ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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音への逃避

この所、どこに目をやっても腹の立つことばかりが目に付き、
イライラしっぱなしだったのだが、しかしこれでは精神衛生上
良くないということで、気晴らしのために最近ちょっと気になっていた
二つのVSTを試しがてらに使いながら遊んでいたら、
何時の間にか出来上がっていたのがコレ。

サウンド・エスケープ01(3分42秒)

まあ特に意味はなく、ただひたすら効果音が繰り返し鳴っている
だけのものだが。こういうのはジャンル的には何になるんだろう。

しかし、この手のものは頭を一切使わずただ感覚的に作ることが
出来るのでストレスが溜まらなくていい。ただ、調子に乗ってエフェクトを
立ち上げまくっていたら直ぐにパソコンの処理能力を超えてしまい、
それでイライラするというのはあるが。
----------------

で、その気になっていたVSTの一つ目がこれ。

「LoopDrive3」(Version3)



「DTMn」で「ループ組み換え音源」という呼び名で紹介されていたもの。
これがどういうものかといえば、このVST上に読み込んだwavファイルを
一端切り刻み(何分割するかを決定出来る)、その切り刻んで出来た
其々の音の断片をどの様な順番で鳴らすかということを内臓シーケンサで
指定すると、そのパターン通りにそれらを繰り返し鳴らしてくれるというもの。

下の画像は、実際に何らかのwavファイルをこのVSTに読み込ませてみた所。
この場合、読み込んだ波形が7分割されていることが分かるだろう。

loopdrive2.jpg

シーケンサは以下のように、縦軸で選択した(スライスして出来た)
其々の音の断片を、左から右の順に演奏していき、一番右まで来るとまた
最初に戻るいう仕組みになっている。分り易いように番号を割り振ってみたが、
縦軸では、下の方へ行くほど元となるwavファイルの頭の方を、
上の方へ行くほど元となるwavのお尻の方の音を示している。

loopdrive3.jpg

この手の機能はドラムループのパターンを組み変えるのに使うのが
より一般的らしいのだが、自分が使ってみたところでは、
どちらかというとそれよりも効果音作りにより力を発揮するような気がした。
実際、今回作ったものは基本的にこの「LoopDrive3」を複数立ち上げて
そこにひたすら素材となるwavファイルを放り込んでいくことで完成した
ものだが、そこで鳴っている音は、殆ど元の音の原型をとどめていない。
こういった効果音を普通のVSTシンセで作るのは結構面倒だったりするが、
これを使えば何も考えず、いとも簡単にそれが出来てしまう。

今回自分は、以前に買っておいたDTMマガジンの素材大放出号の素材
(パーカッションとFX)を使ってこれを作ったが、素材が無ければ
「soundsnap」「freesound」から素材を引っ張ってきてもよいだろう。
効果音を作るだけなら、素材の質も余り問題にはならないし。
いずれにせよ、これは便利だわ。まあ、ある程度の値段のするDAWには
既にこういった機能がデフォルトで搭載されているのだろうけど、
(フリー版の)REAPERにはそれがないので非常に有り難い。

因みにREAPERでこれを使う時は、先ず「LoopDrive3」を読み込んだ
トラックに、メニューの「挿入」から「空白のイベント」を選らんでセットし、
さらにREAPER側の再生ボタンを押して、それから「LoopDrive3」の
再生ボタンを押すことでようやく音が出るようになる。

ただ、このVSTを使うにあたって少し気になったことが幾つかあった。

・立ち上げる度に「Wrong wave format or not wave」
というエラーメッセージが表示される。

要は、デフォルトのwavファイル読込先が以下の様になっていて、
「D:/Musik/samples/VEC/VEC1 BreakBeats/VEC1 Loops BB140 006.wav」
立ち上げると同時にこの場所からファイルを読み込もうとするのだが、
そこにファイルが無いからこういうエラーが出るということなんだろうけど。
なんだか妙な仕様だが、仕方が無いのでDドライブにこの読込先と同じ場所を
作って、そこに適当なwavファイルを置いて「VEC1 Loops BB140 006.wav」と
名前を変えることで、少々強引ではあるがこの問題は解決した。
しかし、その対策を取る前はwavを読み込めないからこそエラーが出ていた
はずなのに、そのままでも音はちゃんと鳴っていたのだから益々謎は深まる。
一体どこからその音を読み込んでいたのだろう。

・REAPERのプロジェクトでwavファイルの読込先を記憶できない。

つまり、プロジェクトを立ち上げる度にwavファイルをセットし直さなければならない。
これも多分一つ目の問題と関係しているのだろうけど、
ともかく、ちゃんとどのファイルを読み込ませていたのかを
其々のトラックに明記しておかないと、後で面倒なことになる。
もしかしたら自分の気づいていない設定法か何かがあるのかもしれないが。

