ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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むしろそれは、学校の中からやって来ているのかもよ?


18歳フリーター、中学校で男性教諭刺す…愛知・知立
(読売新聞)

 29日午後1時半ごろ、愛知県知立市の市立知立中学校で、同校教諭の神谷佳久さん(34)が、男に刃物で胸などを刺された。男はその場で取り押さえられた。

 県警によると、男は同市内のフリーター(18)。殺人未遂容疑で現行犯逮捕した。動機などを追及する。神谷さんは、胸や背中、左腕などを刺され、病院で手当てを受けている。けがの程度は不明。男は同校の卒業生とみられる。

今のところこの事件に関する概要は全く不明だが、恐らくこれを契機として、また「学校の外からの侵入者」に対する対策の強化が叫ばれることになるのだろうと思う。
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しかし、そうやって学校の外からの脅威に気を使い過ぎることは本当に良い結果に繋がると言えるだろうか。というのも、この手の事件の場合、学校という川で生まれた稚魚としての「恨み」が、より大きな社会という海へと旅立ち、それが成長してやがて成魚となり、その目的を果たすだけの力を蓄えた上で再び己が生まれた場所としての学校(川)に戻ってきているだけかもしれないからだ。

だとすれば、幾ら学校の外からの侵入者に対して強固な警備体制を取ったところで、それは事件を防止する根本的な対策には全くならないだろう。何故なら、幾らそうやって学校の中を要塞のようにして守ってみたところで、その大きく成長した「恨み」は学校の外でその本懐を遂げることになるだけだからだ。或いは学校という属性を持たない対象に対してその矛先が向けられるようになるだけかもしれない。実際、学校の外で起こっているこの手の暴力事件にしてみても、元はと言えば学校の中での経験がその発生に大きく関与しているというケースもかなり多いんじゃないのか。

つまり、学校の外からの脅威にばかり気を取られているが、むしろ学校の中で未来の脅威を、タイムラグを経てやってくるその暴力の源を生み出し続けていることの方が、そこでいじめや体罰(或いは見せしめなど生徒に大きな精神的ダメージを与える行為)、規範的抑圧などによって「恨み」という稚魚が沢山生み出され、それを外部へと放流しまくっているような状態を改善もせず放置していることの方が問題なんじゃないのかと。

だから自分としては、学校の外からの脅威にリソースを消費するよりも、むしろ学校の中こそが未来の暴力の温床になっているのではないかという疑いを持ち、成魚へと成長してからではもう手遅れとなる「恨み」という稚魚をなるべく社会に放流しないようにすることこそが、この手の暴力事件に対するより有効な対策になると言えるんじゃないのかと思うのだが、まあいつも世間の趨勢と逆を行く自分がこんなことを考えている時点で、世間がこういった考えに理解を示すことも先ずないんだろうな、とも思う。

ただどちらにせよ、学校の中で起こっている問題を解決しない限りは、これから学校の外で起こることになるであろう問題もまた解決しないということだけは確かだ。逆もまたしかりかもしれないが。
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何故、人は「辛い」ものに対して「甘い」と言うのかについて

【八王子通り魔事件】母は「うちは教育テレビを見ているから」と不登校かばう(産経ニュース)

 菅野容疑者は地元の小・中学校を卒業した。だれもが「おとなしい」「内向的」と口をそろえるが、別の素顔ものぞかせていた。知人は「休み時間に同級生にからかわれると怒って教室を飛び出し、次の日は登校しなかった」と明かす。
 こうした性格から友達はおらず、教室ではいつも1人だった。中学2年になると不登校に拍車がかかり、進学した高校は1日も行かずに退学。その後は職を転々とした。
 唯一の理解者は家族だった。母親は「昭くん、昭くん」と言ってかわいがっていたという。学校に行かないことを周囲から指摘されても「うちは教育テレビを見ているからいいの」とかばっていたと、近くの女性(64)は証言する。
 20歳を過ぎても母親と仲良くコンビニに買い物に行く姿も見られた。だが7年ほど前に「彼女ができた」として家を出て以降はほぼ音信不通。その後に彼女と別れ、1人暮らしをしていたというが住所は家族にすら話さなかった。
 父親は「犯行原因は思いつかず、頭が真っ白」と頭を抱えた。一方、知人からは「甘やかした結果じゃないか」という声も漏れた。

如何にも「甘やかされた」ことが事件の原因だと言わんばかりの記事だが、この記事の内容を見る限り、この人物の人生からは「普通」を上回る「辛さ」や「苦さ」を読み取ることは出来ても、「甘さ」なんてものは微塵も読み取ることが出来ない。

まあ産経とすれば、母親がこの人物をかわいがっていたことや不登校をかばったこと、職を転々としたことを「甘さ」とし、それこそが事件の原因であるかのようにもって行きたいのだろうが、ではこの人物をその時点で無理やり学校に登校させていたら、合わない職場に我慢して居座り続けさせたなら、家族ですら彼に全く理解を示すことがなければこの事件は起きなかったのかといえば、とてもそうは思えない。むしろ事件が起こる時期が早まることになっていただけのように思う。

もしこの記事で伝えられた彼の人生に「甘い」ものが読み取れると仮定して、じゃあその彼が持っていたような「甘さ」を、そういったものを誰かから譲って貰えるとしたなら、それを喜んで受け取る者なんているだろうか。学校に馴染めず、周りの者達からからかわれたあげく不登校になり、その不登校を家族が擁護してくれるという「甘さ」を、職を転々とする「甘さ」を、学校や職場では誰一人理解者を得ることが出来なかったが、両親という理解者を得られた(しかし最終的にはその理解者にすら裏切られた感じたようだが)という「甘さ」を、態々望んで味わいたい人間なんているだろうか。そんな人間は先ずいないだろう。

