ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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理念は己の分身によって踏みにじられる

・自由→「働けば自由になる」※1

・平等→同化政策

・平和→“みんな”と仲良く出来ない者、
 “みんな”の安心を阻害する者への弾圧と排除
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理念は頭の中にあるからこそ純粋に理念でいられるのであって、一歩頭の外へと踏み出してしまえば、それもまたただの政治的道具になってしまう。その結果、外界へと踏み出して道具となった理念によって、それを生み出した元々の母体である純粋な理念が踏みにじられてしまうというのはよくあること。誰も社会を覆う人工的暴力システムから逃げることは出来ず、そしてそれを上手く利用しなければ生きてはいけない状況がある以上、何人たりとも政治的であることから逃れることは出来ない。理念という概念でさえも。

因みに、法律家が法の理念を踏みにじろうとするのもこの国ではよくあること。

園児の農園を大阪府が強制収用…第2京阪道路建設で(読売新聞)※2

 2010年3月供用開始予定の第2京阪道路の建設工事を巡り、大阪府は16日、「保育園児の農園がある」として用地売却を拒否している同府門真市の社会福祉法人「北巣本福祉会」に対し、用地を強制収用する行政代執行を行った。

 用地は、同法人が運営する北巣本保育園近くの約770平方メートル。売却交渉は約5年前から始まったが、園児らが耕作した農作物を給食に利用するなどしており、同法人側は「食育の場として重要」と売却を拒否。府収用委員会が今年3月に土地収用の裁決を行ったため、同法人は大阪地裁に行政代執行の停止を求めたが、「農園を代替地に移すことは可能」などとして却下され、大阪高裁に抗告中だった。


○○○!知恵袋 橋下知事は鬼畜ですか? (いしけりあそび)

 一審の執行停止決定に対しては行政側から、執行停止却下決定に対しては申立人から、高等裁判所に不服申立=即時抗告=ができます。(中略)

申立から決定までは、どんなに早くても、1ヶ月弱程度はかかります。即時抗告の場合は、それより早くはでるもの、やはりある程度の時間がかかります。

 この間に、執行をすることはできるでしょうか。
 してよいという意見もあるのかも知れませんが、実務上はしていません。なぜなら、上記の趣旨からすればあきらかなとおり、執行停止が申したてられた以上、当該行政処分が停止された場合に「公共の福祉」が害されるかは、裁判所が判断するというのが日本の法律の基本的な考え方であり、それをまたずに執行することは、裁判を受ける権利を実質的に奪うことになるからです。

 その意味で、一審の却下決定に対して即時抗告があり、今月30日に大阪高裁が決定を出す予定であるにもかかわらず、それを待たずにした大阪府の行政代執行は、異例中の異例の措置といわざるをえません(※1)。司法判断を待たなかった理由について、「10年3月末に予定されている第2京阪の全線供用開始に間に合わなくなるため」と弁明していますが、こうした不利益が「公共の福祉」を害するか否かを、行政の独断にゆだねず、裁判所が判断すべきとしたのが、執行停止制度なのです。(中略)

 日本の裁判所はいっぱんに行政と個人が対立する場合に、行政よりの判断をするとされています。しかしながら、個人が、行政によって権利が侵害されたと考えたときに、それを救済するための制度があるけどなかなか勝てないのと(※2)、そうした制度すらないのでは、雲泥の差があります。
 橋下知事について、わたしは同業者とおもったこともないので、弁護士のくせに、とはいいませんが(※3)、その判断には、イモがどうのではなくて、法治国家の根本をゆるがす危険がひそんでいることに注目していただきたいとおもいます。


山口県光市母子殺害事件の弁護団に対する懲戒請求扇動騒動を起こした橋下知事に賠償を命じた広島地裁での判決文より

 弁護司法1条1項に、弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とすると規定されていることから明らかなように、弁護士は議会制民主主義の下において、そこに反映されない少数派の基本的人権を保護すべき使命をも有しているのであって、そのような職責を全うすべき弁護士の活動が多数派に属する民衆の意向に沿わない場合がありうる。多数の者が懲戒請求をしたことをもって懲戒相当性を認めるということは、弁護士が上記のような使命・職責を果たすべきこととは相容れない。(中略)その活動が違法なものでない限り、多数の者から批判されたことのみをもって当該刑事事件における弁護人の活動が制限されたり、あるいは弁護人が懲戒されることなどあってはならないことであるし、ありえないことである。したがって、弁護士に対する懲戒自由の存否について多数決で決することは本来許されるべきことでなく、懲戒請求の多寡が弁護士に対する懲戒の可否を判断するに当たり影響することはない。被告の主張は上記のような弁護士の使命・職責を正解しない失当なものである

