錯誤に対する「ふてぶてしさ」の必要性
「誰でも入れる」保険の真実(上)(asashi.com)
ところがどっこい、巧妙なカラクリどころか、それ以前にただの損害保険だったようです。そりゃ80歳でも入れるだろう、生命保険じゃないんだから。医師の診断なんか必要なくて当たり前だろう、医療保険じゃないんだから。そんなことは本来ならいちいち言うまでもないことだ。
しかし、本来言うまでもない当たり前過ぎることを敢えて大々的に述べてみせることで、人々はその拠り所となる経験や知識から勝手に錯誤を起こす。嘘は言っていないので、契約を結んだ者が後からその錯誤に気づき、法的に争ったところで勝ち目は薄いだろう。嘘を付くというのは他者を自身の思い通りに動かすのに有効な一つの手段ではあるが、それには当然リスクも伴うことになる。しかし、そんなリスクを背負わなくても人は騙せる。その思いや動きを制御することが出来る。このCMのように。
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ただ幾ら嘘を言ってはいないとはいえ、流石にこの騙しっぷりはちょっと派手過ぎるように思うし、この欺きがより広く一般の知るところとなった時、多くの者達はその欺きから自身の不利益性を想起するであろうから、これは後々大きな問題に発展しそうな気もするが、それはともかく、社会という集団の中で如何に有利なポジションを獲得し、如何にその力を上手く利用するか、という形で行われる人間同士の生存競争の成り行きには、こういった錯誤という要素がその大きな鍵を握っているということは間違いないだろう。
同じ人間という基盤を持っていても、其々の個人の基盤となる感覚、その上に積み重ねられる経験や知識、そこから生み出される欲求や興味の方向性、思考的傾向、その者の精神的な拠り所となるものなど、その内容は個々人でかなり大きな違いがある。そしてその他者の感覚や内容そのものを直接外部へと取り出して調べることは出来ない。だから便宜上それを「知った」と言うことはあっても、そこで触れたのはあくまでその他者に表れた表面的な情報を元にして自身が内側に描き出したものであり、むしろその時「知った」のは他者の内容ではなく、自身の内容であったといった方が適切な場合だってあるだろう。つまり、他者を人間という大枠でその内容を「知る」ことは出来ても、個人としての内容を本当の意味で「知る」ことは決して出来ず、それ故、他者とのコミュニケーションというのは基本的に錯誤の連続である。そしてその形は様々ではあるが、社会との折衝、つまりコミュニケーションからは誰一人として逃れることは出来ない。だからこそ、この錯誤という要素を如何に上手くコントロール出来るかということが、その生存競争に於ける重要な鍵を握ることとなる。
例えば、人間は情報の内容よりもその印象によって物事を判断してしまう傾向があるが、この印象というのはそれ自体が錯誤そのものといってもよいだろう。また、自身の欲求からなる理想の追求を「社会の為」と言い換えて主張するのが標準的な振る舞いとなっているのも、この錯誤効果を期待してのことだろう。実際、同じ主張であっても、それを自身の為ではなく社会の為と印象(錯誤)付けた方がその主張が受け入れられ易くなる筈だ。そしてそれは同時に、そうやって自身がより良き社会の為に尽くす恭順者であることを自身と他者にアピールすることで、自身が良き社会や他者の役に立っているのだと其々の意識に刻みつけ、そこから自身の価値を見出そうとする行為でもある。だが実際のところ、ある者がそこに存在するということは、今存在するこの現実はその者の存在なしには存在し得なかったという意味で、全ての者が今のこの現実の存在に対して役に立っているのと同時に、全ての者がこの現実が存在するが故に生み出されることになる残酷さと苦痛の原因の一つにもなっている。この二つは決して切り離すことが出来ない。しかし、錯誤効果を用いれば、この二つを分離し、自身のその行為や存在が良き現実の為にのみ役立っているとすることにも出来れば、自身にとって都合の悪い他者の行動や存在を悪しき現実にのみ加担するものとして糾弾することも可能になる。つまり、この二つを分離することによって可能となる善悪という観察視点は、錯誤なくして成立しない。
だが、幾らそれが錯誤であると分かっていても、やはり善悪という感覚を完全に拭い去ることは出来ないし、またその概念による外的圧力からも逃れられない。そして印象に全く影響されずに物事を判断することも出来ないし、そもそも錯誤のないコミュニケーションなどあり得ない。
そのような状況で錯誤したりされたりすることをいちいち気に病んでいたら、マトモなコミュニケーションは取れず、窮地に陥るのは自明だろう(といっても、社会との折衝から逃れることは出来ないので、コミュニケーション自体が無くなるのではなく、「コミュニケーションが取れない」という状態で他者とコミュニケートせざるを得ない状態に陥るということだが)。ところが、どうも自分はそういった錯誤を他者から抱かれることを妙に恐れたり、自身が他者に対して錯誤を抱かせてしまうことに妙な罪悪感を感じてしまうところがある(自身の存在に価値を感じることが出来ない為、他者と関わること自体に罪悪感を感じてしまうというのもあるが)。それが円滑なコミュうにケーションの邪魔になる。そして他者と接する場合も、素のままで他者と関わるには余りに一般性からかけ離れた関わり方になってしまうので、嫌でも相手に錯誤を抱かせるような一般的装いを試みざるを得ないのだが、普段使い慣れない生兵法を用いれば、案の定大怪我をする運びとなる。多分、自分以外のコミュニケーションが苦手な人間も、こういった悪循環に陥っている人間が結構いるのではないか?
