ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「個人」という人間資質の出口

『責任という虚構』 - 障害・介助・ベーシックインカム

本書でとられる見方によれば、自由意志や主体性というのは、言って見れば、誰にトラブルの落とし前をつけさせるかを追求し、その責任の所在を明確にするために社会的に要請される、ある種の虚構である。お前がやったことだから、お前が責任をとれ、と恫喝するための虚構である。やってしまったことに対して、本人には明確の理由や意図はなかなか見いだされない。

「ベンジャミン・リベットが行った有名な実験がある。手首を持ち上げるよう被験者に指示する。いつ手首を動かすかは被験者のまったく自由だ。我々の常識ではまず手首を挙げようという意志が起こり、その次に手首を動かすための信号が関係器官に送られ、少ししてから最終的に手首が実際に動く。ところが実験によると、まず手首の運動を起こす指令が脳波に生じてしばらく時間が経過した後で意志が生じ、そのまた少し経ってから手首が実際に動くという不思議な結果になった。<コメント欄より>

責任が虚構というより、「トラブルの原因は特定個人の意志にあるから、その意志の持ち主である個人がその責めを負わなければならない」という責任の根拠が虚構といった方がよさそうだ。そこに原因があるから責任を負わされるのではなく※1、誰かに責任を負わせるための言い訳として自由意志という原因が採用される。だが自由意志というものが存在するかといえば、どうも怪しい。意識はただひたすら起こってくる状況に解釈をつけているだけかもしれない。勿論、意識の感覚に対するフィードバック作用はあるだろうが、かといってそれは行為を制御しているとまでは言えないだろう。とすれば、責任というのは実際のところただの八つ当たりの一種でしかないということになる。

では、影響を原因と言い換えてみた場合どうなるか。つまり、フィードバック作用は行為を制御する力までは持っていないが、その者の行為に影響を与えることは出来る。それを以ってして原因と考える、と。

だが、状況は常に個人的因子が環境的因子と接触して起こる反応の連続性の上に成り立っている。一方だけでその状況が作り出されるわけではない。そして環境的因子は自然環境と社会を構成する其々の個人の相互的な反応の連続性の歴史の上に成り立っている。つまり、影響という観点からみれば、全ての者が人間活動によって生じるあらゆる状況の形成に何らかの影響を与えているということになる(そしてこれは相互的な歴史の積み重ねである以上、誰がより強い影響を持っているか、という単純な考え方は出来ない)。よって、影響が原因であり、その原因を以ってして責めを負う理由とするならば、全ての人間がその責めを負わなければならないことになる。自由意志が無いとするならば、影響を原因と考えてもやはり責任の根拠としての正当性を担保するには無理がありそうだ。

そもそも、自由意志があろうがなかろうが、個人の意思が状況をコントロールすることが出来るという考え自体に既に無理がある。何せその考え方はセカイ系以外のなにものでもないのだから。それに、例えば現代の一般的ルールを全ての人間が全て遵守するなんてことはあり得ないだろう。この場合、そのルールと人間との関係性に於いて、誰かがそこからはみ出ることは予め決まっている。その決定事項を個人の意志が覆すことなど出来るはずもない。要するに誰かがババを引かねばならない。ある状況に於ける被害者も加害者も、そのババを引いただけでしかない。

つまるところ個人というのは、人間が持つ資質の一つの出口でしかないのではないか。そして其々の出口には、解釈役としての意識があてがわれることになる。だが、意識は元々存在し、どの出口を担当するかを自由に選んだわけですらない。原因を作った者が責任を負うのだとしたら、責任を負うべきは出口を作って己を現出させようとする「人間の資質自体」であり、出口とそれにあてがわれた意識はその責任を負うべきではないということになるだろう。

だが、人間の資質という主体に落とし前をつけさせることは出来ない。ならばその資質の出口、或いは出口と思しき場所に落とし前をつけさせようということになる。その結果、運悪くババを引いた出口としての個人及び意識は、その状況を起こした主体と看做され、責任という名の八つ当たりを受け止める役割を引き受けさせられることになる、と。

まあ、元々責任とは発見するものではなく、設定するもの。だからババを引いたものが責任を取ることとする、とすれば偽りは無くなるのだが、それだと体裁が保てないしねえ。

 ***

しかし、こういった自由意志への懐疑という考え方を受け入れることが出来る人間は余りいないだろう。何故なら、多くの人間は自由意志とその意志による状況のコントロール可能性をアイデンティティとしていることだろうから。自由意志が否定されるということは、それまで普通に人間として暮らしていた者が、実は自分がアンドロイドで、己の意思で自由に行動していたと思っていたことは全てただプログラムされた通りの反応を繰り返しているだけだった、ということにある日突然気づいてしまうというのに近いものがあるわけで。それを知って平然としていられる者は余りいないように思う。

