ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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猫が死に場所を求める様に

前の記事(常春が良いに決まってる)
を投稿し終わってから気付いた。
また、「何者か」と闘っているなと
(あの記事が元々悪ふざけであるにしても)。

テーマパーク化した四季を楽しむのは
(それを自覚しているのであれば)
別に悪いことじゃないし、
そういう安全地帯から四季を観察し、
それを美しいと思っても構わないのじゃないか。

「ブランド品で身を固め、それで己の価値を
高めたつもりになって酔っている」というのも、
それに起因、派生する考え方や行為に関しては色々と
問題を孕んでいそうな気はするが、それ自体は別に
咎めることではないだろう、と今にしてみれば思う。

それに、そういう人達はその行為で以って
自分の満たされない感覚を必死に満たそうと
しているのかもしれない。
もしそうであるならば、尚更その行為を
責めることなんて出来よう筈もない。

じゃあ、一体何に憤っていたのか。
何と闘っていたのか。

それは多分、
自らが安全な恵まれた環境にいることで、
その外で四季の脅威に晒されている人達がいる
ということを忘れてしまう人間の無神経さと、
その誤った認識に立脚した尤もらしい雰囲気や
それが生み出すであろう状況や行為。

つまり、「四季は美しい」という言葉から、
(そういう認識を強要、特別視しようとする
雰囲気が昨今目立っていることも手伝って)
その感覚を共有しない、出来ない人達に対して、
何らかの不利益を齎す攻撃行為、或いは攻撃準備に
類することが行われることを想起し、
それを振り払おうとして関係の無い人達まで
はたき落としてしまったという寸法。
申し訳ない(まあ、殆ど誰も読んでいないが)。

しかし、何故その様な闘いに駆り立てられるのか。
何故それを止めることが出来ないのか。

そのことを考えていると、ふと猫の話を思い出した。

 ***

昔から、猫は自分の死期を悟ると
人にその死に際を見せまいとし、
死に場所を求めて姿を消すという。

しかし、実際にはこの行為は、
自身の体調が悪くなった時に、
そういう状態のままで外界からの攻撃や
余計なストレスを受けることを嫌がって姿を隠し、
そのまま死んでしまうのがその原因だという。

そしてその事に関して、
あるテレビ番組で学者らしき人が
「猫には死の概念がない。その為、死を齎す程の
体調的な苦痛は、それ自体が外敵からの攻撃によるもの
だと認識し、その攻撃から身を守る為に隠れようとする」
という類のことを言っていた。

本当に猫に死の概念が無いのかどうかは
調べようがないし、体調的な苦痛をそのまま
外敵からの攻撃と認識するというのは
ちょっと大げさで、演出が入っている様な気もする。

しかし、それが全てではないにしても、
苦痛を外敵からの攻撃として認識する、
という感覚は、やはり存在するのではないかと思う。
そして、それは猫だけではなく人間にも。


ある時、私が度々訪れるとあるサイトに、
そのサイトの管理人が肉親の死に
直面した時のことが書かれてあった。

その肉親の方は、若い頃に精神的な病に侵され、
およそ一般的な幸せというものを手にすることもなく、
最後は癌が体中に転移し壮絶な死に方をしたのだという。

そして、そのような人生を遂げた肉親の死に直面した時、
込み上げて来たのは悲しみではなく、
むしろ、途方もない怒りだったという。

こういう経験をしたことがあるのは、
この人だけではないだろう。

人は、何か自分の力ではどうしようもない無残な
結果を手にし、それによって苦痛を強いられた時、
言い様のない怒りを覚える。

しかし、その怒りは何に対しての怒りなのだろう。

それは、その結果が外界からの何らかの意思に
基づいた働きかけによって成されたものだと感じ、
その意思や力に対して怒りを感じている
のではなのではないだろうか。

そして、その様に認識させているのが、
苦痛なのではないか。

逆に言えば、一切の身体的、精神的苦痛を
感じる事が出来なくなった動物は、
外界からの攻撃を認識出来るだろうか。
出来ないと思う。

だとすると、苦痛こそが外界からの攻撃を認識する
為の主要なシステムとして機能していることになる。

勿論、その主体が外界からの働きかけを
攻撃と認識しようがしまいが、
明らかにそうであるという働きかけがあった場合、
その主体は確実にその影響を受ける
(心頭滅却しても焼け死ぬ様に)。

