ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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故郷なき伝統歌

元々S-YXG50用に作った曲を
サウンドフォントを使って録音してみた。

f_naki72.mp3(2分57秒)

リズムパート以外は悪くない出来だと思う。
(追記:と思ったが、他の人の作った物を
聴くとやっぱり色々と聴き劣りするなあ…)

使用フォントは以下の通り。
リズムパートは面倒くさいので
S-YXG50をそのまま使用。

◎Bandoneon SV
◎sinfon36(フルート、ピッコロ)
◎Doublebass
◎Nylon Guitars
◎Papelmedia_Ahh-Choir1
◎Papelmedia_Irina_Brochin1
◎sinfonia3gm(ヴィブラフォン、シロフォン)

メモリが足りなかったので2度に分けて録音。
(フリー版REAPERでセット物のフォントを使うと効率が悪い)
さらにリズムパートも別録りなので
実質3度に分けての録音ということになる。

そしてそれらを再度ミキシング…。
ああ、しんど。
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芽生えの足音

自分にしては珍しくポジティブな
気分になった時に作った曲。

mebae_re.mp3(1分49秒)

どうもまた憎悪に取り付かれ、
その溢れ出るダークオーラで大気を震わせそうな
勢いになってきたのでポジティブな曲でも
アップしてその中和を試みてみる。


多分、一般的な感覚の持ち主は自身の中で
普段から「ポジティブ>ネガティブ」という
構図がある程度成立しているのだと思う。

だから、精神を病むことなく
生活を維持し続けることが出来る。

でも自分の場合、昔からそのバランスがずっと
「ネガティブ>>>>>>>>>>>>ポジティブ」
というような状態で固定され続けている。

それ故、その時点よりも状況が好転する
という想像を一切することが出来ない。
全ての選択にもれなく最悪の結果が
プレゼントされるように感じる。

だから、何かに挑戦する時も
すべて失敗の為の挑戦でしかない。

それによって、「ほら、やっぱり駄目だったでしょ?」
という認識を獲得して自身を納得させる為の作業でしかない。

でも、4年に一度くらいはこの曲を作った時の
ようなポジティブな気分になることがある。
それが状況を好転させる唯一のチャンスだ。

ただ、それも一週間くらいで直ぐ元に戻ってしまうのだが。

恐らく、ジョン・アンダーソンなんかは
ちょうど自分と間逆の感覚の持ち主なんだろうなあ。

自分もジョン・アンダーソンみたいに
ポジティブになって妖精を目撃してみたい※1ものだ。

※1 「Progressive Music Cast」
「Yes/インタビューこぼれ話 #1 by Tak」参照。

ゲーム終了はまだか

また鬱の波がやって来た。

野球で言えば6回の表くらいだろうか。
全く終わる気配のない相手の攻撃が続いている。

既に500点以上の点差をつけられているが、
コールドゲームの成立は主審(環境的要因)、
もしくは負けチームの自主的判断(自殺)に
委ねられている為ゲームはまだ続行中だ。

勿論、こんなに差をつけられているのは
決して偶然ではない。
それだけ力の差があるからだ。

しかも、まだ体力(精神力)の余裕があった
前半だけでこれだけの差をつけられてしまった。
もはやボールを投げたりバットを振ったりする
力すら殆ど残っていない状態で行われる
これからの後半戦は一体どうなってしまうことやら。

その上、極端に差がついた試合が珍しいのか、
普段は他チームのゲーム(人生)になど全く
興味を示さない連中までもが物見遊山で
駆けつけて、劣勢チームに思い付く限りの
罵詈雑言を浴びせてくるときたもんだ。

しかし、「勝ち負け以前に、こんなゲームを
続けることに一体何の価値があるんだ…」
と理性ではそう思いながらも、
ゲーム終了(死)への得体の知れない恐怖感から
自身でそれを終わらす決断を下すことが出来ない。

だから仕方なく、内容的にも何の面白みもなく
公式記録にすら残らない単なるクソゲーをやり続ける。

一旦ゲーム終了の宣言をしそびれて
しまった主審が、いつその判断を下そうかと
機会を窺っている様にビクビクしながら。

そんな感じの人生絶賛継続中。

全く、なんて嫌な気分なんだろう。

コミュニケーションツールとしてのいじめ(前編)

