ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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キャラという鎧

二つ前の記事で書いた柳原可奈子さん演じる
ショップ店員を見て思ったこと。

あそこまで派手に慇懃無礼な店員は
そこらじゅうにいるという訳ではないだろうが、
あの手の独特の雰囲気を醸し出す人は結構いる。

しかし、彼らも普段からずっとあんな感じで
過ごしている訳じゃないだろう。

あれはあくまでその場所での立場を維持する為に
その主体が作り出した仮のキャラクター。
その人本来の人格ではない。

それはただその場所で必要な命題を
こなす為だけに作り出されたシステム的人格。

そしてその時その人は、その作り出された人格に
ある程度の判断力を委譲し、一種のマシーンと化している。
いわば電車や飛行機の自動運転みたいなもの。

それによって、必要以上に気を使い
無駄に精神を磨耗してしまうことを防げる。

他人から幾らバカにされようが、
それは本来の自分の姿ではないという認識を
自身が持っているので無駄に苦しまなくて済む。

同じ様に、学校であろうと職場であろうと、
その場所での立場を維持しようとすれば
ある程度道徳に反する行為や自身の信念から
外れる行為を余儀なくされる訳だが、
その場合もその行為は本来の自分ではなく、
作り出された仮想の人格による仕業なので、
本来の自分は無駄な罪悪感に苛まれずとも済む。

そうやって、外界と自身の心の間にキャラという鎧を
介在させ、それにある程度自動運転させることで
外界からの影響から身を守り、必要以上に神経を
すり減らすことを防いでいる。

多分、あの手の独特の雰囲気はそのキャラの鎧の
自動運転が醸し出す妙さなんだろう。


しかし、あそこまで極端ではなくとも、大抵の人は
普段からその場所に合ったキャラの鎧を作り出し、
それを着て外界から身を守っているんじゃないかと思う。

そして、人生の途中で精神をすり減らして
病んでしまわない為には、多分そういう
場所に合ったキャラを如何に上手く作り、
尚且つ、その仮想のキャラと本来の自分を
如何に割り切って考えることが出来るか、
ということが重要な鍵を握っているんじゃないかと思う。

勿論、自然体のまま人生を歩き続けるという方法もあるが、
それはその人が自然体のままでいても人が集まってくる様な
人望や魅力を元々兼ね備えている場合でないと
上手くはいかないだろう。

だから、それが無い人は矢張りそれが必要になってくる。

 ***

ところが自分にはそれが出来なかった。

その場に相応しいキャラを作ることも出来なかったし、
作り出した仮想のキャラと本来の人格との差異を
割り切って考えることも出来なかった。

キャラの鎧を着ること自体に道徳的抵抗も感じた。
なんだか嘘を付いて人を騙している様な気がして。

でも本当は嘘が無い世界こそ正に混沌とした世界なんだけど。
なんせ道徳自体が嘘なんだし、人々が思ったことを
そのまま口にしていたら揉め事に発展することは必至だから。
秩序を保つ為にも幻想は必要だしね。

でもそれは理性で分っていても感覚は許してくれない。

だから結局どこへいっても浮いてしまうし、
外界からの影響もそのまま心の芯で受け取ってしまう。
そうやってどんどん命を磨り減らす。

しかし、どうしてもキャラを作らなければならない時もある。
例えば面接なんかでずっと押し黙っている訳にはいかない。
だから強引にキャラを着て無理に何か話そうとする。

しかし、慣れないことをするとボロが出る。

「それ言っちゃ駄目だろ」ということズカズカ言ってしまったり、
気付いたら何時の間にか自分の思っている事と全く
正反対の事を言っていたりして自分でも驚いたことがある。

急造でキャラをこしらえた結果がそれだ。
生兵法は怪我の元というやつか。
(後で読み直してみるとぜんぜん意味が違うことに気付いた。
多分、付け焼刃と言いたかったんだろうな。)

