ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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世界の中心で、お前の感覚は異常と叫ぶ~それはセカイ系の症状です

サマーウォーズ見たら死にたくなった<わざわざ見なきゃいいのに。予告編からしてそういうオーラが出まくってるんだから。多分、オタクの教養的義務感から見たんだろうけど。

青春モノのアニメにこういう反応が出てくるのはもはや定番となった感がある。そして同じように、この手の話題が巻き起こると、そういう反応を示す者を異常者扱いする人間が必ず出てきたりするのもまた定番。「虚構と現実の区別が付かなくなっている」などとして。多分そういう人達は、自分の感覚こそが世界の普遍の中心だと信じきっているのだろう。で、その感覚から外れるのは認知の「歪み」、或いは「病」故であると。

「正常な感覚」という枠組み内からその外にいる者に対して「お前らは異常者」と叫ぶ。この「叫び」のどこがおかしいのか。それは、その者がセカイ系の主人公としての立場で他人や物事を見てしまっていることだ。
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人間は一見同じ一つの世界に住んでいるようで、実は皆其々異なった感覚と(そこから生み出される)世界観が支配する別々の世界に住んでいる。勿論似通った部分はあるにしても、それらはあくまで別々のものであり、其々の感覚や世界観が直接交わりあったり共有されたりすることは決してない(故に、共有可能な現実というものは存在しないという言い方も出来る。固有の現実=セカイ)。それらはお互いに外部から刺激し合うのみの関係性しか結べない。

だから誰かが死ぬということは、その唯一無二の感覚や世界観を持った一つの世界が消滅することを意味する。そしてその消滅する世界の住人からすれば、自分の世界と同時にその他全ての世界が消滅することにもなる(勿論「広大な宇宙」も。故に「広大な宇宙に比べれば人間の悩みなんてちっぽけなもの」というのは錯覚を利用した精神安定剤)。これがいわゆるセカイ系物語で自分の身近な状況がそのまま世界の滅亡や救済へと繋がってしまう所以だ。だが一方で、どこかの誰かが死ぬことは、その当人からすれば「世界の終わり」であるが、周りから見れば数多ある世界の内の一つが消滅しただけに過ぎない。それは所詮「世界に一つだけの花」が散った程度のものでしかないのだ。

ところが人間は、自分の感覚を通してしか他人の世界を覗くことは出来ない。他の世界へと踏み込んでその内容を知ることは出来ない。だから自分の世界が持つ感覚や世界観を、この世に存在する唯一絶対の真理であるかのように錯覚してしまい勝ちだ。そしてその本来限定的であるはずの真理を他人(他の世界の住人)の背後に敷き詰め、自分の感覚や世界観でそのあらましを解釈し、規定してしまう。だからこそ「本来あるべき正しい感覚」と「そうでない異常な感覚」という傲慢――これはつまり感覚否定であり、それは他の世界の存在自体を否定することにもなる――な分類をすることが可能になり、他人に向かって「お前の感覚は異常」と叫ぶことが出来る。

しかしながら、本来数多ある内の一つでしかない「自分の世界」が持つ限定真理を絶対的な基準とし、それで他の世界を勝手に解釈・規定してしまうということは、元々別々の世界に住んでいるはずの他人を「自分の世界」の登場人物として取り込んでしまうということでもある。つまりその「叫び」を行う時、その者は完全にセカイ系の主人公になりきってしまっているのだ。逆に言えば、その時その主体に捉えられた他人は、「二次元美少女」などと同じレイヤーにしか存在していない。だがそれをその主体は他の世界の住人と同一の存在であるかのように混同してしまっている。

実際、この区別を絶えず意識し続けるというのは中々難しい問題だ。要するに、セカイ系は(一般的意味としての)創作物の中だけに留まる現象ではなく、リアルでも多くの人間に発症し勝ちなごく一般的な症状なのだ。というか、自然体でいれば基本的に人間はセカイ系の症状を発症し続けることだろう。それ故、セカイ系を発症した者が限定真理を根拠にして創作物上のセカイ系を批判するという倒錯を目にすることも珍しくない。セカイ系というのはそれだけ誰にでも身近で根深い問題なのだ。

 *<セカイは拡張される>*

上では創作物の前に「一般的意味としての」と付けた。これは個々人が持つ条理性自体もまたある種の創作物とも取れるからだ。そしてその創作物、つまり条理(限定真理)の生成こそが宗教の根本だと自分は思っている。ただこれは一般的意味としての創作物とは決定的に異なっている部分がある。それは自分の思いだけで自由にその内容を決定することが出来ないということだ。

