ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「特別な日本」を守る、「駄目なものは駄目」という守護神

日章旗切り貼りし民主マーク!鳩山氏「神聖なマーク、きちんとつくるべき」<よくよく考えてみると、布切れの切り貼りが問題視されたり、「われわれの神聖なマークなので、きちんと作られなければいけない」という理屈がすんなりと――少なくとも謝罪しないよりは――人々に受け入れられる状況って結構凄いことなんじゃないだろうか。つまり、如何に日本人が宗教的なものにどっぷりと浸かっているかという。

・核や天皇について語ることはもはやタブーではなくなった。しかし、日本人が持つ呪術性や宗教性について問うことは未だタブーであるようにも思う。

・例えばこの問題の場合、何故それが駄目なのかという理由もハッキリしないまま、いつの間にかそれが「悪いこと」に認定され、「悪いこと」をしたとされる側もまた、その咎めに対して何か疑問を呈することもなくあっさりとその非を認め、謝罪してしまう。

・恐らく、この行為に対して本気で怒っている者なんて殆どいないだろう。そもそもこれは、旗を焼いたり踏みつけたりすることでその裏に想起される共有イメージを通して何かを傷つけようとするような類のものでないことは明らかなわけだし。

・だが本気で怒っている人はいなくとも、この社会がこれをすんなりと「悪いこと」として認めてしまう素地を持っていることは確かだ。

・で、結局これは何故「悪いこと」なんだろう。その理由は、常識に外れる、不謹慎、人を不快にする、ふざけている、とかそんなところなんだろうけど、それはあくまでパッケージであって、その中身を説明したことにはならない。

・例えば、「コスト削減にも繋がるし別にいいじゃない」というような意見が出てきても良いはずなのだが、実際に公式の場所で大っぴらにそんなことを言う人間は出てこない。「何故それが悪いことなのか」という問題に真剣に向かい合うことを促す人間も出てこない。

・何故なら、本気でその中身を確認しようとすれば、「駄目なものは駄目」という守護神が現れて、その中身を明らかにしようとする行為を阻もうとするからだ。それでも尚その中身を明らかにしようとした者は、神聖な場所を侵そうとした者として民衆から責め立てられ、地位を剥奪されたりするだろう。

・だから誰も怖がってそれに手をつけようとしない。そうやって神聖な場所に隠されているその“何か”は決して表舞台に晒されることはない。つまりそれがタブーであるということ。

・切り貼りに関して「宗教的配慮が足りない」と言ったなら、それは一応批判理由にはなる。宗教的配慮というのもまたパッケージであるかのように思えるが、そもそも誰もが共有出来る具体的な根拠がなく、それでも尚尊重されるべきものというのが宗教なので。

・しかし、宗教的配慮をしなければならないということは、当然それを信仰しない他の者の行為を制限することでもあり、自由と競合することになる。そこで法やモラル、マナーなどの観点から、其々どこまでその配慮のために自由を制限すべきなのか、という一般的な議題が持ち上がって来て、そのすり合わせが行われるようになる。

・だが実際には、切り貼りに対する問題提起という始点からいきなり「その理由はハッキリとはしないが、とにかく悪いこと」という終点が導き出されてしまう。それが議題化されて持ち上がってくることもないままに。何故なら、守護神にそれを議題化することを阻まれ、結論に辿り着くまでの過程が一切消し飛んでしまうからだ。

・これは別に切り貼りに限ったことではない。この「駄目なものは駄目」という守護神は実に様々な場面に現れては、何故それが駄目なのか、という理由を明確にすることを妨げていく。

・一つ確かなのは、その守護神が現れるということは、人々の間にその理由を明らかにすることを忌避するような意思が働いているということだ。

・しかし何故その理由を隠さなければならないのか。誰もが(納得するかどうかは別として)共有することが出来るような具体的根拠がそこにあるとするならば、さっさとそれを提示してしまえばいいじゃないか。しかしそれはなされない。ということはつまり、実は元々そこに具体的な根拠なんてないんじゃないのか。要するにそれは宗教的理由からなのではないかと。だからこそそれを明かせない。

・そしてこれは単に、「無いから明かせない」というだけではないように思う。というのも、日本では一般的に宗教に対してあまり良いイメージが抱かれておらず、それ故それに対して侮蔑や蔑みのような冷ややかな視線が向けられることも多い。尚且つ、多くの日本人は自分のことを無神論(無宗教)者だと思っている。

・にもかかわらず、もし自分が宗教的な理由を根拠として何かを主張したり支持したりしているということが明らかになれば、かねてから無神論者であると言ってきた己自身の主張が嘘だったことになってしまう。その上、平生から自分がそれに送ってきた冷ややかな眼差しが全て自分自身に跳ね返って来てしまうことにもなる。つまり一種の自傷のような状態に陥ることを余儀なくされる。

・だからそういう事態を避けるために、無意識にそれを忌避しようとする意思が働いているんじゃないかと。そして忌避にはさらにもう一つ理由があるように思う。

・大抵の人間は、自分の国の風土に何か特別性を見出し、それを誇りとしていたりすることだろう。そして日本の場合、社会の大部分が宗教の手によって汚されておらず、日本人の多くが宗教以外の“何か”を共有していて、それによって其々の行動は律され、その秩序が整然と保たれている、というような認識がその誇りを形成する一つの材料になっているように思う。

・それが宗教的なものであると認識されていないことによって神聖さが保たれている宗教というか。そしてその宗教性は、「日本独自の文化や風土」という多少和らげられた表現に置き換えられ、諸外国のそれらとはまた違うものとして差別化が図られる。それによって「日本の特別性」が維持される。

・ところが、その“何か”もまたただの宗教であると判明してしまえば、その神聖さは失われ、もはや日本は(その面に於いて)特別な国ではなくなってしまう。今まで特別なものであったはずのそれは、諸外国のそれらと「宗教」という同一のまな板の上に並べられ、単にそれらの内の一つでしかなくなり、輝きを失ってしまう。つまりその忌避は、そのような変質を恐れてのものであり、ある種のプライドを守る闘いでもあるのではないかと。

