ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「使えねーカード」としての自分を肯定できるか?

麻生首相「対北、安保理決議が必要」=敵基地攻撃は自衛の範囲-参院予算委(時事ドットコム)

 麻生太郎首相は28日午前の参院予算委員会で、北朝鮮の核実験への対応について「国連安全保障理事会における決議として極めてきついものが迅速に出されることが一番大きな圧力になり得る」と述べ、追加制裁を含む新たな決議の採択が必要との考えを強調した。民主党の犬塚直史氏への答弁。
 首相はまた、敵基地攻撃能力の保有に関し「他に手段がないと認められるとき、敵の誘導弾の基地をたたくのは法理的には自衛の範囲に含まれ可能だ」との見解を重ねて示し、「武力攻撃に着手していない時点での先制攻撃とは違う」と述べた。


日本全土が報復圏内と北朝鮮警告 敵基地攻撃能力論に反発(47news)

 【北京29日共同】北朝鮮の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は29日、自民党内で敵基地攻撃能力保有論が取り上げられ、麻生太郎首相が法的な可能性に言及していることなどを「再侵略の野心の表れ」と非難、「日本が再侵略戦争を起こすなら、全土が報復打撃の圏内となる」と警告する論評を掲載した。朝鮮中央通信が伝えた。

 論評はまた、「日本の主要都市である東京、大阪、横浜、名古屋と京都には、日本の人口の3分の1以上が住み、工業の基幹部分が集中している」とした上で、「強力な反撃が行われれば、日本は修羅場になるだろう」と強調した。


日本の国民も北朝鮮の国民も、他国との戦争によって人生をぶち壊されるよりも、同国人に社会的に圧殺される可能性の方が圧倒的に高いことだけは確かなんだけど、それは置いておくとして…。

<主張1>他に手段がない※1と認められるとき→敵の誘導弾の基地をたたく
<主張2>侵略戦争を起こすなら→敵国の全土を報復打撃の対象とする

これはどちらがよりマトモな主張なのか、どちらもマトモなものなのか。それとも、どちらも駄目なものなのか。

この二つの主張の応酬をそれ単独で見せられたら、多くの者は「どちらも大して変わらんな」と思うのだろうが、ここに“日本(自国)”とか“北朝鮮(敵国)”がくっつくとそれを評価する目もまた変容することになる。つまり、同じ様な主張でもそれを誰が言ったか、そしてそれを何者として受け取るのか、ということで全くその主張に対する評価や印象が異なってくるという。いや実際、北朝鮮の核武装を非難した同じ口で日本も北朝鮮を真似て核武装すべきだと主張する頓珍漢な人達が結構いるように、多くの場合、内容よりもむしろそちらの方が重視されているんじゃないか。
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例えば、物理的暴力によって人々を教育、矯正し、それによってより良い社会を作っていこう、ということを保守派が言えばそれは「体罰」になるし、革新派が言えばそれは「暴力革命・暴力による社会批判(テロ)」になる。勿論、其々が理想とする社会は違うだろうが、この場合体罰を良しとする保守派と暴力による社会批判を良しとする革新派は、目的を達成するための方法論に於いてその意見が一致している。ところが、体罰を良しとする保守派は、暴力革命的な方法論自体を「けしからん」と言って批判する。一方、暴力を手段として用いた社会批判を行った者が過去に体罰を受けていた時、その者はそれに対してどのような意見を持つだろうか。「体罰という方法自体は正しかったが、それが目指す方向性が間違っていた」とは恐らく言わないように思う。

つまりこれは、――実際には全く暴力的でない社会なんてものは存在しない、ということはあるにしても、そのベクトルとして――その方法論が何とくっつくかによって、その方法論自体の評価までもが180度変わってしまう可能性があることを意味する。そしてこういった、理念や主張の一貫性・整合性を疎外した物事の捉え方が一般化しているのが現代社会なんじゃないか。

いつだったか『学校へ行こう』という番組で、駄目な女子高生を更正させるという様な企画があった。そこでその駄目な女子高生達が勉強を教えてもらうという場面があったのだが、その時、出題された問題に対して「聖徳太子(だったかどうかはよく覚えていないが、確か歴史上の有名な人物の名)」と答えた女子高生が、それが間違いだったことに対し、「聖徳太子、使えねー」というリアクションを取ったのが非常に印象に残っている。それを見た時は、「何てナンセンスなコメントをするんだ」と思ったが、今考えてみるとあのリアクションというのは、現代人が持つ根源的な感覚を実に的確に表していたように思う。

つまり、あらゆる事物をその時自分がそれを手段として、有効なカードとして「使えるか使えないか(利用できるかできないか)――実際には“という感覚”――」によってその評価を下すという、超短期的実利主義というか、全てが「使えるか使えないか」で判断される社会というか…。結局、物事の内容や存在の必然性なんて案外どうでもいいんじゃないかと。よく「柔軟性が必要」などと言われるが、そこで言われる柔軟性というのは、実は理念や主張の一貫性、整合性にこだわらない、という内実を持っているのではないか。実際、それらにこだわり過ぎることは社会的に大きな足かせになる。