そういえば、アメリカでは宗教的理由で進化論が中々受け入れられないという話があったが、自由意志への懐疑はキリスト教的にはどのように受け止められるのだろう。神が人間というアンドロイドを作ったと考えると、必ずしも競合するとは限らない…のか。

一方、個人に平等に与えられた意思の力を上手く引き出せば自身の周りの状況もまた上手くコントロールすることが出来る、という精神論的信仰が非常に強い日本では、ちょうどアメリカで進化論が受け入れられ難いのと同じ理由で、その考え方が広く受け入れられることは先ずないだろう。自由意志への懐疑は、そういった宗教の前提部分を脅かしかねないものなので。


 
※1 自由意志からは少し話がずれるが、裁判などでは、この虚構性が分かり易い形で表れることがある。例えば容疑者が真犯人であるという決定的な証拠が得られなまま争われる殺人事件の裁判。この場合、最終的に有罪の判決が下されようと、それはあくまでその者の犯行であると“看做している”だけであって、必ずしも事件がその者によって起こされたかどうかは分からない。にも拘わらず、被害者側の遺族、或いは不特定多数の第三者がその被告を厳罰に処すことを強く望むというようなことがよくある。裁判に掛けられる前からそういった主張がなされることだって珍しくない。つまりそこでは、先ず感情をぶつけるための対象が求められ、その対象にそれをぶつけるための言い訳として原因が欲せられている、という責任の典型的な性質がくっきりと浮かび上がっている。
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「地方自治体教室化計画」、或いは「みんなCPUにな~れ」


「ネットがあれば政治家いらない」 東浩紀「SNS直接民主制」提案


ネット上では結構賛同意見も多いようだが、これも改革神話の一つのバリエーションなんだろうか。こんなことしたら普通に国全体が2ch化するだけだと思うが。そして民意至上主義により、其々が自由に意見を言い合うことを担保する最低ラインがぶち壊され、独裁政権が生み出されるというお決まりのパターンへ、というのが相場だろう。
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というか直接民主主義というのは、学校の教室や田舎の地域社会など小さなコミュニティでは限定的にではあるがもう既に成立しているだろう(ローカル・ルールが法律よりも重んじられることは珍しくない)。要するにこれは、それらを拡張すること、或いはそこからその限定を取り払うことを意味するのではないか。しかしそんなに素晴らしい場所だっただろうか、あそこは。自分にとっては正にリアル2chみたいな場所に思えたが。リンチが制度として合法化されたりしそうな予感。戸塚シティに長田シティ…考えただけでぞっとする。

あ、そうか。教室や地域社会が素晴らしい場所であったと感じる人間がこれに賛成し、そうでなかった人間が反対しているのかもしれないな。

まあ現代的な社会空間で苦々しい思いをしている人間が、その苦しみや抑圧の原因を作っているのは官僚でも政治家でもなく、また大企業の重役でもなく、実は普通の市民という名の群集(及びそれらが生み出す文化)なんじゃないか、という疑問を持たざるを得なくなるという点では面白いけど。つまり、その場所での苦しみや何かが上手くいかない原因として、「普通の市民」という主体(権力者)がはっきりと浮かび上がり、それが「敵」として認識され易くなる。

だからきっと、加藤智大が起こしたような不特定多数の市民をターゲットにした事件や自殺(「(市民≒その構成員としての自分≒)制度」化された個人のアポトーシス的作用)が増えることになるだろう。

 ***

なんにせよ、これは「政治家いらない」というより、むしろ全員が政治家としての(コミュニケーション)能力を求められると言った方がいいだろう。とはいえ、全ての人間がそういった能力を持っているわけではないので、結局それに対して優位な能力を持つ一部の人間が新しいタイプの「政治家」になるだけにしか思えない。

統率(リーダー)役が要らないシステムを作ろうとしたら、先ず前提として其々に(様々な分野に於ける)最低限の能力的平等が成立していなければならない。だが、そもそもその前提が成立していないことが問題なわけで。