 ***

・日の丸を元にしてそれとは分からないようなものを形作った時、人々はそれに対してどのような反応を示すだろうか。一見日の丸を元にして作っていたように見えて、実は全く別のものが元になっていた時、或いは、日の丸を一旦糸に戻し、その糸を使って別の何かを作った時、信仰者はその事実を知っている時と知っていない時でその行為にどのような反応を示すのか。

・そういうことを考えてみると、人間にとっては事実よりも認識の方が遥かに重要なんじゃないかと思えてくる。

・神聖さは何処から来て何処へ行くのか。結局それは、人間の内側からやって来て、また内側へと消えて行くものでしかない。但し、その「行き来」は外部からの刺激によって規定されるものであったりもする。
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織田裕二in世界陸上、他

・織田裕二が初めて世界陸上のキャスターを務めた時は、もの凄い違和感と「何でまた織田裕二?」という強い疑問を感じたものだが、今や完全に世界陸上中継の顔として定着してしまった感がある。慣れって恐ろしいなあ。

・それにしても、この人は何ど後姿を見せれば気が済むんだ。

・多分、自分が「俺は後ろのトラックの方が気になって仕方がないぞ」という姿勢を見せることで見ている者を盛り上げようという、彼独特の演出法の一つなんだろうけど。どうもこの人は、何か普通ではない何かをしなければならないという強迫観念に囚われ過ぎているような気がする。

・それが例の(前回大会までの)異様なハイテンションだったり、「地球に生まれて良かった~」という名言を生み出したわけだが。

・全然知らなかったけど、織田裕二が後姿を見せまくり、ボルトが驚異的な記録を出して盛り上がっている裏で、山本高広がひっそりと『TBS「壁を壊そう!炎の240時間マラソン」』に挑戦していたらしい。

・そういや世界陸上が始まる前になんか彼が走っているシーンをチラッと見たような気がするが、まさかこんな壮絶な企画が行われていたとは。

・しかしこれは余りに露骨過ぎるだろう。だって、これって要するに(当人が快く思っていなかったらしい)織田裕二のモノマネに対する贖罪と禊みたいなもんでしょ。これをやり遂げたなら許してやる、みたいな。

・いや、実際織田裕二当人がどう思っているかは分からないが、山本高広の立場上、嫌でもそういう意味として捉えざるをえないだろう。当然TBSだってそういうことを分かっていてこの企画を組んだはずだ。

・しかも二人で600キロを走るって。幾らなんでも走らせすぎなんじゃないか。もはやスポーツというよりは苦行の域だ。間寛平みたいにマラソンをライフワークとしている人ならともかく。

・まあ芸能人としては仕事が貰えるのはいいことだし、これで思う存分織田裕二のモノマネが出来ると考えれば安いものなのかもしれないが、ちょっと薄気味悪さを感じるさせるよ、この企画は。

・後にこの企画に関するドキュメントが放送されるらしい。勿論見ないけど。

・そもそも、誰かにマラソンのような試練を与え、それに一生懸命取り組んでいる姿を見せて感動させようとするようなもの自体に自分は余りいい印象を抱かない。要するにそれは自己(実は他者)啓発なわけで。地獄の研修とか、オウムの修行とかと用いている手法は同じ。

・そしてそこで生み出された「一生懸命さ」は、何らかの主張の根拠とされたり、「あんなに頑張っている者が居るのにお前はなんだ!」という暴力の正当性を担保するものとして利用される。

・そうなったらそこでセットにして用いられていた思想や目的、摂理性に対する批判は中々難しいものになる。何故かって、それを批判すれば、それとセットとして提供された「頑張りによる成長物語」や「感動体験(希望)」を獲得した者は、自分が獲得したその感覚までもが否定されたように感じるだろうから。

・自分の感覚や、自分が信じている「(成長)物語」や「希望」を否定されば、そりゃ怒るわな。だからそれを信じている人はそれを肯定しようとして必死になるわけだが、それを肯定するには、それの前提となっている思想や目的、摂理性自体もまた同時に肯定しなければならない。逆に言えば、その思想や目的、摂理性を否定すれば、「物語」や「希望」をも否定してしまうことになる。つまりその者の逆鱗に触れずにその主張を批判するのは難しい。

・そうやって一度個人の感覚や経験という裏づけによって固定化されてしまった思想や目的、摂理性は、自分自身でも簡単には覆すことは出来ないだろう。

・まあそういった「物語」や「希望」を自分だけのものとして留めておいてくれれば別にかまわないのだが、人間のサガとして、どうしてもそれが同じ社会に住む他の者全てに共通するものであるかのように思いたくなり(というかそういう前提がないと自分のそれを中々信じきれない)、外部へと拡張しようとし始める。要するに布教だ。

・で、こういった自己啓発的精神論を布教しようとすれば、必然的にジコセキニン論みたいなものを生み出さずにはいられなくなるという。それがどのような暴力性を持っているかはもはや言うまでも無いだろう。

・まあその内容がなんであれ、この手の手法は視点が『ポピュラス』なんだよな。誰かに試練を与え、それを乗り越えて達成すべき真の目的や進むべき真の道筋、そしてその前提となる摂理性を示しているお前は神にでもなったつもりか、という。

面倒くさいけどもう一度

ここコレについて書いたことについて。一つ前の記事で書いたように、「自分にとってあの話題は残り少ない気力を存分に注ぎ込んでも惜しくないと言い切れるほど大きな関心事でもな」い。だから再びこの話題について触れるのは正直気が進まないのだが、どうも前に書いたものだけを読むと、ちょっと普段このブログで書いていることと比較して統一性に欠けるようにも読めそうでどうも収まりが悪い。だから面倒くさいけど前に書いた時には書かなかった部分や、そもそも何故それについて書こうと思ったのかという動機などついてもう一度書いておくことにする。

