ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「俺が本気を出せば…」は国民的フレーズ

主将宮本、ショック大〔五輪・野球〕(時事通信)

 アテネに続き、2大会連続で主将の大役を担った宮本。選手としてだけでなく、一塁ベースコーチに入るなど首脳陣とのパイプ役も務めて悲願の金メダルを目指したが、その願いはかなわなかった。
 「今年は五輪を考えながらのシーズン」と、年明けから話していた宮本。前回金メダルを逃した教訓から、「(勝利への)思いが強いところが金メダルを取ると思ってやってきた」。それだけに、最終打者となった阿部の打球が相手右翼手のグラブに収まった瞬間、「思いの強さの差を感じた」とがっくり。3位決定戦についても「いまは何も考えられない」とショックは大きいようだった。

日本が野球でメダルを取ることが出来なかったことは別になんとも思わないが、こういった精神論的な発言に関してはどうしても疑問を抱かずにはいられない。
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もし宮本選手のこの発言を額面通りに受け取ったならば、選手達は試合で本気を出すこともなくそのまま敗れ去ったということになるわけだが、本当にそうなのか?いや、そりゃ其々の選手達がどういった気持で試合に臨んでいたかなんて本人にしか知りようがないので実際の所は分からないが、選手達は其々自分なりに精一杯力を尽くしたものの、それでも負けたんじゃないのか?

幾ら勝ちたいという思いが強くとも、どうしてもモチベーションが上手く上がらないということもあるし、気持が空回りすることもあれば、その思いの強さ故に逆に萎縮してしまって力が発揮できないということもある。まあ負けた理由はそういった精神的なこと以外に幾らでもあると思うし、実力差を「思い」だけで埋め合わせることなんて出来るはずもないが、もし精神的なことを惨敗の理由として挙げるのならば、「選手達が中々上手く精神的にベストなコンディションを作り上げることが出来なかった」と言うべきだろう。でないと「思いの強さの差を感じた」なんて言ってしまったら、「私達は彼ら程には本気でプレーしていませんでした」と言っているのと同じことになってしまうわけで。まあもし仮に彼らが本気でプレーしていなくとも、この国にはそういう本気でプレーしない者達しか代表の座を勝ち取ることが出来る者がいなかったのだから、そしてもし彼らにメンタル面での弱さがあったとしても、そういった弱さを持った者しかその座を勝ち取ることは出来なかったのだから、誰もそれに関して文句を言うことなんて出来ないと思うけど(勿論、監督選考の不透明さなどシステム自体の在り方を批判することは出来るが)。いや、正確には文句を言うことは出来るが、それを言えばただの無いものネダリになるので。結局、手持ちの人材をどう上手く生かすかしかないわけだから。

それはともかく、「思いの強さの差を感じた」ことを惨敗の理由として第一に挙げるということは、「もし思いさえ強ければ自分達は勝てた」ということでもあるだろう。

星野監督「勝った者が強い」=野球代表が帰国〔五輪・野球〕(時事通信)

 空港近くのホテルで記者会見した星野監督は「五輪は難しい。強い者が勝つのではなく、勝った者が強いと実感した」と、考えた言い回しの中に実力では負けていないとの主張を忍ばせた。 

「実力では負けていないとの主張を忍ばせた」とあるように、どうやら星野監督も宮本選手と同じ様に、「実力を発揮していれば勝てた」といった類のことを言いたかったようだ。

だが宮本選手が言っていることは、「思いさえ強く持てば(本気を出せば)、俺達はメダルを取れた」ということだし、星野監督が言っていることは「俺達が本領を発揮すれば(本気を出せば)勝てた」ということだろう。つまりこの一連の発言は、俗に言う「“俺が本気を出せば”発言」に他ならない。

 ***

渡辺会長がWBC指揮官に星野監督後押し(スポーツニッポン)

