ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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神山典士氏の『FAKE』評について

「残酷なるかな、森達也」- 神山典士(ノンフィクション作家) (1/2) - Blogos

一言で言えばこの作品は、「中国の山奥に分け入ってジャイアントパンダの生態撮影に成功しました」という類の記録映画だった。最近では、ナレーションも音楽も挿入せず、ひたすら被写体を撮り続ける「観察映画」もあるが、この作品にもどこにも調査報道の跡はない。

そもそもドキュメンタリーが調査報道的でないことに憤る、ということ自体妙な話だ。ドキュメンタリーは別に何かを追及することだけを目的とはしないからだ。自称超能力者を取材する時、そのトリックを暴くことを主眼とするものもあれば、その人物の人生や日常を映し出して見せることを主眼とするものもある。

そういえば昔、ニートをテーマにしたドキュメンタリーと銘打った番組で、取材者側が取材対象に、わりと強い口調で「何故働かないんですか」と再三問い詰めていたものがあり、これのどこがドキュメンタリーなんだ?と思ったことがあったが、そういうものならば神山氏も満足したのかもしれない。

何故そのような例を挙げたかというと、どうもこの記事は断罪が目的化してしまっているように見えるからだ。でないと「パンダが吠える」「 まるで甘やかされて育った「末っ子長男」の性癖そのものだ。 」(これは森氏に向けられたもの)などという、彼が信奉するはずの調査報道からは程遠い言葉が出てくるはずもない。

しかしそういったものや視点が「調査報道」や「ノンフィクション」という肩書きでパッケージングされた途端、もっともらしさや格調高さを醸し出してしまったりする。それこそ報道の抱える大きな問題点ではないか。
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以下、気になった部分を幾つか挙げてみる。

佐村河内氏の記者会見における私の「まだ手話が終わっていませんよ」という発言も、そこだけ切り取れば「聴覚障害者を侮辱している」というイメージで解釈することもできる。だがそれは編集によって見せる角度を変えただけのイメージ操作だ。調査報道ではない。

聴覚障害者が手話が終わりきる前に意図を把握したり、話の途中で既になされた質問に応えたりすることは普通にあるだろう。普段聴覚障害者がそういうことをした時、「まだ手話が終わっていませんよ」などとは言わないだろう。失礼だから。何故そのような対応を取るかと言えば、予断があるからだろう。こいつならそれをしても問題ないという考えがあるからだろう。

予断を持つことは仕方がないかもしれないが、そういった予断の貫徹は本来調査報道においては最も避けねばならないものだ。また、何らかの嫌疑がかかっているからといって、その者に失礼な態度を取ったり侮辱したりしてよいというわけでもない。それもまた調査報道には不必要なものだ。

代作問題で渦中の佐村河内守さん 会見ノーカット14(14/03/07) - YouTube


実際に切り取られる前の映像も見てみたが、やはりおちょくっているようにしか見えない。イメージ操作だと言うが、他にどう解釈すればよいのだろう。そして質問自体も謝罪を求めること、すなわち断罪を目的としたものになっている。神山氏は調査報道の一環としてこの質問を行っているはずだが、しかし子供への謝罪を迫るのは一体何を調査するためのものなのだろう。そういった断罪の目的化は調査報道の姿勢に反するのではないか。


Ⅲ 佐村河内氏は「作曲」したのか ―― 委員会が確認した事実・その1(PDF)

「佐村河内氏には交響曲を作曲する音楽的素養や能力はなかった。(略)佐村河内氏が果たした役割は、新垣氏に楽曲のイメージ構想を指示書等で伝えるプロデューサー的なものだった。実際にメロディ、ハーモニー、リズムを作り、譜面にして曲を完成させたのは新垣氏である」

また、記事ではBPOの調査報告から以上の部分を引用しているが、この調査報告には以下のような記述もある。

新垣氏は、この「鬼武者」までの作曲については、佐村河内氏のメロディを一部使
用しアレンジしているので、作曲者を佐村河内氏ひとりとしても問題はないだろうが、
「交響曲第1番」以降の作曲については、作曲者は自分であると主張している。

