ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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区別がつかない

大島ラーメンは外国人労働者の悔し涙の味がする(APFS労働組合)

ところが、本2009年5月末に出社したところ「店に置いていたつり銭の15万円がない。お前のせいではないか」などと中村長一店長に濡れ衣を着せられ、 6月20日付で解雇されてしまいました。同じように「つり銭泥棒」を疑われたベトナム人労働者も同様に解雇されたといいます。とんでもない不当解雇です。また、給料明細などから時間外割増、深夜割増の賃金が未払いであること、強制加入である社会保険にも未加入であったことなどが発覚しました。相談を受けた APFS労組では、7月15日に代表取締役の大島啓二社長と団体交渉を持ちましたが、その席で大島社長は信じられないような暴言を吐き散らしました。  「泥棒かもしれないから解雇した。一ヶ月前に解雇予告したから問題ない」 「残業代や深夜割増賃金は労働基準監督署から指導されたら払う」 「外国人だから保険には入れないのがうちの決まり」 「金を払えというのか。警察にとどけるぞ」  信じられない法令違反、外国人差別、開き直りです。

順法精神が薄い日本の企業の中でもとりわけ外食産業はブラックがデフォルトなので、これが差別によるものなのか、それともどこにでもあるブラック企業一般の問題なのかの区別がつかない。


参考:すき家ゼンショー、告発した店員を告訴「飯5杯盗んだ」(asahi.com)

 店のご飯を無断で食べたなどとして、牛丼チェーン「すき家」を展開するゼンショー(本社・東京都港区)が、残業代不払いで同社を刑事告訴した仙台市の女性店員(41)を、窃盗などの疑いで仙台地検に刑事告訴していたことが分かった。地検はすでに店員を不起訴としており、店員側は「こんな手段で威嚇、報復するのは許されない」と反発している。

国の衰退の原因として「官の腐敗」という要因が取りざたされることは多い。しかし民の側もまたこんなものである以上、「官僚支配」とやらを脱却したところで、それで様々な問題が一気に解消されるなんてことは先ずありえない。むしろ問題とされるべきは「民と官の違い」などではなく、文化や風土(常識)の在り方の方なんじゃないのか。いや、もはや「問題とされるべきだった」と言った方がしっくりくるような気もするが…。
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「成熟」に見る階級区分内在思想

ある規格を設け、その規格との関係性を調べることで対象となるものの規格上の成熟度を測定することは出来る。しかし、そういった人工的規格の範囲を超えたより広範的な観点から見て、その対象が本質的にどの程度成熟しているのかということを測定することは出来ない。何故なら、それを測定するには成熟/未成熟(優劣)の度合いを測定する為の(人工的な規格を超えた)真理としての物差し※1が必要になるからだ。だがそんなものは存在しないだろう。
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よって、もし広範的観点からも成熟/未成熟の度合いを測定することが可能であるかのように言うならば、或いは広範的観点の文脈上でそれの存在を前提として物事を語るとするならば、その者は必然的にその真理としての物差しの存在を信じていることになる。つまりそれは、成熟/未成熟という線引きを人工的なものではなく、自然に根ざした(優劣の区別がある)一種の階級区分として捉えているということでもある。そしてその語り口が人々に受け入れられることによって、本来人工的であるはずの区分は「自然(神)の成せる業」に置き換えられ、権威化される。

こういった成り行きはまさに宗教に於ける布教と帰依そのものだ。しかし、それが宗教的なものであるということに無自覚なまま物事が語られたり(布教)、それを受け入れて思想や思考の拠り所や足場としたりすること(帰依)は案外多いように思う。

要するに何が言いたいかと言うと、宗教というのは決して一部の特殊な人間達だけのものではないということ。またそれは何か特別なハードルを乗り越えた向こう側の世界にだけ存在するものでもない。それはごくありふれた日常生活の一部として誰の周りにもちゃんと存在していて、多くの者は普段特別意識することもなく、「無神論者(無宗教)」としてそれを信仰したり布教したり、或いは改宗したりしている。

「無神論者」というのはあくまで形式上の話。「無神論者」だからといってその者が「神(真理)」を信じていないということにはならないし、宗教性を持っていないということにもならない。例えば日本では、「社会・世間・みんな・普通・常識」といった概念が「神」としての役割を果たしているように。そしてそこから(例えば「成熟/未成熟」、「甘えている/甘えていない」といったような)様々な宗教的階級が生み出され、それを我々は特に違和感を感じることもなく受け入れている。

日本における階級区分(あるいは人種区分)の成り立ちというのは、システムというよりも、どちらかと言えばこういった宗教方面から来ているものが多いのではないか。

【対馬が危ない!】日本に帰化韓国人男性 海自施設で不可解行動 (産経新聞)

