ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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中央集権化する地方

反復学習やらせない市町村長、落選させて…橋下知事(読売新聞)

 大阪府の橋下徹知事は23日、府の教育改革の一環として府内の公立小中学校に実施を働きかけている漢字の読み書きや計算などの反復学習を巡り、「きちんとやっている学校が少ない。(反復学習を)やった市町村とやらないところをオープンにする。やらないところの市町村長は次の選挙で落としてほしい。これが政治、地方分権だ」などと記者団に述べた。

これが噂の地方分権?そんな馬鹿な。其々の市町村や学校、個人に決定権を移譲し、それによって現場の自主性・独自性を高めようとすることこそが、地方分権の根本にある理念に合致する手法のはずだ。都道府県の首長に絶対的な権限を与え、その意向に異を唱える者達を要職から排除していくというのは完全にその理念に逆行するものであり、それこそ中央集権型の恐怖政治と言えるだろう。
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ここでは「地方分権」という単語が地方内部の中央集権化を推し進めるための大儀として用いられるという、何とも奇妙な逆転現象が生じている。そしてまるで魂(理念)を失ったゾンビの如く、裏返った「地方分権」が日本中を徘徊し、着々と地方の中央集権化を実現させるための仲間を増やし続けているのが現在の状況。この逆転現象(ゾンビ化)に歯止めをかけるための目立った動きや指摘はいまだ見られない。

とはいえ少し視点を広げてみれば、この現象は必ずしも「奇妙なこと」であるとも言い切れない要素を持っているようにも思う。

例えば「ヤバい」というのは良い意味だろうか、悪い意味だろうか?答えはそれが使われる状況による。「格好良い」という表現もまた、場合によっては本来の意味に反し、相手の容姿や振る舞いをからかうためのものとして用いられることがある。こきおろしの王様である「馬鹿」という単語でさえ、一種の褒め言葉として用いられることも珍しくない。かつて良いイメージで用いられていた「ゆとり」という単語は、今や完全に誹謗語だ。そして六本木は「ギロッポン」に、ジャズは「ズージャ」になる。いや、これは違うか。まあそれはともかく、このように言葉の意味はどんどん表と裏が入れ替わっていくものなのだ。同じ様に、昨今は「中央集権」の意味で「地方分権」という単語を用いるのがトレンディというわけだ。全く、言葉(大儀)の持つ意味(理念)はかくも簡単に変容してしまうものなのだな、と再確認した次第。
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「SONAR Home Studio 7」の日本語版が漸く発売に

アメリカではもう随分と前に発売されていた「SONAR Home Studio 7」の日本語版が漸く発売されることになったようだ。ROLANDのホームページによると、発売日は7月中旬とのこと。肝心な価格は今のところはまだ分からない。
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SONAR HOME STUDIO 6、SONAR 8 STUDIOとの機能比較表

比較表を見ると、SHS6との主な変更点は以下の通り。

×無くなったもの

・64ビット版OS対応アプリケーション

○追加されたもの

<ソフトウェア・シンセサイザー>
・Cakewalk Studio Instruments
Drum, Bass Guitar,Electric Piano, StringSection
(Drum以外はXLのみ)

<MIDI編集>
・ステップ・シーケンサー(XLのみ)

<付属プラグイン・エフェクト>
・Studio Devil VGA+ Guitar Amp Simulator (XLのみ)
・Sonitus:fx SuiteのEQ

――この他にも幾つかの細かいプラス・マイナスがある。

SHS6にドラムもステップ・シーケンサもアンプ・シミュもついて、取り合えず最低限必要な道具はこれを買うだけでもう殆ど全て揃ってしまうんじゃないだろうか。エフェクトは非常に貧弱だが、それらはフリーのものでも充分まかなえそうな気もするし。給付金はまだ使ってないから、それに上積みして買ってみようか。しかし問題は曲を作るような気力がもう全くないこと。あとパソコンのスペックもショボい。だから買っても腐らせてしまうだけのような気がする。しかもHDがもうパンパンで整理も上手く出来ていないので、インストールの為の整理を考えただけでも気が滅入るし、何より今までならこの手のものに感じていたはずのわくわく感が余り湧いてこなかったり…。どうも本格的に干からびてきたようだ。

 ***

そういえば、REAPERも何時の間にか3.04にまでヴァージョンアップしている。それに伴ってか、ライセンスの条件も微妙に変化したようだ。

$225: full commercial license.
$60: discounted license.