・で、「統一性が欠けるようにも読めそう」というのはどういうことかと言えば、アレだけ読むとどもう規範的過ぎるような嫌いがあるようにも見えてしまうということだ。いや勿論、社会規範に対する怒りをぶつけながらながらそれに対する期待を抱いたり、それを破壊したいという衝動を抱くと同時にそれの存在とは不可分の恩恵を受け取らねば生きてはいけないというようなジレンマは常に抱えている。だがアレを書くにあたっては、必ずしもそういったジレンマに当て嵌まるものだけではない他の理由があった。以下、あの記事を書こうと思った動機について書いていこうと思う。

・まず一つ目の動機。初音ミク「白いクスリ」ニコ動に一時復活 「削除依頼に法的根拠なし」とニワンゴ<これは要するに、この問題はあくまでクリプトンとソフト使用者間の問題であって、ニワンゴ側としてはそれは関係ないという態度なのだろう(…多分)。しかしこういったことが繰り返されるというのは結局のところ、特に何の理念も持ち合わせていないのに「出来るからする」という行為と「面白ければ許される」というような人気取り手法に支えられた数的圧力によって、実質的なルールが何の審議も経ずに形成されていくという因習をより強固なものにすることにも繋がりかねない。つまり既成事実を作ったもん勝ちという。自分はそういう流れを決して良いものだとは思えない。

・既成事実的開き直りの典型例>2ちゃんねる賠償金「死刑なら払う」…管理人・西村氏“西村氏は閉廷後、報道陣に対し、過去の訴訟で確定した賠償金などについて、「支払わなければ死刑になるのなら支払うが、支払わなくてもどうということはないので支払わない」などと、支払いの意思がないことを明らかにした。”

・だがこういった開き直りをする者がどんどん増えていくと人々の不公平感が募り、それが規制や罰則を強化させる種子にもなりかねない。しかも上記のような主張が示すように、後からそういったものを設けてももう遅いので、それならば先回りしてそれに対する対処法を作っておき、それによって公平性を保とう、というような主張も当然出てくることだろう。

・現にこの国では、一部の者達の開き直りがメディアによって大々的に取り上げられ、その煽りによって規制や罰則が強化されるというような動きを何度も何度も繰り返している。自分はこの件に関して、そういった「既成事実を作ったもん勝ち」という風潮とそのゆり戻しとしての「規制・罰則の強化の可能性」を見た。だからそれに対して良しと言うことは出来なかった。

・二つ目の動機――これに関しては前述したジレンマに該当するものでもある。個人的な思想として、貶め系の動画が何の違和感も無く人々に受けいられ、それが人気を博すような状況は良いものだとは思えない。勿論、貶めをしたことのない者など存在しないし、自分だってそういう要素を持つ表現を何度も用いてきた。そしてこれからも用いるかもしれない。そういうジレンマはある。だが、貶め系コンテンツの増長と減衰という二つベクトルが見えた時、どちらを選ぶのか――まあ「選ぶ」と言ってもそう認識しているだけろうけど――といえば自分としては後者を選びたいという思いがあった。

・そして三つ目の動機。これがそもそもこの話題に興味を持った最初の切欠でもある。それは何かと言えば、クリプトンへの批判に対して妙な違和感(気持ち悪さ)を感じたということだ。

・結局クリプトン側は自社の利益とイメージを守ろうとしただけに過ぎない――それが実際に目的にとって正しい選択だったかどうかはともかく。それに自社の利益と言っても、別に残業代を支払うよう主張した従業員を嫌がらせで訴えるというような非道なことをしたわけでもなんでもない。そもそもこういったことに関してクリプトン側からクレームが付くという可能性は誰もが十分認識していた事柄のはずだ(使用許諾契約の内容はミクの発表時にかなり話題になった)。そして問題になっている動画がそれに抵触する可能性があることもまた十分予測出来たはずだ。

・行為(発表)と結果(クレームの可能性)が直接一対一で結ばれている。情報が明らかにされている。行為の在り方に対して圧力が掛かっていない。しかも結果によってその者の命や生活が危機にさらされることもない。つまりこれはジコセキンンではなく真の意味での自己責任に当たる。

・別に自主規制をしろとかそういう話ではない。好きにすればいいのだ。だが、好きにすればいいという考えがあれば尚更、クリプトン側の動きが批判されるいわれもなくなる。何故なら、クリプトン側もまた好きにするだけだろうからだ。

・別に不平等条約的なものでもない相互的関係に於いて、一方が信頼を裏切るような行為をした(クリプトン側にとって件の動画は厄介ごとの種でしかないだろう)。ならば相手側もまた、それ相応の動きを取ろうとすることはやむを得ないだろう。にも拘わらず、その行為を無条件に受容してくれるよう望むのは、余りに虫が良すぎやしないか?

・クリプトンは別にボランティア活動をしているわけでもなけりゃ、増してやソフトウェア使用者にとっての母親的存在でもない。そして母親的な無条件受容を期待していなければ、この件に関するクリプトン側の動きに不満が生まれてくるはずもないのだ。だが実際には批判は生まれてきた。つまりそれは、多くの者がクリプトンにそれだけ過度な期待を抱いていたということだ。そこらへんにどうも自分は気持ち悪さを感じてしまった。

・で、そんな折にレスポールがどうたらとかいう無茶な理屈をつむぎ出す記事なんかを見てしまい、ついイラっときてあの記事を書いてしまったという。

・要するに、自分は別に社会規範的な主張をしたかったのではない(いや、これはこれでまた一つの規範になってしまったりもするのだが)。そうではなく、「好きにすればいい。但し向こうもまた同じように好きにするだろう。だからクリプトンに母親的な過度な配慮なんか期待すべきでない」と言いたかったわけだ。

・しかしまあ、また無駄にエネルギーを使ってしまったなあ。大した関心事でもないことに触れる場合には、迂闊に足を深くまで突っ込み過ぎず、幾つか軽い感想を書いてサラっと流すべきだな、ほんと。因みに、ニコニコのアカウントすら持っていません。