希望の破壊者としての困窮者

 <*死ぬ気になれば何でも出来る?*>

否!死ぬ気になって出来るのは死ぬことだけだ。

…いや、ちょっと言い過ぎかな。死のうとして失敗することもあるので。

だからもう少し説明を付け加えると、仮に「死ぬ気になれば何でも出来る」が本当だとしても、その「何でも」は「死ぬ気になれば(その者が本当に死のうとすること)」が前提である以上、“死ぬための行為なら”という限定つきの「何でも」でしかないということ。つまりそれは「死ぬ気になれば崖から飛び降りることが出来る」とか、「死刑を覚悟すれば沢山人を殺すことが出来る」とか、もっと極端なことを言えば「死ぬ気になれば自殺することが出来る」というようなことを言っているに過ぎない。確かにそれらの行為は普通の人間には到底真似出来ない物凄さを持っている。しかしその凄さは、それ以外のことでは発揮できない凄さなのだ。

そしてもし“死ぬための行為なら”という限定無しで「なんでも出来る」と思えるのなら、その者は少なくともその時点では死ぬ気どころか生きる気満々だろう。何故なら、その者はその「出来る」を向けるための、死というもの以上に大きな目的と情熱を獲得しているからだ(仮にその者が死を覚悟していたとしても、自身が真に望む目的のために死ぬのは生きることに相違ない)。

しかし本当に問題なのは、そういった生の意義が――意識だけでなく感覚的にも――失われ、今一度それを獲得することが出来るという認識すら抱くことが出来なくなっているような状況の方だろう※1。つまりこの言葉は、死ぬ気の無い(或いは生きるために死ぬ)人間には希望になり得ても、本気で死のうと思う人間(または生に意義を見出せなくなった人間)には何の救いにもならない。そもそもこの考えは、上記のような理由で後者の者達は原理的に抱きようがない。

 <*「みんな」の希望を破壊する困窮者*>

「死ぬ気になれば何でも出来る」という慣用句は、懲罰性を伴って用いられる場合が多い。例えば、「死に物狂いになれば何でも出来るはずなのに、それが出来ないのはお前が甘えているからだ。だからその根性を叩き直してやる」とか、「死ぬ気になって頑張れば苦難を脱出するチャンスなんて幾らでもあるはず。それを成しえないのは自ら本気で努力することを拒否してきた証拠。だからそういう人間は幾ら痛い目に遭っても当然の報い。こうやって俺が人生の失敗者であるお前を踏みつけるのも、お前が自分の意思で選択したジコセキニン」といった具合に。

では何故この慣用句は懲罰性を伴い易いのか。何故この出鱈目な慣用句がもっともらしく唱え続けられるのか。

それは多くの死ぬ気が無い者達にとって、「死ぬ気がある」というのは即ち「その者自身が持つ忍耐や努力、工夫、気づきの力――要するに精神力――を最大限に発揮すること」を意味しているからではないか。そしてまた同時に、「其々に与えられた意思の力を最大限に発揮すれば誰でも殆どの困難はどうにかして乗り越えることが出来る」という考え方が、希望や精神安定剤となってその者たちを支えている。

そう考えた時、この慣用句を用いる人間達が困窮者に激怒し、懲罰を下そうとするのはある意味当たり前のこととも言える。何故なら、「死ぬ気がある(≒意思の力を最大限に発揮している)」のにも拘わらず困難を脱出することが出来ない人間がいるとすれば、「意思の力を最大限に発揮すれば…」という希望が否定されることになるからだ。そんな人間は存在してはいけない。

つまりその者が「希望を捨てない」ことを前提とした時、困窮者達は嘘を付いていなくてはならないことになる。本気を出しもせず、余裕があるあるのにも拘わらず、そうでないフリをしていると。或いは、あいつらは死ぬ気もなく、甘ったれたまま死んでいくのだ、と。そんな中で「死ぬ気に(本気に)なっても大したことは出来ない」と主張するような輩がいれば、それはその者達の希望を踏みにじり、コケにする大悪党ということになるだろう。だから精神論的思想が文化やシステムの土台となっている日本では、(「今はこうでも私に与えられた意思の力を存分に発揮さえしていればいつかは…」というような精神論的希望と競合しないポジティブな思考、或いは振る舞いを持つ者達以外の)困窮者達に様々な形で懲罰が与えられる運びになる、と。

 ***

しかしまあそういったこと以前に、死という巨大な恐怖や苦痛――曰く、自殺すると地獄に落ちるらしい――を受け入れることが出来るのなら、それよりは幾分ましであろう地獄の社会生活が持つ恐怖や苦痛くらい受け入れることが出来るはずだ、という考え方が嫌だ。何故でどちらに転んでも先ず地獄ありきの前提を死守しようとするのか、という。…まあメシウマ・スパイラルに陥っているからなんだろうけど。



