ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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それは既に到来しているのか?

大阪の橋下知事、衆院選出馬「2万%」あり得ない(読売新聞)

 大阪府の橋下徹知事は30日、府庁で報道陣の取材に応じ、次期衆院選への立候補の可能性について、「あり得ない。世のため人のために働くような男ではない。ただ、国のためではなく、大阪のためだったら頑張れる」と否定、立候補しない確率を「2万%」と断言した。

 橋下知事は昨年12月、知事選への立候補を取りざたされた際、いったん、「2万%出馬はない」と表明しながら、直後に発言を翻して立候補。議会などから「発言が軽すぎる」との批判を受けたが、183万票余りを獲得して初当選した。

ここで敢えてまた「2万%」という表現を用いてみせるって、一体どういう神経をしているのだろう※1。お笑い芸人が同じボケを何度も繰り返す“てんどん”じゃあるまいし。自分は府知事や弁護士である以前にお笑い芸人である、ということをアピールしたかったのか?それとも、この「2万%発言」はむしろ衆議院選挙への出馬表明と捉えた方がいいのか?だとすれば、ある意味一貫性があるとも言えるのだけど。まあ、自らが断固否定したことを行ってみせることが一貫性を保持することになるというのもおかしな話だけど。

これと直結するわけではないんだけど、なんとなくこんな発言を思い出した。

 「僕が属しているカテゴリーというのは、カテゴリーをまったく気にしないというカテゴリーだ。これでさえ、多分、資本家の搾取にたいして究極的な抵抗にならないことは分かっている。僕は単に“予測不可能な”という部類に入れられて、つまりそういう点では予測可能になり、選別され、マーケティングの対象になる。僕の作品の根本が概念的であるとしたら、僕もギー・ドュボールが選んだ道を行くね。自殺さ。僕の作品の根本は直感的であり、計画よりも運に左右されるようなものだとしたら、何も問題ないけど。僕は新たな社会を作り上げるほど大物ではない、と自分でも分かっているさ」

<タワーレコード発行「musee(ミュゼ)VOL.48」掲載『スクエアプッシャー(トム・ジェンキンソン)』インタビューより>

せめて橋下氏もトム・ジェンキンソン氏のように、「僕は新たな社会を作り上げるほど大物ではない」という自覚を持って、お笑い芸人のままでいてくれれば良かったのにね。でも彼はその自覚がないから、概念的でもないのに、自らをナポレオン的英雄と勘違いしたラスコーリニコフのごとき発想(自らの抱く大儀――つまるところそれは個人的欲望なのだが――さえ実現させることが出来れば、そのために支払われた犠牲は大儀の実現によって得られるより大きな利益によって埋め合わせて余りあるものとなるから、そのための犠牲はやむなしとして、自らの暴力を肯定していく考え方)でどんどん突き進んでいく。そういう迷走者が本当に英雄扱いされるような世の中が到来しなければよいのだけれど…。いや、もう既にそれは到来しているのか?

 ***

因みに、このインタビューが印象に残っていたことや、傷物が安くで売り出されているのを見つけたこともあって、スクエアプッシャーの以下のアルバムを入手してみたんだけど、これがまたインタビューでのヒネクレ発言から連想されるような何ともまとまりがなく分裂気味な内容だった。ライブ録音とスタジオ録音が入り混じっていたり、やけに親しみ易い叙情的な曲があるかと思えば、計算しているのかただの思いつきなのかもよく分からない、人の神経を逆なでするかのようなノイジーな曲があったり、かと思えばアコギとベースの穏やかな二重奏があったりと…。

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しかしこの表情がまた何とも言えない風合いを醸し出しているなあ。いかにも屈折してそうだ。



※1 もしかしたら、インタビューする側がこういった答えを期待させるような何らかの問いを彼に投げかけ、その期待に応じる形でこういった発言をしただけなのかもしれないが。まあ、彼は彼一人で今の彼になったわけではないし、彼一人の力で今の地位や権力を手に入れることが出来た訳でもないので、いずれにせよ、こういったことは彼一人の問題というわけではないのは確かなのだが。それを支持する者達が他に多数いると予想されるからこそ、それがなされるということもある。もしメディア側がそれを期待させるような問いを投げかけていたとしたら、それはその後にそれを期待する多数のメディア視聴者がいると予想されたからこそ、そういうったことが行われたということもあるだろうし。
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それは極めて「常識的」な判断


ユーチューブに犯行予告! 10人死亡、フィンランドの銃乱射
(産経ニュース)

 【英中部マンチェスター=木村正人】ロイター通信によると、フィンランドの首都ヘルシンキから北西へ約300キロ離れたカウハヨキの職業訓練校で23日、男子学生が銃を乱射し、少なくとも学生ら10人が死亡。犯人の男子学生も銃で頭を撃って自殺を図り、搬送先の病院で死亡した。負傷者もいるもようだ。

 ロイター通信などによると、事件前、動画投稿サイト「ユーチューブ」に男子学生が犯行を予告したとみられる複数のビデオ映像が投稿されていた。カウハヨキ在住とする22歳の男が、射撃訓練場で銃を撃つ姿などが映っており、「人生すべてが戦争であり、人生すべてが苦痛だ」などとの書き込みもあった。