 渡辺会長はメダルを逃した今回の五輪については「やっぱり韓国とかキューバはハングリー。日本の選手が飽食暖衣とは言わんが、甘ったれているから良い勉強になったと思う」

今回の星野ジャパンの惨敗に於いて「“俺が本気を出せば”発言」をしているのは何も宮本選手や星野監督だけではない。

例えば渡辺氏は、ハングリー精神の足りなさや甘え云々といった、選手個人の精神の持ち方にこそ日本チーム惨敗の大きな原因があったかのような発言を匂わせている。こういった類の論調は、ネット上でちょっと検索を掛けただけでもゾロゾロと出てきたが、結局こういった論調を唱える人達は、今回の日本チームの惨敗に関して、「お前らが本気を出せば(精神的努力を怠らなければ)もっと良い結果が出せたはずなのに、それをしなかったからこんなことになったんだ」と言いたいわけだろう。だがこの「お前ら」という主語を「俺」に入れ替えてみるとどうなるか。すると、「俺が本気を出せばもっと良い結果を出せたはずだが、それをしなかったからこの程度の結果に収まっているんだ」ということになるわけで、正にこの手の論調もまた、「“俺が本気を出せば”発言」と同じ考え方に基づいた内容のものであるということが分かる。

で、今回の件について、こういった選手個人の精神の持ち方にこそ惨敗の最大の原因があるかのような発言をした人達が一体どれくらい居たのかということだが、決してそれは少ない数ではないだろう。つまり、それだけ多くの人々が今回の件で、(主語の違いはあれど)「“俺が本気を出せば”発言」と同内容の発言をしたわけだ。

そもそも、何らかの失敗の原因を第一に個人の努力の程度に求めようとする精神論というのは、元々「“俺が(お前が)本気を出せば(出していないから)”思想」でもあるわけで、そういった精神論的な発言を行うことは、基本的にその都度「“俺が本気を出せば”発言」と同内容の発言をしていることになる。そしてそういった精神論がこの国に於いて如何に多くの者達に支持されているかは言うまでもないだろう。つまり「俺が本気を出せば」というのは、日本という精神論の国の人々にとっての国民的フレーズなのだ。

 ***

「今は駄目な状況にあるが(今回は駄目だったが)、俺が本気を出しさえすれば凄いことができるんだからっ!」※1

こういった「“俺が本気を出せば”発言」は、それを本気で信じているかただの負け惜しみで言っているかはともかく、一般的には「普通」未満の社会的地位しか獲得することが出来なかった社会的失敗者が発する特有の妄言として知られており、その発言は「普通」以上の社会的地位を獲得した者達の間で嘲笑のネタとしてしばしば用いられる。そしてその社会的失敗者達は、そういった「馬鹿げた考え方」を持っていたからこそ、社会的失敗をしたかのように言われる。

だが、例えば今回の勝負では負けはしたものの、その人生に於いて今までずっと勝ち続け、これからもその社会的成功を抱えていくであろう宮本選手や星野監督が「“俺が本気を出せば”発言」をしていたように、そしてその勝負を見ていた渡辺氏やその他多くの社会的成功者がそれと同内容の発言をしていたように、そういった発言は決して社会的失敗者特有のものではないし、そういう「馬鹿げた考え方」を持っているが故に社会的失敗をするのでもない。

ただ同じ様な内容の発言をしていても、社会的弱者はより何らかの事柄に於いて成功することが難しい状況に置かれているが故に、そして社会という集団内で政治的に弱い立場に置かれ、より嘲笑され易い立場にいるが故に、その発言のバカバカしさが際立っているだけなのだ。実際は、精神論的思想が支配的な風潮を持つこの社会では、その常識にコミットしている多くの者達が、社会的に成功したか失敗したか如何に拘らず、その手の発言をしている。それが目立つか目立たないかの違いはあるが。

そして今日もまたこの国では、朝も昼も夜も、社会的成功者が行う取り立てて注目されることもない「“俺が本気を出せば”発言」と、そのポジション故にバカバカしさが際立つ社会的失敗者の「“俺が本気を出せば”発言」が至る所で交錯し合い、こだまし続ける。

それが途切れそうな気配は、今の所ない。



※1 そういや、先の戦争では「俺達が本気を出せば、アメリカだって倒しちゃうんだからっ!」って言ってたな。ほんと、あれだけ痛い目に遭ってもそういった根本的な考え方自体は固持し続けるんだから、ある意味凄いよ。個別の事柄に於いて、そういった考え方を一つ一つしらみつぶしに完膚なきまでに叩き潰されでもしないと変わらないんだろうな、この国の精神論的常識は。
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人を見たら「親戚」と思え、一般的道徳を見たら政治と思え

