ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「善」とは求心力のことであり、ベクトルが収束する状態のこと

一つ前の記事では書ききれなかったことを別の記事にして投稿。
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悪とは何か。それは何らかの規範(枠組み)を逸脱することだろう。では善とは何か。悪とは逆に、何らかの規範に収まっている状態のことを指すのだろうか?しかしかねてから言っているように、収まるべき枠組みに完全に収まり切ることが出来る人間は原理的にいって存在し得ない。また、全ての人間が納まり切ることが出来るような枠組みを作り出すことも出来ない――故に、人間が悪の概念を捨て去りでもしない限り、人類の存続は常に邪悪なのである。
 
では部分的にそこに収まっていることを善というのかと言えば、やはりそれも違うように思う。守って当たり前とされている規範を守っているからといって、いちいちそれを善行とは言わないだろう。それに、それだと普段は真面目な人間がちょっと羽目を外しただけで腹黒い悪人であるかの様に見られる一方、普段からワルさばかりしている人間がたまに“ちょっと良いこと(発言)”をしただけで「良い人」だと言われたりすることの説明もつかない。

じゃあ結局善とは何なのかと言えば、それは個人の内部にある様々な目的や「こうであるべき」という正しさを求める欲求が、或いは何らかの集団に於ける――普段は様々なベクトルへとその赴きを向けている複数の――それらが、ある一つのベクトルへと収束しようとするその状態やそうさせる力のことを言うのではないのかと思う。だとすれば、先に例に挙げたような状況が生じることにも納得がいく。

そして善が求心力やベクトルが収束する状態そのもののことである以上、その求心力や状態を作り出すことさえ出来れば、ありとあらゆるものが善になり得る。例えば、秩序を保つという大儀で国家権力の行使し、人々を弾圧、疎外、虐殺すること(つまり既に成功を収めているテロリズム)が善であれば、テロリストが「世直し」と称して市民を襲うのもまた善である。ただし、(個人の内部や集団の中で)そのベクトルへの求心力や収束性が薄れていくと共に、その内容や行為の持つ善性もまた薄れて行くことになる。

要するに、「善」は内容を指すものではない。その中身は基本的に空洞であり、その空っぽな入れ物の中に色んな物が出たり入ったりしているだけなのだ。そうやって中身を入れ替えながら、「善」は進み続ける。そしてそこに積み込まれる中身は基本的に何でもよい。求心力や収束性を維持することが出来るものでさえあれば。それを前進させ続けることが出来るものでさえあれば。

だから、それが進み続ける以上、人々を魅了する求心力を持ち続ける以上、例えどんな物を積んでいようと、それが善であることを否定することは出来ない。何故なら、その牽引や魅了そのものが善なのだから。しかし、その牽引や中身を悪であると認定することは出来る。

つまり、善と悪は両立し得るということ。
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同じものでも文化の違いによって間逆に機能することがある

日本のTVドラマは「気持ちが悪くなる」-中国人留学生(Searchina)

  日本のテレビドラマを見ていると「気持ちが悪くなることがある」という。中国人留学生の台詞だ。聞き捨てならない。まあまあ、落ち着いて話を聞いてみる。

  とくに現代もののドラマなどで、よくあるのだという。

  今、緊急事態が発生していて手に汗にぎる場面なのに、それをわきにうっちゃって、そこだけ時間が止まったように、だらだらと個人の感情にまつわる話をはじめるのだそうだ。

  そう言われて思い当たった。

  刑事物や推理もののドラマで、今事件が起こっている。緊急事態だ。例えばあと30分で爆弾が炸裂する。主人公の刑事と犯人が対峙している。多くの人命が危機にさらされている。まさに山場だ。
「そうか、最愛の妻が警察のずさんな捜査で自殺においこまれたのか」

「一人息子を病院の医療ミスでなくしたのか」

「両親が悪徳金融業者にだまされ、その復讐か」

などなどだ。

  確かにそれで事件の背景がわかる。犯人のつらい過去がわかる。ようやく動機がわかり納得がゆく。見るものは犯人の側にも立つ事ができ、ドラマが重層的になる。

  しかし、こういった、ここぞと人の感情をあおるやり方に気分がめいるという。安易に人の情に働きかけてくるやり方が許せないのだという。(中略)

中国では悪人は永遠に悪人なのだ。悪人に気を許してはならない、と教えられる。(中略)

  しかるにわが日本では、たいていの悪人は死ねば、その先は罪を免じてしまう。死んだ人の悪口はあまり言わない。(拙著『感謝と謝罪』講談社による)

  日本でも「悪人は永遠に悪人だ」という設定になっているケースがないわけではない。たとえば時代劇だ。「越後屋」とか「悪代官」とか「火付け盗賊」とか、類型的な悪党を登場させ、わけも聞かずに切り捨て御免だ。ここでは「情に訴える」場面は出て来ない。越後屋は命乞いはするが、動機の説明はしない。

  ところが現代を扱うドラマになると、少し違ってくる。日本では、完全な悪はいないのだ。だれでも本当は善の心をもっている。それがたまたまねじ曲げられただけなのだ。性善説といってもよい。

あれだけ沢山の民族が混在し、日本ほどの画一化が進んでいないであろう国の文化を「中国」と一括りにして語れるのかとか、現代の日本に於いて「死んだ人の悪口はあまり言わない」なんて常識はもはや死に絶えているだろう、とかいうことは置いておくとして。
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そもそも、傾向としての「悪」の形は存在しても、真理としての「悪」の形は存在しない。そしてここここで書いたように、全ての人間は悪党として、罪人として生きてゆくしかない。「善人」とは、あくまでくすんだ宝石が放つ一瞬の輝きのようなものであり、それは本体そのものとしてのものではない。本体の側の人間は、ただより大きな罰(生の苦しみ)を受ける悪党か、もしくはそうでない悪党としてのみ存在し得る。だから人間は、如何にしてその罰を受けずに済むようにするか、如何にして自身の罪を自身と他者に悟られないようにするか(その認識自体が罰としての性質を持っている)ということにこそ最大限の「工夫」を凝らし続ける。

