ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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エルサレムでの喝采以上に不気味な日本での賞賛

自分は村上春樹氏の作品を読んだこともないし、彼が普段からどういう思想を持ち、どういう主張をしてきたのかは知らないけれど、彼のスピーチに対する世間の反応にどうも違和感を覚えたので。

村上春樹氏に文学賞授与 イスラエル「エルサレム賞」(47news)

 【エルサレム15日共同】個人の自由などをテーマに優れた作品を発表した作家に贈られるイスラエルの文学賞「エルサレム賞」の授賞式が15日、ことしの受賞者に決まった作家の村上春樹さん(60)が出席してエルサレムで行われた。欧州系言語以外の作家への授賞は初めて。(中略)

 一方、日本の非政府組織(NGO)を含む複数の親パレスチナ団体は、受賞がイスラエルの政策を擁護することになるとして、村上さんに受賞辞退を呼び掛けていた。


村上春樹さんの講演要旨(中国新聞)

 【エルサレム16日共同】作家の村上春樹さんが15日行った「エルサレム賞」授賞式の記念講演の要旨は次の通り。

 一、イスラエルの(パレスチナ自治区)ガザ攻撃では多くの非武装市民を含む1000人以上が命を落とした。受賞に来ることで、圧倒的な軍事力を使う政策を支持する印象を与えかねないと思ったが、欠席して何も言わないより話すことを選んだ。

 一、わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。

 一、高い壁とは戦車だったりロケット弾、白リン弾だったりする。卵は非武装の民間人で、押しつぶされ、撃たれる。

 一、さらに深い意味がある。わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である。制度はわたしたちを守るはずのものだが、時に自己増殖してわたしたちを殺し、わたしたちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる。

 一、壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ。

彼がこの賞を受賞することには色々と批判もあったようだが、彼の取る動きがイスラエルやパレスチナの今後の動向にどのように作用するか分からない以上、尚且つ自分には全くその予想も付かない以上、彼の選択自体に関しては良いとも悪いとも言えないというのが正直な感想(因果関係が分からないものに対して個人の責任を問おうとするのは不当。そういった事案に関して「どうするかは貴方の自由ですよ」としつつ、責任が問われるという抑圧で他者の人生をコントロールしようとし、そしてそれが思い通りにいかなかったり、或いは良い結果にならなかったことを理由として個人を非難するのが「ジコセキンン」という現象)。

まあ確かに、イスラエルを批判する内容のスピーチがエルサレムで拍手で以って迎えられるというのは奇妙な話で、受賞に否定的な態度を取っていた人達が指摘していたように、それはイスラエルの寛容さを示すプロパガンダに手を貸す側面が無かったとは言い切れない。また、村上氏が常に卵の側に立つと言っていながら、授賞式という壁(制度)に乗っかって物事を述べることへの違和感を感じた人もいるだろう。

とはいえ、イスラエルの行いを批判することを理由として賞を辞退すれば、それはそれでまた一貫性を保つのが難しくなり、欺瞞臭に身を包まれてしまうことになるようにも思う。というのも、そこまで何らかの集団が為す罪に対する個人の関与の判定を広範化するならば、少なくとも日本みたいな国で、悪行に全く関与せずに生きていられる者なんて先ずいないはずであり(例えば、「キヤノンのプリンターを買う奴は労働者の敵!」みたいになり、やってはいけないことがどんどん増えて、全く身動きが取れなくなる。当然日本もイスラエルとの経済的な結びつきだってあるはずだし。程度の差――もちろん、その「程度の差」こそが重要なのではあるが――はあれど、システムの暴力による恩恵を全く受け取らずに生きていくことが出来る者はいない)、日本で生きながらにして彼の欺瞞を追及しようとする態度は、むしろそれ以上に欺瞞に満ちたものにしか自分には思えない。

だから結局のところこれは、彼が賞を辞退しようとしまいと、元々個々人の内部に留まるような評価しか導き出せないようなものだったと見るのが妥当だろう。
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それよりも自分が気になったのは、彼のスピーチに対する日本国内での反応の方。このスピーチには、一部でイスラエル・パレスチナ問題に関連付けた批判はあったものの、テレビやネット(「kizasi.jp」の関連項目をざっと見た程度だが)での反応を見る限り、その殆どが「彼を同じ日本人として誇らしく思う」「感動した」というような手放しの賞賛を送っていたように見えた。