<他人の痛みが分かるからこそ>

よく「他人の痛みが分からないからいじめを行える」
なんて言うが、その言い方は必ずしも
現実に即したものだとは思えない。

むしろいじめっ子は他人の痛みに非常に敏感で、
どこをどんな風に攻めればどのくらい相手が痛みを
感じるのか、ということについて非常に
研ぎ澄まされた感覚を持っていることの方が多い。

そして、いじめられっ子(対象)が
「こういうことをされたら嫌だな」という
ポイントを見事に見透かしてそこを攻め立てる。

つまり、彼らは相手のウイークポイントを
上手く探し当ててその痛みを獲得することが
嬉しくて楽しくてしょうがないのだ。
もう少し正確に言えば、その相手の弱点を
探し当てるという過程とその苦痛を獲得した
達成感を仲間と共有することが楽しいのだ。


コミュニケーションツールとしてのいじめ
(無論バッシング等も含む)とでも言えばいいか。
(仲間と共有しないタイプのいじめもあるだろうが、
それとそうでないものはちゃんと分けて考えるべき)

だが、コミュニケーションツールとしてなら
架空の人物や生物をいじめていても良いように思える。
それなら誰も苦しまなくても済む。
しかし、最初はそれで満足していても
きっとその内それでは満足しなくなるだろう。

それは相手が痛まないことを知っているからだ。

そして、相手の痛みがなければそのプロジェクト
(いじめ)の目的や実感、達成感が薄まり、
コミュニケーションツールとしての機能が弱まってしまう。


だからこそ、仲間との結び付きの為に
「他者の痛み」が必要になってくる。

そして、それ故いじめっ子達は「他者の痛み」に
非常に鋭敏であり、どうすればそれを得ることが
出来るかということについても豊富な
知識と経験を持っていることが多い。

つまり、彼らは他人の痛みが分かるからこそ
それをコミュニケーションツールとして利用し続ける
ことが出来るのであって、他人の痛みが分らないから
いじめをしているのではない。

 ***

そもそも「他人の痛みが分からないから…」
という言説は、他人の痛みが分かればその人はいじめを
しないだろうという性善説的な考えに基づいている。

確かに、感覚的な乖離や自身の無思慮から
他者を知らず知らずのうちに傷つけてしまい、
相手がそれをいじめだと感じることはあるだろう。
或いは、ちょっとからかっただけのつもりが
相手に思った以上に甚大なダメージを与えている
ということもあるだろう。

そして、それに気付いてその行為を反省したり
自重したりする人がいることは確かだ。

しかし、人がそうやって自制するのは
自身の行いによって他者が苦しんでいることを知り、
そのことに罪悪感を感じるからこそだと思う。
その罪悪感で自身が苦しむ事になるからこそ人は自制する。


つまり、他者の痛みを自身のものとして
感じることが出来るからこそ歯止めが掛かる。

(他者の痛みを直接感じることは出来ない。
それ故、他者の痛みを感じるというのは
罪悪感によって他者の痛みが自身の内部に
再構築されることに他ならない)

だが、罪悪感の感じやすさには
かなり大きな個人差があるだろう。

例えば、いじめやバッシングでいつも主導的な
役割を果たす人達の多くは、罪悪感を感じにくい
体質を持っているんじゃないだろうか。
その為、相手の痛みを自身の内部で再構築することが難しい。

だとすれば、彼らは他人の痛みを分かる能力
には長けているが、それを自身のものとして
感じる能力には乏しいということになる。

或いは、その罪悪感による苦痛よりも
いじめによって得られる快楽感の方が勝る
傾向にある感覚の持ち主なのかもしれない。

そうでもなければ、いじめを行えば行うほど
自身が罪悪感で苦しむことになる訳で、
少なくとも出来得る限りそういったこと
には関わりたくないという思いを抱くはずだ。

だが、その罪悪感を感じる力も強過ぎれば
その者を自滅の道へと歩ませることになったり、
或いは、「道徳」の裏切りに対する
復讐の鬼へと変貌させる可能性が出てくる。

ともあれ、「他人の痛みを分かること」とそれを
「自身のものとして感じること」は全く別問題
であり、
そのアンバランスさにこそ焦点が当てられるべきであって、
「他人の痛みが分からないから…」という言説は
その二つをごちゃ混ぜにしてしまう危険性がある
ため余り良い言い方とは思えない。

→後編へと続く
 

コミュニケーションツールとしてのいじめ(後編)