・同じファイルでも一度目に読み込んだ時と二度目に読み込んだ時で音が変化する。

一度目に読み込んだ時は、二度目に同じファイルを読み込んだ時よりも
少々ぎこちのない鳴り方になる。だからコレを作った時はわざわざ同じファイルを
二度読み込み直していたのだが、その後、「LINK TO HOST」をオン・オフ
するだけでこのぎこちなさは解消されるらしいことに気づいた。波形の表示に
関しても、一度目と二度目に読み込んだ時でその表示が異なるのだが、こちらも
「SHOW ANIMATION」をクリックすると二度目に読み込んだ時の波形表示になる。

 ***

「Binauralizer-PiF-2oo8」

binauralizer.jpg

そして気になっていたもう一つのVSTがこちら。
これは「Sound & Tools」で紹介されていて知ったもの。

これを使えば、ダミーヘッドを使って録音したようなサラウンド効果が
得られる。ただし、Azimuthの稼働範囲は左右に90度までなので、
頭の周りを蚊がぐるぐると飛び回る、みたいなことは出来ない。

というか、残念ながらREAPERではそもそもエンベロープを使って
パラメータをコントロールしようとすると強制終了になってしまうため、
REAPERでこのVSTを使うときはパラメータを固定したままでしか
使用できない(バイパスのオン・オフだけはエンベロープで操作可能)。
しかし、パラメータ固定でも充分使う価値のあるVSTだと思う。

今回作ったものでは、右の方で鳴っている雨粒のような音と、
左の方に時折出現するカチカチした音にこのVSTを使用している。

 ***

幾つか問題点もあるものの、これらのVSTはフリーのものとしては
かなりよいものだと思う。他に似たようなものも余りないし
(自分が知らないだけかもしれないが)。興味があれば是非。



 自分が使っているのはあくまでフリー版の「REAPER v0.999」であり、
従ってこの記事に書かれていることもまた、そのバージョンに関しての
仕様や挙動についてであることに留意。
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「マトモな教育」を受けた人達のご意見です

(6/27)タイトルを変更した。

【秋葉原通り魔事件】「酒鬼薔薇」世代、教育の落とし穴(産経ニュース)

 秋葉原の無差別殺傷事件で殺人容疑で再逮捕された派遣社員、加藤智大(ともひろ)容疑者(25)は、神戸連続児童殺傷事件の容疑者の元少年と同年齢の「酒鬼薔薇(さかきばら)世代」。10年前、教育現場では神戸事件を受け、「心の教育」が問われながら、ナイフを使った少年の事件が相次ぎ、突然「キレる」子供の問題が深刻化した。家庭や学校のしつけ・指導力低下が顕著になり、識者からは「挫折に弱い」「過保護」など、この世代が受けた教育の弊害を指摘する声もある。(鵜野光博)

■「実体験」希薄

 「ヤンキー先生」の通称がある参院議員の義家弘介氏は、平成11年から務めた北星学園余市高校で、加藤容疑者と同世代の生徒を受け持った。

 「幼少期から『個人の自主性が大切』『校則はいけない』『詰め込みは悪』という教育にどっぷりとつかった世代」と振り返る。

 昭和50年代に吹き荒れた校内暴力で管理教育や体罰が問題となり、反動から校則をなくそうという動きも出た時代。埼玉県立所沢高校で平成9~10年、入学式ボイコットの騒ぎを起こした生徒も同じ世代だ。

 学習内容を大幅削減した「ゆとり教育」の学習指導要領改定が行われたのもこの時期。義家氏は「勉強ができる、できないは子供にとって切実な実体験。それが『できなくてもいい』という教師によってぼやかされ、努力の大切さという当たり前のことも教えられていなかった」という。

 生まれた年に「ファミコン」が登場したこの世代。欠けている実体験を補うため、義家氏はイベントなどを生徒にやらせ、失敗を経験させるという教育を繰り返した。「みんな『何とかなる』と思っているが、現実は何ともならない。悔しがらせることで現実を教える教育を、高校でやらなければならなかった」

そうそう、俺なんか学校生活では失敗と悔しい思いしかしたことないもんね。
おまけに、忘れ物をしたってことで、よく見せしめとして先生からビンタされたものだ。
でもそのお陰でこんな立派なひきこもりに…ってまたそれか。
----------------

しかし、まだ「ゆとり教育」と「ファミコン」が事件の原因だとか言う人達がいるのね。
多分、自身が社会的に有利なポジションを獲得したという事実が自説の正しさを
無条件に担保してくれる、といった勘違いでもしているのだろうけど。
だからこういった出鱈目説を平気で唱えることが出来るんじゃないかと。

それにしても「酒鬼薔薇」世代って…酷いなこのレッテル張り。
マトモな教育を受けた人間として恥かしくないのだろうか?こんなことをして。
そもそも、メディアが事件・事故やモラル云々といった話をより積極的に
娯楽として利用し始めた頃に少年時代を過ごしたのがこの世代であり、
もしこの世代が何か特別病んでいるかのような印象を世間が抱いている
とするならば、それはむしろメディア側にこそ原因があるはずなんだけどな。