(中略) 人口約524万人の同国は米国、イエメンに次ぎ世界で3番目に銃保有数が多く、100人当たりの銃保有数は56丁。狩猟人口が多いためで、15歳から銃の保有が認められている。昨年の事件をきっかけに、欧州連合(EU)と同じ銃保有年齢を18歳に引き上げる法案が協議されている。

「人生すべてが戦争であり、人生すべてが苦痛だ」

彼が置かれたような状況を戦争だと言ったならば、きっと「本当の戦争はそんなに甘いものじゃない!」などと言って捨てる人がいるかもしれない。だがもしそう思う人が居たなら、その人は生存競争という名の戦争、或いは画一化を目論む社会的ベクトルと人間の持つ多様性との衝突を甘く見すぎていると言わざるを得ない。
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戦争というものは、何も国同士によって行われるものばかりとは限らない。そもそも、国同士の間で行われる戦争は、必ずしも全ての人間にとって恐ろしいものとは限らない。何故なら、自国が他国と所謂戦争を行って幾ら多くの死傷者を出そうとも、その者がもしその国内で優位なポジションを獲得し、それを維持し続けることさえ出来ていれば、その者はその戦争によって命を落としたり、尊厳を踏みにじられたり、困窮した生活状況に陥ったりする危険性を回避することが出来るからだ。それどころか、そういったポジション獲得能力に長けている人間は、他の者達が戦場で地獄を見ているのを横目に、優雅で平和な生活を送ることさえ可能だ(勿論そういうことが可能となるには、その者が国内で優位なポジションを保つだけでなく、その国自体が国際社会というより大きな集団の中である程度優位なポジションを保ち続けているということもその条件として必要となってくるかもしれないが)。その一方で、もしその者がその国に於いて最下層のポジションしか得ることが出来なければ、別に国同士が喧嘩なんかしていなくても、その者は常に命の危険に晒され続けることになる。「社会」という名で匿名化された個々人や、その集団によって運営されるシステムや風土による拷問に耐え続けなければならなくなる。

例えば一般的には「平和」だと言われるこの国に於いても、実際には多くの者達がその尊厳を踏みにじられるような状況に直面しているし、命の危険に晒されるほど困窮した生活状況を迫られている。そして現実に毎年多くの人間が順次淘汰されていっている。結局日本に於いても「平和」なんてものは、ある一定の社会的地位を獲得することが出来た者達だけに支給される幻想に過ぎないというわけだ。だがその幻想の外ではちゃんと殺し合いは続いている。より洗練された婉曲的な形で。

人間がその生存を維持するためには、それに必要なだけの外的(物理的)環境と内的(精神的)環境の二つが整っていなければならない。この二つのどちらが欠けてもその者は己のその生存は維持することが出来ない。だが、全ての物理的資源は既にその社会を覆い尽くすより大きな暴力システムの下に統括された其々の集団(暴力団の様な非合法組織であっても、そのシステムの作る秩序の恩恵は受けている)の手の内にある。そして生存の維持に必要な外的環境や内的環境は、社会という集団との関係性の中でしかそれを獲得することが出来ない。つまり、その者が其々の集団に上手く取り入る(馴染む)ことが出来ず、そこからはぶられてしまえば、そうやって集団によって生み出される風土やシステムを上手く利用することが出来なければ、それは即ち死を意味する。そのため其々の個人は、(その自覚があるか否かはともかくとして)常に命を懸けたポジション争いを行っている。当然個人差はあるものの、基本的には不利なポジションしか獲得出来なかった者ほど、集団(の力を上手く利用することが出来た他者達)と一方的に不利な関係を結ばされることとなり、精神的にも肉体的にも激しい消耗を強いられ、その生存を維持することが難しくなっていく。事実、多くの者達がその生存という枠組みから脱落することを余儀なくされている。そういった間接的な形で殺し合いが行われるのが、現代的な社会に於ける生存競争の在り方。

しかも社会はより画一化されたシステムや様式を求めるベクトルへと向かう一方、人間が始めから兼ね備えている多様性の方は変わらないから、その分だけその社会にとって邪魔になるはみ出ざるを得ない人間は増えていくことになるという。こういった人間の持つ多様性の一側面を受け持たされて生まれてきた者が、己の意思で以って幾らその画一化された社会の風土やシステムに馴染もうとしても、それによってその資質を変更出来るはずもなく、その為の努力は全て徒労に帰す。つまりその者は、その社会にとって邪魔な存在として、それと対立した関係でしか生きて行くことは出来ないということ。

こういった戦いを指してそれを「戦争に満たない甘いもの」と言うのなら、それはその者を取り囲む状況が甘いものであるという告白でしかない。現に、所謂戦争よりもこういった日常に於ける生存競争に敗れて死んでいく者の方が圧倒的に多いのだから。「平和」が支給されるような「普通」の人達は、そのポジション争いの能力に長けすぎているが故に気づきもしないのかもしれないが、その「平和」の幻想の外では、常にこういった命を懸けた戦いが行われている。そこには生存という枠組みの崖っぷちで、一方的な関係を強いられながらもぎりぎり踏みとどまっている者や、社会にとって不必要と判断されながらもそれに抗って生きている者が厳然として存在する。