有名になると親戚が増えるというが、オリンピックで誰かがメダルを取ったり取れなかったりすることで、その国の国民が一喜一憂したりするのもそれに近いものがあるなあ、と思った。いや、別にそれが悪いと言いたいわけではなくて。
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オリンピックなどでは、その選手達が同じ国籍を持っているというただその一点だけで「親戚」と化した人達が、直接的には関わりのないその選手達に対して、そして普段は興味もなく、下手すればそのルールすらよく知らない競技に対して、同国人がそれに参加しているというただそれだけの理由で関心を持ち、ああだこうだと好き勝手な要求をしたり、不平不満を述べたり、或いはその背景に作り出された物語に酔いしれる。こういった「親戚」は選手達にとって迷惑な存在でもあるだろう。

しかしその一方で、そういった「親戚」がいるからこそその舞台が成立しているという事実もあれば、その同国人という「親戚」達と目的を共有することで自身の持つ目的に対してより大きな価値を見出せるということもある。そういう意味では、選手達もまたその「親戚」達を(それを意識しているか否かはまた別として)利用しているとも言える。

ただこういった「親戚関係」は、何も著名人ばかりを軸としてそれが出来上がっているわけではない。自分の様に名も知れぬただの有象無象の一人であっても、社会というその同じ集団に所属しているというただそれだけの理由で、自分に関して全く何の情報も持たず、自分がどれだけ苦しもうが生きようが死のうが何とも思わないそういった者達から、自分が持つ環境や肩書き、属性を通して多くの思いや要求が突きつけられる。同じ様に、自分もまたそういった見も知らずの者達に様々な思いや(「要求」してもそれを受け入れさせる政治力がないのを知っているので)願望をぶつけるだろう。

「社会」という誰も逃げだすことが出来ない檻の中にいる以上、この見ず知らずの「親戚」同士がお互いの思いをぶつけ合い、自らが足場としている「集団によって作り出されたシステムや風土」、そして「道徳」という道具で以って、お互いがお互い相手を自身にとって都合よく制御し、都合よく利用しようとするそういった関係性からもまた、逃れることは出来ない。

例えば、よく「引きこもり」は社会参加していないと言われるが、それは大きな誤りだ。「引きこもり」とて社会からは逃れられないし、逃れてもいない。というのも、元々「引きこもり」という肩書きは、ある者が社会と関係を持つことによって形成されたポジショニングの形態を指して、それを同じ社会という檻の中にいる誰かがその形態に置かれた者をそう呼ぶことによって生み出されているのであって、もしその者が社会参加をしていなければ、その「形態」もそれをそう呼ぶ人間も存在しない為、その者は決して「引きこもり」にはなり得ない。社会参加することによって初めてその者は「引きこもり」となり得るのだ。同じ様に、あらゆる肩書きや属性は、その社会を舞台とした「親戚」同士の関係性の中で生み出され、これまた同じ様に、その舞台でどのように振る舞いどのようなポジションを得るのかということによって、その者がどのような生活を獲得し、どのような生や死を獲得するのかもまた決まっていく。そしてその舞台には予め一般的道徳という無形の舞台装置が設置されており、その屋台骨は集団によって形成された暴力システムによって支えられている。

つまり、この世に人間として産み落とされ、その社会という舞台に身を置いている以上、その者が他者を「親戚」として利用しようとする意思や利用しているという意識を持っているか否かにかかわらず、既にその者はそれを利用しているし利用されている関係にある。そしてそういった関係性の中で、お互いが意識的・無意識的に「親戚」を制御し、利用しようとする折衝の結果として一般的道徳なるものの形が決定されていく。一般的道徳とは(外的には)そういった政治的産物でしかないわけだ(内的には宗教にもなり得るが)。

尚且つその一般的道徳は、大抵生存と競合するような形で落ち着くことになる。故にそれを遵守することを重んじ、自らをその規範で縛り付けてしまえば、外からは自由に身動きが取れないため「親戚」同士のポジション争いで不利な立場しか獲得できず、生存を維持することが困難な状況へと追い込まれることとなり、内からは「生」を受け入れるにせよ「死」を受け入れるにせよ、道徳の矛盾が生み出す「悪」という出口のない迷路の中で彷徨い続けることを要求され、最終的に自身の存在を否定しなければならなくなる。