だけど、キャラの鎧を上手く扱えない人間は
自分だけじゃ無い筈。

そういうキャラの鎧を上手く扱えない人達は
一体どうやってその精神を保って行けばいいのだろう。
どうやって居場所を見つければいいのだろう。

世の中が純粋な自給自足の世界ならば、
こんなことで悩む必要もないんだけどなあ。

人類の進歩というものは、人類の苦しみをも
進歩させてしまったということかも。
 
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REAPERでソフトシンセを録音

唐突ですが、DTM系の話題です。(追記、変更あり2/28

REAPERというフリー(バージョン1.00以降はシェアウェア)の
DAWソフトがあるのですが、これが凄い。
(DAWというのは「Disital Audio Workstation」の略で、
音楽製作に必要な機能を一通り備えたソフトのことだそうです。
かくいう私も最近この名称を知りました)

なんてったって、フリーなのに一昔前の
数万円するソフトよりも遥かに高機能なんだから。

…まったく、月日が過ぎ去るのは早い、嫌になる程…。

で、せっかくなのでこのソフトと無料のソフトシンセを
使って何か録音してみようと思ったのですが、
意外に手こずりました。

この手の事に興味がある人にとっては常識なのかもしれませんが、
自分の様にその常識を知らない人の為に、
以下、手こずった末に判明した録音方法を書いておきます。
(機種によって少し違いがあるかも)
-----------
<Windows側の設定>

1.コントロール・パネル→サウンド→音声→音声再生でマスタ音量を開き、
 WAVE項目をミュート、或いは非選択にして無効にする。

2.音声録音から録音コントロール開き、ステレオミキサーのみを有効にする。
※1WAVE項目を無効にしないままミキサーを有効にすると
 音がフィードバックしてスピーカーを傷める危険があるので注意しましょう。
※2録音が終わったら元にもどしておくのを忘れないように。

<REAPER側の作業:録音>

1.REAPERを立ち上げてトラックを作成し、任意のmidiファイルをセット。
 ※ちなみに、私はMuseというmidi作成ソフトを使っているのですが、
  Museで出力したmidiファイルの場合は、先に右上にある設定で
  Project BPMを125にしておくとテンポの互換性が保てます。

2.I/Oの「Midi Output」でどの音源にMidiの指令を送るか選択。
 ※事前にOption→Preferences→MIDIで使用する音源にチェックを入れておく。

3.トラックをもう一つ作り、I/Oの「Receives」でMidiを再生するトラックを選択。

4.そのトラックの録音ボタンを押して点灯させる。
 ※モニタリングが必要な場合はスピーカー・マークの
  バツ印を解除してモニタリング・モードをオンにする。

5.更に録音ボタンを右クリックし「Stereo Input」でLeft/Rightにチェック。
 (ソフトのPANを利用する時)

6.録音を開始し、止めたい場所で停止。

<REAPER側の作業:レンダリング>

1.新しいプロジェクトを作成し、先ほど録音したwavを読み込ませる。

2.エフェクトを掛けたい場合は、wavを読み込んだトラック、
 もしくはMASTERの「FX」ボタンで使用したいVSTをセットする。
 センドエフェクトにしたい場合は、新しいトラックを作成し
 I/Oでそのトラックへ音声を送り、そちら側にVSTをセットする。
 ※予め使用したいVSTを手に入れ、PreferencesのFX Plug-ins項目で
  手に入れたVSTをスキャンしておきます。

3.それぞれのフェーダーでバランスを調整。

4.File→Renderで設定画面を開きOutput file項目で任意のファイル名を記入。
 「16bit」にチェックを入れてRenderボタンを押しファイルを出力します。
 ※REAPERをインストールしたフォルダに「lame」を放り込んでおけば
  直接MP3に出力することも可能です。
-----------
実際にWindowsに標準装備されている音源
「Microsoft GS Wavetable SW Synth」を
使って録音してみました。
REAPER側で少しリヴァーブ掛けてます。
batta20070220.mp3
ただ、Windows側の設定がかなり面倒なんだけど、
本当にこんな方法しかないのだろうか。