いや、確かに格好良かったとは思う。受賞を辞退すべきだという圧力にも負けず、アウェーの空気に媚びることもなく――厳密に言えば、現地で拍手を貰ったということは予め存在し得るであろう何らかの空気を読んだということにはなるのだが――己の主張を堂々と述べる勇敢さ。単にイスラエル(特定の集団)固有の問題としてだけそれを批判する――そういう批判は拒絶反応を示され、かえって火に油を注ぐ結果となる場合が多い――のではなく、一端普遍的な問題へと還元した上で、それも相手にこうしろ、あれをするなと言うのではなく、尚且つ己の唱える理屈の正しさを訴えるのでもなく、例えどちらが正しくとも自分は常に壁(制度)ではなく卵(個人)の側に立つという個人的な宣言で以ってそれを為してみせるという巧妙さ。内向きで政治下手、世界的な場で身内でしか通じないローカルなノリで対応して失笑を受け勝ちな日本人というイメージとは間逆の、自信と知略に満ちた英語でのスピーチ。どれをとっても日本人離れしたものを感じた。政治的に見てもこの選択は(彼自身にとって)最上のものだっただろう。

しかし、彼のスピーチは、果たして本当に多くの日本人に賞賛されるべきような内容だっただろうか。というのも、このスピーチはイスラエルを批判するものであると同時に、システムを増長させ、それによって個人を押しつぶすことへの批判でもあったはずだ。

――システムの一部として上手く機能しない個人は社会的に存在価値は無い。それどころかそれは社会にとって害となるものであり、それ故其々の個人は何としてもシステムに最適化された形にならなければならないし、あらゆる手段や様々な圧力を掛けることによってその様に変形させねばならない。それでもシステムの一部として上手く組み込まれることなかった者は、社会に仇名す者としてどんな酷い目に遭わされても仕方が無い。そしてこういった状況(システム)に異を唱えることは全て「甘え」であると見做される。これが日本の常識だ。

このような常識を持つ日本に於いて、日常の具体的な文脈の中でこのスピーチの趣旨に相当する様な内容の主張を行った者がいたとしたならば、その者は「世間」とやらにどれ程酷くぶっ叩かれることになるか。そして実際に卵の側に立つ姿勢を貫けば、その者は己の生存すら危うい状況へと追い込まれることになるだろう。

だから、日本に於いて卵の側に立とうとする者なんて先ずいない。もし居たとしたら、それは珍獣レベルだといっていい。自分も卵として孤立はしているものの、別に卵の側に立っているわけでもない。そもそも、壁と一体化しないと生きてはいけないという危機感から、何とかその規格にあったように自分の殻を変形させようとしてボロボロになり、必死で壁にしがみ付いていたものの、結局力尽きてそこから落ち、ひび割れて「元にもどせない状態」になったのが今の自分だ。もしそこにしがみ付いていられるだけの能力があったなら、自分もまた今頃壁の一部として卵を押しつぶす作業をしていたことだろう。

そういう文化が完全に定着しているこの国に於いて、何故あのスピーチが賞賛されることになるのか(これまで一貫してシステム原理主義的な主張ばかりを行ってきた人までもがこのスピーチを絶賛していて、本当に反吐が出る思いがした)。あのスピーチはその内容からして、日本の常識や一部の珍獣を除く殆どの日本人に対する批判でもあったはずなのに。本来ならば、日本の常識からして、あれは糾弾されてしかるべき内容のものだったはずなのに。

 ***

エルサレムで彼のスピーチが拍手で以って迎えられたのには、先に触れたように、イスラエル側の寛容さを示すプロパガンダ的な要素があったからだろう。また、エルサレム賞が選考基準とする「個人の自由」というテーマからして、もしイスラエル側があのスピーチに拒絶反応を示したならば、それは自らの主催する賞の存在意義自体を否定することにもなるので、面子を保つ為には拍手で迎えるという方法を採るしかなかったという事情もあっただろう。つまりあの拍手の裏には明確な計算と意図がある。そしてそれは既に指摘されている。