自らが作り上げた印象を世間が受け入れ、さらに世間がそういった印象を
抱いていることで以ってその印象の正しさが証明されているかのように主張する。
こういった手法は自作自演と呼ばれ、モラルに悖る行為であるとされているはず。
そういったことを何の疑問も抱かずに自らが行っていながら、他者に下らない
レッテルを張って貶めていながら、自らが悪い見本を示しながら、それで銭儲け
していながら(いや、勿論銭儲けは大切なことだけど)教育論を唱えるなんて…。
もし学校教育がその者の人間性を決定する主要な要因であるとするならば、
この人達は一体どんな酷い教育を受けたんだろう、ということになるのだが…。

というか、この記事は全般にわたって突っ込みどころ満載で、
一体何処から突っ込んでいいやら途方に暮れる有様なのだが、
一々こんなネタ記事にまともに取り合っていても仕方が無いので、
最後にひとことだけ。

クソスレでやれ。

そのままの方がよかったのに

どこに目をやっても腹の立つことばかり。イライラしてしょうがない。
特に、西成騒動関連のネットでの反応を見ると本当に吐き気がする。
どこまで自分の暴力や残虐さに無自覚になれば気が済むんだ。
コレコレで書いた通り、今のところ持続可能な依存先から疎外された
人間にとって、「樹海」でも「秋葉原」でもない唯一の選択肢なのにね、
「蜂起」って。それも許さんか…。

「お前らもう道具として利用価値がなくなったからさっさと死ねよ。
あっ、でも俺に迷惑が掛かるような死に方はするなよ」
ということなんだろうけど。
----------------

幾ら世の中が複雑化したところで、結局のところ
生きることは即ち(人的なものも含めて)限られた資源の奪い合い。
上手くそれを奪い利用することが出来る者達がいる一方、
それが上手く出来ない者達もいる。当然、それを上手く奪うことが
出来なくなった者達は死ぬしかない。つまるところ、どんなに取り繕っても、
どんなに婉曲化してそれを誤魔化そうとも、どんな形態でそれが行われようとも、
生活の営みが資源の奪い合いであることには違いなく、そしてそれは同時に
他者を死へと追いやる可能性を秘めた加害行為でもある。

そう、人間に限らず他者への加害行為なしに生きて行ける生き物なんて殆どいない。
人間達が作った多種多様の幻想の檻。その檻から少しでも外へと目をやれば
誰でも気づくはずの当たり前の事実。しかし、人間は他者の加害行為を様々な
形態をした「道徳」という大儀で以ってそれを禁止する。そして自身の加害行為は
また同じ様に様々な「道徳」で以ってそれを肯定する。そうやって他者を騙し、
制御することで自身が生活の糧を得る為に有利なポジションの獲得を狙うと共に、
己を騙すことで自身の残虐性を隠蔽し、心の安寧を得ようとするのが人間。

まあ、欺瞞が服着て二足歩行しているような生き物な訳ですわ、人間って。

資源の囲い込みと疎外という黄金セット。
さらにそれと「社会(集団の利益)」を神とする宗教によって構築された
システムを複合的に用いることで、自覚することさえなく他者を殺戮しまくる。
そしてそれに対する反撃は全て単純に悪と見做し、さらなる暴力の口実とする。

余りにもえげつない。でも生存競争だから。そこにあるのは上手いか下手か、
そして自覚してそれをするのか、自覚せずにそれをするのか、ただそれだけ。
それは分かってはいるのだが…。

 ***


祖先はナメクジウオ ヒトと遺伝子6割共通--国際チーム、ゲノム解読

ヒトなど脊椎(せきつい)動物の祖先はホヤ類ではなく、ナメクジウオ類であることが、ナメクジウオの全遺伝情報(ゲノム)解読で分かった。京都大、国立遺伝学研究所や英米などの国際研究チームが突き止めた。19日付の英科学誌「ネイチャー」に掲載された。

なんで人間みたいなゲスい生き物に進化したんだろうな。
そのままの方がよかったのに。

「愛さえあれば、何でも出来る(怖)」

「体罰は愛のムチ」「げんこつ条例できないか」と発言/東国原・宮崎知事(毎日jp)

 宮崎県の東国原英夫知事は18日の県議会本会議の終了後、記者団に「体罰は愛のムチ。昔はげんこつで教えられたが、最近はできなくなっている。愛のムチ条例はできないか」と発言した。この日は一般質問があり、印象に残った質問を問われて、突然「愛のムチ条例」に言及した。

 議会では、自民党議員が教育問題を取り上げた。東国原知事は「宮崎県で『愛のムチ条例』や『愛げんこつ条例』はできないか。愛という範囲で条例化するべきだ」と語った。

 知事は昨年11月、若手建設業者との懇談会で「徴兵制はあってしかるべきだ」などと発言。その後、「不適切だった」と謝罪している。【種市房子】

私も、親の愛情に支えられた「取り敢えずシバいとけ精神」のお陰で
こんな立派なひきこもりになることが出来ました。有難うございました。
-----------------