何らかの状態が「甘い」と表現される場合、それは誰もがそれを味わいたいものであるからこそ、誰もがその状態を手に入れたいと思うような魅力を持っているからこそ、それは「甘い」と表現される。或いは、どんな不利な状況にあってもその成り行きを自身にとって都合良く解釈することが出来る感覚を持っているからこそ、それは「甘い」と表現される。誰もが忌み嫌うようなそんな条件や状態は「甘い」などとは言わない。どう考えても悲観的になっている様なそんな状態を指して「甘い」などとは言えない。むしろそれらは「辛い」とか「苦い」と表現されるべきであろう、本来ならば。だが実際には、そうやって「辛い」ものや「苦い」ものが「甘い」と評されることは決して珍しいことではない。まるで「裸の王様」のエピソードのように、誰がどう見ても渋柿であるものに対して、大勢の者達が恰もそれを熟れた甘い柿でもあるかの様に一様に振舞って見せる様なことが現実には多々ある。
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例えば、冒頭の記事で伝えられた様な事件を起こす人物は、「普通」よりもずっと辛い人生を送ってきたケースの方が圧倒的に多い。勿論、だからといって「辛酸を舐めたことが事件の原因だ」などと言うことは出来ないだろう。いや、それが事件と全く関係ないとは言えないし、個々のケースに於いてはそれが大きな要因となっている場合も多いかもしれないが、全体的に見れば、「普通よりも多くの辛酸を舐めた者達」の殆どはこういった事件を起こさないし、限界にまで追い詰められても、その多くが蜂起や復讐よりも自殺という道を選ぶ(といって本当は当人の意思でそれを選択している訳ではないのだが…)。そういったことからして、幾らこういった事件を起こした者達が「普通」よりも多くの辛酸を舐めてきたケースが多いからといって、その要因が少なくとも“単独で”この手の事件一般に於ける根本的な原因となっているなどと判定を下すことは出来ない。とはいえ、もし仮に「甘さ」や「辛さ」という視点からこういった事件の要因を探ろうとするならば、「甘さ」よりも「辛さ」の方がよりそれに深く関与していると考えた方が遥かに妥当だろう。

ところが、こういった事件が引き起こされた原因として「犯行を行った者を甘やかしたこと」を挙げる人間は大勢いても、「その者が辛酸を舐めさせられたこと」を原因として挙げる人間は殆どいない。事件の予防として「もっと辛酸を舐めさせろ!」と提案する者達は幾らでもいるが、「もっと甘さを!」と訴える者は先ずいない。どう見てもそういった事件を起こした者達が「普通」よりも多くの辛酸を舐めて来たことが明らかであってもだ。

こういった反応は、社会的に不利な状況に追い込まれている者達に対してもまた同じ様にそれが向けられることが多い。そして明らかに「普通」よりも「辛い」状態にあるその者達を指して「甘い」と表現し、その状況を抜け出す方法として更なる辛酸を舐めさせることが提案される。

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では何故人々はそういったあべこべの表現を敢えて用いるのか。何故「辛い」や「苦い」を「甘い」と言い換えるのか。以下、その理由を幾つか考えてみた。

・物語を演出する道具として「甘さ」が有益であるため

見ている者にカタルシスを齎すことを目的として作成される『水戸黄門』の様な勧善懲悪的物語では、その物語に登場する悪役の悪辣さが際立っていれば際立っているほど最終的に齎されるカタルシスが大きくなるという傾向がある。だから、如何に上手くその悪役の悪辣さを演出することが出来るかということが、その物語を成功させるための重要な一つのポイントとなる。

だが、カタルシスを得る為に消費されるのはそういった純粋な捏造物語だけではない。むしろ現実の断片を素材とし、それを貼り絵のように貼り付けていくことで形成された、虚実の入り混じった捏造物語の方が好んで消費されるというのが昨今の流れ。そしてそうやって作成される勧善懲悪的物語に於いては、「甘さ」というものが悪役の悪辣さを際立たせるための道具として非常に有益であるため、対象に対してその「甘さ」を強調するような装飾がふんだんに施されることとなり、それがあべこべ表現に一役買っている。

・精神論的信仰を否定されたくないから


日本人の多くは精神論を信じているが、「精神の力を上手く工夫して用いれば、その力を最大限に発揮することができれば、誰もが最低限の社会的地位と幸せを獲得することが出来る。そういった環境がこの国には成立している」という精神論的教義からすれば、社会的に失敗した者達は常に精神の力をちゃんと引き出すことを怠った存在でなければならない。精神論的立場からすれば、そういった者達が精神の力を限界近くまで発揮していたなどということを決して認めるわけにはいかない(「悲劇」として例外的にそれが認められることもあるが、それはあくまで例外でなければならない)。何故なら、それを認めてしまうことはその宗教自体を否定することにもなってしまうからだ。そしてその宗教が失われてしまえば、その教義によって希望を抱いてきた者達からその希望が奪われてしまうことにもなる。だから精神論を信奉する者達は皆その拠り所となる宗教(法則)が、希望が奪われないように、必死になって、その社会的失敗者達が精神の持つ真の力を引き出さずに諦めてしまったという「甘さ」を、まだまだ余力を残した状態であったという「甘さ」を指摘する。

・精神論的な位の高さを競い合うから

精神論に於いては、如何に多く精神の力を引き出してそれを消費したか、如何に大きな負荷を受けながらもその力によってそれに耐え続けているか、ということでその宗教上での上下関係が決定されるようなところがある。日本に於いてやたらと苦労自慢をしたがる人が大勢見受けられるのはそのためだ。それ故、他者の苦労を見ると「いや、あの程度の苦労なんてまだまだ甘い」と言いたくなる※1

