ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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批判されるべきは無責任さや強欲さではなく、道徳の方だろう

大手製造業、株主重視で人員削減 内部留保、空前の33兆円(47news)

 大量の人員削減を進めるトヨタ自動車やキヤノンなど日本を代表する大手製造業16社で、利益から配当金などを引いた2008年9月末の内部留保合計額が、景気回復前の02年3月期末から倍増し空前の約33兆6000億円に達したことが23日、共同通信社の集計で明らかになった。

 過去の好景気による利益が、人件費に回らず巨額余資として企業内部に積み上がった格好。08年4月以降に判明した各社の人員削減合計数は約4万人に上るが世界的な景気後退に直面する企業は財務基盤の強化を優先、人員削減を中心とするリストラは今後も加速する見通し。

 08年度の純利益減少は必至の情勢だが配当水準を維持、増やす方針の企業が目立ち株主重視の姿勢も鮮明だ。

 派遣社員などで組織する労働組合は「労働者への還元が不十分なまま利益をため込んだ上、業績が不透明になった途端、安易に人減らしに頼っている」と批判している。

記事には「株主重視」とあるが、「利益から配当金などを引いた」ものが内部留保なのであり、それを配当金に回そうともしないのだから、別に株主重視というわけでもないだろう。

多くの利益を蓄えていながら、好況時はそれを株主にも労働者にも還元せず、いざ不況になれば、散々自社への忠誠心を要求し、その足場を築く為に利用してきた者達をいとも容易く切り捨てていく、この大手製造業経営陣の底知れぬ強欲さと図々しさ。こういった態度や事態に対する批判としては、以下のようなものが一般的と言えるだろう。

社説:非正規切り 企業の責任はどこへ行った(毎日新聞)

 「企業理念は共生」「人を大切にします」「人々の生活を豊かに」……。大手企業が競うようにホームページに掲げる「企業理念」が、今ほど色あせ、むなしく映ることはない。(中略)

 世界不況が日本に及び始めた秋以降明らかになったのは、雇用の悪化を招くことを顧みず、大量の「非正規切り」でコスト削減を図ろうとする企業の姿勢だ。NPO法人や労働団体が失業者の支援に動き、各地の自治体が臨時採用や住居提供に名乗りを上げ、政府も緊急の雇用対策に踏み出した中で、さらに切り続けて何もしようとしない企業の無責任ぶりが際立つのだ。

 中には、期間従業員の中途解約を撤回した企業もあるが、同じ職場で働いていた派遣社員は切ったままだ。体力のある大手企業の間でも非正規の雇用を守ろうという動きが出てこないのは理解しがたい。

 不況直前までの大手企業の好業績を支えたのが、低賃金で働く非正規の人たちだった。この間、大手企業は多額の収益を従業員に回さずに内部留保としてため込み、不安定な働き方を強いられる非正規を放置してきた。今こそ、その収益を非正規の雇用維持のために向けるのが筋ではないか。

 こうした理不尽がなぜ許されるのか。非正規が法的に十分に守られる仕組みになっていないからだ。

この批判は、企業側の無責任さを指摘し、それによって道徳的圧力を掛けることで状況を改善しようとするものだろう。しかし、実はこういった道徳の力に頼り切った批判の在り方が一般化してしまっていることこそが、今回のケースを始め、様々な人工的惨禍を生み出す原因になってしまっているように自分には思える。
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というのも、道徳というのはある者が幾らそれを遵守するよう試み、それによって他の誰かに配慮による恩恵をもたらしてきたからといって、その者が他の者からも同じ様にその恩恵を受け取ることが出来るとは限らない。逆に散々それを踏みにじってきた者であっても、充分にその恩恵を受け取ることは可能であり、それどころか他者にその規律を要求することさえ可能だ。例えば、この大手製造業の経営陣や、その者達に上手く媚へつらうことでその地位を維持してきた者達のように。

権利や義務、或いは当該記事で用いられている責任という概念にしてもそうだが、何かしらの規範やその裏づけとして持ち出されるこれらの概念、それらが唱えるその法則性は、元々存在していたものを後から人間が発見したわけでもなんでもない。それらは全て、他者を制御すること、そして人間社会に拠り所となる何らかの法則性をもたらすことを目的として人間が人工的に作り出した政治的道具に過ぎない。だから、ただ単にその法則性が成立していることを信じ、それに殉じながら他者からの配慮を期待するだけではどうにもならない。それを道具として上手く利用しない限り、その法則性による大きな恩恵を受け取ることは難しく、マイナス収支になってしまう可能性が高い。

だが問題は、その道具を上手く利用することが出来る者とそうでない者がいるということだ。それらの政治的道具は、それによって集団を動かし制御することが出来て初めてその真価を発揮するわけだが、それが可能なのは、元々ある程度の政治能力を身に付けている者だけだ。それどころか、政治能力が欠如している者にとってそれらは、むしろ自らの身動きを奪い、罪悪感という毒を体内に盛り続けるためのものでしかない。そしてさらにその者達の人生の前には、同じ様にその毒にあてられ、自らが獲得した抑圧や苦痛を他者にもなすりつけようとする道徳ゾンビ達の群れによって形成された風土やシステムが障害物として立ちはだかることになるだろう。