そう考えれば、「帰化韓国人」みたいなシステム的には全く意味不明な言葉が生まれて来たりするのも決しておかしなことではない。そして勿論、こういった宗教的区分は何も帰化した者達にだけ当て嵌められるわけではない。日本生まれの日本育ちであってもそういった区分からは逃れられない※2。例えば、オタク、イケメン、不細工、根暗、社会人、ニート、ひきこもり、公務員、高学歴、低学歴、、ウヨク、サヨク、アスペルガー、ゆとり、メンヘル、金持ち、貧乏人、などなど、日本の文化では属性をそのまま(内在的な)階級・人種区分として認識しているようなところがある。そしてそういった区分は日々新しく生み出され、それがこともなげに人々に受け入れられていく。あたかもそれが「自然」に根ざした区分でもあるかのように。真理としての規格が存在するかのように。つまりそれは、日本の文化もまたそれだけ強い宗教性を持っているということだろう。

「宗教」という形式からは逃れることが出来る。しかし、宗教そのものからは何人たりとも逃れることは出来ない。少なくともその者が人間であり続ける限りは。



※1 そもそも、仮に真なる成熟の形が存在するとしても、その成熟は未成熟と共にしか存在し得ないだろう。であるならば、その真なる成熟は未成熟な対象に依存した形でしか成熟を保てない未熟な存在とも言える。

※2 逆に言えば、こういった区分に当て嵌められるのが嫌だからこそ、多くの者が「普通」や「中立(無垢)」を自称したりするのだろう。

VSTプラグインを整理し直した

リカバリ前にはフォルダがCドライブとDドライブに分かれていたりして完全にカオス化していたVSTプラグインの整理が漸く終わった。

どのように整理すべきかは色々迷ったが、結局、

・各種エフェクト
・生楽器系
・シンセ系
・アンプシミュ/ディストーション/ノイズゲートなどギターに縁のあるエフェクト
・リズム系
・midi系
・その他、変わり物系

の七つの系統に分け、そして其々のフォルダ内に開発ベンダーごとにフォルダを作ってそこに個々のプラグインを保存するという形を採用した。さらに同じ要領でもう一つ(DAWに読み込ませない)二軍フォルダを作り、必要によって入れ替えを行う。インストールものはレジストリを弄るものもあるので、無理をせずCドライブにフォルダを作ってそこにまとめて保存(勿論、問題無さそうなものは後からDドライブに置き換えてもいいけど。少なくとも、次のリカバリの時のためにもCドライブのプラグインフォルダも一応保存しておいた方がいい。そのままで普通に使えるものもあるので)。

こうすると案の定、各種エフェクトとシンセ系のフォルダにプラグインが集中することになり、ついついそれらもまた種類別に分けたくなる誘惑にも駆られるが、全てをジャンル別に分けていくという方法は以前に一度挫折しているので、それは止めた。同一ベンダーのシリーズ物をいちいちジャンルごとに分けたりすると返ってややこしくなるし(かといって例外を設けるとそれはそれでまた収まりが悪くなる)、それにジャンル分けが微妙なものもあり、後々面倒なことになりそうなので。その点、少なくと上記のような分け方だと先ず分類するのに迷うことはない。後は機械的に整理していけばよいだけだ。細かいジャンル分けに関してはDAW側で管理すればそれでいいことだし。

これで再びREAPERを使用することが出来る環境が整った。ただ一つ注意しておかなければならないのは、「loopdrive3」や「SuperDrumFX-Dry」、「energyXT」など、初回立ち上げ時に設定が必要なものは予め一度VSTHostで立ち上げて設定を済ませておいた方が良いということ。いきなり読込先フォルダを指定して一挙に読み込もうとしたら、loopdriveで固まった。

あと「SuperDrumFX-Dry」だが、初回起動時に自動的に設定することが出来るということを初めて知った。

足音|たなぼた団【脳内会議】

上記のページにその方法が詳しく書いてある。以前はこのことを知らずに全て手動でセッティングしていた。道理で難儀するはずだ。

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で、再び環境が整ったということで、取りあえず試しに、リカバリ前のプロジェクト整理時にリヴァーブの掛け過ぎが気になったため設定し直してwavに吐き出して置いた曲のマスタリングをやり直した※1

wasure_v2.mp3(改善後)

wasure.mp3(改善前)