もしかしたら、他にもっと簡単な方法があるのかも…。
 

追記 2/28
・今まで古いバージョンのREAPER(0.96)を使っていたのですが、
 バージョン0.999をインストールしてみるとProject BPMの設定
 位置が真ん中辺りに変わっていました。
 どうもバージョンによって微妙に色んな所が変化しているようです。
・「レンダリング」の項目を追加しました。
・私はこのソフトをインストールした時、ほぼ同時に
 「MidiYoke」というソフトをインストールしたのですが、
 もしかしたらこのソフトをインストールしないと
 この手順では録音出来ないかもしれません。
 既にそれをインストールしてしまっている今では
 それについて検証出来ないのですが…。

言葉に隠された印象が人を動かす

ニート、オタク、右翼、左翼等々。

この手の呼称が使われると
諍いが発生する可能性がグンと跳ね上がる。

それは、例えそれらをどう定義しようが、
誰もが心の内にそれらが蔑称であるという
共通認識を持っているからじゃないだろうか。

だから、表向きはある特定の資質を指し示す為の
純粋な目的でそれらを使用している様ではあっても、
暗にそれが誰かを貶める為の道具として使い使われている、
ということを誰もが敏感に感じ取っている。

そして、理屈で幾らそれをそうでないと否定しても、
その共有された感覚までは否定出来ない。
(勿論、その感覚はどの時代にも変わる事のない
普遍的なものという訳ではないが)

結果として、そのつもりがなくてもそれらの呼称を
使うことで誰かを攻撃している様に思われてしまったり、
或いは、紳士的な態度を装いながら、
巧みにその押し隠された印象を利用することで
相手のイメージを悪くし、その議論に於いての
自身の有利さを演出しようとする人間が出てくる。

そして、さらにそれを感じ取った人間が
その手法を卑怯だと感じ腹を立てる。

そういう一連の流れが、この手の呼称を使うことで
諍いが起こりやすくなる隠れた原因の一つに
なっているんじゃないかと思う。


いずれにせよ、全ての言葉には表向きの意味の他に、
その裏に押し隠されたイメージが付加されている。

人を動かす為には、むしろ、表の意味以上に
その裏に付加されたイメージを如何に上手く使うか、
ということが重要な鍵を握っている。

そして今も実際に、言葉が持つ本来の意味よりも、
その言葉に付加されたイメージの方が積極的に
利用されているということだけは確かだ。
 

「木の葉になる」からだ

一体、全く家から出ることが出来ないひきこもり
というのはどれ位の割合で居るのだろう。
多分かなりの少数派なのではないか。
かく言う自分も全く家から出られないという訳ではない。

といっても、せいぜい月に一回か二回程度、
周りに人が居ないのを見計らってそそくさと
逃げるようにそこを抜け出す様な有様なのだが。

しかも、自転車という道具を使わなければ
それすら出来ないという条件付きだ。

だが、その脱走劇は度々失敗し、
周辺地域の人間達に目撃されることになる。
そうなると暫くは嫌な気分で過ごさなければならない。

しかし、それでもある程度の間隔で家から
出るということをしておかないと、
今度は本格的にそれが困難になってくる。

家の小窓から外を伺い、人が居ないことを確認すると
急いで玄関に走り、ドアに手を掛ける。

だけど、もしかしたら玄関に行くまでの間に
家の周りに人が現れているんじゃないか、
という疑念に駆られ、再び小窓に様子を伺いに行く。

ところが、小窓から様子が伺えるのは一方向だけなのである。
その他の方向へは音を頼りに様子を伺うしかない。
だから今度は、もしかしたらその他の方面に人が
いるんじゃないか、という疑念が沸いてくる。

そうやって、家から出たくてもドアと小窓の往復を
繰り返すだけで一日が過ぎていってしまう。

余り長い期間家を出ないでいると
そういう状況に陥ることを余儀なくされる。
だから、特に用事がなくともある程度の間隔で
外出をしておかないといけない。

でも、本当に怖いのは家を出る時と、
その周辺地域を移動している時なんだ。
そこを離れると少し気が楽になる。
自転車なしでも移動可能となる。

昔は、人が大勢いる所へ行っただけで
気分が悪くなり吐き気を催したものだったが、
それは既に克服することが出来たし、
(ただ、電車の中は何時までたっても苦手なのだが)
今ではそこをクリアするのが外出することに於いて
一番難しい課題となっている。