例えば、全てのものを一端統括的に囲い込み、その場所に定められた一定の手続きに従った方法でのみそれらを入手することが可能であるとするシステムによって成り立っているのが現代社会だが、そこではその囲い込みやシステムへの追従によって生じる罪は罪として除外、もしくは免罪されるという考えが定着している。こういった考え方は正に上記したような「工夫」によって生み出されたものであり、さらには、全てを一端稀少性の制約に基づいた経済的な枠組みに置き換えて物事の正誤の判断や取捨選択を行っていく経済倫理学的な考え方や、中国に於ける「悪人は永遠に悪人だ」という道理(解釈)もまた、そうやって(人々から罪の意識を払拭することを目的として)生み出されたものの一つだろう。だから、今その罰を受ける悪人が、実は人類存続の為に誰かが担わなければならない役割を担わされているという生贄的な側面を持っていて、そして罰を免れる者はその対象を生贄として捧げる側の人間であり、やはり罪深き悪人であるということを意識に喚起させる、罪の意識を封じ込める為の「工夫」を台無しにするようなものを見せられ、それで「気分がめいる」のは当然のことだと言える。

 *(1)*


とまあ、こういったことはこのブログでは既に何度も言ってきたことなのだが、ただこの記事を見て一つ思ったのは、「悪人は永遠に悪人だ」という考え方は、一見すると文化的・システム的に明確な形で悪だと認定されより大きな罰を与えられることになる顕在悪党により厳しく、そうではない潜在悪党に甘いように見えるものの、実はそれは顕在悪党の側にとっても比較的楽な考え方なんじゃないかということ。

確かに、「悪人は永遠に悪人だ」という考えを持つ文化の方が外面的には顕在悪党により容赦なく厳しい罰をもたらすことになるだろう。だが、悪党が受ける罰は何も外部からやって来るものだけではない。その罰は個人の内部からもまたやって来る。罪人は己の罪を意識することによって、その内面が(己の感覚が既定する)善と悪という間逆のベクトルへと引き裂かれることになるからこそ、或いは一個人の中で善と悪の内紛が起こり、自分自身で殺し合う自分アレルギーになるからこそより大きな苦しみを味合うことになる。

ところが、「悪人は永遠に悪人だ」という考えや感覚が完全にその者に染み渡っている時、この内面が引き裂かれる苦しみや内紛によるアレルギーショックは生じない。というのも、もし本当に「悪人は永遠に悪人」であるとするならば、悪人は始めから悪人として生まれ悪人として死んで行くことが予め決定付けられているはずだろう。だとすれば、その場合個人の意思や人格には己が悪であるか否かを左右するだけの力を持っていないということになり、となれば当然、それに対する責任や原因もまたそこには存在しないことになる。つまり、この考え方に則ったならば、善と悪の分岐点で内面が引き裂かれるというような状況は起こり得ないし、悪人は己の悪に対して責任感を感じて苦悩する必要も無い(「何故自分が悪として生まれてきたのだ」という苦悩を抱く可能性はあるが)。

尚且つ、この考え方の上では、悪とは即ち人間が手を加えて変更することが出来ない「自然」そのものであるということになるから、「善と悪」の対立は「人為と自然」の対立でしかなく、「自然」であるところの悪は己の存在に後ろめたさを感じる必要がないどころか、逆に「自然」を抑圧し罰と称して襲い掛かってくる者こそが悪である、と捉えることすら可能になる。要するに、「悪人は永遠に悪人だ」という考え方を信じるならば、社会的に悪という肩書きを持つ者もまた自らが善であるという認識を持つことが可能であり、罰とは、其々の善と善が対立することによって生じた暴力の差分でしかないという見方も出来るということ。

…では翻って、引用した記事上で日本的であるとされた「だれでも本当は善の心をもっている。それがたまたまねじ曲げられただけ」という性善説的な考え方ではどうなるのか。その場合、善こそが「自然」ということになり、その善が社会環境や個人の意思の働きによって手を加えられた結果、悪へと変貌しているということになる。よって、善を悪へとねじ曲げるような働きをする社会環境を作り上げた潜在悪党の人格や意思、そして自ら悪となることを受け入れ選択したとされる顕在悪党のそれに、悪が生まれた原因や責任が生じることになる。しかしながら、潜在悪党は当然「工夫」によって己の罪を認知することから逃れようとすることだろう。中国に於ける潜在悪党が「悪人は永遠に悪人だ」という道理で以って自らの罪を隠蔽したように。では、性善説的な考え方を持つ文化ではどのようにそれが行われるかといえば、悪が生じたことの原因や責任は全て顕在悪党の人格や意思に由来するものだと既定することによってそれが為される。だがそれは、それだけ顕在悪党の人格や意思にその重圧がのしかかることになり、性善説的な考えや感覚が染み込んでいる顕在悪党は内面上でより大きな罰を受け取らざるを得なくなることを意味する。

つまり、個人差やシステムとの兼ね合いによってその表出の仕方に違いはあるだろうが、善悪に対する考え方の違いだけを見れば、

外面罰:「悪人は永遠に悪人だ」>「善の心がねじ曲げられただけ」
内面罰:「善の心がねじ曲げられただけ」>「悪人は永遠に悪人だ」

というようなことになるのではないかと。

*(2)*


引用した記事を見て思ったことがもう一つある。それは、どうも誤って捉えられていることが多いようにも思うのだが、あそこで取り上げられているようなタイプの「現代もののドラマ」の多くは、決して「完全な悪はいない」から悪人を必要以上に責めるのは控えよう、ということを訴えるために作られているのではないであろうということ。

幾ら悪の原因や責任を全て顕在悪党の人格や選択に押し付け自らの罪を隠蔽しようとしても、余程鈍い人間でもなければ罰を受ける者の生贄性を、理性面では捉えられなくとも、少なくとも感覚的には察知せざるを得ない。何故なら、全ての人間が善であり続ける努力をすれば世界から悪が消えてなくなる、などという可能性を信じることが出来る者なんて一人もいないはずだから。「工夫」によって生み出された道理は所詮作り物の道理。現実はそんな道理に収まり切らないということは誰もが知っている。これは「悪人は永遠に悪人だ」と教え込まれる文化に於いても同じことだろう。やはり幾らそう教え込まれたからといって、全ての人間がそれを素直に信じ続けることが出来るとは思えない。だからこそドラマを見て動揺したりするわけで。つまり、幾ら「工夫」によって蓋をしようとうも、全ての罪を完全に隠蔽することは不可能であり、如何してもその蓋から漏れ出したものを誰かが認識して罪の意識に苛まれるようなことが起こってくる。