しかしこうやって聴いてみると、結局どちらが正しいか分からなくなってくるなあ。単にスモール・ルームと大規模ホールという音場の違いだけのような気も。改善後の方が破裂音のノイズが目立っているし。そもそも何故これだけのリヴァーブを掛けたかといえば、それを誤魔化すためだったような気がするし。EQで破裂音を削ろうとすれば、その分どうしても質感が犠牲になるので。まあそれ以前に、パソコン用の安いスピーカで調整しているので、もっとましなシステムで聴けばどちらも酷いことになっているかもしれないというのもあるが。



※1 そういえば、REAPERでmp3を吐き出す為には「lame_enc.dll」だけじゃなく「lame.exe」もREAPERフォルダに突っ込んでおかなければならなかったんだ。すっかり忘れていてしばらく戸惑った。

リカバリ後、なんか文字が滲むようになったので…

また何か不具合か?と思ったら、ただ単にWindowsの「画面のプロパティ」→「デザイン」→「効果」→「次の方法でスクリーン フォントの縁を滑らかにする」にチェックが入っていただけだった。

こういう細かいセッティングなんかはすぐに忘れてしまうので、次にリカバリする時のためにもちゃんと書き留めておかないといけないな。

さて、次はVSTプラグインの整理を行わないと…。

リカバリした

国内のサイト複数が改ざん~早急にDirectShowの脆弱性回避策の適用を

これと関係あるかどうかは分からないが、気になってカスペルスキーのオンラインスキャンをかけてみたら「Trojan.Win32.Vapsup.vdc」とかいうマルウェアがとあるフリーVSTのdllと摩り替わっていたので削除。そして(Gumblar騒動の時にブログが改竄されたという話もあったので)ブログのパスワードを変更し、その後特別変わった症状も無かったが、気持ち悪かったので結局リカバリし、念のためもう一度ブログのパスワードも変更した※1
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ウイルスに感染したのはこれが初めてだ。Gumblar騒動の時も無傷だったのに。気持ち悪いのはこれをどこからもらったのかが分からないこと。アクセスアナライザーを使っていた(7/8のうちにタグをずした)からそこからもらったのかと思いきや、ウイルス名からするとどうもそうでもないような。「Trojan.Win32.Vapsup.vdc」を検索してもカスペのページしか引っかからないし、「system32」に2chのxreaスレで言われいるような怪しげなものも見つからなかったし。だからこれがどのようなものなのかもよく分からない。ただ最後の「vdc」を削って検索するといくつかのページが引っかかって、それによるとどうやらオンラインゲーム系のwikiを通じて広まっているものの亜種かと。でも自分はオンラインゲームなんかやったこともないんだけど。いったいどこで拾ったんだろう。

それにしても、対策ソフトのバージョンは古かった※2ものの定義ファイル自体は最新だったはずだし、FirefoxにNoscript入れてAdobe ReaderやFlash、WindwsUpdate※3も全て更新していたのに、それでも駄目だったとは。

Firefox 3.5に深刻な脆弱性、セキュリティパッチ公開まで「回避策」を

こういうのもあるらしいし、本当に感染を避けようとすればもうネットの中でも閉じこもるしかないね。まあ、幸いこの脆弱性には一時的な回避策があるようだが。

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実際のところ、このマルウェアをどこで拾ってきたのかは分からない。ただ、アクセスアナライザーのページはいまだに改ざんされたまま何のアナウンスもなしに放置され続けているという話(7/16現在)なので、うっかりバナーなんかを踏んでアクアナのページに飛ばないように気をつけよう(GENOの対応の悪さなんてアクアナのそれに比べたら子供騙しだったということか)。そしてアクアナを使っている人は十分に安全が確認されるまで当分ログインはせず、タグもはずしておいた方がいいだろう。

←アクセスアナライザーのバナー

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というか、リカバリして始めて気づいたが、Firefoxに於ける自分にとっての最重要アドオンである「OpenSearchFox」がいつの間にか消滅してるじゃないか。代用として「Add to Search」を入れてみたが、これ、右クリックから検索エンジンの候補を選択出来ないのね。仕方がないから「Ctrl+K」で検索バーに飛んで「Ctrl+↑↓」でエンジンを選択してから右クリックしているが、これはめんどくさ過ぎる。しかも、同じアイコンの検索エンジン、例えば「Amazon.co.jp」と「Amazon.com」なんかだと、アイコンが同じなのでエンジンの区別がつき難い。早く改善されないかなあ、これ。

追記:やっぱり普通にマウスで検索バーのエンジンを選択した方が簡単だった。

訂正:右クリックから検索エンジンの候補を選択を可能にするのは「Context Search」の機能でした。このアドオンを入れていたこと自体を忘れていた。



※1 パスワード変えてから中々ログイン出来なくて、もしかしたら乗っ取られたのか、と思いきや、ただ単に変更したパスワードが長すぎてそれが途中で途切れていただけだった…。パスワードは16文字までなのね。いくら変更したつもりの18文字のパスワードを入力してもログインできないわけだ。

※2 使っていたのはNTTのセキュリティ対策ツールVer.14(ウイルスバスター2006相当。今月の終わりでパターンファイルの提供が終了するかなり古いもの。重くなりそうなので古いのを使っていた。自動的に更新されるので、一応定義ファイル自体は最新だったはず。最新バージョンはVer.16でウイルスバスター2008相当のもの…だったが、リカバリした直後にver.17の通知が来た)。Ver.16だったら防げていたのだろうか?