では何故、家の周辺地域を離れると気が楽になるのか。
それは「木の葉になる」からだと思う。

「木の葉は森の中に隠せ」とよく謂うが、同じ様に、
ある人が自分のことを知る人間が全くいない場所に
行くと、そこではもはやその人はひきこもりですらなく、
その他大勢の中の有象無象の一人、
つまり、木の葉の一枚でしかなくなる。

だからこそ気が楽になる。

しかし、家の周辺地域は「森」ではないので
木の葉にはなれない。

依然としてひきこもりのままなのである。
そして、近所の人間にその姿を晒すことによって、
彼らが自分のことに付いて色々と悪い噂を立てている
ことを頭の中に思い描いてしまう。

それは、家の中に居ても隠れることすら
出来なくなるということを意味している。

だからこそ辛い。

だけど、森へ行って木の葉になっている筈なのに、
どうしても億劫になってしまうことがある。
例えば、何か買い物をする為にレジへ向かう時だ。

それは多分、他者と普段より少し濃密(自分にとっては)
な関係に置かれることで、自分が木の葉に化けていることが
バレてしまうのではないか、という懸念が頭の中に
芽生えてしまうからなのだろう。

でも本当に問題なのは、木の葉でいることがバレるよりも、
木の葉のままでしかいられないということだ。

何故なら、木の葉になって出来ることは隠れることだけ。
後はせいぜい、その不幸の木の葉が苦痛によって分解され、
他者の幸せの養分となることくらいしか出来ない。

逆に言えば、それは木の葉ではなくなってしまう様な、
他者と一過性でない関係を持つということが出来ない
という事を意味し、そうである以上、
それ以降の新しい展開は望めないということである。

結局、家から出ることが出来る様になっても、
木の葉でしかいられないうちは、家の中に
隠れているのと余り変わらないのである。

だから、家から出ることが出来ないひきこもりと
それが出来るひきこもりを比べて、どちらの症状が
重いとか軽いとか言ってもあまり意味が無い。

この問題を解決出来ない限り、
どちらのひきこもりにも未来はないのである。

 ***

そういや、最近は自分では木の葉に化けている筈なのに、
チラシ配りの人ですら自分を避ける様になってきた
気がするのだが、気のせいだろうか。

まあ、チラシは余り受け取りたくないので、
自然と身に付けた受け取らないぜサインを
送っているということもあるが、
そのサインを送っていないのにも拘らず、
避けられたりすることがあるんだよな。

そのせいで、ティッシュをもらい損ねることが多い。
ティッシュは欲しいのに。

まあ、配っている人が女性だった場合、
単にキモイと思われて避けられているだけかもしれないが。

いやしかし、ティッシュを配るのにいちいち
そんなことを気にするものだろうか。
彼らからすれば、ただ捌けばいいだけなんだから。

もしかすると、凄い悪い顔になっているのかもしれない。

実際、気分が乗らないのに
無理やり奮起して表に出た時なんかは、
もう誰も彼もが憎々しい敵に思えてきて、
すれ違う人間すれ違う人間を見えない刀で
次から次へとぶった斬ってるもんなあ
(あくまで頭の中でですよ勿論)。

ティッシュ配りをしている人も、自分のそういう
禍々しい殺気を感じ取っているのかもしれない。

尚、その見えない刀で斬り付けられた人は、
その子孫に必ず恐怖症を発症する人間が現れ、
それによって彼らはごく普通の日常生活を送ること
でさえ困難な状況に追い込まれることになりますので、
斬り付けられた人は、責任を持ってその子孫を
支えていってあげて下さいね。

よろしく頼みますよ。
 

常識は全てフィクションです

この世界に登場する、
一般的言説、道徳、法律、宗教、慣わし、肩書き、
美談、また権利、義務、責任、公正等の概念は、
人間がご都合主義で作り出した架空のものであって、
事実とはなんら関係ありません。