判決の全文は以下のページで読める(PDFファイル)。
光市事件懲戒請求扇動問題 弁護団広報ページ

これらの問題に限らず、「民主主義は多数決だから、多数派の言う事が正しいに決まっている」みたいなことを平然と言ってのける人がやたらと多いのには本当に呆れる。そんなことを言うのならば、多くの独裁国家は基本的に「多数決」の条件を満たしているわけだから、それもまた民主主義国家ということになってしまうんだけど。勿論、本当はこの判決文が示すように、それだけじゃ民主主義とは言えないのだが。まあ日本は偽装民主主義国家だから、そういう認識を持っている人が沢山いても当然と言えば当然なのかもしれないが、これもまた、外界へと進出して政治的道具となった理念によって元々の理念が踏みにじられている一つ例と言っていいだろう。

大阪・橋下知事、私学助成金削減めぐり高校生と意見交換会 「日本は自己責任が原則」(FNNニュース)

そういや、うちの知事がまた教育に関して色々とオーサカらしい主張や動向を取り始めているが、教育に於いて一番重要なのは、先ず子供達にこういった民主主義の土台となっている理念をちゃんと理解させることなんじゃないのか。この国が民主主義であると言うのなら。しかし、「ガクリョク」とやらの重要さを説いて回る人達って、大抵そういうことには無関心だったりする…というか、むしろそういう人達に限って、「民主主義とは多数決である」という矮小化された民主主義観を他者に押し付けようとしたり、逆に教育予算を減らしてみたり、子供から「数々の大型公共事業の失敗によって借金塗れになったのに、何故また大型公共事業重視の政策を取るの?それよりも教育、医療、福祉にお金を使うべきなんじゃないの?」みたいな疑問を投げ掛けられたら突然激昂して、「じゃあ、あなたが政治家になって」「国を変えるか、この自己責任を求められる日本から出るしかない」などと言ってその子供を面罵してみせたりするから始末が悪い。まあ日本は偽装民主主義国家だから…以下略

「高速道路なんか、正味あんなたくさんいらないと思います」と税金に無駄遣いがあると指摘すると、橋下知事は「それは、あなたがそう判断しているだけで、わたしは必要な道路は必要だと思っている」と反論し、

というかこれ、反論とは言わんだろ。何故そう判断したかその根拠を訊いているわけで、そのことに対する明確な理由を述べる説明責任が政治家にはあるはずだ。もし橋下知事がそれを述べていたのならば、その部分こそ報じるべき。そしてそういった説明がなされ、論拠が提示されることで初めてこの対談に価値が出てくる。そうでなきゃ、公費を使ったただの個人的広報活動。まあこの記事における彼の言動からして、「根拠は俺」だと思うけど。

彼はここで「自己責任」を連発しているが、他者に軽々しく「自己責任」を突きつけるのは、その相手に「責任のスポットライト」を当てることで自身の言動の責任や政治性を暗闇に隠し、何を以ってそれを正しいとしているのかという論拠の提示を放棄しようとする行為に他ならず、それは自分に対する最高の甘やかし以外の何物でもない。そもそも、「自己責任」はその元を辿れば、愚行権行使の自由を認めようというような理念から生まれてきたんじゃないのか(いや、正直その出自についてはよく知らないけど)?それが何時の間にか、社会的趨勢に於いて優位に立った者や、社会システムを掌握した権力者が己のタガを緩め、権限の行使や言動の自由を何の論拠も提示せずに拡張するための道具に成り果てているという。

