終始し、それを根拠として対抗相手の政策を否定している。これでは単に今ある問題を温存させようとしているだけにしか見えない。

そうやって問題を温存させることこそが自身にとっての「利益追求」であり、そうである以上それを追求するというのがこの人なりの資本主義精神の発露なのかもしれない。しかしであるならば、現行のやり方のままでは不利益を被ると考える者達が競技のルールを変更すべきだと主張するのもまた資本主義精神と言えるはずだ。

「ルサンチマン」云々というのもおかしい。というのも、貧しさを根拠に己の清廉さを証明し、それによって道徳的勝利を得ようようとする価値倒錯がルサンチマンの代表例だろう。そうして考えると、「ルサンチマン」「情けない」などという自意識批判によって己の精神性が相対的に優であることを証明し、それによって自身が支持する側の選挙での敗北に復讐を図ろうとするなら、それこそまさにルサンチマンそのものではないか。
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 ▼(1)格差の固定化は競争原理が働いていないことを意味する

上に挙げた双方の資本主義精神はあくまで個々人の利益追求でしかない。では資本主義を支えるシステムにとってどうか。そういう観点から見た時、これまでのやり方を続けることが最善の策であると言えるかと言えば、それには疑問符が付く。

上の記事では「新自由主義(市場原理を信じ、個人の自立と利益追求を社会の活力の源泉とする考え方)」こそが資本主義的であり、「大きな政府、強力な労働組合、高所得者層に対する重い課税」は共産主義的であるとされている。だからこそマルクス批判が後者の誤りを証明するのに有効であるかのようになってくるわけだ。

しかしながら後者のような政策を唱える者に支持が集まり始めた理由は、サッチャー的政策が機能不全を起こし、貧富の格差が拡大し、それが固定化してきている事実があるからだろう。

格差の拡大はともかく、格差の固定化は即ち競争原理が働いていないことを意味する。例えばある競技を運営するにあたって、順位の入れ替わりが殆ど起こらないような制度を採用していれば、選手も観客もやる気・観る気をなくし、やがてその競技が廃れていくのは自明だろう。

こういった現象は共産主義特有の問題だとされてきた。しかしイギリスを始め、資本主義であるはずの多くの国において今それに近いことが実際に起こっているわけだ。つまり資本主義の根幹であるはずの競争原理が上手く機能しなくなり「社会の活力の源」が枯渇してしまっている。

サッチャー的政策を支持する「資本主義応援団(それに反する政策を共産主義的/社会主義的だと主張する人達)」は一般的に成果主義を重視すべきだと考えている。ところが現代において、サッチャー的政策は多くの人々の生活の向上や資本主義システムの維持・向上に対してマイナスの成果しか出せていないのだ。

自分は成果主義なんてものは政治と経営、プロスポーツだけで十分で、その他の分野ではプラスの効果は生まない(――ほとんどの分野では「成果=ポジション獲得能力」にしかなり得ない)と考えているが、何にせよ重要なのは、政治という成果主義が最も求められるべき分野において、それが成果主義的に大失敗したが故にジェレミー・コービンのような人が注目を浴びるようになった、ということなのだ。この事実は重い。

なぜなら引用記事の言う「新自由主義」的観点から見ても、いやそういう立場から見れば尚更のこと、これまでのやり方は間違っていたということになるからだ。

 ***

資本主義を維持するためには市場原理が信じられることが必要だとするなら、当然市場はその期待に応えるだけの成果を出さなければならない。一般的に、根拠はないが正しい、と信じられるようなもののことを宗教と言う。つまり市場がその成果を示さない限り、市場原理を信じることが宗教と差異化出来なくなってしまうのだ。

市場にはバランスの調整、効率化、質の悪いものを淘汰する機能があるとされ、そういう機能を持っていると言われているからこそ特別扱いを受ける。

しかし実際はバランスが調整されるどころか富は限られた場所に集約されていき、低賃金長時間労働に代表されるように非効率な働き方を強いられ、ブラック企業と言われるような粗悪な労働環境・条件ばかりが蔓延るようになっている。そして既に言ったように、俯瞰的に見ると競争原理も働いていない。

つまり市場原理とやらは期待された役割を果たしているとは言いがたく、正当性の根拠を失いかけている。


 ▼(2)市場は政府の介入によって成立している

もちろん、だからと言って市場自体を否定すればよいというものでもないだろう。

先に述べたように、現在の資本主義諸国では共産主義特有の問題とされた倦怠が既に起こっている。それは多くの人々が共産主義失敗の主因としてきたものだ。だがそれが現に資本主義でも起こっている以上、それは共産主義失敗の主因ではなかったということだろう。

では共産主義は何故失敗したのか。端的に言えば、計画経済の行き詰まりではないか。そしてそう考えると、市場自体を否定するわけには行かない、ということになるわけだ。

だが現に市場がその機能を発揮せず、「市場の失敗」ばかり繰り返している以上、そのルールや運営方法は見直しをする必要があるだろう。市場原理はどのような環境でも上手く働くというわけではないのだ。

ところがそういった試みは「資本主義応援団」による「政府による市場介入は社会主義的だ」という主張によって遮られ続けてきた。

だがこの理屈はおかしい。

例えば今シリアに進出しようとする企業などないだろう。何故ならあんな場所に信頼できる市場など成立しないからだ。それがいい例で、市場は自然にどこにでも存在できるものではない(――もちろんシリアにも市場自体は存在するだろうが、「資本主義応援団」が参加したくなるようなものではないだろう)。今シリアで多くの者が参加を望むような市場を成立させるためには、一体どれだけの犠牲と金銭的コスト、個々人の自由の制限が必要になるか検討も付かない。