しかし便宜上、一旦外部と内部の問題を
切り離して考えてみると、内部的には苦痛こそが
外敵(という認識)を生み出している
原因と言えなくもない。
そして、それにより攻撃を察知した主体は、
その苦痛によって生み出された外敵と闘ったり、
それから身を隠そうとしたりする。

そして、苦痛が外界からの攻撃と認識するのは、
直接その苦痛の引き金を引いた(引くであろう)
明確な対象や要因だけでなく、もっと間接的、
抽象的なものも含まれるだろう。

例えば、現在の苦痛を促した過去の要因を
それとして認識することもあるだろうし、
過去の経験から未来に起こるであろう要因を
それと認識することもある
(やられる前にやれという感覚)。

また、その要因は必ずしも
具体的なものである必要はなく、
例えば、理不尽な結果を強いることを否としない
何らかの超越的な存在による仕打ち、
(宗教を信じる人なら神の背信行為といった所か)
といった抽象的なものもそれとして認識し得る。

だから、病気や自然災害などの不運に関しても、
理性に於いてはそれをそのまま外敵からの
攻撃とは認識はしないものの、感覚的には
それが何らかの外界からの意思による力
によってなされたものだと想定されている。
だからこそ、それに対して怒りを覚える。

 ***

何れにせよ、人もまた苦痛を通して
外敵からの攻撃を察知しているのではないか。

だから、外部からの働きかけが同じものであっても、
それぞれの個体が獲得した環境と感覚が生み出す
苦痛のあり方によって、それを攻撃と判断
するか否かにバラつきも出てくる。

そして、これ以上攻撃を受け続ければ
まずいと感じ取った人間は、
防御反応として身を隠そうとする。

そしてその内の幾人かは、身を隠すことで
快方に向かい、再び人前に姿を現す。
しかし、幾人かは身を隠したまま死を迎える。

丁度、猫が死に場所を求めて姿を消すかの様に。

自分の場合は明らかに後者だ。
このブログ自体、社会復帰を諦めたことが
きっかけになって始めている。

三十歳になるまでは何とか今の状態から
抜け出そうという思いがあった。
しかし、最初はバイトではなく正社員に
なることを目標にしていたことも災いして
その思いは叶わなかった。
初めからフリーターを目指していれば奴隷くらい
にはなれたかもしれないのに。

しかし、三十を超えると
そういう気持ちは不思議と一切無くなった。
感覚がもう無理だと悟ったのだと思う。
そして、それを諦めることで暫くの間は楽になった。

ところが、もう暫くして自分の人生を
振り返ってみた時、途方もない怒りが
湧き上がってきた。

何故、自分は生まれてこなければならなかったのか。
こんな苦痛に耐え忍ぶだけの人生の為に。

誰にも証明することは出来ないが、
自分自身では己が持てる力を最大限発揮して
この結果しか得られなかったという事を知っている。

それはつまり、人類が存続する以上、自分の様な
苦痛を浴び続けるだけの人生を義務付けられた
人間が生み出され続けることを意味している。

そして、そいういった犠牲を生み続けることで
人類は存続し、幾分かの人間は「立派な社会人」
とやらの肩書きを手にすることが出来る。

にも拘らず、その「立派な社会人」達は
その犠牲になった人間達に対して
「甘えている」だの「怠けている」だの
「社会との関わりを拒否している」だの
事実と異なった濡れ衣まで着せてこようとする。

それにキレて自分はこのブログを始めた。
本来ブログなんかする人間じゃないのに。

そして、その様な状況を作りだしているのは
特定個人の力ではなく、欺瞞や矛盾といったものを
生み出さずにはいられない人間の資質こそが
その要因だと感じ、その抽象的な外敵と
ブログ上で闘い始めたのである。