ただし、日本における「自己責任」は、始めから己の責任を闇に隠すための道具として一般に広まったようだけど。日本で「自己責任」という言葉が普及し始めたのはイラク人質事件以降ということになっている。しかし、自分がその言葉を意識し始めたのは九十年代中盤くらい。ちょうどその頃に、専門的な知識を持ち合わせていない個人の顧客が軒並み証券会社にカモられてちょっとした問題になり、テレビなどでもその問題が取り上げられたりしたのだが、その時に証券会社側が出してきたのが「自己責任」という言葉だった。おそらく、あれが日本における「自己責任」の出自だと思う。つまり、ヤツが日本に住み着いた時は、もう既に相当胡散臭い野郎に成り下がっていたわけね。なんせ、インチキ証券会社の助っ人として登場したわけだから。で、今もまたその手の人達から助っ人として引く手数多であると。



※1 Wikipedia『働けば自由になる』より

働けば自由になる(ドイツ語: Arbeit macht frei)は、そもそもは19世紀後半のドイツ人作家が用いた小説のタイトル。20世紀前半、ナチス政権が強制収容所のスローガンとして用いたことで幅広く知られる語となった


※2 この件に関して、これは国主導の事業だから、府側に、つまり橋下知事には責任はないというような意見を見かけたが、それは明らかに誤り。

橋下知事が霞ヶ関に 第2京阪道の整備促進など陳情(産経新聞)

 大阪府の橋下徹知事は国などに対して、第二京阪道路の整備促進や、関西空港の2期事業の推進などを要望するため30日、1泊2日の日程で上京した。初日は国土交通省を訪問し、府と守口市、枚方市など沿線7市で組織する第二京阪道路整備促進大阪協議会の会長として沿線市長らとともに、同道路の平成21年度供用開始のための予算措置などを求めた。(中略)

 要望を終えた橋下知事は、第二京阪道路については「全力を尽くす」という回答を得られたと説明。「関西の都市基盤にとって必要なものは必要と声を上げていかなければ」と述べた。

この件に限らず、国主導だから県側に責任はないというのはただの責任逃れ以外の何物でも無いだろう。まあ確かに、場合によっては国の意向にさからったら「補助金減らすぞ」と脅されることはあるかもしれないが、かといって県側に責任が無いとも言えないだろう。というか、本当に大型公共事業が好きなんだなこの人。なら最初からそのことを公約に書いとけよ。「道路を重視して、節約のために教育予算を削ります」とか。公約の破棄どころか、公約に示されたベクトルと間逆な方向へと向かっているのが橋下府政。
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書くと疲れるし書かないと疲れる

なんだか無性に疲れた。書きたいことは幾らでもあるが、なかなか文章を書く気にもならない。
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自分にとっては文章を書くということもまた、他の幾つかの事柄と並んで最も苦手な事柄のうちの一つ。ただ単にその場で思い浮かんだことをそのまま何も考えず適当に書き綴るだけならともかく、始めから頭の中にある「ある考え」を取り出し、それをある程度文章として成立した形にして書き出すのには、結構…というか、かなりの気力を消費する。まあそれでもその気力を消費した分だけ成果が出ればいいんだけど、実際は散々それを文章として書き出そうとして苦心した挙句、結局頓挫したままに終わることの方が圧倒的に多い。そういう場合はよりいっそう大きな疲れが襲ってくる。このブログで投稿した記事の多くも、元々はどうでもよいことを適当に書いているうちに、たまたま「考え」を乗せることが出来る受け皿が出来上がり、そこにそれを盛り付けることによって出来上がったものが殆どだ。つまり、予め「こういうことを書こう」と思ったことが中々書けない。無駄に気力を消費するばかりで。

で、ここ暫くその文章を書くという大層気力を消費するばかりで余り報われることもない行為から距離を置いていたわけだが、じゃあそれで気力が温存できて楽になったのかと言えば、全然そうじゃない。むしろ益々疲れてきた。というのも、何らかの考えや負の感情はどんどん溢れ出して来る一方、自分にはここでそれを文章に変換して吐き出すという方法以外に上手くそれを昇華させる手段を持っていない。その為、それをしなければ、今度は行き場を失ったその考えや感情がいつまでも頭の中を駆けずり回り続け、オーバーヒート状態になってしまう。だから疲れて仕方が無い。

かといって、言いたいことをちゃんと形をなした文章としてまとめたり、溢れ出てきた負の感情を、自分の醜さを露呈するだけのただの罵倒以外の形に変換して書き出すのもまた難しく、それをする気力も技術も無いという。