そこで「現代もののドラマ」が一役買うことになる。そこでは、悪人にも充分に同情の余地があったことが描かれる。しかし、それは決して悪人の持つ責任性や原因性を弱めることを目的として描かれているわけではない。それが証拠に、そういったドラマではその同情の余地を描いた後に、必ず「でも…」が続くはずだ。そしてこういった下りが付け加えられる。「同情はするが、例えどんな事情があろうと悪は悪であり、その最終的な原因や責任はやはり実際にその引き金を直接引いたその当人にあるんだよ。そして君がもっと善であり続ける為の我慢や努力をしていれば、この結果は回避出来たはずだ」と。つまりそれは、「ドラマを見ている“自分”は世の中に存在する悪には全く無関係だ」というメッセージを視聴者に届けてくれるものであり、「工夫」をすり抜けてあふれ出してきた罪の意識を、再び封じ込めることを目的として作られているものなのだ。言わば、罪に対する「二つめの蓋」の役割を果たしている、といったところだろうか(まあそれでも漏れ出すものは漏れ出すんだけど)。

また、そこで描かれる「同情」にはもう一つの意味がある。生贄を捧げる側である潜在悪党にとって一番恐ろしいのは、いずれ顕在悪党となるであろう者が己が悪であることを完全に認め、更には罰を受けることをも覚悟した上で開き直ってしまうことだ。何故なら、一端そういう状態を招いてしまえば、もはやその者を抑制する手立ては完全に失われ、その者は完全にアンタッチャブルな存在になってしまう。そういった現象は、生贄として捧げられる者による一種の祟りみたいなものだ。その祟りに関しては、もう祈ったり奉ったりすることしか出来ない。つまりここでの「同情」は、人類存続の為に不可欠となる生贄(顕在悪党)に一定の理解を示すという儀式を執り行うことでそれを奉り、未来に起こるかもしれない祟りを沈める為のものでもあるのだ。

だから、「現代もののドラマ」は決して中国人留学生が言うような「安易に人の情に働きかけ」る為のものでも「悪人に気を許」す為のものではない。それはむしろ世の中に存在する悪の原因や責任を全て顕在悪党に押し付け、潜在悪党の持つ罪の意識に蓋をする為のものであり、未来に起こるかもしれない祟りの恐怖から逃れようとする為の儀式なのだが、同じものでも文化が違えば全く間逆の方向で機能してしまうというのは中々面白い。

「民間なら当たり前」という聖域

なぜすき家は営業していられるのですか? 前すき家で働いていたの...(Yahoo!知恵袋)

牛丼「すき家」のアルバイトは業務委託であり、残業代は発生しない(首都圏青年ユニオン)

すき家ゼンショー、告発した店員を告訴「飯5杯盗んだ」(朝日新聞)

ブラック企業が大手を振って跋扈する日本社会。
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民対官の対立構図の上で、官の悪行ばかりが強調され易い昨今だが、民が起こす不祥事だって毎日のように伝えられているはずだ。「無駄な公共事業」にしても、民間企業の協力無しには成立しないものが殆どだろうし、少なくとも大きな事業に関しては、民の代表である政治家がゴーサインを出さなければそれを為すことすらままならないだろう。

しかしながら、殆どの人間は民の側に属する人間であるが故に、民が長年抱え続ける問題を本気で解決しようとするような動きは中々出て来ない。民の問題が取り上げられるにしても(官の問題は「官」として一括りにして取り上げられる一方、民でのそれは「民」として一括りにして取り上げられることは先ず無く)、多くの者にとって自己批判に当たる様な捉えられ方は避けられ、他者として切り離すことが可能な、一部の者だけが持っている固有の問題としてそれが議題に掛けられる。また、民が今の形から変化すれば今よりももっと酷い状況になるのではないか、という漠然とした不安を抱いている者も多いから、官の改革を訴える者が大勢いるのに対し、民の改革を訴える者は余りいない。

「民間なら当たり前」…橋下知事隠し撮り正当性主張(読売新聞)

よって、官での「当たり前」は常識外れとして詰責される一方、民でのそれは「仕方が無いこと」として是認され続けることになる。或いは、民が抱える問題が「正しきこと」として官へと持ち込まれることになる(本当に隠し撮りが「当たり前」なのかどうかは分からないが…)。つまり、官が多くの問題を抱えていることは事実だろうが、実は本当に厄介なのは、“普段から「当たり前のこと」として見逃されている民の問題”の方なんじゃないかと。

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鳩山総務相、地デジキャラ・草なぎ容疑者逮捕に「最低の人間だ」(ITmedia)

「民間なら当たり前」問題の一つの例として紹介した冒頭の事案に比べたら、深夜の全裸奇行なんて大した問題でもないだろう。まあ毎晩そんなことされたら流石に困るけど、「最低の人間だ」とまで言われるようなことではないはずだ。しかし、実際にはこちらの問題はやたらと大きく取り上げられる一方、冒頭で紹介した本当に深刻な問題はそれほど大きな問題としては捉えられなかったりする。こういったことにせよ、民と官の問題にせよ、どうも罪の捉えられ方に対するバランスが悪いように思うことが度々ある。「最低の人間だ」と罵られる様な行為はもっと他にあるんじゃないのか?普段から「当たり前のこと」として行われている、それらの中にこそ。

いずれにせよ、「意識の変革が求められている」などとして、個人が社会の趨勢へと適合化することの必要性ばかりが唱えられ続ける昨今だが、本当に改革が必要なのは、「組織や集団(を上手く装っている個人達)に優しく個人に厳しく」という日本社会の常識の方なんだと思う。

何を今更な話

目的の達成ではなく、その目的へと向かう道筋、或いは何の目的も無くただ彷徨い続けるその変遷にこそ、その価値を認めなければならないのだと思う。

少なくとも、あらゆる「意義あるもの」は「意義無きもの」の存在無くしては存在し得ないし、「意義無きもの」からしか「意義あるもの」は生まれない。というか、そもそも「ある意義あるもの」は、常に他の誰かにとって「意義無きもの」であり続けるわけだし。

ネタかマジかと言うけれど

ネット上では、よくその発言がネタなのかマジなのかという論争を目にすることがあるが、「狂人のまねとて大路走らば、すなわち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり」なわけで、ある発言を不特定多数の者が目にしたり耳にしたりすることが出来る場所で行った以上、それがネタであるかマジであるかの区別なんて、情報の受け手にとっては別にどうでもよいことなんじゃないだろうか。
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もしその区別に意味があるとすれば、それは仲間(具体的な誰かというだけでなく、ある趣向や思想、常識や感覚を共有する者達)内で行われることを前提とした会話に於ける文脈としての問題や、その発言をした者の内面(つまり、他者からどのように見られたいか、見られたくないかという自意識)の問題でのみだろう。だから、その「仲間」に含まれない人間やその発言を行った者の内面に興味が無い者からすれば、それがネタなのかマジなのかはどうでもよいこととなるのだが、一方、その発言を行った者からすれば、それは仲間(つまり自分が想定する「それを見て欲しい者達」)だけに向けたつもりの発言だったりするので、「いや、そういうことじゃないんだよ(ネタだって!)」ということになり、永遠に噛み合わないという…。

まあ、自分が想定する「それを見て欲しい者達」だけにその情報を届けることが出来たらこういった問題は全て解決するんだろうけど、(SNSなどである程度はそれが実現出来るにしても)実際にはそんなことは先ずあり得ない話だし、異質な者が他者のそれを目にすることが出来るというのがネットの良いところであったりもするわけで、如何ともしがたい。

騙された方が悪いってヤツか

「農業」数日でやめた元派遣 甘くない現実と甘い発想(J-CASTニュース)

自らの甘い発想が裏切られたからといって、その無茶な期待に応えることが出来なかった者に「甘えてんじゃねえ!」と八つ当たりするのは良くないことだと思います。
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自給率が低いと食料危機になった時に
日本に食いモンが回って来なくなったりしてヤバくね?