一般的意味としての創作物では、いかなる荒唐無稽な設定やストーリーでも自分の思う通りに形成することが出来る(勿論、その者の能力に応じてだが)。ところが、条理の生成(認識)は自分の思う通りに…とはいかない。幾らこうであって欲しいという世界観を思い浮かべ、それを信じきろうとしたところで、それはその者が獲得した感覚や経験、環境との関わり合いによって自ずと内容が決定されてしまう。

はじき出された世界観と自分の感覚が希求する世界観が一致しないことによって生み出される苛立ち、苦痛。かといって、自分の持つ個人的因子と環境的因子という制限を超えて自分で自分の認識を自由にコントロールすることも出来ない。例えば周りが燃えていれば、心頭滅却して認識をコントロールしようとしても熱いものはやはり熱いし、それを我慢し続ければ焼け死ぬだけだろう。内面で出来る苦痛の解消法は限られている。では人間がそのような齟齬に直面した時、どのようにしてそれ解消しようとするのか。答えは簡単。周りの火を消そうとする、つまり、先ずその主体の外部へと世界観を拡張し、外的因子を変化させることによってその齟齬を解消しようとするわけだ。

例えばこの記事がここに書き付けられているように、はたまた精神論者が世界の因果を努力で解釈すべきであると主張したりするように、或いはリンチや体罰のように、もっと具体的な暴力を伴った形でその拡張が行われる場合もあるだろう。このような拡張行為は、ある種の布教活動とも言える。人間は自分の認識を自分自身では変えられないからこそ布教するのだ(ただし、人は必ずしもその布教が功を奏するから拡張行為をしているとは限らない。例えば自分は単純に嘔吐によるカタルシスを得るためにこのブログをやっている)。そしてそうやってなされる其々の世界観の拡張が個人の外部へと蓄積されていくことで、文化やシステム、形式的(つまり一般的に言われるところの)宗教が形作られていく。

これは人間の歴史そのものにも言えることだろう。人間はこの齟齬を内面だけで解消することには我慢出来なかった。そして人一人に出来ることは限られている。だから人間は道具を作り、自然に手を加え、道徳や常識、システムを作って他人をコントロールすることで、元々内面にしか存在しなかった世界観を実現させていった。勿論、人間と自然という条件が持つ範囲内でだが。だがこれは逆に、そうやって積み重ねられた拡張としての環境的因子に個人の世界観が規定されてしまうということでもある。

 ***

話を再び冒頭の話題に戻すと、フィクションを見て自己嫌悪に陥る人間が虚構と現実の区別が付かなくなった異常者だとすれば、フィクションを見て爽快感や充足感を得た人間もまた虚構と現実の区別が付かなくなった異常者ということになるはずだろう。ところが何故か後者の方は異常であるとは言われない。では何故こういった破綻した理屈が世間にすんなりと受け入れられるのかと言えば、それはその拡張行為によって蓄積された文化がそれをあたかも筋の通った理屈であるかのように思わせる手助けをしているからだ。そしてそれにより、前者もまた「はいはい、私は異常者ですよ」といったようにその破綻した理屈を受け入れてしまうようになる。

だが感覚の在り方に正誤などあるはずもない。勿論何らかの状況に対し、拡張によって形成された人工的システムによってそのシステム上での正誤の判断を下すことは出来る。しかし、其々が持つ感覚はどれ一つとして同じものは存在せず、それらは決して均一化されるものではないというのは人間という存在自体が元々兼ね備えている前提条件であり、その在り方の部分にまでその人工的システムが正誤の判断を下すことは出来ないはずだ。いや出来ることは出来るが、それをするためには前述したようにその者がセカイ系の主人公になりきらなければならない。

――例えば発達障害などといわれる人達がいるが、その人達も異なった文化を持つ他の場所に行けばそうは判定されないかもしれない。或いはそう判定されるような一定の傾向を持つような者達の群れの中に一般的傾向を持つ者が一人放り込まれれば、そこでは逆にその者の方が異常者扱いされ、何か特別な呼び名で呼ばれるようになるかもしれない。だが、今の環境で一般的傾向を持つとされる者は、そのような扱いに納得しないのではないか。