しかし、今年になってからそんなものと
マジで闘うのはバカらしくなってきた。
だからそれと本気で闘うのは止めようと思った。

しかし、苦痛は依然として治まらない。
つまり、苦痛が治まらない以上、それによって
生み出された外敵もまた眼前に鎮座し、
挑発を続けてくるのである。

選択肢は二つしかない。
その外敵の挑発に対して無視を貫くか、
若しくは無駄だと分っていてもそれと闘うか。

理性では前者を選択することを決めた筈だった。
しかし、私は時々その挑発に乗ってしまう。

自分がついつい闘いに駆り立てられてしまうのは、
結局そういう事なんだと思う。
 
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常春が良いに決まってる

冬。

ひたすら寝てる。
起きてもすることが無い。
したいことが無い。

ただただ、寒いだけ。

体が凍てつけば心も凍てつく。
内から外から削られる。

もはや、出来ることは限られている。

不治の病への対処療法。
苦痛の軽減。
緩やかなる死。

抜本的な治療法も無く、
自ら死を選ぶことが出来ない以上、
その対処療法にこそ最善を尽くす。


「四季は美しい」

貴族達は口を揃えて言う。

何を寝ぼけたことを。

忘れたか、自然の驚異。
冬の無慈悲さ、夏の暴虐性。
そして秋は不吉な予言を突きつける。

彼らは観光気分で冬に訪れる。
珍しもの見たさに夏を観察する。
秋の忠告にも聞く耳持を持たない。

後に直ぐにも逃げ込める安全地帯を用意して、
四季の波打ち際で、キャッキャ、キャッキャ
さざなみと追いかけっこ。

完全に安全が確保された、
テーマパークとしての四季の堪能。

それで四季を知ったつもりか?
感じたつもりか?

冬を地肌で浴びてみろ。
夏の鋭い眼光を直視してみろ。
秋の不安に溺れてみろ。
そしてその安全装置を捨ててみればいい。

それでも、その軽薄な「美しい」
を口にすることが出来るか?

見ているんじゃない。
見られているんだ。

そして、その視線が生命の
命を削り、奪っていく。

そんなことすら忘れてしまったのか。

昔の人も言った。
「四季は美しい」と。

しかし、それは当世貴族が言う
美しさとは全く別の物。

命を削ってこそ知ることが出来る美しさ。
極限状態に脳内麻薬が引き起こす
死の匂いが入り混じった美しさ。
そして、儚い命への惜別の念。

テーマパークで生涯を過ごす
貴族達には一生知りえない美しさ。

貴方達が本当に美の求道者であると思うなら、
先ずその物々しい鎧を脱ぎ捨てて、
地肌で自然と抱擁してみればいい。
後の保険を破棄してみればいい。

そうやって四季の怖ろしさを、
本当の美しさを味わってみればいいんだ。

それでも「美しい」と言っていられるか?
それでもその美しさを求め続けることが出来るか?

それが出来るなら、貴方は立派な求道者だ。

でも、それが出来ずに「四季は美しい」
なんて言っていた人間は、
ブランド品で身を固め、それで己の価値を
高めたつもりになって酔っている人達と
なんら変わらないよ。

え、自分?

自分は本当の美しさなんて知りたくもない。
だから、そんな自分にとっては、
常春が良いに決まってるじゃないか。
 

神様のヴェクサシオン

奥谷禮子は欲する。

道具としての他者、
消費財としての命を。

「自己責任」の名の下に。

それは経営者の本音。
そして、正規社員はフリーターに、
フリーターは無職者に対して奥谷禮子になる。

いじめっ子がいじめられっ子に対して
奥谷禮子になる様に。


ジコセキニンン

それは社会主義という、
システムによるユートピア幻想
が立ち去った後に訪れた、
意志の力によるユートピア。

演出から現実へ飛び出たセカイ系。
新たなる幻想の台頭。

そこにも奥谷禮子はいた。
奥谷禮子からは逃れられない。

またもや奥谷禮子として
生きることを余儀なくされる。

誰も彼もが奥谷禮子。
みんなそろって奥谷禮子。

屍の山の上で正義を叫ぶ奥谷禮子。
或いは、アウトローとして生きる奥谷禮子。

善良者の皮を被った奥谷禮子。
悪党の仮面を付けた奥谷禮子。

人気のある奥谷禮子。
人気のない奥谷禮子。

強い奥谷禮子。
弱い奥谷禮子。

頼りがいのある奥谷禮子。
頼りない奥谷禮子。

騙す奥谷禮子。
騙される奥谷禮子。

石を投げれば奥谷禮子に当たる。

睨み付ける奥谷禮子。
伏目勝ちな奥谷禮子。

無自覚な奥谷禮子。
思慮深い奥谷禮子。

声高に奥谷禮子。
控えめに奥谷禮子。

でも蓋を開けてみれば奥谷禮子。
奥谷禮子は捨てられない。

奥谷禮子が奥谷禮子を生み、
奥谷禮子が競合する。

そうやって、
奥谷禮子の渦の中を泳ぎ続けることを
義務付けられた奥谷禮子。


…ミニマルミュージック!