じゃあ、日本で彼のスピーチが賞賛された理由は一体何なのか?何故エルサレムでの喝采には疑問符が付けられたのに、彼がスピーチで述べた信念とは間逆の内実を持つ日本でそれが賞賛された不可解さには何の疑問符も付けられなかったのか。しかもエルサレムでの喝采と違い、日本での賞賛にはその裏に明確な計算や意図がなく、無自覚にそれが行われている。それ故、この賞賛はエルサレムでの喝采以上に不気味だ。

まあ恐らく、殆どの日本人はあのスピーチに於けるイスラエル批判としての側面だけを見てそれを評価したため、そのような一般的反応を生み出す結果となったのだろう。イスラエルが加害者であり、パレスチナが被害者であるという単純化した図式を頭に描き、その加害者を批判した村上氏を支持するといったように。しかしこの見方は余りに馬鹿げている。日本に於いて実際に卵の側に立つ姿勢を取ることが出来ない人間が、イスラエルに於いて卵の側に立つことなんか出来るはずもない。壁と一体化した「コア」を守る為には平気で個々の卵を犠牲にしてしまうというその姿勢の徹底ぶりということでは、決してイスラエルにも負けてはいないであろう日本は、イスラエルと同じ様な状況、背景を持った時、やはりイスラエルと同じような行動を取るのは目に見えている。どちらかと言えば、日本人は基本的に加害者の方なのだ。だから、あのスピーチに本当に感銘を受けたのならば、イスラエル云々よりも、先ず日本の文化を変えることにこそその意識を向けようとするはずだろう。だが、結局そういった意見を見かけることは無かった。

そもそも国内の問題を見てみても、個人として分断されたガザ地区があちこちに点在する、そういった状況にあるがこの日本という国の実情なんじゃないのか。そしてそこでは、ロケット弾が落ちるような(壁と離れた)場所に居るお前が悪い、というのと似たような理屈での蛮行が、今正に行われているんじゃないのか。別に実際にロケット弾や白リン弾、戦車を使わなくとも人は殺せるわけで。システムによって。道徳という毒を盛って身動きを奪うことによって。毎年三万以上の人間が自殺という形で死んでいるのも、基本的に個人とシステム(文化)との関係性の結果としてそれが起こっているわけだし。

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「いや~、彼のスピーチには感動しましたねえ。それはそうと、さっさと壁で卵を押しつぶす作業に戻らないと」――こういったことがごくありふれたものとして社会を覆い尽くしているのが日本の日常。

世界的に有名になった作家の村上さんは、日常が既にカフカ的なものであるということを、小説という枠組みを超えた現実という舞台の上でも見事に描き出してくれましたとさ。おしまい。


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(追記3/3) 今更感があるが、ちょっと気になったので一応補足として。

村上春樹!その2(漂流博士)

実際に現地で村上氏のスピーチを聞いた方によると、

ちなみに、イスラエルではもっと露骨に政治批判をすることが日常的にありなので、今回のような比喩を伴った作家のスピーチでは政治批判とは読み取られない。

のだそうで。つまり、イスラエルでの喝采は結局そういうことだったのだと。

授賞式前日のある新聞は、見開きの単独インタビューを掲載していた。全文はまだこれからじっくり読みたいものの、村上春樹氏が「日本社会は僕を圧迫する、それはとても単一的で狭い社会だ。1億2千万人がまるで一人の人間。僕はそんな中で特殊だった,西側では個性や人格は当然のことであり、格闘する相手ではない」と述べた箇所が抜書きされている箇所が「何を言ったんだ?」と読者をそそる。

なんだ、村上氏のあれは、やっぱり日本文化に対する批判の意図もまたその裏に込められていたんじゃないか。「村上スピーチを単純なイスラエル批判と解釈した人涙目www」ってやつか。

村上春樹のエルサレム賞授賞について/2009年02月23日付アル・ハヤート紙(イギリス)HP文化面<News from Middle East>

エルサレム作家フェア開会の夜、我々アラブ文化人は、日本の小説家、村上春樹に今年のエルサレム賞を拒否してくれと切に願っていた。(中略)我々アラブの文化人を悲しませるのは、アラブ文化の首都にエルサレムが選ばれたその年に、イスラエルは、そうやってエルサレム賞を利用した。これは、アラブ文化に対するイスラエルの攻撃の最たるものであるばかりか、イスラエルの邪悪な仕打ちの中でも最悪なものである。イスラエルは、この「汚れた」賞を下心をもって適切な時期に与えてみせた。ガザ虐殺の直後である。日本人であれ、世界的文学者を歓待するような文明国がイスラエルなのだと世界に示すことが目的であった。(中略)村上春樹がイスラエルの賞を無視してくれたらどんなに良かっただろう。(中略)それでも、私達は村上春樹を愛し読み続けるだろう。そうでなかったとしても、私達は彼の犯した過失を許すだろう。実のところ彼自身も、これが過失であると分かっているだろう。明らかな目的があってそれを犯したのだ。