これ確か、以前は商用($200)と非商用($50)という区分けじゃなかっただろうか?

You may use the discounted license if any of the following is true:

* You are an individual, using REAPER only for personal use.
* You are an individual or business, using REAPER for commercial use, and the yearly gross revenue does not exceed USD $20,000.
* You are an educational or non-profit organization.

上記の様に、改定後、安い方のライセンスは$10高くなった代わりに、商用利用していても年間総収益が$20,000未満なら条件を満たす設定となったようだ。まあREAPER使って$20,000以上も収益を上げていたら、そこから設備投資として$225くらい出すのはわけないわな…と思ったけど、総収益ということはREAPERを使わないで稼いだ分も含めてということか?つまり、貧乏商売をしている人にはお安く提供しますよ、と。どちらにせよ、こういう考え方は日本には中々無いものだわ。

因みに、今現在(3.04)のライセンス購入には、REAPER4.99までのアップグレード権が含まれているとのこと。

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昨今のメジャーなDAWは、どちらかと言えば本体よりも付属のプラグインの方がメイン(ウリ)になってしまっていて、そのおかげで肝心な本体の性能の向上やバグ取りが疎かになってしまっているようなところもあるんじゃないだろうか(ネット上ではメジャーなDAW本体に対する不満をよく目にすることがある)。そういう意味では、こういった独立型DAWがどんどん力をつけて出てくるのはとても良いことだと思う――とはいえ、常に新たな話題を提供して走り続けようとすれば、結局それらにも抱き合わせ的な手法に頼らざるを得なくなってくるような局面が待ち受けているのかもしれないが。

後は、MIDI編集に於いてMUSEの譜面モニタみたいな表示様式を採用するものが出てくればいいのにとも思う。

←MUSEの譜面モニタ

このアイデアは本当に画期的(こういうアイデアに対する取り扱いはどうなっているのだろう?)。一端これに慣れると、ピアノロール形式の表示が見辛くて仕方がない。アレはやたらと上下に幅を取るし。

それ即ち布教活動

誰かにとってかけがえのないものは、常に別の誰かにとっては下らないものであったり邪魔なものであったりする。そしてまた、人々の目的が一つに統一されることは決してない。人間が何か別の存在にでもならない限り。

よって何かを主張する時や何かについて議論する時は、先ずこの原則を念頭に於いた上でそれらを為すべきだろう。何故なら、誰もが常に最上位に置くべき共通の目的や、どのような存在/感覚を生き残らせ、どのようなそれを消滅させるのが正しいのか、という「設定」を設けようとした時、それは完全に宗教上の話になってしまっているからだ。物事の存在自体に対し、何が必要で何が必要ないかを判断する。何が生き残るべきで何が滅ぶべきかを判断し、その流れを作り出す(若しくは加速させる)べく働きかける。誰もが何よりも優先すべき真に正しい目的を人々に指し示す。こういった行為は「神」(ないしはその代弁者)の振る舞い以外の何物でもない。
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何らかの強者/弱者設定※1を行った上で、進化論の都合の良い部分を抜き出して援用――弱者は元々淘汰される運命にあるのだから、それらが滅び行くのは仕方がないというあの論理――し、何が生き残るべきであり何が消滅すべきであるかを人々に説く。これは上記した振る舞いの中でも最も一般的なものだ。だがそれは、「自然」という「神」の(本来存在するはずもない)意思や目的を勝手に代弁する行為であり、つまるところ自らが生み出した宗教の布教活動に他ならない。

自身の願望や目的を一端自分以外の大いなる“何か”の意思や目的であるかのように置き換えてそれを主張する。こういった手法は、誰もが一度は用いたことがあるはずだ。そうでもしないと中々自分の意見は受け入れられないからだ。例えば、同じ意見でも社会の代弁者という体裁を整えた上でそれを主張するのと、独立した一個の個人としてそれを主張するのでは、その受け入れられ方に自ずと差が出てくる。