スティーヴ・ライヒ、テリー・ライリー、
フィリップ・グラス、ブライアン・イーノ、
マイケル・ナイマン、タンジェリン・ドリーム、

…ヴェクサシオン。

定められた律の中、奥谷禮子という音型が
織り成す物語。

同じ事の繰り返しに思えても、
一度として同じものはない。

同じ奥谷禮子に見えても、
それは違う奥谷禮子。

誰一人として同じ奥谷禮子はいない。

しかし、定められた法則からは逃れられない。
奥谷禮子という音型であることに変わりはない。


その奥谷禮子という音型が生み出す
影響から避難しようとするひきこもり。

しかし所詮、奥谷禮子が織り成す物語の
掌の上で隠れているだけに過ぎない。

結局、そういう役割で
奥谷禮子が奥谷禮子として
生きる為の一角を担っている。

そしてまた、ひきこもりも
奥谷禮子としての恩恵を受けざるを得ない。

与えられた命を捨てられなくて、
消極的に奥谷禮子になるひきこもり。
奥谷禮子として残飯を漁るひきこもり。

自分の資質を拒否する奥谷禮子。

でも奥谷禮子は腐っても奥谷禮子。

それに耐えられなくて自殺する奥谷禮子。
奥谷禮子に命を搾取され破滅する奥谷禮子。

「ワタシハ人間デス!」
むしろ、殺人によってそれを
証明しようとする奥谷禮子。

この世はミニマルミュージック。

神様のヴェクサシオン(嫌がらせ)。

その中で人間は、
奥谷禮子として生まれ、
奥谷禮子としての営みを続け、
奥谷禮子として死んでゆく。

誰もそれを否定出来ない。
誰もそれから逃れられない。

だって、奥谷禮子は人間の一部だからね。
それを捨てたら、もう人間は人間でなくなるよ。

 ***

サティのヴェクサシオンに倣って、
“「奥谷禮子」を八百四十回盛り込む”

というアイデアが一瞬浮かんだが、如何考えても無理だな。
だって、この世に「大いなる静寂」なんて無いからさ。

でも、無理すればボレロくらいなら出来たかな…
アレ何回だっけ。
 

お天道様は見てないが…

今更ながら、カウンタとか付けてみた。

今迄それをしなかったのは、カウンタを付けて、
「見られている」という事を意識してしまったら、
もう何も書けなくなってしまうんじゃないか、
という思いがあったからだ。

しかし、人の目を異様にまで恐れるこの体質を少しでも
変える為に、一歩前に踏み出してみたという訳です。

それに、見られるのが怖いと感じつつも、
誰も見ていないブログを書き続けるのは
それはそれで虚しい。

元々、怒りをぶちまけるという動機で始めたこのブログ。
しかし、幾ら怨言を吐き捨てても、誰も見ていなけりゃ
鬱積を吐き出した事にすらならない。

しかし、怖いから訪問者履歴も閉じていたし、
それで、カウンタも解析もコメントもなけりゃ、
誰かが見ているという実感は全く無いに等しい。

最近履歴を見て、
「ああ、自分以外にも此処を訪れた(迷い込んだ?)
人が少しはいたんだな」と確認出来た程度で。

しかし、今まで自分以外誰も此処を
見ていないんじゃないか、と何となく感じていた訳だが、
実際にカウンタを付けてみて分かったことがある。

それは、自分の感覚って結構当てになるじゃないか、ということ。
つまり、実際殆ど誰も見ていなかった。

じゃあ今まで一体何に怯えていたんだ?
だれに気を使っていたんだ。
自分の中の他人の目?

な~んだ、それだったら怖がらずにもっと
ボロカスに吐き捨てときゃ良かったんじゃ…

いや、駄目だ。

俺が見てる。

それが問題だ。
 

牡丹燈籠トラップ

前の記事で、
自分みたいなウルトラネガティブな人間は、
ちょっとした悪意にでも過剰に反応して苦しみ、
それによって冷静さを失って失敗をしてしまう。

しかし、そのアレルギー反応自体を改善しようと思っても難しい。

だから、そういう反応を起こしそうな要因が外から内側に
入ってくること自体を制限することが重要なんじゃないか、
みたいな事を書いた。

しかし、やっぱりなかなか難しい。

「ニート死ねw」
みたいな類のものだったら問題ない。
直ぐに、これは飲み込んではいけないものだ、と分かる。

でも、中には程々に丁寧な言葉を用い、
冷静さを装った論理的罵詈雑言の様なものもある。
冷静な議論かなと思って耳(目)を傾けたら実は…
「ギャー、出た~」みたいな。