つまり、事件を起こした彼がどんな人間であり、どのような思想や感覚を持っていたかは分からないが、彼が「社会」と謂われる既存のシステムや風土を上手く利用することが出来る集団一般とずっと戦争状態にあったのは状況から見て明白であり、彼からすればそれらは全て「敵」という存在でしかなかったわけで、戦争なら人を殺しても良い、もしくは戦争で人を殺すのは仕方が無い、というのが社会的な常識であり、それが良識ある「普通の人達」の普段の一般的主張なり認識である以上、そういった「普通の人達」はこういう事件が起こっても、その行為に対して筋の通った批判をすることなんて出来ないということ。勿論、己の主張の一貫性を放棄したなりふり構わぬ駄々こねや、「敵」に対する不平不満という形でそれを非難することは出来るが。

そもそも、ある個人をただその現状を打開したいというだけで、その先に何の希望も勝ち目も無いのに、それを分かっていながら、「社会」という実体の無い概念上の存在に命を懸けた戦いを挑むまでに追い詰めてしまった時点で、「社会の一部」として「平和」を謳歌してきた者達は、その個人からどのような仕打ちを受けようと、なんら説得力のある批判をすることは出来ないだろう。何故なら、「社会」という体制側に身を置いた多くの者達は、社会的に劣位な位置に居る者達に対して、己の生存維持には不必要な蔑みを行うことで無駄にその者達の尊厳を踏みにじってきたし、それらを「出来るだけ生かさず殺さず利用して、それが出来なくなれば誰にも迷惑を掛けずにひっそりと死ぬべき存在」として扱ってきた。その関係性を改めようともしなかった。他者に対してそういった一方的関係を強いてきた者、或いはそういう眼差しを向けてきた者が、その他者からどんな反撃を受けたところで、一体何を驚くことがあるのかという。

或いは、こういった事件は画一化のための抑圧を掛けてきた社会的ベクトルへの反動として、人間の持つ多様性がそれに反旗を翻した結果と考えることも出来るが、その場合に於いてその役割を受け持たされることとなったその者に突きつけられる、何故自身という社会に不必要とされる存在が生まれて来なければならなかったのか、何故その不必要なはずの自身の存在無しに世界は存在し得なかったのか、という矛盾した問いに対する答えには、その社会の要求に応じてただ慎ましく消え去ることによってその矛盾を解消するか、もしくはそれに対して結論を出すことを保留し続け、その矛盾を抱え続けたまま生き続けるか、それともそれと真っ向から戦いを挑んで「せめて一太刀」を入れることによって己のその存在に価値を見出すか、という三つの選択肢しか用意されていない。そしてフィンランドに於ける「常識」がどのようなものかは知らないが、日本に於いては「逃げる」ことは非常に恥かしいこととされ、さらに決断を下さずに態度を保留し続けることは「モラトリアム」などという名前が付けられ、それ以上に恥かしく愚かなこととして非難される一方、「戦う」ことは賢明な判断として賞賛、称揚されるのが一般的だ(そのため、実際には「社会」という体制側におもねっているだけで全然戦ってもいないのに、「戦っている」ことを自称する者が続出するる始末)。少なくともこういった日本的な「常識」に照らし合わせてみれば、三つの選択肢から「戦う」ことを選んだ彼の行為は極めて「常識的」なものだったと言えるわけだ。

社会に於ける常識的様式にはどうしても馴染むことが出来なかった者が、判断に関しては極めて常識的な結論を下したという皮肉な結果。というか、人間が一つの様式に染まりきることなんて出来るわけもないのに、何故人は一つの様式へと収束させることばかりに拘るかねえ。全ての者が収まり切る様な様式を作ることは不可能であっても、より多くの者が収束出来るように出来るだけ様式を多様化するという方向性だってあるだろうに。

 ***

それはともかくとして、日本には私設暴力団や国立暴力団以外には余り銃が普及していなくて良かったね。というのも、もし日本にもアメリカやフィンランドほど銃が広く一般に普及していれば、きっと出口のない一方的関係性や、そこから抜け出せないように幼い頃から「社会」によって植えつけられた己の道徳的呪縛を清算するために、アメリカやフィンランド以上にあちこちでこういった玉砕覚悟の「せめて一太刀事件」が起こっていただろうから。まあそれ以上に、銃を使った自殺という形での淘汰が今以上に進んでいたことだろうとも思うけど。

其々の依存症

フリースクール:入所後すぐ暴行 恐怖心で反抗抑圧…京都(毎日jp)

傷害容疑で逮捕された京都府京丹波町のフリースクール「丹波ナチュラルスクール」経営者の江波戸聖烈(えばと・せいれつ)容疑者(60)が、施設に到着したばかりの入所者にいきなり暴行を加えていたことが12日、京都府警の調べで分かった。恐怖心を植え付け反抗を抑圧するのが目的だったとみられる。教育の実態がほとんどなかったことから、入所者を“金づる”とみるスクールの姿勢が一層浮き彫りになった。

 調べなどによると、入所者の中には家庭内暴力など問題を抱えていた若者も多く、スクール側は連れて来る車内から「お前は悪いことをしとんのや」などと叱責(しっせき)。到着するとすぐに江波戸容疑者や責任者の森下美津枝容疑者(55)のもとに連れて行かれ説教、暴行を受けたという。