→前編からの続き

<孤立する恐怖から逃れるために>

ただ、実際にいじめが行われる場合は
前編で書いた「苦痛」と「快楽」以外にも
「恐怖」という要素が加わってくる※1。

そして、その恐怖の中でも取り分け
「孤立することへの恐怖」
が大きな役割を果たすことになる。

以前にも書いたように、「感覚」は決して
他者と共有することが出来ない。
ところが、「常識」とか「普通」なんて言葉が
大きな力を持っているように、多くの人々は
その本来共有出来ないはずのものをある程度
共有しているかのような幻想を抱いている。

これは「目的」についても同じことが言える。
本来なら、其々が望む理想の世界は個々人でバラバラな上、
資源が限られている以上生活水準の向上に於いても
常に競合関係が強いられることになり、場合によっては
生存自体が競合することすら珍しくない。

にも拘らず、人々は一時的、一部的、偶発的にしか
形成されないはずの「集団の利益」という大儀に
いとも簡単に絡め取られる。
その中身が極めて不明瞭なものであっても。

つまりそれは、「普通の感覚」を持つ人は同じ「目的」
を共有しているという幻想を抱いているからこそだろう。

しかし、多くの者達がそういった幻想を抱いてるが故に、
誰かがその共有感覚を抱くことが出来なくなった時、
或いは他者からそれを共有していないと認識された時、
その者は集団の中で一人孤立することになる。

そして、集団の中で孤立するということは
集団の生み出す力を上手く利用出来なくなる
ということを意味すると同時に、その力に一人で
立ち向かわなければならないということをも意味する。

だが、そういう状況に置かれた剥き出しの個人は
恐ろしく脆弱であり、その者の命は正に「集団の力」
という風の前のともし火といったところだろう。

つまり、集団で生活することを余儀なくされる
人間という種に於いて「孤立」は自身の生命をも
脅かしかねない大問題であり、それに対する
本能的な恐怖が人間の中に埋め込まれている。

いじめがコミュニケーションツールとして
利用されるのも、それによって仲間との繋がりや
共有感覚を継続し続けることでそういった本能的な恐怖
から逃れることが出来るように感じるからではないか。


勿論、いじめやバッシングを行う人達はそんなことを
意識してそれを行っている訳ではないだろうが。

そして、その手法で恐怖感から逃れることに
味をしめた人間は、その効果を持続させる為に
新たな「いじめプロジェクト」を次から次へと
立ち上げ続けなければならない。

それは一種の依存症のようなものとも言えるかもしれない。
つまり、恐怖から逃れる為のいじめ依存症だ。

 ***

前編では、いじめやバッシングでいつも
主導的な役割を果たす人間は罪悪感を感じる力に
欠けているんじゃないか、ということを書いた。

しかし、ここに「恐怖」という要素が加わってくる
ことでまた新たな可能性が浮かび上がってくる。

それは、深い罪悪感で自身がボロボロになりながらも
止め処なくいじめを行い続ける人間が存在する可能性だ。

罪悪感によっていじめを抑制するのは
その罪悪感によって生み出される苦痛から
逃避するためだという見方も出来る。

だが、その苦痛よりも孤立することの恐怖心の方が
勝っていれば、当然苦痛からの逃避よりも恐怖心からの逃避
の方を(当人に選択の余地があるならばだが)選ぶだろう。

そしてその手段としていじめがある。

どうも、いじめの根源的な動機には
そういった人間が持つ本能的な恐怖が
大きく関わっているように思えてならない。

だとすれば、「孤立することが即自身の生存を
脅かすことになる」というような認識を人々に
抱かせる環境を改善し、その本能的恐怖を不必要に
刺激しないような状況を作り出すことこそが
いじめ問題の抜本的対策だと言えるんじゃないだろうか。

そして、逆にそれが実現されない限り
いじめやバッシングの嵐が世に吹き荒れ続ける
ことは避けられず、人々も「他者の痛み」を
求めて彷徨い続けることになるのだと思う。

※1 本当はさらに、周りからそのいじめに対する
賛同を得やすいような雰囲気作りや正当性を
演出する「技術」という要素も加わってくる。

(追記7/22) 最後の部分を少し変更しました。

DSK Strings×4

一つ前の記事で、REAPERでは複数のDSK Stringsを
一度に鳴らす(正確には録音する)ことは出来ない
ということを書いたが、VSTHostでは普通に※1
出来たので4台一度に鳴らしてみた。

dsk_str20070719.mp3

VSTHostでのパンの振り方が分らなかった
(もしかして出来ない?)ので定位はそのまま。
設定しだいではもっとらしくなるかも。

ただ、このプラグインはかなり重いので
こういう使い方は余り実用的ではないかもしれませんが。

この時も、VSTHostのCPUメーターは
途中からずっと99.9%で固定したまま。
※1 そういえば、このプラグインを使った直後から
VSTHost終了時にランタイムエラーの表示が
なされるようになったが、これは偶然かな?