ただし、一方でそのような考え方(感じ方)を持つということは、一端実利面で失敗してしまうともはやその者には何の拠り所も無くなり、完全な根無し草になってしまうという危険性を抱えていかなければならないことも意味する。つまり、自分で自分をただの「使えねーカード」として評価せざるを得なくなる可能性が出てくる。その時、自分が散々その価値を否定してきた「使えねーカード」としての自分を肯定出来るかと言えば…それは極めて難しいように思う。



※1 恐らく、敵国が自国にミサイルを撃ち込むことを目的として動き出し、武力以外でそれを止めることが出来なくなった場合ということだろう。
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マスクへの過大な期待がもたらす功罪

※タイトルを改題しました。さらに再追記(5/25)あり

「マスク」 新型インフルエンザで需要急増 予防効果なし!?「過剰防衛」(産経ニュース)

マスク着用によるインフルエンザの予防効果には科学的根拠が無いマスクを着用することがインフルエンザの予防にとってどれ程の効果があるのかは明らかではない、ということは昨日の記事でも少し触れた。よって欧米では基本的に、マスクというのは感染者やその疑いがある人が、周りにウイルスを拡散させないために付けるものなのだと認識されている。しかしながら、マスクに(ある程度の)予防効果があるという迷信認識が日本に浸透しているということは、必ずしも悪いことばかりではないような気もしてきた。
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というのも、どうも欧米ではマスクを付けていると奇異の目で見られ、中々それを着用するのに抵抗があるらしいのだ。しかしそれは、「感染しているかどうかは分からないがその疑いがある」という人までも中々それを着用しづらい状況が成立しているということだろう。

つまり、マスク着用にインフルエンザ感染への(充分期待できるほどの)予防効果があるという迷信認識が浸透している日本のこの状況は、「実際のところは分からないが感染している可能性がある人」がマスクを付け易い状況もまた成立しているということであり、そういう意味では決して悪いことばかりとは言えないのかもしれない、と。症状が出ていなくても既にそれに感染しているという場合もあるだろうし。

しかしながら、この迷信の普及マスクに対する過剰にも思える期待にはやはり「罪」の部分もあると思う。

結局、本当に予防効果がある明らかに確認されているのは手洗いと人ごみに身を投じないことくらいしかないわけで、そういうことからすれば、本気で感染拡大を防ごうと思うなら、先ず密室空間に大勢の人間が集まらざるを得ない様な状況を何とか改善しなければならないという意志が働くはずだろう。ところがこういったことに関しては、大阪の一時的な一律休校や、後はせいぜいイベントを中止するくらいで、“普段から恒常化している”それを何とかしようとする動きは殆ど見られない。例えば伝染病の拡大防止という視点から見れば、満員電車なんてのは狂気の沙汰にしか思えない。今からこういった状況を改善する為の手立てを考えておかなければ、もし強毒性のインフルエンザが流行し始めた時、適切な対処を取るのは極めて困難なのではないか。しかし、マスクをして根拠の無い安心を獲得しているが故に、そういった状態に対する問題意識が薄らいでしまう。

つまり、マスクというお手軽な安心獲得装置の装着に注意が向き過ぎているせいで、その分、本当に注意を向けるべき事柄への関心が疎かになってしまう、ということもあるのではないかと。

(一般論として)誤った知識が広まっていることを結果オーライで看過してしまうことには、やはりそれ相応の危険性が付きまとう。とはいえ、その一方で人々が正しい(とされる)情報を知ってしまったが故に獲得してしまう負の効果や悲劇が存在しないと言い切ることも出来ない。

果たしてこの迷信マスクへの過剰とも思える期待が持つ功と罪はどちらの方が大きいのか。
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*追記*

「屋外でのマスク着用は不要」=他人への感染防止が目的-厚労省(時事ドットコム)

 新型インフルエンザの感染拡大で品切れ状態になっているマスクについて、厚生労働省新型インフルエンザ対策推進室の難波吉雄室長が21日、記者会見し、本来の使用目的は予防ではなく、他人にうつさないことだとした上で、「人込みの少ない屋外などで着用する必要はない」と述べた。
 難波室長は「マスクは感染者のウイルス飛散を防ぐためのもの。せきが出るようだったら使用してほしい」と強調。予防目的の購入に注意を促した。

内閣府提供の広報ビデオでは「患者の周囲の健常者がマスクをした場合の感染予防効果は“明らかではありません”が、一定の効果は期待してよいでしょう」と言っていましたが、その後、厚労省が会見でこのような認識を示したそうです。

マスクが買えない 薬局空っぽ、ネットでは高値取引(朝日新聞)

仕事熱心な転売屋は今回も大活躍。

*再追記*

マスク不要論のみが突っ走るご時世:CDCや政府・関係学会提言に反して・・・(内科開業医のお勉強日記)