※3 カスタムでSP3だけは充てていなかったけど。後、普段使わないのでIEも6のままだった。もしかしてこれが悪かったのか。

いつか見た光景×判別不能×変わる世界、変わらぬ世界

社会:ZAKZAK - アクセス殺倒…幸福実現党がドラマ「核ミサイル…」

二十年位前にもこれと似た様な動きがあって、その顛末を知っている者としては決して笑えるようなものではないな、これは(勿論、この者達はあの時から既に活躍していたが)。あの時も最初は皆、彼らのその一種異様な振る舞いをネタとして受け入れ、一緒になって盛り上がり楽しんでいた。

しかしそれは彼らにとってはネタでもなんでもなかった。そもそも、ネタとマジの違いを識別することは本当に可能なのだろうか。ネタがマジを生み出し、マジがネタとして見える。その二つは決して切っても切り離せない親密な関係にあり、何処から何処までがネタで何処から何処までがマジなのかという厳密な区別は、周りからも、そしてそれを発信している当人にさえハッキリとは分からないものなのではないか。実際その間に明確な境界線なんて無いのだと思う。其々は立場上、その場その場でそれをネタと言ったり(思ったり)マジと言ったりしているだけで。いや、むしろネタかマジかを主体が選択しているというよりも、逆にネタやマジといった流れに主体が絡め取られているだけのようにも思える。
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*<(1)意味と価値を捨てた決断主義のエリート達>*


にしても、何故人間はこういったハルマゲドン的なものに惹かれ続けるのだろう。恐らくそれは、己自身の存在意義を確固たるものにしたいという希求があるからではないか。そしてそのために決して揺らぐことのない堅牢な意味を設定し、自身がその正しき流れの一部であると規定する(信じる)。或いは世界は試練を経た後、今よりももっと格段に良くなる可能性を秘めている、というような変革が醸し出す希望が魅力的だからというのもあるだろう。そしてこの思想の対極にあるのが、無差別殺傷事件とかああいった動きなのだと思う。

高見容疑者「出頭はけじめ、死刑で構わない」(読売新聞)

――自分の生と死には何の意味も価値も無い。己が幾ら生きようが死のうが苦しみもがこうが、世界の在り様には何の影響も関わりもない。そのくせ世界は、一方的にフェイタルな影響力を行使してくる。そしてそれは決して変わることなく、ただただ無為に続いていく。そういう意味無き世界を生きている者達がいる。

そこでは、例え命を振り絞って何か行動を取ってみたところで、結局それは周りから(良きにつけ悪しきにつけ)都合よく解釈され、ネタとして道具として消費されていくだけ。そしてその多くは一時のネタや機能として小さな輝きを放った後、直ぐにも忘れ去られていく運命にある。行為だけならまだいい。しかし実際にはその存在自体もまた完全に交換可能なものでしかない。自分にとっても他者にとっても。であるならば、その中から己の持てる力を一度に出し尽くすことで一世一代のネタを披露し、最後にその交換可能な世界を抜け出してやろうとする向こう見ずなチャレンジャーが現れて来ても何らおかしいことではないだろう。或いは、例え自身の存在が持つ力を最大限出し尽くしたところで大した輝き(ネタ)も放てないであろうことを認めた上で、それでも尚、それを燃やし尽くしてさっさと無駄な時間を終わりにしてしまおうとする者が現れて来ても何ら不思議ではない。

実際、「現実(意味も価値も世界を動かす力も持たない存在としての自分)」に抗うこともなく、それをそのままを受け入れ、その意味も価値も無い世界の中で決断主義を貫こうとするならば、自殺するかもしくは「誰でもよかった事件」を起こすかくらいしか選択の余地は残されていない。勿論、それは誰もが出来ることではない。多くの人間はその「現実」を(理性というよりは感覚的に)中々認められず、その意味無き世界で苦悩しながら、逡巡しながらだらだらと生き続ける。しかし彼らは違う。彼らは受け入れる。この世に意味も価値も無いことを。そして決意し、実行する。それを終わらせることを。そう、彼らは決断主義のエリート達なのだ。よって、少なくとも(「考える前に動け」「現実から目を反らさずにそれを受け入れろ」といった類の)決断主義的なものを唱え支持して来た者達は、自らの要求や提案を受け入れ決断した(形に結果的になった)あの者達の行為を、万来の拍手で以って迎えてやるべきなのだ。そう、その両者は本来「おめでとう→←ありがとう」の関係で結ばれるべき者達のはずなのだ。