一方、アラブ側からは、村上氏の受賞とイスラエル側の意図に関してこの様な見方をしているようだ(これが一般的な反応かどうかは分からないが)。しかし、こうなってくるともう受賞自体が災難だったようにも思えてくるなあ。
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民主主義は自傷する

新時代 沸き上がる熱気 オバマ米大統領就任式ルポ 人の波 2キロ歩いて3時間 氷点下5度 6時間待ちも(西日本新聞)

 「バラクは温かい人よ。だからみんな彼に付いていこうとしている」。コートの継ぎ当てを自分で「これって変よね」と笑いながら、ロードンさんはそう話した。

 後ろを振り返れば、これまで見たこともない200万人の人々がいた。それぞれに雇用、教育、医療、人種差別問題などを抱え、オバマ氏に解決の思いを託す。米史上初めての黒人大統領誕生という「歴史のリセット」に踏み切るほど深刻な超大国・米国の現実。就任式は、解決困難な過去から希望の未来へと転換する国民それぞれの儀式のように思えた。大統領就任の瞬間。200万人の最後尾からせり上がってくる歓声に、たじろぐほどのエネルギーを感じた。

 「さあ、元気を出そう。嵐に耐える勇気を持とう」。みなぎる自信、米国再生への強い意欲。オバマ新大統領は、いつものように引き締まった表情で、大群衆に向かって暖かい風を吹き込んだ。

まるで救世主であるかのような眼差しを受けるオバマ大統領。人々の民主主義(の健全化)に対する期待と信奉はそれだけ大きなものなのだろう。
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しかし結局のところ民主主義というのは、人間が生きていく為に必要な最低ラインを設定し、尚且つ其々が出来るだけ自由に意見を述べることが出来る様な状況を作り上げ、それらを維持し続けることを前提とした上で、「後は好きにしろ」として人々に放り投げるだけのシステム※1。だから、仮にある場所に民主主義が成立したからといって、それによってその社会の内容までもが保証されるわけではない。いわんや、個人の幸せをや(本当はそれ――相対的なものも含めて――こそがあらゆる主張や考え方の根本的な動機であるはずなのに)。つまり、民主主義は別に高尚なものでもなんでもなく、非常に志の低いものだということ。

とはいえ、デフォルトで余り高い目標を設定し過ぎると、それを実現させる為という大儀の下、「志が高くなちゃった人達」が暴走し、多くの人々がその渦に巻き込まれて不幸になっていくであろうことは想像に難しくないので、ならばここらで手を打っておくか、として生まれたのが民主主義。つまり、人類が生み出した低劣なる志の偉大なる妥協策、それが民主主義。

ところが、民主主義が理念の世界から現実の世界へと踏み出した時、もはやそれは理念の上でのそれとは別物になり、上部構造の「好きにやれ」で、自らの根幹部分である前提条件をいとも簡単に覆してしまう。(理念が全く共有されていない)似非民主主義国家である日本がその前提を守ろうとする気が全く無いのはまあ当然なのだが、他の民主主義国家に於いてもその前提を完全に守り切っている国、或いは本気で守ろうとしている国なんて先ず無いのではないか。要するにこれは、それらの国もまた日本と同じ様な似非民主主義国家であるというより、結局のところ、民主主義は現実に於いてはそういう形でしか存在出来ないということだろう。つまり、現実に於ける民主主義は基本的に「自傷」するものなのだ。

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この記事では、一端社会的弱者となった者が法律や道徳を使って地位を確保することが如何に難しいかということについて書いた。法律や(他者に向けた)道徳は結局政治的道具でしかないので、そもそも政治能力が無いが故に社会的弱者となった者達にとって、それらは自らを利するどころか、むしろ仇名すものとして機能することも多いわけだ(それでも尚、それに頼らざるを得なかったりするのだが)。そして民主主義に関しても、ちょうどこれに似たような問題を抱えているように思う。