・他人の苦労や辛さが自分の利益になるであろうと本能的に感じるため


全ての者が不満なく幸せに暮らすことが出来るユートピアは存在しない。例えどれ程環境に恵まれ、どれほど上手くその社会を運営したとしても、やはり誰もが引き受けたくない役割を誰かが引き受けなければならないことには変わりがないし、誰かが人よりも損な役回りを押し付けられことになるのも変わらない。そういった大前提があるなかで、人は、他者がより苦労しより辛酸を舐めてくれることが、そうやって損な役割を誰かが引き受けてくれることが自身にとっての利益になる、ということを本能的に感じる。それと同時に、他者がそれをちゃんと引き受けてくれない為に、損な役割が自分に回ってくるのではないかと不安にもなる。だから、何かきっかけがある度に、他者がより苦労し、より辛酸を舐めるようにと社会的ベクトルを向けようとする。そしてそれを社会的に認めさせるための手段として「甘い」という表現が用いられる。あの者たちは、まだまだ其々に与えられた義務としての辛酸を舐めきっていない「甘い」状態である、といった具合に。

・「精神的サイヤ人説」と「共同体幻想」が合わさることによる化学反応

精神的な負荷を掛ければ掛ける程、その者はより強くより有能になるという精神的サイヤ人説。そして、そうやって同じ共同体に所属する他者がより強くより有能になることがその共同体をより発展させることとなり、それによってその共同体に所属する自身もまた利益を得ることが出来るという共同体幻想。この二つの思想が合わさることによって、やがて苦労して辛酸を舐めることそれ自体が目的化されていく。さらには、それが足りない者はその共同体にとっての害悪になるとまで認識されるようになり、他者の苦労不足、辛酸不足によって自身が何か不利益を被っているのではないかという思いが人々に芽生え始め、その不安から他者に対して共同体の一員としてまだまだそれが足りない状態であると指摘し続けないと気が済まなくなる。そしてその時の「不足」を言い表すものとして「甘さ」という表現が用いられる。

・僻み根性

「俺だって息苦しい思いをしながらも我慢して社会的な規範に縛られ続けているのに、自分だけその規範から解き放たれた行動を取るのはずるい」という僻みが、結果としてある規範から解き放たれることとなった者達の状態を「甘い」ものであると感じさせる。或いは、全体としては自身の方が恵まれていたとしても、ほんの一部であっても他者の方が恵まれているかのように思える要素があれば、それを許すことが出来ず、その一要素を以ってして他者に「甘い」という判定を下してしまう。

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幾つかの項目に於いてはその内容が幾らか被っている様に思う部分もあるが、厳密に言えばやはりそれらは別々のものである様にも思うので、敢えてそれらを分けて書いてみたが、それはともかくとして、恐らくこういった其々の要素が絡み合うことによって、本来ならば「辛い」や「苦い」と表現されるべきものに対して多くの者達が「甘い」と主張するような傾向が作り出されているのではないかと思うのだが、どうだろうか。

ただ疑問なのは、そうやって何らかの事件や失敗が起こった主要な原因として「甘さ」を挙げ、それを防止することを大儀として不特定多数の「誰か」に辛酸を舐めさせることを推し進めて行けば推し進めて行くほど、同じ様に不特定多数の「誰か」からそのしっぺ返しが帰ってくる可能性が高まることになるのだが、そういった主張をしている者達は、ちゃんとその条件も加味した上でその説を唱えているのだろうか。もしそのしっぺ返しの可能性を計算に入れずにそれを主張しているのだとしたなら、その覚悟も無しにそれを唱えているのだとすれば、それこそその考えは「大甘」以外の何物でもないということになってしまうのだが。



※1 ただ、これもまた精神論の一面ではあるが、こういった考え方を持っている者の全てが「精神の力を上手く発揮すれば最低限の社会的地位や幸せが獲得出来る」という教義を信じている訳ではない。例えば、より重度のヒキ状態にある者が、自身よりも軽度のヒキ状態にあるものを見下すような態度を取ることによって起こる「偽ヒキ論争」といったものがある(あった)。あれもまた苦労自慢の一種であり、精神論的な位を決める戦いの一形態ではあるが、ひきこもりの殆どは基本的に前述したような教義を信じていないだろう。それは一般的成功を収めることが出来なかった者達が、自己を否定し続けてきた者達が、せめてその限定された宗教内で高い位置を獲得しようとする、せめてそういったことで自身に誇りを持とうとするバカバカしくも悲しき戦いなのである。