フリースクール傷害:入所者の迎え、拉致同然の手口 京都(毎日jp)

 傷害容疑で経営者らが逮捕されたフリースクール「丹波ナチュラルスクール」(京都府京丹波町)が、入所者の迎えに男性3人前後のチームを派遣し、拉致同然の手口でスクールまで連れて来ていたことが府警の調べで分かった。スクール側がこうした「お迎え」で数十万円の別料金を取っていたことも判明。9日の家宅捜索では、木刀などと共に手錠が押収されており、府警は迎えの際に抵抗を抑圧するために使ったとみている。


監禁、お守り作り強要 フリースクール、少女の母証言(asahi.com)

終日、部屋の中で府外の神社のお守りをつくる内職をさせられた。その間、部屋は外から鍵をかけられ、事実上の監禁状態だった。ほかに3、4日は真夏の炎天下に4、5時間、農作業をさせられ、Tシャツを着ていても背中の肌が真っ黒に焼けるほどだった。

「え~、毎度お馴染み、教育の名を借りた拉致監禁暴行カツアゲ業でございま~す。ご不要になりました不登校、ひきこもりなどございましたら、是非お気軽にお声をお掛け下さい。」※1
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人間(に限ったことではないが)は何かに依存することなしには生きて行けない。「自立」という言葉の意味を本気で考えたことのある者ならば、それが己の生活を物理的に支える(資源、システム、組織などといった)何らかの環境的依存先や、その者の心の支えとなって精神的消耗を抑えたり活力の源となる何らかの精神的依存対象を獲得し、その対象に上手く依存し続ける能力のことを指すということは重々承知していることだろう。「自立」とは、その者の生活の維持を磐石なものとするのに必要なより良い依存先や依存対象を獲得し、その対象との関係を維持する能力のことなのだ。そして不登校やひきこもりと言われる存在はそういった能力に欠け、必要な依存対象を獲得することが出来ないが故に己の存在に意義を見出せなかったり、家族という予め獲得している依存先以外に新たな依存先を獲得する能力がなかったり、或いは獲得した依存先との関係を継続し続ける能力がないが故に、そういった肩書きが付与されるような状況へと陥ることとなる。

従ってそういった者達に必要なのは、まともな依存先を獲得し、その対象との関係を継続し続けることを可能とする政治的能力、そしてその政治的行為を遂行する動機として必要となる、死にたくないから生きているとかではなく、社会という決して解消し得ない個々の利害の対立の渦の中で、例えそれが他者に何らかの損害を与えることとなっても(誰であろうと、他者に迷惑を掛けずに生きていくことは出来ない)、例えそのためにより積極的に非道徳的行為を行うことになっても(一般的道徳の遵守は基本的に生存と競合する結果になる)、どんなことをしても生き延びて自身の存在を維持し続けようとする生への積極的渇望だ。故にその能力や動機をその者達から引き出すことが出来ない自立支援施設、及び取り組みは、少なくとも不登校やひきこもり達にとっての「自立」には何の役にも立たない代物といえるだろう。

では何故、そういった本来の目的には何の役に立たない施設や取り組みが存在し続けるのか。それは、そういったものがその施設の運営や取り組みに携わる者達自身にとっての依存対象として機能し、欲せられているからだ。子育てに失敗した親達(勿論その「失敗」という状態には親以外にも様々な原因が絡んでいるが)はそういった施設や取り組みに依存することで己のその負担を減らそうとし、それらを運営している者達は、その親や不登校・ひきこもりという存在に依存することでその施設や取り組みの運営を可能とし、それによって自身の存在に対する何らかの意義や、己の生活に必要な金銭を獲得したりする。そこにはそういった依存関係が成立している。

そういった意味では、この記事の容疑者達にせよ長田百合子らにせよ杉浦昌子らにせよ戸塚宏らにせよ、「自立」能力の無さ加減という点では、不登校やひきこもりと言われる者達に決して負けてはいない。何故なら彼らもまた、偏向的な思想(依存対象)こそ獲得し得たものの、それ以外にはロクな依存先を獲得することが出来ず、それ故こういった私設北朝鮮施設のようなものを自ら作り、そこで不登校やひきこもりという存在、そしてその親達の経済力に依存することでしか己の生活を保つことが出来ない者達なのだから。

せっかく刑務所から出獄して自由になったはずなのに、直ぐにまた犯罪を犯してそこに戻ろうとする人達がいる。何故彼らがそういうことをするかと言えば、彼らは自分達が刑務所という依存先でしか生きていけないことを知っているからだろう。同じ様に、この手の施設を運営する者達もまた、(少なくともその時点に於いて)自分達が不登校やひきこもりと言われる存在、そしてその親達に依存しなければ生きては行けない人間であるということを知っている。そして彼らは、他者と相互的な信頼関係を築く能力に欠けているため、何らかの大儀の庇護の下に隠れ、自分の思い通りにならない者に対して暴行を働いたり、罵声を浴びせたり、環境的に追い詰めたりすることくらいでしか他者との関係を維持することが出来ない。だが、そういった一方的なコミュニケーションしか取ることが出来ない者が活躍出来る場所はそう多くはないだろう。結果として彼らは、同じような偏向した思想を持った自立能力の乏しい者達と連帯し、教育という大儀を後ろ盾として作成した治外法権的施設に、不登校やひきこもり、そしてその親達を引き寄せ、それらに依存することでしか生きて行けない。彼らはそういった重度の不登校・ひきこもり依存症に陥っている。