※1 喉元過ぎれば何とやらで、こういった状況に陥った者も、一度そこを抜け出すとまたぞろ「自分が生きる意義を失ったのは自分の意思の働かせ方が悪かったからであり、そして再びそれを獲得することが出来るようになったのはそれが改善されたからだ」というような認識を抱き始めたりするのだが。そして(意思の力によって自身の境遇をコントロールすることが出来るという幻想を抱くことが出来る程度の)中途半端な絶望を見た脱困窮者達程、その絶望による苦労と精神論的思想のコンビによってやっと獲得することが出来た貴重な誇りと希望、そしてそれを支える物語としての文脈を守ることに必死になり、より激しく現役の困窮者を叩き始めたりするから厄介だ。

人力「inudge」

なぜ「inudge」は適当にクリックしただけでソレっぽいものが出来上がってしまうのか疑問だったので、其々のマスにどのような音が割り振られているかを調べて見たところ、以下のようになっていた。



要するにペンタトニックという奴です。左から、Aから始まるとした場合、Bから始まるとした場合…というように、オクターブごとに色分けしてみた。二番目のBから始まるものが所謂マイナー・ペンタトニックで、三番目のDから始まるものが所謂メジャー・ペンタトニック(移動ドで「ドレミソラ」。マイナー・ペンタはこれの「ラ」から始まるもの)にあたる。

つまるところ「inudge」風のものを作りたいと思えば、使用する音をペンタトニックに含まれるものだけに限定し、音の長さは全て16分音符にしてそれをひたすら繰り返せばよいというわけです。でまあせっかくだから実際に作ってみました↓

zinriki_inudge.mp3 ※1低音がスカスカで音のバランスが悪かったので改善したものに差し替えた(10/19)。

うん、まあ音色を探してきたりセッティングしたりするのは面倒だけど、この方法を用いれば誰でも簡単にソレっぽいものが出来るね。ハッタリを効かすにはもってこいの技だ。

いやしかし、恐るべきはペンタトニックの万能さよ。

かごめ、かごめ

ギャルゲーブログ 簡単に音楽を作れるサイト 「inudge」

これは凄い。web上で遊べるテノリオンのソフト版みたいな奴。

ここでこんな風に、適当にマトリックスをクリックしていくだけでソレっぽいものが出来てしまうという(音出ます)。
http://inudge.net/inudge#/1ix4z

http://inudge.net/inudge#/n9x

http://inudge.net/inudge#/7o8n

↓さらにはこんなことも。『かごめ、かごめ』一曲入り。


しかし、自分のように大して才能のない人間が一生懸命苦労して作ったものより、これで適当にささっとクリックして出来たものの方がずっとソレらしいものになるというのはどうにも悲しいものがあるな。

SONARTの'YAMAHA C7'をフォントにして鳴らしてみた

ソフトサンプラー用にフリーで配布されている「SONART - YAMAHA C7 GRAND PIANO」というライブラリがある。解凍前は352MBなのに、解凍すると2.48GBにまで膨れ上がるという巨大なもの(サンプル自体は1.67GB)。今年になって出たKONTAKTのフリー版を使えば、サンプラーを買わなくてもこいつが使えるじゃないか、と思いそれをダウンロードしておいたものの、どうもフリー版のKONTAKTは30分しか使うことが出来ない(まさか30分一本勝負という訳ではないだろうから、30分経つと立ち上げ直さなければならないということか?)らしいということを知って結局インストールもしないまま放置。

しかし、ここ2、3週間ほど何もせず何も考えずにいたら急に何かしたくなってきて、ならばこいつをフォントにしてしまえ、ということでしてみました。「時は金なり」というが、時を金に変える能力を持たない自分の場合は機会費用もただだしね。かなり面倒な作業なので、立派な社会人は作業自体を楽しむことが出来る人意外は素直に音源やサンプラーを買った方がいいでしょう。

いやしかし、わざわざサンプラーを立ち上げてギガクラスの音源をロードしなければならないというのもそれはそれで結構煩わしいので、軽量化したフォントを作っておくというのも悪くはない…かも。
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フォント化するにあたっては、先ずサンプルの音量がかなり小さかったので、このためにわざわざ「SoundEngine」を入れて全てのサンプルをノーマライズした(「SoundEngine」にはフォルダ内のファイルを一括ノーマライズする機能があるので)。ただ、一度に余り多くのサンプルをノーマライズすると直ぐにフリーズするので、サンプルを小分けしたフォルダに詰め直し、何度も同じ作業を繰り返してようやく変換し終わる。そして今度は容量削減のために、24bitのサンプルを16bitに変換。これも一括で出来たらよかったんだけど、やり方がよく分からなかったのでREAPERで一つづつ変換していった。