やっぱりご機嫌斜め

REAPERの話題。

DTM magazineのブログでDSK Musicから
DSK Stringsなるプラグインがリリースされた
ということを知って早速ダウンロード。

この開発元は、以前にもDSK Brassという
VSTiにしては珍しい生楽器系の音色を扱った
クオリティの高いプラグインを生み出している
実績もあって期待大だったが、果たして
このDSK Stringsも期待通りの素晴らしい出来。

ストリングスのVSTiは色々試したが、
このプラグインに勝るものを自分は知らない。
というか、フリー※1の生系ストリングスのVSTiで使えそう
なものは今の所このDSK Stringsを於いて他にないと思う。

しかもこのVSTiは、ヴァイオリン、ヴィオラ、
チェロ、コントラバス、といったソロ音色に加え、
ストリングスに関しても其々のセクションごとに
別のプリセットまで用意されている。

とすれば、このプラグインを複数立ち上げてパートごとに
音色を変えて同時に鳴らしてみるとどんな感じの音に
なるだろうか、という思いつきを誰しもがするだろう。

それで、自分もその思いつきを実行に移すべく
REAPER上に複数のDSK Stringsを立ち上げて
鳴らしてみることにした。

しかし、最初は良かったのだが、
そのうちREAPERが強制終了に。

しかも、それ以来REAPERを立ち上げようとしても
即座に強制終了になる症状に見舞われ、
REAPER自体が使えなくなってしまった。
再インストールしても駄目だし。

もしかしてREAPER死んだ?死神なのに。
とかなり焦ったが、どうやらREAPERが起動するたびに
壊れたプロジェクトファイルを読み込もうとしていた
のが原因だったらしく、その壊れたファイルを
捨てたら普通に使えるようになって一安心。

で、その後色々試して分ったのは、
どうもREAPER上に複数のDSK Stringsを立ち上げ
それらを同時に鳴らすようにセッティングして
トランスポートボタン(再生や録音ボタン等)を
触るとそのまま強制終了してしまうらしいということ。

外部シーケンサからmidi信号を送って同時に
鳴らすことだけは出来るが、その信号を記録
しようとして録音ボタンを押すとアウト。

つまり、鳴らすことは出来ても録音する
ことは出来ないということ。

まあ、DSK Stringsは重いので、一度に何台も
同時に鳴らすという使い方は元々実用的では
ないのかもしれないが、せめて二台くらいは
一度に使えると便利なんだが、惜しいなあ…。

※1 DSK Stringsはドネーションウェア。
 

REAPERがご機嫌斜め

いつ頃からか、REAPERを起動するたびに

「CWDXPX1.dllが見つからなかったため、
このアプリケーションを開始できませんでした。
アプリケーションを再インストールし直すと
この問題が解決される場合があります」

という表示がなされるようになった。

でもREAPERを再インストールしても症状は改善せず、
仕方がないから鬱陶しいながらも放置していたのだが、
ネットで検索してみるとどうもこれはプラグイン側の
問題らしいということが分った。

で早速一番怪しかったSynth1を一旦アンインストール
してみると見事症状が改善しこれでスッキリした、
と思っていたらまた新たな問題が発生。

その問題とは、REAPERに複数のmidiファイルをセットし
複数のサウンドフォントを使用すると、再生開始時に
とんでもない爆音が高確率で発生するというもの。

以下が、その凄惨な事件現場を捉えた映像。

bakuon.jpg

この事件でスピーカーやヘッドフォンが
かなりのダメージを受けたものと思われます。

(こういう時、製作用じゃなく安全装置としての
専用リミッター(一定レベル以上の音量は一切出さない)
があれば被害は最小限に食い止められるのだけれど。
あるのかなあ、そういうVST)

ただ、シーケンサ側からmidi情報を送って再生すると
この症状は起こらないようなので、一応回避策はある。

しかし、その場合でも最終的にはREAPER側で
midi情報を記録することになるわけだが、
その場合もやはり同じ様な症状が発生したりする。
発生確率は少なくなるみたいだけど。