<一方通行的な教育・道徳観への依存症>


しかし、そういった偏狭的な依存能力しか持たない者達が他者を「自立」させるための「教育」を施すという倒錯や、そのために作成した治外法権的施設や秩序で一方的な隷属関係を維持し続けることは、彼らの力だけで成し得ることではない。それを可能とするためには、先ず教育や道徳といった何らかの大儀を掲げ、(表向きと実際の状況に程度の違いはあれど)そういった隷属関係の確立や維持に対するある程度の理解を世間から取り付け、その力添えを得なければならない。

つまり、こういった強制収容所と化したフリースクールに限らず、時津風部屋の暴行死事件や自衛隊に於ける異常なまでの自殺率の高さになどに象徴されるような関係性があちこちでつくり出されるのには、「教育や道徳は他者を自分にとって都合よく作り変えるための道具である」という一方通行的な考え方がこの社会のマジョリティとなっていることが大きく関わっている。そしてそういった風土が、其々の場所で小さな北朝鮮が生まれ育ち、その体制を維持することを下支えしている。

確かに、教育や道徳という大儀で以って肥大化することが許された圧力や暴力を用い、それによって他者を一方的にコントロールすることが出来るとしたら、それを御旗として掲げる側にとってこんなに都合の良いことはないだろう。実際、その大儀によって世間から理解を得た抑圧によってある程度他者をコントロールすることが出来るのは事実だ。だからついついそういった教育・道徳観に依存したくなる。だが、他者を自分にとって都合よく最適化したいという欲求、或いはそのように他者から扱われたくないという反発心は、全ての人間が持っている。結果として、多くの者達が「我こそが真に正しき教育や道徳の代弁者である」と唱えはじめ、それ故、其々は常に他者からの「教育」や「道徳」を大儀とした抑圧や監視に怯え続けなければならなくなる。

例えば無差別殺傷事件にしても、そういった教育・道徳観を支持するならば、あれもまた、他者の大きな苦痛の上に成り立つ悪業システムに乗っかって無神経に人生を謳歌する蒙昧な一般大衆に対する道徳的鉄槌であり、教育(啓蒙)であると見做すことも出来る。もし教育や道徳を大儀として他者と一方通行的な関係を結ぶことが許されるとするのならば。また、この前の記事で取り上げた、駅のコンセントで携帯を充電していた者がそれを見た通りすがりの者に民衆管理局(警察)へと密告されたケースを始め、多くの国民が、ほんの些細な落ち度(若しくは空気を読まない行為)であっても他者に(その落ち度の大きさとのバランスを欠いた)罰が与えられることを望んだりすることや、ちょっとしたことでも直ぐに国民的なバッシングにまで発展してしまう昨今の風潮なども、こういった教育・道徳観があってこそ成立するものだろう。そこでは教育や道徳というものは、その一時点だけを見て、その前後への配慮や他の要素との整合性を欠いた極めて一方通行的なものであり、単に自分の気に入らないものに対する暴力を正当化するためのものでしかない。

だが、そういった教育・道徳観が世間に浸透すれば、自身もまた他者からその大儀で以って暴力を振るわれ、抑圧される可能性もまた認めなければならない。かといってそれを放棄してしまえば、自らの暴力や抑圧を正当化する理由が失われてしまう。そういったジレンマがありながらも、多くの者は結局そういった教育・道徳観にしがみ付き、それに依存し続ける。何故なら、それは自身の価値観で世界を満たしたいという征服欲や、自分の気に入らない者を叩きのめしたいという暴力欲を正当化してくれる麻薬のような存在だからだ。しかもそれは、手を伸ばせば誰もが届く場所にこれ見よがしに転がっている。だから、誰もが一度は必ずそれに手を伸ばす。そして一度その味を占めてしまえば、中々それを止められなくなり、中毒となる。

 ***

人間社会に於いて、個々人の利害の衝突、つまり競合関係は決して解消出来ない。だがそれと同時に、個々人が意識しようとしまいと、何らかの相互利益関係もまた常に形成されている。しかし、本来ならば相互利益的な関係を後押しするための役割を任せられているはずの教育や道徳といった概念が、一方的な関係を形作るものとして用いられれば用いられるほど、その相互利益的な関係性は影を潜め、その分だけ競合関係が強化されていくことになる。そうなってしまえば、主に其々の場所に於ける政治的趨勢の積み重ねによってのみその社会のあり方が決定付けられていくこととなる。そしてその相互利益性と競合関係とのバランスの悪さが、其々の場所で小さな北朝鮮や、硬直した一方的関係を生み出すことを容易なものとする。さらにそうなれば、必然的に趨勢への反発もまたより先鋭化した形で行われるようになることを覚悟しなければならないだろう。何故なら、そういった硬直化した一方的関係の下で幾ら言論で異議を申し立てたところでそれが聞き入れられるはずもなく、その異議を有効なものにするためには、もっと別の手段を用いなければならなくなるわけだから(例えば今回紹介した暴行監禁事件にしても、施設から逃げ出して国家という“より大きな暴力”に頼ることでしかその状況を打開することは出来なかった。そしてもし国家の暴力に頼ることすら出来ない状況であったとすれば、他にその局面を打開するためのにどんな方法があったのかと言えば…)。