でも、農業みたいなダサくてキツくて儲からない仕事なんてやりたくないしなあ…

「これからは農業の時代だ!」とかなんとか適当なことを喧伝して人を集め、
そいつらにやってもらえばいいじゃない

しめしめ、メディアでのキャンペーン効果もあって農業に人が集まってきているらしいぞ

集人「なんだこりゃ、言われていたことと全然違うじゃないか。止めさせてもらうわ」

この根性無しどもめが!これだからゆとりは…

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因みに、自分が住んでいる所は昔は辺り一面に田んぼや畑が広がっていたけれど、今ではそれらの殆ど全てが賃貸(分譲)マンションに化け、そのおかげで地主の人達は悠々自適の暮らしをしていますよ。

広告を表示させるとブログの表示が高速化されるらしい+α

【ブログ】アカマイの高速コンテンツ配信システム導入と広告表示について

2009年4月9日(木)よりFC2ブログ (blog.fc2.com) に、
アカマイの高速コンテンツ配信システムの導入と、それに伴う広告表示を、
FC2ブログ全サーバで実施、運用を開始します。 (中略)

■ 高速コンテンツ配信システムが導入されると・・・
ブログや管理画面などが、従来よりも高速で表示されます。
読み込み時間も短くなり、読者・訪問者もストレスなく閲覧できるようになります。

だそうで。このシステムを利用しない設定にすることも出来るようだが、FC2では新機能が導入されるとデフォルトでその機能がオンにされる仕様になっているので、いきなり広告が表示されて「なんだこれは」と驚いた人も多いのではないか。

まあいちいちFC2のインフォメーション記事に目を光らせている人は余りいないだろうし、わざわざ新機能を試してみようとする好奇心旺盛な人もまた余りいないだろうから、新機能の周知や普及の為には仕方が無いことなのかもしれないが、これは少々人騒がせな仕様でもあるような。特にこと広告に関しては。何しろ、アフィをやっているというだけで糾弾されかねないような文化を持っている国ですから。しかし、せどりなんかもそうだけど、集団の一員として目立たない形でその手の行為を為すことは必要とされる(むしろその流れに合流しないと糾弾される)一方、一個人として、或いは目立ちやすい形でそれをすれば蔑まれるというのは、なんとも妙な話だ。こういう文化に関する研究はされているのかなあ。
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ここで見受けられる、同じことでもそれを集団の一員という体で為すのと一個人として為すのでは、或いは目立たない形でのそれと目立つ形でのそれでは全くその評価が変わってくるという状況は、恐らく僻み根性が大きな原因となってそれが生じているのだろう。ただ、「蔑み」の理由は単にそれだけではなく、もっと根っこの方には資本主義(金儲け)への嫌悪感みたいなものがあるようにも思う。必要であってもあからさまにはするな、みたいな。案の定インフォメーションのコメント欄が荒れているが、このコメント欄からもそれは見て取れるだろう。

とはいえこれもまた妙な話で、日本はその金儲けに成功することによって大きな経済的発展を遂げ(日本が僻まれる時代もあったよね~)、それをこの国の国民は誇りにしてきたはずだ。そして今尚それを発展(持続)させ、それによる恩恵を受け取ることが望ましいと思っている者の方が多数であろうし、社会的にもそういったことにより積極的であるべきだとされている。だからこそ、その枠組みに上手く組み込まれなかった人間は不良品として蔑まれることになるわけで。というか、儲ける(利益を確保する)ために低賃金で人を使い捨てるようなことまでもが「仕方が無いこと」として実質的な社会的合意を得ているこの社会に於いて、広告収入やせどりという手法の阿漕さなんて高々しれているはずじゃないか。にも拘らず、何故それがひときわ汚いものみたいな目で見られることになるのだろう?なんともちぐはぐなあり方ではないか。しかしこういったちぐはぐさも、日本が経済的には幾ら発展しても文化的には近代化されきることがなかった、その一つの症候として表れてきているものだと考えると、さほど不自然なことでもないように思える。

実際、近代化(とそれに伴う資本主義化)は大きな持病を抱えている。物事の「存在自体」までを何らかの枠組み(例えば経済的なそれ)を通した視点でしか見ることが出来なくなり、分り易い形で直接その枠組みに貢献しているか否かで「必要なものと不必要なもの」に分別してしまうという重篤な病を。そのことは今世界的にも大きな問題となり、様々な摩擦を生み出している。しかし、その近代化の持つ持病(特に人間の存在に関するそれ)は日本でも隆盛を誇り、それが主流派のようになりつつある(というより今まで隠されていたそれがあからさまになってきただけ?)ことからしても、日本に於ける資本主義(金儲け)嫌悪は、そういった近代化の持つ資質へのカウンターとしてのものという性質は薄いだろう。

じゃあ何故こういったちぐはぐな状況が起こってくるのかと言えば、恐らくそれは、何らかの枠組みの理念に従ったり抗ったりしているのではなく、単に其々がその都度その都度その感覚によって、それを良いものと判定したり悪いものと判定したりしているからなのではないか。つまり、日本はまだ近代化というものをちゃんと咀嚼して飲み込むことが出来ないまま、口の中にそれを含んでモゴモゴしたまま今日を迎えているのではないかと。だから、近代的なシステムを用いていながら、その根幹であるはずの理念や理屈に関しては全く合意や納得が得られないという奇妙な事態が生じてくると。