サンプルには打鍵ノイズ?やらペダルを離した時の音?やらの他に、さらに「up」と「dawn」という、音量が少し違うだけでそれ以外は殆ど変わらない二種類の音色が入っていた。これもペダルに関係するものなのだろうか?「up」のサンプルの方が「dawn」のそれよりも少し音量が小さいので、シフトペダルとかいうもののためのものかもしれない。ピアノを触ったことはないのでよく分かりません。いずれにせよ余り容量が増えると厄介なので、ベロシティ・レイヤーが「up」に比べて半数くらいの「dawn」のサンプルの方だけを選んで編集。それで最終的なサイズは405MB(425,265,652バイト)まで削減することが出来た。これなら何とかギリギリ読み込むことが出来そうだ。

それからこれは後になってから気づいたのだが、「a2」のサンプルにはキーンというかなりデカい倍音が入っていて同音が続く場合にかなり耳障りだったので、「IIEQ」でその成分をある程度削ったサンプルに入れ替えた。

具体的には、900~1600Hz辺りの「gain」のdbを最小にし、「width」で数値を大きめにして強めのカーブを書く。そして該当「gaine」の「center」をいじって高周波ノイズが一番聞こえなくなる幾つかのポイントを探索。ピアノのサンプルということもあり、アタックを完全に削るのはどうかと思ったので、エンベロープを使って適当に加減して削った。いや、「IIEQ」は本当に便利だわ。

で、出来上がったフォントを鳴らしてみたのがコレ↓

ラヴェル/夜のガスパール第3曲「スカルボ」(※データは「The Classical Midi Conection」にあったPeter R. Wolfe氏によるもの。非常によく出来たデータだ)

 《追記》 さらにオリジナル曲も鳴らしてみた→『素直さを求めて』

※因みに、『スカルボ』にやたらと深いリヴァーブが掛かっているのは、実際にこの曲が収録されているCDを参照した結果。クラシックの場合、かなり遠くの方で鳴っているような感じの録音が多い。
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ヤマハ系のサンプルは線が細くて芯がむき出しになったような硬い音がしたりするので苦手だったが、何度も聴いているうちに慣れてきた。これは間違いなく使える。スタインウェイ系のサンプルみたいにバキバキした太い低音が出せないのは残念だけど。

あと無いのは腕とモチベーションだけか。

「民間思考なら」役人は省益や庁益を追求しても「当たり前」

公務員を批判する際のお決まりフレーズ、「民間なら」に関しての記事なわけだが、言いたいことはもうタイトルに尽きる。

だって「民間なら」自分や自分の依存する組織の利益を第一に考えて行動するのは「当たり前」じゃない。もし公務員が自分達の利益のために本来の役割を蔑ろにしていたとすれば、それはむしろ「民間企業じゃないんだから」と言うべき。ましてや「労働法、守られないのは日本だけ」に象徴されるように、順法精神が極めて低いのが日本の民間企業。それをいいことに、「民間だってやってる」と開き直って官が堂々と違法行為を始めたら益々不味いことになるだろう。

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要するに、公務員を批判する際の「民間なら~」というフレーズは全く見当違いの批判であり、それは「あいつらだけズルい」というひがみ根性か、もしくは「俺達はこんなに苦労しているんだぞ」という自身の精神論的ステージの高さを他者にアピールするためのものでしかないということ。

しかし、そもそも「競争社会」である以上、民であれ官であれズルい奴が得をするのは当たり前。法を逸脱するというルール違反を彼らがしているのならともかく、殆どの者が「競争社会」という社会の在り方に好意的である以上、審判の目を掻い潜った「ズル賢いプレー」はむしろ賞賛されるべきことのはずだ。また、民間はこれだけ苦労しているんだぞ、という苦労自慢に関しては、メンヘルがリスカや自殺未遂を繰り返すことで自身の苦痛の大きさを確認したり他者にそれをアピールしたりするのとなんら変わらない。大きな苦労をした者の精神ほど尊い、という精神論的宗教を信奉していない者からすれば、(良い悪いは別として)赤の他人のそういったアピールは単に鬱陶しいだけだろう。

Vienaのバグ

ここ数日、Viena(0.710)でフォント作りをしていたのだが、どうもにも不便に思っていることがあった。それは、一旦保存したファイルを開くと、一度読み込んだサンプルやインストゥルメント(及びその内にある項目)を削除することが出来なくなってしまうということ。

ただこの「削除できなくなる」という症状は、残りの「Empty」フォルダに他のフォントを読み込んだり、一旦新しいファイルを作ることで回避可能だということは分かった。