しかも、その手の行為を行う人間は、「正義の為」
という使命感に燃えているので余計に怖い。

そういう牡丹燈籠的トラップを事前に見抜く力も
養わないといけない、ということなんだろうな。


最近は、前に書いた発作の様な状態が起こる
周期がどんどん短くなってきていて、
今では、むしろ普通の状態の時の方が
短くなってしまっているくらいだ。

せっかく、一昨日の半日位はちょっと気分が
持ち直していたのに、
「余計なものは取り込まないぞ」
と決意して直ぐにそういうトラップに引っかかって
昨日からずっと最悪の気分が続いているよ。

そして、今も震えながらこの記事を書いている。

しかし、こんなに苦しいのに、よくまだ生きているな。
案外しぶといじゃないか、俺。
 

何かを吐き出すということ

挨拶文があんまりだったので変えてみた。

元々、このブログを始めた動機は、
苦しみから生み出され、抱えきれない程に膨れ上がった
怒りを外にぶちまけたい、というものだった。
だから、その内容や挨拶文もそれに即したものになっていた。

それは理性的なものというよりは、
むしろ、少しでもこの苦しみを紛らわしたい、
という衝動的(或いは生理的)行為だったと思う。

例えば、耐え難い腹痛を少しでも誤魔化そうと
ガンガン壁を叩いたり、頭を床に打ち付けたりする行為。
でも、そんなことをしたって腹痛は治まりゃしない。

それどころか、あんまり手や頭を強く打ちつけ過ぎると、
今度はそちらの痛みが加算されるだけだ。

それと同じで、このブログを始めて苦し紛れに怒りを
吐き捨てた結果、どうもその苦しみが益々増大した様に思う。
(苦しみが増した理由はそれだけじゃないかもしれないが)

ネットの場合、吐き捨てるって言ったって、
吐き出した物はどんどん蓄積されていく訳で、
その自分が吐き出した吐物が自分の姿を露にし、
それでさらに苦しむという悪循環。
自分が作り出した外的要因と闘うという一人相撲。

かといって、今まで通り我慢し続ければ
良いかと言えばそんな訳もない。
そもそも、それがこういう結果を生んだとも言える訳だし。


要は吐き出し方なんだろう。
外界から影響を受けることで発生する
内部の鬱積物を如何に上手く吐き出すか。

植物は光合成、動物は食事をして排泄する、
そして、自然界には生態系という循環があるように、
人間同士にも精神的、感情的循環というものが
存在している様に思う。

そして、誰も居ない場所で一人で
自給自足でもしていない限り、
個人は嫌でもその循環の中に取り込まれる。
だから、個々人はその循環の一部を担う存在として、
その循環を滞りないものにする能力が必要となってくる。

普通は小学生くらいから、自らにとって適切な循環方法
というものを経験を通して少しずつ身に付けていくんだろう。

しかし、自分は我慢して我慢して一気に吐き出すタイプ。
というより、吐き出すことすら余りしてこなかった。
だから、精神的膀胱炎みたいな症状で苦しむ事になる。
しかも、経験不足により、その上手な循環の仕方を
未だに習得出来ていない。

そして、たまに吐き出すと粗相をしてしまう。
で、その粗相でまた自己嫌悪に陥り苦しむという。

 ***
 
余裕が無いからこそそんな失敗をしたり、
それで苦しんだりするということもある。
自己肯定さえ出来ていれば、下手な吐き出し方をしても
自己嫌悪のような内的要因で苦しむことは無いだろうし。

実際、他人にケチ付けることが生き甲斐みたいな
人も居るが、自己肯定によりその行為が
正しいものであると本人が認識さえしていれば、
その人は罪悪感に苛まれることはない。

でも、強固な自己肯定感がある人はそれで良いのだと思う。
それがその人なりの循環の仕方なんだろうから。
多分そういう人達は、そういうやり方で「正気」を
保っているのだと思う。
それに、もしかしたら自分では嫌なのにそういう
循環方法しか身に付けられなかった人達かもしれないし。

問題は、自己肯定感が低い感覚を取得してしまった人間が、
如何にしてそれに相応しい循環方法を身に付けるかということ。
(勿論、自己否定と肯定のバランスを上手く保つことが
出来ればそれが一番良いわけだが、そのバランスを保つ為の
完璧な処方箋を見つけることが出来れば、それはノーベル賞
百個与えても足らない位の大発見、いや人類自体の変容と
いってもいいかもしれない位のことなので現実的ではない)