だから其々の社会で其々の個人は、その都度その都度、その一般的道徳に様々な「例外」を上手く設けることによってそういった状況を回避していかなければならない。或いは、その生活の維持に必要な非道徳的行為を集団によって匿名化された状態で行使するなり、集団によって作られ運営されている暴力システムへとそれを委譲するなりして、自らが直接手を汚さず間接的にそれを行使することでようやく、(政治的に)健全な「生活」や健全な「生死」を手に入れることが出来る。そうやって道徳の罠を回避することが出来るからこそ、その者は社会的にも自意識的にも常識人(善人)になることが出来る。一般的道徳とは、常にこういった欺瞞を孕んだ存在なのだ。故にそれは政治的存在として信頼することは出来ても、非政治的なものとしては全く信頼するに値しない。

 ***

その者の人生に於ける「結果としての責任」を背負うことが出来るのはその者自身だけ。「親戚」がその責任を負うことは決してない。だがその「親戚」達は、自らがその責任を負うことはなくとも、例えそれが自身からしてどこの誰であるかさえ分からない様な者であっても、同じ社会に身を置く「親戚」の権利として、その者に対して様々な要求を突きつけることだろう。予め社会に仕込まれている舞台装置や、その舞台を支えている暴力システムを用いて己のその欲求を実現しようとするだろう。そして「親戚」達から要求を突きつけられるその者に生きる意思があるなら、生や死をコントロールしようとする思いがあるのなら、やはりその者もまたその環境を上手く利用しなければならない。

だからもし道徳を重んじるのならば、そういった「親戚」同士のエゴとエゴのぶつかり合いによって生み出される一般的道徳という道徳の皮を被った政治の権化よりも、自分自身の内的道徳をこそ本当に重んじるべきだよねえ、というそういう話。それで、一般的道徳は政治的にのみ重んじていればそれでよい。

WMP6.4でMP3のタイトルが文字化けする場合の対処法

MP3を再生する際に前から気になっていたことがある。それは、自分はXPに標準で搭載されている「Windows Media Player 6.4」にMP3ファイルへの関連付けを行っているんだけど、このプレイヤーでMP3を再生させると、時々タイトルや作成者の項目が文字化けするものがあるということ。

  こんな感じに。

でまあ何となく気持が悪いなあと思いつつ、別にそれで凄く困るということもないので長らく放置していたのだけど、最近になって漸くそれを改善する方法に気づいた。

その方法は、該当MP3を右クリックして「プロパティ」を選択し、「概要」タブをクリック。そしてそこで一度「詳細設定」をクリックした後、「簡易」をクリックして元の画面に戻ると、その前は半透明で選択出来なかった「適用」ボタンが選択出来る状態になっているので、それをクリックして「OK」を押す。たったこれだけ。すると次にそのMP3を再生させた時にはもうその文字化けが直っている。

何故こんな簡単なことに今まで気づかなかったんだろうな。

追記:中にはこの方法でも症状が改善しないものもあった。

『AquesTone』で囁きボイス

なんとヴォーカル系のVSTiがフリーでも登場した。

AquesTone - VOCAL SYNTHESIZER PLUG-IN



発音の指定を行う歌詞ファイルは、普通のテキストエディタで全角カタカナまたは平仮名の文字列を綴っていくだけで作成出来きる。1行目を0として、改行するたびにその行に番号が割り振られていくので、その番号の数値をmidiメッセージのCC#10で送信することで、どのタイミングでどの行を発音させていくかの支持を出すという仕組みになっているようだ。

http://jp.youtube.com/watch?v=KIHT4P1W35o

本来はこういう使い方をするみたいだけど、今回はこれに囁かせてみた。

  





だから何だと言われればそれまでだけど、録音環境の整っていない人や、自分の声が嫌いで仕方がないという人はちょっとした演出効果として使えるかも。

やり方はHuskyを100%にするだけ。

発音に関しては、小さな「っ」が使用出来なかったりするが、その場合はその部分に休符を入れて前の音のリリース(CC#73)を少し短くすると結構それっぽくなった。あと、「う」は「お」に入れ替えたり、前の部分を延ばしてその分それを間引いたりした方がそれらしくなる場合が多かった。例えば、「“うそもほうべん”→“うそもほおべん(うそもほべん)”」みたいに。それから、発音が「わ」になる「は」は歌詞ファイルでは「わ」として表記しなければならない。「なさけ“わ”ひとのためならず」みたいに。まあこれは一々言わなくても分かるだろうけど。

ただ試作段階ということもあってか、REAPERでAquesTone使った場合、このVSTの表示を消したり同じトラックに仕込んだ別のVSTに表示を切り替えたりすると、歌詞が次に進まず繰り返しになってしまったり、歌詞ファイルを読み込ませる前の状態に戻ってしまったりするので、実質上、常にこのVSTを表示させたままでなければそれをちゃんと使用することが出来ないという症状があった。