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そのように考えてみると、日本は一般的には集団主義的とされてはいるが、予め個人の外部に定められた何らかの枠組みによる理念に従うわけでも、その理念によって初めて個人の「権利」が認められるというわけでもなく、其々の個人が持つ感覚の趨勢が直接社会的枠組みを(適当な所から借りてきたものを継ぎ接ぎしたりして)作り出し、それが何の理念も持たずその都度感覚的に書き換えられていくという形を取っているという意味では、日本はある種、一風変わった個人(感覚)主義の国であると言うことも出来るのかもしれない。例え趨勢からはみ出た個人の「権利」なんてものは無いに等しい国だとしても。

いずれにせよ、「個人主義or集団主義」という単純な構図で以って一元的にその社会や文化を解釈することは、それを見誤らせる可能性を高めるように思う。自分は集団主義を標榜する者も含めて、全ての人間は基本的に個人主義であると思っているが、しかしながら、さらに別の視点から見れば、その個人主義は集団が作り出す環境から逃れることが出来ないという意味では、常に集団主義に包括され、またそれを形作っているものだと言うことも出来る。そもそも、個人が「個人」として認識されたりその概念が生まれたりするのは、誰かが集団に身を置くことによって初めて生じることでもあるだろう。個人は一人きりでは「個人」には成り得ないのだ。

まあだから、限定的な意味で便宜的に個人主義や集団主義を分けることは出来るものの、ある社会全体を大雑把に「どちらであるか」と分類したところで、それは結果として色んなものを見落とす原因にもなりかねないんじゃないかと。例えばある社会を個人主義的と評価した時、その社会の持つ集団主義的な(つまり、「個人主義」の枠組みに収まらない他の)側面は完全に見落とされてしまう恐れが出てくる。だから、もし個人主義・集団主義という視点でその社会を観察しようとするならば、全ての社会はその両面を持っているという前提で物事を見なければならないように思う。

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【ブログ】アカマイ高速化の体感画像&広告表示サンプル

それはともかく、再び冒頭の話題に戻り、実際に比較用ページでの画像表示速度の速さを比べてみると、確かに「アカマイ」とやらの方が少し早い。恐らく、混雑時にはさらにこの差が激しくなるのだろう。ただ、広告サンプルを見てみるとこれがかなりデカい。そもそも、写真やイラスト系ブログのように巨大画像が多数用いられているブログならばともかく、うちのようなテキスト主体のブログはこの高速化も余り関係ないような気も。でも、今見てみると新しく追加された広告は



こんなもので、この程度のものなら別に表示させておいてもいいかな、という気もするし、さてどうしたものか。もし、リンク先のサンプルで表示されているような派手な広告が表示されるようになったのならば、さっさと非表示にした方が良さそうだけど。

 ***

うだうだ書いているうちに、結局「+α」の分量の方が圧倒的に多くなってしまった。


追記:ど派手な広告が表示されるようになったので非表示にしました。

「魔女」とは幻想の存続を脅かす存在のこと

CNN.co.jp:ガンビアで魔女狩り横行、幻覚液で死者も アムネスティ

(CNN) 国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは18日、アフリカ西部の国ガンビアで魔女狩りが横行し、1000人あまりが捕らえられて幻覚を起こす液体を飲まされていると伝えた。

液体を飲まされた人のうち少なくとも2人が死亡、多数が深刻な腎臓障害を起こしているほか、暴行を受けてけがをした人もいるという。アムネスティはガンビア政府に対し、直ちに魔女狩りをやめさせるよう要求した。

アムネスティは同国のジャメ大統領の関与も指摘。親類の死に魔女がかかわっていると信じた大統領が、呪術医を呼び寄せたとの報道もあるという。魔女の疑いをかけられ連行された被害者や家族は、呪術医が警官や兵士を連れてやって来て、銃を突きつけられ連行されたと証言している。

もしこういった状況を途上国だけが抱える病理のように捉えるのならば、それは先進国側の思い上がりでしかないだろう。
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 *(1)人は現実逃避無しには生きてはゆけない*

そもそも、人間の精神は過度の不確定性を持った環境に耐え得るようには出来ていない。例えば、分刻みでどんどんその思想や趣向や性格が変容してしまうな人物がいるとしたら、多くの人々はそういう人物を危険視し、その者を何らかの方法で矯正するなり隔離(排除)するなりしようとすることだろう。何しろ、その相手は今何を考えていて次にどのような行動を取るか全く予想が出来ないから、周りの者は不安で不安で仕方がないわけだ。そしてそういった不安(不確定)要素があるならば、何らかの方法でそれを取り除き、それによって整然とした秩序を形作り、それに拠りすがることによって安寧を得ようとするのが人間のサガ。

逆のケースでも同じことで、もし誰かが己の判断基準となり得る程の信頼性を持った法則を全く見出すことが出来ないような環境――例えばそれは、先ほどまでは何の問題もなかったはずの振る舞いを次にした時にはそのことで激しく糾弾されるかもしれないし、今の今まで大きな価値を持っていたはずのものが次の瞬間無価値になるかもしれない。数分前まで安全だったはずのものや手順が突然命を脅かしかねない程の危険性を持ち始めるかもしれない、そういった何も拠りすがることが出来る法則が存在しない世界――に放り込まれるようなことがあれば、きっとその者は酷く消耗し、精神を病まずにはいられないことだろう。だからそういった状況を回避するため、人間は自身の内と外に様々なシステムやモラル、常識、思想、宗教、経験則、分類などを作り出し、現実をそれらで整備し、その秩序の中に押し込めて理解することで、恰もその秩序が現実そのものであるかのように錯覚しようとする。そうやって現実を幻想のオブラートで包み込み、直にそれを目にしたり触れたりしないようにすることで初めて人間は己の精神を安定した状態に保ち続けることが出来る。

だから、よく虚構の世界に現実逃避しようとしている者に対し、その行為をまるで悪しき(危険な)ものであるかのように捉え、「現実を見ろ!」と言ってそれを咎めてみせる者がいるが、あれは(勿論、程度の問題はあるにしても)トンデモない間違いなわけです。何故なら、現実を幻想のフィルター無しに直視し続けるのはその者の精神を確実に蝕む非常に危険な行為であり、そしてそもそもその説教をする側の者が己の精神を安定した状態に保っていられるのだとすれば、それはその者が現実を何らかの幻想のフィルターを通して見ることが出来ている――つまりそれは、虚構の世界ではなく現実の世界で秩序という幻想を用いた現実逃避をしているわけでもあるのだから。現実に見出す幻想だけで精神の安定を保っていられる者は虚構に現実逃避する必要はなくとも、そうでない者にとってはそれは生きていく為に必要な行為なわけで。