シリアの例は極端に思えるかもしれないが、何処であろうと信頼の置ける市場を成立させるためにはそういった莫大なコストと自由の制限が必要になるのは間違いない。つまり現代において既に成立している市場は、政府がガッツリと介入してきたことで成り立っているわけだ。よってもし政府の介入を社会主義的というなら、資本主義は社会主義という土台の上に成り立っているということになる。

だからもし本当に政府の市場への介入が社会主義的で唾棄すべきものだと考えるなら、その者は莫大なコストと不自由を犠牲として払うことで成り立ってきたこの市場で得た利益を全て放棄し、政府の統制の利かない地へ行ってゼロから商売を始めるべきだろう。それをやって初めて自分の力で身を立てたと言える。

そもそも現代の企業は当たり前のように「即戦力」を求めるが、そんなものが自然と育ってくるはずがないだろう。土地があれば自然と作物が生えてくるわけではないのと同じで。日本の識字率は100%に近いが、これだって別に当たり前のことではない。

政府の介入しない未開の地で育った人間と仕事や取引をすることを想像してみればいい。それが如何なる困難を生むか。だが「資本主義応援団」はそういう心配をする必要がない環境にいる。

本来高い教育コストを払って育てなければならない技能やモラルを持った者を、それを払わず低賃金で雇えて当たり前であるかのように錯覚できる環境は一体何によってもたらされているのか。或いは本来なら他人を調整弁として使い捨てにすればそれ相応の報復を覚悟しなければならないが、そのようなことを考慮せずやっていける環境は、一体何によって成り立っているのか。それは正しく政府の介入によってだろう。

つまり「資本主義応援団」による市場介入批判とは、自分達の都合の良い形で市場に介入すべきだ、という内容のことを言っているだけにすぎない。

事実、例えば「新自由主義」の代表である経団連の人達は、常日頃から政府への働きかけを行っている。何のためかと言えば、自らにとって都合の良いルールを作るため、即ち介入のためだ。

つまり引用記事における「個人の自立」とは、そういった介入によって成立しているシステムへの依存で成り立っている。「個人の自立」とは、そのシステムに上手く依存できていることを示す称号なのだ。即ち「個人の自立」の重視とは、より多くの者が上手く依存できるシステムを構築することに他ならない。


 ▼(3)「資本主義VS共産主義/社会主義」という偽の対立

要するに「サッチャーVSコービン」のような対立は「資本主義VS共産主義/社会主義)」という対立ではない。政府が市場に介入するか否かの問題でもない。資本主義における市場のルールや運営をどのように行うべきか、如何にして介入すべきか、という対立なのだ。

サッチャー的な主張を支持する側は現在の方向性を変える必要はないという考えを持っていて、コービン的な主張を支持する側はそれを変える必要がある、という考えを持っているというだけにすぎない。

しかし前者の主張に則って作られたルールや運営方法は、実際には成果を出せていないのにもかかわらず、その方向性を変えることは共産主義(社会主義)的であるからできない、という誤った理由で維持され続けてきたという経緯を持つ。それによって現在の資本主義が抱えるシステム上の欠陥はずっと温存され続けてきた。

いや、実際その欠陥を払拭することはできないのかもしれない。だがそれ以前に、それを改善しようとする動き自体が取られてこなかったのだ。資本主義の根幹であるはずの市場原理や競争原理が上手く働いていないのにもかかわらず。

そして恰もその硬直化、欠陥の放置こそが資本主義的であるかのように捉えられているのが現状だろう。

 ***

さらに少し別の角度から見てみると、そもそも純然たる資本主義などというものは存在しないのではないか、という疑問がある。

例えば冒頭の記事が言う「新自由主義」の人達は政府が市場に介入することを社会主義的と言うが、既に述べた通り、もしそうであれば資本主義は社会主義という土台の上に成り立っていることになる。そしてそのシステムのお陰で格差の固定化と富の集中が起こっているとするなら、現在多くの資本主義国が「金持ちのための社会主義」になっているという指摘は、全く的を射たものであると言えるだろう。

そういう国において、軌道に乗り損ねた底辺の人間が幾ら身を粉にして働こうが金持ちになれる可能性は全くないし、地位や名誉や満足のいく人生を手に入れられるわけでもない。そういう資本主義的インセンティブがゼロな環境に置かれた無職に対して共産主義的インセンティブ(働かざるものは食うべからず)でもって迫る「資本主義応援団」は多いが、この時その者達の中身は紛れも無く共産主義者になっている。

「金持ちが海外に逃げるぞ理論」もそうだ。トリクルダウン理論に則った運営で一掴みの金持ちを作ったはよいが、それが分配もされず階級化を生み、その者達のご機嫌を損ねると痛い目に遭うのでさらに機嫌を取り続けなければならない、という蟻地獄のような構図は、正に旧共産主義国のそれと同じではないか。

「海外に逃げるぞ理論」はグローバル化や租税免除という特権があってこそ。皮肉なことに、より資本主義的であるとされているグローバル化は、世界を一つに、と言いながら一部特権階級が優遇される共産主義と紙一重なのだ。

これらのことが示すように、純然たる資本主義などというものは存在し得ないというのが実際のところなのではないか。それは常に社会主義や共産主義と渾然一体となったものなのではないか。

そしてそうだとすれば資本主義であっても共産主義的/社会主義的発想がちょこちょこ顔を出すのも別におかしな話ではないということになる。「資本主義応援団」がしばしば共産主義的な主張を行うように。

だが実際は、恰も純然たる共産主義と純然たる資本主義しか存在しないかのような前提で議論がなされることが多い。世界がそんなに単純なはずもないのに。

そういった勘違いこそが冒頭に挙げた記事のような、資本主義か共産主義か、というような極端な二者択一論を生む原因となっているのではないか。
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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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