CDCでは、むしろ、新型インフルエンザが一般に浸透しているコミュニティーで、感染者と緊密な距離が避けられない場合”マスク使用を推奨している”と書かれている。

なんだそうです。まあこれも実際に原文にあたったわけじゃないけど、とりあえず今回の件では、改めて色々と自分の至らなさを思い知らされる結果となりました。

官は民の期待に応えただけなんじゃないかな

朝起きてテレビを付けると、読売テレビのニュース解説員である辛坊治郎氏が厚生労働省に対して怒りをぶちまけていた。

今回流行している新型インフルエンザは弱毒性であり、尚且つ(新型インフルに関する情報の源になっているであろう)アメリカのCDCも一律休校は推奨していないのに、大阪で誰も感染した者が報告されていない地区までを一斉に休校にしたかと思えば、道路を一つ隔てた京都側ではそういうことを一切していないという厚労省のあやふやな対応。そして、WHOがマスク着用による予防効果には科学的根拠がないとしているにもかかわらず※1、予防を目的としてマスクを着用するといったような迷信が未だに広く国民に信じられ続けているなど、日本に新型インフルエンザに対する正しい知識が全く行き渡っていないことを挙げ、今回の事態に対する厚労省の対応は余りに酷すぎると激しく批判していた※2
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しかし、彼のあの役所に対する一方的な批判の仕方にはどうも釈然と行かないものを感じた。確かに、厚労省の対応がお粗末なものであることはその通りだろうし、それは批判されてしかるべきものでもあるだろう。とはいえ、日本人のこの迷信深さに関しては決して厚労省のせいというわけでもないはずだ。それに一律休校に関しても、近頃メディアが推している地方自治という観点からすれば、中央官庁が駄目ならそれに抗ってでも、地方や末端からその在り方を変えていこう主張が出てきてもよいはずじゃないか。いやむしろ、普段からあれだけ官僚悪玉説を唱え続け、とにかく官僚は信用出来ないということを喧伝し続けてきたのだから、その方が自然だろう。にもかかわらず、何故「先ずお上ありき」で物事を考えてしまうのだろう。「社会に文句を言う前に先ず自分が変われ」という立派な社会人魂は一体どこへ消えてしまったのか。何ゆえこういった時だけ、民を変える為には先ず官が変わらなければならないかのような物言いをするのだろう。

彼は厚労省の対応の仕方に対し、「単にいちおう、怒られると困るから現場のお役人が、じゃマニュアル通りの対応しましょうというのに過ぎない」と言って批判するが、それはお役人にとっての「お上」がマニュアルだからだろう。それ故、そのマニュアルが変わらない限り役人は中々違った対応を取ることが出来ない。しかしそれは、先ずお上が変わらないと民が変われないというのと全く同じ考え方に基づいている。

豚インフルエンザ「空港での検疫、効果なし」、WHOが指摘(AFPBB News)

豚インフルエンザ感染の拡大に伴い、各国が空港での検疫を強化する中、世界保健機関(World Health Organisation、WHO)は28日、感染した搭乗客を洗い出そうとしても、空港での検疫に効果はないと指摘した。

 WHOのグレゴリー・ハートル(Gregory Hartl)広報担当は「もしも感染していたり、感染源に接触したとしても、空港にいる時点で症状は現れていないだろう。空港での検査、検疫は役に立たない。搭乗客の体温監視も、潜伏期の患者を見つけ出すことはできない」と、報道陣を前に述べた。

そもそも、官の在り方は別に官の内部だけで決定されているわけではない。少なくともシステム的には民の代表が官を動かす構造になっているはずだし、検察が堀江貴文氏や小沢一郎氏の秘書を逮捕した時のように、官はそのことによって民がどのような反応をするかをちゃんと鑑みた上でその対応を決めているはずだ。つまり、官の対応は官だけで決定されているのではなく、それは民との関わり合いの中で決定されていくものであるということ。

この「空港での検疫」もそれが非常に分り易い形であらわれた例の一つだろう。「空港での検査、検疫は役に立たない」ということを分かっていて尚、厚労省はそれを執り行った。では、こういった対応を取ることを決めた舛添大臣は馬鹿だったのか?いや違う。むしろ賢かったのだ。あそこでもし、「空港での検疫は効果が無いから行わない」と言ってそれをしなかったら、それこそ国民から凄まじい非難を浴びせられ、そこで彼の大臣としての人生は終わっていたことだろう。彼はそういった民の意思を読み取り、それに従う形でああいった決定を下した。つまり、民の意思が反映された結果として、官による「空港での検疫」は行われた。そしてこれは一律休校に関しても言えることなんじゃないか。

【新型インフル】「帰ってくるな」「謝れ」…大阪・寝屋川市や学校に中傷殺到 (産経新聞)

「なぜマスクをしなかったのか」「早く帰国させるべきだった」といった留学中の行動にも批判が寄せられた。「謝れ」「賠償しろ」「バカヤロー」といった罵声(ばせい)を一方的に浴びせたり、生徒や教員を個人的に中傷したりする内容の電話もかかっているという。

この高校生は、カナダでは誰もマスクをしていなかったから、そんな中で自分だけマスクをすれば変に思われると思いマスクをしなかったのだそうだ。そりゃしていないだろう、そんな迷信を信じているのは日本だけなのだから。しかし、彼らはその迷信に従わなかったが故に罵声を浴びせられた。危機感が無かったからこんなことになったのだと。