ところが、理念の提唱者達はその実践者達を拍手で迎えるどころか、むしろ逆に非難し始めたりするのだから全く可笑しな話だ。本来ならば到底受け入れ難いはずの「現実」を実践者があっさりと(少なくとも周りからはそう見える)受け入れ、覚悟を決めて行動に移す一方、提唱者達はその理念が導く当然の帰結としての「現実」を全く受け入れようとしない。その結果に対して何一つ覚悟を決めることが出来ない。要するに彼らが唱える理念は所詮ネタでしかなかったということだ。彼らにとっては。だがそれをマジに受け取る者もいる。いや、そもそもネタとマジの区別なんてものはその都度その都度の判断や感じ方で幾らでも変わっていくもの。だからそれが其々にとって本質的にネタであったのかマジであったのかという区別はどうでもいいが、しかしそこにはやはり二十年前のあれと同じ様な一種の異様さや滑稽さが存在することだけは確かだろう。問題は、未だにそれが持つ異様さや滑稽さが暴かれることもなく、そうであるが故にその(決断主義的な)理念が常識として世間に受け入れられ続けていることだ。そしてそれが自殺や無差別殺傷事件を水面下で援護する形になっている。

*<(2)意味の独占、届かぬ言葉>*

いずれにせよ、「誰でも良かった事件」の背後にはハルマゲドンとは間逆の世界観があるように思う。本質的な意味や価値の存在なんて全く(それこそネタ的なものとしてしか)信じることが出来ない。全ては交換可能で、世界はなんら変化することもなく、時間経過に伴って肥大化する疲弊や苦悩や恥だけがただただ連綿と続いていく。そういった息苦しさが支配する世界観を持った者たちがこの国には大勢いる。何故なら、この国の文化/システムは社会的順応に依存した形でしか己の存在意義を見出し難いような、そういう仕組みで成り立っているからだ。その中で順応及びその維持管理が出来ない者達が意味を見出せるのは、唯一己自身の死のみ。そしてそれこそが、その息苦しさで満たされた世界を終わらせる――ある主体が消滅する時、その主体からすれば周りの全ての世界が消滅することになる。勿論、その主体の周りから見れば、それは数多ある世界の内の一つが消滅するだけに過ぎないが――唯一の手段でもある。

…で思ったのは、この二つの動きが勢いづいて来ているのは結局のところ、意味や価値の保有が(社会的順応という)ある一定の枠組み内だけで独占※1されてしまっていることがその主な原因となっているのではないかと。というのも、その枠組みによって独占化された意味や価値を奪い返そうとすれば、それを遥かに上回るだけの強い意味や価値が必要となる。これがハルマゲドンへのベクトルを生み出す。その一方で、意味や価値は所詮他人のものでしかないという「現実」を完全に受け入れてしまった者は、己の存在意義を否定すると同時に、他者のそれをも積極的に否定するようになる。何故なら、もしその主体に存在意義が無いのだとすれば、その主体から捉えられた世界に存在する全てのものもまた、等しく存在意義を失ってしまうからだ。結果、その意味も価値も持たない存在に何をしようと自分の勝手ということになる。後はその者がそれを成し遂げるだけの影響力を持っているか否か、という条件だけが残される。そう、世界がその者に一方的にフェイタルな影響力を及ぼし続けて来たように、今度はその者が他者に対する「世界」となって、一方的にフェイタルな影響力を及ぼそうとし始めるのだ。つまり「ジコセキニン返し※2」を目論み始める。

そして一端そのような「決断」をしてしまった者は、もはや外部からのどのような呼びかけにも真剣に耳を傾けることはなくなるだろう。何故なら、意味や価値が枯渇し切ってしまった者達の元にその言葉が届く時、それもまた完全に無意味/無価値化されてしまうことになるからだ。だからこういった二つの動きが先鋭化するのを緩和しようとすれば、存在の意味や価値を社会的順応に依存するのを止め、独占している意味や価値を枠組みの外の者達にも還元するような文化やシステムを作り上げなければならない。そうやって世界を意味や価値で満たすしか先鋭化を緩和する方法はないだろう。このことは、二つの動きが枠組みの中にいる者達に向けて発信しているある種のメッセージとも取れる。