教育への公的支出、日本最下位 家計に頼る構図鮮明(asahi.com)

 経済協力開発機構(OECD)は9日、加盟30カ国の教育に関するデータをまとめた08年版「図表で見る教育」を発表した。05年現在の調査結果で、国や地方自治体の予算から教育機関に出される日本の公的支出の割合は国内総生産(GDP)比3.4%と、データのある28カ国中最下位になった。

この国の教育への投資額、つまりそれを重視する姿勢は実際この程度のものなのだが、その割にやたらと「教育が悪いから云々」などと言ってみせる人達が多いのは、結局そういうことなんだろうと。つまり、そこで登場する「教育」とは、他者を自分にとって都合よく作り変えるものとしての「教育」なのだ。だから、そういった教育観が蔓延したこの社会で、それを否定、批判することなしに行われる教育談義というのは、実質的には「世界よ、俺色に染まれ!」と言っているだけに過ぎない。

でまあ結局何が言いたかったのかと言えば、教育や道徳を一方通行的な関係を形成するための道具であるという考え方に依存するのを止め(でなければ、幾ら教育に予算をつけても、そのお金は結局何らかの硬直化した一方的関係をより強固なものにするために使われるだけだろう)、それによって競合関係と相互利益関係がある程度のバランスを取り戻させ、この記事の容疑者の様な人間でももっとましな何らかの依存先にありつけるような環境が整いでもしなければ、個別の人物を幾ら捕まえていっても、色んな場所でその土壌から幾らでも新しい戸塚や長田が生えて来るよ…、というか、自立能力の有無の違いはあれど、内容的には既にあいつもこいつもどいつもそいつも戸塚や長田になっているんじゃないのかと。いや、むしろ戸塚や長田にならなければ(つまり、一方通行的な教育・道徳観を無批判に受け入れ、それを上手く利用しなければ)生きて行けない世の中に既になっているんじゃないのかと、そういう話。



※1 こういう表現を用いるとふざけている様に見えるかもしれないが、これは単にネタというだけではなく、こういった施設は元々、そこに集められた(利用価値がなくなった)人間の感覚や資質を一端解体し、それを社会に最適化されたものとして作り直して再び利用出来るように(リサイクル)することを期待されてそれが存在しているんでしょ?という示唆にもなっている。

だからみな、自分が群れの一部であることをアピールする

駅コンセントで携帯充電の女子大生摘発、被害「3銭」(asahi.com)

 携帯電話充電のために駅構内のコンセントから3銭分の電気を盗んだとして、神奈川県警相模原署が女子大生(20)を窃盗容疑で摘発した。

 調べでは、8月19日未明、JR相模原駅構内でコンセントに充電器を差し込み電気0.015ワット時を盗んだ疑いがある。通行人が110番。女子大生は友人と待ち合わせをしていたという。

3銭?せっこー。そんな単位の通貨なんて流通すらしてないし。そんなことより、サービス残業を強要している会社の経営者やその共犯者達を片っ端からとっちめた方がいいんじゃないの。損害額だってそちらの方が比べ物にならないほど大きいことだろうし。でも、何故かそちらはノープロブレム。ほんとこの国は個人にとことん厳しく、集団(群れた個人)にはとことん甘い国だなあ。

実際この国では、既存の群れにおもねって上手くそこに入り込んだり、自らが何らかの群れを作り上げたりでもしなければ、その者は人間らしい扱いすらしてもらえない。例えばせどりなんかにしても、会社という集団に所属する多くの会社員達はそれを当たり前のこととして胸張って行っているのに、個人がそれを行うとやましい悪行扱いになる。或いは、個人が人から与った金でギャンブルをしていたら遊び人といって蔑まれるが、集団で人から与った金で株取引でもやっていれば、そのギャンブルは労働行為と見做され、それを行っている者には「立派な社会人」という煌びやかな肩書きが与えられる。

「群れに所属しない者は人間として見做されると思うな」

それがこの土地に古くから伝わる暗黙の掟。それは体裁上設けられた表の最高法規なんかでは全く太刀打ち出来ないアンタッチャブルな存在だ。それ故、ちょっとでもその群れから外れるとその者が独立した個人である疑いが掛けられ、人間扱いされない恐れが出てくるので、人々はみな、常に「私はこういう群れの者です」「○○の群れの方から来ました」「私はナントカ群れが定めた資格を持っています」「私は以前あの群れに所属していた者なのですが…」などと言って自らが何らかの群れの一員である(あった)ことをアピールし続けなければならない。さもなければ、何らかの群れに所属する多くの「普通」の人達から蔑まされ、下手すれば石を投げつけられたりバットで殴りつけられたりして殺害されかねない。ここはそういう秩序が支配する場所。

この国の人間が妙に鰯っぽくなっているのには、そういった理由があるのだ。

次はどんな形容詞が付加されることやら

そういえば、山口百恵氏がステージにマイクを置いて芸能界を去って行ったように、福田康夫氏もまた、「あなたとは違うんです」という素敵な台詞を置き土産として総理の座から去って行きましたね。

