ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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忘れられた情景描写

二、三年前に作った歌曲。

wasure.mp3(3分20秒)

使用フォントは以下の二つ。
・Papelmedia Irina Brochin1
・Equinox Grand Pianos(もはや入手不能)

元々リリ・ブーランジェ「空のひらけたところ」
聴いて感銘を受け、「こんな感じの曲を作ってみたい」
と思って作り始めたものだが、結果として
余り似ていないものになったような気がする。

まあ実際、自分は音楽的知識が殆どないので、
似たようなものを作ろうと思っても
作れないのは当然といえば当然なのだが。
あくまでイメージ的に触発されたといったところか。

しかし、大抵自分が曲を作り終えた時は
石川五ェ門じゃないが「またつまらぬ物を…」
といった気持ちになることが多いのだが、これを作り
終えた時は何か上手くいったという手応えを感じた。

伴奏がぎこちなかったりして色々問題は
あるにせよ、「曲として」成功したように思えた。
そんな手応えを感じたのは今迄でもこの一度だけ。

で、調子に乗ってそのまま歌詞まで付けたりして…。
いや、ちょうどこの曲のテーマにあった詩を
付けることが出来そうだったもので。
曲に詩を付けたのも今のところこの一度だけ。

ということで、恥ずかしながら
一応歌詞も掲載しておくことにする。

続きを読む »

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己の限界を知らずに済んだ者ほど勇ましい

<経験と言動の逆転現象>

よく「辛い体験をした者ほど逞しくなる」
などという理論を唱える人達がいる。

そして、脆弱な精神の形成は辛い体験の欠如、
もしくは、その体験からの逃避が原因であるとし、
他者により辛い体験を強いることを提案する。

つまり、それが精神的脆弱性の
治療や予防に繋がるというわけだ。

だが、物事はそれ程単純ではないだろう。

中には、「辛い体験」による精神的疲弊や
消耗が原因で引き起こされる脆弱性や、
幼少期に継続的な精神的ダメージを受け、
それによって強固な精神を形成するための
順風な成長が阻害されてしまったが故の
脆弱性という可能性もあるはずだ。

そういった場合にさらなる精神的負荷を課す
ことは、返って逆効果になるどころかその者を
窮地に追い込むことにすらなりかねない。

冒頭の言説はそういった危険性を秘めいてる。

 ***

確かに適度なストレスは必要だ。
例えば肉体でいえば、筋肉は適度な負荷に
よって一旦破壊され再構築されることによって
より強くなるし、骨も常にある程度の負荷が
かかっていないとどんどん弱くなる。

しかし、行き過ぎた負荷を掛けることは
取り返しの付かない結果を生むこともある。
関節を骨折したり、腱を切ってしまった時は
一生その後遺症が残ることもあるだろう。

怪我にしても、浅い傷だと完全に回復して
その傷跡も無くなってしまうこともあるが、
深い傷や火傷などは一生その跡が残ることに
なるし、神経を損傷すれば元通りに戻ること
は難しく、手足を切断してしまえば二度と
生えてくることはない。

そしてそれは精神に於いても同じことなのだ。
精神とて肉体と同じく無限性はなく確実に
疲弊もすれば消耗もするし、受けたダメージも
必ずしも回復可能なものばかりとは限らない。

だから、何らかの原因でそういった行き過ぎた
負荷がかかり、その後遺症の辛さを身をもって
体験した人は、他者に「辛い体験をした者ほど強く
なれる」などという無責任なことは絶対に言わない。

仮に「精神にも負荷が必要だ」ということを
主張する場合も、それはあくまで「適度な負荷」
であるということを傍から見れば滑稽なくらい
強調するだろう。それは、度を越えた負荷が齎す
結果の恐ろしさやその後遺症からくる大変さを
実際の経験を通して嫌と言うほど知っているからだ。

ところが、己の限界を知る必要のない程度の
精神的負荷しか経験せずにその人生を送って
くることが許された人達の多くは、
その恐ろしさに気付くことが出来ない。


そして精神もまた肉体と同じ様に無限性はなく、
枯渇してしまうこともあれば回復不能な損傷を
負ってしまうこともあるという「精神の有限性」
という条件の考慮を忘れ(軽視し)がちになる。


だから、それによって誰かを窮地に
追い込み兼ねないような危険性を帯びた
言説を平気で唱えることが出来る。
(実際他者を窮地に追い込むために
そういう発言をしているのかもしれないが)