つまり、コミュニケーションを円滑に行うためには、その一つの条件として、錯誤を抱かれたり抱かせたりすることに対する「ふてぶてしさ」が先ず必要となるのではないかということ。流石にこの保険のCMまで行くとふてぶてし過ぎて危なっかしいが。
しかし、こういった「ふてぶてしさ」の重要性は余り一般には認識されていないような気がする。というか、むしろ情報伝達の正確さの方ばかりが強調され、それによって錯誤が許されないかのような風潮が作り出され、それが益々錯誤に対する「ふてぶてしさ」を獲得できなかった者達のコミュニケーションを妨げているような…。
***
それはともかく、コミュニケーション能力は限られたポジションを奪い合う為の、そしてこのCMのように人を篭絡する為の道具でもあるわけで、それ故、他者のそれが向上すれば自身にとって不利益になる面も確実にあるはずなのだが、にも拘らず、何故かその能力が拙い者がそれを向上させることが皆にとって良い結果になるかのような説が広く一般に受け入れられている。これにはどうも胡散臭さを感じざるを得ない。
あっ、だから本来不可避な筈の錯誤を許さないような風潮を作り出し、他者のコミュニケーション能力の発達を阻害しておきながら、その重要性を説くことでその能力が拙い者を貶めようとしているのか…とまでいくと流石に陰謀論臭くなってくるな。まあ実際は共同体幻想というヤツの仕業なのだろうけど。
「なんか胡散臭いなコレ。きっと巧妙なカラクリがあって、結局何かあっても殆ど保険金は下りない仕組みになっているんだろうな」と思っていたあのCM。「絶対に、誤解される!」と思われるテレビCMがあります。60代の男優が出てきて「人生、まだまだ」とアピールする外資系保険会社のものです。医師の診断はいらず、80歳でも入れるとうたい、支払いは最も安いプランで約3000円。しかも、掛け捨てではないというのですから、私も「赤字覚悟か?」と驚いたくらいです。
しかし、何度かCMを見るうちに、「こんな広告ってありなのか?」と思わずにいられなくなってきました。この保険のカラクリがわかったのです。
そもそも、この商品は「生命保険」ではありませんし、もちろん「医療保険」でもありません。ポイントは「病気での入院」に対して保険金が支払われるとは、一言も言っていないことです。 (中略)
つまり、これは「損害保険」商品なのです。
ところがどっこい、巧妙なカラクリどころか、それ以前にただの損害保険だったようです。そりゃ80歳でも入れるだろう、生命保険じゃないんだから。医師の診断なんか必要なくて当たり前だろう、医療保険じゃないんだから。そんなことは本来ならいちいち言うまでもないことだ。
しかし、本来言うまでもない当たり前過ぎることを敢えて大々的に述べてみせることで、人々はその拠り所となる経験や知識から勝手に錯誤を起こす。嘘は言っていないので、契約を結んだ者が後からその錯誤に気づき、法的に争ったところで勝ち目は薄いだろう。嘘を付くというのは他者を自身の思い通りに動かすのに有効な一つの手段ではあるが、それには当然リスクも伴うことになる。しかし、そんなリスクを背負わなくても人は騙せる。その思いや動きを制御することが出来る。このCMのように。
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ただ幾ら嘘を言ってはいないとはいえ、流石にこの騙しっぷりはちょっと派手過ぎるように思うし、この欺きがより広く一般の知るところとなった時、多くの者達はその欺きから自身の不利益性を想起するであろうから、これは後々大きな問題に発展しそうな気もするが、それはともかく、社会という集団の中で如何に有利なポジションを獲得し、如何にその力を上手く利用するか、という形で行われる人間同士の生存競争の成り行きには、こういった錯誤という要素がその大きな鍵を握っているということは間違いないだろう。
同じ人間という基盤を持っていても、其々の個人の基盤となる感覚、その上に積み重ねられる経験や知識、そこから生み出される欲求や興味の方向性、思考的傾向、その者の精神的な拠り所となるものなど、その内容は個々人でかなり大きな違いがある。そしてその他者の感覚や内容そのものを直接外部へと取り出して調べることは出来ない。だから便宜上それを「知った」と言うことはあっても、そこで触れたのはあくまでその他者に表れた表面的な情報を元にして自身が内側に描き出したものであり、むしろその時「知った」のは他者の内容ではなく、自身の内容であったといった方が適切な場合だってあるだろう。つまり、他者を人間という大枠でその内容を「知る」ことは出来ても、個人としての内容を本当の意味で「知る」ことは決して出来ず、それ故、他者とのコミュニケーションというのは基本的に錯誤の連続である。そしてその形は様々ではあるが、社会との折衝、つまりコミュニケーションからは誰一人として逃れることは出来ない。だからこそ、この錯誤という要素を如何に上手くコントロール出来るかということが、その生存競争に於ける重要な鍵を握ることとなる。