この場合、一旦全てのトラックを削除して
プロジェクトファイルを作り直すと症状が治まることがある。

でも、個別のトラックでEQやなんかのVST
を細かく設定していた場合これはかなり痛い。

それに、シーケンサ側からmidi情報を送る時に
midiフィルタリングを行ってくれる「ndc Plugs」の
「Channel FIlter」はありがたい存在だが、
複数のチャンネルをスルーすることは出来ないので
セット物のフォントを使う時に無駄にメモリを
消費することになるし、設定も保存出来ない
みたいなので起動するたびにチャンネル数を
入力しなければならないのだが、これがまた面倒で…。

やっぱり「家ソナ6」欲しくなってきたなあ。

それを手に入れれば、きっとこういった
煩わしさからも解放されるのだろうし。

まあ買ったら買ったで、その値段の分は
活用して元を取らなければならないという
プレッシャーが大きなストレスになって、
かえってDTMから遠のいたりしそうな気もするが。
 

一方的要請が生み出す副作用

<他者からの要請ではなく、自らの欲求で>

元々自分は文章を書くことが大の苦手。

だから、いつも記事を書く時は
結構苦しみながらそれを書いている。

それに、最近でこそ漸くある程度冷静な文章を
書くことが出来るようになってきたものの、
元々「怒り」を動機として始めたこのブログ。

ありったけの怒りや憎しみを込めて
生み出したその文章に自身の醜さを見て取り、
書けば書くほど精神的に不安定になった時期もあった。

その上、このブログには殆ど人が来ない。

「更新しないと人がこなくなるから更新しなくちゃ」
みたいな記事をどこかで見かけたことがあるが、
ここは更新しようがしまいが
訪問者数の増減には殆ど影響しない。

だから、そういう意味でのやり甲斐もない。

では、何故そんな辛い思いをしながらも
このブログを続けているのか。

それは自分の思いを文章にまとめて
吐き出したいという衝動があるからだろう。
或いは、何もない毎日に無理にでも何かイベントを
作り出すことで少しでも生き甲斐を感じたいという
欲求があるからかもしれない。

何にせよ、誰から要請された訳でもなく
誰かの期待に応える為でもなく、
ただ自身の欲求に従う形でそれを続けている。

そして、自分の考えを上手く文章化することが
出来た時はそれなりの充足感を得ることが出来る。
だからこそなんとか続けることが出来ている。

しかし、これがもし誰かに命令されてこのブログを
続けさせられているのだとしたら、それは苦役に近いだろう。
そうであれば、多分その義務を課した人間に
自分の怒りが向けられることになったに違いない。

それで気付いた。
それで改めて確信した。
(こちらの方がしっくりくるので改変。
今初めてそういうことに気付いた訳でもないし)

人が何かものを考えたり行動したりする時、他者からの
一方的な要請という形ではなく自身の欲求に基づく形で
それを為すことが如何に重要かということを。


<苦痛の行方と効用>

前述したように、元々自分がこのブログを始めた動機は
(特に道徳や責任という概念のいい加減※1な使用法や
精神論という宗教の押し付けに対する)
「怒り」に他ならない。

そして今も人類という存在を
呪い続けなければ気が済まない。

しかし、何故自分が怒るのかと言えば、自身の欲求を
押し殺してまで他者からの要請に応じ続けてきた結果
大きな失敗をすることになってしまったのに、
その失敗を理由にまた他者から責められ、再度同じ要請を
突き付けられるという状況が理不尽だと思うからだろう。

始めから自身の欲求に基づいて物事を考え
行動していたならば、少なくともそれを理由に
他者を恨んだり怒ったりする必要はなかった訳だ。

よく、他者から理不尽な暴力や要求を受け続け窮地に
陥った人間が、そこから抜け出すことが出来た時には
今度は自身がファシスト化してその暴力や要求を
他者に突きつける側に回るという現象があるが、
あれもその事が大きく関係しているのだと思う。

彼らは自らの欲求や目的の為に
そのような環境に身を置いた訳ではない。
だからこそ、他者も無条件に自身と同じ様な
環境に身を晒されなければ不当だと感じる
わけだ。

彼らのファシスト的行為はそういった「公正さの実現」
という一種の正義感の下に行われている。
だからこそ余計に性質が悪い訳だが。

そして、これは社会的成功や地位を獲得
出来なかった者が抱く恨みや僻み、復讐の発生
についても同じことが言える。

 ***

一方的な要請関係を築くことで以って他者の
考えや行動をコントロールするという手法は、
一時的にみれば確かに有益に思えるだろう。
要請側からすればそれが上手く行けば
「しめしめ」といったところだろう。