つまり、どのような社会でもある事柄に対して其々がどのような反応を示すかということにはある程度の傾向や偏りが出てくる。だがその多寡は決してその在り方自体の正誤を表しているものではないということだ。しかし人々の持つセカイ系的欲求が、その拡張としてのセカイ系文化がそれを見誤らせる。そして実際、それに抗うのはとても難しいことだったりする。だからこそセカイ系の猛威が吹き荒れ、今も全く治まりそうにもないという、そういうお話でした。

まあこれはセカイ系といっても序の口で、この後ろには、平等に与えられた精神の力を其々が如何に上手く引き出せたか、引き出せなかったかで個々人の人生や世界のあらましが決定されているというもっと“らしい”思想が控えているのだが。
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ここ数日の課題

「精神論を憎んでイチローを憎まず」

場所によって問題化の仕方は異なってくる

ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判(時事ドットコム)

 【ロンドン時事】進化論を確立した英博物学者チャールズ・ダーウィンを描いた映画「クリエーション」が、米国での上映を見送られる公算となった。複数の配給会社が、進化論への批判の強さを理由に配給を拒否したため。12日付の英紙フィナンシャル・タイムズが伝えた。
 映画は、ダーウィンが著書「種の起源」を記すに当たり、キリスト教信仰と科学のはざまで苦悩する姿を描く内容。英国を皮切りに世界各国で上映される予定で、今年のトロント映画祭にも出品された。
 しかし、米配給会社は「米国民にとって矛盾が多過ぎる」と配給を拒否した。米国人の多くが「神が人間を創造した」とするキリスト教の教義を固く信じている。ある調査では、米国で進化論を信じるのは39%にすぎず、ダーウィンにも「人種差別主義者」との批判があるという。

この話題がkizasi.jpの「今日の注目の話題ランキング」で一位になっていたので、それらのブログをざっと見てみると、まるで鬼の首でも取ったかのようにアメリカをボロクソに言っているようなものが殆どだった。しかしながら、日本人で進化論(有力な学説)を熟知…とまではいかなくとも、それを正しく理解をしている人なんてかなり少数派なんじゃないか?そういう人達の割合は39%なんて遥かに下回るはずだ。にもかかわらず、それを信じていないという者をバカにするというのは、結局ただ科学というブランドを信仰しているだけなのではないか。
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恐らく日本で進化論を信じているという人の中には、それを根本的に誤った形で捉えている人も多いように思う。例えば進化を劣なるものから優なるものへと移行していくことであると捉えていたり、それは努力(個の意思)によってもたらされる(キリンは高いところの葉っぱを食べようとして首が伸びたみたいなアレ)ものであると思っていたり、或いはそこに何か目的があると思っていたりとか。だがこういった考え方は、進化論というよりはただの精神論だ。実際、「この世の中は弱肉強食。だから弱いものは滅んで当然。生き残りたければ努力して進化しろ!」みたいに精神論の裏づけとして進化論(科学)が持ち出されることも多い。

多くの者が進化論を信じないアメリカと、多くの者がそれを誤った形で捉え、信じている日本。

アメリカで進化論を信じない人が多いのは、それが社会規範(常識)の形成に大きな影響力を持つキリスト教的秩序と相容れない部分があるからだろう。そして日本では、その形成に精神論的世界観が大きな影響力を持ち、それゆえ進化論もまた精神論的に都合よく歪曲され、誤った形で広く普及する。世界をキリスト教的解釈で捉えるのが一般的なアメリカと、精神論的解釈で捉えるのが一般的な日本。そしてその解釈に違う意見は排斥され易くなる。

日本で進化論を信じていないことをバカにするのは容易い。何故なら社会規範的な後ろ盾があるからだ。しかしアメリカでは逆にそれが立ちはだかる。事柄によってはこの状況が逆転することになるだろう。つまり表面化の仕方が異なっているだけで、其々同じような問題を抱えているということだ。少なくとも、そういった規範故に生み出される状況を、その影響を受けずにいられる場所から一方的にバカするのはフェアではない。そうではなく、其々の場所でそのような問題がどのような形で表れているか、ということを見るべきだろう。そうやって見た時、他の集団でのそれをバカにするのは難しくなる。何故なら、自分自身もまた違う形で同じような問題を抱えているということに気づくだろうからだ。

「www」を禁止ワードに設定

久しぶりに認証をすり抜けたスパムが来た。多分前にすり抜けて来たのと同じ業者。

しかし、スパムってのは何故あんなにバカっぽい文体と内容のものばかりで、その装いが一向に改善されないんだろう。振込み詐欺なんかは頑張ってどんどん進化しているというのに。本当にリンクをクリックさせたり被リンク数を確保したいのであれば、もっとそれらしい内容にすればいいのに…と思うのだが。まあ、こちらとすれば一目でそれと分かる今のままの仕様の方が有難いのだが。