日本ではこういった、「強い危機感さえ持っていれば何とかなるが、それが無ければこの世で地獄に落ちる」という危機感神話が広く信じられている。そしてその神話を信じている者達は、他者の不幸や失敗を危機感が無かったせいとして切断処理し、それによって危機感がある自分は大丈夫だという安心感を抱くとともに、危機感が無い他者が引き起こした災厄を自分が連帯的に背負わせられるのではないか、という恐れを常に抱いている。だから、他者の危機感が感じられない行為や選択を激しく非難する。そしてそういった非難を浴びせられることを恐れた人達は、その神話を信じていなくても適応行為として危機感があるように感じられる行為や選択をするようになる。例えば検疫に対する舛添大臣の決定のように。

こういった風土が根付いている以上、官の側が、一端一律休校というそれらしい対応を取った後それが無意味であったことが分かった時に浴びせられる批判の方が、それをせずに当然起こるであろう感染拡大が起こった時に浴びせられる批判よりもまだましだというリスク判断を働かせるのは決しておかしなことではないだろう。一律休校は、そういった民の在り方を鑑みた上で決定されたということもあるんじゃないか。

 ***

今回厚労省が取ったあやふやな対応を全て官のせいだとしてしまえば民の耳には優しいだろう。だがそれは官が変わらなければ民も変われないと言っているのと同義であり、民の力を見くびり、官と民を完全な主従関係で見てしまうことでもある。いや、勿論官と民の関係をそういう風に見ている人もいるだろうし、国によってはそれを否定出来ない様な一方的な関係性が形づくられている場合もあるだろう。だが日本に於いてはそこまで官と民の間に一方的な関係性が成立しているとは思えないし、少なくともこの国で普段から「社会に文句を言う前に先ず自分が変われ」というようなことを言っている者がその同じ口で言うべきような内容ではないだろう。

まあ、クールビズなんかにしてもそうだけど、役所が旗振り役を務めないと服装の一律化程度のことからすら抜け出すことも出来ない凝り固まった文化を持つ民を目の前にすれば、どうせ民が変わるはずがないからそれなら官に期待しよう、と思いたくなる気持は分からないでもないが。

しかし、こういった「先ずお上ありき」を前提とした官僚批判や政治家批判ほど人々(民)の支持を得易く、それによって人気を獲得した者達が、その人気を利用してやがては自身がお上へと転身して行ったりするという昨今の流れは、民にとって不幸なことであるようにしか思えないんだけどなあ。民が中々変われないのも、民の内部でまた「お上と下々」という固定化した役割分担がなされ、それを前提とした上でしか物事を考えられなくなってしまうからだろうし。そしてその中で其々が自分自身と他者に「分相応」という既定を設け、それでお互いがお互いを縛り付けてしまう。例えば、不細工のクセに、無職のクセに、低学歴のクセに、低収入のクセに、根暗のクセに、オタクのクセに…などなど。

まあ自分もその病を抱えている者の一人なんだけど。



※1 私たちにもできる新型インフルエンザの身近な予防策(youtube)

厚労省もまた、広報ビデオで「患者の周囲の健常者がマスクをした場合の感染予防効果は“明らかではありません”が、一定の効果は期待してよいでしょう」といってその根拠が無いことを認めている(勿論、感染している疑いがある人はマスクをすべきですよ、一応念のため)。しかし、根拠は無いのに効果を期待するというのは正に呪術的行為そのものではないか。今朝、自分が母にマスクを着用することによるインフルエンザの予防効果に科学的な根拠は無いということを言ったら、それでもつけていないと心配だと言っていた。日本人にとってマスクは、お守りとして機能しているという面もあるのかもしれない。厚労省はその幻想を守るために「期待してよいでしょう」というような表現を用いたのではないか(或いはそれは、その幻想を信じている自身に言い聞かせるためのものかもしれないが)。その幻想がぶち壊されれば、人々が不安に駆られ余計に騒ぎが大きくなりそうだし。

何にせよ、他国で起こっている同じ様な現象、例えば、アメリカの学校で進化論を教えることが難しいという様な状況を日本人が嗤うことは出来ないということです。というか、そもそも進化論を正しく理解出来ている日本人なんて圧倒的に少数派だと思うが。勿論、自分もちゃんと理解出来ていません。

※2 ニュース解説は5時台と7時台の2回あり、マスクに関しては5時台の解説でのみ触れていた。

幻想時代への回帰

防犯ボランティア急増中 80万人、住民パトカーも(47news)

 地域の安全のため住民がパトロールなどを行う「防犯ボランティア団体」が6月末時点で全国で約1万4000団体に上り、昨年末の約8000団体の1・7倍に急増していることが10日、警察庁のまとめで分かった。  参加市民も1・5倍の約80万人に増加。青色回転灯を自家用車に装着した“住民パトカー”も規制緩和で解禁され、10倍以上の約1500台に増えている。  警察庁は「地域住民の防犯意識の高まり、治安回復への自主的取り組みが全国的に広がっている」としている。