「現実」が正しくありますように…という呪い

<タワーレコードフリー・マガジン『intoxicate』 vol.74>より~

その夢が恐るべき敵に降りかかりますように
INTERVIEW&TEXT:前島秀国 ――スティーヴ・ライヒ――

 《ダニエル・ヴァリエーションズ》の場合は、私が作曲の題材を選んだのではなく、題材の方が私を選んだというべきだ。(2002年にパキスタンで斬首処刑された)ダニエル・パールの父親が面会を申し込んできて、彼を追悼するための曲を委嘱してきたんだ。すでに新作の委嘱を受けていたから、パールが殺される直前に遺した言葉「私の名前はダニエル・パール」を第2楽章のテキストにして、曲を付けることにした。(中略)
 ダニエルという名前は旧約聖書のダニエル書に由来するが、実は作曲に着手するまでダニエル書を読んだことがなくてね。ダニエル書に出てくるネブカドネザル王の言葉「私は夢を見た。恐ろしい光景が夢の中に現れ、頭に浮かんだ映像に悩まされた」には、本当に驚いた。ワールドトレードセンターのことが、即座に頭に浮かんできたからだ。でも、話は9・11に限らない。バーミヤンの仏像破壊、バリ島やベスランやロンドンやマドリッドのテロ……。第1楽章のテキストになったネブカドネザル王の言葉は日々、現実のものとなっているんだ。
 第3楽章のテキストには、王に対するダニエルの返答「その夢が恐るべき敵に降りかかりますように」を用いた。これは例えば、ナチスの“千年王国”で世界制覇を夢見たヒトラーが最終的に拳銃自殺したこと、あるいはナポレオンがエルバ島で死んだことなどを考えてみるとわかりやすい。こんな例を出すのは申し訳ないが、太平洋戦争終戦時に中国と太平洋の支配を夢見ていた日本軍将校が自決したのも、そうだね。ダニエルの言葉は、非常に古くからある言い伝えなんだ。歴史を見れば明らかなように、他者を支配し、殺戮した者は、やがてその行いが自分に降りかかってくる。おかげで、我々はみんなファシストにならずに済んでいるというわけだ(談)。

このインタビューを読む限り、どうもこの曲は追悼曲というよりは呪いの曲と言った方が適切であるような気がするな…。

それに、彼は「おかげで、我々はみんなファシストにならずに済んでいる」と言っているが、その発言に対しても違和感を覚える。むしろ、人間を「正しい我々と誤った彼ら」の二種類に分類することが可能であるかのようなそういった考え方こそが、ファッショの源となっているんじゃないのか。そして「我々みんな」がそれを克服出来ないが故に、束となることでしか生き残ることが出来ない状況が成立しているが故に、そういった性質を拭い去れないが故に、人間にとって避けえぬ資源と環境の奪い合いや、その争いに敗れた者達の復讐という暴力合戦もまた、より大規模なものとなって表れることになる。

9・11のテロにしても、その裏にはアメリカの支配と殺戮に対する抵抗や復讐という動機があり、ある特定の人達からすれば、それはまさに「その夢が恐るべき敵に降りかかりますように」という願いが具現化した瞬間でもあったわけだし。アメリカ人だってそのことを全く知らないわけでもあるまいに。
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予め予言された「恐ろしい夢」。全ての人々が幸せを獲得し、それを維持し続けることは許されない。その予言された「恐ろしい夢」は誰かが必ず引き受けなければならない。人間にとって「現実」とは、常にそういった大きな恐怖と苦痛を突きつけてくる残酷さを備え持った存在だ。

そして人間は、その残酷さが自らや自らの拠り所となる依存対象(特定の思想や信念、宗教、共同体、システム、人物等)に向けられた時、その「現実」を誤ったものだと認識し、それが是正されるように望む。だが同じ「現実」ではあっても、その「現実」が変化することによって、今以上の残酷さが自らやその依存対象に向けられることになるのではないか、という懸念を誰かが覚えた時、その者はその「現実」を(ある程度)正しいものだと認識し、その是正を阻止しようとする。それは例えるならば、お互いがお互い「誤った現実」を押し付け合う爆弾ゲームのようなもの。

実際のところ、「現実」はただ人間にとって残酷なだけで正しくもなければ誤ってもいないのだが、そうやって人間社会に多くの「正しい現実」や「誤った現実」というものが作られていく。そこに政治の原点がある。従って正誤という観点から「現実」を観察しようとした時、その者が見ているのは既に「現実」そのものではなく、人間同士が「現実」から義務付けられた残酷さをお互いに押し付け合っている様を見ているということになる。

そんな風に考えると、「現実」が正しくありますように…、と願うことは、一種の呪いなのではないかと思えてきた。一見清らかにも思えるその祈りの根底には、どうせ「恐ろしい夢」が具体的なものとなって人間達に降りかかることが避けられないのであれば、その夢が自身にとって邪魔となる者達にこそ降りかかってくれればいいのに…、というどす黒い思いもまた、同じくしてそこに流れているのではないかと。

勿論、その「現実」の生み出した残酷さは、そんな人間達の思惑や政治活動をすり抜けて、突如として目の前にやって来て、その義務を果たすように要求してきたりするものであったりするのだが。

Reich at NEC - Daniel Variations


しかしだとすると、追悼曲であるこの曲に冒頭のインタビューで述べられていたような意味が込められていたとしても何ら不自然ではない。そもそも、その祈りは祈りであると同時に呪いであり、呪いであると同時に祈りでもあるのだから(というか、宗教曲は元々こんなものなのかもしれないし、単にダニエル繋がりでそのテキストを用いた結果そうなっただけなのかもしれないが)。それに、よくよく考えてみると、誰かに不幸が訪れることが誰かの鎮魂になるであろうと人々が思うのはごく一般的なこと。「誰々の死を無駄にしない為にも奴らに不幸を!」なんてのは、作られた物語だけでなく、実際の人間社会でもよくあることだし。

そういや、自分も呪いと鎮魂の二つの意味を同時に込めたを作ったことがあったっけ。ただ自分がその曲に込めた呪いは、特定の誰かではなく、誰もが備え持つ「人間の資質」そのものに対するものだった、という違いはあるが。

むしろ「普通」という名の集団の方が怖い

遅刻83人にゲンコツ、宇和島の中学教諭…行き過ぎと謝罪(読売新聞)

 愛媛県宇和島市の市立中学校の男性教諭(41)が、学年集会に遅刻した2年生の男女83人全員の頭をゲンコツで殴っていたことがわかった。うち生徒7人の頭にコブができ、男性教諭は「行き過ぎた指導だった」と、保護者らに謝罪したという。