どうも草(w)を生やすのがスパムによくある特徴のようなので、「www」を禁止ワードに設定した。まあ同じ業者の手によるものだから、ということもあるかもしれないが、かなりの確立でスパムは草を生やしてくる。「ww」や「http」を禁止にすればさらに多くのスパムを弾けるようになるかもしれないが、今のところそれほど頻繁にスパムが来るわけでもないので取り敢えず様子見。

強烈な自己肯定と万能感は現代社会を生き抜くための必須能力

44. 「わかる」とは、因果関係をでっち上げることである。(前)“「根性が足りないから、雨が降らない」ということになるのである”<世界柔道で男子が金メダルを取れなかったことについて、“技術はほぼ互角だったが『絶対に金メダルを取る』という気持ちが欠けていた”と、いうようなコメントを篠原監督はしているようだが、(状況は少し違うが)このコメントもこの例に近いものがあるんじゃないだろうか。

しかしこういう言い方をしてしまうと、芳しい結果が出なかったのは個人の意志の持ちように問題があったから、ということになってしまう。精神論というのは、誰かが良い結果を出せなかった時、人格(≒意思)批判にならざるを得ないのだ。

だからそういう類のことをいうならば、こういうべきだろう。「モチベーションを上手く保つことが出来なかった」と。モチベーションというのは、必ずしも努力(意思)で獲得出来るものではないしね(努力の前に努力する動機が必要になる。じゃあその動機はどうやって獲得するの?)。それならば人格批判を意味するコメントにはならないだろう。
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ところで、「勝とうという思いが弱かったから」というのは、日本のスポーツ選手が良い結果を出せなかった時に放つ定番コメントだ。しかしこれは、その結果を招いた具体的な問題点を洗い出そうとする「意志が弱い」とも言える。その上、このコメントは(日本では)多くの者が納得し易く無難なため、どのような場面でもオールマイティに使うことが出来る。これ一つ覚えておけば、いちいちその都度頭を働かせて新しいコメントを考える必要もないわけだ。

つまりこのコメントは、思考の省エネや危険回避(下手なコメントをすればバッシングされかねない)として機能している。だがこれは精神論的に言い換えれば、考える努力を放棄し、危険に立ち向かうことなく逃げ去ろうとする行為でもあるだろう。ところが、何故かこの「怠惰」と「逃亡」は精神論者からウケがいいという。

 ***

それにしても、「お前(個人の意思)が本気を出さなかったから(世界はこうなった)」という考え方は、根本的には「俺(個人の意思)が本気を出せば(世界は変わる)思想」と同一のものなのにもかかわらず、前者の物言いが多くの者に支持される一方、後者だけがやたらと馬鹿にされたりするというのは、全く整合性のない極めて不公正な反応ではないか。

さらに言えば、後者でも言い方のニュアンスを変えることによってその反応は全く違ったものになる。例えば、「俺の努力が足りなかったからこの程度の結果に終わってしまった」と言えば好意的な反応を得ることが出来るかもしれないが、「俺が本気を出さないからこの程度の現状に甘んじている」と言えば、非難轟々だろう。

まあこれは、人は案外話の内容よりも態度(コミュニケーション)の方にこそ重きを置いている、というだけの話なのかもしれないが、どうも釈然としない。何が釈然としないかと言えば、一つには上記したような成功者(或いは努力信仰による成功の可能性を信じている者)だけにとって都合の良い一貫性の無い精神論的思想がその裏にあり、それを押し付けてくるように思うからだろう。そしてもう一つは、このニュアンスによる反応の違い――非難――は、他者の自己肯定や万能感に対する道徳的鉄槌から来ているように思うからだ。

強い自己肯定能力を獲得することが出来ない人間は、物事が上手くいかなかった時、分裂した自己によって道徳的自傷が行われ、それが続けばメンヘルにならざるを得ない。また、自己を忌まわしい存在だと思うようになってしまえば、他人と関わることに道徳的な後ろめたさを感じるようになり、そうなればコミュニケーション原理主義のこの社会で問題のない生活を維持し続けることは極めて困難になることだろう。

