ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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今年の正月は久方ぶりに

妹が帰って来るみたいで非常に気まずい。元々仲がいいわけでもなかった上に、もう十年以上も顔を会わせていないので、気持ち的には赤の他人が家にやって来るような気分だ。いや、自分の過去をよく知っている赤の他人だからこそ余計に気まずい。

で、職歴ナッシングのK点を遥か後方に置き去りにし、もはやこのまま記録を更新して飛び続けるしかなくなった自分に対し、その妹はと言えば、数多の職を渡り歩く職歴王となっているらしい。ゲストハウスを利用して何の当てもなく東京に進出する妹と、未だ室内冒険を続ける兄。このバランスの悪さは一体なんだ。人間が本来持っているはずの慎重さという要素を全てこちらが受け持ち、アクティブさという要素が全て向こうに行ってしまったかのようだ。
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やっぱりおかしかった

「根音ネネ」を試しに使ってみたでどうもおかしな部分があるようで不安になると言っていたけど、やっぱりおかしな部分があった。半音下げるべきところが下がっていなかった。ということで一応修正。

iinonine3.mp3

それ以外にも微妙な部分もあるが、もう作り直す気力がないのでここら辺で打ち止めにしておく。

「根音ネネ」を試しに使ってみた

↓メジャー・キーでありながら、時々差し込まれる外音の使い方がちょっと不気味な感じで、『サスペリア2』の『School At Night』(YouTube)を思い出した。



で、「UTAU」用の音声ファイルセット「根音ネネ」を使用して作られたこの曲が中々魅力的だったので、ちょっと試しにそれを使ってみたくなった。やっぱりデモって重要ですね。

iinonine3.mp3 『いいのにね』

たった25秒だけど。今の自分にはこれくらいが限界。迫り来る現実が恐ろしすぎて集中できないので。

朝焼けの空の
パルス浴びながら
ウェヌスの威の前の
マルスの気を思う
そんな毎日を
送れたらいいのにね

「UTAU」の使い方がいまいちよく分かっていないので、取り敢えずヴィブラートだけ入れて、後はデフォルトで入っていた「oto」と混ぜて鳴らしてみたが、それだけでも結構それらしくなる。もちろん、DAW側ではエフェクトを幾つか仕込んではいるが。

上手い人が使えば、「UTAU」とフリーの音声ファイルセットだけでもVOCALOIDに比べてもさほど遜色がないようなものが作れるんじゃないだろうか。

<追記:12/25>
 後で確認してみたら、「oto」はミックスの段階で音量が下げられて殆ど聞こえないくらいになっていたので、混ぜ合わせたのは余り関係ないかも。あと、曲にちょっとだけ手を加えた。いや、加えたというよりもb5の音を一つ削ったんだけど。しかし一箇所変な部分に気づくと、今度はどこもかしこも変になっているんじゃないかと不安になってくる。

それ、本当に「いいこと」なの?

「やっぱ年賀状大変だなあ」 
「だから貰うと嬉しいんでしょ?」
「いいこと言うね」

――<日本郵政の年賀状CM、「贈る(小栗さん)」篇より>――

他人の苦痛に価値を感じたり、それを有難がったりする文化を持つ国ならではのCMだよなあ、これ。

CMギャラリー|郵便年賀.jp

無形文化遺産

東京新聞:『働けば自由になる』 アウシュビッツ標語 盗まれる

 【ベルリン=弓削雅人】ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺の舞台となったポーランドのアウシュビッツ強制収容所跡の国立博物館で十八日、入り口の門に掲げられた「アルバイト・マハト・フライ(働けば自由になる)」の標語板が何者かに盗まれた。同博物館では十万ズロチ(約三百万円)の報奨金を約束して有力情報を募っている。警察や警備会社も報奨金を用意した。

ああ、盗まれてしまったのですね、あの標語板が。

ですが、大切なのは物やその形ではありません。人の心です。ドイツで標語として掲げられた「働けば自由になる」の精神は、遠く離れた地、ここ日本で大地に深く根を下ろし、保護の手など必要ないくらい強固な無形文化遺産として多くの人々の心の中にしっかりと焼き付けられています。いや、日本だけではないでしょう。その精神は世界中を駆け巡り、様々な場所で日本と同じようにしっかりと受け継がれていっているはずです。

ですから、その象徴である金属片が失われてしまっても我々は何も憂えることなどないのです。何故なら、「働けば自由になる」の精神、そしてそれが生み出す希望の囁きは、人間が生き続ける限り永遠に不滅なのですから。それらは常に我々と共にあるのです。

 ***

働けば自由になる(求人情報プラザ「キャリッジ」)