一番駄目なのは、外からやって来たものを取捨選択せずに、
律儀に全部取り入れてしまうということだろう。
そして、それら全てと真正面から向き合ってしまう。

そりゃ自己肯定感の低い人間がそんなことをしていたら、
ぶちまけるか、我慢して内部が圧力でボロボロになるかの
どちらかしかない。

ネガティブな人間に、既に飲み込んでしまったものに
対して「ポジティブに考えろ」なんて言ったところで
それは現実的ではない。
かといって、自分を苦しめる発言や考え方をする人間に対して
それを止めてくれと言ったところで、止めるはずも無い。
自分がこの状態から抜け出せない様に、
彼らもまたその状態から抜け出せないだろうから。

じゃあどうすればいいのか。

結局、内部や出口に気を揉むより、入り口部分での取捨選択や
容量制限にこそ最も気を配るべきなんじゃないだろうか。

どの道ネガティブな人間は、外界から取り込んだ情報に対し、
過剰なまでの後ろ向き思考をしてしまう。
だから、そういう人間は、自分を苦しめそうな情報は
極力内部に持ち込まないせない、或いは本気にしない、
そういう方法でバランスを取るという姿勢が一番有効であり、
現実的なんじゃないかと思う。

 ***

とまあ、自分に言い聞かせてはみたものの、
やっぱり、それはそれでなかなか難しい。
先ずは「人の目を気にしない」ということから
始めないといけないのだろうし。

でもその染み付いた感覚を脱ぎ捨てるのは、
かなりハードルが高い訳で。

ただ、苦しいから吐き出したのに、その吐き出した物で
さらに自分が苦しめられるなんて悪循環からは
いい加減に脱出したい。


でも無理かな…やっぱり。
そういう人生な気がする。

というか、自分にとってこの世は、そういう一人相撲を
延々と続けさせられる罰を科せられた地獄だったりして…

 

それは精一杯の…

「池田小の子供刺す」と書き込み=執行猶予中の27歳男逮捕-大阪府警 (時事通信)


この手のニュースを聞くと本当に泣けてくる。

十代の人間がこういう事件を起こしたのならば、
単に若さ故の無思慮からくる過ちだと割り切ってもいいだろう。
十代ならば、この程度の失敗を犯した所で
(問題がその過ちだけであるならば)やり直しも効くし、
その為に必要な精神的なエネルギーだって残っている筈だ。

しかし、二十歳も過ぎればその行為が何を意味し、
それがどういう結果を齎すか全て理解している筈だ。
やり直しが効かなくなる事だって分かっているだろう。

それでも彼らはそれをする。
何らかの衝動に突き動かされて。

恐らくそれは、
幾ら持てる力を尽くしても自分の居場所すら認めない
社会に対する精一杯の復讐。

常識という枠組みを作り、そこから人を追い出すことで
善良者に成り得た者達、力を得た者達。
その絶対的強者に対する、見捨てられた者からの
命を賭した捨て身の一撃。

しかし、その捨て身の一撃が彼らにダメージを与えることはない。
所謂「傷一つ付けられないなんて…無念」というやつだ。

彼の場合、前にも同じ様な事をして執行猶予中だった様だ。
しかし、そんな猶予を与えられ「更生」なるものを期待された所で、
今の世の中に、彼の様な人間を受け入れる程の包容力はない。
そもそも、そんなものがあれば、端から彼はそんな詰まらないことに
エネルギーを注ぎ込む必要なんてなかっただろう。
何らかの居場所を見つけていただろう。

彼が匿名掲示板で行ったことと、
自分がこのブログで行っていることに何か違いがあるだろうか?