しかし、人間はそのフィクションを発明し、
利用せざるを得ない。

それによって、本来は意味すら持たない
ただ在るがままの現実に対して様々な縛りを儲け、
なんらかの秩序を手に入れようとする。

混沌を恐れるが故に。

そして、そのことが人間を人間たらしめている
と言ってもいい。

だが、その見返りとして自由は奪われ、
事実が押し隠されることになる。

しかも、人其々望む秩序が異なり、
またどの様な秩序であっても、
誰もが引き受けたい人気のある役割と、
誰もが引き受けたくない人気のない役割がある。

だから、其々は自分の望む秩序と役割を手に入れる為、
その人間が発明したヴァーチャルなツール(概念)を
使って利害の綱を引っ張り合う。

そして、その上手い下手によって、
各々の役割やその社会の趨勢が決定していき、
それによって人々は常識なるものの存在を
ぼんやりと頭の中に思い浮かべる様になる。

だが、その常識は絶えず形を変える雲の様な存在。

所詮、其々がそのヴァーチャルなツールで以って
利害の綱を引っ張り合った結果形作られた
一時的な形態でしかない。

それは事実を推し量るのには何の役にも立たない、
いや、むしろそれを阻む物。

もし、事実を本当に追求したいのであれば、
その様な性質を持つ常識というものに囚われては
いけないし、冒頭に上げたような概念に
惑わされずに物事を見なければならない。

何故なら、殆どの場合
誰かがそれらの概念を使った時、
その人は既に利害の綱を引っ張ることを
目的としてしまっているからだ。

それは如何に自身に都合よくフィクションを
形成するか、という行為であって、
事実を追い求めるのとは全く逆のもの。

だから、もし本当に何らかの事実を
追求したいのであれば、
それらの概念の正しさを追求するのではなく、
それらの概念を、誰が何を目的として、
どの様な使い方をしているか、
或いは、何故それらの概念が生まれ、
それが人を動かす力を持ち得るのか

という事にこそ注意を払わなければならない。

そんな風に思う。
 

…はたまた執行を待つ死刑囚

時々思う。

どうせ今の状態から抜け出せないのなら、
グジグジ思い悩んだりせずに、
その自由になる時間を思う存分謳歌すればいいのに。
何か自分の好きな事でも見つけて、
それに精を出せば良いのに、と。

でもそれはあくまで理屈上の考え。
実際には、そのダブついた時間は殆ど有効に活用出来ない。

それが出来るくらいの精神状態ならば、
もう既にこの様な状況を脱しているだろう。
それすら出来ない状態だからこそこうしている訳であって。

勿論、中には過去の経験で得た生きる糧を利用して、
傷を癒し、力を回復してここから抜け出して行く人間もいる。
でも、自分にはその糧すら無い。


ああ、死にたい…。

でも本当に死にたい訳じゃない。
この苦痛から解放されたいだけなのだ。
それから解放される手段が「死」しか無いという
前提があるからこその「死にたい」。

どうせこの先有意義な時間を過ごすことも無く、
苦痛を唯一のパートナーとして生き長らえるだけならば、
さっさとそれを終わらせた方が良いんじゃないか、という思い。

しかし、自らの力でそれを終わらせるのは矢張り難しい。
そもそも、心からそれを望んでいるのではなく、
あくまで消極的選択でしかない訳だし。

だから、死を恐れながらもそれを待ち望む。
そうやって、未来の無い死んだ時間を過ごす。

きっと、死刑が確定した囚人達もこんな気持ちで
毎日を過ごしているんだろうと思う。

と言うのも、死刑囚には当日に
その執行が言い渡されるらしいからだ。

つまり、死刑囚はその判決が決定しても、
何時それが執行されるのかも分らず、
今か今かと怯えながらその執行を待つだけの
残り時間が与えられる。

今の自分の状況が正にそんな感じだ。

ただ、ひきこもりの執行には段階がある。
先ずは今現在のこの環境が奪われ、
身一つで表に放り出されることになる。
それが執行の言い渡しと言っていいだろう。

そしてその後、自殺するのか野たれ死ぬのかを
自分の意思で選択しなければならない。
つまり、自らの意思でその執行方法を選ぶ訳である。

そして、自殺を選んだ場合は、
結局自分自身でその刑を執行せねばならない。

一方、野たれ死にを選んだ場合、
この狭い日本に於いて、一人で安心して
死ねる様な場所を確保することが難しい為、
衆人環視の嘲りを浴びながら、
じわりじわりと死んでいく事となる。