どういうことかと言えば、一般的にはどんなに良好とされる社会が成立していたとしても、その社会のシステムや文化を上手く利用することが出来ない者達は、やはりそこでも悲惨な目に遭うことになるだろう。逆に、どんなに劣悪とされる社会であっても、それらを上手く利用することが出来る一部の者達は、幸せな人生を送ることも可能だろう。つまり、民主主義に救いを求めなければならない様な者達が困難に陥っている根本的な理由は、その者達がその社会のシステムや文化を上手く利用することが出来ていないということなのだ。だから、幾ら民主主義が成立し、それが正常に機能していたとしても、その環境を上手く利用することが出来ないその者達は、どのみち救われることはない。何故なら、その者達は民主主義に予め組み込まれている「自傷」の部分を受け持つことになるのだから。つまり、本当に根本的な問題は民主主義の成立やその健全化だけでは決して解決出来ないということ。

さらには、そもそも民主主義は「人間が生きていく為に必要な最低ライン」しか保証しないという問題もある。だが、だた生存することだけが保証されたとして、その人生に何の価値も感じることが出来ない人間が沢山いるとしたら、それが苦痛でしかないと思う人間が沢山いたとしたら、その社会は果たして良い状態だと言えるのか。こういった問題に至っては、端から民主主義の感知するところですらない。やはりこれもまた、民主主義では解決出来ない問題。

民主主義が成立し、それが正常に機能したならば社会的弱者が救われるかのうような言説がどこか嘘臭く、また、「民主主義だと言うのならせめて前提条件くらい守ろうとしたらどうなんだ」と主張することがどこか空々しく思えてしまうのは、民主主義の持つこういった資質に起因している。とはいえ、他に希望のない人間は、やはりそれに期待せざるを得ないという。自分が民主主義の自傷行為によって切り付けられることになるのを恐れながら。そうならないことを祈りながら…。

結論:民主主義は基本的にメンヘル。


追記: 日本は似非民主主義国家だと言ったが、その分り易い例の一つとしては、日本では何らかの主張が「政治的性質」を持つことを暴くこと自体がその主張に対する批判になり得ると思われており、実際にそれが批判としての一定の効果を持ってしまっている、ということが挙げられる。これは民主主義ではまず考えられない――いや、限定的にはそういったこともあるかもしれないが、それが常態にはならないはず。何故なら、民主主義では前提条件の上部で政治闘争が行われるのは当たり前のことなので。

こう言うと、このブログのプロフィール欄の注意書きに於ける「政治活動的」という言葉に対する違和感を感じる人もいるかもしれないが、あれは別に「政治活動」自体が悪いと言っているわけではない。ただ、「(所謂狭義の)政治活動」は相手にしない――そういったものは、単に属人的、属党的なものになる可能性が高く、そうなればお互いに何ら得る物はないだろう――可能性がありますよ、という情報開示としてのもの。ああいった表現を用いることへ経緯と葛藤はここらへんに書いた。言うまでも無く、このブログ自体もまた政治性を持っているし、あの注意書きもまた政治的妥協としての産物。



※1 民主主義の根幹が多数決であるというような説が一般的には唱えられているが、それは誤りだろう。独裁国家でも多数決という手法が重んじられることはあるし、また、民主主義国家だからといって必ずしも全てに於いて多数決原理が貫かれているわけでもない。ただ、「後は好きにしろ」の結果としてそれが頻出する傾向があることから、それが民主主義の象徴であるかのように思われているだけで。多数決は、あくまで「後は好きにしろ」の一形態でしかない。そしてその根幹は、前提部分にこそある。

平等は「個人」の敵であり、「平等」は慢心の表れである、という話

オバマ大統領が就任する直前の記事。

オバマ米次期大統領:ワシントン入り 結束訴え「移動式典」220キロ(毎日jp)

 ◇5万人、期待口々に

 【ウィルミントン(米東部デラウェア州)大治朋子、ボルティモア(同メリーランド州)及川正也】オバマ次期米大統領は17日夜、米独立ゆかりの地、東部ペンシルベニア州フィラデルフィアを起点とする約220キロの「列車の旅」を終え、ワシントンに到着した。途中下車して開催した二つのイベントには、地元や近隣州から計5万人近くが駆けつけた。20日に就任するオバマ氏は「これから毎日、ワシントンであなたたちのために働く」と約束した。(中略)
 会場にいた白人の女子大生、ホルーセックさん(18)は、オバマ氏が米国初の黒人大統領に就任することで「アメリカではどんな人にも平等にチャンスがあることを、世界に示すことができる」と誇らしげに話した。