つまりそれは結果として、実際に己の限界を
知らずに済む程度の精神的負荷しか経験した
ことのない者ほど他者に対してより精神的に
大きな負荷を掛けるべきだと主張し、実際に
後遺症を背負うことになるほど重い負荷を経験
してきた者ほどそのことに警鐘を鳴らすという、
経験と言動の逆転現象を生じさせる
ことになる。



<肯定される精神的暴力>

だが限界を超えた負荷を経験し、より重い
後遺症を背負わざるを得なくなった者ほど
社会的成功を収めたり、もしくは一旦
収めた成功を維持し続けるのは難しい。

その一方で、成功を収めそれを維持し続けて
いる者の多くは、上手く「適度な負荷」
を経験してきた(いる)者達だ。
つまり、己の限界を知らない者達。

・世の中の人々が(社会的に)成功した人間
と失敗した人間のどちらの言うことを信じるか。

・日本に於いて、精神的に枯渇しかける
ほど消耗してしまった、或いは回復不能な
までの損傷を負ってしまった人間と
そうでない人間のどちらが多数派か。

・「精神には無限の可能性が秘められている
のだから、今は劣勢でもその力を上手く発揮
すれば貴方にも大きなチャンスがありますよ」
という甘い言説と、「精神も肉体と同じく個人差
もあれば限界もあるので、其々その限られた条件
の中で如何に上手く生きぬいていくかしかない」
という夢のない言説のどちらを信じたくなるか。

・「大きな負荷を掛けるべきだ」という主張
(これは同時にその発言者が大きな負荷を
経験してきた、或いはこれからも強い負荷など
恐れない、というアピールとしても機能する)と、
「負荷は適度なものでないといけない」という
主張のどちらに「勇ましさ」、つまり論戦の勝敗
を大きく左右する「イメージ的強さ」を感じるか。


こういった条件を鑑みてみると、己の限界を知る
ことなく人生を送ってくることが出来た者の主張が
そうでない者の主張よりも広く一般に受け入れ
られることになるのは必然と言えるかもしれない。

そして、それはつまり「精神の有限性」という
条件が軽んじられてしまうことをも意味する。

しかしそのような条件の下で冒頭の様な単純化
された言説が広く社会に浸透してしまうと、
精神的・環境的暴力を際限なく肯定する
ような土壌が出来上がってしまう。

何故なら「有限性」が軽んじられた上での
精神的・環境的暴力という「精神的負荷」は、
それが被暴力者にとって損害であるという
認識が薄まり、むしろそれは「治療」や「鍛錬」
という被暴力者にとっての利益になる行為だ、
という認識がなされてしまう
からだ。

当然、「有限性」が軽視されているから
その暴力行為による損害認定へのハードルは
非常に高く設定され、余程分り易い形で損害が
表出しない限りそれが認められないため、
その暴力行為に対する歯止めも掛かり難く、
歯止めが掛かる時は既に対象が深刻な状態に
陥ってしまっていることが多い。

その結果脆弱性は駆逐されるどころか、
横行する精神的暴力によって回復不能なダメージを
負った、「後遺症」を持つ所謂世間で言う所の
「心の弱い」人間が次々と生み出されることになる。

だが、強い精神的負荷を受けたが故に生まれた
「心の弱い」人間は冒頭の言説によって「辛い体験
の不足」という誤診がなされ、その治療として更なる
精神的・環境的暴力が課される
ことになる。

尚且つその一連の流れは、「強い人間を育てるため」
という大儀で世間から公認された娯楽化した暴力
として消費
され、弱い人間を叩くことを正当化出来る
この言説の麻薬的魅力に魅入られた人々は、暴力を
向ける対象欲しさに大儀をどんどん拡大解釈し始める。

運良くその暴力を受けながら社会的成功を
収めた人間も、その多くがその状況を変えるどころか
自身が暴力を受けたことを大儀としてその暴力の渦を
加速させる役割しか果たせない※1

所謂「俺が我慢したんだからお前も我慢しろ」
という理論だ。

日本に於いて自殺の多さが目立つのも、
「精神の有限性」という条件の忘却や、
それに伴って形成されるこういった暴力の
サイクルが個々人に与える精神的疲弊や
消耗が無関係であるはずがないだろう。