しかし、ストーカーなどを例として挙げるまでもなく、
一方的な愛の押し付けの強さは、そのままその者の変質性の
強さを表しているといっても過言ではありません。

つまり、この「愛のムチ条例」がその実効性を持つことで、
宮崎が変質者の巣窟となり、変質者達が政界や財界を牛耳り、
そして様々なコミュニティーにおける実権を握ってしまうことで、
社会のルールや常識が変質者を基準としたものに塗り替えられ、
「変質者の変質者による変質者のための社会」が成立してしまう
危険性があるのです。

いや、もしかしたらそれはもう既に成立しているのかもしれません。
何故なら、変質者は己の変質性に気づくことが出来ない場合も多く、
また、一旦変質者達がその社会の主導権を握ってしまうと、
そこではもはや変質的な物の考え方の方が常識となり、
そうでない人達の発想は全て非常識なものとなってしまうからです。

そこで私はそういった状況を回避、或いは脱却するための
画期的なアイデアを思いつきました。それが「愛のお返し条例」です。

これは、誰かが体罰の影響により受け取った溢れんばかりの愛を、
己の傲慢さに気づくことが出来なくなった大人達に「殴るけるなどの指導」
によってお返しすることを条例によって義務付けるというものです。
そしてこれが「愛のムチ条例」とセットでその実効性を持つことによって、
愛の双方向性が実現し、社会が変質者の巣窟となることを防いでくれるのです。

どうです?素晴らしいアイデアでしょ?

東国原知事が一方的な愛を押し付けるような変質者でもない限り、
彼もきっとこのアイデアに賛成してくれることでしょう。

黒色のタッグなんて貼り付けなけりゃいいのに

まだクサクサした気分が収まらないので、
再び個人の暴力は糾弾され、集団の暴力は称揚されるの続き。
また下らないこと書くけど、これが自分の吐き出し行為なので。
--------------

【秋葉原無差別殺傷】人間までカンバン方式
(何かごにょごにょ言ってます)

まあ、トヨタのような日本を代表する企業がこういうことを平気な顔してやっていられるのだから、この社会がどのようにして成り立っているか、といったことは推して知るべしといったところだろう。

そして件の事件の容疑者は実際にこういった環境暴力を受けていたわけで、しかも、

そもそも犯人の環境は、他者と関われないシステムとして存在している。

見知らぬ土地に連れて来られ、社員からは顔を覚えてもらえず、あたかも部品の一部として明日の生活を奪われる。俺はボルトじゃねえ。

といったように、それが環境暴力という間接的に行われる形態の暴力であるが故に、暴力を行使する主体はその対象と直接関わることなく、自らが暴力を振るっているという事実さえも忘れてしまう。だから罪悪感に苦しむこともなく、それ故その暴力に歯止めが掛かることもない。むしろ、そういった環境を形成することが日本経済をより強くするのだ、という集団の利益という大儀の下、その暴力は加速していく。

絶望の背景を他者に見出すことができたなら、それをなぜ別の手段に訴えられなかったのか。歯がゆくて悔しくて、悲しく憎らしい。

と、この方は言うが、そもそも彼はそのような手段を行使するコミュニケーション能力、政治力を持っていなかったが故に、このような絶望的な環境しか獲得出来なかったのではないか?つまり、やはり彼にはもう「樹海」か「秋葉原」かの二択しか無かったのである。だからこそ、どんな大儀があろうとも、そういった暴力環境が形成されること自体が問題にされねばならないのではないか、ということを前の記事では書いた訳で。

しかし、そのような生きながらにして黒のトリアージ・タッグを貼り付けられてしまった人間の殆どは、前者の方を選択する、いや、してきた。そういう形でこの国の治安は守られてきた。そのことは、もし仮に今まで自殺していった多くの者達がそれをせず、己が生き残ることを第一義的に考えて行動していたら、或いは、その最後の力を復讐へと注ぎ込んでいたならば、一体この国の治安はどのようになっていたか、ということを考えてみればよく分かる筈だ。

そう、自らが道徳的恩恵の外部へと追いやられて尚、その規範を守る論理的な理由を失って尚、内部の規範を遵守しようとする個人の道徳感によって、その道徳感という刃によって不特定多数の“誰か”が自殺という形で間引かれることに頼って治安を守ってきたのがこの社会なのである。

だからこそ、こういった事件が起きる度、人々は口々に道徳を唱え始める。まるでそれに魔法効果でもあるかのように。いや、実際今までその道徳感という刃によって多くの者達が自殺に追い込まれてきた訳だから、それに魔法効果があると言えば言えるのかもしれない。むしろ呪いといった方が適切かもしれないが。