「住民パトカー」※1ですって。近所でこんなことされたら益々家から出られなくなるなあ、というのが不審者であります私めがこのニュースを目にして抱いた最初の感想です。
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しかし、生活の為の犯罪はパトロールなんかでは防ぐことは出来ないだろう。何しろそれを行っている側からすれば、それは自身の命の安全を守る為の行為に他ならないのだから。だからこいうったパトロールは、せいぜい犯罪を他の場所へと追いやるといった程度の効果しか生み出さないのではないか。そして其々の地域住民同士でその被害の押し付け合いになると。もしくは、こういった動きが日本全土へと広がれば、これまで行われてきた犯罪を“パトロールが行われていることを前提としたもの”へとその質を変化させることになるかもしれない。何しろこの社会では、基本的に組織暴力を上手く利用せずには生きていけないわけで、それを上手く利用することが出来ない人間がそれでもなお生き延びようとすれば、後はゲリラ化する以外に方法はない。我々が住んでいるのは、捨ててあるゴミを持ち去っただけでも窃盗犯として逮捕されるような社会。この監視はそのゲリラ化を益々先鋭化させるだけなのではないかと。

とはいえ、今のところは道徳的抑圧を利用した日本特有のアポトーシス型自殺システムが上手く機能し、それによって毎年3万人以上もの口減らしが順調に行われているので、それほど大した心配は無用かもしれない。この監視もまた、そのシステムを補助するものとしての役割を果たしていることだろう。だが、今の社会の在り方を保ったままもしこのシステムが上手く機能しなくなれば、もし自殺者数だけが激減したとすれば、日本の治安は急激に悪化してもおかしくはないだろう。

――誰だったか忘れたが、ふとブラジルの有名人(多分ミュージシャンかなにか)が自殺という行為を蔑んでいたのを思い出した。実際ブラジルの自殺率は国際的に見てもかなり低い。そういう文化なのだろう。全ての人間が生き残る環境が用意されていないのに、全ての人間がそのことを第一義的に考えれば、自ずと治安は悪化する。

そもそも「治安回復」と言うが、「(実際には必ずしも適切な表現だとは思わないが)100年に一度の危機」と言われる程の劣悪な経済状況にある最中、治安が今以上に良い状態なんて存在し得るのか。「経済協力開発機構(OECD)の調査によると、日本の相対的貧困率(全国民の中央値にいる個人の生活水準の50%未満の人の割合)は先進7カ国では米国に次いで2位(フジサンケイ ビジネスアイ)」なわけで、それにもかかわらずこれだけ治安が良いということの方がむしろ異常事態。2007年には殺人の認知件数が戦後最低を記録したが、「回復」というのは別に2年前の状態のことを指しているわけでもないだろうし、だとすれば、経済・雇用環境が劣悪でありながら治安が今よりもずっと良かった時代とは、一体何時の時代のことなのだろう。そんなものは其々が頭に思い描くありもしない幻想としてしか存在しないのではないのか。

何にせよ、根本的な問題を解決せず監視の強化だけで犯罪を減らそうとすることは、そのありもしない幻想時代へと回帰しようとする行為以外の何物でもないだろう。そしてそれは同時に、ディストピアへの扉をノックする行為でもあるように思う。ディストピアは上からの押さえ付けだけで出来上がるものではない。下からの要求に上が応えるという形でこそ、それは完成するのだ。



※1 そもそも、それだけ他人を信用出来ない人々が何故そのパトロールをする側の人間を信用出来るのかという疑問がある。

巡査長を女子トイレ侵入容疑で逮捕 携帯電話で盗撮も(MSN産経ニュース)
警官ひき逃げ容疑で巡査長逮捕 埼玉、速度違反し逃げる(47NEWS)
警視庁巡査長が痴漢容疑で逮捕 「申し訳ない」 (47NEWS)
伊丹の同僚女性宅侵入:起訴の巡査を懲戒免--県警 /兵庫 (毎日新聞)
留置人の現金盗んだ容疑、茨城県警の元巡査長を再逮捕 (読売新聞)
警視庁巡査長、電車内痴漢で逮捕(サンケイスポーツ)
佐賀県警 盗撮の巡査長に停職1カ月(スポーツニッポン)
痴漢と盗撮で2警官を懲戒 県警(MSN産経ニュース)

「巡査 逮捕」というでキーワードでgoogleのニュース検索をし、2ページ目まで見てみただけでも警官が起こした不祥事がこれだけ出てきた。つまり、パトロールする側が犯罪を犯さないなんて確証は全くないわけだ。「まさかあの人が!」といった様に、「普通の人」が犯罪を犯すというのが現代的犯罪の一つの特徴なわけで。

「ギャンブル買い」は正にギャンブル

「ギャンブル買い」に失敗すると、その失敗を取り戻すために「良い買い物」をしたくなる。ところが、そうやって「良い買い物」をしようとした結果、それが失敗してさらにまたそれ以上の「良い買い物」をしなければならなくなるという蟻地獄。
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「ギャンブル買い」の“ギャンブル”はあくまで比喩なわけだが、これが中々どうして単なる比喩とは言い切れない性質を持っているように思う。いや、そもそもその性質は賭け事に於けるそれと同質のものなんじゃないか。つまり、賭け事で「失敗を取り戻したい」と言うと、どうしてもそれは「金銭を取り戻したい」ということだと解釈してしまい勝ちだが、実際のところは必ずしもそうではない。むしろ取り戻したいのは、自身の存在意義であり、自己肯定感なんじゃないかと。