さらに、万能感――本来不可知なはずの未来に於いて、自身の行動が世界を変更せしめ、良い結果を招きよせることが出来ると信じることが出来る力――を完全に失ってしまった者は、もうそれ以上動きを取ることが出来なくなってしまう(それが良い結果に繋がると少しでも信じることが出来るからこそ動き出すことが出来る。勿論、結果がどうであろうと動き出さずにはいられない衝動というものもあるし、自ら終焉へと向かって突っ走る者もいるが)。

つまり、強烈な自己肯定(道徳からの逸脱、整合性の放棄)や万能感というのは現代社会を生き抜くための必須能力なのだ。ところが、「俺の努力が足りなかったからだ」というコメントを称揚する一方、「俺が本気をだせば…」というコメントを蔑む人間は、メンヘル(無条件に自己の存在を肯定出来なくなった者)をも蔑むだろう。あるいは誰かが万能感を持っていることを嘲笑うだろう。

要するに、自らは強烈な自己肯定と万能感を獲得し、それを維持し続けることによって「普通」や「正常」を獲得した者が、他者が持つそれを否定し、それらが悪であると思い込ませるような道徳の種を相手に植え付けようとする過程で出てくる態度なのだ、その反応の違いは。だから釈然としないし、腹立たしい。

視点を変えて見れば…

竹原慎二 「ニートは社会のためにそのまま引きこもっとけ」:【2ch】ニュー速VIPブログ(`・ω・´)

どうせいつものパターンが繰り返されているだけだろうし、精神衛生上よくないのでちゃんと読まず(一番上だけ見て)コメントするが、竹原慎二に与えられた能力でこの相談に対して適切なアドバイスを返すことは、ニートが就職することの困難さに匹敵するくらいの難易度を持っていると思うんだよ。

さて、では竹原慎二がこの相談に対してまともな回答を返すことが出来るようになるためには一体どうすればいいのか。それを考えることこそが、ニート/ひきこもり問題を考える一つのヒントになると思う。これは冗談じゃなくてマジな話ね。

というか、相談に応えようとしてすらいないじゃないか、これ。戦意喪失という意味でも同じだな、この両者は。それ以前に、相談者が何故わざわざ彼に相談しようと思ったのか、というのも謎だけど。

「ピンク・パンファー」のささやかなる希望、他

・一応今回も投票には行ったけど、やっぱり選挙ってのは未来ある者のための祭典だよなあと改めて思った。もはや希望を獲得する可能性すら失った自分からすれば、周りが盛り上がれば盛り上がるほどますます気分が盛り下がるよ。ああ、この人達は自分と違って希望ある世界に住んでいるんだなあと>投票率69.28%=小選挙区制で過去最高-総務省発表

・自分にとっての未来はもう既に終わっている。終わっていないのは過去だけだ。この現在は、終わってしまった過去の残り火でしかない。単に死ぬ勇気がないから生きているだけ。だから自分が未来について話す時、実は過去についての話をしている。

・希望を失った者は、それをまだ失っていなかった、或いはまだそれを獲得出来たかもしれない過去にしか目を向けることが出来ない。前を向くことが出来るのは、希望を獲得する可能性が残されている者だけだ。

・未来について考えることが残っているとすれば、後は死に方について考えることくらいか。逆に言えば、自分にとっての未来とはそのことでしかない。

・殆どの者にとって選挙なんてものは数多ある希望のうちの一つでしかないだろう。だから他に依存する希望の当てがあれば、選挙なんかに希望を抱く必要がない人もいる。しかし逆に、選挙にしか希望を抱けない人もいるみたいだ。自分はこれを「努力は報われない」という話として読んだ>ネトウヨ大憤死の巻

・“俺があれだけポスティング頑張ったのに”<多分アレのことなんだろうな。なんか選挙前に「知ってドッキリ民主党 これが本性だ!!民主党には秘密の計画がある!!民主党にだまされるな!」と題されたピンク色の怪しげな小冊子がポストに入っていて、ページを開いて見てみたら書いてある内容は殆ど怪文書。「何事?」と思いつつ冊子の裏を見たら、自民党発行のパンフレットだったという…。まさに断末魔という感じだった。

・“あんな売国は親でもなんでもない もうぐちゃぐちゃ”<「家族の絆」を破綻させ殺伐とさせるのには民主党の力を借りるまでもなかったようだ>“民主党の言う「取り組み」を実現すると、日本の歴史や伝統・文化、調和のとれた地域社会や家族の絆は次々と破綻し、殺伐とした社会を誕生させることになります(ピンクパンフより)”