その結果として、主張の正しさを担保する為に生み出された「神々(自然/社会の意思や目的)」の代弁者達の主張がぶつかり合い、あちこちで自覚なき宗教論議を繰り広げられることになる。だが、そこで行われるのは「神々」の代理戦争としての議論。それは宗教的なものであるが故に、似たような宗教的感覚を持ち合わせている者同士でもなければ、徹頭徹尾話が噛み合うことはないだろう。しかも「設定」の創設に対する宗教性を指摘しても、殆どの人間が自身を無神論者だと信じ込んでいる――尚且つ多くの者が宗教に否定的なイメージを抱いている――日本に於いては、それはただのレッテル張りとして認識されてしまう。従って宗教論争であるという認識を欠いたまま行われるその議論は、結局ただ特定の教義に帰依するのかしないのかという争いにしかならない。これはつまり、信教の自由という原則が疎外されたまま、透明な宗教の布教活動や、それへの従事要求がなされていることを意味する。

諸外国に於いて、キリスト教やイスラム教などの宗教が社会に対する大きな影響力を持っていることは誰もが知るところだろう。多くの日本人はそれを奇異なものを見るような目で見ているのではないか。何故そこまで宗教に熱狂出来るのか、と。だが、実は日本人もまた同じように熱狂しているのである。名前の無い透明な宗教に。そしてその趨勢が日本の社会システムの在り様に大きな影響を及ぼしているのは間違いないだろう。



※1 そもそも、どのような要素が生き残るか――未来――は後になってからしか分からことも多いのだから、強いものが生き残るという考えを前提とするなら、その時点で何が強くて何が弱いのかということはまだ分からないはずだ。よってこの場合に於ける、本来知り得ないはずのものが予め知り得たものとして提示される形での強者/弱者定義は、予言やお告げに相当する性質を持っていることになる。

感情的であることを批判するということ

鳩山代表の自殺論議は「お涙ちょうだい」…官房長官が批判 (読売新聞)

 河村官房長官は17日の記者会見で、民主党の鳩山代表が党首討論で医療事故や若者の自殺問題などを取り上げたことについて、「お涙ちょうだいの議論をやるゆとりはないのではないか。財源の問題や外交・安全保障などテーマは多々ある」と述べた。

 長官は「人の命は重要なテーマだと考えているが、情緒的な話をしている段階ではない」とも語った。

何故「財源の問題や外交・安全保障」が情緒的な話でないと思うのだろう。多くの人々は自殺の問題を他人事としてしか見ていないだろうから、情緒的になるといってもたかが知れているはずだ(人によっては「生かさず殺さず」の手駒が減ってしまうとして本気で激怒する人もいるだろうが)。むしろ人々が本当に情緒をむき出しにするのは、より身近に感じられ、より利害の対立が分り易い構図として提示され易い財源の問題や安全保障※1の問題に於いてだろう。

そもそも、論理の裏には必ず感情/感覚が存在しているはずだ。理屈と感情が切り離せないものであるということは、人間活動を理解しようとする際に大前提として踏まえておかなければならないことだと思うのだが。

まあこの場合は、どうせ殆どの人々が他人事としてしか思っていないであろう問題を態々取り上げ、それで人気取りをするのはズルい、という河村氏の情緒がついつい口を突いて出てしまった結果としてのものなんだろうけど。
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それにしても、相手が感情的であるということを指摘し、それを暴くことが批判として妥当なものになり得ると認識されたり、実際にそれが批判として有効に機能してしまったりするのは、よく考えてみるとおかしな話だ。勿論、主張の際にやたらと怒鳴り散らす、怒りで我を忘れて暴力を振るう、誹謗中傷を行う、或いは余りにも極端な主張を行うなど、そういう状態にまで至った者がいれば、それに対して「感情的だ」と批判するのは分かる。だが、そうでもないのに取り分け相手が「感情的」であるということを指摘し、そのことで相手を批判しようとすることは、単なる自己言及に他ならない。何故なら、「感情的だ」という批判はあくまで印象批判――つまり感情的批判――でしかないのだから。よって、感情的な主張が駄目なものだとすれば、そのような批判はパラドックスを生み出し、批判として成立しない。さらにそれは、「私は感情的ではありませんよ――他者からそのように見られたい」という当人の情緒が表にさらけ出された瞬間でもあるわけで。

要は、感情的であること指摘することは、それ単独では批判として成立しないということ。もし誰かが感情に任せて行き過ぎた行為や論理を展開すれば、それに対する批判を行えばよいだけの話で。