「悲劇」化が原罪への意識を遠ざける、他

・また無駄に闘った感があるな、一つ前の記事の前半部分は。自分にとってあの話題は残り少ない気力を存分に注ぎ込んでも惜しくないと言い切れるほど大きな関心事でもなかったのに。だが無理な理屈で何かを批判している者がいると、ついついそれと闘いたくなってしまう。

・長い間攻撃に晒され続けると、周りの者全てが敵に思えてくる。そしてついつい何かと闘わずにはいられなくなる。闘うことでしか他者と関係を持つことが出来なくなる。「闘う」という言葉のイメージが美化されている日本では、何となくそれがカッコいいもののように思えてしまったりするかもしれないが、実際のそれは決してそんなよいものではない。

・批判はするが闘わない。これを今後の一つの課題にしたい。まあ実際には中々難しいだろうけど。闘うにしても、せめてもう少し軽妙さというものを身につけたいところだ。

・映画『宇宙戦争』でのワンシーン。大人気ない親父(トム・クルーズ)が長男とコミュニケーションを図ろうとして無理やりキャッチボールに誘ったものの、段々と腹が立ってきて悪意を込めた剛速球を長男に投げつける。

・長男はそれを華麗にスルーして家の窓ガラスが大破。あのスルー力は見習いたいものだ。自分だったらガラスを割らないような配慮をしてそれを受け取り、悪意のキャッチボールを続けてしまうだろう。というか、今社会(を名乗る者達)を相手にそれを続けてしまっているわけだが。

・しかし、あれだけ絶望的状況に追い詰められて周りの者がどんどん無残な死を遂げていく中、自分の家族だけはちゃっかり全員無事というのはあり得ないだろう。あの潔いまでの主人公家族中心主義は流石アメリカ、流石スピルバーグといったところ。幾ら残虐描写が増えてもそこだけは変わらなかったようだ。逆に日本は、どんな物語でも強引に悲劇に変えてしまうとなんかで揶揄されたりしていたけど。

・鑑賞側が心情的に同一化すべくする対象にハッピーエンドという外形的達成を形作らせることでカタルシスを得るための物語と、それに「悲劇」の一部を担わせることでナルシズム的カタルシスを得るための物語。視線が外を向いているか内を向いているかの違い。

・物事(或いは物語化された現実)を「悲劇」として捉えてしまいがちであるということが、原罪というものに目を向ける機会を奪ってしまっているような気がする。というのも、「悲劇」というのは結局、善なるものがやむを得ない状況に陥って悪を獲得しているという捉え方をする。だがそれでは善であるとされるものが既に悪を含有しているということが隠蔽されてしまう。

・まあそうでなくとも原罪なんてものに目を向ける者なんてそうはいないだろうけど。というか、それはむしろ病に近いものなのかもしれない。といってもそれは個人としての病ではなく、人間がもつ持病としてのそれだが。

レスポール関係ないし、他

・熱帯地方、大阪。真夏の日中の室温は38度がデフォルト。

・幾らクリプトンを批判しようと、これは「みんなやってるのになんで俺(コレ)だけ」という理屈にしかなり得ない。要はその理屈を肯定するか否かの問題。公平性を問えば墓穴を掘る結果になるだろう(他のものに対する規約の扱いがより厳格化するだけ)。>ニコニコ動画における動画削除について

・まあ「ソフトウェアの使用許諾契約なんて糞食え」みたいなアナーキーな主張をする人にはもう「頑張って革命を成し遂げてください」くらいしか言うことが無いけど。

・クリプトンが自身の損害を覚悟してまで一つの貶め動画の存在を守らなければならない理由が見つからない。

するとなんだ、初音ミクは楽器じゃないわけだ<「王シュレット」だって問題視された。つまりこれは必ずしもミク固有の問題とは言い切れないはずだ(――対象に落ち度があるからこれは「王シュレット」とは違うと思う人もいるかもしれないが、幾ら対象に落ち度があろうと、それを理由に不必要な暴力(嫌がらせ)を振るうことは許されない。何故なら、罪は相殺されずただ双方に積み重なっていくだけだからだ。まあ罪という概念を認めるならばの話だが)。

・そもそも、ミクを「言葉を扱う言論装置としては不完全」と言っておきながらレスポールを引き合いに出すところに姑息さを感じる。ギターそのものは「言論装置」じゃないだろう。何故それを同列に扱おうとするのか。それはウォシュレットを作った人が「自分の作った便器がどう使われようと文句は言わなかった」というのと同じ。というか、実際には作った人はともかく社会的には問題視され、それ(「王シュレット」)を放送したテレビ局は謝罪を余儀なくされたけどね。

・レスポール氏は本当にこういった貶め系動画に対して(或いは契約違反について)それを問題視しないタイプの思想の持ち主だったのか?その確認も取らずに勝手に彼を後ろ盾にしようとするのはどうなのか。大体、無理やり関連付けて偉人を引っ張り出し、その威光に頼ることで自説の正しさを印象補填しようとするその手法自体がいやらしい。

・別に「やるな」とは言わんが、それが削除されたら「やっぱり削除されちゃったね」で済ますべき話なんじゃないか、これは。表現したければ他に幾らでもその手段があるわけだし。ミクを介在させる以外に表現手段が存在しない世界ならばまた話も変わってくるが。

・「表現の自由」を理由に貶めを良しとするなら、例えば『アッコにおまかせ』の例のVTRみたいなものに対する批判の根拠を失ってしまうわけだが、それでもいいのだろうか。まあどのみち「表現の自由」は契約違反の言い訳にはならないけど。別に無茶な内容の契約でもないし。

↑この話題については後で続きを書いた

・今年の世界陸上に於ける織田雄二がずいぶん大人し目なのは、きっと山本高広のアレが関係しているに違いない。山本高広は当人から煙たがられながらもモノマネという表現の自由を実行中。まあ彼もそれがウケなくなればそのうち芸能界から消されるかもしれないけどね。