これがあるのとないのとでは印象だけでなく意味合いも変わってくる。なければ最初から作曲者を偽っていたことになるからだ(この二人の関係は、元々佐村河内氏による編曲の依頼から始まっている。話し合って共作になることもあるが、基本はメロディーを作った方が作曲のクレジットを獲得する※)。

少なくとも「編集によって見せる角度を変えただけのイメージ操作」をそれ程問題とするのなら、この部分に関する補足は必須になるはずだ。しかしこの記事にはそれがない。

さらにいえば、森監督が「主観と客観の狭間の表現で苦悩する」ジャーナリストであるならば、このシーンのあとには次の質問を用意しておくべきだった。

「自分で作曲演奏できるのに、なぜ他人に創作を委ねたのか?」、と。

まったく音楽に無知無能な者が他者に創作を委ねるならば、まだ理由もたとう。けれど仮にも4分の曲を仕上げることができる者が、なぜ他者に創作を全面依存するのか。 それは無知無能よりも愚かな、唾棄すべき「打算」以外の何者でもない。

その問いかけすら放棄するこの作品は、ジャーナリズムではない。単なるエンタテインメント作品だ。ならば冒頭に掲げた「主観か客観か」という問いは、完全に無意味だ。ここには真相や真実を問う姿勢などないのだから。

「なぜ他人に創作を委ねたのか?」などという質問をする必要はないだろう。あの二人が、技能のない営業と技能はあるが営業力がない技術者という関係であったことは明らかなのだから。どちらも一人では金を稼ぐことが出来なかったが故にその関係が築かれ、そしてそこから抜け出せなくなった、というだけの話だろう。そして営業の方がどんどん悪乗りしていった、と。まあ骨組み自体はわりとどこにでもある話である。

佐村河内氏は森監督の要請により、この作品の中で自ら捨て去った凡才をここに再生しなければならなかった。ただ凡庸なだけの旋律を世間に披瀝するために――――。

それを神山氏のように問い詰めや謝罪の強要ではなく、実際に曲を披露させて見せることで伝え、各々に判断してもらってこそのドキュメンタリーだろう。正に王道とさえ言えるやり方だ。それの一体どこが駄目なのだろう。

そして仮に佐村河内氏が金を稼ぐほどの作曲の技能がなかったと判断したとして、その者に、何故あなたは自分で曲を作って売らないのか?などと問い詰めることに、一体ジャーナリズムとしてどのような価値があるだろうか。ジャーナリズムは基本的にエンタテインメント要素を持っているものではあるが、それこそ人が恥をかく姿を見せて人気取りをする低俗なエンタテインメントの姿そのものではないか。

大体、自分で曲を作れる者が自分より高い技能を持つ者に作品の製作を依頼することを「唾棄すべき「打算」以外の何者でもない。」とまで非難する理由は一体なんなのか?そういった「打算」が駄目ならビジネス自体できなくなる。それ自体は別に非難されるようなことではないだろう。何らかの予断がなければこんな筋の通らない言葉は出てこないはずだ。

こういったことを見ていくと、まず先に非難があり、後から理由を探してきているのではないか、という疑念が沸く。一つ確かなのは、神山氏の言う通りに作ると、非難されるべき対象が周りから詰問されたり謝罪を迫られたり恥をかかされたりする姿の撮影に成功しました、という類の記録映画になってしまうということだ。個人的にはむしろそちらの方がウンザリなのだが。



※なんでもDREAMS COME TRUEは一方がラジカセに鼻歌を吹き込み、もう一方がそれを曲として仕上げるのだが、作曲のクレジットは前者になるのだとか。もちろん人にウケるメロディーを作る才能というのはあるだろうが、少なくとも労力的に言えば後者の方が何十倍も必要になるにもかわらず、前者だけが作曲のクレジットを獲得し、それゆえ印税もそちらにだけ入るというのは余りにも不公平ではないか、と思いながらそれを聞いていたのを覚えている。
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Author:後正面
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ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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