自民党の総裁選は候補者乱立の様相を呈し、それを見ると何故か、『キン肉マン』の悪魔超人登場の時にどさくさにまぎれてリングの上に上がっていた読者募集超人の姿などがふと頭に思い浮かんだりもしたが、それはともかくとして、やはり次は、自分の知らない間に「(テレビ曰く)国民的人気」とやらになっていたらしい漫画好きのあの人が、その漫画好きと分かり易さを武器にして自民党の新しい総裁へ、そしてこの国の総理大臣へとその歩みを進めることになるのだろうか。それとも今回はそのカードは温存するのか。
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だが誰が総理大臣になっても、きっと「とてつもない日本」の「とてつもなさ」が益々加速して行くことになるのはもはや避けられないのだろう。まあ、益々とてつもなくなるといっても、元々この国はそれ自体が少し洗練された麻生炭鉱みたいなものだから、ただその性質がより色濃く表れてくるだけのことだけど。

昔のような荒削りな社会なら、奴隷(実質的に選択の余地のない隷属関係に置かれた低賃金労働者)が必要となれば力づくで人間を引っ張ってきて、無理矢理その地位につかせていた。しかしより洗練された社会では、そんな野蛮な方法は用いられない(橋下氏をはじめ、未だに「昔の野蛮な方法へと戻せ」という意見も根強いが)。そこではそんな方法よりももっとスマートな方法が採用される。その方法とは、先ず予め多くの奴隷の席を設けておき、始めは敢えてそれを空白にしておく。そしてその社会に於けるめぼしい資源と役割は、全てより大きな暴力システムに統括された其々の集団の下へと集約し、その集団に上手く取り入らなければそれが得られないような状態を作っておく(勿論、自らがその集団を作り上げ、それによって資源や役割を獲得するという方法もないことはないが)。これで準備オッケー。後は、その其々の集団に上手く取り入ることが出来ず、それ故めぼしい役割にもありつけなかった者達が、自ら「私を奴隷として雇ってください」と言ってその「空白の席」を譲ってくれるように言い寄ってくるのを待つだけ。実際、そういう者達はそうでもしなければ生きては行けないような状況に置かれているので、「“隷”か“死”か」という苦渋の選択の末、その多くがその席を求めてやってくる。砂漠で水に飢えた者達が、やっと見つけた水溜りの泥水を奪い合って飲み干すように。

しかし奴隷を雇う側は、簡単にはその席を譲らない。そうやって追い詰められた者達の足元を見て、その席を譲ることを充分にもったいぶってみせる。「うちも奴隷なんて雇いたくないんだけどね~。それにもう席は一杯だし。」「この仕事は辛いよ。お勧めしないよ。それでもやるの?」といった具合に。しかし既にのっぴきならない状況に追い込まれているその者達は、本意ではないものの、それに合わせるより他なく、空元気を振り絞ってそれに応じる。「どんなことでもやりますし、どんなことにでも従います、不平不満だって言いません。だからどうぞ私を奴隷として雇ってください」といったように。その言葉(状況)を引き出すことによって初めて、雇い主はその者を奴隷として受け入れることを認める。つまりその者が、己自身で己を雇い主の望む律で縛りつけるよう仕向け、自らが望んで奴隷となったということを己自身の口から宣言させるのだ。これによって初めて本当に強固な隷属関係が成立する。自由意志でそれになったのだという体裁が形成される。そしてその体裁を保つために、離脱の自由だけはある程度認められている(自由といっても、そこから離脱すれば、死ぬか、巨大な暴力システムに一個人で戦いを挑み続けるかのどちらかの可能性しか残されていないわけだが)。

そしてそうやって奴隷になった者達が自分達を取り囲む状況の改善を訴えると、「お前達は自らの自由意志でそうなることを選択したのだから、こちらはそんな不平不満に付き合う義務もなければ、それに応える必要もない」と言ってムチ打つ代わりに、「もっと下にいる人間」を飴(バッシング対象)として与え、その娯楽によって奴隷達を飼いならし、その士気を保つ。仮にその者達がそういった関係に嫌気が差して、或いはその関係を持続することが出来なくなって、「死」の可能性に大きく近づくことを犠牲としてそこを離れて行っても、雇い主はさほど痛くはない。何故なら、新たな奴隷候補は幾らでも生み出すことが出来るからだ。めぼしい資源や役割が集約されたその集団から誰かを追い出したり、そこに流入する者達を調節することによって。

 ***

幾らその社会を包むパッケージが新しくなっても、残念ながら、結局その中身であるこういった根本的なシステムの在り方自体は余り変わらない。そしてそのシステムを上手く利用し、「普通」と言われる特権階級以上の位を獲得した者達は、その位を獲得したことで自らの徳の高さが証明されたとして、集団におもねる能力の低さ故に「普通」未満の地位しか獲得することが出来なかった「位(=徳=志)の低い者達」に、とくとくと道徳を説いてみせる。その者のあり方が非道徳的であるとして糾弾してみせる。道徳的精神が足りなかったからこそ今の様な地位しか獲得できなかったのだ、と言ってうそぶいてみせる。実際のところ、ある者が社会的地位を獲得したことによって証明されるのは、その者がその社会的地位を獲得する能力を持っていたということだけなのだが、いつの間にか、「普通」という社会的地位をボーダーラインとして、その者が道徳的に優れていたか劣っていたかまでを推し量ることが出来るかのような了解が出来上がってしまう。それゆえ、「普通」未満の地位しか獲得出来なかった者は、経済的困窮と同時に、道徳という凶器によって、内(罪悪感)と外(他者による糾弾)からメッタ刺しにされることまでもが余儀なくされる。これこそが人間の持つえげつなさの真髄の一つだ。