いや、何も違わない。
確かに、法に触れるか触れないかの差はある。
しかし、本質的には何も違わない。
ただ、自分は彼よりも少しずる賢いだけだ。
だから、本質的には何も変わりないであろう事を
法に触れない方法で実行している。
ただそれだけの違いだ。

 ***

もし道徳が実在し、それが額面どおりの効力を発揮していたなら、
彼や自分の様な人間はこの世に存在していなかっただろう。

しかし、道徳は何時の時代も
それを本気で信じる人間達を裏切ってきた。

何故、排除や無理を強いる側が正義で、それを強いられる側が悪なのだろう。
何故、騙す方が正義で騙される方が悪なのだろう。
力を手に入れ、それを行使する側が正義なのは何故なんだ。
何故、それが逆じゃないんだ。

いや、分かっている。
何故そうなのか。
そして、そんな事を問うた所でどうにもならないことも。
しかし、それでも尚問いたくなる。

この現実を目の当たりにして、
平気な顔で道徳を説く人間達は、
善悪で物事を推し量ろうとする人間達は、
一体なんなんだと。

「生きることは素晴らしい」と言う人間は、
その「素晴らしい」の為にどれ程の「素晴らしくない」
犠牲が払われているかに気付いているのか?
それが「呪われた素晴らしさ」
だと知ってそれを言っているのか?

もう自分は見たくない。

道徳に騙される人間も、
それによって「素晴らしさ」を手に入れる人間も。

だからこそ、自分は欲する。
何一つ意味を持たない、ただありのままの現実を。
例えそれが混沌であるとしても。

 

二十代のホームレス

asahi.comより
長居公園の野宿者に退去求め通知書 世界陸上控え大阪市

 大阪市が今夏の世界陸上の会場となる長居公園(同市東住吉区)の野宿者に退去を求めている問題で、同市は5日、行政手続法に基づき、書面で弁明する機会を与える通知書計21通を野宿者らに交付した。弁明に理由がないと判断した場合や、期限の10日までに弁明書が提出されない場合は、都市公園法に基づいてテントや小屋の自主撤去を命じる「除却命令」を通知し、なお立ち退かない場合には強制撤去(行政代執行)に踏み切るとみられる。


他者の生存を蝕んでまで、
そこでそれをしなければならない理由はなんなんだ?
そもそも、ホームレスのテントがあっても
イベントを開くことは出来るだろう。

丁度いい機会じゃないか。
世界にこの国の現状を、貧困問題を知ってもらえばいい。

まあ、逆にそれを外国に知られることが嫌だからこそ、
こういう蛮行をするのかもしれないが。
特に大阪は、散々デタラメな政治・行政を実践してきた、
日本でも屈指のインチキ都市だからな。
その舵取りのバカさに触れられたくないから
こういう事をするんだろう。

というか、上にいる奴がそんなのばかりだから、
逃げることが出来る人間は皆大阪から逃げていくんだよ。
そして、逃げたいのに逃げることすらままならない人間と、
その取り残された人間の命の残りカスを吸い取っては
ポイと捨てるような奴らばかりがそこに残り、
なんとも言えない退廃的雰囲気を醸し出す。

(怒りに任せて書いた為、ちょっと誤解を
生む様な表現になってしまったので改変)
 
というか、上にいる奴がそんなのばかりだから、
人間の命を吸い取るだけ吸い取って
利用できなくなったらポイと捨てるような風潮や
自分にとって都合よく利用できない人間を
排除する事が当たり前であるかの様な認識が支配的になり、
なんとも言えない退廃的雰囲気を醸し出す。
(でも、これって今の日本そのものだな)

そんな所に、人や企業を呼び込んだって、
その状況が改善されない限りは、
ロクなのが集まってこないだろう。
そういう基本的なことにさっさと気付けよ。

 ***

そういえば、以前にもなんだったかは忘れたが、
大阪市のコンチキチン貴族どもの
虚飾に満ちたおバカ行事の為に、
ホームレスが立ち退きを迫られたことがあったなあ。
(というか、大阪市は何かイベントがあるたび
にそういうことをしているような気が…)

テレビでその立ち退きの様子を報じているのを見たことがある。
何人かの年配のホームレス達は、
その立ち退き要求に激しく抵抗していた。

しかし、その中にいた一人の二十代のホームレスは、
全く抵抗もせず早々に立ち去ろうとしていた。

曰く、「抵抗したところで無駄だと分かっている。
それよりも罪を犯して前科者になりたくない」だそうだ。

今の時代に最下層を歩いてきた人間が、
如何に内部を激しくえぐられ、
精神を蝕まれてきたかがよく分かる。
もはや抵抗する力すら残っていないのかもしれない。

しかし、生存にとって最低限の権利を主張することが罪なのか。
だからその権利を主張しないのか。
奴らのお遊戯に為に、「お前ら邪魔!見場悪いし」
と言われただけでそれに疑問も呈さず立ち去るのか。

