ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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印象派的現実

書く気も失せるが、なんか書かないと気持ちの区切りが
付けられないので。
---------

先ごろ行われた大阪府知事選挙では、やはりというか案の定というか
橋下氏が圧勝という形でその幕を閉じる結果となった。

まあ今回の選挙は「0秒当確」どころか、彼が立候補を表明し、民主党が
その対抗馬として彼の知名度を上回る程の魅力を持った候補者を立てる事
が出来なかった時点でもう既にその結果が決まっていた「期日前当確選挙」
だと思っていたので、その結果自体は何の意外性もなく、ただ用意
されていた儀式が粛々と終了しただけという感じではあったが。

それにしても、今回の選挙では日本の政治や常識(共通認識)は結局
テレビという舞台によって決定されていくのだな、ということを改めて
痛感させられた。何しろ、橋下氏の対抗馬であった熊谷氏はテレビに
出演するや否やその当選の可能性を失ってしまったのだから。

では何故そんなことになってしまったのか。それはテレビに映る彼の姿、
その態度や口調、所作などから醸し出される印象が非常に悪かったからだ。
どんな風だったかをもう少し具体的に言えば、如何にも大阪のワンマン
経営者的なギスギス感の漂う雰囲気を持っていた、とでもいえばいい
だろうか。失礼ながら、テレビで初めて彼を見たとき、正直
「ああ、この人には入れたくないな」と思ってしまった。

対話というのは、相手の投げたボールを一旦受け止めて、そしてその
内容をちゃんと吟味した上で、それに何らかの手を加えてまた相手に
投げ返すということの繰り返しだ。だが、たまに相手の投げたボールを
一度受け止めることもせず、そのままかっ飛ばしてボールを返すタイプの
人間がいる。こういうタイプの人間は非常に厄介だ。熊谷氏はちょうど
そういうタイプの人間に“見えて”しまったのだ。

尚且つ、同和事業の撤廃を拒んだことから、ちょうど小泉改革の時のような
「改革派の橋下氏と守旧派の熊谷氏」という構図まで出来上がってしまった
(実権を握ってきた与党側の人間が“改革”を唱えるという構図まで同じ)。
それに「財界や官僚とベッタリな関係」というイメージが張り付いてしまった
のも痛かった(財界の連中は途中で空気を呼んで橋下氏支持に乗り換えた
みたいだが)。多くの者が、彼が知事になっても何かが変わるという予感を
抱くことが出来なかったのではないだろうか。

いや、勿論これはあくまでイメージだ。実際彼がどういう人物なのかは
ハッキリ言ってよく分からない。もしかしたら、本当はテレビでの印象
とは全く違う、柔和で機知に富み、寛容性と包容力を兼ね備えた非常に
稀有な人物だったのかもしれない。

だが、テレビに映る熊谷氏の姿が、彼が知事になることによって何かが
変わるという予感を全く民衆に抱かすことが出来なかったことが、彼に
致命的なまでの止めを刺した。何故なら、結局殆どの「一般的」な人間は
単純に「この人なら何か流れを変えてくれそうだ」といった印象だけで
その投票行動を決めてしまうからだ。

それが良いとか悪いとかの問題ではなく、それが現実なのだ。

だから、少なくともテレビに出演した時に良いイメージとまでは
行かなくとも、悪いイメージを抱かれない程度の「テレビ耐性」を持った
候補者でなければ、日頃から何百、何千万という視聴者の目に晒され
ながらそのイメージを保ち続け、生き残ってきたタレント候補に勝つこと
など出来る筈もない(その点で言えば、共産推薦の梅田氏は充分水準を
クリアしていたのだが)。

恐らく自民党はそのことを織り込み済みで選挙で勝つ為の候補者を選んだ。
それに対し、民主党はただ「相乗り」や「タレント候補」であることを批判
されるのを逃れる為だけの消極的な姿勢で候補者を選んだように思える。
そしてその動機の違いがもろに結果に出た、というところだろうか。