そしてこの国には、そういった道徳の矛盾を直視し、それに疑問を呈する人間は殆どいない。こういったシステムを改めようとする機運が生まれる様子も全くない。故にこの国はとてつもなく、そして「道徳」は本来のそのえげつない姿が暴露されることなく、それが隠蔽されたままであるが故に、その美しさを保っていられる。この国が美しく、とてつもないのには、そういった理由があるのだ。

美しくて、とてつもなくて、…そして次は、どんな禍々しい形容詞がこの国に付け加えられることになるのだろうか。

ジャン=ミシェル・ダマーズ氏の自作自演がYouTubeに

2005年に浜離宮朝日ホールで、ジャン=ミシェル・ダマーズ氏を
迎えて行われた清水信貴氏のコンサートでの演奏の模様の一部が
YouTubeに投稿されている。なんでもこのコンサートでは、
そのプログラムの殆どがダマーズ氏の曲で占められていたらしい。
まあ、わざわざ本人を迎えて行われたものだから、当然といえば当然?

J.M. Damase - Nobutaka Shimizu Flute Sonata en Concert


フルートとピアノのための演奏会用ソナタ

J.M. Damase - Nobutaka Shimizu Flute Sonata en Concert


Excerpt, Piano Solo by Jean-Micael Damase


ピアノソロも。曲はソナチネ(1991)。

Flutes - Tokyo Japan - JM Damase - Dialogue pour deux Flutes
こちらはダマーズ氏抜きで演奏された、2本のフルートのための対話

Trio pour deux flutes & piano - Tokyo Japan


2本のフルートとピアノのための三重奏曲。
このコンサートのものではないが、残りの楽章も投稿されている。
ANDANTE /ALLEGRO /ALLEGRO RISOLUTO

ダマーズ氏の曲で一番有名かつ人気があるのは多分この曲↓
J.M.Damase Sonata for flute and harp 1st movement

だと思うけど、この三重奏曲もそれに匹敵する程の魅力があるように思う。

Encore - Alexander Scriabin Etude - arranged by Damase
そしてアンコールでは、スクリャービンのエチュード(6番)を
ダマーズ氏が編曲したものが演奏されたようだ。
ダマーズ氏曰く、この時の演奏がこの曲の初演だということ。

やっぱりこの人の室内楽作品は格別に素晴らしい。
でもこの人のCDを店で売っているのを見かけたことは殆ど無い。
上で挙げた三重奏曲が入ったCD(そこでも彼本人が演奏)が
欲しいんだけどなあ。通販という手もあるが、通販だといつ家に
人がやって来るか分からないので苦手。もうかなり前から注文したい
とは思っているんだけど、それが億劫で未だに注文出来ていない。

自分が持っている彼に関するCDは以下の二枚。

Jean-Michel Damase : Flute & Harp MusicJean-Michel Damase : Flute & Harp Music
(1994/07/26)
Ferenc SzucsGillian Tingay

商品詳細を見る

Piano Music by Jean-Michel DamasePiano Music by Jean-Michel Damase
(2006/02/28)
不明

商品詳細を見る

特にフルートとハープのための作品集が素晴らしい。
これは自分が持っているクラシックのCDの中でも最も気に入っているものの一つ。

ギアス抜きでコードギアスをやろうとしたら

多分、こんな感じになるのではないかと。

United States Presidential Candidate from Japan(外山恒一)



実際、福山潤氏がこの台詞を「ゼロ」のあの口調で
言ったとしても、何の違和感も感じないように思う。
 

認証破り

FC2ブログにコメント投稿時に於ける画像認証機能が付いてから、コメントスパムは全く来なくなったんだけど、最近またスパムが来るようになった。ここ二日ほどでも三件ものスパムが。全部同じIPホストだったけど。IPホストやコメント内容で検索すると他にも同じ様なものが沢山出てくるので、手動によるただの嫌がらせでもないようだし、認証を破るツールかなんかが出回り始めたんだろうか。そういや、少し前にgmailの認証が破られたって話があった。あれは実際に安価な賃金で人が雇われているって話だったようだが、もしかして今回のも雇われなのか?

どちらにせよ、あんまり割のいい商売には思えないんだけどなあ、この手のものは。まあ実際にアフィとかやったことないし、そこらへんの事情はよく分からないけど。以下の記事にあるように、この手の作業を行っている人間は、それを好き好んでやっているというより、どちらかといえば社会的なポジション争いで破れ、こういう下らない仕事しか手に入れることが出来なかった人間がそれをやっているというイメージがあるんだけど、実際のところはどうなんだろう。

参考記事:「画像認証」破りの求人広告を発見、「1000件読み取るごとに1ドル」 (ITpro)

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ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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