何れその選択をしなければならない。
それを考えると本当に嫌になる。
でも、それは確実にやってくる未来なんだ。

だけど、どうせなら誰かが自分の
処刑を執行してくれればいいのにと思う。

それだと気付きすらしない内に
死んでしまう様な上手いやり方でね。
 

モルヒネとしてのダマーズ

この所、ASVというレーベルから発売されている、
ジャン=ミシェル・ダマーズのフルートとハープの為の作品集
をよく聴いています。
(amazon.comで視聴できます)

まあ、この様な状況に陥ってから長年が経過し、
希望すらとうに消えうせてしまった人間ですから、
せいぜい音楽を聴くか、ネットの治安の良さそうな所を
少し徘徊して回るくらいしかすることがない訳です。

以前はよくテレビを見ていましたが、
最近はもう殆ど見なくなりましたしね。
どうせ気分が悪くなるだけですから。

しかし、音楽を聴くといってもこういう状態だと
なかなか集中して聴くことも出来ない。
絶えず不安と恐怖と憎しみで心がささくれ立って、
それが心の芯の部分には届かない。

だから、どちらかといえば楽しみとして音楽を聴く
というよりは、その苦痛を少しでも誤魔化す為に
音楽を聴いているという性格が強い。

つまり、鎮痛作用を期待して音楽を聴いている訳です。
そして、特にその作用が強かったのがこのCDです。

ともかく、収録されたどの曲もこの上なく美しく素晴らしい。

それらの曲を聴いていると、心の奥深くに根ざし、
なかなかその姿を消そうとはしない強固な憎しみを
打ち消してくれる様な気がする。
苦しみを和らげてくれる様な気がする。

と言っても、本当にそれらを消し去ってくれる
というよりは、曲の素晴らしさによって、
感覚を違う方向に向けてくれるという感じなのですが。


これらの曲を作曲したジャン=ミシェル・ダマーズ氏は、
フランス生まれの作曲家で、ピアニストでもあり、
教育者としても熱心な活動を続けていらっしゃるようです。

しかし、これだけ素晴らしい曲を作っているのに、
作曲家としてはまだまだマイナーな存在で、
CDも殆ど出ていない為、一部の人達にのみ知られ
その人達に高く評価されているといった所でしょうか。

この方は1928年生まれでまだご存命なのですが、
きっと本当にその活動に相応しい評価を受けるのは
その死後になるんでしょうね。
縁起でもないことを言ってしまいましたが、
そういう事は往々にしてあることで…。

でも、ひきこもりに関しては
自分の死後も正しい理解を得られず、
延々と濡れ衣を着せられたまま
死んでいく運命にあるんだろうな。

まあ何時の時代にも、その形こそ変われど、
疎外され濡れ衣を着せられたまま憤死していく
人間が必要とされますからね。
なんせ人類の存続がそれを求めている訳ですから。


それはともかく、YouTubeでダマーズを検索してみると
二件ほど見つかりました。

ハープ独奏曲、シシリアーノの変奏


二台のピアノ、又は二台のハープの為のソナチヌ


ここではピアノとハープという変則的な
編成で演奏されています。
でもピアノとハープという組み合わせはどうも
相性が悪いような気もしますが…。

どちらも私の持っているCDには収録されていない曲ですが、
何れも魅力的な曲です。
もっと沢山CD(特に室内楽の)が出ればいいのになあ。

(追記:既に出ていたようです。
売っているのは見たことないけど)
 

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プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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