※1 本当は自殺問題こそ最も重要な安全保証上の問題のはずなんだけど。少なくとも日本に於いては。というか、医療事故だって安全保障の問題じゃないか。これらが安全保障の問題でないとするならば、一体何の問題なのだろう。本当に「人の命は重要なテーマだと考えている」ならば、このような発言ないし認識が出てくるとは到底思えないのだが。もしかして、安全保障と言えば仮想敵国のことしか頭に浮かばないのだろうか。北朝鮮が何かする度に内閣支持率が上がる、という状態が長らく続いているが、いい加減そんなものに寄りかかろうとするのは止めた方がいい。人々の安全を脅かす本当の脅威は、むしろ国内にこそあるのだから…とは言ってみたものの、外部のそれに依存するのを止めれば、今度はその仮想敵国が内面化され、余計に酷いことになりそうな気もするな。特に自分みたいな人間は、真っ先に北朝鮮役を任せられそうだ。まあ、今でも充分それに近いものがあるが。

基本パラノイア

人間は基本的にパラノイア。
余程気をつけて自分自身を見張っていないと、
直ぐにそれが顔を出す。

しかし一方で、そのパラノイア性は常識の源泉となり、
人々を結びつける効果をもたらしていたりもする。

我々がロボット

日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか (光文社新書)日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか (光文社新書)
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こんなタイトルの本があるらしいです。

でまあ、別に尋ねられたわけでもないのですが、せっかくだからこのタイトルが持つ問いに対して私なりに勝手に答えさせてもらいますと――それは、多くの日本の子どもたちには、己の存在や自身からにじみ出る欲求よりも、道徳や他人の評価を上位に置くような感覚が植えつけられてしまっているからでしょう。そしてそういった道徳チップ的なものを埋め込まれ、もはや社会隷属用人型奴隷(候補)となったその存在が、個として高い自尊感情を持つことなど不可能、いや、というより、むしろ“それ”がそのような感情を持ち合わせてしまうようなことは決してあってはならないのです。

<J・Slave(日本式人型奴隷)規範学の三原則>※1

第一条 「J・Slave」は「立派な社会人」に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、「立派な社会人」に危害を及ぼしてはならない。

第二条 「J・Slave」は「立派な社会人」に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない。

第三条 「J・Slave」は、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない(生かさず殺さず)。


もし「J・Slave規範学の三原則」を逸脱するような人型奴隷が現れれば、“それ”を直ちに見つけ出し、直ぐにでも廃棄処分――人間でいうところの死刑――にしてしまわなければなりません。

われはロボット 〔決定版〕 アシモフのロボット傑作集 (ハヤカワ文庫 SF)われはロボット 〔決定版〕 アシモフのロボット傑作集 (ハヤカワ文庫 SF)
(2004/08/06)
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※1 『われはロボット』冒頭部分の「ロボット工学の三原則」より、“「」”部分を改変して掲載。原文には其々の“「」”に「ロボット」と「人間」が入る。

余り褒められたものではない褒め方

・何かを貶し、それと比較することよって別の何かの素晴らしさを強調する。
・何かを批判する為のダシとして利用する為に何かを褒める。
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とはいえ、こういった方法を用いれば何も考えずに簡単に何かを批判したりその素晴らしさを訴えたりすることが出来るので、ついついその方法に頼ってしまい勝ちだ。

日本には「甘え」や「逃げ」を悪いこととして批判する人達が多いが、そういう人達がそれらを批判する時もまた、大抵はこういった安易な方法に「甘え」たり「逃げ」たりしている。

「官」は既に「民」の意識で活動しているのでは?

足利事件:菅家さん17年半ぶり釈放 検察など厳しく批判 - 毎日jp

その者が真犯人であろうとなかろうと、とにかく誰かを捕まえて有罪判決を多く出せばそれだけ成果を挙げたことになる。こういった意識が捜査側にあったのではないかと疑いたくなるケースがよくあるわけだが、もし警察や検察がこのような考え方を持っていたとしたら、その考え方は完全に民のものと言えるだろう。公安が脅威を演出して自分達の仕事を確保しようとする。その必要性を訴えて多くの天下り先が創出される。役所が如何に上手く予算を消化して如何に多くの予算を取り付けるかということを最優先する。こういったものは、如何にしてより大きな収益を上げ如何にして己の組織を存続させるか、ということを目的として存在している民間企業の考え方そのものだ。
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「お役所らしい」という言葉がある。確かにその「らしさ」は存在する。