この「平等にチャンスがある」という発言には、どうも釈然としないものを感じる。というのも、これは日本でよく見受けられる、外面的に分り易いハンデを背負った者が大きな社会的成功を収めた例を後ろ盾にして行われる、「こんな例だってあるんだから、日本では努力さえ怠らなければ誰もがある程度の社会的成功を収めることが出来るはずだ」というような主張と根本の部分で繋がっているような気がするので。つまりそれは、個人の意思が因果に介入し、その結果(未来)をコントロールすることが可能(な環境が成立している)であり、尚且つその意思の力の使い方さえ上手く行えば、誰もが最低限の社会的成功くらいは収めるチャンスはあるはずだという思想。

しかしこの考え方の行き着く先は、「社会的成功を収めることが出来なかった人間は平等に与えられたチャンスを自ら不意にした愚か者だから、どんな窮地に陥っても全てその者のジコセキニン。そして自らの意思でその失敗を選らんだのだから、その失敗者を成功者の俺が踏みつけるのもまた、踏みつけられる者が自らの意思で選択したジコセキン」というものであり、成功者の際限ない自己肯定を生み出すだけだ。実際は、自分では最高の選択肢を見つけ出したつもりで、それに最大限の努力を注ぎ込んできたことが、むしろ最悪の事態を招く大きな原因となってしまったりするのが現実なのだが。
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しかし、何故この「平等」という言葉はこんなにも人々を魅了するのだろう。現実には「平等なチャンス」など存在し得るはずもないが、仮にもし本当に平等なスタートライン――つまり、其々に与えられる環境は勿論、容姿や声や性別、体重など、外見的な「個」の識別を完全に不能にし、生まれ持った資質による能力差を何らかの手段を使って標準化し、精神的な「頑張り」や「工夫」や「判断」だけでその者の人生のあり方が決定されるような状況――を人工的に作り上げることが出来たとしても、それは全ての成り行きが運によって決定されてしまうという現実が惨いまでにまざまざと自己主張を始め、現在人々が精神安定剤として服用している「個人の意思の力が因果に介入し、未来の結果をコントロールすることが(少なくとも少しは)可能である」という甘やかな幻想を完全にぶち壊すことになるだけなのに。人々はきっとその惨い現実と向き合うことで生じるストレスに耐えることは出来ないはずだ。

そして平等が成立した時、少なくとも外面的には「個」の認識は失われる(そうでなければ平等の条件を満たせない)。勿論、全ての人間には「世界に一つだけの花」的な意味での特別性(固有の感覚)が予め備わっているので、自身を「個」(というより異者)として認識することは可能かもしれない。だが、他者からは決して「個」として認識されることはない。勿論、其々の他者を其々の「個」として識別することも出来ない。誰がどのポジションに付こうが、誰が生き残ろうが死のうが全て同じ。全てが交換可能。ただ、誰かがどこかに収まり、誰かが生き残って誰かが死ぬという結果の繰り返しだけがそこにはある。そして「個人」としての存在意義はゼロとなり、其々は完全に全体の一部位としての存在となる。新陳代謝によって幾ら細胞が死滅していこうが、我々はそれらを「細胞」としてしか認識しないように。つまり、平等は「個人」という存在にとっての最大の敵なのだ。

だが、そういう世界で人間が幸せに暮らせるとはとても思えないし、またそういう世界を望む者も(完全にゼロではないかもしれないが)先ずいないだろう。つまりこれはどういうことかと言えば、人々は「平等」という言葉に平等以外の何かを見出しているということだ。恐らくそこには「公正なルール」といった抽象的なものが想定されているのだろうが、「公正なルール」は余りにも具体を想起させ過ぎる。要するに、幻想を生み出す力が弱すぎる。だからこそ、「平等」は魅了する。