あと、音量をコントロールする場合はCC#7を使う仕様になっていて、CC#11のエクスプレッションでは音量をコントロールすることが出来ないのがちょっと不便。

ちなみに、

利用条件
無償でご利用可能(*1)です。ただし、生成した音声を含むコンテンツを公開するときは、クレジットタイトルに「AquesTone」を入れるなどAquesToneを使用していることが聴取者に分かるようにしてください。
現在は試作版のため再配布を禁止します。当ページからダウンロードしてください。また、リンクはこのページにお願いいたします。
AquesToneプログラムの著作権は(株)アクエストに帰属します。また、AquesToneは単なる楽器の位置づけとし、制作した合成音声の使用について当社からの制限はありません(*2)。

(*1)将来有償になる可能性はあります。
(*2)もちろん歌詞の著作権による制限などは発生します。

とのこと。

歌謡曲っぽいの

少し前から作り始めていた曲があったんだけど、
どうもイントロや続きが思い浮かばないでいるうちに曲への興味も気力も尽きてきて、
このままだと放置するパターンなのでループさせて無理やり形にしてみた。

モンスター歌謡曲―ループ(2分3秒)

曲名には特に意味は無い。
取り敢えずモンスターとか付けておけばいいんじゃないの?
みたいな感じで。

今回は珍しくドラムを入れてみたが、
曲にあったフレーズがなかなか思い浮かばなくて苦労した。
最初はDTMマガジンのループ素材を使って楽しようとしたが、
結局曲に合うものを見つけられなかったので仕方なく自前で。

そもそもドラムにも魅力があるということに気づいたのは最近のこと。
だからそれまで曲を聴いていてもドラムは全然聴いていなかったりしたので、
フレーズが思いつかなくて当然と言えば当然なんだけど。

ドラムの音源に関しては、当初ns_kit7freeを使おうと思ったが、
メモリ不足で別録りしなければならないのでSuperDrumFXを使ってみた。
wavを読み込んで鳴らすサンプラータイプのドラム音源。
エフェクト有りと無しのバージョンがあるけど、
エフェクト有りの方は滅茶苦茶重いので無しの方が良い。
それでも結構CPUパワーを食うし、MIDI YokeでdominoとREAPERを
繋いで鳴らすと所々が歯抜けになったりしてマイナスポイントはあるが
悪くはないものだと思う。ワンショットの良い素材が手に入れば
それと音色を入れ替えることも出来るし。

因みに、ドラム以外のパートはmuseで打ち込んでREAPERに
midi情報を記録させ、後からドラムだけをdominoで打ち込んだ。
ただそうすると、dominoで打ち込んだものをmidiで吐き出してそのまま
REAPERに読み込ませるだけではドラムとその他のパートのテンポが
合わなかったので、それを一端musファイルに変換した後、
されにそれをmidiに変換してREAPERに読み込ませるという手順を取った。
これでなんとかテンポが一致。

ヤモリが入ってきた

2日程前から、部屋の中にヤモリが侵入して来ている。
5センチくらいの小さな子供のヤモリ。
多分ニホンヤモリという種だと思う。

大人のヤモリが外からガラス窓に張り付いているのは
よく見かけたことはあったが、それを家の中で、
しかも子供のヤモリを見かけたのはこれが初めてだ。

昨日の夜、そのヤモリが開けた場所に出てきたので
ティッシュで捕まえて外へ逃がそうと思ったのだが、
結局上手く行かず逃げられてしまった。
動きは鈍いのだが、余りにもヤワな感じがして、
思いっきり掴むと握りつぶしてしまいそうで
しっかり掴めなかったからだ。

で、先ほどウィキペディアを見てみると以下のようにあった。

捕まえる際は傷つきやすいため布をかぶせた棒などで追いこみ、捕虫網等へ落とす。掴むと噛みつかれることがあるが、噛まれる被害以前に小型種の上に骨格が頑丈とはいえないため人間に噛みつくと逆に顎の骨を折る可能性があるため素手で掴むことは避けて小型の容器等へ追いこむ方が良い。
ウィキペディア『ニホンヤモリ』

なんて脆い生き物なんだ。

噛み付かれてはいないので顎の骨は折っていないと思うが、
もしかしたら昨日捕まえ損ねた時に怪我させてしまったかもしれんな。

原因と責任を一緒くたにした議論は混沌への入り口

通り魔、バスジャック…凶悪事件の原因は?(livedoor「世論調査」)