”ARBEIT MACHT FREI” 「働けば自由になる」

これはユダヤ人強制労働所、アウシュビッツの入口に掲げられていた言葉だそうです。

捕虜という空虚さを耐えさせるための標語としては、とても胸を摘まされるものがあります。しかし、この言葉は働くことの真意を衝いたものであると私は思います。

「人は何のために働くか」という途方もない命題に答えを出すつもりはありませんが、少なくとも働くとは自由をもたらすものだと思います。(中略)

もしあなたが自分の思い通りにならないことが多い、今の環境では全く自分の意思は通らず自由がないと感じているなら、「とにかく働いて、働いてスキルをみにつけていくしかない」と腹をくくり、再度目の前の業務に集中すべきであると思います。

その結果が必ず新たな自由をもたらすはずです。

我慢という自傷×「祭り(バッシング)」はメンヘルの社会的拡張形態

ニコニコ生放送でとうとう リスカ したやつがでたらしい:【2ch】ニュー速VIPブログ(`・ω・´)

これ、リスカ云々以前に、ただのネットリンチ事件のようにも見えるが。そしてリンチを受けた者がそれに耐え切れなくなってにリスカをしたら、今度はまたそれが呼び水になってさらに「祭り」好きな者達が集まって来て、その者をバッシングするという構図。こういうのを「日本スゲー」って言うんだっけ。違うか。
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▼(i)人間は基本的にパラノイア

それはともかく、ここで気になったのは「構ってちゃん」の使われ方※1

「構うなバカ」というコメントを態々バカでかいgifファイルに置き換えて強調しておきながら、「祭り」用ブログで取り上げるという欺瞞もどうかと思うが――そもそも、全く見ず知らずのその人物に自ら掲示板やブログやブコメを通して関わりに行っておきながら、そこでその者を「(まるで自らが構わされる被害を受けた/受けさせられるかのように)構ってちゃん」呼ばわりするのは、正に「ぶった者がぶたれたと言って泣く」行為そのものだろう。つまり、内面に思い描かれた当該人物に構わされる想像上の“誰か(被害者)”と自分とを混同してしまっているのだ。そしてまるで自分が実際には行われていないその架空の行為の被害者であるかのような態度がそこでは取られている※2。そういう立場で、向こうから構ってもらいに来たわけでもない全く見ず知らずの人物に自ら積極的に関わりに行っている。

 ***

だがこうした混同やそれ故の振る舞いは別に珍しいものでもなんでもない。ここで殆どの人間がそのパラノイア的解釈を追認してしまっているのを見ても分かる通り、我々は普段大して意識もせずに、わりと普通にこういったパラノイア的振る舞いを行っている。要するに人間は基本的にパラノイアなのだ(「パラノイア性」∈「共感能力・想像力」)。

ただ、それを発症する者が多数派である場合、それは「変」にはなり得ないから、「普通(≒正常=非パラノイア性)」ということになる。つまり、その場所でごく普通に存在している数多のパラノイア的振る舞いによって振るいに掛けられた非一般的な振る舞いだけが、パラノイア的であると認識されているに過ぎないのではないか、と。

▼(ii)内に向けば自傷、外に向けばバッシング

 *(1)我慢という自傷*

さらにこの手の騒ぎを見ていつも思うのは、バッシングとリスカの内実に一体どれほどの違いがあるのだろう、ということ。

人は自分にとって好ましくないものや状況と遭遇した時、不安や恐怖、気持ち悪さなどを感じ、それによってストレスを獲得することになる。このストレスを獲得した状態というのは、エネルギーがその者の内部に蓄積されている状態と言い換えてもいいだろう。この状態を他の現象で言い表してみるならば、例えば缶詰が火にかけられて熱せられているような状態。

一人の人間の中でそのような状態が起こってしまった時、そのエネルギーを気分転換や忘却という方法で気化させたり、或いは趣味や仕事など何らかの作業に打ち込むなどして上手くそれを昇華(流用)出来れば何も問題ない。しかし、実際には中々それだけではストレスを消化し切れないことも多い。しかも、多くの人間は継続的にストレスを獲得し続けなければいけない状態に置かれている。全ての人間が、獲得するはずのストレスを上手くいなしたり吸収したりすることが出来る能力を持っていればいいのだが、実際はそういった能力を持っている者ばかりではない。さて、ではある人間が己の処理能力を超えるようなストレスを抱え込んでしまった場合、その後どのような流れが考えられるか。