・モノマネと言えば、稲川淳二のモノマネをしているBBゴローという人のソレが面白い。

・モノマネといっても、この人は話の内容ではなく形式だけを真似する。実際に話をしている内容はといえば、ただ店に入って親子丼を食べたとか、単によくある日常の一コマでしかない。しかしその普通の出来事を稲川淳二の作り上げた形式に当てはめて語ることで俄然それっぽくなり、それを「稲川淳二」として認識しそうになる。

・つまり彼のモノマネは、稲川淳二のあの芸が如何に形式ばっているか、そして実は内容以上にあの形式こそが彼の芸の根幹であったということを明らかにしてしまう。もし彼の話の内容をそっくりコピーしたところで、形式を真似なければ誰もそこに「稲川淳二」を見ないだろう。また、稲川淳二があの形式を完成させていなければ、彼は今ほど人を惹きつけることはなかっただろう。

・形式が話の内容を上回る求心力を持つ。ある種の本末転倒。しかし現に多くの人々がその本末転倒に惹きつけられてきたという現実がある。あのモノマネは、人間の持つそういった滑稽さを炙り出してしまう、そういう面白さを持っている。

・この手の話は都市伝説とか陰謀論というより、「民話」と言った方がしっくりくるような気がするな。>nikaidou.com: 本当に悪い奴がいる

「不条理」は不条理に非ず、「悲劇」は悲劇に非ず

恋愛に恵まれない人的『ロミオとジュリエット』>「ガンプラを母親に捨てられた」と自宅放火 実は早とちり、結局全焼(ITmedia News)

ある状況が不条理であると周りから認められた時、それはもはや条理の一部としての「不条理」に収斂され、本当の意味での不条理ではなくなってしまう。同じように、周りから「悲劇」と認識されればされるほど、それによってその出来事の悲劇性は薄まる。真の悲劇とはそれが制御不能の重篤さを抱えていながら「悲劇」とは認識されず、誰からも理解されないそういった状況のこと。その意味でこれは『ロミオとジュリエット』的な似非悲劇よりも遥かに悲劇性が強い出来事だと言える。
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そもそも「悲劇」というのは、その物語を受け取る側がそれを内面化してナルシズム的作用を得るためのもの。つまりそれは、対象となる事象とそれを受け取る側の認識と自意識という三者の共同作業によって成り立っている。そういう共犯関係の上で初めて成立するのが「悲劇」。それに対し悲劇は、他人がそれを内面に取り込んでナルシズム的なカタルシスを得ることを許さない。そのような性質を持っていることこそが、悲劇が「悲劇」に取り込まれず、悲劇そのものとして存在し続けるための一つの条件でもある。この事件はその条件をクリアしていることだろう。

それに加えこのような出来事は、それを受け取る側はそれを内面化して取り込むどころか、むしろそれを自身より劣るものとして積極的に疎外化して蔑み、それよりも優であるところの自分を見つめることで己の価値(存在意義)を確認するというタイプのナルシズムに利用され易い。そして当該人物は、(不特定多数の者から発せられる)その種のタイプのナルシズムを出自とする言動や眼差し――暴力性を帯びたそれ――を受け取ることを余儀なくされる。それがその出来事の悲劇性をより堅固なものとする。

 ***

確かに、一般的な物差しで測ればこの出来事はずいぶんと滑稽なものに見えることだろう。しかしよくよく考えてみれば、だからといって単純にこれを嘲笑うのはかなり難しいことが分かる。

何故なら、この出来事はその包装部分を取り去ってその中身を覗いて見れば、それはその者が生きるための支えとしてきた掛け替えのないもの――それこそ、それが隠されたことでパニクって自暴自棄になってしまう程のそれ――を、恐らく相当関係が悪かったと思われる者によって破棄された――つまりそれはその者の存在意義をも破棄されたことと同義にもなり得る――と認識したことから始まっている。表層の部分はともかく、誰かがそのような内容を獲得した時、それでも尚冷静でいられる者は一体どれくらいいるだろうか。

いや勿論、その生きる支えが「ガンプラ」だったことが滑稽さを生み出している大きな要因の一つなのだろう。だが、元々価値に普遍性はない。例えばある人物の存在は、その他の殆どの人間にとって大した価値を持っていない。今この瞬間にも多くの命が生まれ、消滅していっていることだろう。だが我々はそれを何とも思わない。その生と死に何も感じることはない。それどころか彼らが存在し、消えていったことを知りすらしない。これはつまり、人一人の命でさえ元々その程度の価値しか持っていないということを表している。

誰かにとって価値あるものは常に他の誰かにとって価値の無いものでもある。その者の命さえ、他の誰かにとっては何の価値も無いものに過ぎない。それゆえ法律や道徳といった類のものが人々から求められるようになる。一人一人の人間の命にもし普遍的価値が在るならば、価値観に普遍的法則があるならば、そもそも法律や道徳なんてものに頼る必要はないだろう。それが無いからこそ、法律や道徳、権利などという概念が必要とされる。

つまり、其々の人間の価値観にはそれほど大きな差異があるということだ。だから他人の価値観を嘲笑することほど浅はかなことはない(まあ自分もその浅はかなことをしてきたし、これからもしたりするんだろうけど)。何故ならそれを嘲笑する者の命でさえ、他の誰かの価値観からすれば何の価値も無いものでしかないからだ。だがそれでは自分の命や人生もまた他人から侵害され、否定されてしまうことを避けられないだろう(少なくともその可能性が高まる)。だからこそある程度統一化された最低ラインを設け、それを守るべきだという動きが生じてくる。他人の価値観を尊重することが重要だという考えが生まれてくる。所謂「情けは人のためならず」というやつだ。「他人のため」というのは、実のところ「自分のため」を出自とする形でしか生まれてこないのだ。

だがそれは逆に言えば、自分の存在価値を否定する者はそれらをあっさりと否定することが出来てしまうということでもある(ex.死刑覚悟の無差別殺傷事件)。そういった者の元に法や道徳による非難が正当なものとして届くはずもない。何故なら、誰かがその存在価値を失った時、その者にとってみれば、それを守ることを目的として生まれて来た法や道徳もまた同時にその存在価値を失ってしまうからだ。感覚上はともかく理屈上は。