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とはいえ、こういうどうでもよい内容の記事でもそれを完成させればそれなりにスッキリしたりもするので、払った労力の分だけそれが何らかの形として結実しさえすれば、本当は内容なんてどうでもいいのかもしれない。「俺は労働してるぜ!」といって誇らしげにしている人は多いけど、実際のところその労働の中身は本当に下らないものであったり、他の人からすれば何の価値も無かったり、むしろ他人に迷惑を掛ける行為であったりするのと同じで、本当は何をしているのかよりも、何かを行ってその労力が何らかの形として結実することの方が重要なのかもしれない。逆にその労力が結果として結実しないような状態が長い間続くと、どんどんモチベーションは失われていき、最終的にはそれが枯渇して、己の人生に対する価値を見出す力さえ失い、自分みたいな廃人になる。モチベーションというのは無限に溢れ出るものじゃないからね。無駄に消費し続ければそれはいつか必ず枯渇する。精神もまた永久機関ではありえないのだから、当たり前といば当たり前なんだけど。

だが、その事実は未だ世間とやらには広く知れ渡っていない。それ故、何らかの議論が交わされる時も、その前提条件が無視された上でそれが為されることが殆どだ。いや、本当は多くの者がそれを知っていながら、敢えて政治的に知らないふりをしているだけなのかもしれないが。

ジャックが来たりて「これしか方法がないんだ」と宣告す

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テレビで『24』のシーズンVIが放映され始めた。しかし何故このタイミングなんだろう。まだシーズンVIIは公開されていないはずなのに。大抵、新しいシリーズのDVDレンタル開始に併せて前のシーズンが放映され始めるんだけど。
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それはともかく、『24』程刺激的で、見終わった後に何も残らない物語も中々無いだろう。シリーズの内の幾つかを見たけど、結局覚えているのは、基本的にどんでん返し的な落ち着きの無い展開が状態化していたということと、とにかくジャック・バウアーが凶悪極まりなかったということだけ。それがひたすら繰り返され続けた結果、段々とジャック・バウアーが暴走すること自体が主目的であるかの様になってゆき、もはや彼は大儀を口にして暴れ回る(13日の金曜日の)ジェイソンのような存在になってしまっている。核爆弾も化学兵器もそれを使おうとするテロリスト達も、すべては彼の暴走をアシストするための役割を果たしているだけに過ぎないだろう。

しかしあの物語のでは、そんな彼の一切の原則を無視した無茶苦茶な行動や選択が全て「仕方がなかったこと」、つまりある程度正解であったことになってしまう。ちょうど『Xファイル』に於けるモルダー捜査官の奇天烈な推理が、その物語の中では大抵的中しているのと同じように。もしかしたらこの物語は、国家の安全を大儀として為される行為であれば、どんな原則も覆して構わないのだという、アメリカ流の文化的「教育」の一環であり、それを大儀として行われる暴力の(「それが仕方が無いこと」であるという)言い訳を、予め人々の脳裏に植え付けて馴染ませておくという役割を担っているのではないのか、とさえ思えてくる。

とはいえ、自身の望む秩序の形を整えるために、その個人的欲望を「公の利益」と言い換え、人工的に形成された暴力環境をまるで自然環境であるかのように摩り替えてそれを「仕方が無いこと」とした上で、「これしか方法がない」と言ってその暴力を肯定したり、何らかの原則を覆してしまおうとするようなことは、現実に於いて誰もが常にやっていることだろう。そういう意味では、誰の中にもジャックは存在していると言える。

ただし、個々人の持つジャックは『24』の劇中で登場するジャックほどの実行力は持っていない。現実に於いて、孤立した個人は常に弱者。だから、個人の内側に潜むジャックが幾らその個人を突き動かし、その者の持つ能力を最大限に引き出したところで、劇中に於けるジャックのような活躍は望めない。だがジャックはやはりジャック。その本質からして、何が何でもその本懐を遂げようとする。そのため其々の個人に潜むジャックはお互いに共鳴し合い、それによって其々の個人が持つ力を集約させ、己の欲求を遂行するために必要な実行力を作り出そうとする。その結果、其々はその内に秘められたジャックの引力に突き動かされ、まとまりを作り、実行力を兼ね備えた人工的環境としてのジャックが作り出される。