・で、挙句の果てに応援する自民候補の陣営からも「調和」を乱す“名前質し危険人物扱い”される、と。

・一般常識からすれば、彼の行動自体を肯定する余地はないだろう。しかし、どのような感覚や認識を獲得するのかは、自分の意思で選ぶことは出来ない。そして、人間はそうやって獲得された情報によってしか意思を働かすことが出来ない。それを前提にしてしか努力することは出来ない。つまり、彼にとってこの時点で可能な努力とはこれしかなかったんじゃないかと。

・大抵の者は幾つもの希望(足場)を見出すことで、其々の足場に掛ける体重(努力)を分散している。あるいは一つの足場を失っても、また他の足場を見つければいい。そうやって安定を保っている。

・しかしそれがもし、希望に恵まれることのない者がようやく手に入れることが出来たたった一つの希望だとしたら?何をやっても駄目な自分にも出来ることがあるかもしれない何かをそこに見出したとしたら?そうであれば、その者はそこに全体重を掛けて乗っかるしかないだろう。その者の存在意義をも投入して。それが惨劇を生み出すきっかけとなる。

・要するに、努力とは常にそれだけ大きな危険性を伴ったものでもあるということ。その者自身にとっても、その周りの者にとっても。そういう危険性を加味しない安易な努力信仰は不幸の増幅器。だが、努力信仰は希望製造機でもある。だからそれを捨てられないのであれば、せめてそれを他人に押し付けるのを止めて、自分の胸だけにソッとしまっておいて欲しいものだ。

・なんか「ピンク・パンファー」というフレーズが浮かんだ。それは報われもしない努力に精一杯の力を注ぎ込んでしまうことで、ますますドツボに嵌っていく状態のこと。

・そしてその者が「ピンク・パンファー」にならずに済んでいるのは単に運がいいだけだろう。何故なら、どのような資質と環境を持って生まれ、どのような人物や状況と出会うかということでその者の人生は殆ど決まってしまうからだ。

・ただ、人間は何かが上手くいった時に、それを自分の意思による成果だと認識する傾向がある。だから多くの人間は、己の意思が賢明であるが故に自分は彼のようにならずに済んでいると思うことだろう。だが、それは所詮与えられた認識の問題なんじゃないか、と。

・日曜の深夜に、BSでコンセルトヘボウ管弦楽団ブラス・クインテットの演奏会の模様が放送されていた。凄かった。金管楽器というのは、あんなに繊細であんなに細やかな音を出せるものなんだ。

・オーケストラでの金管は、ブバッ、ブホゥ~、パッパラパーみたいな景気付けばかりが目立ち、そのせいでデリカシーのない楽器というイメージがあったけど、完全に誤解していたようだ。まああの人達が特別上手かったということもあるかもしれないが。

・今時ユリゲラーと援交って馬鹿じゃないの、フジテレビ。

・他人や文化やシステムに対して甘え上手だからこそあんたの生活は成り立っているんじゃないのか>「保釈」押尾学に「甘え」指摘 テリー「ずーとこう」“テリー伊藤は、「押尾はね、ずーっと人に頼って甘ったれてましたよ。保釈金だって払えるわけない。きのうだって、誰かのところへいったんでしょう。ずーっとこうですよ、彼の人生。突っ張ってるんなら、金のある人に頼らない生き方しないと」 ”

・金のある人に頼らないなら、テレビ局の商売なんてなりたたないだろう。

・というか、他人(押尾ら)からのネタ提供ばかりで、尚且つ落ち度のある人間をバッシング対象として視聴者に提供することで注目を集めようとする安易な番組作りばかりしているワイドショーは甘えの権化。

・自分に甘くない奴は三十にもならないうちにサッサと自殺してるだろう(道徳と生存は競合する)。自分に甘い奴だけが生き残ることが出来るのが現代社会。それでも甘えが悪いことだと思うのなら、せめてそういう社会で成功を収めていながら甘えを悪いことであるかのように主張するその欺瞞くらいは捨てて欲しいものだ。

・政権交代と言っても、民主党が自民党になっただけのような気もするな。

・自動販売機みたいなので(外国の)ソフトウェアの権利が買えるようになればいいのにねえ。

・投票に行ったついでに、わざわざ百円払って駅の自転車置き場に自転車を置いて出かけたら、帰って来た時に後輪がパンクしていた。一体なんなんだ。

・しばらく間を置くと、なんか投稿すること自体が億劫になる。

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プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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