「公正なルールが成立していれば、自分はきっと成功するはずだ。そして成功して存在し続けるべきだ」という何の根拠もない「個」の自己慢心。その自己の存在に対する(意思というよりも感覚的に否定し難い)無邪気な思い込みが、「平等」という言葉を媒介して表れる。しかし、その「無邪気な思い込み」を持ち続けることこそが、「個」が存続し続けるための重要な条件でもある。そして其々がそれを持つが故に、「平等」という言葉は他者の「慢心(個の性質)」に働きかけて魅了することが可能であり、やがてそれは「個」の集合体を作り出し、ウネリとなって大きな力を持ち始める。しかし皮肉なことに、その力は「個」が持つ感覚を否定し、そのウネリの一部として統合されることをひたすら迫り始める。そしてそのウネリの流れにしがみ付いていた幾人かの「個」は、消耗、或いは人間の資質が持つ「予め獲得されていた多様性」という遠心力によって振り落とされていく。

そしてそこに統合されることがなかった「個」や、そこから振り落とされた「個」達は、それによって見事「いらない個」としての転生を果たすこととなるのだ。

「(相互的な)ミスマッチ問題」が「(片務的な)最適化問題」に摩り替わる

またこの話題だけど

希望ミスマッチ…派遣切り救済雇用 応募サッパリ(産経新聞)

 全国の製造業で相次ぐ非正規社員の「派遣切り」。雇用対策として、さいたま市が発表した臨時職員100人の採用計画の応募が8人にとどまったことが明らかになったが、新規雇用を打ち出したほかの企業や自治体でも元派遣社員の応募が少数にすぎない実態が分かってきた。「派遣切り救済」と「人手不足解消」の一石二鳥を狙った企業や自治体は肩すかしを食った格好となっている。

人を労働力として雇うことが「救済」なわけがないだろう。慈善事業でやっているわけじゃないんだから。ここでは、企業が労働者から受け取っているはずの利益が意識の中から一切忘れ去られ、労働者は一方的に施される側であり、企業は一方的に施す側であるかのような誤った認識を元にしてその話が進められている。というか、明らかに「一石二鳥」の使い方が間違っているのだが。要は、「派遣切り」を契機に安くて従順な労働力が手に入ると思っていたら、そうはいかなかったというだけの話だろう。諺を使うなら、「捕らぬ狸の皮算用」の方が相応しい。
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恐らく人が集まらなかったのは、多くの者が「同じことの繰り返し」で残された貴重な余力や時間を消耗したくない、と思ったからだろうと推測する(リンク先の募集企業を見る限りいかにもヤバそう)が、妙なのはこの手の「ミスマッチ」の話題では、その解消が進まないのは労働者側の甘えが原因だ、というような一方的な捉えられ方がなされてしまい勝ちなこと。そして労働者側には、「意識を変える」ことや自身の商品価値を高めるために「スキルを磨く」ことが求められる。

しかし、労働市場では労働者が自身を商品として企業に売っているという側面があると同時に、企業もまた労働者に仕事を売って(供給して)いるという側面もある。はっきり言って、この大不況に「買い手(労働者)」の付かないような需要のない仕事を「売って」いる企業なんて、その内実や売り方によっぽど大きな問題を抱えているとしか思えないわけで。でも、何故かそちら側には変革が求められることはない。つまり、元々は「(相互的な関係性に於ける)ミスマッチの問題」だったはずのものが、何時の間にか「(片務的な)最適化の問題」に摩り替わっている。

別に労働問題のことだけを言っているわけじゃないですよ。関係性の話。

というか、「せっかく“救済”してやろうと思ったのに」という発想がなんか怖いんだけど。

追記:
産経の記事で紹介されたものは「応募サッパリ」らしいが、実際にはこういう例もあるわけで。意図的にそういうものばかり集めただけなんじゃないかと。

大阪、職員募集に1077人 摂津市が雇用対策で(47news)

 緊急雇用対策として、大阪府摂津市が追加募集していた2009年度職員採用で、定員10人に対し、北海道や福岡県など28都道府県から1077人の応募があったことが2日、分かった。

 すでに19人の採用を予定していたが、内定取り消しや派遣労働者の雇い止めなど雇用情勢の悪化を受け、同市は10年度の採用枠の一部を前倒しすることを決定。事務系5人、技術系4人、保健師1人の募集を1月5日に始め、同月26日に締め切った。

 昨年実施した事務系職員の採用試験の受験倍率は約7倍。今回は、派遣切りに対応するため、年齢制限を25歳から35歳に引き上げたところ、1003人から申し込みがあり、倍率は200倍を超えた。