だが、前々回の記事でも書いたことをもう一度言うが、道徳的恩恵の外部へと切り捨てた人間に内部の規範を遵守してもらうことを期待すること自体がそもそも間違っているのである。というか、そういう一方的関係を形成すること自体が本来なら非道徳的なものとして捉えられなければならない筈なのだが。

 ***

それはともかく、こういった道徳の魔法効果にも当然限界がある。特に、近年ではもう早い段階で自分の未来がある程度想像出来てしまうような環境が整ってしまっているが故に、そして経済倫理学的発想を無批判に是とするような認識が世間に行き渡ってしまっているが故に、一方的関係を強いる者と強いられる者、切り捨てる者と切り捨てられる者、という構図が、より明確に、より早急に人々の意識の中に形成されることになる。これまでならば、いよいよもうどうにもならないという時になって初めて自分が切り捨て要員であったということに気づいていたのが、これからはもう、十代、二十代という早い段階で、「俺には既に黒のトリアージ・タッグが貼り付けられている」と気づいて(思わせて)しまう可能性があるのだ。そういう環境下に於いて、果たして今まで通り道徳の魔法効果を期待出来るだろうか。

特に就職氷河期には、破廉恥極まりないと言ってよい程あからさまにそういった切捨て行為が行われた。このことは、実際に切り捨てられた者だけでなく、全ての世代がそれを目撃し、その構図が嫌でも脳裏に焼きついている筈だ。そしてそれにより、それが意識化されるか否かは兎も角、「世の中には切り捨てる者と切り捨てられる者がいる、それは動かせない事実だ」という感覚が、多くの者達に刻み付けられたのではないか。

いや、それでもやはり多くの者達は「樹海」の方を選択するのだろうけど、ただ一つ言えるのは、「自分には黒のトリアージ・タッグが貼り付けられている」と感じざるを得ない人が増えれば増えるほど、こういった事件や自殺が起こる可能性もまた高まるということだ。つまり、それらを減少させようとするのならば、まずはそんな風に感じざるを得ない人間を減らすためにはどのような環境を作り上げなければならないのか、ということこそ本当に考えなければならないことなんじゃないかと。

まあ、物理資源は限られているので今の状況を改善するのは難しいという人もいるだろう。しかし、本当に黒のタッグが貼り付けられたと感じざるを得ない人間をこれ以上減らすことは出来ないのだろうか。本当にこれが限界なのだろうか。自分には分からない。ただ、何故かこの手の問題になると、普段はうっとうしいまでに自己主張してくる「諦めるな精神」は、突然どこかへと姿をくらましてしまうんだよな。なに都合の悪い時だけひきこもってんだよ。俺じゃあるまいし。いや、もし仮に物理資源はどうにもならないとしても、現在は「仕方が無いこと」として許容されている、生存の維持に不必要な悪意の投げつけや蔑み行為に関しては幾らでも改善出来る筈だろう。こちらは限られた資源云々などという話ではないのだから。だが、それをどうにかしようという大きな動きが形成される気配もまたない。よって、それらの悪意を受け取り続けることによって消耗し、自身の存在価値を信じられなくなり、他者と関ることにすら後ろめたさを感じるような感覚を獲得してしまうような人間もまた、増えることはあっても減ることはない。そしてそうなってしまった人間は、何らかの依存先を獲得したり、獲得した依存環境を維持し続けることが極めて困難となる。黒色タッグ人間の一丁上がり、という訳だ。まあこういった蔑み行為は、出来るだけ生存競争のライバルとなる他者を弱らしておこう、という人間の本能のようなものも関係しているのかもしれないが。

だが、個人というコップに苦痛という水を注ぎ続ければ、やがてその水が溢れ出すのは当然のことだ。そしてそのコップにひびでも入れば、中の苦痛が外へと流れ出すであろうことは一々説明するまでもない。しかし、実際はそうなったとしても、多くの人間がその苦痛を派手に外へとぶちまける前に、それを抱え持ったままこの世から消え去ってくれるが故に、人々はその当たり前の事実さえ忘れてしまう。散々コップに水を注いでおいて、それが溢れ出ると「うわっ、溢れた!」といって大騒ぎする。で、そうなったらなったで今度は、「このコップの精神がなっとらんから水が溢れ出るのだ!」などと言って憤る。もうなんじゃそりゃ、と。

いや正直なところ、例え理屈上は可能であっても、自分も実際にこういった状況を今よりも改善することが出来るなんて露ほども思っていない。だって人間って元々こういう生き物だから。

ただ、集団によって許容され行使される不特定多数の個人への環境暴力が避けえぬ摂理でもあるかのように主張するのなら、せめてそれに対する反撃として行われる個人からの不特定多数の集団への暴力もまた、摂理として甘んじて受け入れる覚悟くらいはすればいいんじゃないの?と思う訳で。