ところが、枠組み内の人間はそのメッセージを決して受け取ろうとはしない。強い意味の虜になった者達や意味や価値が完全に枯渇してしまった者達が枠組み内の人間の言葉を真剣に受け取ろうとしないのと同じ様に。そして彼らが恰も社会の制限から完全に独立した形で、自律した己の意志と選択だけで好き好んでそのような境遇と行為を招いたのだと言い張る。自由意志と選択の自由という虚構の論理で意味や価値の獲得を益々特権化しようとする。それがまたさらに二つの動きをアシストし、異様さを、忌まわしい決断を再生産していく。

そうやって「いつか見た光景」は、いつまでもいつまでも繰り返され続けることになりましたとさ。



※1 勿論、意味や価値の獲得は本質的にはゼロサム的なものではないので、この独占というのはあくまで比喩表現ではある。しかしながら、それが個人の意思だけで自由に獲得したり破棄したり出来るものではないのもまた事実。

※2 自身に向けられたジコセキニン的眼差しに抗うこともせず、その理屈を一端受け入れた上で、それをそのまま他者にも適用し、「自由意志による望まぬ結果の選択」を誰かに突きつけようとすること。

「社会(他人)に迷惑を掛けるな」という欺瞞

人間社会の営みは、お互いが迷惑を掛け合うことを前提として成り立っている。なんせ、そこは生存競争の場でもあるのだから、他人に迷惑を掛けずに生きていける者なんてどこにも存在しない。生きるとは、即ち他者に迷惑を掛け続けることでもあるのだ。だから、それがごく個人的で得手勝手な主張であるという前提で「俺に迷惑を掛けるな」と言うのならまだしも、“みんな”の総意として「社会(他人)に迷惑を掛けるな」と他者に要求しつつこの世に居残り続けるのは、欺瞞以外の何物でもない。
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そしてその欺瞞を真に受け、「社会(他人)に迷惑を掛けてはいけない」という規範に囚われすぎると、その先には孤立と死しか待っていない。というのも、本気で他人に迷惑を掛けまいとする者は、まず他者との直接的な関わりを断とうとするだろうからだ(関わるということは、迷惑を掛ける可能性の高さを保持することなので)。そうすると孤立せざるを得ない。ところが孤立したらしたで、今度は間接的な関わり(迷惑)を断つことが規範から求められることになる。しかしながら、そもそもこの世に居続ける以上、直接的であろうが間接的であろうが他者との関わりを完全に断ち切ること(≒誰にも迷惑を掛けないこと)は不可能。とすれば、結局その者は最終的に「この世から姿を消す」という一択のファイナルアンサーを迫られ続けることになる。「他人に迷惑を掛けてはいけない」という強すぎる規範を内面に抱え続けている限りは(――勿論、それを迫るのは規範だけとは限らないし、逆にその規範やそれを利用している者達に対して逆襲を試みる者もいるだろう。だが、焦点がボケるのでここではそういった要素は扱わない)。

…ところが、実際にその規範からの問いにアンサーして自殺する者が現れると、今度は必ずその行為を迷惑だと言って非難し始める人間が出てくる。しかし、そもそも自殺というものの多くは、その実行者の資質が他者(人間や自然が作り出した環境)と関わり合うという、相互的な関係性の下で生み出されている。つまり、非自殺者もまた自殺という現象の一部なのだ。だからその現象を問題視するのならば、当然自殺した(する)当人の在り様だけでなく、自殺をしない非自殺者側の在り様もまた問題にされなければならない。そして、もしその現象が備え持つ迷惑が非難されてしかるべきものだとするのならば、むしろ非自殺者の側こそがより厳しく非難されるべきだろう(非難といっても、死んだ者が生きている者を非難することは出来ないので、実際にはその非難を内面化して反省するしかないが※1)。何故なら、自殺者達は非自殺者側に、それこそ文面通り、死ぬほど迷惑を掛けられた結果としてその行為に及んでいるのだから。その者達が迷惑を掛けられた度合いは、非自殺者が受けるそれなど比べ物にもならない。

 ***

人は誰しも簡単に詐欺師になることが出来る。そのための方法は簡単だ。社会という、本来明確な主体も意思も無い、しかし何か偉大なものを感じさせるその存在――即ち「社会」という名の神――の意思を勝手に騙り、社会の代弁者として、道徳人として「社会(他人)に迷惑を掛けるな」と他者に要求するだけでいい。或いはその尻馬に乗るだけでいい。それだけで、誰もが近年話題の振り込め詐欺なんかよりももっと安全でもっと実りある、そしてもっと狡猾な詐欺を働くことが出来る。そういった騙し合いの下で、人間は生きている。