自分の場合、たった100円の買い物に失敗しても、その失敗による自責の念から激しい不快感を抱いてしまうようなことがあった。そしてこういった不快感は、お金が絡まないちょっとした失敗からも抱くことがあった。つまり、その本質は決して金銭では無かったということ。自身が何か行動を起こした時、或いは何らかの状況に対処した時、それが上手く行くか否かで自身の存在価値までを計算してしまう。そしてそれをプラスにしようとして、蟻地獄に嵌り込む。

結局その根底にあるのは、物事の存在価値まで経済的な観点から判断してしまう資本主義的病であったり、無条件には自己の存在意義を見出すことが出来ない人間のサガだったりするのだろう。

何もしない事ほど疲れるものはない

休息のように、何かの為、後々の為に「何もしない」というのは、
既に「何かをする」行為の一部としてのもの。

そうではない、ただただ「何もしない」ことは本当に疲れる。
ああ、命が削られて行ってるなあという感じ。
逆に言えば、ただそれだけが「行われている」。

「日本人」という「部外者」~「生きさせろ」の滑稽さについて

「母親のおかげで、ヤクザから恩恵を受けてきた」 - Freezing Point

「なんらかの形で組織暴力を味方につけなければ、この日本社会では生き延びられないのではないか」と疑い始めている。


これは別に日本に限ったことではないだろう。

ただここでも書いたように、西洋的文化ではまず共通の社会理念を設定し、その理念によって個人の権利が保証され、それを参照することで社会の形が決定されていくのに対し、日本的文化ではまず個々人の感覚があって、その感覚の趨勢によって(理念の合意という段階を踏まず)その都度その社会がどうあるべきかが決定/更新されていく。つまり、西洋的文化では集団主義から個人主義が生じているのに対し、日本では(感覚的)個人主義から副次的に集団主義が生じている。

そしてこの両者でどのような違いが出てくるかと言えば、個人が自身の生活環境を整えようとする時、前者の文化では其々は“社会という組織の一員”であることを前提とし、その中でいかに上手く組織暴力を利用するかという能力が必要となるのに対し、後者の文化では先ず何らかの既存の組織や集団に取り入ったり、或いは新たなそれを結成したりするというところから始めなければならない。そしてそうやって自身を「(日本的な意味で)社会化」するという一つ目の課題をクリアすることによって、ようやく「次の段階」――(一般的意味での)働く/働かないはこの段階に於ける問題――へと辿りつくことが出来る。逆に言えば、その一つ目の課題をクリアすることが出来ない人間はどうやっても次の段階には辿り着けないようになっている。

つまり、日本に於ける個人とは基本的に「社会の部外者」という位置づけなのだ。だから(本当は「社会の部外者」なんてものは存在しないのに)「社会人」などという奇妙な肩書き/ステータス性が生まれてくることにもなる。そして「部外者」同士の集まりの中で自身の生活環境を整えようとすれば、結果として「組織暴力を味方につけなければ、この日本社会では生き延びられない」ということになる。例えば行政に何かを訴えるにしても、個人でそれを行えば(それが例えシステム的に正当な主張であっても)門前払いされてしまうことも少なくない。よってその為にはまず何らかの組織を形成して行政の末端部分に組織的な圧力を掛けるか、もしくは「世論」という集団の援護を受ける必要が出てくる。「組織には組織を」というわけだ。

  ***

しかし、一度「社会化」という課題をクリアしたからといって安心は出来ない。幾ら「社会人」という肩書きを手に入れることが出来ても、其々は本来的にはやはり「社会の部外者」なので、「非社会人」へと逆戻りする可能性は常につきまとう。その上、一度「非社会化」すると再び「社会化」するのはより一層困難になるようなシステムや文化が根付いている。日本に於いて、何らかの集団の一員であることや、或いはその集団と結んでいる関係性に大きな問題があることを認識していながら、頑なにそれを維持し続けようとする人が多いのにはこういった事情があるからだ。特に一つ目の課題をクリアする(つまり、自身を他者に売り込むなどして集団に取り入る)のが苦手な者は、最後の最後まで追い詰められでもしないと中々一度獲得した社会的関係性を手放すことは出来ないだろう。何故なら、一度そこから抜け出せばもう二度と「(日本的意味での)社会」へと戻ってこれない可能性があるからだ(自分が学校にしがみ続けたのもこれが理由)。そして結局そこから離れられず、取り返しのつかないような状況を招いてしまう者もいる。