しかし、一方でその一方的な要請を課せられた側では、
それに応じることによって生み出された苦痛が
消えることなく個々人の内面にどんどん刻み込まれていく。
そして、それが恨みや僻み、復讐やファシスト化の種となり、
(その後の環境にもよるが)
やがて発芽し花を咲かせることになる。

つまり、一方的要請関係の形成とそれにより
生み出される苦痛。そしてその苦痛の効用としての
ファシスト的行為や恨み、僻み、復讐の発生。
これらは全てワンセットになっている。


したがって、一方的要請関係の形成による有益さの評価も、
それら全てを含めた上で判断しなければならない。

しかしそうしてみた時、短期的にはともかく長期的にみれば
自分には到底それが最善の選択とは思えない。
余りにも副作用が大きすぎる。

だからこそ、教育という観点からみるにしても、
ある一定の目標の実現を目指す時は片方の一方的な
要請だけでなく、もう一方の側の欲求との両立関係を
如何に上手く作り出すかということこそが重要であり、
その関係を上手く作り出すことが出来る者こそが
優秀な教育者なんだと思う。


逆に、一方的要請関係で以ってその目標の実現を
目指す時は、それにより生み出された苦痛の効用に
対しても何らかの対処法を考えておくか、
もしくはそれを甘んじて受けるという覚悟を
持った上でその手法を使うべきだろう。

その対処法や覚悟もないのにその手法を
使おうとするのは正に無責任の極みであり、
そういう人間には間違っても「教育」だとか
「責任」だとかいう言葉を口にして欲しくない。

しかし、こういった一方的要請関係や雰囲気を
作り出しそれを最大限利用してきた人達が、
それによって生み出された苦痛の行方や効用に
対する責任を全て放棄しておきながら
他者には責任だの教育だのを声高に叫ぶのが現実であり、
そういった場面に遭遇するにつれて、それらの言葉が
如何にいい加減※1な使われ方をしているか
ということを再確認させられる今日この頃であった。
追記(7/18)※1
後で読むと「インチキ」という言葉がどぎつく感じたので
「いい加減」に変更しました。
勿論、この場合の「いい加減」とは「適度な」
という意味ではなく、恣意的で一貫性がないという意味です。
 

お勧めVST

これは今までに無かった(自分が知らなかっただけ?)
タイプのVSTじゃないでしょうか。

◎Omnisone 入手先→http://www.jeroenbreebaart.com/

omnisone.jpg


分類的には何に属することになるのだろう。
一応「spatial image processor」
という肩書きがついているけど。

どんな働きをするのかと言えば、音に奥行きや広がりを
作って空間的な演出をするVSTとでも言えばいいかな。

実際に使用してみるとこんな風になる。
fcp.mp3
fcp_om.mp3 (Omnisone使用)

下のものはフルートとマスターの二箇所にこのVSTをセット。
フルートの音を聴き比べれば違いが分り易いと思う。

実は、以前にヴァイオリンのフォントに関する記事
書いたことがあるけど、あの辺りからずっと
このVSTを使っていたりする。
それ以前とそれ以降で音が少し異なっている
のはそういうことです。

ただ、今からすると嬉しがって派手に使いすぎた
結果ちょっと失敗している感もあるけど。

というのも、このVSTは使い方によって結構音が
劣化したり定位が狂ったりするみたいなので。
(音が劣化するのは他のVSTにも言えることかもしれないけど)

とは言えそういった注意点はあるにしても、
初心者には難しい空間的な音の演出を簡単に
可能にしてくれるというのはやはり魅力的であり、
一度は試してみる価値のあるVSTだと思う。


因みに音源は以下のものを使用。
sinfon36(45.5 MB)
フルートに使用。リアルさでは「TripleS Cflute」に
負けるが(音色の)使い易さではこちらの方が上。

Cellofan(2.36 MB VSTi)
ゆったりとしたメロディを鳴らす程度なら
充分な役割を果たしてくれる。


※自分が使っていたOmnisoneは「1.0.4」。
いつの間にか「1.0.5」にバージョンアップしていた。
 

前提が違うので話は噛み合わない

生まれてきて良かったと思える人生を獲得した
人間にとって生は否定できないものであり、
それ故その人達は最終的にそれを
素晴らしいものだと結論付ける。

それがその個人にとっての真実となる。

しかし、全ての人間が生まれてきて良かった
という思いを獲得出来る訳ではない。
そして、その思いを獲得出来なかった人間にとっては
生への評価が反転し、それは忌まわしいものでしかなくなる。