まあだから自分としては、彼の持つ一風変わった価値観を嘲笑うことは出来ないし、彼が起こしたこの行為もまた(結局死に切れなかったとはいえ)、少なくともそれを道徳的に非難することは難しいだろうと思ってしまうのだが。

「家族の絆(ゲンナリ)」、他

・「何度目だ、ナウシカ」から「何度目だ、時かけ」へ。

・『時をかける少女』のサブタイトルは「~いじめられっ子の屍を超えてゆけ」にするべき。それで、テーマ曲も『ゴルトベルク』じゃなくて『フーガの技法』か『音楽の捧げもの』に変更すべき。

・あのいじめられ男子の描写は、どんなグロシーンよりもエグいよ。『エルフェンリート』なんか目じゃない←いや、第一話しか見てないけど。

・つうか前にあれ(『時かけ』)を見た時、どう考えても設定に無理があるよね、と思ったの覚えている。SFとしては致命的な。でも何に無理があったのかは覚えていない。まあそんなことはどうでもいいんだろうけど、アレは。

・昔は学校が舞台になっているものを見るだけで辛かった。それが大丈夫になったのは、完全に「社会復帰(本当は社会的失敗も社会の一部なんだけどね)」を諦めて自分の死と対峙しなければならないようになってから。要するに、そっち側の世界の方がより身近になり、学校のある世界を「向こう側の世界」としてしか認識出来ないようになってからようやくその呪縛から解き放たれた。逆に言えば、そうでもないとそこからは逃れられなかった。

・つまり「時をかける少年少女達(或いはピーターパン的なそれ)」の裏には、そこ(学校生活)で一生癒えることのないダメージを背負わされた者達が多数存在しているということ。

・そしてそういう者達は、「ほろ苦い青春」というものを手に入れる一生に一度のチャンスを逃し、その代わりに「暗黒時代」を獲得する。その後幾ら人生が好転しようと、もう二度それ(青春時代)は手に入らない。

・だからあれを「鬱アニメ」として受け取る人が結構いるのね。獲得してしまったそれを思い起こさせるから。或いは二度と取り返しが付かないことを再確認させられるから。自分があれを見たのはもうそれを「向こう側の世界」としてしか感じられなくなっていた後なので、特にそれが「鬱アニメ」として機能することはなかったけど。

・自分は何度生まれ直しても同じ結果になる自信がある。なんせ、物心ついた時から既に色々とつまずいていたし。つまずきながら生まれて来たみたいなもんだ。そして周りに合わせようとすればするほど駄目になっていった。でもその時はそれが唯一の選択肢だと思っていた。だから「もしあの時ああしていれば…」とか、そういう夢すら見ることが出来ない。

・最近アニメを見ること自体がすごくしんどくなって来た。

・そういやこれって、『サマーウォーズ』の番宣の意味も兼ねて放送されてるんだよな。なんかあの予告を見ただけで反吐が出そうなんだが。いや、内容はよく知らないけど「家族の絆」とか聞いただけで吐きそうになる。マジで。

・家族ってのはさあ、もっと殺るか殺られるかの関係だったり、幾ら切り離したくても切り離せない呪いみたいなものだったり、或いは、お互いがお互いを道具として利用し合っているということを無理にでも意識することによって、それで初めてお互いを許し合えるようになるような、そういう抜き差しならない関係のことなんだよ。

・「家族の絆」とかに夢見ることが出来る人間は、それを包むオブラートを獲得していたお陰でその苦味を知らずに済んだんだろうけど、そのオブラートまでスイーツ加工するのはどうかと。いや、別にそうしてもいいんだけどさ。少なくともそのオブラートすら獲得出来なかった人間が他に沢山いるという認識くらいは持っていてくれよと。「家族の絆」とか「家族愛」とか言ってる連中は本当にそういうことに無自覚で無神経だから。

・それで「それを獲得出来なかったのはその人間の精神が未熟だったことに起因する」みたいなエハラー的世界観を押し付けてきたりするんだよな。

・まあ「家族の絆」とか「家族愛」に心酔することが出来る人間は、(その一部を形作っている)自分自身に心酔することが出来る人間だけだということです。いや、それはそれでいいんだけど、勝手に自己完結してね、と。

・もしノリピーが単騎であの逃亡劇を繰り広げたのだとすれば、幻滅よりもむしろ関心の方が上回る。ただ、実際には何らかの組織的配慮やアドバイスを受けてのものなんだろうな。

・それにしても相変わらずなんて常識的な悪魔なんだ。>デーモン小暮閣下の地獄のWEB ROCK: Aug.10.DC11:これまで余りどこでも

・というか、規範的であるからこそ「悪魔」でいることを許されているというのはあるな。

・一応書いておくと、別に自分は特別『時かけ』が嫌いというわけではない。自分が本当に腹が立つのは精神論プロパガンダ的なアニメ。って、それって日本のアニメ全般に言えることじゃないか。だからもう少し限定すると、よりそれを現実と地続きであるかのように描いているアニメと言った方がいいかな。

道徳について、他

・道徳から自由(非道徳的)な人間ほど他人により厳しい道徳的規律を要求する。これは必然的結果。

・何故なら、道徳を気に掛ける人間は他人にそれを要求する時、その要求を自分自身が貫徹出来るかどうかをどうしても気に掛けてしまうからだ。勿論、本当に道徳を遵守してしまうような人間は生き残ることが出来ないから、人はそれを誤魔化して生きていく。しかしその気兼ねが他人に対する要求のブレーキになる。道徳から自由な人間はそのブレーキが弱いから、他人により強い縛りを要求することが出来る。

・いやむしろ、人は他人に強い道徳的規律を要求する時、より道徳から自由(非道徳的)になっていると言った方が適切かもしれないな。

・浜崎あゆみ『Rule』より~「だって全ては偶然じゃなく必然なんだってことをあの日の君に教えられたから」/あの日とは『オーラの泉』収録日のことで、君とは江原啓之のことですね。