しかし、その暴力のサイクルの中で行われる
生存競争に勝ち残った、自らが自殺という現象の
一部でもあり淘汰者でもある筈の人達が、
「自殺とは自身と周囲の人間に対する許しがたい
暴力行為である」などと言って憤ってみせたりする
のだ。

全く「現実は小説より奇なり」
とは本当によく言ったものだ。


※1 それは一種のコミュニティー参加でもある。
大抵の人間は孤立からくる恐怖感や孤独感、
「独立した個人」が持つの脆弱性回避のために
何らかのコミュニティーへの参加を目指す。
だが、新たなコミュニティーを作るよりも、
ある程度磐石な地盤が整った既存の
コミュニティーに参加するほうが容易であり、
多くの者は後者を選択するし、またそれしか出来ない。
この暴力のサイクルは、それ自体が磐石で
参加し易いコミュニティーとして機能していることも
その求心力の源の一つとなっている。

失われない伝統

何と言えばいいのだろう、
この抑えきれない感情は。

ありとあらゆる言葉を含んでいるようでいて、
どの言葉もこの感情を表すのに相応しくない。

ただ確実に何かを消費している。
それだけは確かだ。

問題はこれを全て消費し尽くすまでに
その成果を外に放出すべきなのか、
それとも内に留め続けるべきなのか。

恩返しすべきなのかそうでないのか。

全てが嘘だと知っているのに
まだその嘘に従い続けるのか否か。

自分は檻の外にいる人間だ。

今まで檻の中に収まることだけに
力を尽くしてきた。

そのためには自分の感覚を
否定することすら厭わなかった。

しかしそれでも檻の中に入ることを
許されなかったそういう人間だ。

故に、自由極まりない。

何故なら檻の中のルールに拘束
される必然性が全くないのだから。

しかし自分は自由を求めていない。
だからその檻にしがみ続けている。

だが、いい加減それも疲れてきた。

もう手を離した方がいいのだろうか。
そして人間という檻の中で自由になるべきなのか。

そんな思いが頭をよぎる。

ああ、この人間という忌まわしい檻から
出ることが出来れば全てが万事解決するのに。

内側から壊すことが出来ないこの檻を
誰かが外から破壊してくれればいいのに。

人類が誕生した時から誰かが既に抱いていた想い。

それを今自分が継承している。

そしてこの想いは、この先もまた
どこかの誰かに継承され続けていくのだろう。

それが決して叶わぬものであると分かっていながら。

他のどんな伝統が滅びようとも、
この伝統だけは決して失われることはない。

人類が存続し続ける限り。

energyXTのデモを利用して…

REAPER関連の話題。

ここで手に入る、VSTiとして動作する「energyXT」
というDAWソフトのデモ(energyXT.zip)は、
配布元webサイトの但し書きを見る限り

The demo version of energyXT will let you save,
but you need a license key to re-load your projects.
Get your license online now at shareIt or PayPal

とあるように、プロジェクトを保存することが
出来ないということを除いては特に何の制限も
なしに使うことが出来るみたい。

そして有り難いことに、これはmidiチャンネル
フィルター代わりとしても使うことが出来る。

つまりこれを使えば、シーケンサ側からmidi信号を
送ってセット物のフォントなどを鳴らす時に、
メモリを効率よく利用することが出来るということ。
以前書いたように、midiファイルをREAPER上に
読み込ませてsfzを使うと爆音が鳴ることがある)


使い方は、まず「MidiInput」を「AllChannels」に
設定したmidi受信用トラックと、その情報をレシーブして
演奏を行う為のトラックを作る一連の作業を済ませた後、

・REAPER上にenergyXTを立ち上げて右クリックメニュー
 から「Folders」を選びVSTフォルダを指定する※1
・同じくメニューから「MIDIchs」を選択。
・さらにメニューの「VST」からsfzを選択しフォントをセット。
・「MIDIchs」と「VST」を下の画像のように連結する。
・「MIDIchs」のアイコンをダブルクリックして
 設定画面を呼び出しmidiチャンネルの設定をする。
・シーケンサ側からmidi信号を送って鳴らしてみる。

energyXT_20070915211118.jpg

これで鳴らしたいチャンネルだけがなっていればOK。

勿論、デモのenergyXTは設定を保存出来ないので
REAPERを立ち上げる度に設定をし直さなければ
ならないが、それくらいの労力はフィルターが
使えないことに比べれば大した問題じゃないだろう。

ということで、これからはこのデモにお世話になりそう。
まあ、DTMする元気があればの話だけど。



※1 よく覚えていないが、最初は自然に
フォルダの指定を促されたような気がする。

関連記事:REAPERのフォルダ機能

意外と大人しい奴ら

…我関せず

目が合った?