そうやって作り出された「リアル・ジャック」は、その出自こそ個人ではあるが、それはもはや個人ではなく、統一された一つのアイデンティティを持っているわけでもない。だから、「リアル・ジャック」と一貫性のある対話をしようとしても無駄だ。そしてまた、「リアル・ジャック」は実態を持たないが故に無敵である。幾ら「リアル・ジャック」の強固な装甲に傷をつけたとしても、その装甲は個人の集合体で出来ているため、その傷は直ぐに代わりの個人によって修復されるし、そもそもその装甲の内側にあるのは空洞でしかない。どのような攻撃も、彼には決して届かないのだ。それ故、稀に自暴自棄になって彼に特攻を仕掛ける人間もいなくはないが、殆どの人間は、如何にしてその「リアル・ジャック」の持つ力を自身にとって上手く利用するか、ということに心血を注ぐことになる。そのために己の持つジャックを通して「リアル・ジャック」をコントロールしようとする。或いはその動きを読んで、先回りして有利な方へと移動しようとする。また逆に、其々は「リアル・ジャック」の脅威から逃れようとすることで、彼にコントロールされる。そういった彼との関わり方によって、『現実』という劇中に於ける其々の個人の人生が決定されていく。

いづれにせよ、彼自身は個人でなくとも、その出自は不特定多数の個人であるため、彼が生み出す結果としての責任は、全て其々無作為の個人が担わなければならない。彼による暴力も、彼に対する暴力も。そして、幾ら彼と親友や恋人としての関係を結んでいても、彼は「個人」にとって他者でしかないため、彼の気まぐれによっては、一気に奈落の底へと突き落とされかねない。何故なら彼はジャックなのだから。

だが『24』に於ける物語と同じく、『現実』の社会に於いても、その秩序はそんな彼の力によって守られていることは確かだ。そしてそうであるが故に、其々の個人は常に「リアル・ジャック」によって蹂躙される可能性もまた引き受けなければならない。彼の望む秩序のために、誰かが犠牲にならなければならない。

そして今日もまた、個人を超越し、状況として形成された「リアル・ジャック」が誰かの下へと訪れ、「これしか方法が無いんだ!」と言って「公の利益」のために犠牲になることを宣告する。その宣告を受けた者は、もはや何もなす術は無い。

 ***

そういや以前、カロリーメイトのテレビCMで、任務をこなすためにジャック・バウアーが日本にやってくるというシチュエーションのものが放映されていたことがあった。アレを見て、「そんな危険な奴を日本に上陸させるなよ!」と思ったのは自分だけではないだろう。まあ、奴が一度上陸することを決意すれば、他の誰が幾らそれを阻止しようとしたところで、何が何でも上陸してくるんだけどね。

安全を重視すれば安全が奪われる

個室ビデオ店火災:狭い部屋、廊下…客から危険性指摘の声(毎日新聞)

 数回利用したことがあるという男性は「(個室のスペースからの)出口は1カ所しかない。手前で火事があったら奥の人は逃げられない構造だ」と言う。系列店でバイトしていたことのある大阪市浪速区の男性会社員(31)は「廊下は狭く薄暗い。また廊下の幅も、2人がすれ違うにはよけあうのが必要なぐらいなのに、ジュースの段ボールが積んであった。火事が起きたら逃げるのは難しい」と話した。


【個室ビデオ店火災】“個室店難民”、再起半ば絶たれた希望
(産経新聞)

 大阪・難波の個室ビデオ店「試写室キャッツなんば店」で起きた火災は、同種の店がホテル代わりに利用されている実態を浮き彫りにした。現場となった店は、終夜過ごしても1500円程度という業界でも屈指の低価格が売り。犠牲になった15人のうち、介護ヘルパーの舞野学さん(49)は、この店に泊まることで家賃を切り詰めて資格取得に励んでいたという。3日午後には舞野さんの葬儀が営まれ、参列した同僚らは「きちんとした家を借りていれば…」と、志半ばで人生を終えざるを得なかった無念さを思いやった。(中略)

 「そろそろ家を借りたらどうか」。事件の数日前、連日のようにビデオ店に寝泊まりしていることを心配した同僚がこう切り出したが、舞野さんは「なかなか難しい。近いうちに」とはぐらかした。同僚は「もっと強く説得するべきだった」と悔やむ。