ところが、普段「現実主義」などとのたまい、前者の摂理性を強調するような人間が、それとセットで付いてくる筈の後者の摂理に対しては激しく拒否反応を示し、その上、その受け入れたくない現実を目の前にすると、「大人になりきれていない者がいるからこんなことになるのだ」とか、「個人の未成熟さがその原因だ」などと言い出す。そして本来技術的な問題である筈の事柄を、善悪の問題にすり替えて物事を主張し始める。一体、その様な振る舞いのどこら辺が「大人」でどこら辺「成熟」なのかと。そしてそれのどこが「現実主義」なのかと。

そんな風に思う訳ですわ。

 ***

道徳といじめ、自殺、治安の関係性や、経済倫理学の欺瞞性については、もう一度他の記事でも書くかもしれない。というか、それにつてい書こうと思いながら、中々上手く文章化することが出来なくて悶々としていたところにああいう事件が起こってしまったのだが。ただ、これまで「後で書く」と予告したことは何度かあったが、それを実際に成し遂げたという実績は今のところ無い。つまり書かないってことか。

個人の暴力は糾弾され、集団の暴力は称揚される

例の秋葉原無差別殺傷事件の関連記事について書いた
悪意はちゃんと個人に蓄積されていくの続き

一昨日はついカッとなって書きなぐってしまったが、そういうことをするとロクな記事にならないな。いや、まあ元々断末魔ブログだからそれでもいいんだけど。ただ、前の記事だけでは自分が一体当該記事(というか、実際はあの手の論調)の何に腹を立てているのかよく分からない部分もあるかもしれないので、補足として前の記事では書けなかった怒りの理由についても書いておこうかと。
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自分があの手の論調に腹を立てるその理由を一言でいえば、それが独立した個人による他者の暴力を糾弾していながら、自ら(我々)が集団で行ってきた(いる)暴力(集団を形成することで匿名化し、道徳によって肯定された暴力)を隠蔽しているからだ。

現代社会に於いて、人間は何らかの利益集団や利益システムに依存し、それによって集団の生み出す力を上手く吸収することが出来るようになって初めてその生存の持続が可能となる。つまり、完全なる孤立は即ち死を意味する。故に、誰かをその利益集団やシステムから排除することや、依存の継続や獲得が難しい状況を作り出すこと、その依存先を獲得するのが難しい状態に個人を追い詰めることは、それ自体が不特定多数の集団によってなされる個人に対する極めて悪質な暴力行為以外の何物でもないのである。

しかし、この暴力は集団によって間接的になされるものであるが故に匿名化され秘匿化される。尚且つ、依存先の獲得、或いは獲得した依存先でのポジション争いの得て不得手という技術的な問題が道徳的な優劣に置き換えられることによって、そして集団の利益という大儀が用いられることによって、それは正当化される。そういう過酷な依存先しか獲得出来なかったのはその個人が努力をしなかったからだ、能力の低い者を依存させると皆の利益を損なうから、そういった者は依存先を獲得出来なくても仕方が無いのだ、そういった厳しい競争によって社会はより強くなっていくのだ、といったように。

これは何らかの属性に向かって投げつけられる悪意にしても同じことだ。その属性が奇妙だから、キモいから、皆を不快にさせるから、そしてその属性を捨てようとしないから、悪意を投げつけられて当然なのだ、といったようにその暴力は肯定される。当然、その投げつけられた悪意が蓄積されれば蓄積されるほど、その個人は消耗し、最終的には自身の存在価値を信じることが出来なくなって、依存先の獲得や依存の継続が極めて困難な状態に陥っていく訳だが、誰かがそのような状態に追い込まれることもまた同じ様な理由で、「仕方が無いこと」として片付けられる。

だが、こういった「集団の利益」を大儀にし、制度やシステム、風土を通して匿名化、秘匿化された状態で行われる集団による暴力は、実際は単に「誰もやりたがらない過酷な役割を自分以外の誰かがやって欲しい、しかも出来るだけ低コストで。出来れば切捨て要員や、バッシング要員もそれなりに用意しておきたい。それが自分の利益に繋がるのだ」という単純化されたトレードオフ関係が個々人の頭の中に想定され、その意思が働いた結果許容されている暴力でしかなく、大儀なんて本当は全て方便でしかないのだ。

そしてその暴力が振るわれる対象は、特定の誰かである必要はない。誰かがそういった嫌な役割を引き受けてくれさえすれば、正にそれは「誰でもよい」のである。こういった、集団による不特定多数の個人を対象とした暴力が日常的に行われていることは、自分自身の行いを少しでも省みる気持があるなら、誰でも直ぐに気づく筈なのだ。だが、ネガティブさが全て淘汰されてしまうポジティブ社会に於いては、それすら適わない。よって、集団による暴力にブレーキが掛かることもない。で、自分達が(物理的・観念的な)群れを形成し、その群れによって個人に対する無差別攻撃を行ってきた(いる)ことを忘却しているが故に、個人がその群れへの反撃として行う無差別攻撃に対して意表を突かれたように感じ、より一層驚愕することになる。