 摂津市人事課は「経験豊富な人材が集まり、民間のノウハウを吹き込んでほしい」としている。

罪のロンダリング

盗む、奪う、騙す、脅す、殺す。こういった行為を全くせずに生きていける人間は誰一人としていない。しかし、一般にこういった行為を個人として為すことは「やってはいけないこと(罪)」とされている。この矛盾を解消する為に、これらの行為を一端(文化)システムを通すという過程を経ることで、結果としてのそれらは「綺麗なもの」になり、尚且つ個人の行為(罪)ではなくなるという逃げ道が作られる。

結局のところ、人間は綺麗な罪人になるか汚い罪人になるか、そのどちらかしかない。この二つはロンダリングが上手いか下手かという違いはあれど、根本的な内容はどちらも同じなのだが、しかし、多くの人間にとってはそのどちらになるかこそが最も重要なこととなっている。内面的(道義的)にも外面的(政治的)にも。よって人間はいつも、主にこのことについて争い合っている。

大っぴらに無銭飲食 若者ら「困窮」アピール フランス(朝日新聞)

 【パリ=飯竹恒一】大型スーパーで棚から食料品を勝手にかき集め、持参したテーブルに載せて買い物客らに振る舞う――。こんな過激な方法で経済危機による国民の「困窮」を訴える運動を、フランスの若者たちのグループが続けている。

 先月31日はパリ郊外パンタンのスーパーで「不況のツケを国民に払わせるな」「生活必需品への税金をなくせ」などと訴え、野菜やチーズ、パン、お菓子を代金を払わないままほおばり、買い物客らにジュースを勧めた。

 これで5回目だが、毎回メディアが取材し、注目を浴びている。店側から抗議はあるものの代金は請求されず、警察ざたにもなっていないという。「取り組みが支持されているから」とメンバー。総菜売り場に勤務する女性も「私も支持する」と笑顔で見守っていた。

日本じゃ絶対認められないであろうこういった活動がフランスでは一定の理解を得ているというのは、この活動自体がそのシステムの正常化や新陳代謝の役割を果たしていると認識されているからなのかなあ、と。まあ一定の理解といっても、単にこの一帯がだけが取り分けこの活動に理解があるだけなのかもしれないが。

しかし、流石にフランスの抗議活動は洒落ている。日本は真面目とふざけが相反するものだと認識されていて、ガチでふざけるという感覚が余りないから、まずこういうものは理解されない。昔は日本にも一揆とか打ちこわしとか「ええじゃないか」とか素敵な伝統や文化があったはずなんだけど。

もし本当に日本の伝統を守るべきだと思うのならば、「昔の日本人は慎ましく品位と思いやりに溢れ、規範意識が高かった」などという妄想によって形成されたありもしない紛い物の伝統に思いを馳せるのではなく、こういった本物の伝統を復興させることにこそ力を注ぎ込むべきでしょう。

恥かしくも懐かしい曲

DTMに手を出して1、2年の頃に作ったmidiが出てきたので録音してみた。
音源は「YAMAHA XG WDM SoftSynthesizer(S-YXG50)」

korehaaoi.mp3(6分14秒)

ギターの調整入力を途中で放り出したままなので酷いことになっているが、それ以上にこのメロディーの青臭さが凄まじい。特にメジャーキーの部分の能天気さは赤面もの。実際、これを作った時も少々の気恥ずかしさを覚えながら打ち込みをしていたように記憶しているが、この時はそれよりも、ただ思い浮かんだメロディーを打ち込むとそれが実際に音となって演奏されるということの喜びの方がそれを上回っていたように思う。そしてこの時はまだ「社会復帰」なるものを諦める何年も前だった。まあそれももう今は昔、懐かしい思い出でしかない。

 ***

DTMといえば、新しいボーカロイドの巡音ルカはかなり良さそう。クリプトンの最初のデモでは宝塚の男役みたいな声で微妙だったが、調整次第でどうにでもなるみたいだし。これはちょっと欲しいかもしれない。まあ、自分は歌詞を書けない…以前にもう曲を作る気力自体が殆ど無い(あったとしても大したものは作れないが)ので、手に入れてもそれが活躍する機会はまず無いだろうけど。

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Author:後正面
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