実際に精神を病んでいる人も、それは結果としてその社会の主柱となっている幻想を人々と共有することが出来なくなったり、拠りすがる幻想を失ったまま新たな幻想を手に入れることが出来なくなったり、或いは余りにも現状と乖離し過ぎた、もしくは何のモチベーションも得ることが出来ないようなガラクタ同然の幻想しか手に入れられなかったからこそ、そういう状態に陥っているという人も多いことだろう。つまり、それを虚構の世界を主として行うか現実の世界を主として行うかはともかく、(その者にとって)良質な幻想に支えられた現実逃避は人間にとって必要不可欠なものなのだ。

 *(2)破れかかった幻想を継ぎはぎするために行われる「魔女狩り」*

しかしながら、そうやって作り出された保護膜としての秩序(幻想)は、所詮人間が作り出した仮想的枠組みでしかないため、例えそれがどれ程優れたものであっても現実全てを包み込むというわけにはいかず、それ故現実は常にその外側にも広がっているし、それは常に例外や欠陥という穴や矛盾を抱え持つものでもある。だから、いつその例外や欠陥が生み出す問題を自分が受け持たされることになってもおかしくないし、それが持つ矛盾に苦しめられ続けることだってあるだろう。そして幾ら虚構に逃げ込もうとも、誰も現実から完全に逃げおおせることは出来ない。となれば、自身が頼りにしていた幻想が崩壊し、現実が持つ毒気を帯びた視線を直接浴びざるを得ないような状況に陥ってしまうこともまた、往々にして起こって来る可能性がある。

それでも、もしそうなったとしてもその崩壊した秩序への依存度を他の幻想へと振り分けたり、他に代わりになるような何らかの新しい幻想を獲得したりして、それで己の精神を保護することが出来ればよいのだが、それが出来なかった場合、今までその幻想によって押さえ込まれていた不安が一気にそこから飛び出して、その者の精神どんどん蝕んでいくことになる。これが拠りすがる者が少ないマイナーな幻想だった場合、それは単に個人の問題として捉えられることになるのだが、それが社会的な主柱の一部を担っているようなよりメジャーなものだった場合、その幻想の崩壊は大きな社会問題となる。

そしてそのような社会問題となる程多くの人々から厚い支持と信頼を勝ち取っていた幻想が崩れかけた時、人々はその崩れかかった幻想を中々捨て切れず、「今までちゃんと機能していたはずの秩序がどうも上手く機能しなくなっている。これは誰かが良からぬ考えや行いをしているからに違いない。だからその者を見つけ出してその原因となっているものを除去するなり改善するなりして、再びこの秩序の安定を取り戻さなければならない」というような考えを持ち始め、その犯人探しと原因への対処が行われることになる。そしてそれによってその犯人(原因)であると“される”存在こそが「魔女」であり、それに対する処置が「魔女狩り」なのだ。つまり、「魔女」とは何らかの幻想が現実的なものであり続けることを脅かしていると“される”存在のことであり、「魔女狩り」とは崩壊しかかった幻想の裂け目を塞ぎ、そこから漏れ出す不安を押さえ込むための新たな幻想の構築のことなのだ。ガンビアで起こっている状況もまた、こういったその土地での一般的幻想が崩れかかって尚、多くの者がその幻想を捨て去ることが出来ず、その犯人探しと対処が行われた結果としてのものだろう。

 *(3)「魔女狩り」は変形する*

しかし、こういった行為は何も所謂途上国だけで行われているわけではない。

ロボトミー - 葉っぱの~終わりある日常。

 翌朝、その医師(フリードマン医師)は自分の「ロボトモービル」ーロボトミーの器具を搭載した小型トラックーを運転してやってきた。彼は病棟を巡回すると「そいつ、それから、あいつ」と無作為に患者を選んだ。患者一号が彼の前に押し出された。彼はその女性のこみかみに電極を当てると気絶するまでショックを与え、それから彼女の左まぶたを上げて、アイスピックに似た器具を彼女に眼の中に突き刺した。それを引き抜くと、血のついたアイスピックをアルコールの入った嘔吐盆に浸し、それから次の患者に移った。(中略)次から次へと管理された暴力の流れ作業を無慈悲に進めていき、その後には血だらけで盲目になった40ー50人の患者が残された。

1948年、フリーマンは米国精神医学・神経学委員会の会長に選出された。国中で講演を行い、特に統合失調症患者、同性愛者、共産主義者などといった社会の不適応者を制御するためにロボトミー(中略)を賞賛してまわった。1955年までに四万人以上の患者が手術を受けた。

これは、バーバラ J. キャラウェイ著『ペプロウの生涯―ひとりの女性として、精神科ナースとして』に書かれていた一描写だということだが、これと冒頭で引用した記事によるガンビアでの「魔女狩り」と比べてどちらが残虐な行為だろうか。これもまた典型的な「魔女狩り」なわけだが、当時、ロボトミー手術はノーベル賞をも獲得した画期的な最先端技術でもあった。その最先端技術と呪術医の施し、先進国のそれと途上国のそれ、一体どちらが野蛮な行為だろうか。どちらが多くの犠牲を出しただろうか。

ロボトミー lobotomy(新・サイコドクターあばれ旅)

しかも日本では、こういったロボトミー手術が1975年までに3万人~12万人くらいの人間に対して行われたという。つい30年程前までこういった行為が科学医療として行われていたわけだ(自分も30年早く生まれ、直ぐに医者を頼りにするようなたちだったらやられてたかもね)。しかも「3万人~12万人くらい」って。何この曖昧さ。これはつまり、如何にずさんな体制でそれが行われていたかということを示すものでもあるだろう。

「でもそれはもう30年も前のことでしょ?今はそんなことはないでしょう」と思うかもしれない。確かに、今はもうロボトミー手術は行われてはいない。しかし、ロボトミーが無くなっても「魔女狩り」が無くなったわけではない。それは教育・更正・治療・償いなどの名で、より洗練された形で行われ続けている。勿論、それによって心身に傷害を負わされた者は今尚増え続けていることだろうし、それが死者を出すようなより明確な形になって表れることもある(何らかのコミュニティーや教育施設などで行われる精神的・肉体的リンチ事件などがその典型例)。そしてそういった強引な手法を取ることを支持している者も多い。つまり、昔よりはそれがまし(或いは婉曲的)なものになってきていることには違いないかもしれないが、先進国は途上国(日本は経済以外はどちらかと言えばまだ途上国なんじゃないの?という議論はさておき)で行われるそれを嗤うことは出来ないだろうということ。何故ならそれは、其々の土地々々に於いて名を変え形を変え、ちゃんと今尚息づいているものなのだから。「魔女狩り」を見たければ、わざわざ遠い異国の地に目をやる必要はない。身近な場所に目を向けて見れば、それはいつもそこに存在している。