7月22日夜に京王八王子ショッピングセンターで女性書店員を刺殺するという事件が発生しました。
犯人の33歳の男は被害者とは面識がなかったといい、調べに「仕事がうまくいかず両親に相談したが乗ってくれず、無差別に人を殺したいと思って包丁を買った」「家族で仕事に関してトラブルとなり、とっさに人を殺そうと決意した」などと供述しているそうです。
最近は秋葉原での連続殺傷事件、14歳少年によるバスジャック事件など「誰でもよかった」という理由の凶悪事件が多数発生しています。
あなたはこのような凶悪事件の根本的な原因はどこにあると思いますか?

 

なんだろう、この「貴方が落としたのはこの金の斧ですか?それともこの銀の斧ですか?」みたいなアンケートは。

そもそも、其々背景が異なるであろう個別のケースを「凶悪事件」と人括りにしてこういった問いかけをすること自体にかなり無理があるが、それはこの際置いておくとして、今現在この社会で「凶悪事件」という表現で一般的に指し示されるところの現象は、(それがそこで良くないこととして認識されていたかどうかはともかく)人間が集団で生活を営むようになったその時から、あらゆる時代や場所、あらゆる形態の社会に於いて起こり続け、一度もそれが途絶えたことはないはずだ。つまり、人間とはそういうものだということ。よってその“根本的”な原因はと問われれば、「人間が人間であること(人間の資質)」としか言いようがない。

これが「このような凶悪事件の責任はどこにあると思いますか?」という問いならば分かる。責任というのは政治的に決定されるものだから、それ次第で如何様にでもすることが出来る。だが原因は事後的政治や人気投票で決定されるわけではないし、「人間の資質」自体を「本人(個々人)」の意思や「社会(含む家庭)」の形態によって変更することは出来ない。つまり、この問いに対してこの選択肢しか用意されていないアンケートというのは、正に無茶振りと言う他ないということ。
--------------------

ただこのアンケートに限らず、この手の議論が為される場合、どうも原因と責任の違いが明確に区別されないままそれが論じられていることが多いように思う(いや、そういう自分も結構その違いをハッキリと意識せずに物事を述べてきたような気もするが…)。そしてそのことが、ただでさえ紛糾し易いこの手の議論をさらにややこしいものにしている。

例えば「責任の所在を分散させる昨今の風潮が…」などといった類の意見がよく述べられることがあるが、少なくとも戦後この国に於いて凶悪事件を起こした本人の責任が社会や家庭に分散されたことなんてないはずだろう。その責任を軽減し、その分を社会に負担させたなんてことがあっただろうか?社会に連帯責任を負わせ、凶悪事件が増えればその分増税するとか、犯罪が多い地域の補助金を減らすとか、或いは事件を起こした子供の代わりに親が牢屋に入れられるとか(アメリカではそういうケースもあったようだが)、そんなことはなかったはずだ。むしろその責任は分散されるどころか、厳罰化の流れが形作られ、その責任を増大する方向へと舵を取ってきたのがこの国の歴史じゃないのか。つまり、本人の責任は増大されることはあっても分散も軽減もされていない。だからこれからそういった方向へと社会が動き出すことを憂慮するというのなら分かるが、すでにそれが成立しているかの様に言うのは間違いだろう。

では何故こういった論調が出てくるのかというと、原因に関する議論をしているのを見て、それを責任に関する議論と取り違えてしまうようなことがあるからだろう。例えば「“本人”は事件発生の一要素でしかない」といった発言に対し、「いや、責任は全て“本人”にある」といった具合に。そうやって原因と責任がごっちゃになって議論されることで、正に志村けんのコントに於ける「爺さんや婆さんや状態」になってしまい、まったく話が噛み合うことのない議論が延々垂れ流され続けることとなる。

つまり、こういった話題に関して何か述べる時は、先ずそれが原因に関するものなのか、それとも責任に関するものなのかということをちゃんと明確にした上でそれを為さなければ、それはただ議論を掻き回してややこしくするだけのものにしかならないのではないかと。

 ***

ただ困ったことに、実際には原因と責任を統一してしまわなければ気が済まないという人達もいる。つまり、その責任を全て「本人」に求めるだけでは気が済まず、原因もまた全て「本人」に求めなければならないと主張する人達。これには幾つかのタイプがある。