一つには、我慢という状態が作り出されることが考えられる。これは蓄積されたエネルギーをとにかくなるべく外に出さないようにして押さえつけておき、それが自然と消耗していくのを待ち続けるというもの。だが無理してそれを抱え続ければ、その分だけそのエネルギーによって内側からダメージを受けることになる。何故ならそれは、蓄積されたエネルギーのベクトルを内側に向ける行為でもあるからだ。即ち自傷。呼び方は異なるものの、我慢と自傷は内容的には同じものなのだ。そしてそれは更なるストレスの再生産にも繋がる。

もう一つ考えられるのは、とにかくエネルギーを外部へと放出してその緊張状態を抜け出そうとする状態への移行。これの一番単純な形態は八つ当たりと言われるものだろう。しかしそれが八つ当たりであると自身や周りが認識してしまうと色々と差し支えが出てくる。それによってさらなるストレスを獲得してしまう危険性も高い。よってその多くは、まず何らかの大儀とそれに関連した「的」を見つけ出すという手順を踏んだ上で行われる。そしてこれが所謂バッシングや「正義の戦い」となる。――他人に迷惑を掛ける(大儀)おかしな「メンヘル」(的)は叩かれて当然だ、というように。

 *(2)*

これらを踏まえた上で再び冒頭の「構ってちゃん」問題を見てみる。先ず、「構ってちゃん」という表現がネガティブな意味で用いられているのは誰が見ても明らかだろう。つまり、あそこで「構ってちゃん」を用いている者の多くは、他人に構ってもらおうとするのは悪いことであるという考えを持っている。ところが実際には、その者達は別に相手から頼まれたわけでもないのに、全く見ず知らずのその人間――恐らくその関わり方を迷惑がるであろうその対象――に態々関わりに行っている。要するに自ら率先して「構ってちゃん」行為を行っている。

この場合、その者の内部には、他人に構ってもらおうとすることが悪であるとする自己と、他人に関わりに行かずにはいられない自己の二つが同時に存在している。もしこれを内部完結しようとするならば、この二つの自己はお互いに衝突し合い、自傷へと至るだろう。そしてそういう状態に陥った者特有の態度は、しばしば「メンヘル」と言い表される。だがこの場所では概ね、両者のエネルギーは《内部にいる他者》ではなく、《外部にいる他者》へとそのベクトルが向けられている。それによってそのストレスは自傷ではなくバッシングへと導かれた。所謂「メンヘル」になるのではなく、「祭り」の参加者となった。

リスカについても考えてみる。リスカが行われるということは、その者はそれ以前から既に我慢という自傷状態に突入していたと考えられる。しかし、我慢という自傷は基本的にその者の内部で行われるもの。もちろん、その者が置かれた状況やその所作などから見て「我慢(自傷)しているな」という憶測は出来るものの、それはあくまで憶測の域を出ない。つまり外からその様子を具体的には観察出来ない。だが、リスカというのは(それでその者の苦しみの大きさが測れるわけではないが)外からも具体的にその様子を観察することが出来る。何故かと言えば、それは同じ自傷でも、精神が肉体を傷つけるという具体的暴力を行使しているからだ。同じ個人が持つものであっても、意識と肉体もまた他者同士なのだ。そしてこの場合、そのエネルギーのベクトルは他人には向けられていなくとも※3、ある意味「外部」へと向けられている、と言うことが出来るだろう。

 *(3)*

要するに何が言いたいかといえば――実際に行われたそれらの行為は別ものとして扱うべきであるにしても――自傷とバッシングは、どちらも「元々抱えている/新たに獲得した」ストレスを上手く処理することが出来ないという同じ状態・問題を出自とし、それを解消するための手段として行われているものであるということ。その意味では、この二つは同じ性質を持った行為であると言える。

とりわけリスカとバッシングは、《自分の肉体という他者》に切りつけるか、他人にコミュニケーションという武器で切りつけるかの違いでしかなく、それらが持つ内実は非常に近しいものなのではないのか。そして日々「祭り(バッシング)」に参加したり、それを捜し求めて放浪したり、それを起こそうと焚きつけたりすることは、己の処理能力を超えるストレスの処理(と同時に生の実感や自尊心の獲得)を「祭り」に依存しているということであり、それはつまり、一般的に個人的なものとされるメンヘル的振る舞いが、より社会的に拡張されたものに該当するのではないか、と。

▼(iii)どこまでを内と見て、どこまでを外と見るか

それに加え、内と外の枠組みをどのように設定するかという視点を設けて見ると、自傷とバッシング、「メンヘル」と《祭り人》が如何に近しい存在かということがより明確になってくる。