・底辺の人間が「生きさせろ」とか言っているうちはまだいい。それは他人のことを自分の生死以上に配慮してしまうようなやわな人間が底辺に落ちているだけでしかないからだ。それが「俺は生きる」と言い切ることが出来るような人間が底辺に落ち始めてから、或いは底辺に落ちた人間が『もののけ姫』のキャッチフレーズ――生きろ――的な覚醒をしてからが本当の地獄だ。

・軽々しく「生きろ」とか言ってる奴は、その恐ろしさ、それが意味する本当のところを知らないからこそそれを口に出来る。これは「死ね」に関しても同じなのだが。何故なら、それが彼らを目覚めさせてしまうかもしれないからだ。

・そこではもはや道徳的呪縛を利用した自殺という間引きシステムは機能しない。これまで自殺していた奴らが一斉に生き延びることを第一義的に考えて行動するようになる。さて、日本でそれが実現した時、果たしてどのような状況が形成されるかな。

・生きるのに権利なんか必要ないだろう。何故そんな根源的なことにいちいち権利があるかないかのお伺いを立てなきゃならないんだ?生き残りたきゃ何をしてでも生き残ればいい。インかアウトかというのは要するに、「殺しても(自由を)奪い取る」をシステムに代行してもらうか自分の手で直接それを行うかだけの違いでしかないわけだし。そしてそれはシステムに上手く媚びて取り入るか、真っ向からそれに戦いを挑むかの違いでもある。

・いや勿論、本当に真っ向から勝負を挑んだらまず勝ち目はないが。だからそれは必然的にゲリラ的なものとなる。あと、アウトといっても暴力団とかは結局傍系システムに媚びて取り入っているわけで。

・しかし不思議なことに、日本ではそれらに媚びて取り入ることを「戦う」と言い、逆にそれらに対して距離を取ったり、真っ向から戦いを挑むことを「逃げる」と言う。まあそれは実質的状況を言い表しているのではなく、宗教的階級を言い表したものだということは知ってるけどさ。それにしても全く妙に思える。

・その「他者」とはもしかしてあなた自身のことなのではないでしょうか?>「他者を尊重しなさい」

・イングヴェイがうちの居候になった夢を見た。因みに、その夢では大災害(もしくは戦争?)が起きて知り合いが家族の心配をしていたので、軽々しく「きっとみんな無事だよ」と言ったら、後でその地域が完全に壊滅していたことが分かり、すごく罪悪感を覚えた。

一人ツイッター

・ツイッターのつぶやき形式だけ戴いた。理念を殺し、形式だけを剥ぎ取って利用する。これぞ日本の伝統文化。そしてそういう伝統を持っていることこそが日本の強みであり弱みでもある。

・そもそもまともな文章なんて書けもしないのに、無理に文章として仕上げようとすること自体に無理があったんだな。普通の記事でも使えそうだ、この形式は。

・Orbの『Orbvs Terrarvm』が¥250で売ってた。1枚組みの方だけど。

・俺も「ちょっと優しくされただけで誰にでもなびいちゃう惚れっぽいメンヘル処女」に目を付けられてみたいもんだよ。いや、みたかったと言った方がいいか。今じゃなく若い頃にね。正直今はもうそれどころじゃない。というか、そもそも人に優しくしたことなんてなかったわ。

・しかし迂闊にこういうことを言うと「処女厨乙!」とか言われそうだ。一応言っておくと、上のはとあるアニメに出てきたセリフです。

・おまわりがそこらじゅうをウロウロしていて非常にウザい。この前も職質されちまったよ。「お仕事のお帰りですか」だって。「いいえ違います」と正直に言っておいた。

・自分の場合、高校生の時、嘘みたいに踏ん反り返った昔の西部劇に出てきそうな悪徳保安官さながらの態度の悪さを持つ警官に職質されて以来、警察に対するイメージが一気に悪くなった。

・そうか、笑点って今は歌丸さんが司会をやってるのね。そういえば、『ドラえもん』も声優が変わってから一度も見てないや。

・『リミット』の最終回を見逃してしまった。これは痛い。

・日本人がオシャレをする主な理由→みんながしてるから。オシャレしないと差別されるから。或いは誰かを蔑み、嫌がらせをするための口実を手に入れることが出来るから。

・『天地人』の「愛の兜」は、小泉改革の時にホリエモンが着ていた「改革Tシャツ」にある意味似ている。

・『N響アワー』での西村朗の語りが中々軽妙でいい感じ。因みに、『スピリチュアル名曲論』発売記念として、全11回のレクチャー映像が配信されている。なんと太っ腹な。

他人のせいにするな!※ただし俺を除く

「他人のせいにするな!」というセリフは、要するにそのセリフを向ける対象に対して「お前のせいだ!」と言っているわけだろう。本当に「他人のせいにしてはいけない」と思っている人間の口からそんなセリフが出てくるはずもない。つまり、あの定番フレーズが意味する本当のところは、「他人のせいにするな!※ただし俺の除く」であるということ。

追記:


「他人のせいにするな!」というセリフにも様々な使われ方がある。例えば、相手の主張に瑕疵があることを述べる前の枕詞言葉的なものとしてそれが用いられることもある。この記事で指摘しているのはそういったものではなく、あくまでそれを他人に社会規範として要求するような使い方をする場合に於ける「他人のせいにするな!」に限る。

一人ツイッター

・好きな言葉「心頭滅却して焼け死ね」

・「孤高の一人ツイッター」/取り敢えずハミってる奴は頭に「孤高の」とか付けとけば何となくそれっぽい雰囲気をかもし出せる。

・性的行為や欲求を嫌悪するのは、人間はただの動物じゃないと思いたいからなんだろうな。人間には理性によって感覚を律する能力がある、みたいに。もう少し言えば、そういった幻想を抱く理性勝ちな意識が内面でよりはっきりとした形で分化された状態になっている。