…のだが、どうも(他のファイルのものだけでなくそのファイル内のものでも)あるインストゥルメントの項目を他のインストゥルメントにコピーして張り付けると、サンプルの中身がおかしくなっていたり(使用したのはステレオ・サンプルだったので、モノラル・サンプルだと大丈夫なのかもしれない)、ステレオサンプルの場合、リンクしている片方のサンプルが他のサンプルのものに指し換わってしまってどうにもならなくなったりする(このリンクは変更できない模様)。しかも、インストゥルメントをコピーする度に「Audio Samples」欄に同じサンプルの項目がどんどん増えていって大変なことに。

例えば「Copy/paste Pretes」でコピーしただけでこんなことに↓※1。本来なら、「Linked sample」は「Down109_a3R」になっていなければならない。



とはいえ、これを保存して鳴らしてみると、特に異常なく再生出来たりもするのだが。ただし「wave editor」画面でサンプルを再生すると、やはりこの表示の通り片方のチャンネルだけ違うサンプルの音が鳴ったりしてカオス。しかもこういったステレオ・サンプルを削除しようとした場合、片方のチャンネルのサンプルだけが残ってしまったりする(リンクされたサンプルが他のインストゥルメントで使用されていたりするので)。

こういったバグのせいで、例えば特定のインストゥルメント内の一部のサンプルだけを編集して入れ替えようとすると、また一から作り直さなければならなくなってしまう。勿論、「Empty」フォルダに新しいファイルを作って必要の無くなった項目とサンプルを削除し、入れ替えサンプルだけ別インストゥルメントにして新しくプリセットを作り直すという手もあるけど、どうも収まりが悪いような気が。また後で差し替えたいものが見つかるかもしれないし。

取り敢えず、今のところ(0.710)ステレオ・サンプルのインストゥルメントはコピーはしない方がいいようだ。

後、「Audio Samples」画面で最大化(或いはその解除)したり、他のソフトに切り替えたりする度にいちいち波形の表示をし直すのはどうにかならないものだろうか。まあサンプルが小さい場合は特に問題はないのだが、読み込むサンプルが巨大な場合、その都度かなりの時間ずっと波形が表示され尽くすのを待っていなければならない(何故か二度表示され直したりするし)。波形を非表示にする機能があればもっと作業がはかどるのだが。



※1 「Copy/paste Samples」だと大丈夫な場合もあったが、駄目な場合もあった。サンプルの項目がダブっている場合も。このダブりに関しては、チェックを入れていないサンプルまでも勝手に読み込んでしまうバグがあるみたいなので、そのせいだろう。つまり二重に読み込まれている。こういったケースによってまちまちな反応は、多分コピー元のファイルの状態によって変わってくるのだろうけど、その理由がいまいちよく分からないので挙動の予想が付きにくく、非常にストレスがたまる。バグッた状態で気づかずに保存しているかもしれないし。

平等は憎しみの母、正義はメシウマの父

・一般的に言って、ブログが更新されなくなると、その人の日常生活が忙しくなったりネットの外の生活が充実していたりすることが多いが、当然自分の場合はそういう理由で更新を停止していたわけでははありません。ただ愚痴を言う気力も起きなかっただけ。勿論ラブプラスに嵌っていたわけでもない。

・まあヒキに限って言うと、ブログが更新されなくなると先ずその人の死亡が疑われたりもするのだが。

・ネトゲ廃人とかいうけど、本当に何もしない自分よりはずっとましだな。そもそもネトゲというのはコミュニティへの参加を意味するわけで、自分にはまず無理。

EU、独伊など9カ国に「財政協定」違反を通告<財政赤字が増えるとユーロの信用が落ちるから、財政を健全に保てない貧乏な国には制裁として課徴金を課します、ってなんか無理があるような。大体「安定成長」なんてしようと思って出来るものではないわけで。

 ***

橋下知事、批判メールの女性職員に厳重注意<意見を言えというからそれに従って意見した結果こうなりましたとさ。彼のことだから、全く意見をあげない職員がいたとしたらそれはそれでやる気がないとして非難しそうだし。ある種の“巣作り”なんだろうな、これは。相変わらず「民間なら」を連呼しているようだが、“民間なら”こんなことをする者は単なる駄目(ブラック)社長だろう。

・今朝のワイドショーで「職員が知事と同じ方向を向いていない」ことを批判していたが、皆が同じ方向を向くのはただの全体主義。

・それ以前に、彼は今まで自分がどれだけ「非常識」な言葉で他人を口汚く罵って来たのか忘れてしまったのだろうか。上司じゃなけりゃ何を言ってもいいってことか。強きには媚び、弱きにはとことん強く出る。相変わらず今は亡きヤッサンみたいな人だな。