 個室ビデオ店は1時間ごとの料金が基本だが、店舗が集中する大阪のキタやミナミの繁華街では一晩中滞在できるような割引価格設定をめぐり、熾烈(しれつ)な競争が繰り広げられている。ミナミでの相場は2000円前後。ネットカフェでは5時間のナイトパック(個室)でも3000~1500円で、個室ビデオ店のほうが安い。このため終電に乗り遅れた会社員や家を持たない「ネットカフェ難民」と呼ばれる若年層の利用も増加。宿泊施設としての利用がメーンになっている。(中略)

 ワーキングプアの問題に詳しい「派遣ユニオン」の関根秀一郎書記長は「日雇い派遣の労働者が、『個室ビデオ難民』になっている。雇用対策がきちんとされない限り、今後もこういう店は増え続けるだろう」と指摘している。

テレビで系列店の内部構造を取材しているのを見たが、確かにあんな場所で火災が起これば逃げようがないだろう。ましてや就寝中であればなおさらのこと。煙が充満するのも相当早かった(1~2分で店内に充満したといわれる)ようだし。実際、焼失した部分はほんの一部なのに、それでいて15人もの死者を出すというのは、幾ら建築基準法や消防法の条件を満たしていても(建築基準法に関しては、石こうボードで窓を覆い隠すなど違法性があった可能性も出来ているようだが)、やはり実質的には店の構造や運営の仕方に大きな問題があったのは間違いない。メディアでも、安全よりも利益を優先した経営方針などが取り上げられ、「安全性の重視」という点が強調されたものが多かった。しかし、どうもそこには何かしらの白々しさを感じざるを得なかった。
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確かに「安全性を重視すべし」というのは正論だ。だが、何故店側が安全を軽視した運営方針を取るのかといえば、それはそれを経営する側の人間達が自らの経済的安全を確保し、それを蓄積するためだろう。では何故利用客側が個室ビデオ店を本来の目的以外の目的でそこを利用するのかといえば、やはりそれによって経済的安全を蓄積するためであったり、既に直面している危機をなんとかして乗り越えるためであったり、若しくは、自然環境や「他の人間」から発せられる暴力や眼差しによるダメージから身を守るためには、それ以外の選択肢がなかったりするからだろう。

そういう状況に於いて、全ての個室ビデオ店が安全を第一にして店を運営し始めたらどうなるか。当然、安全にコストを払えばそれだけ収益率は落ちるから、経営が厳しくなって淘汰されていく店が増えるだろう。狭いスペースに多くの個室を設けるという構造だって見直さなければならないし、価格だって引き上げなければならなくなる。そうなれば、宿泊としての需要に対して供給が追いつかなくなる可能性だって出てくるし、価格が高くなるから、ケチって小遣いを浮かせようという人間はともかく、既に経済的危機に瀕している者達は、火災に対する安全が重視されることによって、益々経済的安全が圧迫され、路上生活をやむなくされる者が増えてくるかもしれない(自分がこういう場所で寝泊りせざるを得ない人間だったとしたら、火災による危険よりも、むしろ経済的安全の方に気を払った運営をしてくれ、と思うだろう)。そして路上生活者が増えれば、所謂「普通」の人達は、「安全が犯される」といってその者達を邪魔者扱いして迫害するだろうし、そうなればその暴力を受けた者達だって当然腹は立つわけで、両者の間にはより「殺るか殺られるかの関係性」が成立し易くなり、新たな危険性が芽生え始める。

つまりこの問題の根っこには、経済的安全の偏りという問題が深く根ざしており、既に誰かの下に磐石過ぎるまでに蓄積された経済的安全を如何にして振り分けるか、そして、その安全の分配ルートやシステムを改め、如何にしてより多くの者に最低限の安全が行き渡るようにするか、ということこそが本当に注目されてしかるべき箇所であり、またそれこそが本当に解決すべき事案なのである(勿論それ以外にも、蔑みや自己嫌悪という要素が払拭されない限り、こういった事件はなくならないが)。そしてそれがどういうことを意味するのかといえば、この問題に於いて本当の意味で安全性を重視するということは、自分の経済的安全を如何にして他者に譲り渡すか、という問題であるかもしれないということだ。