社会的弱者が己の権利を、他者の義務や責任を、そして道徳を唱えることによって自らの足場を形成しようとすることの虚しさの理由はここにある。何故なら、社会的弱者は政治能力が劣っていたが故に、それらの政治的道具を上手く利用することが出来なかったが故に社会的弱者となったのであって、その政治能力の欠如した者達が再びそれらを用いて足場を築こうとしたところでその効果が期待出来るはずもなく、それはただその者の強欲さを露にする結果にしかならないからだ。そう、そもそも何らかの規範によって他者を制御しようとすることそのものが強欲な行いそのものなのだ。そしていまだ現実のものとして成立したこともなければ、自らが遵守しているわけでもない(道徳を遵守することを重視すれば社会的順応は不可能)道徳を他者に押し付けることは、その者の図々しさの表れであり、詐欺的行為でもある。

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つまるところ、道徳は弱者の味方でもなければ道徳的な人間の味方でもない。それは政治的道具であるが故に、常に政治的勝者の味方なのだ。非道徳的な人間もまた、非道徳的な行為を行うから非道徳的な人間と見做されるわけではない。政治的敗北をするからこそ、その者は非道徳的な人間と見做されている。だから、道徳によって政治的勝者を律することは出来ない。そして道徳によって道徳ゾンビが生み出されるからこそ、使い捨て奴隷のような片務的関係性が形作られ、奴隷側の自らの配慮によってそれが維持されることになる。その結果がこの事態を生み出している。道徳が行き渡っていなかったことがこの事態を生み出したのではない。道徳が行き渡っていたからこそこの事態は生み出されたのだ。

ではどうすれば良いのか。答えは簡単だ。この国に住む全ての人間が、大手製造業経営陣と同じくらい強欲で図々しくなれば良いのだ。別に無茶なことを言っているわけではない。そもそも、道徳によって他者を律しようとすること自体が図々しく強欲な行為であり、尚且つそれは詐欺的行為でもあるのだから、基本的に今までとさほど変わりはしない。ただ、集団の利益を大儀とした他者抑圧の正当化や、それによって個人の利益を追求するという詐欺を行うことが困難になり、今まで一部の者達に囚われていた強欲さや図々しさが全ての人間に解放されるというだけの話だ。

そうなれば、企業が「企業理念は共生」「人を大切にします」「人々の生活を豊かに」といった嘘を付く必要もなくなればそれに騙される人もいなくなる。「多額の収益を従業員に回さずに内部留保としてため込み、不安定な働き方を強い」ることも難しくなるだろう。何故なら、今まで集団の利益と言われてきたものは、すべて特定個人の感情的・金銭的利益、或いはその拠り所となっている世界観(法則性)の維持を目的としていたものであるということが全国民の前にさらけ出され、誰もそれに騙されなくなるからだ。誰かに媚びへつらうことで見返りが期待出来るという信頼関係の形成も難しくなり、道徳によって生み出される道徳ゾンビやその群れに脅されることによってなされる望まぬ配慮をする必要もなくなる。「企業も大変なんだから配慮しろ」「社会のために犠牲が必要だ」などと言い、自らの立場を優位に保とうとする者がいても、「ならお前が犠牲になれ」「詐欺師乙」で済む。其々はひたすら自身の利益だけを追求すればよい。そして自身の利益の為に何らかの配慮が必要だと思えば、他者からの要求ではなく、純粋な自身の判断によってそれを行えばよい。現在に於いて、道徳を政治的道具として上手く用いている者達のように。

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結局道徳なんてものは、己自身の内側から生まれ出たものを、他者からの見返りを一切期待せず、己自身の望みで以って、己自身のみを律していればそれでよい。他者(人工的環境)から様々な形態で以って植えつけられ強要される道徳は、「詐欺師」とそれに騙される「愚か者」、そしてその道徳の裏切りに対する「復讐者」しか生み出さないのだから。
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意識の転換点×条理の向こう側の現実×日本の平和は自殺が守る

今年の漢字は「変」 首相交代や経済環境の急変を反映(日本経済新聞)

 日本漢字能力検定協会(京都市)は12日、2008年の世相を象徴する「今年の漢字」が「変」に決まったと発表した。首相の交代劇や、米リーマン・ブラザーズの破綻が引き金となった世界的な経済環境の急変などを反映した。


平成19年(2007)の殺人発生数は戦後最低(少年犯罪データベースドア)

2/1に警察庁が去年の犯罪統計を発表したんですが、殺人の認知件数は1,199件で平成3年の1,215件を下回って戦後最低を記録しました。
検索した限りでは新聞はどこも報道していないようなんですが、テレビでもあつかってないでしょうか。これは大ニュースだと思うのですが。