もう随分前から、網戸を隔てた窓の直ぐ前に
20匹程の蜂達が群れを成して留まり続け、
網戸を開けることが出来なくなっている。

ネットで調べてみると、どうもこの蜂は
セグロアシナガバチという種類のもの
らしいことが分かった。

朝も晩もずっとここでじっとしているので、
自分の立場柄、巣作りのプロジェクトにでも失敗して
用済みになったリストラ蜂なのかな?とも思ったが、
どうやらこの時期のこの種類の蜂はこれが普通らしい。
(実際、蟻に襲われたりして何度か
巣作りに失敗していたらしいが)

で、デジカメで撮影してみたのだが、
余りにも被写体との距離が近すぎて
これがなかなか上手くいかない。

説明書には、被写体との距離は8~13cmくらい
でないとピントが合わない旨のことが書いてあるが、
実にこの被写体との距離は僅か1cm程度。

しかし、その1cm前で網戸にカメラを押し付け、
時にはフラッシュを焚いたりして何度も何度も
撮影しているにも拘らず、彼らは全く攻撃的な
素振りすら見せることはなかった。

なんて温厚な奴らなんだ。
人間とは大違いだな。

ノイズが気になる

今更ながらスティーリー・ダンの彩を買った。

自分には昔から「買おう買おう」と思っているうちに
その機会を逃し十年近く(もしくはそれ以上)が
立ってしまったようなCDが結構あるが、
これもそのうちの一つ。

それが廉価で再発され、ちょうどセールと相まって
¥1300程度で入手することが出来たので
これを機会に「買おう買おうリスト」から
この一枚を除外することにしたのだ。

で、早速聴いてみたのだが、
どうもノイズが気になってしょうがない。

具体的には「Black Cow」の一度目のサビ前に
入るプチノイズと、「I Got The News」の
ギターソロ前に入るバリノイズ。
(他にもノイズが入る箇所はあるがさほど気にならない)

特に前者は、左側の方で鳴っている比較的小さな音で
収録されたギターのカッティングを追っかけていると、
その左側にそれよりもかなり大きく、録音から浮いた
乾いた立体的な音質でこのノイズが入るのでかなり不快だ。

この部分に差し掛かると「ああ、もう直ぐノイズが入る」
と思ってドキドキしてしまう。

でも、この「不快感」は多分音自体から
くるものだけじゃないんだと思う。
いや、むしろそれ以外の要素の方が大きい。

このアルバムは恐らくAORというジャンルに
於いて最も有名なものの一枚だろう。
それどころかロックファンなら誰でも
知っているであろう名盤中の名盤だ。
ジャズ系の人が録音に参加しているという
こともあってジャズファンにも馴染み深い。

しかし、それだけメジャーな録音であり、
ネット上でも多くの人々がこのアルバムに
ついて様々なことを語っているのにも関わらず、
この録音のノイズに関して言及されることは殆どない。

まあ、自分がただ神経質過ぎるだけなのかもしれない。
しかし、このCDは優秀録音ものとしてオーディオ
チェックに使われることも珍しくないようだし、
そういう人達は自分よりもずっと良い機材で
もっと音に注意を凝らしながら聴いている訳だろう。

それでなくとも、DTMをやっている人なら
このアルバムを持っている人も多いはずだし、
こういったノイズにも敏感なはずだ。

つまり、それなのにこのアルバムのノイズが全く
話題に上がらないということは、もしかして
自分がハズレCDを引いてしまったんじゃないか、
という疑念が浮かび上がってくるのだ。

そして、多分その疑念こそがこの
「不快感」の源になっている。

確かにこのCDには「一部ノイズが発生する箇所が
ございますが、これはオリジナル・マスターテープに
起因するものですので、何卒ご了承下さい」

との注意書きがあるものの、昔の録音がCDで再発された
場合大抵この注意書きがなされているが、クラシックは
ともかくポピュラーミュージックでこれほど派手な
ノイズが入っていることは余りない。
(クラシックはデジタル録音以降も正体不明の
ノイズや音の歪みが混入していることが多い)