・カタルシスタイプ

このタイプは事件を勧善懲悪的物語として捉え、それを娯楽として消費することを重視するため、悪役である「本人」は全く何の同情の余地も無い「完全なる悪」でないと気が済まない。そして原因が「本人」以外にもあるという認識を世間が持つことは、事件に於ける勧善懲悪的性質を中途半端なものにしてしまい、そこからカタルシスを得ることが難しくなるため、それを避けるため事件の原因は全て「本人」にある主張する。

・政治タイプ

このタイプは、原因が「本人」以外にもあると世間に認識されることや、それによって事件を起こした「本人」に対して世間が同情するような風潮が生まれると、それが事件を助長することになるので、そういった認識がなされてはならないと考えるタイプ。そのため、このタイプは表向きは原因は全て「本人」にあると主張していながら、内容的には社会の在り方が犯罪を助長することになっているという矛盾した主張をしていることになる。まあ政治なんてそんなものだろうけど。

・セカイ系タイプ

ガチで事件の原因が全て「本人」にあると思っているタイプ。これはこれから起こるであろう現実や既に起こってしまった現実の形を、一個人の意思で変更することが可能であり可能であったということを主張していることになるわけで、その考え方は正にセカイ系のそれと一致する。まあ一個人の意思で世界が滅んだり救われたりするとまでは主張していないので「小さなセカイ系」と言った方がいいかもしれないが、社会という要素を吹っ飛ばして一個人の意思だけで現実の形をコントロールすることが出来るというその考え方はやはりかなり特異なものだろう。いや、しかしその特異なものこそが多数派であるような気もするが。虚構の物語に於ける演出としてのセカイ系は侮蔑の対象だが、現実に於けるセカイ系的主張は大人気。

 ***

でまあ、原因と責任の違いが明確にされないままこういった議論が為されることになる現状では、例えば「一個人の意思だけで現実の在り様をコントロールすることなんて出来るはずがない」と主張すると、「そうやって責任を社会に擦り付けようとするから云々…」といった全く的外れな回答が返ってきて、カオスへの入り口が開いたりしてニントモカントモ。

好きな言葉は「嫌い」です

テレビをつけると高校野球が放送されていた。

そこでアナウンサーが、予め選手から取っていたであろう
自己紹介アンケートの様なものを読み上げて、
打席に入った選手の紹介をしていた。

「好きな言葉は“嫌い”です」

おっ?ほう、最近の高校球児には
「お前らの期待通りの行動はしないぞ」
という強い意思を感じさせる、中々気骨があるというか
気転の利いた回答をする奴がいるなと思ったが、
もう一度よく頭の中でそのフレーズを反芻してみると、
「好きな言葉は“気合”です」と言っているだけだと気づいた。

なんだ、根性だけで物事が何とかなると思っている
ただの甘ちゃんのクリシェじゃないか。つまらん。

精神論を信じるのは構わないが

何故、その宗教を他人に押し付けようとするのか。
何故、それで他人を縛りつけようとするのか。
何故、それで他人を動かそうとするのか。
何故、それを自らの暴力の免罪符とするのか。
何故、それに基づいて社会を最適化しようとするのか。

自らがそれを信じ、自らがその規範に従い、
自らがそれによって希望を抱き、
自らがその思想から生み出される苦悩や喜びを
受け入れてさえいればそれで充分な筈だろう。

だが精神論を信奉する者達の多くは、
自身よりもむしろ他者にそれを押し付けようとする。

彼らは基本的に他者の信仰の自由を認めない。
己のその宗教でこの国を満たさないと気がすまない。
それどころか、それが宗教であることにすら気づいていない。
恐らく、こういったこともまた精神論という宗教の特徴なのだろう。

だから精神論は嫌いなんだ。

…と何も考えずにただ叫んでみるのもたまにはいいだろう。

ここで死んだ人おるらしいな

さっき、自転車に乗った子供らが、
「ここで暗くて落ちて死んだ人おるらしいな」と言いながら
家の前を通り過ぎていった。確かに道が狭くてドブはあるし、
何となく通ってはいけない感を醸し出してはいるものの、
実際は別に危険でもなんでもないところ。
というか、あんなところでどうやって死ぬんだ。

まったく、どこからそんな噂が生まれたのやら。
まあ子供の噂なんて大抵そんなものなんだろうけど。

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プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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