 学校側によると、男性教諭は今月3日、2年生の生活態度について指導するための学年集会で、生徒が集合時間に7分遅れたことに腹を立て、全員を正座させたうえ、一人ずつ順番に殴ったという。ほかの教諭6人が制止しようとしたが、止められなかったという。


男性教諭が83人にげんこつ(サンスポ)

 同校では集会の場合、開始時間3分前に予鈴が流れ、それから生徒が並んで会場に向かうシステムで、生徒はこの方法でクラスごとに担任に引率され会場に入っていた。

 学校側は「生徒がふざけていて遅れたわけではなく、このシステムに問題があった」として、生徒と保護者に謝罪した。大半の生徒は「何で殴られたのかわからない」と怒っていたという。

ほかの6人の教諭の制止を振り切ってそのまま83人も殴り続けたってなんか凄いな。どんな状況なんだそれは。チンピラが暴れまわっている図しか思い浮かばないんだけど。「一端殴り始めた以上、全ての遅刻者を殴り続けないと平等精神に反する」とかいう妙な使命感にでも突き動かされていたのだろうか。そうでもなけりゃ、なかなか出来ないだろうこれは。

若しくは、ロリコン趣味の人間がハァハァ目的で教員になるのと同じ様な理由で、この教諭もその職に就いていたとか。「これで正義の名の下に思う存分暴力を振るうこと(ハァハァすること)が出来るぜ!」みたいな。

そもそもサンスポ(或いはスポーツ報知)の記事を見る限り、生徒は担任の指導と学校のシステムに従っていただけであり、必ずしも遅刻したとはいえない状況であったわけで、今回のケースは「正しい暴力」という建前すら成立していなかったみたいだし。にも拘らずこういった暴力を振るったのだとしたら、それは一体何を目的とした暴力だったんだ?ということになるわけで。
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ただまあこの話自体は、こういった暴力行為が問題視され、ちゃんとそれが改善されるような動きが取られるのであれば、もうそれ以上取り立てて騒ぎ立てる程のことでもないようにも思うし、一々こういった個別のケースを全国的に知れ渡らす必要はあるのか?という疑問もある※1

それよりもこのニュースで怖いなと思ったのは、ネット上を幾つか見て回ったところ、このニュースを見た人達の多くが「先生GJ!」「この程度の体罰を問題視するからクソガキが増えるんだよ」「またモンスターペアレントが…」「むしろ保護者が(暴力を振るった)先生に謝れ」みたいな反応を示し、体罰応援団と化していたことだ。

体罰に関しては、何らかの大儀を掲げさえすれば暴力を振るってもよいという風潮を助長することになるのではないか、ルールを逸脱した手段で他者にルールを守ることの大切さを説く事に無理はないのか、恐怖によって人間の動きを制御することには何かよからぬ副作用があるのではないか、大儀を下支えする「真に正しき世界」など存在するのか、それは単に個々人の利害の一致や対立から生じた方便でしかないのではないか、そもそもその暴力は、本当に掲げた大儀の成就に寄与しているのか、といった幾つもの重大な問題点がある。しかし今回のケースはその大儀すら成立せず、そういった体罰の本質的な論点にすら至らないただの癇癪による暴力行為であった。問題は、それにも拘らず多くの「普通の人達」がその暴力行為を支持し、逆にその暴力を受けた生徒やその行為に意義を唱えた保護者達を激しく非難していたことだ。

そういった非難の記事やコメントを目にしたこの生徒や保護者達は、きっと大きなストレスを抱いただろうし、人によっては精神的にも大きなダメージを受けることになったかもしれない。つまり、その非難は単に免罪的なものであるというだけでなく、この事件の被害者達に対する追い討ち的な加害行為に他ならない。

恐らくこの手の反応を示した人達は、読売新聞、毎日jp、若しくは47NEWS(共同通信)の記事を読んでその様な感想を持ったのであろう。何故ならこの三社の記事には、生徒達が担任の指導に従っていたのにも拘らずこの様な暴力を振るわれたという事実の記述がすっぽり抜け落ちているからだ。この三社がそのことを記述しなかったのは何らかの意図があってのことなのか、それともただの無思慮によるものなのかは分からないが、そこに一つの大きな問題点があったことは確かだ。だがもっと問題なのは、「普通の人達」の暴力に対するハードルの低さだ。

何しろ多くの「普通の人達」が、その詳しい事情すらよく知らないのに、体罰という肩書きを連想させるような語り口を目にしただけで、こうも簡単に見も知らぬ他者に振るわれた暴力行為を喝采し、自らもその大儀すら存在しない暴力の輪に加わって被害者達に更なる暴力を振るってしまったりするのだから。体罰という肩書きのない他の多くの暴力事件では、被害者の立場を代弁する「普通の人達」で溢れかえるというのに。ただやはりその場合も、加害者(容疑者、若しくはその概念を大きく敷衍することによって捉えられた者達)がもっと激しく暴力を振るわれることを後押しするためであったり、被害者の立場を代弁することで己の暴力を正当化するためであったりして、暴力を肯定するベクトルへと物事を運ぶ一環としてそういう主張が行われるということには変わりないのだが。

いずれにせよ、それだけ「普通の人達」が暴力を肯定するための、そして自らもその暴力の輪に加わるためのハードルは低くく設定されているということだ。しかもその暴力を振るった「普通の人達」は、それが「普通の行為」であるが故に、自らが加害行為を行ったという自覚を抱くことすらない。これが「普通の行為」と認識、認定されなければ、その暴力は際立ち、多くの者達からそのことを指摘され、自らも己のその暴力行為を自覚せざるを得ない状況へと追い込まれることになるのだが、それが普通という感覚や称号を獲得しているが故にその認識は薄まり、かき消される。