通り魔殺人が最多13件に、死傷者42人(読売新聞)

 今年1~11月に全国の警察が把握した殺人事件(未遂も含む)は昨年同期比7・4%増の1200件で、このうち路上などで見ず知らずの人を襲う「通り魔殺人」は、統計を開始した1993年以来、最も多い13件に上ることが警察庁のまとめでわかった。

 同庁の吉村博人長官は11日の記者会見で、経済状況の悪化によって、今後も自暴自棄的な犯罪が増える可能性に触れ、繁華街のパトロールなどを強化する方針を明らかにした。

 11月末までの全国の刑法犯は昨年同期比4・9%減の167万4773件で、6年連続減少。このうち窃盗犯が4・1%、粗暴犯が5・8%、強盗も7・8%、それぞれ昨年同期を下回る中、2004年以降、4年連続で減少していた殺人は増加に転じた。

 特に、通り魔殺人は、茨城県土浦市のJR荒川沖駅で通行人ら8人が切りつけられた事件(3月)や、東京・秋葉原の無差別殺傷事件(6月)など多数の被害者が出る事件が相次ぎ、11月末までの死者は11人、負傷者は31人で、いずれも過去最多だった。

 親族間による殺人も48件増の511件で、殺人事件全体に占める割合は過去最高の49・6%。最も多かったのが親子間の殺人で254件に上り、夫婦(内縁を含む)が182件、兄弟が35件、その他親族が40件と続いた。

 動機では、「介護・看病疲れ」(42件)や「子育ての悩み」(30件)が目立った。


「経済状況の悪化によって、今後も自暴自棄的な犯罪が増える可能性に触れ、繁華街のパトロールなどを強化する方針を明らかにした」というのは、要はシステムから切り捨てられにっちもさっちもいかなくなった者達は、出来るだけ他の者達に迷惑を掛けないように大人しく死ね、ってことを婉曲的に言っているわけでしょ。それも多分、意識の下にその期待を押し隠したまま。

「統計を開始した1993年以来」とあるが、この統計とは今までは通り魔殺人という区分を設けていなかったということなのだろうか?いずれにせよ、統計の歴史が浅すぎて(というか自分にはそもそもデータを分析する能力もないので)この「通り魔殺人が最多」というのが日本の歴史に於いてどの程度の突出ぶりなのか、それともさほどでもないのかはよく分からないが、このところの不況に端を発した社会の動きを見ていると、確かに今年は多くの人々にとって意識の転換点になるのかもしれない、という思いはある。
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自分自身の限界と出会うことによって初めて芽生える、共同体、共通の目的といった概念への疑念と、それを用いた詐術への怒り。“みんな”という名の偶像を欺瞞的に崇め奉る「普通の人々」の禍々しさへの気づき。そして自らもまたそれを崇拝し、道徳を踏みにじってきたのだという自覚。にもかかわらず、道徳を理由として、或いは“みんな”という名の神の代弁者を騙ることで、他者への無理強いや抑圧に加担してきたことへの自省。それによって抱く、何故この国では毎年三万人もの人間が自殺をしてきたのだろうか、という疑問。その疑問の先にある、人工的環境との関係性によって形成された自殺は基本的に他殺であるという余りにも当たり前過ぎる事実。さらにそれを知ることによって生まれる、では自殺者は一体誰によって殺されているのか、という必然的な問い。

この国もまた、「普通」や「努力」などといった幻想成分で構成されたぶ厚い雲が社会全体を覆っている。その雲に包まれることで守られてきた条理という名のバーチャル・ランド。今年を境にその幻想の雲が所々薄れ始め、本当はその向こう側にも条理の理屈の及ばない現実が広がっているということに気づき始める人間が徐々に増えてくるのではないだろうか。いや、気づかざるを得ない人間が増えてくる、といった方が適切かもしれない。よほど非凡な感性や鋭い洞察力の持ち主でもなければ、その必要に迫られでもしない限り、自力でそのぶ厚い雲の向こう側を覗くことなんて出来ないだろうから。

この国の治安を守ってきたのは、警察だろうか?はたまた個人の自制心だろうか?いや違う。それは自殺者達の自殺という行為によって守られてきたのだ。想像してみるとよいだろう。自殺の半数が健康問題によるものだと仮定しても、残った半数のおよそ一万五千人もの人間が、その毎年自殺によって死んでいった、もはや「普通」を持続することが出来なくなった者達が、何よりもただ生き残ることを第一義的に考えて行動していたら、この社会は一体どうなっていたかを。或いは、共同体の安全を守るという大儀で誰かを切り捨てることによって形作られた、「切り捨てる者と切り捨てられる者、淘汰する者と淘汰される者」という関係性の上で敵同士となった後者の者達が、前者の者達と“逃げずに”真正面から向かい合っていたら、そのために残ったエネルギーの全てを注ぎ込んでいたら、一体どうなっていたかを。