自分はこんな境遇にいるはずではなかったという一種の被害者意識と、世間に認められたいという自意識が交錯しているように思われる。(中略)私たちはともすれば、何かことがあるたびに、社会が、政治が、教育が悪い--と、安易に、かつ漠然と結論づけてこなかったか。それが「自分は被害者」という甘えの構造、あるいは厳しい現実からの逃げ道をつくる要因になっているように思えるのだ。

「一種の被害者意識」というが、加藤容疑者はこの事件の加害者である前に、こういった集団による暴力の被害者であったことは事実だろう。だからといって彼の加害行為が許される訳ではないというのは確かにその通りだ。もし暴力がいけないことだと定義するのであれば、例えどんな理由があろうと、彼は他者に向かってああいった暴力を振るうべきではなかった。しかし、だとするのなら矢張りそれと同じ様に、例えどの様な理由があろうとも、何らかの個人が依存先を獲得し、それを維持することが困難になるような状況や状態に追い込まれるべきではない筈だ。何故なら、それ自体が既に不特定多数の集団によって為される個人に対する深刻な環境暴力以外の何物でもないのだから。そしてまた、例えどんな属性を持っていようとも、それによって悪意を投げつけられるべきではない筈なのだ。もし暴力がいけないことだとするのならば(だが実際は、そういった集団による個人への暴力は「仕方が無いこと」として片付けられる)。尚且つ、彼が事件の加害者であるからといって、それ以前に被害者であったという事実もまた忘れられてはならない筈だ。だが、ここではそれを隠蔽するような表現が用いられている。

そしてマスコミが何を言おうと、実際に集団による暴力は無くなるどころか、それが明らかに改善されたという現実さえ未だ成立したことはないのだから、この主張は観念論以外の何物でもない。もし集団による環境暴力が大幅に改善した事実があるのにも関らず、その暴力がより過酷だった時期よりもこの手の事件が大幅に増加しているというデータでもあるのならば、その主張にもまだ耳を貸す余地もあるかもしれないが、そうでもなければ、この主張は集団による暴力を肯定する為の援護射撃でしかないだろう。

そもそも、加藤容疑者の行った行為自体を肯定しているのはせいぜい2chのネタスレくらいのものじゃないのか。個人の行う暴力の否定については、もう既に完全に行き渡っているのだ。しかし、集団によってなされる個人への暴力については、否定されるどころか益々それが称揚される一方だ。そして、その集団の利益という大儀の下で行われる暴力というのは、結局のところ匿名化され、道徳によって肯定された、個人の利益のための暴力でしかないという事実は未だ全く世間に行き渡っていない。しかも、今回の事件では加藤容疑者が受けたその集団による暴力が全く事件と無関係であるとは先ず考えられない。

つまり、こういった集団による暴力の性質を明らかにすることこそが頭脳労働者が真っ先に取り組むべき事柄である筈で、それをせずに、もはや世間に完全に行き渡っている個人による暴力の否定をわざとらしく唱え、そして個人の内部に事件の根源的な原因が潜んでいるかのように装うのは、容疑者の外部としてその事件の原因の一端を担ってきた集団による暴力を隠蔽する為の欺瞞以外の何物でもないと自分は思った。だからこそ、自分はあの記事、というかあの手の論調に腹を立てたのだ。

 ***

ある現実がどのような因果によって成立したか、ということは実際のところ誰にも分からない。だが、誰かに悪意を投げつければ、暴力を振るえば、例えそれが集団によって支えられた制度やシステム、風土といったものを介して行われる間接的な暴力であっても、その暴力による苦痛はちゃんと個人に蓄積されていくことは間違いないし、そしてそれが個人に蓄積されればされる程、その(暴力による)吐き出し行為が行われる可能性が高まり、その吐き出し方もまた苛烈なものになるであろうことは予め分かっている。

ならば、その吐き出し行為の在り方を制御したいのならば、先ず個人へ振るわれた暴力による苦痛の蓄積自体を減らす方向へと持っていくのが筋じゃないのか?なのに、集団による個人への暴力を軽減せずに、個人の吐き出し行為の苛烈さだけを改善しようとするのはおよそ現実的なものの考え方とは言い難く、それはデパートのおもちゃ売り場で寝転がっておもちゃをねだっている子供の振る舞いとなんら変わりない。

6月10日付 編集手帳(読売新聞)

◆世の中が嫌になったのならば自分ひとりが世を去ればいいものを、「容疑者」という型通りの一語を添える気にもならない。

まあ、実際こうやって寝転がっている人もいるけど。自分達(容疑者の外部である我々)が「世の中の一人」として匿名化された状態で行ってきた暴力が事件の外的要因となっていることは絶対に明らかにしたくないし、これからもその暴力を止めるつもりはないぞ、という強い意志を感じるよ。