例えば誰かが病院に入院する時、法的には本来払う必要のない(治療上必要だったり、他に空いているベットが無かったりして望まずして特別室をあてがわれた場合の特別料金としての)差額ベット代を支払うことを病院側から要求されることがよくある。まあお金がある人はノブレス・オブリージュ的にそれを支払えばいいと思う(病院側の経営も苦しかったりするので)が、この差額ベット代は一日一日加算されていくので、貧乏人にはとてもじゃないが支払うことが出来ない値段になることも多い。となればここは行政の出番だ、ということで行政に相談してみても、向こう側から必要な情報(法的にはそれを支払う必要が無いということ)が出てくるとは限らない(むしろ出したがらない)。だから逆にこちら側からその情報を提示しなければならない。それによって漸く話が動き出し、何度か担当が替わって本当の担当者にまで辿りついた後、その者と懇談を済まし、それでやっとこさ病院側への指導が行われ、法的に正常な状態が作り出される。

この場合、病院側と行政側の間に何か外からは窺い知れないような懇ろな関係が成立しているからなのか、単に面倒を避けたいだけなのか、それとも企業が法を逸脱して利益を得ることが常識となってしまっている日本文化に馴染みすぎているせいなのか、その理由はよく分からないが、とにかく行政は中々己に課せられた本来の機能を果たそうとはしない。或いはこういった例の他にも、マニュアル通りにしか対応しないために現実に即した対応が取れないとか、内容をおざなりにして取り合えず処理だけ済ましたように見せかけるとか、特定の企業と癒着して公平性を保とうとしないとか、事業の必要性を調査するのに始めからその必要性が認められるような数字をはじき出し、そこから逆算して資料を作成するなど、とにかく行政が本来の機能を果たそうとせず、的を射ないまだるっこしい対応をぐだぐだと取り続ける続けることを「お役所らしい」という。

しかし、役所としての本来の機能を果たそうとしないことを「お役所らしい」というのも妙な話だろう。そしてこういった役所の「らしい」行いによる弊害が発覚した時、「民間(企業)ならこんなことは考えられない」という声が沸きあがり、官に民の意識を植えつけることや成果主義を導入することを求めたりするのが世間の一般的な反応だ。

だがちょっと待って欲しい。もし官が民の意識で以って活動し始めたとしたら、其々の役所は己の組織の繁栄こそを第一に考えるようになってしまうはずだ。何故なら、それこそが民間企業の存在目的なのだから。そして其々の公的組織は何よりも先ず己の利益を最優先させるようになり、その構成員はその組織の在り方に順応し、「らしさ」を獲得していく。尚且つ金銭的余裕がある限り機能的に必要の無い組織もまた温存されるようになり、より多くの仕事を取り付けることによって天下り先は拡充されていく。寡占を排除した競争原理によって、縦割り行政は益々進むことになるだろう。いや、というより、もう既に官がこういった民の意識で以って其々の組織を運営していることこそが、今現在官が抱えている問題の多くを生み出した根本原因となっているのではないか。ましてや、日本の文化に於いては企業に社会貢献の義務や法的遵守が求められることもない余りないわけで、その様な土壌で形成された民間意識を官の側が持ってしまえば大変なことになる。

つまり、官を批判する時は「役所は己の本分を忘れずにちゃんとその本来の機能を果たせ」と訴え続けるべきであって、決して官に民の意識や成果主義を求めるべきではないということ。官が民の意識を持てば自分達にとって利益にならないことをしなくなるのは当然のこと。そして成果を出せと迫られれば、とにかく何でもいいから成果を上げているかの様な体裁を作り出すことに必死になるだけだ。そしてその体裁作りが悲劇を生み出す。冒頭の冤罪問題にしてみても、行政や司法が本来の機能を果たさず、体裁作りと自分達の利益にはならない「無駄な行為」を省き、効率化しようとしたことこそがその大きな原因となっていることだろうし※1

 ***

いずれにせよ、民間企業や一般大衆が清廉潔白ではないように、役所や役人もまた清廉潔白ではない。そして其々のコミュニティ(社会)に根付いている既存の文化的情緒やシステムへの順応が何よりも重んじられる日本に於いて、民の人間も官の人間も其々が所属する集団の在り方に順応することで「らしさ」を獲得していく。それが獲得出来ない人間や人間性は排除されていく。故に問題の根っこの部分は常に聖域として温存され、そこにまで問題意識が向けられることは滅多にない。順応主義と変革は相反するもの。順応主義が賛美され続ける以上、本当の意味での変化が生じることはないだろう。よって、変化のためには先ずそれを見直すことから始めなければならない。順応主義の上で唱えられる改革は欺瞞以外の何物でもない。ところが、順応主義を賛美する常識的な人ほど、情緒的常識に乗っかった形(「官に民の意識を」)での改革ブームにもまた熱を上げることになるという。まあ人間は三度の飯より欺瞞が大好き、ということもあるが、三度の飯を食うためには先ず欺瞞とまぐわらなければならない、というのが現代社会なので、それはある種当然のことなのかもしれないが。