それがその個人の真実になる。

つまり、前者と後者では物事を考えるに於いて
土台となる前提が既に異なっている訳だ。

全ての人間が「素晴らしき生」を
獲得出来る世界など存在しないし、
全ての人間が「忌まわしき生」を獲得する
世界もまた存在しない。

だからこそ、自分はその土台自体が異なる人間が
存在するという前提で話をするべきだと思う。

しかし、現実はなかなかそうはいかない。

殆どの場合、その片面(忌まわしき生)が
隠されたまま話が進められる。
或いは、誰かが「素晴らしき生」を獲得出来ないのは
個人の意志の問題であり、個々人がその意志の力を
最大限に発揮すれば全ての人間がそれを
獲得出来るのだ、というような人類革命的な
思想を前提にして話を進めようとする。

それに対して自分は憤りを覚える。
何故都合の悪い部分を隠したり歪めたりして
話を推し進めようとするのか、と。
「忌まわしき生」の存在の上にしか
「素晴らしき生」が存在し得ないということを
何故認めようとしないのか、と。

しかし、その憤りこそが正に「前提」の
違いによる齟齬の結果なのだろう。
要は、お互い会話に求めているものが違うのだ。

 ***

自分が小学生の頃の話になるが、ある日、
特に親しくもない者が自分達の集まりに
よって来てこう言った。
「今度から○○を無視しようぜ」
そして、その彼を無視すべき理由を述べて
その同意を促してきた。

すると、そこへちょうどその者が無視しようと
言っていた彼がこちらの方へとやって来た。

自分はその者が彼に対してどの様な態度を取るのか、
もしかしたら喧嘩でも始まるのだろうか、
と思い固唾を呑んでその状況を見守った。

ところが、真っ先にその彼に話しかけ
親しげな態度を取り始めたのが、ついさっき
無視をしようと提案をもちかけてきた
当の本人に他ならなかったのだ。

自分はその行為に戦慄した。
何故こんなことが出来るのだろうかと。
こんなことを平気で行える人間が存在するのかと。

ちょっとした嘘を付いただけでも激しく罪悪感を感じ、
そのことによって苦しめられるという経験を
何度となくしていた自分にとって、それはにわかに
信じられないような出来事だったのだ。

しかし、今にしてみると彼は大人だったんだなと思う。
まだ小学校低学年なのに、早くも自身にとって有利な
環境を作り出す為のロビー活動を熱心に行っていたのだから。
(政治力に長けている人間の殆どは、既に
子供の頃からそれを獲得しているのだと思う)

つまり、彼は会話の政治的手段
としての側面を重んじていたわけだ。
それに対し、自分は会話の政治を抜きにした
個人と個人との対話としての側面ばかりを見ていた。


結局そういうことなんだろう。
お互い会話に求めているものが違う訳だから、
話が噛み合う筈もない。

だから、そもそも「政治」を前提とした会話をしようと
している人間に対して「対話」をしようとしないという
理由で憤ってみても仕方がない。

そんなことをしても、どうせ先ず始めに結論ありき
の政治的解答が帰ってくるに決まっている。

ではどうすれば良いのか。
対応方法は三つある。

1.こちらも政治的に対応する。
2.相手にしない。
3.本気にせず軽くイナす。


自分にとって「1」の方法は難しいだろう。
それが下手だからこそこんな風になった訳だし、
おまけに圧倒的少数派な訳だし、軽々しくそれを
すれば墓穴を掘るのは目に見えている。
(勿論、会話の政治的側面を軽んじる
べきでないのは重々承知だが)

とすれば現実的対応としては「2」か「3」ということになる。
「3」の「イナす」は「1」と同じくらい高い技術が必要
だと思うし「2」も必ずしも選択出来るとは限らないが、
まあどちらにせよ政治的な会話は余り
本気にしないということが重要なのだろう。
道徳に関してもそうだけど。

思えば、自分はその政治的会話の数々を
律儀に真正面から受け止め続けてきた。
「逃げ※」もせず「イナし」もせず。

そりゃあ、そんなことしていたら混乱も疲弊もするし、
若くして命消費し尽くすのも当然だわ。

※(追記7/8)
どうも、昨今では「逃げる」という言葉に対して
無条件に悪いイメージが付加されることが多いように
思うので敢えてこういう表現を用いた。
だが、不毛な闘いによる精神の消費や疲弊は
出来るだけ避けた方が良いに決まっている。
 