法律、道徳、文化、習慣、(無自覚な)宗教、雰囲気、現実と乖離した贋物のロジック。この社会では、ありとあらゆる手段を用い、お互いがお互い他者を騙し、縛り上げ、その動機のベクトルを、つまるところ他者の行動の在り方を制御し合う。そうやって有限であるところのそれ(動機)を自分の(経済的・感情的)利益のために捧げさせようとする。そしてその政治的戦いに敗れ、社会システム(集団)の力を上手く利用出来なくなった者達は、同じくありとあらゆる手段によって自己否定を促され、追い込まれていく。自殺という一本道へと。しかもこういった一連の流れは、それを行う側の意思の主体が手段へ、或いは“みんな”という神へと丸投げされることで、無自覚に、若しくは自動的に行われる。そうやって殺人の罪と罰を殺害される者に一手に引き受けさせる。そのために、本来「生」へと向かうはずのエネルギーを、その者自身の「死」へと向かわせるよう仕向けるという寸法。そしてそれが成功することによって初めて大多数(みんな)の側の安全は守られ、その者達は引き続き心地よい条理の夢を見続けることが可能となる。その口減らしによって資源は潤沢なものとして維持され、生活水準もまた保たれる。殺人の罪や罰からも逃れることが出来る。

この社会は、そういう構造で成り立っている。だが、そういう手法を使って直接的な罪や罰から逃れたからといって、それは自らが設けた悪の枠組みから完全に逃げおおせたことにはならないだろう。そう、人間は誰一人として、自らが設けた悪の枠組みから逃げることは出来ない。かといって悪という概念を捨てることも出来ない。故に、人類の存続は常に邪悪※1なのである。

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欧州全域での実施を呼びかけ ギリシャ人の反政府デモ(日経ネット)

 【ウィーン=桜庭薫】警官の少年射殺事件を機に反政府行動が続くギリシャで18日、首謀者の若者グループが欧州全域に蜂起を呼びかけ、域内各国にあるギリシャの在外公館は厳重な警備態勢を敷いた。ギリシャ国内ではアテネ国際空港や公立病院の職員らが賃上げなどを求めてストライキに突入。混乱が広がる中でもカラマンリス首相は引責の意思を示しておらず、事態収拾のめどは立っていない。

 若者の暴動は6日の事件発生から連日発生。18日もアテネ中心部や主要都市でデモ隊が警官隊と衝突した。AFP通信は首謀者グループの話として、国内600カ所の学校を占拠したと伝えた。教育省は100カ所弱としている。暴動と並行してストライキも頻発。アテネ国際空港は3時間の時限ストで離着陸を取りやめている。

そういえば、ギリシャではデモや暴動やストライキが頻発してなんか偉い騒ぎになっているらしいけど、ああいう国では自殺が少ないんだろうなあ、と思っていたらやっぱりそうみたい。

自殺率の国際比較(社会情勢データ図鑑)

2004年段階のデータで、日本は調査対象101カ国中9位(先進国の中では1位)。ギリシャは79位。受け取った暴力を一人で抱え込んだままこの世から消え去る方がよいのか、その暴力をちゃんと社会に還元した方がよいのか…。



※1 二年前のかなり精神的にテンパッテいた時期に書いた記事。そういうこともあって今読むと色々と恥かしいところもあるが、考え方の核となる部分自体はこの時から変わってはいないということを再確認した。まあ今も充分テンパッテるが。

鬱で暗くて病的な曲が好き

躁状態の人が作った躁な(例えばベートーヴェンの最終楽章にありがちな)曲は気持悪くて聴く気にならないが、鬱状態の人が作った鬱な曲は大好き。病的であればあるほどよい。
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以下、実際に作った人が鬱だったかどうかはともかく、暗い曲を幾つか集めてみた。

▼spirogyra, old boot wine


本当に大好きな曲。この如何にも屈折してる感がよい。実際歌詞も屈折している。

こんな分断された中にあって 誰を友として信じたらよいのか(中略)でも、我々は今救済を待ち望んでいる 悪を滅ぼし、創造へと導いてくれる人を この世を救ってくれる人を(中略)もしかしたらそれはこの僕かもって思う いや、ちがう 僕はそんなに立派な人間じゃない 
<訳:朝霧舞子>

――『BELLS,BOOTS AND SHAMBLES』ライナーノーツより――

Simon & Garfunkel - Old Friends
暗黒の中学時代によく聴いていた曲。なので、もしかしたら暗いというよりただ単に切ないだけなのかも。まあ、自分の人生は基本的にずっと暗黒時代なんだけど。途中で不協和音になるアレンジが最高。

▼Spring - The Prisoner (Eight By Ten)


これは恐らく、毒ガスで処刑される死刑囚の心情を歌ったものだと思う。メジャーコードの部分が虚構の希望を思わせて余計に切ない。それはそうと、2:44のあたりが「お母さんに、なりたいねん」と聞こえて仕方が無いのだが、この曲は既にタモリ倶楽部の空耳アワーに応募されていたりするのだろうか。