ただ、熊谷氏の人気が急落した理由について、彼が「橋下氏の批判
ばかりしていたから」だとか、「ネガティブキャンペーンをしたから」だとか
いう意見をネット上で見かけたが、それは関係ない。いや関係あると
いえばあるのだが、それは彼(ら)がネガキャンをしたからではなく、
ネガキャンが下手だったからだ。

そもそも「ユビキタスドラッグ」で書いた通り、選挙で勝った橋下氏は
恫喝芸や貶め芸によってのし上がってきた人物だ。実際、橋下氏に
ネガティブなイメージを付与された「『悪人』達を、正義の味方である
タレント候補がバラエティー番組的に痛快にぶった切ってくれる」ことを
期待して彼に投票した人も多かったのではないか。本当にネガキャンが
嫌いな人間であれば、そういった手法を使う橋下氏もまた支持しないだろう。
だが、結果は知っての通り橋下氏の圧勝に終わった。つまり、ネガキャンを
したか否かは問題ではなく、それが上手かったか否かが問題なのだ。

そして、たとえ「税金を払わない奴は生きる資格がない」だとか、
「高齢者ら社会的弱者の予算が減るかもしれないが、それは仕方ない。
大阪を元気にすることを目標にした」などというようなえげつない思想を
持っている者であっても、テレビに映る姿で視聴者に変革を予感させる
ことさえ出来れば、何かしら良いイメージを抱かすことが出来れば、
多くの者の心を虜にし、勝利することが出来る。

実際うちの母は、病院に寝たきりの祖母を持ち、精神的な病でゴミ屋敷
のような家にひきこもっている妹を持ち、自らも高齢者であり、持ち家も
貯金もなく、無職の息子を持っている社会的弱者なのにも拘らず橋下氏
に一票を投じた。彼が起こす変革が何を意味するのか想像すら出来ず。
だがこれが「一般的」な人間の姿であり、理屈で何を言っても無駄なのだ。

生まれ持った容姿や資質。その材料を使い、自らのイメージを取り繕い、
他者のイメージを貶めるコミュニケーション能力。そしてそのイメージを
増幅させ、一瞬で何百万人という人間に感染させることが出来るテレビ。

その前に於いて、理性はただ敗北を噛み締めることだけしか出来ない。

(追記) 続きを書いた。
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テンプレを変更する際に気になった幾つかのこと

ついこの前に、「リンクされた箇所を区別する為の差異化は本来
スタイルシートで以って行うべきものだと気づいたものの、色々と面倒
なのでもうこのまま記事中のHTMLタグでなんとかして乗り切るつもりだ」
と言ったばかりなのだが、FC2の共有テンプレートで気に入ったものを
見つけることが出来たので、この際思い切ってテンプレごと変更する
という根本的な対処法を取る事にした。

以前のテンプレはデザイン自体は気に入っていたものの、有効に使える
横幅が異様に狭くてずっと窮屈さを感じていたので、この変更によって
その窮屈さから解放される運びとなったのが何より嬉しい。
過去の記事で文章中に引いていた下線も、その記事の要点を明らかに
するという目的よりも、どちらかと言えば長文になるとやたら縦長に
なって見難いため、視覚的基点を作るという目的の方が主だった。

それに、前のテンプレではただでさえ利用出来る幅が狭いのに
引用タグを使うとさらにその幅が益々狭まる上、「引用枠」が表示
されないためにそれが引用であるということが分かり難いという欠点
があったのだが、このテンプレに変更することでその問題も改善され、
引用も気軽に出来るようになった。その上カスタマイズもし易いし、
全く良いこと尽くめで正に新テンプレさまさまといったところだ。

ただちょっと気がかりなことが。

今回利用することになった共有テンプレートというのは、

弊社が作成した公式のテンプレートではなく、より自由な発想でお客様や有志の方々が作成したテンプレートの事を言います。
お客様が作成したテンプレートを登録して他のユーザーに 配布する事が可能です。(FC2ブログ Q&A)

といったもの。

従ってその性質上、ブログの管理画面から個別のテンプレに用意された
コメント欄へと移動し、それを利用させてもらう旨を作成者の方に
一言伝えるということが慣例になっている模様。