ねんねんころりよ

nenne.mp3(2分51秒)

有名な子守唄のメロディーに
シンプル極まりない伴奏をつけただけのもの。

二年ほど前に作ったものだが、
今聴くとメロディーに合間がなさ過ぎて
ちょっと息苦しい気もする。
それに、伴奏の音はもっと大きい方がよかったかな。

音源はXP-50。

人間だけの苦しみ

道徳に拘り過ぎる感覚を獲得してしまう。

すると政治的に上手い振る舞いが出来ず、
社会的に高い地位を得ることが難しくなる。

しかし、世間では社会的成功度と政治力によって
その人の道徳の高低が判断される為、
道徳的に下等な人間として世間から認識される。

それに対して、「自身の利益の為に道徳を軽んじる
なんてずるいじゃないか」と文句を言う。

しかし、その発言を受けて
「社会的地位も獲得出来ないくせに偉そうに言うな」
「僻みは良くないよ」という反論がなされ
ますます道徳的に悖る人間だと判断される。

つまり、道徳に拘りすぎる感覚を持ったせいで
非道徳的な人間として扱われることになる。

すると今度は、他者から非道徳的な人間と
判断されたことを受けて、持ち前の人よりも
強い道徳感によって内部から直接自身のコアを
攻撃されることになってもがき苦しむ。

こういうジレンマに対して
精神的にどう対処すれば良いのか。


そこで考えたのが、一旦「自然界の掟」に
置き換えて物事を考えてみようということ。

例えば、道徳を食虫植物の罠だと考えてみる。

食虫植物に対して、「虫を騙して捕まえるなんて卑怯だ」
なんて言うのは馬鹿げているだろう。

彼らは彼らのやり方で生存競争を勝ち抜き、
自身のDNAを後世に残そうとしているだけなのだ。

同じ様に、人間も道徳という人間特有の罠を仕掛け
それで他者を出し抜くことで自身のDNAを後世に
残そうとしているだけなんだと考えてみる。

すると少し気が楽になった。

しかし暫くすると
「やっぱりなんか違うな」と思い始めた。

確かに食虫植物は虫を騙してはいるが、
自ら「虫を騙してはいけない」なんて禁則は設けていない。

そこで改めて気付く。

この苦しみは騙されたことによる苦しみ
なんじゃなくて矛盾が生む出す苦しみなんだと。
他者に苦しめられているんじゃなくて、
自身の道徳心に苦しめられているのだということに。

結局、こういった矛盾による苦しみは意味や理屈を獲得した
見返りとして人間だけに与えられた苦しみなんだろうなあ。

やっぱ人間に生まれなきゃよかった。

他の生物だったら人間程の想像力を
持ち合わせていないだろうから、
必要以上に増幅された恐怖に怯えることもないだろうし。
 

聞かす声がない

なんか大学時代の友人が結婚したらしく、
その事を告げる幸せオーラに満ちた手紙がやって来た。

所謂、幸福の手紙というやつだ。

別にショックはない。

他人の人生と比べてどうこうという考え方は
もはや捨て去ったし、それを知ったからといって
今更自分の人生の評価が変わるわけでもない。

少なくとも自分は持てる力を全て出し尽くした。
その結果がコレであった以上後悔のしようもないのだ。

ただ、問題がある。

自分で金を稼げない人間が結婚祝いを
贈ることが出来ないのは仕方がないとしても、
本来なら電話の一本でも掛けてそれを祝う為の
言葉の一つくらいは送るべきだろう。

しかし、このような状況ではそれすらもままならない。
合わす顔もなけりゃ、聞かす声もないのだ。

かと言って勇気を振り絞ってそれをしたからといって、
きっとそれはスメアゴル的卑屈さに満ちたものに
なるに違いないのだ。

ああ、想像しただけでも気味が悪い。
そんなのはお互いにとって良い結果にならない。

だから、その代わりと言ってはなんだが、
世界の闇の中心であるこの過疎ブログでそっと呟こう。

おめでとう」と。

いや、少し前の記事で「人類なんか滅んでしまえ」
と言っていた人間がおめでとうも何もないだろうと
思うかもしれないが、自分は集合体としての人類は
憎んでいるが個人としての人間は憎んでいないので。
 

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後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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