困窮者が憲法という理念を持ち出してきて「生きさせろ」と訴えることがどこか虚しく、場合によってはそれが滑稽にすら見えてしまうのもまたこういったことが関係している。というのも、日本に於ける憲法はまだ実際には共通の理念としての合意にすら至っていないものだからだ。それどころか、そもそもその共通の理念を設置するための集団すら生まれていない。日本の文化では、同じ国籍を持っているとか同じ国に住んでいるというだけでは同胞としての条件は満たされない。これは「同じ社会人同士」にも当て嵌まる。其々は何らかの組織/集団とある一定の関係を結ぶことによってようやく「社会の部外者」というレッテルを取り払うことができ、それによって“副次的に”「社会人」という同胞もどきの肩書きを手にしているに過ぎない。

重要なのは、それが“副次的”なものであるというところだ。「社会人」というの肩書きは、あくまで一時的に「部外者」同士が寄り合いを作ったり、或いはそれらと(少なくとも表面上は)良好な関係性を築いているということを表しているだけであって、その者が他者と「同じ社会の一員」であるということを保証しているわけではない。

例えば、「~は社会に揉まれていないから」などと言う決まり文句がある。面白いことに、こういった言葉は所謂「社会人」に対しても向けられる。「社会人」でありながら、「社会」の中に身を置きながら(そもそも、社会ではない場所なんて無い筈なのだが、それはともかく…)「社会に揉まれていない」状態が存在するのだと。下手をすれば、同じ会社で働く同僚に対してさえ、こういった台詞が投げつけられることもあるだろう。

では何故この様なことが起きるのかと言えば、其々は同じ「社会人」でありながら、或いは同じ場所に身を置きながらも、他者とは別の「社会」に身を置いているという認識があるからだろう。日本人が一般的に用いる「社会」という言葉は、実際に存在する具体的な環境や秩序というよりは、むしろ宗教的概念に近い。そしてそれはあくまで個人のものなのだ。よって同じ「社会人」であっても、其々は個々人が感覚的に思い描く「別の社会」に身を置いているに過ぎず、当然それだけでは同胞という条件は満たされない。「日本人」などという同胞はもとより存在しないのだ。日本社会がいつも行き当たりばったりで大局観が全く無く、先を見据えた長期に渡った計画を立てることが出来ないのは、所詮「部外者」同士の集まりでしかないからだろう。日本に於いてよく見られる、何の意味や理屈があるのかもよく分からない全体主義的儀式や風潮も、元々「部外者」同士の集まりであるからこそ抱く空中分解の不安を払拭し、誤魔化そうとするためのものなのではないか。

だから「同じ社会の一員」ですらないその「部外者」達が、自身が合意したつもりもない理念を掲げて「生きさせろ」と言ったところで、周りの者は「はぁ?何言ってるの?」としかならない。この集合体は、所詮組織暴力を上手く味方につけなければ生きていくことが出来ないただの「部外者」同士の集まりでしかないわけだから、むしろそういう者達は、周りから見れば自身とトレードオフ関係にある敵対者であると認識してしまう可能性の方が高いことだろう。同胞であるならば危機に瀕しているその者達を見捨てるのは非道ということになるが、元々「部外者」、いやむしろ敵かもしれないという者であれば、見捨てても当然ということになる。もしくは敵とまでは認識せずとも、困窮者を「あの人達は努力や工夫、危機感が足りなかったからああなったんだ」と徹底的に他者化した方が希望が持てる。というのも、困窮者を同胞化するということは、個人が力を出し尽くしてもどうにもならない状況があるという現実を自身のものとして取り入れ、それと対峙することでもあるからだ。勿論、他者のそういった状況を自身の主義主張に取り入れ、それによって変化の希望を抱くという関わり方もあるが、多くの者にとってにはその取り入れ/対峙は、恐怖と絶望しかもたらさないことだろう。

要するに「生きさせろ」の滑稽さは、その敵、或いは徹底した断絶関係にある他者が、まるでお互いがさも同胞でもあるかの様に振舞うことから生まれる滑稽さなのだ。そして、「どのような事情や理屈があろうとも、この国で組織暴力を味方につけることが出来なくなったらそれで終わりだよね」という個人が本来的に備え持っている「社会の部外者」としての認識が、その訴えに何とも言えない虚しさを運んでくるのである。

 ***

で、こういった日本特有の個人主義は、そのまま日本人の宗教的特色にも当て嵌まるものである、という所まで書きたかったのだが、気力が尽きたのでやめ。でも少しだけ書いておくと、例えばキリスト教やイスラム教では解釈は異なっても一応聖書やコーランのような共通の参照物(システム的に言えばこれが理念に当たる)があるが、日本ではそれが一人一人の感覚の中にあるので、「何々教」といった形で宗教が顕在化し難く、そしてその感覚の趨勢が「社会」「普通」「世間」「常識」などという原典の存在しない曖昧な参照物を形成し、それによって人々がまとまりを得たり反発したり、或いは布教活動をしたりしているという…。

いやほんと、これほど強い宗教性が根付いていながら全くその自覚がないという文化は、世界中探しても中々無いんじゃないだろうか。それで、自身のそれに全く自覚が無いものだから、「宗教はこれまで数え切れないほど多くの犠牲者を生んできたのだから、そんなものはこの世から消し去るべきだ」とまで言ってしまう人が出てきたりして…。いや、それこそが他者の信仰の自由を認めない最も危険な排他的宗教態度に他ならないのだが…。