例えばこの教諭が行った大儀なき暴力に関しても、昔ならそれほど大きな問題にはならなかったかもしれない。何故なら、昔はそういったタイプの暴力が振るわれることが普通だったからだ。だから一々そういったことが問題視されることもなかったし、メディアに大々的に取り上げられることも余り無かった(メディアがこういった問題を積極的に取り上げ始めたのは、事件事故、社会問題を娯楽化して伝えることがより一般化し、それが普通になったということも大きいが)。つまり、普通という感覚がそういった暴力を下支えしていたのだ。

しかしそれが問題とされるようになった現在でも、やはりそういった暴力が普通であるという感覚は多くの人々に根強く生き残り、その普通という感覚がその暴力を非とする現在の風潮こそが異常なのだとして、再びその暴力が普通とされるような社会にゆり戻そうと狙っている。ネット上で、この大儀すら存在しない暴力に送られた多くの喝采は、再びその「普通の感覚」に沿った社会へとゆり戻そうとする動きが具体的な一つの形として表れたものだったのだろう。

<大きな暴力は「普通」の力添えがあってこそ可能になる>


この教諭は、この事件が起こったその時その場所では、誰もその暴力を止めることが出来ない程の力を持った暴君であった。だがそれは、その個人が一時的にその集団内での常識や雰囲気を上手く利用出来ていたからに過ぎない。それが外部からの風が流れ込むことによって、その常識や雰囲気に変化を齎し、彼がそういったものからそっぽを向かれ、普通という肩書きを失った時、つまり独立した個人として集団の生み出す力と向き合わなければならなくなった時、一時は暴君ですらあった彼もまた、やはり個人としては弱者であったということが明らかにされる。彼の暴力は、彼一人の力だけで成し得たわけではない。「普通」や「常識」という、集団が生み出した力が彼を支えていたからこそそれが可能だったのだ。

これは例の時津風部屋のリンチ事件にしてもそうだろうし、歴史上に残るような大きな虐殺事件に関しても同じことだろう。それらは決して特異な個人達の力だけで為されたわけではない。それは、その時その場所、その集団内に於いて、その行為が普通であるという感覚が一般的になった結果、そしてその普通に違う意見や行為を為すことによって「普通の人達」から排除され、裁きを受けさせられることになるのではないか、という恐怖に支配された結果として性格づけられた集団の空気(力)がそれを下支えしていたからこそ、それは現実のものとなったのだ。

集団のウネリから独立した個人が、一人で為すことの出来る暴力には限界がある。だが、「普通」や「常識」による力添えを得て為される暴力は、何万人、何十万人という人間を死に至らしめることも出来れば、何百万人という人間を奴隷として飼いならすことだって出来る。ならばより注意を払うべきは、「普通」でないが故に際立っている暴力よりも、「普通」であるが故に際立つことのない暴力、そしてより大きな暴力を下支えすることになる「普通」という感覚の方なんじゃないのか、と思う。

それに、集団のウネリから独立した個人による「普通でない」暴力にしたって、それはその者がある集団から「普通でない者」として排斥された結果として行われたものであったり、何らかの「普通でない」属性に対して多くの「普通の者達」から投げつけられた悪意を誰かが受け取り、その悪意を循環させた結果としての暴力だったりするわけだし。何しろ、悪意の投げつけ行為はそれこそ何千万という人間が集まって集団でそれを為すことが出来るが、その投げつけられた悪意は結局一個人としてしか受け取ることが出来ないわけで、その何千万という人間から受け取り続けた悪意を、その個人が一度に吐き出そうとすれば、どうしても際立ったものにならざるを得ないわけで。どちらにせよ、その暴力の裏にも「普通」が深く関っていることには違いないと。

こういったことは、殺人鬼のような特殊な感覚を生まれ持った者が為す暴力行為に関しても似たようなことが言える。というのも、そういった人間が特殊な感覚を生まれ持つことになるのは、人類が生き残っていくために身に付けた多様性こそがその根本の原因であり、決してその感覚を生まれ持ったその個人の責任ではない。つまり、人類が存続し、普通の人達が普通に生活を送り続けたいという欲望を実現するためには、そういった存在もまた同時に存在しなければならない。そして、誰かがそういった特殊な感覚を植えつけられて生まれてくるという役割を果たし、誰かがその暴力の犠牲にならなければ、普通の人間の普通の人生もまた存在し得ない。普通の人間が送る平穏な人生は、そういった犠牲の上に成り立っているのである。

勿論、だからといってそういった者のそういった行為を仕方がないこととして許容することは出来ないだろうが、いい加減人類の歴史も長いんだし、知識を積み重ねる手段も持っているのだから、其々の時代に於ける普通の人達は、「普通」という称号を獲得した者の最低限の教養として、それくらいの事実認識は持っていてもいいんじゃないかと。

<自爆テロも応援してね!>

あと、少し話は逸れるが、「殴る方も痛いんだからいいんじゃない?」といった理由で冒頭の記事で伝えられた暴力を擁護していた人が結構いたが、そういう人は(己の主張の論理的一貫性を保つために)自爆テロの様な暴力もちゃんと擁護して欲しいな。自爆テロは、まさに自身の命を捨てるという己の痛みと引き換えに他者に痛みを与えるものだから。その行為が「真に正しき世界」の形成やそれを阻害する者達への鉄槌といった大儀に基づいて行われることが多いという点や、恐怖によって人々を制御しようとするものである、という点でも共通しているしね。