例えば、人間は情報の内容よりもその印象によって物事を判断してしまう傾向があるが、この印象というのはそれ自体が錯誤そのものといってもよいだろう。また、自身の欲求からなる理想の追求を「社会の為」と言い換えて主張するのが標準的な振る舞いとなっているのも、この錯誤効果を期待してのことだろう。実際、同じ主張であっても、それを自身の為ではなく社会の為と印象(錯誤)付けた方がその主張が受け入れられ易くなる筈だ。そしてそれは同時に、そうやって自身がより良き社会の為に尽くす恭順者であることを自身と他者にアピールすることで、自身が良き社会や他者の役に立っているのだと其々の意識に刻みつけ、そこから自身の価値を見出そうとする行為でもある。だが実際のところ、ある者がそこに存在するということは、今存在するこの現実はその者の存在なしには存在し得なかったという意味で、全ての者が今のこの現実の存在に対して役に立っているのと同時に、全ての者がこの現実が存在するが故に生み出されることになる残酷さと苦痛の原因の一つにもなっている。この二つは決して切り離すことが出来ない。しかし、錯誤効果を用いれば、この二つを分離し、自身のその行為や存在が良き現実の為にのみ役立っているとすることにも出来れば、自身にとって都合の悪い他者の行動や存在を悪しき現実にのみ加担するものとして糾弾することも可能になる。つまり、この二つを分離することによって可能となる善悪という観察視点は、錯誤なくして成立しない。
だが、幾らそれが錯誤であると分かっていても、やはり善悪という感覚を完全に拭い去ることは出来ないし、またその概念による外的圧力からも逃れられない。そして印象に全く影響されずに物事を判断することも出来ないし、そもそも錯誤のないコミュニケーションなどあり得ない。
そのような状況で錯誤したりされたりすることをいちいち気に病んでいたら、マトモなコミュニケーションは取れず、窮地に陥るのは自明だろう(といっても、社会との折衝から逃れることは出来ないので、コミュニケーション自体が無くなるのではなく、「コミュニケーションが取れない」という状態で他者とコミュニケートせざるを得ない状態に陥るということだが)。ところが、どうも自分はそういった錯誤を他者から抱かれることを妙に恐れたり、自身が他者に対して錯誤を抱かせてしまうことに妙な罪悪感を感じてしまうところがある(自身の存在に価値を感じることが出来ない為、他者と関わること自体に罪悪感を感じてしまうというのもあるが)。それが円滑なコミュうにケーションの邪魔になる。そして他者と接する場合も、素のままで他者と関わるには余りに一般性からかけ離れた関わり方になってしまうので、嫌でも相手に錯誤を抱かせるような一般的装いを試みざるを得ないのだが、普段使い慣れない生兵法を用いれば、案の定大怪我をする運びとなる。多分、自分以外のコミュニケーションが苦手な人間も、こういった悪循環に陥っている人間が結構いるのではないか?
つまり、コミュニケーションを円滑に行うためには、その一つの条件として、錯誤を抱かれたり抱かせたりすることに対する「ふてぶてしさ」が先ず必要となるのではないかということ。流石にこの保険のCMまで行くとふてぶてし過ぎて危なっかしいが。
しかし、こういった「ふてぶてしさ」の重要性は余り一般には認識されていないような気がする。というか、むしろ情報伝達の正確さの方ばかりが強調され、それによって錯誤が許されないかのような風潮が作り出され、それが益々錯誤に対する「ふてぶてしさ」を獲得できなかった者達のコミュニケーションを妨げているような…。
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それはともかく、コミュニケーション能力は限られたポジションを奪い合う為の、そしてこのCMのように人を篭絡する為の道具でもあるわけで、それ故、他者のそれが向上すれば自身にとって不利益になる面も確実にあるはずなのだが、にも拘らず、何故かその能力が拙い者がそれを向上させることが皆にとって良い結果になるかのような説が広く一般に受け入れられている。これにはどうも胡散臭さを感じざるを得ない。
あっ、だから本来不可避な筈の錯誤を許さないような風潮を作り出し、他者のコミュニケーション能力の発達を阻害しておきながら、その重要性を説くことでその能力が拙い者を貶めようとしているのか…とまでいくと流石に陰謀論臭くなってくるな。まあ実際は共同体幻想というヤツの仕業なのだろうけど。