▼Storm and Thunder Live - Earth and Fire


懐かしくて涙が出た。これはライブということもあって余り暗くは聞こえないかもしれないが、CDでは結構病んで聞こえる。いや、単にこれを聴いていた時の自分が病んでいただけなのかもしれないが。

▼Julee Cruise - Into the night


病んでるといえばこれでしょう。もっとこういうのないかなあ。

minna-no uta - mizutori(谷理佐)
「みんなのうた」に於ける名曲、『水鳥』。聴いたことがある人も多いはず。でも、テレビバージョンの方がCDよりも良い曲に聞こえる。この後さらに盛り上がる感があるし(実際はさほど盛り上がらず終わる)。それにCDではストリングスパートでタムとスネアがでしゃばり過ぎ。

新居昭乃 (Akino Arai) - Solitude
もっと闇を!

Albinoni: Adagio in G Minor
クラシックで暗い曲といってまず思い浮かぶのがこれ。

Samuel Barber - Adagio for Strings, op.11
同じく定番中の定番。

SEVEN LAMENTATIONS ON THE DEATH OF JOHN DOWLAND(NewStyle.org)
そのバーバーのアダージョを地味にして三倍くらい暗くした曲。一時期こればっかり聴いていた時があった。

Pachelbel - Chaconne in D minor (CLAVIORGANUM)
そこそこの辛気臭さ。こういうのは他にも幾らでもありそうだけど。

▼Ciacona in F minor - J. Pachelbel


同じくパッヘルベルのシャコンヌ 。こちらはヘ短調。鬱というには情熱的過ぎるが、これはマイナー系の傑作だろう。

▼Bach Musical Offering BWV 1079 Part 16


辛気臭王、J.Sバッハの「音楽の捧げ物」から六声のリチェルカーレ。「フーガの技法」はさらに辛気臭い。

▼Cantar del Alma by Frederico Mompou


ピアノ曲で有名なモンポウの歌曲。この密やかに感情を搾り出している感がなんとも言えない。初めてこれを聴いた時は鳥肌が立った。これもそうだけど、自分は今までクラシックの歌唱法にずっと苦手意識を持っていたのだが、これまでの経験上、ソプラノは苦手だけどメゾソプラノなら大丈夫ということが多いようなので(ここで歌っているのもメゾソプラノ)、もしかしたら自分が苦手だったのはクラシックの歌唱法じゃなくて、ソプラノの方だったのかも。

▼Away(エリック・サティ/グノシエンヌ三番)


これも定番。サティの『グノシエンヌ』はドラマなどのBGMとして使われることも多いけど、もしこの曲が使われていたら、それはその物語(及びそれがテーマとして使われている人物)が決してハッピーエンドを迎えることはなく、はっきりとしたカタルシスももたらさないまま終わっていくことを暗示しているのだと勝手に思っている。

Carrington - Outside Looking In(マイケル・ナイマン)
コレもよく聴いたなあ。暗いというよりは甘いに近いけど。にしても、同じ様な曲ばかり作り過ぎだろ、この人。

New Trolls - (concerto grosso) Adagio
甘いついでにこれも入れてしまえ。まあこういうのを入れだしたらきりが無くなるけど。

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後はと言えば、鬱曲の定番であるキングクリムゾンの『Epitaph』『Starless』『Moonchild』や、シャルル・ケクランの『ひとの苦しみについての瞑想』、スティーヴン・アンダーソンの『Missa Magica Part V』、ブッカー・リトルの『Man Of Words』、Diederik Wisselsの『From This Day Forward』などが思い浮かぶが、ここで紹介したものも含め、本当に鬱で本当に暗くて病的という三拍子がそろった曲というのはそうそうあるものではない。特に病んでる感が不足している。病的と言ってもただ単にアレげなだけの曲だった幾らでもあるんだろうけど。現代音楽なんかは詐病感が強いものが多いような気もするし。まあ余りそれらを聴いたわけでもないので、あくまでイメージだが。

とにかく、これは明らかに暗黒ソングの供給不足です。ということで、皆さんもっと暗くてもっと鬱々とした、もっと病的な曲をもっと沢山作りましょう。そしてそういう曲が既にあるのならば、どんどんそれを情報開示していきましょう。

追記:
 
あ、ショスタコーヴィチの『弦楽四重奏第15番』を入れるのを忘れていた。
因みに、この手の話題でよく出てくるメシアンの『世の終わりのための四重奏曲』は敢えて入れなかった。あれはタイトルほどは暗くないので。あとフォーレの『エレジー』やヴィターリの『シャコンヌ』、ポルムベスクの『望郷のバラード』、シューベルトの『死と乙女』第2楽章など、暗よりも情熱に重心がありそうなクラシックの曲は歯止めを掛けるためにも入れなかったが、マイナー系の曲が好きな人はこういうのも聴いておいて損はないかも。それから、ギヨーム・ルクーの『弦楽四重奏のためのモルト・アダージョ』なんかもその系統だと思って入れなかったのが、これは今聴いてみると結構暗いし鬱っぽい要素も含んでいる気が…。他にも、情景的な性質が強すぎるかと思って入れなかったグリーグの『オーゼの死』なんかも入れておいてもよかったかもしれないと思うが、もうここらへんで止めておこう。