ところが、何故かそのコメント欄に書き込もうとしてもこんなマーク

error.jpg

やこんなエラーメッセージ

REPLACE INTO jb_login ( `id`,`lastdate`,`status`) VALUES ( ~省略

が管理画面に表示されるばかりで何度やってもコメントが反映されない。

そのため、現在は提供者の方への報告もないままの無断でテンプレを
利用しているといったような状況に置かれていて何とも気まずい。

ただ、かといってテンプレ作成者の方のブログへ
直接コメントするのもなんだか気が引けるしなあ。
というかそういうことを平気で出来るくらいならこんな人間になってないし。


まったく罪作りなエラーだ。
(訂正)
どうやらエラーじゃなくて、単に自分のコメントを削除出来る機能だったみたい。
ところが、勝手に訂正機能がないと思い込み、エラーで反映されていないと勘違い
して、書き込んでは×マークを押して消し、書き込んではまたエラーが出たと消し、
を一人で繰り返してたという…。なんと間抜けな。でもこれで一つ肩の荷が下りた。




 <スパムはFC2のスレッドテーマが原因?>

それともう一つ気になるのは、今回テンプレを変更するに当たって
調整の為に前回の「下線騒動」の時のようにまた過去の記事を大量に
修正しまくることになった(といっても今回は単にタグへのリンクを
外しただけ)のだが、そうすると案の定、前回と同じく今回も過去の
記事に対して幾つかのコメントスパムが飛んでくるという状況が見られた。

前回の修正時はその原因を「ping」のせいじゃないか?と推測したのだが、
その後、どうもFC2のスレッドテーマがその原因となっているのではないのか
という思いがしてきた。

というのも、前回の修正時の後暫く経ってから気づいたのだが、
過去の記事を修正した際に何故か昔テーマに投稿した記事が
新しい記事として投稿され直していたからだ。
そして、どうもスパムが飛んできたのは昔テーマに投稿した記事に集中
していたように思う(確認する前に消してしまったので断言は出来ないが)。

これはFC2側のシステムの不具合なのかバグなのか、はたまたそういう
仕様なのかどうか分からないが、それはともかく、テーマが更新される
と自動的にスパムが投稿されるような仕掛けが其々のテーマに仕掛け
られているんじゃないかと。そう考えた方が合点がいくように思う。
同じ様に、タグに関してもそういった仕掛けがなされているような気が。

まあタグに関しては、FC2ブログのトップに表示されている
「注目タグ」がスパムブログに占拠されて久しいのに、その状況が
一向に改善される見通しがないということの方が問題かもしれないけど。

 <恥を書くという旅>

それはともかくとして、今回と前回、過去の記事を修正する際に
改めて確認することになったのは、今にしてみると恥ずかしくて
直視することさえ難しい記事が如何に多いかということ。
昔の記事だけじゃなく、最近のものでさえそういうものが結構ある。
しかも、そういったものが新しい記事としてテーマに投稿され直している
のを知って何とも居たたまれない気になった。

だが、だからといって未来の自分が見ても恥ずかしくないものを書こうと
思えば今度は何も書けなくなってしまう。そもそも、このブログが何らかの
感情を文章に変換して吐き出すことを目的とし、そういった性質を持っている
以上、そこで書かれた文章は元々吐しゃ物のようなものなのだ。
その吐しゃ物に立派さを求めるだけ無駄だろう。

それに、時を経るにつれて人の気持ちや考え方はどんどん変化するし、
また過去には知りえなかった情報を知るようになることもある。
人々が足場にする社会のシステムや常識でさえ普遍ではいられない。
それ故、その時々の気持ちや思いを文章にして書いている以上、
その文章は時を経れば如何しても古びたものになってしまう。

つまり、「旅の恥は掻き捨て」などと言うが、ブログを続けるという
ことは“書いた”ものを次々と捨てていく旅の様なものなのかもしれない。
過去に書いたものを捨てて行くからこそブログを続けていられる。
もう恥をかきたく(書きたく)ないと思ったらもうその時点でブログ人生は
終わりなんじゃないかと。