※1 とはいえ、一般的には学校外でこういった暴力を振るえば間違いなく逮捕されることになるわけで、そのバランスをどう取るのかという問題は残るが。今でもそうなのかは知らないが、一時期、学校の外からの侵入者に対して異状に神経質になっていたことがあったが、集団内でのポジション争いが不得手な人間にとっては、いじめと体罰で溢れかえり、逃げることも許されず、それ故それらのことだけで気力を使い果たし、未来への準備をすることも出来ず、ただ粛々とダメージを刻み付けられるだけの時間を甘んじて受け入れなければならない学校の中が一番危険という…。

ちょっと素敵

理不尽な要求・逆恨みの暴力…「キレる市民」が自治体職員へ(読売新聞)

 各地の自治体で近年、一部住民からの理不尽な要求や逆恨みによる暴力行為が相次いでいることが、読売新聞の調査で分かった。

この前「みのもんたの朝ズバッ!」でこの記事が取り上げられていたのだが、例によってみのもんた氏が「どうですか!コレ」と、いつもの様に怒り屋担当のコメンテーター達に怒りだしの合図を送ったら、その時のコメンテーターだった池上彰氏が、「読売新聞は今こういったモラルに関するキャンペーンを張っているんですよ」と言ってそれをサラリと受け流していたのがちょっと素敵だった。
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そういや同じ日に違う話題で、また同じ様にみの氏が「どうですか、こんな大事な時期にこんな下らない話題ばかり!」と話を振ると、それを受けた池上氏が、「まあそんな話題ばかりを選んで紹介しているってのもありますけどね…」と言ってサラッと突っ込み返しをしていたのも見事だった。

NHKから独立してメディアで活躍している人にはロクなのがいないという印象があるけど、この人はもしかしたらその常識を覆す存在になるかも。前にも違う番組で、「治安がどんどん悪くなってきているかのように思うのはメディアによって作り出された印象によるものであり、実際はそうでもない」といった類のことを話し、不安を煽り過ぎることに対する警鐘を鳴らすようなこともしていたし、やたらと感情を煽り立てるような方向へ話を持って行ったりもしない様な感じだし。

とはいえ、メディアで活躍しそこで生活の糧を得続けるためには、やはりそれなりの処世術※1が必要になってくるわけで、その処世術を上手く身につけすぎて、結局は先人達が築いた道の後追いをするだけの結果に終わってしまうという可能性もあるけど。



※1 例えば、メディアでの活躍を生活の糧としている人達の多くは、多数派となるであろう潜在的期待に沿った形での情報の送り出し方をしたり、都合の悪い現実をモラルや精神の問題に収斂することで、情報の受け手に有りもしない希望(処方箋)や勧善懲悪的カタルシスを齎し、それによって人々に支持されることで仕事を獲得するといった流れが一般的になっている。個人がメディアを利用して生活の糧を得ようとすれば、単に知識の質や量、人当たりの良さという条件を持っているだけでは難しく、こういった技術を駆使しなければそれを持続するのは中々難しい。そしてメディアでの成功者は、大抵その技術を自然に身につけ、無意識に行っている。しかしそれ故、世間の趨勢と自身の感覚に大きなズレが生じるようになると、それに従ってその者のメディアでの活躍の場もまた狭まっていくことになる。

錯誤に対する「ふてぶてしさ」の必要性

「誰でも入れる」保険の真実(上)(asashi.com)

「絶対に、誤解される!」と思われるテレビCMがあります。60代の男優が出てきて「人生、まだまだ」とアピールする外資系保険会社のものです。医師の診断はいらず、80歳でも入れるとうたい、支払いは最も安いプランで約3000円。しかも、掛け捨てではないというのですから、私も「赤字覚悟か?」と驚いたくらいです。

 しかし、何度かCMを見るうちに、「こんな広告ってありなのか?」と思わずにいられなくなってきました。この保険のカラクリがわかったのです。

 そもそも、この商品は「生命保険」ではありませんし、もちろん「医療保険」でもありません。ポイントは「病気での入院」に対して保険金が支払われるとは、一言も言っていないことです。 (中略)
 つまり、これは「損害保険」商品なのです。

「なんか胡散臭いなコレ。きっと巧妙なカラクリがあって、結局何かあっても殆ど保険金は下りない仕組みになっているんだろうな」と思っていたあのCM。

ところがどっこい、巧妙なカラクリどころか、それ以前にただの損害保険だったようです。そりゃ80歳でも入れるだろう、生命保険じゃないんだから。医師の診断なんか必要なくて当たり前だろう、医療保険じゃないんだから。そんなことは本来ならいちいち言うまでもないことだ。

しかし、本来言うまでもない当たり前過ぎることを敢えて大々的に述べてみせることで、人々はその拠り所となる経験や知識から勝手に錯誤を起こす。嘘は言っていないので、契約を結んだ者が後からその錯誤に気づき、法的に争ったところで勝ち目は薄いだろう。嘘を付くというのは他者を自身の思い通りに動かすのに有効な一つの手段ではあるが、それには当然リスクも伴うことになる。しかし、そんなリスクを背負わなくても人は騙せる。その思いや動きを制御することが出来る。このCMのように。
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ただ幾ら嘘を言ってはいないとはいえ、流石にこの騙しっぷりはちょっと派手過ぎるように思うし、この欺きがより広く一般の知るところとなった時、多くの者達はその欺きから自身の不利益性を想起するであろうから、これは後々大きな問題に発展しそうな気もするが、それはともかく、社会という集団の中で如何に有利なポジションを獲得し、如何にその力を上手く利用するか、という形で行われる人間同士の生存競争の成り行きには、こういった錯誤という要素がその大きな鍵を握っているということは間違いないだろう。