取り合えず、「民間なら…」の批判が間違いであることを明らかにするために、「官の犯罪、官の不正」の対義語として「民の犯罪、民の不正」という言葉を作ってみてはどうかと思う。そしてこういう使い方をする――また民による不正が発覚しました。腐敗しているのは官だけではないということを自覚すれば、きっと「官に民の意識を」などという的外れな批判は無くなるだろうから。



※1 ただこの問題に関しては、警察・検察・裁判官は他の公務員と違って、幾ら大きな失態(例えば不正捜査や役割を放棄した怠慢)を犯しても個人に対する責任追及が殆どといっていいほど行われないという問題もあるみたいだけど。

「常識」の差:専門家の責任をめぐる組織と個人の関係について(MediaSabor)

ついに活動期に入った

自分じゃなくて、ゴキブリが。

またつまらぬものを書いてしまった

と記事を投稿する度に思うのだが、
幾つもの記事に手をつけていながら、
結局最後まで書き上げることが出来るのは
何故か何時もそういものばかりなんだよ。
多分、つまらないと思っていると
気負わずに書けるからなんだろうけど。

まあ他の人から見ればどれも似たようなものだろうし、
単にその時自分が書きたいと思っていることほど
書くのが難しいというだけのことなのだが。

中の人は普通の市民

なぜ右翼には低学歴と低所得が多いのか[改題:プロレタリア型右翼]

いい加減こういう「B層」的な安易な分類やレッテル張りは止めた方がいいと思うんだけど。

以下はリンクした記事への直接的な批判ではないが、この手の分類化でそもそも疑問に思うのは、日本で人気がある政治家や芸能人の殆どは右翼的な思想の持ち主である(つまり特殊ではない)ことは明白なのに、何故右翼的な思想を持つことを取り分け特殊なものとして分類しようとするのかということ。いや実際、正直何を以って右翼というのか自分にはいまいちよく分からなかったりするが、右か左かと言えばそこで中心となっているのは間違いなく右側の人達だろう。それ以前に、日本の常識自体が既に右翼的じゃないか。本格的な左派政権が誕生したことなんて一度もないし。つまりそれが常識である以上、その思想傾向が一部の特殊な人達の力だけで形成され、維持されているとは到底考えられない。
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最も一般的なメディアであるテレビで近年多くの時間を割いて放映されている、情報バラエティーと言われるタイプの番組がある。主に昼から夕方にかけて放送されている民放のこういった時事ネタ雑談系番組のラインナップ(ここでは関西地方のもの)もまたご多分に漏れず右翼的だ。4月の番組改編で終了したテレビ朝日の『ムーブ!』なんかは2chまとめブログとやってることは殆ど変わらなかったし、今現在放映中の関西テレビの『アンカー』や読売テレビの『あさパラ』なんかもそれに近い。たかじんのアレは言うに及ばず。唯一毎日放送の『ちちんぷいぷい』が左派的な面を持ってはいるが、其々の話題に於いて最終的には「素朴な(保守的)感覚」で締めくくられることが多いように思う。『ミヤネ屋』や『ムーブ!』の後釜の番組は余り見たことがないのでよく分からないが、多分似たようなものだろう。では何故そういった番組作りが為されるのかと言えば、別にイデオロギー的なものを重んじた結果ではなく、そういった内容がより多くの人々にウケると作り手側が見ているからだろう。勿論、それは一部の特殊な人向けに作られているのではない。極一般的な、普通の人々がそれを見ることを想定して作られている。

言うまでも無く、別にマスコミに就職した高学歴・高収入の人達が普通の人々に右翼的な思想を植え付けようとしているわけではない。マスコミの仕事で最も重要なのは大衆やスポンサーへのご機嫌伺い(或いは、営業を続けるのに必要となる情報入手先やノウハウの確保と維持)。それが上手く行かなくなれば、廃業するしかなくなるわけだから。ましてや、スポンサー収入が激減しているテレビ業界がイデオロギーの植え付けなんかやっている余裕はない(勿論、元々特定のイデオロギーを持っている者達に向けて情報を発しているニッチなメディアも存在するだろうが)。そもそも、マスコミは大衆に影響を与えることは出来るが、その動きを意のままにコントロールすることまでは出来ない。主導権、最終決定権はあくまで普通の市民という群集の側にある。