勿論、未来に見ても恥ずかしくない文章を書くことが出来る人や、
そこで時間経過では劣化しない何らかのデータベースでも作っている
のなら話は別だが。


恐らく今回みたいに過去の記事を大量の修正をすることはもうない
だろう。そして最近はテーマに投稿すること自体も少なくなった。

だが、未来にも価値を失わない文章を書くことが出来ない自分
としては、一度過去という黄泉の世界に葬った「恥」を再び蘇らせる
ころになるFC2の「黄泉がえりシステム」は何とか改善して貰いたい。
でないと怖くて過去の記事を修正することさえ億劫になってしまう。

だって、過去に書いたサブい記事が新しい記事として大量に
投稿されていることほど恥ずかしいことは無いよ(経験者談)。

マイ・ミュージック・スタジオ入手

デアゴスの例のブツを早速買ってきた。

創刊号は全号を収めることが可能なバインダーが付いて
いるのだが、これが物々しいまでのデカさとゴツさを誇っていて、
手にとってレジに持っていくのがかなり恥ずかしいブツである。

で、結論から言うと、VST版のVSCはちゃんと付いていました。
まず機能制限版のSSWをインストールし、そのフォルダの中にある
「VSTPlugin」フォルダから「VSC.dll」を必要な場所にコピー
すればそれでOK。REAPERでもなんの問題もなく動いた。

vsc.jpg


最初プログラムチェンジが上手く行かなかったりして、
「こんなものなのかなあ…」とちょっとガッカリしかけたが、
GM2モードからGSモードに切り替えたらその問題も解決した
(それにしてもGM2って全く普及しなかったなあ。なんとなく
哀愁を感じさせるよ)。まあ、たまにクラッシュシンバルの残響が
やたら長くなったりと、少し挙動が不安定な部分もあるが、
特に機能制限もなく普通に使えているように思う、多分。

ただ、より高音質なVSTやサウンドフォントが無料で簡単に手に
入る今となっては、「VSCってこんなショボイ音だったっけ?」
という思いを抱かざるを得なかったというのが正直な所でもある。
S-YXGと比べてもかなりモヤケ度が高いことが分かるし。
勿論、ファイルによってはVSCで再生した方が良いものもあるけど。

とはいえ、コレが迷わず買いであることにはなんら変わりない。

あと一応参考までに言っておくと、SSWの方は、オーディオ5トラック、
midiはリズムトラックを含めて6チャンネル、そしてピアノロール
もステップエディタも使えないという機能制限が付いている。

 ***

それはそうと早くバインダー捨てなきゃ。
只でさえ物を置く場所がないのにコレ場所取りすぎ。
でも貧乏性の自分はなかなか捨てられなかったりするんだこれが。
またこれが妙に立派な作りだったりするので、
それを捨てることにも何か妙な罪悪感を感じるというか、
何かに使えるんじゃないか?なんて。

使える訳ないのに。

あと、捨てる際にこれを買ったことがバレる
事自体が色々とメンドクサイ。
なんかデアゴスに心奪われたような勘違いをされそうで。

「いや、そうじゃなくてVST版のVSCが…」
「分かってる分かってる、皆まで言うな」みたいな。

しかも口に出してではなく心の中のやり取りで。

FirefoxとIEでの見え方の違い

自分は以前に一度IEでトラブったことを
契機としてブラウザをFirefoxに乗り換え、
それ以来ずっとFirefoxを使い続けている。

しかし、ふとしたことでIEを使ってこのブログを見て
みると、本来表示されてしかるべき筈のリンクへの
下線が表示されていなかったことに気づいた。
Firefoxではちゃんと表示されているのに。