・自ら積極的な意見交換を求めていながら、自身の求める主張だけを歓待し、気に入らないものは断罪する。そうやって自身の主張を他者に言わせることで、その主張の正しさを演出する。故に問題が本当の意味で議題化されることはなく、本来話し合いや論考の場となり得るはず場所も予め“お上”が用意した正解・不正解を言い当てるだけの処世の場へとなり果てる。ガッコーの読書感想文みたいなもんだね。やがて“下々”は“お上”の顔色を伺う主張しかしなくなり、その風潮と結託するのが上手な者ばかりが登用されることでそれは風土としてより堅固なものになっていく。

・この“お上”というのは“世間の空気”だったりもする。

・「改革」という言葉もすっかり胡散臭くなってしまったが、それはともかく、人々の改革への大きな期待を担ってやって来た彼は、こういった硬直化が生み出す弊害をぶち壊すどころか、それをさらに揺るぎなきものにしようとするだけだったという。まあよくある話だけど。基本的に何かを倒しに来る(行く)者は、あくまで何かを倒すこと自体を目的としている。その者は、何かを倒すという目的に依存することによって生きる活力を得ているのだ。だからその者が権力者を打倒し権力の座に着いたら、今度はその権力の座から何かを打倒しようとし始める。

・しかしあらかた周りを打倒し尽くしたら、その後には何も残っていなかったりする。あれだけ節約節約といって福祉や教育に関わる予算にまで手をつけていながら、またぞろ辺境地開発という関空やフェスティバル・ゲート創設時を思い起こさせるようなバブリーな大型公共事業計画に色目を使い始めているのは、多分その空虚さを埋めるため。まあ中身の空っぽさでは自分も彼には負けてはいないが。道徳や常識、精神論への怒りや恨みを失ったら自分にはもう何も残らない。

・というか、不正や業務に対する姿勢の在り方に問題があるということで処分するなら分かるが、自分が気に入らないから処分するってのは公私混同もいいところじゃないか。

・彼の以前の発言>【橋下維新】メール公開請求に「のぞき見趣味」と不適切発言、 市民団体が反発“橋下知事は「申し訳ないが税金でメシは食わせてもらっているが、府民の皆様の奴隷でもなんでもないんで、出来ることと出来ないことがある」とした上で、メールの中には非公開を前提に職員とやりとりしたメールがあり、すべてが公開の対象とは想定していなかったと説明した。”<奴隷じゃないのは職員も同じのはずだが。

・“「表現内容については、公開されるとまずい表現とかいろいろある。具体的に個人名を出していたり、自分の思いつきの意見もある」とし、職員からのメールには忌憚のない意見や内部告発のようなものもあり、全てを公開することは出来ない、と述べた。”<でも自分に対する忌憚のない意見は容赦なく公開し、血祭りにあげると。

・まあ実際彼ほど「大阪の代表」に相応しい人間はいないと思うよ、ほんとに。この手の手法を使う人間がそこかしこで幅を利かせ、集団を牛耳っているのが大阪という場所の土地柄だから。で、そういう人間が一線を退いても、次にやって来るのもまた同じような人間だったりするんだよ。それが今の大阪のこの現状を形作ってきたのだと思う。

 ***

・こういった問題では、「俺だって腹の立つ上司に文句の一つも言わず我慢しているんだから、その我慢をせずに言いたいことを言った危機感の無い人間は痛い目に遭って当然」として“お上”の懲罰的行為を好意的に捉える者も多い。恐らくそのような反応は、自分の我慢やストレス(危機感)と他人のそれとを天秤にかけ、その釣り合いが取れなくなるような(不公平感を感じる)状態を回避したいという思いから来ているのだろう。だがそういった平等思想――恐らく当人はそれを平等思想だとは気づいていないだろうが――こそが、人々の憎悪に火をつけるのに最も重要な役割を担うことになる。

・そして元来自身の保身のために居座っているはずのその“我慢”や“ストレス(危機感)の維持”に代表される個人的枠組みが、いつの間にか感覚上で社会的な道徳規範であるかのように摩り替えられてしまう。何故なら、そこから抜け出すのは自由だけどそうすればほぼ間違いなく痛い目に遭うという状況は、そこに居座る人間からしたら感覚的には義務としてしか認識出来ないだろうから。そして“義務”を守るのは道徳、ということになる。だって、“義務”を遵守していた人間とそうでない人間で差が付かないなんて不公平じゃない。だからその不公平を是正するために、そこからはみ出た人間は道徳的な観点から叩かれなければならない。