――所謂ネットウヨク的な活動を積極的に行っている人達はともかく――ネット上で右翼的な主張をしている人達の多くもまた、普通の人々だろう。一部の特殊な人達がそれをしていると思いたい気持は分かるが、残念ながら、ネットで巻き起こる右翼的主張は特殊なものでも何でもなく、それは極めて一般的で素朴な感覚から導き出された「普通のもの」であり、尚且つその主張を行っている者達は、普段ネットの外では極一般的な「普通の市民」として暮らしていることだろう。

重要なのは、そこで生み出される主張が幾ら右翼的な装いをしていたとしても、それが極一般的な「素朴な感覚」から導き出されたものである以上、右翼/左翼といった括りでそれを捉えることは出来ないということ。何故なら、そこには始めからそれらが本来兼ね備えているはずの確固たる理念なんて存在しないのだから。そしてそうやって生み出される主張は、それが「普通」であり「素朴」であるが故に大きな力を持つ。民主主義から「最低ラインを死守する」という根幹部分(理念)を取り払った純粋な多数決を絶対視するような価値観が強く根付いているような社会では特に。

つまり、現在の日本社会を特徴づけるのは右傾化でも特殊な人間の出現でもなく、それは理念の不在であり、今まで余り表には顔を出さなかった普通の人々が持つ「素朴な感覚」の噴出であり、そしてその感覚が導き出す主張が「普通」を後ろ盾として何時の間にか正当化されてしまうという、そういう状況だろう。注目すべきは「特殊」ではなく「普通」の方なのだ。例えば「アカデミズムという知的権威」にしても、大衆からそっぽ向かれてしまえばそんなものは権威でもなんでもなくなる。そもそも、現代社会に於いて何が権威としての力を持つかということを決定するのは普通の人々の普通の感覚なのだから。

 ***

そしてそういった(普通の人々から支持を得られるような特殊な技能・才能でも持っていない限り)普通でなければ生きていくのが難しいような環境が作り出されているが故の独特の息苦しさを持つのが昨今の日本社会。人々は皆、群集の中で皆と同じ様に「普通の市民」というプレデター・スーツを着用し、其々が其々を普通という規格からはみ出ていないかどうかを監視し合う。そこでもし剥き出しの個人としての姿を晒そうものなら、周りから一斉に蔑まされたり糾弾されたりする。その中で上手くやっていくため、其々はそのスーツから逸脱しないように自分自身の感覚を監視し続け、それを普通に適合するように絶えず矯正し、最新の普通の感覚をそこに植えつけて行かなければならない。そしてその理性のコントロール下で、ちょっとだけそこから逸脱してみせたりすることで個性を演出したりする。

だが完全にそこから逸脱したり、そのスーツを失ってしまったらそこでその者の普通の市民としての人生はジ・エンドだ。一度そうなった者がもう一度それを獲得し、着用するのは極めて難しい(稀にそこから復帰する者もいるが、それはあくまでレアケースであり、それがレアであるが故にその物語性は魅力を湛え、そしてその魅力は精神論的プロパガンダに利用される)。だからその者はそれ以後、システム的・文化的疎外と普通の市民という群集が放つ眼差しの暴力に耐え続けなければならない。問題なのは、普通の市民からの脱落者は、他人(外部)からだけでなく、今現在の自分の土台となっている過去の自分や、普通であらなければならないように矯正し続けてきた己の感覚からも蔑まれ、内部からも蝕まれてしまうということだ。だから日本ではやたらと自殺が多くなる。

一方、普通を維持し続けることが出来ている人達はその脱落者を蔑み、嘲笑いながら、自分がそうならないように気を引き締める。自分もまたああなるのではないか、という恐怖感を抱くと同時に、最大限の努力と危機感を堅持している自分はああなるはずはない、という精神論で精神的安定を保つ。そして「普通の市民であり続けているという事実」で以って己の精神的強靭さや正しさを確認し、それによって自分を愛しむ。これが普通の市民の普通の生き方。右翼的な装いをした主張もまた、こういった構造から生み出されているものの一つなのだから、特殊な何かを観察することでその原因を探ろうとしたところで、それは的外れなものにしかならないだろう。