同じ人間という基盤を持っていても、其々の個人の基盤となる感覚、その上に積み重ねられる経験や知識、そこから生み出される欲求や興味の方向性、思考的傾向、その者の精神的な拠り所となるものなど、その内容は個々人でかなり大きな違いがある。そしてその他者の感覚や内容そのものを直接外部へと取り出して調べることは出来ない。だから便宜上それを「知った」と言うことはあっても、そこで触れたのはあくまでその他者に表れた表面的な情報を元にして自身が内側に描き出したものであり、むしろその時「知った」のは他者の内容ではなく、自身の内容であったといった方が適切な場合だってあるだろう。つまり、他者を人間という大枠でその内容を「知る」ことは出来ても、個人としての内容を本当の意味で「知る」ことは決して出来ず、それ故、他者とのコミュニケーションというのは基本的に錯誤の連続である。そしてその形は様々ではあるが、社会との折衝、つまりコミュニケーションからは誰一人として逃れることは出来ない。だからこそ、この錯誤という要素を如何に上手くコントロール出来るかということが、その生存競争に於ける重要な鍵を握ることとなる。

例えば、人間は情報の内容よりもその印象によって物事を判断してしまう傾向があるが、この印象というのはそれ自体が錯誤そのものといってもよいだろう。また、自身の欲求からなる理想の追求を「社会の為」と言い換えて主張するのが標準的な振る舞いとなっているのも、この錯誤効果を期待してのことだろう。実際、同じ主張であっても、それを自身の為ではなく社会の為と印象(錯誤)付けた方がその主張が受け入れられ易くなる筈だ。そしてそれは同時に、そうやって自身がより良き社会の為に尽くす恭順者であることを自身と他者にアピールすることで、自身が良き社会や他者の役に立っているのだと其々の意識に刻みつけ、そこから自身の価値を見出そうとする行為でもある。だが実際のところ、ある者がそこに存在するということは、今存在するこの現実はその者の存在なしには存在し得なかったという意味で、全ての者が今のこの現実の存在に対して役に立っているのと同時に、全ての者がこの現実が存在するが故に生み出されることになる残酷さと苦痛の原因の一つにもなっている。この二つは決して切り離すことが出来ない。しかし、錯誤効果を用いれば、この二つを分離し、自身のその行為や存在が良き現実の為にのみ役立っているとすることにも出来れば、自身にとって都合の悪い他者の行動や存在を悪しき現実にのみ加担するものとして糾弾することも可能になる。つまり、この二つを分離することによって可能となる善悪という観察視点は、錯誤なくして成立しない。

だが、幾らそれが錯誤であると分かっていても、やはり善悪という感覚を完全に拭い去ることは出来ないし、またその概念による外的圧力からも逃れられない。そして印象に全く影響されずに物事を判断することも出来ないし、そもそも錯誤のないコミュニケーションなどあり得ない。

そのような状況で錯誤したりされたりすることをいちいち気に病んでいたら、マトモなコミュニケーションは取れず、窮地に陥るのは自明だろう(といっても、社会との折衝から逃れることは出来ないので、コミュニケーション自体が無くなるのではなく、「コミュニケーションが取れない」という状態で他者とコミュニケートせざるを得ない状態に陥るということだが)。ところが、どうも自分はそういった錯誤を他者から抱かれることを妙に恐れたり、自身が他者に対して錯誤を抱かせてしまうことに妙な罪悪感を感じてしまうところがある(自身の存在に価値を感じることが出来ない為、他者と関わること自体に罪悪感を感じてしまうというのもあるが)。それが円滑なコミュうにケーションの邪魔になる。そして他者と接する場合も、素のままで他者と関わるには余りに一般性からかけ離れた関わり方になってしまうので、嫌でも相手に錯誤を抱かせるような一般的装いを試みざるを得ないのだが、普段使い慣れない生兵法を用いれば、案の定大怪我をする運びとなる。多分、自分以外のコミュニケーションが苦手な人間も、こういった悪循環に陥っている人間が結構いるのではないか?

つまり、コミュニケーションを円滑に行うためには、その一つの条件として、錯誤を抱かれたり抱かせたりすることに対する「ふてぶてしさ」が先ず必要となるのではないかということ。流石にこの保険のCMまで行くとふてぶてし過ぎて危なっかしいが。

しかし、こういった「ふてぶてしさ」の重要性は余り一般には認識されていないような気がする。というか、むしろ情報伝達の正確さの方ばかりが強調され、それによって錯誤が許されないかのような風潮が作り出され、それが益々錯誤に対する「ふてぶてしさ」を獲得できなかった者達のコミュニケーションを妨げているような…。

 ***

それはともかく、コミュニケーション能力は限られたポジションを奪い合う為の、そしてこのCMのように人を篭絡する為の道具でもあるわけで、それ故、他者のそれが向上すれば自身にとって不利益になる面も確実にあるはずなのだが、にも拘らず、何故かその能力が拙い者がそれを向上させることが皆にとって良い結果になるかのような説が広く一般に受け入れられている。これにはどうも胡散臭さを感じざるを得ない。

あっ、だから本来不可避な筈の錯誤を許さないような風潮を作り出し、他者のコミュニケーション能力の発達を阻害しておきながら、その重要性を説くことでその能力が拙い者を貶めようとしているのか…とまでいくと流石に陰謀論臭くなってくるな。まあ実際は共同体幻想というヤツの仕業なのだろうけど。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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