例えばその様式の一例としては、本来一対一で直接対になって繋がっている非常に限定された関係にある原因と結果を除いては、それは常に因果のブラックボックスを挟んだ向こう側とこちら側という関係にあり、こちらでどのような働きかけをすれば向こう側(未来・結果)がどうなるかということは、少なくともその時点では誰にも知り得ないことのはずであり、そしてまたある一個人の力で社会全体が大きく変わることなんてあるはずもないのだが、こういった不可抗力的な分野までを、恰もブラックボックスを挟んだ向こう側の結果が分かり得たかのような前提で以って、その結果を、或いは未来に予測されれるそれを、特定個人の「責任」であるとしてバッシングするような行為はごく日常的に行われている。これは正に「魔女狩り」そのものなわけだが、こういった「個人の選択による(ブラックボックスの向こう側の)結果のコントロール性とそれに伴う責任追求により形成されるとする秩序(幻想)」を保つためのバッシングに一度も加担したことがない人なんて、恐らく一人もいないんじゃないか?

さらにもう少し具体的な例を一つ挙げてみれば、其々の個人に平等に与えられた無限に修復可能で無限に溢れ出る精神の(持つ努力や忍耐、工夫や気づきの)力を其々の意思によって最大限に発揮さえすれば、誰もが最低限の社会的地位や幸せくらいは獲得出来るという精神論的ユートピア幻想が一般的なものとして定着してきたこの国では、その最低限のものを獲得出来ない根本の原因は(余程大きな分り易いハンデでも背負っていない限り)基本的にそれを発揮しようとしない人格にあるとされ、そういった人格を持つ者や、その精神論的事実を認めようとしない人間が「魔女」として扱われているような光景は、ごくありふれたものとして存在している。

 *(4)「魔女狩り」抑制の難しさ*

人間が幻想に拠りすがって生きていく他ない生き物である以上、「魔女」の恐怖が払拭されることも「魔女狩り」が消滅することもない。とはいえ、だからといってそれが行われることを放置していればよいというものでもなく、やはりそれを抑制しようとする意識を持つことは重要だろう。しかし、「魔女狩り」抑制には二つの大きな問題が常に立ちはだかっている。

その一つは、「魔女狩り」をする側は自身を被害者(或いは未来に被害を被る可能性のある者)だと思ってそれを行っているということ。実際、それを行う側はその行為に関しては加害者ではあるが、幻想の崩壊によって精神を蝕まれ始めているという面ではある意味被害者でもあるわけだ。だから当然被害者感情を抱くことにもなる。例えばアメリカがイラクで行った戦争なんかは、石油利権や軍需産業の発展(による仕事や雇用の確保)という要素も多分に含まれていたかもしれないが、それだけであの戦争が為しえたわけではないだろう。それはやはり、アメリカ側の911のテロによる被害者感情と未来のテロへの恐怖心があったからこそ、そしてそれとイラクとが(事実としては911のテロと関係ないと分かっていながら)感覚の上で結びつけられたからこそ、ああいう結果になったのではないか。つまり、「魔女狩り」はそれを行う側が実際に何らかの痛みや不安を感じ、それが動機となって行われているものである以上、その元となるものが解消されない限り、中々それを止めさせるのは難しいということ。

そしてもう一つの問題は、「魔女狩り」が行われる時、それは必ず「秩序を守るため、人々の安全を守るため」という大儀で以ってそれが為されるということ。しかもそれは、その社会や何らかの集団に於ける大勢となっている側の要請(もしくは納得)によって執り行われる傾向が強く※1、それ故そこではそれを行うこと自体が「常識的」なものであると判断とされ、無自覚なまま行われていることも多い。つまり、「魔女狩り」に異論を唱えるということは、大勢の側が主張する「秩序と安全の守護」という大儀に真っ向から立ち向かうことであり、無自覚な常識に反旗を翻すことでもある。それが如何にその者に大きな危険をもたらすことになるかということは言うまでも無いだろう。

だからこそ我々は、無自覚に、或いは自分自身の身を守るために、日常の一部として「魔女狩り」に参加する。そして日頃から自身の所属する集団内で行われている身近なそれには何の違和感も感じないで、他の集団で行われているそれを外から見た時に初めて、その行為の異様さに気づくのである。



※1 でないと多くの人々の支持を得られないし、それを行うだけの力を獲得するのも難しいだろう。というか、例えば一個人でそれを行う場合、それはむしろ「魔女の復讐」と言った方がしっくりくるように思う。

処世術としてのバカ騒ぎ、もしくは安全な脅威への逃避

北朝鮮の「飛翔体」発射、各国メディアも速報(日本経済新聞)

なんか誤発表やらなんやらで偉い騒ぎだったみたいだけど、これでようやくバカ騒ぎも少しは収まるのだろうか。まあ実際にこの「飛翔体」とやらがもたらす脅威なんて、日常の脅威に比べたらあって無いようなものだということくらいは殆どの人が分かっていたことだろうけど、それでもこういったバカ騒ぎが行われたのにはそれなりに意味があり、バカ騒ぎをしていた人も、必ずしもバカだから騒いでいたとは限らない。
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まず、このバカ騒ぎは別に政府主導で行われたわけではない。政府は、この前の北朝鮮のミサイル実験の時にその詳細を把握しておらず、その情報の入手と発表に遅れを取ったことで世論から散々叩かれたため、今度はそういう責めを負わないで済むような姿勢を国民に見せようとしただけだろう。マスコミも同じ。もしマスコミが今日の風潮で今回の事態に対して鷹揚な態度を取ってみせていたとしたら、それもまた「危機感が無い!」と言って叩かれることになっただろう。勿論、マスコミ自体がそういう世論を形成するための一翼を担っているのは事実だが、そもそもマスコミは大衆のご機嫌伺いをすることが仕事なわけで。まあ、そうやって大衆に媚びた結果、そのことでまたさらに大衆から「マスゴミ」などと言われてしまったりするわけですが、それがリッパナ・シャカイジンのオッサンがよく言う「頭を下げることが仕事」というヤツでしょう。

ただそれにしたって、兵器売買の可能性などをちらつかせて行われる北朝鮮のアメリカへのアピールが日本に対して全く影響が無いとは言えないとしても、幾らなんでも「飛翔体そのもの」に対してこんなに騒がなくてもよいはずだろう。しかし、「強い危機感させ持っていれば全て上手くいく(危機感が足りない者はこの世で地獄に落ちる)」という危機感神話がこの国に興隆している以上、そうも言ってられないわけです。