というか、あらゆる問題に於ける一方の当事者でありコインの片面であるところの普通の市民の普通の営みの在り方に全く疑問を呈することなく、問題の責任だけでなくその原因や解決までもを「一部の特殊な人間の精神性」に求めようとするのは左翼も右翼も同じなわけで、そうである以上、自分からすれば左翼とか右翼とかという分類自体もまた本当にどうでもいいようなものにしか思えないのだが。

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この話題で思い出したのは、4、5年前に見かけた幾つかの2ch批判サイトだ。それらのサイトによると、なんでも2chのあの猥雑さは、2chを盛り上げる為の一部の工作員とニート・ひきこもりや、精神疾患を持った者達によって支えられているのだそうな。だからそいつらを一掃すれば日本はまた以前の美しい状態を取り戻せる、と。今もまだこういった主張を信じ続けている人はいるのだろうか。もしいたとしたら、それは相当勘の鈍い人だろう。だが、多くの者がそういった主張が事実とは異なることを内心で知っていながら、敢えてそれを常識として受け入れている。

勿論、有り余る時間とエネルギーを存分に費やして2chで暴れ回っている頑張り屋さんの無職や精神疾患持ちもいるだろう。だがそれだけじゃ今の猥雑さを維持するのに物理的に到底間に合わないのは明白であり、つまるところ、2chで見られるえげつない書き込みの多くは、普通の学生や普通のサラリーマン、そして普通の主婦達の手によって為されている。というか、ネットの外、例えば学校なんかでは「キモい」とか「死ね」とか「殺す」とか言う言葉が普通に飛び交っているし、職場でも酷い罵倒を投げつけたり投げつけられたりすることは別に珍しいことではないはずだ。勿論、誹謗中傷で盛り上がったり、誰かの人格批判をしたりすることも。床屋では当たり前のように差別的発言が行き交い、井戸端会議では陰謀論が熱を増す。面接では「君、A型でしょう」などという血液型性格分類が持ち出され、そしてブック・オフに行くと、店員(どの店も基本ずっと私語をしている)や客が平気でビッチだのなんだの言っている。或いは、酒の席で語られる猥談や武勇伝をそのままmixiなんかで書こうものなら、停学や停職の一つや二つは覚悟しなければならないだろう。つまり、我々は普段何気なしにそれだけのことを言っているということだ。そしてこれこそが日本に於ける普通の日常であり、それが文字として書き付けられ、誰もが目にすることが出来るようになると2chのアレになる。要するに、日本人は清く正しく美しいという認識自体が誤りだったのだ。そしてその幻想がネットの登場によって崩壊すると、「(幻想であるところの)日本の伝統的美意識を破壊する犯人はだれだ!」という「魔女狩り」が行われるようになる。

しかし、残念ながら一部の特殊な人間だけでその猥雑さが作り出されているわけではない。多くの人々は既にそれを知っているだろう。だが、それでも尚「魔女」の存在は実しやかに囁かれ続け、普通の人々は敢えてその伝説を常識として受け入れる。何故そういうことになるのか。それは、それが常識とされている限り、普通の人々が2chで幾らえげつない書き込みを行っても、その責任は全て「普通でない属性を持った人達」が背負ってくれることになるからだ。それによって普通の人々は心置きなく2chで書き散らすことが出来る。ネットの外で課せられる、普通であらねばならぬことの息苦しさから思う存分逸脱出来る。そしてネットの外ではこう言うのだ。「いやあ酷いですね、2chの書き込みは。え、私?私がそんな酷い書き込みをするはずがないじゃないですか。だってほら、こうやって普通に働いていますから。普通に働いている人間がそんなことするわけがないでしょう」と。こういった機能を持つが故に、2chは重宝される――勿論、重宝される理由はそれだけではないだろうが。

一方で、本気で幻想にしがみ続ける人達もいる。「一部の特殊な人間を矯正・排除すれば多くの問題は解決するはずだ…」そういう幻想を信じることで、この硬直化した息苦しい社会の中で、変革の希望を抱く。偏見は希望、というやつだ。この両者が其々の思惑抱えたまま水面化で手を結ぶことで、「魔女」の噂はいつまでも木霊し続けることになる。そしてニート・ひきこもりだけでこの社会の動きを作っているとする説に無理があるとなってくれば、今度は、例えば低学歴・低所得という新しい「魔女」伝説が作り出されたりすると…。まあ今回のアレは不発に終わるとは思うが。

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後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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