それにHMVやAmazonの視聴でちょうどこの部分を
聴けるのだが、やはりこんなノイズは聞こえてこない。
単にビットレートを落としてストリーミングされて
いるからということもあるかもしれないが、
ビットレート落としただけであの派手なノイズが
まったく消えてなくなるとは思えない。

とはいえ、それだけではこれが不良品だという
確証は得られない。疑念以上確信未満。

もし不良品だと確信が持てたなら交換してもらえばいい。
その行為は自分にとってはハードルの高いことでは
あるが、今は昔みたいに幾ら努力しても初対面の人と
会話をすることが出来ない、というほどではない。
だが、流石にこれが不良品なのか否かを店頭で
確かめる程の勇気はない。

となると結局、疑念から生まれた不安は硬く閉ざされた
確信という扉から出ることを許されず、行き場を
失って内部を疲弊するまで駆け回り続ける他ない。

そしてその密閉された空間の中で「不安」はこれが
不良品だったことを想定し、「何故あの店でこれを
買ったんだ。いや、何故あの五枚置いている内の中から
この一枚を選らんでしまったんだ、しかも態々後の方に
ある物を選んでハズレを引くなんて、この間抜けが!」
とか、或いはこのCDは何種類かの盤が出ている
ようなので、このノイズはこの盤特有のものなのかも
しれないと想定し、「内容的に良いものであることは
ある程度分かっているのに、安さに惹かれてこの盤※1
を買うからこんなことになるんだ。いつもブックオフで
安いクズCDばっかり買って失敗を繰り返すくらいなら
こういう所で金を使え、この安物買いの銭失いめ!」
と自身を責め立て続けるのだ。

 ***

まあ、ここまで落ちて今更そんなセコイことで
悩んでいても仕方がないのは分かっている。

だがそれを分かっているのはあくまで
「理性」の方であって、「感覚」の方は
未だにそれが理解出来ないようだ。

所詮、理性は感覚が感じたことに対して意味づけを
して感覚にフィードバックする力しか持っていない。
しかし、感覚は理性の忠告などお構いなしに
どうでも良いことで悩み続けることを選択する。

昔からそうだった。
今からすると本当にどうでもいいと思えるような
ほんの些細なことでも、いつも「背水の陣」
のような過大なストレスを感じていた。

でもそれはあくまで「今からすると」であって、
やはりその時はそのストレスから逃れることは
出来なかった訳で、そういう過度なストレスを
感じてしまうこの感覚を取得してしまった時点で
もうこの未来(現在)は決定していたのだろう。

要は精神の燃費が悪すぎるのだ。

というか、もうガス欠だけど。
でも、命に補給なんてきかないんだよ。


あ、取り敢えずアルバムを聴いた感想としては、
タイトル曲が一番印象に残った。

ワンコーラス終わる時のアンニュイな
雰囲気とか何とも言えず良い。
その後のスティールパンっぽい※2メロディーに
導かれて延々と続く引いては押し寄せる
細波のようなギターソロ、そして
ウェイン・ショーターとスティーブ・ガッド
のせめぎ合う中間部。
これはプログレファンにもウケそうな曲だなあ。


※1 「ブックレットの内容は、2000年に発売された
“初回生産限定・紙ジャケット仕様”から転用した
ものです」とあるが、その盤はアーティスト自身が
リマスターに関わったもののはずなので、ブックレット
だけじゃなくて中身もその時と同じものならば選択
としては間違ってはいないはずなんだけど…。
いまいちハッキリしたことが分からない。

※2(追記9/12) あくまでスティールパンを思い
起こさせるメロディーということであって、音色自体
がスティールパンなわけじゃありません。いや、
どうでもいいこどだけど、紛らわしい表現で結果
として嘘情報をばら撒くみたいなことになると
嫌なので一応。まあ、こういうどうでもいいことを
気にしてるから駄目なんだろうだけど。

(追記9/24) この記事を書いた後、店頭でこの
CDを視聴できる店があったので聴いてみると、
やはりノイズは入っていました。つまり、別に
自分がハズレを引いたわけではなかったようです。
結局、単に自分が神経質になっていただけか。
しかし、リマスター前の音源にも入っていたのかな、
あのプチノイズ。というのも、コンプの掛け方を失敗
するとちょうどあんな感じのノイズが発生するので。
まあ、プロがそんなミスを犯す筈はないと思うが…。

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プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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