というのも、その危機感神話を信じている人は、ある懸念に関して政府やマスコミ、行政、或いは何らかのコミュニティーの構成員など、「集団(つまりそこに含まれる自分)の利益」に関係してくると思われる者達から危機感を余り感じ取ることが出来なかった場合、そのことで自分もまた連帯的に何らかの被害を被らされることになるのではないか、という不安を感じることになる。神話を信じている人達からすれば、危機感を持っていないその人達は自分の利益を害することになる加害者であり、自分は未来の被害者なわけです。だから危機感を余り持っていないと思われる人を本気で怒る。本気でバッシングしてきます。そうなれば周りの者は、そういった危機を避ける為に、神話を信じていなくとも危機感を演出せざるを得なくなってくる。そしてそれが一般化し、危機感を持っていない奴は叩かれても仕方がないというような風潮が生まれて来ているのが今日の風潮。だから知らない人に付いて行ってレイプされるのは自己責任、みたいなことを言い出す人も現れてくるし、そうなれば、自身が窮地に陥った時に危機感を余り持っていなかったという理由でバッシングが加熱することを阻止するために、「自分はこんなに危機感を持っていましたよ!」といういい訳(証拠)を予め用意しておかなければならなくなる。

つまり、大変だ大変だと騒いでいた人達は、他者から糾弾されないため、処世術の一つとしてその騒ぎを起こしていた可能性があるということ。

 ***

本気で「飛翔体」の脅威を信じていたわけでもないのに騒ぐことの必要性は、他にも考えられる。それは現実逃避だ。

殆どの者の人生にとって、本当の脅威は学校や職場や家庭に於ける人間関係であったり、職や住む家や健康を失うことであったりと、ごく身近な日常に存在しているものだ。そしてそういった日常に於ける本当の脅威は、其々の個人に常に纏わりつき、死ぬまで離れることはない。まあ中にはそういった日常が楽しくて仕方がないという人もいるかもしれないが、多くの者にとって日常は常に痛みを伴うものであり、自分みたいに「本気を出し続けた結果が無職だよ」な生まれて来たことを後悔している人間もいれば、「何とか社会の波に上手く乗ることは出来たものの、もう自分が生きていることに価値を感じることが出来ない…けど死ぬ勇気もない」という人もいるだろう。日常とは、基本的にそういった苦役性を持ったものでもあるのだ。だからこそ、その日常の痛みを和らげるための逃避が必要となる。つまり、「飛翔体」のようなリアリティの薄い安全な脅威へと意識を向けることで、そういった日常の痛みから気を反らすためにバカ騒ぎをしていた人もいるのではないかと※1

北朝鮮、核爆弾の小型化に成功か 米韓当局情報と専門家(47news)

北朝鮮関係で言えば、既に日本向けに実戦配備されているノドンに核爆弾を積む事が可能になったのではないかという、(情報戦によるものかもしれないが)よりリアリティのあるより大きなニュースがあったのにも拘らず、「飛翔体」の一部が落ちてきて怪我をする人が出るんじゃないかという、殆どあり得ないどうでもよいようなことで騒ぎが起こったのがその良い証左と言えるのではないか。

もし北朝鮮が本当に核兵器を使うとしたら、それは向こうにとっては「死刑覚悟の犯行」と同じようなものでもうヤケクソだから、一発、二発ではなく、しこたまそれを打ち込んでくることだろう。その場合、元々加持祈祷くらいの力しか持っていないミサイル防衛システムなんて何の役にも立たない。そしてこの脅威は、幾ら騒いでみたところで解決するわけでもない。隣のムカツク国とそういう事態が起こらないような関係性を維持し続けることでしかその脅威から逃れる術はない。そしてこれは、「飛翔体」に比べればより現実的な脅威になり得るものでもある。

とはいえ、やはりその脅威が現実のものとなる可能性は低く、そのためそれを日常の痛みから気を反らすために利用することは出来ないわけではないが、この脅威に目を向けることは、日常に於ける逃れ得ない場所での継続的な人間関係を彷彿とさせ、逆にストレスが溜まりかねない可能性がある。おまけにクライマックスも無く、イベント(娯楽)性は薄い。だからこそ、このニュースには余り注目が集まらず、「飛翔体」ばかりが持てはやされたのではないかと。

今回の騒動では、そんな風な感想を持った。



※1 怪談なんかもこういったものの一種だと思う。つまり、より現実的な日常の恐怖から目を反らすため、虚構の恐怖へと意識を向けるという。

現実に於ける「選択」なんてこんなもの

「やると言ったらやる」 知事当選の森田氏が一夜明け会見(産経新聞) 

 29日の千葉県知事選で100万を超える得票で圧勝した俳優の森田健作氏(59)が一夜明けた30日朝、千葉市中央区の事務所で記者会見し、「千葉にはポテンシャル(潜在能力)があり、日本一(の県)になれる」と選挙戦中からの持論を改めて訴えた。

 マニフェスト(政権公約)に挙げた東京湾アクアラインの通行料引き下げ、成田-羽田間を結ぶリニアモーターカー建設などの実現性を問われると、「恋愛してるときにふられることを考える人はいないでしょう。おれはやると言ったらやるんだ」と、さっそく“モリタ節”で意気込んでみせた。

う~ん、また凄い人が知事に選ばれましたねえ。この人、リニアモーターカー建設を夢(そして公約)の一つとして語っていたみたいだけど、そんな25年くらい前に既に消費期限が切れてしまったような腐りかけた夢を今更持ち出されても…と自分が千葉県民だったら思うけどなあ。どこかズレているとしか思えない。しかもバリバリの精神論者ときた。そういった古き夢の数々が行き詰まり、その後始末をさせられているのが今現在の社会だと思うのだが、それでも尚この手の復古主義の権化みたいな人が再びリーダー役を任せられることになってしまう、と。他の候補も似たり寄ったりの人ばかりだったらしいし、これがリアル『オトナ帝国の逆襲』という奴か。
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しかし、それでも千葉県民はこの結果を「選択」したことになり、そしてそれによって起こって来る結果の責任もまた否が応でも背負わせられることになるわけで。まあ、「選択」が備え持つ可能性の力が如何に頼りないものであるかを示す良い例ということでしょう。「麻生と小沢、貴方はどちらを選びますか?」とかも。そんな「選択」しか出来ない時点でもう駄目だろ、という…。だが、そういった其々に与えられた「制限された選択」の数々によって人々の人生は決まっていく。

取り合えず、「選択の自由とその責任」とか言うのなら、自分がどのような資質と環境を持って生まれてくるのかという情報開示を徹底した上で、まず「生まれるか生まれないか」から「選択」させてくれ。

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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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