そもそも、奴らが枠組みの中から人を追い出し、
或いは、その中に入ろうとする人を締め出すことによって、
その枠組みの中の生活水準をより高いものにしようとしたが為に、
ホームレスという役割を背負わされる人々が
増えてきたんじゃないか。
そういう汚れ役を演じる人達がいるからこそ、
奴らの生活は保たれているんじゃないか。
あんた達には奴らに対してそういう恩がある筈だ。

にも拘らず、その最低限の主張すらしないのか。

どこまでお人好しなんだコンチクショウめ!
そのお人好しさがあんたをそういう状況に
追い込んだんじゃないか。
良心を捨てれば、もっと楽な生き方が出来た筈だ。
何故それをしなかったんだ。

世間には、物や金を持て余している奴が沢山居るんだ。
良心さえ捨てきることが出来れば、
そして、もっと自己主張をして我儘に生きてさえいれば、
そんな状況に陥ることなんてなかった筈だ。
その持て余した物や金を合法的に手に
入れることが出来た筈だ。

道徳なんてあんたにとっちゃ足かせでしかないし、
奴らに取っちゃ騙しの手段でしかないんだ。
幾らあんたがそれを遵守しようと、
その恩恵を受け取ることは出来なかっただろう?
なのに何故、奴らがした様に、
それを騙しの手段として使わなかったんだ。
騙される側に回ったんだ。
皆が当たり前の様にやっていることを
しようとしなかったんだ。

しかも、あんたにとってそれは、
もはや何の見返りも期待できない
一方通行の不平等条約でしかないんだぞ。

それなのにまだそれを捨てないのか。
生存にとって最低限の自己主張すらしないのか。
それを我儘だとインチキ野郎どもに言われただけで、
すごすごと諦めて立ち去るのか。
「法律ですから」と冷血漢に言われただけで
それを正しいこととして認めるのか。

このバカたれが!
このアンポンタンが!


(ρ_<。*)。。
 

なんか怖い

テレビのチャンネルを回していると、
二択のクイズの様なものをやっていた。
ちょっと気になったので、
消していた音量をあげてみた。

問題は、出演している三遊亭楽太郎氏が持っている
意外な肩書きは何かというもの。

Aがアメリカ海軍後援会の会員で、
Bが中国雑技団の名誉会員、だったと思う。
(はっきり覚えてないので少し誤りがあるかも)

そして、答えはAの海軍後援会の会員。
なんでも、会員になると軍の関連施設に入ることが許されたり、
そこで安くでお酒を飲むことが出来る(税金がかからない為)
など色々な特権があるのだそうな。

その話を聞いて、横にいた同じ笑点のメンバー?が
「大したことありませんよ」と笑いながら茶化したり、
進行役の人が「(安くでお酒を飲めるという説明に対して)
全然後援してないじゃないですか」とコメントして、
笑いを取る方向に持っていこうとしていた。

ところが、落語家である筈の楽太郎氏は、
その反応に対して笑いを取りに行こうとするどころか、
むしろムッとした様子で、愛想笑い一つないマジ顔で
「世界の平和はアメリカが守っているということを
(みんな)もっと知らなければならない」
という様なコメントを返していた。

なんかちょっと怖くなった。
そんな人だっけ?この人。

いや、自分は笑点でたまに見かけたことがある程度で、
余りこの人のことは知らないけど、
もっとおどけた感じの柔らかい人かと思っていたので。

それが急にキレそうになって、
アメリカ軍の偉大さを啓蒙する様な発言を
しだしたのでちょっとびっくりした。

この人のパーソナリティを勘違いしていた自分としては、
よくB級ホラーで、誰かがある場所に行って帰ってくると、
まるで別人の様になっていた、なんて話があるが、
それを彷彿とさせるものを感じた。

軍の関連施設でなにか洗脳でもされたんじゃないかって。
まあ、元々そういう人だっただけなんだろうけど。

しかも、横にいる人が如何にも愛想が良さそうな笑顔で
茶化し続けるのに対し、それを受けて
今から何か真剣勝負にでも挑みそうな態度と表情を
みせる楽太郎氏との対比がなんともスリリング
(こういうのをバロックというんじゃないだろうか)。

お互い同意の上でじゃれ合っていた筈なのに、
突然、片方が本気のパンチを返そうとしたというか。


それにしても、予定調和から外れることが
殆ど無いテレビに於いて、
突然現れる筈の無い本気の人が現れると
異様な雰囲気になるなあ。

まあ、そんな予定調和が無い方が現実なんだけども。
 

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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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