(追記) そもそも彼は、自身のことを「道具として使えなくなったら、後は誰にも迷惑を掛けずさっさと死ねよ」と誰もから思われているような存在だと認識したからこそああいう事件を起こしたわけで。自身が誰かから本当に大切に思われている存在だと認識していたら、彼もあんな事件を起こすことは無かったんじゃないか?つまりこのコメントは、自身に対してそういう認識しか持つことが出来ない人達に対して、「お前らも事件を起こせよ」という煽りに実質的にはなっているのだが、そういうことにすら気づかないんだろうな、こういうことを平気で言う人達って。で、自分が投げた石が他者に当たって跳ね返ってきたらまたワアワア騒ぐと。やれやれだぜ…。

 ***

映画評論家の水野晴郎さん死去(読売新聞)

いや~人間って、本当にクソッタレなものですね。
それじゃまた、美しい国でご一緒に苦しみましょう。

悪意はちゃんと個人に蓄積されていく

発信箱:甘えの構造=与良正男(論説室)(毎日jp)

 「希望がある奴(やつ)にはわかるまい」とか、「夢…ワイドショー独占」とか。

 東京・秋葉原で起きた通り魔事件の容疑者が携帯サイトに書き記した言葉を見ていくと、自分はこんな境遇にいるはずではなかったという一種の被害者意識と、世間に認められたいという自意識が交錯しているように思われる。

 世の中、今の自分に満足している人の方が少ないのだ。それは当然の思いである。しかし、それがどうして、「社会が悪い=誰でもよかった」という無差別殺人に結びついてしまうのか。

 責任の一端は私たちマスコミにもあるのかもしれない。私たちはともすれば、何かことがあるたびに、社会が、政治が、教育が悪い--と、安易に、かつ漠然と結論づけてこなかったか。それが「自分は被害者」という甘えの構造、あるいは厳しい現実からの逃げ道をつくる要因になっているように思えるのだ。

何らかの属性を蔑むことによって不特定多数に投げつけられた悪意は、
ちゃんとその属性を持った其々の個人が受け取り、そこに蓄積されていく。

その蓄積された悪意を抱え続ける余裕が無くなった者は、
その積もり積もった悪意を抱え持ったまま谷底へと身を投げるか、
若しくはそれを辺り一面に撒き散らすしかない。

「誰でもよかった」という気持が理解出来ないなんて、それはないだろう。
様々な属性に対する無差別攻撃は、あんたら良識人を始めとして
誰もが当たり前のようにやってきたことじゃないか。

あんたらは無差別攻撃を不可解だと言うが、
俺もあんたらのことなんて全く見も知りもしないが、あんたらが
俺の持つ属性に投げつけた悪意はちゃんと毎日受け取っているぜ?
そしてその悪意は苦痛に変換され、日々俺を蝕んでいる。
あんたらはその無差別攻撃に身に覚えがないとでもいうのか?

そもそも、誰かをある利益集団(システム)から排除すれば、或いは
その相互利益性が失われることになれば、その排除され道徳的恩恵の
外部へと追いやられた者は、排除した側の利益集団に於ける規範を守る
論理的な理由が無くなることで規範から解き放たれ、それによって復讐に
走ったり蜂起したり、自らの生き残りをかけて犯罪に手を染めることとなる。

だからこそ、誰かを簡単にその道徳的恩恵の外へと
切り捨てることや、一方的関係を結ぶことが躊躇われる。

にも拘らず、多くの者達を平気で道徳的恩恵の外部へと追いやってきた者達が、
一方的関係を結ぶことをよしとしてきた者達が、その外部へと追いやられた者に
まだ内部に於ける規範の遵守を期待するってどんだけ甘えてんだよ。

“誰か”を切り捨てることをよしとするなら、
“誰か”が一方的関係を強要されることを是認するのならば、
自らもその“誰か”から切り捨てられ、一方的関係を強要されることくらい
覚悟すべきだろう。そして実際に道徳的恩恵の外へ追いやられたと
感じる者が増えれば増えるほど、自らもその“誰か”から切り捨てられ、
一方的関係を強いられる可能性が高まることになるのは当然のことだ。
その「厳しい現実」から目を反らしているのは一体どちらの方なのか。
道徳を魔法か何かとでも勘違いしているのか?

いや確かに、今まで数え切れない程の人達が道徳的恩恵の外へと
追いやられて尚、その内部の規範を遵守する為に命を捨てていったよ。
そして今も、相互性のない一方的関係を甘んじて受け入れている
人達が山のようにいる。日本には道徳奴隷が沢山いますから。
で、その構造をこれからも維持したいって?

自らの暴力に無自覚になるのも大概にしろよ。

 ***

(6/14)記事を読んで分かるとおり、自分は当該記事、
というよりこの手の論調に対してかなり腹を立てている訳だが、
しかし、ここに書いたことだけでは何故それに対してそこまで
腹を立てているのかよく分からない部分もあるかもしれないので、
続きとしてここでは書けなかったその怒りの理由についての記事を書いた。



後で読み直して粗雑過ぎると感じた表現を一部変更した。

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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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