それで早速(というか今更?)IEでも下線が
表示されるように過去の記事の修正したみた。

具体的には、

<u><a href="http://URL" target="_blank" title="リンク先">リンク先</a></u>

となっていたところを

<a href="http://URL" target="_blank" title="リンク先"><u>リンク先</u></a>

に書き換えてみるとIEでも下線が
表示されるようになった。

ただ自分はHTMLの知識が全くないので、
果たしてこれが記述方として問題ないもの
なのかどうかという不安が残る。

というか、そもそもリンクであるかどうかを区別
させるための差異化はスタイルシートで以って
すべきことなのかもしれない、と修正後に気づき、
もの凄い脱力感と自分の無能さを再認識させ
られたことによる自己嫌悪に襲われ、
かなり暗鬱とした気分に。

お陰で今日も豪華二本立ての悪夢を見る始末。

ただ、もうここまできたら今後もなんとかこの
方法で乗り切るつもり。このテンプレだと、
サイドバーのリンクと本文中に於けるリンクの
表示方法を分けて設定するのも難しそうだし。

それに、FC2の入力支援ツールはこんな風に

なっているのだが、先にリンクをはる部分を
反転させて「下線ボタン」を押し、

<u>リンク先</u>

としてから、それを反転させて
「URLボタン」を押してリンクを貼ると、
IEでもちゃんと下線が表示されるみたいだし。

要は今回の騒動は、今迄ずっとこれを逆の
手順で行っていたことによる弊害だったわけだ。

 ***

それはそうと、今回この問題を改善する為に
過去の記事を大量に修正しまくったわけだが、
そうすると何故か過去の記事に対して多量の
コメントスパムが飛んでくるという事態に見舞われた。

つまりこれは、記事の修正が何らかの手段で
捕捉されているってことなのだろう。

ブログをやっているクセにそういう情報には全く
疎いので確信はないが、恐らく「Ping」とかが
関係しているのではないかと思う。

しかし、だとすると自分は一度記事を投稿した後で
誤字脱字や文法のおかしさに気づいたり、少し時間が
経ってから語尾の不自然さなどに違和感を覚えて記事を
修正することも多いので、それが全てバレているとすると
かなり恥ずかしい。

いや、誰もいちいちこんな過疎ブログの
微調整なんか気にはしていないだろうけど。

でも、出来れば「Ping」送信は初期投稿のみで修正時
は送信されない設定とかが出来たらいいのにと思う。

吾輩は正論である

<正論と現実の乖離が生み出す暴論>

吾輩は正論である。
現実的であったことはまだない。

 *(1)*

「正論」というのは、何らかの整然とした秩序が成立
すべきであり、またそれがある程度成立している
ということを前提とし、その「こうであるべき」
秩序に基づいて物事の正誤を語ることである。

しかし、現実は常にその正論が前提とする秩序の
外にも広がっている。正論が想定しきれなかった
(或いは敢えてその想定から除外した)状況や要素が
数多存在している。それどころか、その前提とすべき
秩序でさえ競合する諸説が幾つも存在していたりする。

故に、正論は遠目から見ると一見立派そうに見えても、
実際に近くによってよく観察してみると実はひびだらけ
であったり、或いは本来そこに存在すべき筈の様々な
パーツが欠けていたりして、実用的な道具としては
先ず役に立たたない代物でしかなく、むしろそれは
現実的議論というよりも、ある種の思想を下支えする
ための教条的象徴としての性質を持ったものと考えた
方が妥当だろう。


実際、何らかの議論が巻き起こるような問題の多くは
そういった杓子定規な正論では解決出来なかったり、
それが想定しきれなかった(或いは敢えて目を背けた)
事柄が発端となって発生しているものが殆ど
であり、
そういったケースに於いて正論を主張したところで
それは「一周遅れ」の話題を再燃させて議論の邪魔を
しているだけ、ということにもなりかねない。

また、暴論や一般的言説から外れた発言を行って誰か
から正論を投げつけられて非難されるような人間も、
その正論の前提となる秩序が成立していなかった、
若しくはその秩序に欠陥があったが故に辛酸を舐め、
その秩序の裏切りに対する反発としてその様な考え
を抱くに至ったという道筋を辿っている場合も多い。