…というか、以前にも何度か同じようなことを書いたような気が。まあこのような認識が常識として定着でもしない限り、自分の気が済むまで何度でも何度でも同じことを書き続ける所存ですが。

関連:
壁で卵を押しつぶす作業始まったな
幻想時代への回帰



※1 とはいえ、その反省の苦しみから逃れたいという欲求が、その現象の原因と責任の全てを一方的に自殺者側に押し付けようとする動機の一つになっていたりもするので、物事はそう簡単ではないのだが。

ひきこもり記念日

「お前と関わるのは迷惑だ」
と社会が言っているような気がするから
毎日がひきこもり記念日。

物事が“ノリ”で決定されていくことの危険性

▼議論を傍から見る時の問題点

・まだその主張をちゃんと理解もしていない(読んでもいない)のに、その前にその主張に向けられた数々の(肯定的/否定的、補足的、展開的)反応を目にすることが出来てしまう。

・そしてそれを見て、自分がどのような立ち位置に立ち、どのような主張をした方が(他者との関係だけでなく、内面的・自意識的にも)有利であるかを意識的、無意識的に計算してしまう。
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社会(の流れ)というものの力を上手く利用することが出来た時の頼もしさ。それを敵にまわした時の恐ろしさ。それは誰もが己自身の体験を通してよく知っていることだろう。それ故、その場から醸し出される印象や雰囲気から自分がどのような立ち位置を取るのが相応しいかを無意識のうちに計算し、そこから逆算して己の主張や価値判断を決定するような傾向が自ずと生まれてくることになる。そしてそれが繰り返されるうちに、あたかもそれが自身の独立した意思による決定であるかのように思い込んでしまう(勿論、完全に独立した意思決定なんてものは存在しないにしても)。

それは即ち自らの意思決定をそこで形成された“ノリ”に移譲してしまうことでもある。そしてその“ノリ”に意思決定を移譲する者が増えれば増える程、その社会(コミュニティ)に於ける歯止めの機能は弱体化していき、場は硬直化していく。思考による審査を通さず、ただただ“ノリ”による決定だけが自動的に行われるようになる。それが進めば、最終的に誰も“ノリ”の暴走を止めることが出来なくなってしまう。しかもそうなってしまった時、そこではそれがごく普通で当たり前のことになってしまっているので、自分達が暴走しているということに気づくことすら出来ないかもしれない。いじめやリンチが行われるような場所では、大抵このような状況が形成されている。そんな場所で自由な意見のやり取りや冷静な判断が出来るはずもない。

 ***

自分はお笑い芸人が事件事故や社会問題などのシリアスな議論に頭を突っ込んだり、政治家に転身したりすることに余り良い印象を抱いていない。…と、これだけしか書かないと単なる職業差別に聞こえるかもしれない。いや実際そうだろう。文面通り“これだけ”ならば。だから何故それに問題を感じるのかをもう少し詳しく説明すると、要するにお笑い芸人というのは、前段で言及したような“ノリ”を作り出すプロであり、その“ノリ”を回し続ける達人達だからだ。そしてそれ故に、何でもかんでもその“ノリ”に頼ってしまい勝ちだ※1

――“ノリ”という背景を作らずに笑いを取り続けるのは、先ずもって不可能だろう。今時はそんな場面を目にすることも余りないかもしれないが、ごく稀に、照れながら、或いはオドオドしながらボケをかます芸人がいる。そういう芸を見せられると、客は一気に引いてしまう(周りのフォローでもあれば話はまた別だが)。また別の例を出してみれば、一部の熱狂的なファンだけ大爆笑とか、一部の年齢層だけに馬鹿ウケとか、ファミレスでえらく盛り上がっている一行の話に聞き耳を立ててみたら、全くもって何が面白いのかさっぱり分からなかったとか、そういう場面に出くわしたことが誰でも一度くらいはあるのではないか。何故そのような状況が生じるのかというと、それはその笑いや盛り上がりの背景にある“ノリ”がごく一部の限定された者達だけにしか共有されていなかったが故だろう。