他人の犠牲というチャンス、「他人迷惑を掛けるな」という欺瞞

シャープ、派遣社員380人削減へ 液晶工場再編で(朝日新聞)

 シャープは12日、液晶パネル工場の一部を閉鎖するなどし、液晶事業を再編すると発表した。これに伴い、三重(三重県多気町)、天理(奈良県天理市)、亀山(三重県亀山市)の3工場で、計約380人の派遣社員を削減する。液晶パネル市場に余剰感が出るなか、古いラインの整理で生産効率を高める。 (中略)

 井淵良明・副社長執行役員は同日午前の記者会見で、「(市場全体の余剰感をみても)再編に着手する最適なタイミングと判断した」と話した。シャープ全体では、約1300人の派遣社員がいる。

「再編に着手する最適なタイミング」というのはつまり、前々から再編の計画はあったものの、ただ再編したいという理由だけで人減らしを行えば世間から顰蹙を買いかねないしどうしよう、なんて思っていたら、ちょうどそこへ大不況という人減らしを正当化出来そうな口実が表れたので、これを好機として人員を削減しよう、ということだろう。

しかし、兵庫県の井戸知事がこれと似たような性質をもつ発言(「関東大震災が起きれば相当ダメージを受けるから、これはチャンスですね」)を行い、世間から一斉に叩かれることになったのは記憶に新しいところだ。ならば、井戸知事的に言い換えてみれば、「大不況が起こって人減らしの口実が出来たから、これはチャンスですね(今回の選択は、共倒れか切捨てかという状況に迫られた上でのものではなく、戦略的なものだろう)」といったような内容の発言をした井淵氏もまた、井戸知事と同じ様に世間から一斉に叩かれてもおかしくはなかったはずだ。だが実際にはそうならなかった。

井戸知事の発言が、目的の為に(自分の権限や影響力によって起こすことが出来るわけではない)震災という他人の不幸を期待するだけの内容だったのに対し、今回の発言は、実際に起こった不況という状況を利用し、目的の為に自らの持つ権限によって積極的に他者に不幸をもたらすことを旨としたものであり、井戸知事の発言よりもずっと酷い内容のものであったのにもかかわらずだ。
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では何故、井戸知事はあれほど激しく叩かれ、それよりも酷い発言をした井淵氏は殆ど叩かれなかったのか。それは結局、井戸知事の場合はその発言によって観念的に作り出された、震災よって利益を得る者と被害を被る者という対立に於いて、殆どの者が心情的に後者の方に身を置いた一方、井淵氏の発言では、それによって作り出された、「何らかの集団」に於ける多数派の生活水準を維持する為に、一部の人間を切り捨てる側と切り捨てられる側、及びそういった切捨てをよしとする人工的環境(常識)の成立を認める側と認めない側という対立に於いて、殆どの者が心情的に前者の方に身を置いたからだろう。

これはひどい。がしかし…

上記の記事では、井戸知事の発言は確かに酷いが、バランス的にいってちょっと叩かれ過ぎではないか、といったようなことを書いた。だが、今回の井淵氏の発言が殆ど非難されることも無くすんなりと世間に受け入れられたのを見て改めて思ったのは、井戸知事の発言は、その(純粋な)内容によって叩かれたわけではなかったのだな、ということだ。

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全ての人間が満ち足りた人生を送ることは出来ない。全ての人間がその寿命をまっとうすることが出来るわけでもない。そして何らかのシステムを健全に保ち続けようとすれば、適時そのシステムから誰かを切り捨てたり、割の合わないような役割を誰かに押し付けたりしなけれはならない。こういった非情な掟に対して抗おうとする性質もまた人間は持っていて、実際その力もまた常に(ある程度は)働いているのは確かだが、かといってその非情さが完全に克服されることはない。

勿論、実際にはシステムから切り捨てた者達もまた、その多くは何とかして現実に居残り続けようとするはずであり、切り捨てればそれでしまいというわけには行かない。それをすることによる副作用も必ずある。また、他者が不幸を背負えば背負うほど自身が利益を獲得出来るといったような単純な構造が存在しているわけでもない。物事の一部分を仮想的に切り取って観察してみるならともかく、現実には、其々の個人との関係性や物事の因果関係すらはっきりしてはいないことの方が圧倒的に多いことだろう。だが、誰かの生活水準を保つ為に、他の誰か※1の不幸がそのコストとして支払われているという事実は確実に存在し、それは誰もが知るところだ。そして、出来ることならそのコストを払うのは自分であって欲しくないという思いは誰もが持っていることだろう。