そういった場合に於いて、その暴論を吐く人間に
正論を突きつけることでその発言を諌めようとしても
その者がそれで納得する筈もなく、むしろ「まだ騙し
足りないのか!」と憤慨して益々火に油を注ぐこと
になるだろう。現実と正論の乖離により生まれた
「暴論」という火の手の前には「正論」はただ立ち
尽くすことしか出来ない。

ちょうど上記した様な道筋を辿って暴論を抱くように
なった者が「現実」という火の手に身を焼かれている
時に、幾ら正論でそれを消火しようとしても何の役
にも立たなかったのと同じ様に。

 *(2)*

ところが、どうもそういった正論が前提とする秩序
に瑕疵があったが故に生み出された苦痛に由来する
叫びとしての暴論や、正論に裏切られ、それが通用
しない現実があることを知らしめたいという感情が
生み出した「正論の欺瞞告発としての暴論」を発して
いる者に、わざわざその者からすれば諸悪の根源で
しかない正論を用いてその発言を諌めようとし、益々
議論が泥沼化するようなケースが結構あるように思う。

それは正に火に油を注ぐ行為でしかないのに。

大体、正論というのは始めから先ず結論ありきの
論法であるため、その議論を終わらすことを目的
とする場合にのみ有効、例えば、相手が議論をする
に値しない態度を取りながら絡んでくるような場合の
一つの対処法などとして役に立つ(第三者に自説の
正しさや、そのやり取りに於いて議論としての有用性
がもはや終了していることをを印象付ける)だけで
あって、それを相手に突きつけるという手法を使った
時点で、もはやそれ以上その議論が発展することも
なければその相手と意義あるやり取りを成立させる
ことも出来なくなってしまう
(その議論に於ける自身
の優位性を第三者に見せつけること自体を目的
としているのならば意義は無いとは言えないが)。

つまり、正論を用いるということはそれと同時に
「貴方とはもうこれ以上本気で対話をするつもりは
ありません」という意思表示でもある。


人が何らかの議論に於いて正論を語り始める時、
それはもはやその相手に対してそれを語っている
のではなく、そのやり取りを見ているであろう
第三者に向けてそれを発信しているのだ。だから
一方が正論を持ち出した時、もうそれ以降まともな
議論は成立し得ず、単に勝ち負けをギャラリーに
アピールし合うゲームとしての議論にしかなり得ない。

相手に語りかけるような口調で正論を説いている
人間がやたらと胡散臭く見えるのはそのためだ。

実質的に相手との対話を打ち切る意思表示であり、
尚且つもはやその相手にではなく第三者へのアピール
としての発言でしかないものを、まるで対話相手との
語り合いであるかのように装うようなことをしている
のだから、そりゃ白々しいわけだ。

そもそも、前述したように議論が紛糾する場合の多く
は正論の想定外、いやむしろ正論の瑕疵そのものを
問うことを出発点としているのであって、問題の渦中に
居る人間はわざわざ他者からそれを教わるまでもなく
そういった正論的な考え方が存在することは既に了解
済みであり、しかしながらそれが現実的でなかったり
その考え方に瑕疵があったりすることを問題として
議論を行っている
のであって、そういう場に余りにも
在り来たりな正論を持ち込むという行為は、その議論
を茶化して引っ掻き回す行為以外の何者でもない。

(勿論、議論以前の前口上や、どうも相手がそれを
正しく理解していない疑いが有り、一先ずその事実
を確認することを目的としてそれを用いるのであれば
それはそれで充分意味はあるだろうが)

にも拘らず、正論と現実の乖離を出自とするであろう
議論や暴論を発する者に対し、ここぞとばかりに
駆けつけて正論を浴びせかけている人を見ると、
この人は自分の行っている行為の意味をちゃんと
分かってそれをやっているのだろうか?
という疑問を抱いてしまう。

何故なら、それは正論の瑕疵が生み出した暴論
という炎に油を注ぐ行為であったり、議論を茶化す
行為であったり、自身がゲームとしての議論にしか
興味がないということを周囲に悟らせてしまう行為
でしかないのだから。