ビートたけしなんて、ここ十年くらい大して面白いことを言っていないのではないか(いや、勿論笑いのセンスは人其々だけど)。しかし番組内では、彼は全くもってスベり知らず――皆が笑う前に彼が自発的に笑い始めるのがその合図になっている――なのだ。これは一種の権威化でもあるかもしれないが、それもまた“ノリ”によるお約束の一つではあるだろう。或いは明石家さんまを例にとってみると、もしただの素人が、以前に大ウケした彼のネタをそのまま彼と相性が良い客層に披露してみたところで、大してウケはしないだろう。何故なら、彼は“ノリ”を作り出す天才であり、発言内容よりもむしろ“ノリ”を重んじるタイプの芸人だからだ。発言内容をそっくりそのままコピーしただけでは、芸として不十分なのである。つまり、『すべらない話』が実質的には『すべらせない話』であるように、笑いを取る(そしてそれを安定化させる)ためには、コメントのクオリティーと同時に“ノリ”というバックグラウンドを作り出すことが必要不可欠なのだ。

だからこそ、自分はお笑い芸人達に本当にシリアスな議論には頭を突っ込んでもらいたくない。政治家になんかになって欲しくない。何故なら、きっと彼らはどのような問題も“ノリ”で解決し、どのような場面も“ノリ”で乗り切ろうとする(或いはそれを他者に要求する)だろうから。そしてその“ノリ”に巻き込まれた場所では、前段で書いたような「ただただ“ノリ”による決定だけが自動的に行われる」ような状況が作り出されてしまう。勿論、どのような“ノリ”が力を持つかということは時代や場所によっても変わってくるので、芸能界での“ノリ”がそのままその外でも通じるとは限らない。にしても、なんでもかんでも“ノリ”で乗り切ってしまおうとするそういった姿勢には、大きな問題や危険性が潜んでいるように思うのだ。

当然、彼らが“ノリ”を捨てて、そして「お笑い」と切っても切り離せない関係にある(尚且つ必ず生贄が必要となる)貶め芸や恫喝芸を捨ててシリアスな議論に参加したり、政治家に転身したりするのは全くもって何の問題もない。逆にお笑い芸人でなくとも、“ノリ”や貶め芸・恫喝芸によって物事の流れを形作っていこうとする者がいたとしたならば、自分はそのような姿勢※2でそれらに関わろうとする者に対して好意的な目を向けることは出来ないだろう。小泉劇場にしてみても、彼が一流の芸人としての力を発揮し、より多くの者が共有する広範な“ノリ”のテリトリーを作り出すことが出来たからこそ、そして彼が提供した貶め芸や恫喝芸が上手く機能したからこそ、成立したものでもあったことだろうし。

とはいえ、実際にはそれらを完全に排除することは不可能だろう。こんなことを言っている自分自身、多分それは出来ない。しかしながら、“ノリ”を無理矢理強要することは下劣なことであり(むしろ今は“ノリ”に乗らない方が軽蔑される)、そして何でもかんでも“ノリ”によって物事を判断/遂行していくことにはそれ相応の危険性が付きまとう、ということくらいはもっと広く周知されてもいいのではないか、と思うわけで。そもそも、“ノリ”が合わない人にとってその“ノリ”を強要されるのは拷問みたいなものだし。



※1 勿論、“ノリ”を重んじているのはお笑い芸人だけではない。どこに行ってもそれは存在するし、例えば企業なんかは“ノリ”(決して言及されることのない独自ルール/形式化)に従順である可能性が高いことを期待して体育会系の人間をより積極的に採用していたりする(順法精神の薄い日本企業にとって、会社の独自ルールよりも法律を重んじるような人間が入ってきたら大変なことになる)。

※2
 ニュースや社会問題を扱うテレビ番組などの背景でやたらと扇情的な音楽が流されていたりすることがあるが、あれもこういった姿勢から生み出されているものの一つだろう。

賽の河原の鬼が石積みを急かしてくるんですけど

子ども・若者支援法が成立 ニート対策実施へ - 47NEWS(よんななニュース)

こういう話題に関してももっと書いた方がいいのかもしれない。しかし、基本的にこのブログは現実逃避と憂さ晴らしの為に書いているので、書くことによって精神的に大きく消耗しそうなこの手の話題については中々書く気にならない。
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だから、取り合えずこのニュースを見てパッと思い浮かんだことだけ書いておくと、ああ、また賽の河原の鬼が石を積め積めと言って騒ぎ出したなあ、と。そんな印象。いや、実際その程度の感想しか抱きようのないニュースだけど。

物事を変えるということは、それに関わる背景や、それを形作っている双方の在り方を変えるということだ。物事を変えるべくして他人に変われ変われと言う人間には、あなたには、あなたが背景にしているその慣れ親しんだシステムや文化、風習、そして今の己自身の在り方を変える勇気が本当にあるのか?と訊きたい。

要は、自分は鬼の役割を止めるつもりもないくせに、「頑張って塔を完成させようよ!」と言うような奴らには本当にうんざりだ、ということ。

つうか、俺はもう若者でもなんでもないけどね。

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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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