この事件に際した安全論議がどこか白々しく感じるのは、多くの者達が、そこに目を向けてそれを改善しようとする姿勢を見せず、むしろその核心を覆い隠し、それがさっさと通り過ぎてくれるのを願うために、安全という呪文を唱え続けているようにしか自分には見えなかったからだ。まあ確かに、個室ビデオ店の「火災」に限っては、その被害を受けるのは基本的に低所得者層だけだろうから、中流以上の「普通」の人達にとっては他人事だという思いもあるのだろう。だが当然、この問題の本質は個室ビデオ店内部に留まるものではない。故に、もしかしたらその呪文は各々の場所に「自己責任」というバケモノを召還するためのものであり、それによって「普通」の人達にも何かしらの危険性がもたらされることになる可能性だって充分にあるわけだ。

 ***

大阪・個室ビデオ店火災:生活保護、受給前日に放火 小川容疑者、借金続き悲観か(毎日新聞)

 大阪市浪速区の個室ビデオ店で15人が死亡、10人が負傷した放火事件で、殺人などの疑いで逮捕された東大阪市加納7、無職、小川和弘容疑者(46)の生活保護費受給日が事件翌日だったことが分かった。小川容疑者は事件を起こした1日、金をほとんど所持していなかったことも判明。翌日の10万円弱の生活保護費の受給を待つこともなく、事件を起こしたことになる。

 大阪府警浪速署捜査本部は、小川容疑者が借金やギャンブルのため生活保護費では追いつかない生活を続けるうち、将来を極端に悲観し、自暴自棄になったとみて、さらに追及している。小川容疑者は4日、接見した弁護人に「生活保護を受けて生活するのは恥だと思っていた」などと話したという。関係者の証言によると、小川容疑者は現在の賃貸マンションに転居した今年春から、家賃と生活費の計十数万円を生活保護費として受給していた。実際に手元に残るのは、家賃を除く10万円弱だった。

 このほかに、小川容疑者は東大阪市周辺にある福祉関係の支援施設2カ所に通い、若干の収入を得ていたという。小川容疑者は心臓病を患い、定職には就いていなかった。一方で、競馬などギャンブルにのめりこみ、消費者金融から数百万円の借金があった。

 小川容疑者は事件直前の約1カ月ほどは、ネットカフェや個室ビデオ店で寝泊まりしていた。事件の2~3日前、放火事件で重傷となっている露天商の男性(46)と知り合い、現場の個室ビデオ店を紹介され、事件当日、一緒に訪れたという。(中略)

 小川容疑者は、放火の動機と当時の行動について「自分としては1人で死ぬつもりだった。でも、煙で苦しくて、我慢できなくなり部屋から出てしまった」と明かした。火の燃え方は「予想外だった」と言い、25人が死傷する大惨事になったことについては「思ってもみなかった」と振り返った。

こういった者に対し、ルールを破ったとしてより厳しい罰を与えてみたり、道徳の名の下に断罪してみせることは容易い。だがそれはあくまで事後的な事柄に過ぎない。どうも未だに勘違いしている人が多いように思うが、事前に、今正に淘汰されつつある個体を道徳や厳罰という呪縛によってコントロールしようとすること、つまりその道具を使って、淘汰する側の者が淘汰される側の者に、自らの側に対して都合の良い配慮をさせることはもはや出来ない。それが如何に馬鹿げていて、如何に無駄であるかということは、いい加減子供から大人までもっと広く一般に理解されてもいいんじゃないかと思う。

殺るか殺られるか、或いは淘汰する側か淘汰される側かという関係が完全に確立してしまった時、そこにはもはや、道徳や厳罰という呪縛が己の力を効果的に発揮することが出来る場は存在しない。いや、勿論多くの淘汰されゆく人間にはその道徳や厳罰の縛りが効いているからこそ、復讐ではなく自殺へとその舵を向けることになるんだろうけど、その自殺というベクトルへと向かう動きでさえ、こういった事態を招きかねないわけで。つまり、本当の意味での安全が保たれるか否かは、そういった関係性の確立を如何にして回避することが出来るか、ということにこそ掛かっている。よって、目先の安全にばかり気を配り、それを回避するために必要なコストを払うこともせず、それでもって総合的な安全性の改善を願うのは、余りに虫がよさ過ぎる話だと言えるだろう。

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プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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