スパム業者はホストを変える

「oska/osaka」の文字列を含むホストを禁止するだけでスパムの9割は防げる!みたいなブログ記事を見かけた。いや、そりゃ大阪はろくでもないところかもしれないが、これはどう考えても濡れ衣でしょう。自分は他人のブログにコメントすることなんてまず無いので別に実害はないが、大阪在住の者としてこういったものを見かけるとやはり余りいい気はしないものだ。

しかし、そこには画像認証は評判が悪いのでこの方法を採用します!といった支持コメントが…。いや、画像認証は完璧とは言えないまでも、今のところかなり有効な手段であることには違いないので使いましょうよ(あと、更新時のトップページへの通知も止めた方がスパムが来る確率が減るような…)。というか、ドメインレベルでの禁止は無実の人間をスパムの弊害にどんどん巻き込んでいくだけにしか思えないのだが。どうも根本的な勘違いをしているようにしか思えない。というのも、スパム業者は毎回ホストを変えてくるものなのだから。

このブログでは画像認証機能が付いてからは殆どスパムは来なくなったが、それでも度々認証をすり抜けてくる業者がいる。その都度そのホストを禁止していたのだが、全然効果無し。認証をすり抜けてくるスパムのメアドは全て同じものだったので、同じ業者であることは間違いないのだが、毎回全く違うホストで投稿してくるのだ。だからそのメアドを禁止ワードに設定したら、その業者からのスパムは来なくなった。

…と思ったら今度はメアドを変えて同じ業者が再登場。何故同じ業者だと分かったかと言うと、名前の横に出るトリップが全て同じものだったからだ。だから今度はそのトリップを禁止ワード設定にしたら、その業者が顔を出すことは無くなった。いや、実際禁止ワードがトリップにも有効なのかはどうかはよく分からないので、もしかしたら単なる偶然なのかもしれないが、今のところはそれでその業者からのスパムは来なくなった。まあ仮にこの方法が有効だったとしても、いずれはトリップも変更した新種のスパムがやって来るのは時間の問題なんだろうけど。

というわけで、ホストの禁止だけでスパムを防ぐという方法はもう既に有効ではなくなっているという話でした。

 ***

因みに、ここは元々過疎ブログだからスパムも余り来ないのだが、それでもこの2年くらいで40件程のスパムが来た。そのうち「oska/osaka」の文字列を含むものは7件。これじゃあとても9割の防御率には届きませんよ。

ピンポンダッシュしていく子供らがいるのだが…

こういう時、リッパナ・シャカイジンだったらその子供らを捕まえて親のところに連れていって誤らせるくらいのことはするのかもしれないが、立場上自分がそんなことしたらこっちが犯罪者扱いされるし、そもそも家から出て行って注意することもままならないから我慢するしかないよ。

まあ人間であれ動物であれ、子供というのは元々悪戯するものなんだろうけど、同じ子供でも動物の子供だったらその悪戯も「かわいい~」ってことになったりもするんだろうけど、人間のそれには怒りしかわいてこないな。複数犯だから「社会性」を感じさせ、余計に腹が立つというのもあるけど。

この手のものは、大抵グループの中心人物がそれを企画立案し、周りの者を共犯者として巻き込む形でそれが実行される。こういう関係性は、大人の社会にもそのまま当て嵌まる。自分が幼かった頃のことをよく思い出してみれば分かるが、幼稚園にもなる頃にはもう既に明らかなロビー活動を行う者が出てくる。その時点でもう既に、個々の人間の政治力の有る無しにはっきりとした差がつき始めている。そしてその能力差の積み重ねは、当然大人の社会にも持ち越されていくことだろう。勿論、後にそれを獲得する晩成型の人間もいるだろうが、こういった子供の悪戯の中心にいた人物が、社会に出てもやはりそこで中心的役割を果たしているように自分には思える。だから腹が立つ※1、複数犯によるそれは。何故ならそれは、「子供の問題」であると同時に、「大人の問題」でもあるのだから。

 ***

そういえば、同じ子供の悪戯でも、自分が高校生くらいの時にこんなことがあった。

自動販売機でジュースを買おうとしてお金を入れ、どれを買おうか迷っていると、何処からともなく補助輪つきの自転車に乗った、4、5歳くらいとおぼしき子供が颯爽とやって来て、その一連の流れの中で何の躊躇もなく下の方にある人気の無いお汁粉系の商品のボタンを押そうとしたから、自分は慌てて適当なボタンを押して最悪の事態を回避した。そして一体何事だ?とその子供の方を見ると、その子は何の屈託も感じられない満面の笑みを浮かべたかと思うと、また颯爽と去っていた。この時ばかりは怒りがわくというよりも、「何だったんだ今のは…」と、ただただ呆気に取られるばかりだった。今のは本当にあった出来事なのか?と。ああいうのを「狐につままれたような」と表現するんだろうな。



※1 本当は自分に余裕や自信が無いのが苛立ちの一番の理由なんだろうけど。

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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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