・「ええい、控えい、控えい!ここにいらっしゃるこの私をどなたと心得る!恐れ多くも“庶民感覚”の代弁者様であらせられるぞ」/結局“民”とか“庶民感覚”って、多数派である自分自身のことなんだよな。共有イメージとして神聖化されたそれらを一旦経由することで自己愛をロンダリングし、自意識的に無垢なまま自己を肯定をしようとする卑怯なナルシズム手法に辟易。

・そろそろ『Let It Be』をラリピーに置き換えたものが出回りそうな予感。というか、出てくる情報出てくる情報がいちいち今まで作られていたイメージと間逆のものばかりで呆れ果てるわけだが。しかし芸能リポーターとか絶対知ってたでしょ、こういった情報。今までそれをひた隠しにしながら虚構のイメージを作り続けてきたわけか。まあイメージ偽装はどの個人、企業でもやってるけどね。ただ余りに極端というか。

子育て成功/失敗の分水嶺

子供が「生まれて来て良かった」と思うことが出来たら子育て成功。幾らその者が破廉恥事件で捕まろうと、殺人鬼になろうと、人類の歴史的汚点としてその名を残すことになろうと、その者が本当に心から「生まれて来て良かった」と思うことが出来たならば子育ては成功。その親は胸を張って良い。こと子育てという分野に関しては。

逆に、子供が「生まれて来て良かった」と思うことが出来なかったら子育て失敗。例えその者がどれほど華々しい経歴を手に入れようと、如何に周りから祝福された人生を送ろうと、その者自身が「生まれて来て良かった」と思うことが出来なければ子育ては失敗。断じて失敗。
----------------------------

社会的評価は子育て成功/失敗の根本的な判断材料にはならない。何故なら、所詮人は自分以外の誰かが幾ら悩もうが苦しもうが生きようが死のうがそんなことは大してなんとも思っていないからだ(そもそも、殆どの人間のそれを知りもしない)。

いや、それを大したことのように思えたとしても、それはその者の一部として内部に作り出された他者像の苦しみや生死が引き起こす自分の感覚を気にしているだけであって、純然たる他人のそれを気にしているわけではない※1。或いは、自分の人生にとって役立つ道具として、自分の世界観を補強(布教)するための、感情的満足を得るための材料としてその誰かを気にしてるだけだ。もしくは、己にとって邪魔な存在として如何に自分に影響を及ぼしているか、ということでその誰かを気にしているだけだ。

所詮人はそのような形でしか他人を評価出来ない。しかも世界は、「自分にとって」を「社会(世間・みんな)にとって」に置き換えることで己の主張の正当性を印象付けようと(そう思い込もうと)するインチキ野郎で溢れかえっている。そもそも、他人の感覚や経験を知ることすら出来ないのに、つまり評価下すのに必要最低限の前提情報を得ることすら出来ないのに、(評価する側の都合に依存しない)正当な評価なんて下せるはずもないだろう。だからそんな他人がどう思っているかなんて、世間がその者に対してどのような評価を下しているかなんて、そんなものは全く成功/失敗の判断材料にはならない。勿論、傾向的に言って高い社会的評価を獲得した者ほど「生まれて来て良かった」と思うことが出来る確立は高まるだろう。しかし、それは成否を判断するための根本的な判断材料にはならないということだ。

それでももしそれによってその成否を判断しようとするなら、それはその者が如何に他人にとって都合のよい人間であるかを判断しているだけでしかない。或いは、その者が如何に親にとって都合の良い子供であったかどうかを判断しているだけに過ぎない。

――ただ誤解のないように一応付け加えて置くと、別に成功した者の判断や行動が正しくて、失敗した者のそれらが間違っていたとかそういうことを言っているわけではない。誰も物事の因果を知ることは出来ないし、最善と思われる方向に最大限の労力を払い続けた結果が最悪の事態を招いたりするのが現実なので。



※1 他人に対する虚偽の情報を与えられてもそれを本当のことと認識し得る。また、虚偽の情報を事実として認識することによって作り出された感情、感覚自体は嘘ではない。

「モノリス」では力不足

今世紀最大の科学ミステリー? 火星で見つかった「モノリス」 - Technobahn

う~ん、確かに人工物に見えなくもない。でも、もしこれが本当に人工物であり、それが人類の行く末に未だかつて無かったほど大きな変化をもたらすことになったとしても、自分の人生には何ら関係ないし、何ら救いを見出すことも出来ないなあ。何故なら、例えコレが前に進むことを加速させる力を持っていたとしても、起こってしまったことを起こらなかったことにすることまでは出来ないだろうから。それよりも、どこか近場でビッグバンでも起こらないかなー。

心情クイズ

(問題) 今の私の気持ちにより相応しいセリフを、次の二つのうちから選びなさい。
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(回答)
A:地球に生まれてよかった~!

B:何故生まれてこなければならなかったんだ…


 FirefoxでNoscriptを入れてる人は、「icio.us」と「delicious.com」を許可しないと多分意味が分からないと思う。

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悪意が原動力

たまに正論みたいなことを言って非常に嘘臭くなるこのブログですが、基本的には悪意(怒り)が原動力となってそれが運営されています。
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ですから、どんなに奇麗事を言っているようでも、それは所詮悪意から生み出された言葉でしかありません。其々の記事は、その悪意がどのような形に変換されて吐き出されているか、という悪意のバリエーションでしかないのです。故に、何も悪意が湧いてこなかったり怒り疲れたりしたら更新出来なくなります。

多分自分がまだ生き続けているのも、その悪意の力が残っているからこそ。悪意こそが自分の命を支えている。それすら枯渇してしまった時、それが自分の死ぬべき時なのだろう。勿論、周りの環境との兼ね合いもあるけど。

「マスゴミ」VS「ネトゴミ」は不毛

マスコミを一括りにしてマスゴミと言うのなら、ネットを一括りにしてネトゴミと言われても仕方がない。しかも、大手・古参メディアの駄目なところばかりをかき集めたものとネットの駄目なところばかりをかき集めたものを比べてみた時、どう考えてもネトゴミの方がマスゴミよりも分が悪い。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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