 <正論応援団の失敗>

正論に関連しては、もう一つ常々「それはどうか」
と思ってきた行為がある。それは、わざわざ自説や
自身の支持する説に対しそれが「正論である」ことを
アピールしてみせる行為。

恐らくこれは、その説が「正論」という称号を獲得
さえすればそれが他の説よりも優れたものだという
証明になるという思いがあって、その説を優位に
見せることを目的として、それを応援するような
気持ちで行われている行為なのだろう。

だがもう既に述べたように、問題の多くはそもそも
現実に対する正論の誤謬から生まれ、そしてそれを
前提として議論が行われているのであって、その説が
正論だと証明されることはむしろそれが「一周遅れ」の
説であることを示すことであったり、或いは様々な要素
を見落とした短絡的な説であることを証明することに
なってしまうだけなのである。

そしてそれ以前に、こういった自身が支持する説を
優位に見せる為に特定の単語が持つイメージを利用
して印象補填を行うという行為自体が、正論的な姿勢
と真っ向から反する行為であるという矛盾
がある。

勿論、こういった手法は現実的には様々な議論の場
で常套手段として当たり前のように用いられている
ものではある。しかし、もしその者が正論的な姿勢を
重んじるのであるならば、極力そういった印象合戦の
ような手法を用いることを避け、その内容の充実度
でもって議論に望もうとする態度を取る筈だ。
そしてそれぞれの単語はその印象ではなく、その
言葉が指し示す所のものを相手に提示してみせる
という目的でのみそれを使用する事を心掛けるだろう。

そういう意味で「正論応援団」は正論的教義から
大きくはみ出した存在であり、そのような行為を
意図的に行っている以上、その者は正論の使者
どころか、正論的秩序に於いて戒められるべき
存在でしかない。

つまり、「正論応援団」は「正論」というものの本質
を見誤り、それに対する過度な評価を抱いてしまった
が故に、その自らが生み出した「正論」という単語の
優れたイメージの力に惑わされ、その力に頼りたい
という誘惑に駆られた末、印象補填という「正論的
姿勢」を踏みにじるような行為を行ってしまうという
二重の失敗をしてしまっているのだ。

今更ながら

もう十一日にもなってしまったが、
一応新年の挨拶を済ませておこうと思う。
-----------
明けましておめでとうございます。
本年も環境と気力が許す限りこの
ブログを続けていく所存ですので
よろしくお願いします。
-----------

今年一発目の記事で新年の挨拶をしなかったのは、
全くめでたくもないのにめでたいというのは
馬鹿げているように思えたのと、挨拶をすべき
相手がいるという実感がないのにそれをするのは
可笑しなことのように思えたから。

それに、挨拶の上手い下手でその人間の内容を
知ることが出来るという馬鹿げた思想や、
そういった思想が蔓延っていることを利用し、
上役にアピールすることだけを目的とした心無い
じゃかましい挨拶をぶつけてくる店員の態度など
によって、「挨拶」という行為自体の評価が自分の
中で大暴落していたということもある。

しかしながら、何の挨拶もなく通常通りに
今年一発目の記事を書いて投稿してみたものの、
どうもその後収まりの悪さを感じるようになり、
そう感じた以上はやはりそれを済ませておくのが
良いのだろうと自分の感覚を信じて思い直し、
区切りをつけるという意味でもそれを実行するに
至ったという次第です。

音楽だってなんの区切りも感じさせずだらだらと
流れていくだけのものは聴いていて辛いしね。
いや、逆にそれが良いというものもあるんだろうけど。

まあ本当は、「新年の挨拶」ではなく「怨念の挨拶」
でもしようかと思ったものの、そういうことばかり
やっていると益々悪い方向へと向かって行きそうな
気がしてきて止めた。

別に好きでネガティブやってる訳ではないし。

自分はポジティブ・アレルギーではあっても
ネガティブ・フィリアではないのだ。

でも、多分来年(まで続いていたら)は
もう新年の挨拶なんてしないんだろうなあ。
なんとなくそんな気がする。

と言って新年早々鬼を笑わせてみる。

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プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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