・本当に怖いのは傲慢上司の理不尽な鉄槌よりも、道徳や不平等を改善するものとしてその行為に溜飲を下げ、まだ足りないとばかりにさらに罰を下そうとする「普通の人々」の素朴なメシウマ(他人の不幸で飯が上手い)感情だったりする。そしてそれがさらに枠組みの締め付けをより強固なものとし、その締め付けによって人々はさらなるメシウマを求めるようになるというこのメシウマ無間地獄。

・要するにメシウマの生みの親は痛みやストレスに対する不公平感だったりするということ。俺がこれだけストレス(危機感)を感じ、“義務”にも従ってるのに、あいつらときたら…。こんな状況は不平等だ、カイゼンしてやる、と。

・痛みを知らないから、自分がメシウマのネタにされる想像力が無いからメシウマするんじゃない。メシウマの痛みと恐怖を知っているからこそ、そしてその渦から抜け出すことが出来ない閉塞感を感じているからこそ、それを祭りで誤魔化そうとして、或いは自分の痛みと他者の痛みのバランスを取ろうとしてメシウマするのだ。しかし、他人の痛みは決して感じえないから、他者に求める痛みに際限がなくなってしまう、と。

・自分の痛みを誤魔化すために他人を叩くというのは、『バタリアン』に通じるところもあるな。バタリアンというのは要するにゾンビなわけだが、彼らは体が腐ってボロボロになりながらも生き続けているが故に、四六時中激しい苦痛に苛まれることになる。だが、人間の脳みそを食うと少しだけその苦痛が和らぐという、そういう設定。だからバタリアンは人を襲う。そして襲われた人間はバタリアンになる。

・とすれば、実際にそういう状況に陥って抜け出せなくなっている者に「人間の脳みそを食うな!」ということにどれほどの意味があるのだろう、とも思ってしまう。また、メシウマの恐怖に怯えている人間の全てがメシウマ祭りに参加しているわけではないが、そういう人間もまたゾンビ狩りという他の祭りでその恐怖を紛らわしていたりする。「ゾンビだから幾らいたぶってもいいんだぜ、ヒャッホー」というシチュエーションもまたゾンビ映画の定番。

京都府警はなぜサイバー犯罪に強いのか“ある捜査幹部は「著作権侵害に警鐘を鳴らせないかという捜査員の気概と、それを可能にした当時の府警幹部の人事配置が背景にあった」と解説する。独学でネット知識を高めた捜査員と、日常的に情報通信技術を取り扱う技官の間で、緊密な連携が可能だったからこその摘発だったのだ。”<これにしても、「独学でネット知識を高めた」とか「著作権侵害に警鐘を鳴らせないかという捜査員の気概」とか言うと聞こえはいいけど、実のところ、「わて、メシウマ・ライセンス持ってますねん」みたいなのが本当の動機なんじゃないかと思う。

・骨の髄までメシウマ文化が染み付いたこんな国がジリ貧になるのは当たり前だろう。メシウマはある種内戦みたいなものだから。

・よく教育や福祉が充実していて犯罪者の更正にも力を入れている国としてフィンランドが紹介されたりするけど、あれは国民が一致団結して周りの敵に立ち向かうという文化的合意があるからこそ可能なのであって、メシウマ文化を持つ日本にああいうシステムだけを持ってきても文化的裏づけがないから先ず成功しないだろう。むしろ人々の不公平感を煽るだけの結果に終わりそうだ。

・日本はデフレ・スパイラルの心配だけをするんじゃなくて、メシウマ・スパイラルの危険性にももっと注意を払った方がいいのではないか。

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roadside diaries: 渋谷駅前ホームレス排除彫刻・その後<芸術の正体。或いは芸術に抗う者達。まあ芸術なんてのは結局体制側のものなんですよ。例えそれを生み出した個人が反体制であっても。何故なら、現代の最高権力者(お上)は「普通の市民」という名を持つ群集であり、その群集のお墨付きを戴かないとその作品は芸術として認識されないから。橋下府知事もまた、その権力者の庇護を失えばただのわがままなオッサンへと降格する。

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Visual C++ RedistributableによりDドライブに一時ファイルが撒き散らされる問題について<急にわけの分からないファイルが沢山Dドライブに出来て何かと思ったよ。


かわいいうり坊<いずれ凶暴になる運命。というか猪って飼えるものなのか。そういえば、幼少期を一緒に仲良く暮らした熊と人間の子供が、やがて大人になって殺し合うという映画が昔あったような。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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