つまりそれは、人は常に誰かの不幸が自分の人生を維持する為のコストとして支払われることになるのを期待しているということであり、逆に、誰かからそのコストとして犠牲にされることに怯えているということだ。そして井出知事は多くの人々に「怯え」をもたらし、井淵氏は多くの人々に「期待」をもたらした。それが彼らの評価をわけ隔てた分水嶺となった。

だが、自分が他者を主に犠牲にする側になるのか犠牲にされる側になるのかを、黙って運に任せて成り行きを見守っているだけじゃ不安で仕方が無いことだろう。そこで道徳のお出ましとなる。それによって人々は、他者の犠牲を期待しておきながら、或いは他者を犠牲にするための具体的な行動を起こしておきながら、他者を犠牲にするのは良い結果にはならない、という偽の情報をばら撒き、或いは道徳的な感覚を他者に植えつけ、罪悪感によって雁字搦めにして自由を奪うことで、他者を出し抜こうとする。主に犠牲にする側になろうとする。

しかし、自分達の生活水準を保つ為に他者の不幸をコストとして払わせることも、他者を道徳で騙し束縛することも、他者にとっての大きな「迷惑」であることには違いない。つまり、人が社会で生きていくということは、「迷惑」の掛け合いに他ならない。

 ***

でまあ、結局何が言いたかったのかと言えば、「他人に迷惑を掛けるな!」という台詞ほど欺瞞に満ちた台詞も中々ないよね、ということ。

というのも、普段人々は他人とやらがどんなに苦しもうが窮地に陥ろうが、それを何とも思っていないどころか、前述したように、心の奥底ではそうやって誰かが不幸になることを期待しているという一面を持っている。勿論、自らの手で積極的に他人を追い込もうとする人間だってそこらじゅうにいる。そういったことが行われるのは、日常的風景とすら言えるだろう。そのくせ、都合の良い時だけ「他人に迷惑が掛かる」という理由を根拠にして、誰かの何らかの行為を禁止したり、制御しようとしたり、批判しようとし始める。だがそれは、余りに虫が良すぎる話なのではないかと。というか、そもそも人が社会で生きていくことは基本的に迷惑の掛け合いなわけだし。

しかしさらに奇妙なのは、明らかに敵愾心を抱いていると思わしき者に対しても、そういった台詞を吐くことが一般化していることだ。お互いに何らかの同じ目的を共有している者がいて、その者に対して迷惑が掛かるから、と言うのならまだ分かるが、明らかに敵と見做しているような者がその者にとっての敵である誰かに迷惑を掛けるのはむしろ当然のことだろう。敵に対して「迷惑を掛けるな」なんて言うのは、どう考えても理にかなっているとは思えないのだが。

いや、勿論言葉には額面どおりの意味以外にも他の意味が存在しているということくらいは分かってはいるが、つまるところ、「他人に迷惑を掛けるな!」という台詞に於ける「他人」とは、それを言った当人のことであり、そしてそれは、何の根拠も無く提示せず※2お手軽に自説の正しさをアピールする為のものであり、結局は「自分の気に入らないことをするな」「お前は一方的に迷惑を掛けられる者でいろ」ということを言っているだけに過ぎないのだろうな、と。

まあ自分もついついこの欺瞞的台詞に手を借りたくなるのだが、でも自分の立場上からして、そんな根拠の欠片もへちまもない「常識」の後押しをするだけの台詞は何の役にも立たないという…。「迷惑を掛けるな!」は常に強き者の味方ですから。



※1 そしてその不幸を背負う人間は、基本的に「誰でも良い」。だからこそ、秋葉原殺傷事件の加藤智大は不特定多数の者を犯行の対象として選んだ。いや、不特定多数の「誰か」でなければならなかった。何故ならば、特定の誰かを狙えば、その犯行が、何らかの特定のイデオロギー闘争や階級闘争の為の道具として扱われてしまうことになるからだ。他者の道具として使い捨てられることに対する怒りを持っている者にとって、それは我慢なら無いことだろう。「誰か」の生活水準を保つ為のコストが不特定多数の「誰か」の不幸によって支払われているように、それに対する反発もまた、不特定多数の「誰か」に対してでなければならない。原則的に言えば。まあ、といっても最終的には「誰か」にそれが利用されることになるのは避けられないのだが。自分が彼の犯行を利用して自分の言いたいことを言っているようにね…。

追記: ※2 「根拠も無く」というのはおかしいので訂正した。背景にちゃんとした根拠がある場合もあるので。要は、それは根拠の提示を省いて物事を進めたり、何らかの「常識」など、予め力を獲得している既存の考え方に沿った形で良し悪しを判断するために用いられることが多いということ。しかしこういった台詞が力を持つということは、予め力を獲得している何らかの枠組みや組織、考え方などが持つ問題を検証する機会が失われてしまうことを意味する。

道徳の罪と罰


御手洗・経団連会長:「雇用調整、苦渋の選択」
(毎日新聞)

 日本経団連の御手洗冨士夫会長(キヤノン会長)は8日の定例会見で、国内の大手メーカーで非正規従業員の削減が相次いでいることについて「景気の急激な落ち込みで各社は減産に追い込まれ、苦渋の選択で雇用調整を行っている。やむを得ない事情がある」と述べ、理解を求めた。そのうえで「景気を回復させることが大事だ」と語り、雇用環境の改善には政府による早期の景気対策が不可欠だと強調した。

「苦渋の選択で雇用調整」って、自分達が苦汁を舐めずに済むように他者を切り捨てることの一体どこが苦渋の選択なんだ?
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まあ、かといって「私が苦渋を舐めたくないから立場の弱い者から順に切り捨て(ることに賛同し)ます」といったような馬鹿正直なコメントを述べれば、ますます余計に叩かれることになるんだけど。ただいつも腹立たしく思うのは、こういった人為的な選択を恰も自然の選択でもあるかのように捉え、それを「仕方が無いこと(やむを得ない)」として自分達の責任を隠蔽しようとする人達がいることだ。

他者を自分にとって都合のよい状況を作り出す為の使い捨て用品として扱うことをよしとし、それを摂理として肯定するなら、他者から自分がそのように扱われることもまた摂理として受け取らなければならないだろう。例えば、誰かを資源を囲い込んだ城壁の外へと追い出すことで、城壁の中の生活水準を保とうとすることが「仕方が無いこと」であるとするならば、その外へと追い出された者達が復讐として城壁の中の人達の生活をぶち壊そうとするのもまた、「仕方が無いこと」として受け取めなければならない。

しかし大抵の人間は、前者だけをそれが恰も自然の選択でもあるかのように扱い、その者達が行った行為を「仕方が無いこと」としてやり過ごそうとする一方、後者に関してだけはそれを人為的なものと捉え、その者達が行った行為の責任を厳しく問おうとする。本来セットになっているはずの一方の責任を隠蔽し、もう一方の責任だけを追及しようとする。

こういった状況が成立している以上、現状と激しく乖離した内容を持つ道徳は、基本的に詐欺師の手先となる。そしてそれを真に受けた者達が、その嘘に騙されたことに憤って復讐をするのが罪であり、それが罰せられるべきであるとするならば、道徳という虚偽の情報をばら撒いて他者を騙した詐欺師達の罪は、他者に妙な道徳感を植え付け、それで縛り上げて自由を奪った暴行魔達の罪※1は、そしてその手先となった道徳の罪は、それが法で裁かれないとするならば、一体どのような罰によって贖われるべきなんだろうな。



※1 勿論、道徳の恩恵を全く受けずに生きている人間なんていないだろうから、程度の差こそあれ、全ての人間が詐欺師や暴行魔としての側面を持っている。当然、それと同時に発生する罪もまた背負っている。故に、「無辜の民」などというものは存在しない。それが存在するとしたら、罪の行き来すら許されない厳然とした敵味方の線引きが存在する宗教の上でだけだ。だから、「無辜の民」などという言葉を軽々しく使っている人間は基本的に胡散臭い。

「罪の意識」がなさすぎる

大麻と若者 「罪の意識」がなさすぎる(西日本新聞)

 大麻汚染の広がりには、さまざまな要因が考えられる。まず「大麻は、たばこより健康に害が少ない」「だからオランダなどでは規制がない」などといった情報の流布である。

 とんでもない誤りである。乱用すれば身体や精神に深刻な影響を与える。医学専門家は「幻覚や妄想だけでなく、免疫機能の低下など健康に影響を及ぼす場合がある」と警告する。

 それだけではない。大麻吸引が違法薬物への抵抗感を薄れさせ、より有害で依存性の強い覚せい剤やコカインなどの麻薬に手を出す危険性をはらんでいる。


報道バラエティーとマスコミ 「罪の意識」がなさすぎる(西日本震聞)

 報道バラエティーの広がりには、さまざまな要因が考えられる。まず「報道バラエティーは、漫画やゲームより健康に害が少ない」「だから日本では規制がない」などといった情報の流布である。

 とんでもない誤りである。乱用すれば身体や精神に深刻な影響を与える。医学専門家は「幻覚や妄想だけでなく、デマに対する免疫機能の低下など情報リテラシーに影響を及ぼす場合がある」と警告する。

 それだけではない。報道バラエティー吸引が正義を大儀とした暴力行為への抵抗感を薄れさせ、より下劣で依存性の強い「痛いニュース」や「たかじんの そこまで言って委員会」などのコンテンツを真に受ける危険性をはらんでいる。

大麻云々に関しては全く知識が無いのでなんとも言えないが、それはともかく、こんな国で裁判員制度や被害者参加制度を導入するなんて、単に司法をワイドショー化しようとしているだけにしか思えないのだが。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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