 *(1)*

唐突ではあるが、『範馬刃牙』という格闘漫画…の皮を被ったギャグ漫画の中に、こんなワンシーンが登場する。――「地上最強の生物(笑)」である範馬勇次郎が、用あって米軍施設の正面門にやってくる。当然、施設を守る門番の米兵達は勇次郎が施設へと侵入することを阻止しなければならないわけだが、何せ相手は核爆弾を使っても倒すことが出来ないであろうと言われる「地上最強の生物」だ。戦いを挑めば殺されるし、その性格からして、己の役目を放棄して逃げ出しても殺されるだろう。そのような進退窮まる状況に追い詰められた門番達は、どうしようもなくなった挙句、仲間同士で必死になって戦いを始める…。

範馬刃牙 11 (少年チャンピオン・コミックス)範馬刃牙 11 (少年チャンピオン・コミックス)
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板垣 恵介

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うん、なんておバカなシーンなんだろう(と言っても、この漫画はずっとこういうシーンの連続なのだが)。…とこれを最初に見た時は思った。だが、この場面は案外自傷という現象を上手く可視化しているという部分もあるのではないか。というのもこの場合、「門番」という枠組みを作ってそこで内と外を分けて見ると、この門番同士の戦いは「自傷」として見ることも出来るからだ。

前にも後ろにも進めない。かといってただ突っ立っていれば向こうから命を奪いにやってくる。そのような窮地に立たされれば、当然ストレスはどんどん溜まっていく。死を前にしながら、もはやそれを我慢することくらいしか出来ない。だが我慢というのは、ストレスを外へ出そうとする自己とそれを押さえ込もうとする自己の内なる戦いであり、自傷である。門番達は仲間同士で殴り合う(バッシングする)ことでその状態を抜け出したわけだが、「内」の枠組みを個人から「門番」にまで広げてみると、それもまた「自傷」ということになる。

件のネットリンチも、この状況と似ている。あの場合、組織化された民衆の集団リンチに対して個人として戦いを挑んでもまず勝ち目はない。かといって組織を作ってそれに対抗させる能力も(恐らく)持っていなかった。そして逃げても彼らは追いかけて来る(つまり逃げられない)。じゃあそこで出来ることは何か。リンチで獲得したストレスを上手く昇華出来るのはよっぽどのマゾか、もしくは「よく訓練された出川哲郎」くらいのものだろう。つまるところ実質的選択肢としては、我慢するかネットから姿を消すかしかない。しかし、もし彼女がネットでの活動に自尊心(存在意義)を依存していたとしたら?そうだとすれば、もうひたすら我慢するしか方法はない。そしてその自傷はやがて精神的な枠組みを超えて精神と肉体の戦いとなり、可視化された。門番達の殴り合いのように。

 *(2)様々なメンヘル形態*

では、この内と外を分ける枠組みを集団――何らかの集まりやコミュニティ、属性、或いは国民という枠組み――にまで広げてみるとどうなるか。そうしてみると、その内部で行われるリンチや社会的バッシング、メシウマなどもまた、枠組み内で行われる「自傷」ということになる。つまりリスカやバッシングというのは、内と外を分ける枠組みをどこに設定するかによって呼び名が変わっているだけの同質行為として見ることも出来るわけだ。これは逆に言えば、所謂「メンヘル」的振る舞いと《祭り人》的振る舞いの違いは、同じ内実を持つそれがどのような形態になって表面に表れ出でているかの違いでしかない、ということにもなる。

☆メンヘル形態1(所謂「メンヘル」):

     被害(ストレスの獲得)
---------------↑---------------------
            ↑            ↓←←「的」の発見by《祭り人》
依存→「存在意義の確認作業(∋触れ合い)」 --------↓---------
        ↑            ↑            ↓
  「リスカ(可視化)」∈「個人的自傷=我慢」→「特有の所作/表現」
                     ↑
             「ストレス/自尊心飢餓」→昇華


☆メンヘル形態2(《祭り人》):

    被害(ストレスの獲得/自尊心の裂傷)
------------------↑---------------------
              ↑
 「バッシング/社会的自傷(∋触れ合い)」∈「祭り」→昇華
           ↓                 ↑   ↑
  依存→「存在意義の確認作業」   「ストレス/自尊心飢餓」

向こうから関わりを求めて来たわけでもない見ず知らずの「メンヘル」に自ら構いに行きつつ、その相手を「構ってちゃん」と行って非難する行為はパラノイア的であるということは既に述べた。しかしそれだけでなく、実はそのような形で行われる「メンヘル」叩きは、それそのものがメンヘル的振る舞いの一形態でもあるのだ。

さらに言えば、バッシングやメシウマ、説教ナルシズムといった生贄を必要とする「祭り」はもちろん、もっと他のポジティブな――といってもそれは別の誰かにとってはネガティブなものであったりするのだが――「祭り」であろうとも、ストレスの解消や生の実感、自尊心の獲得などをそれら(「祭り」)に依存している以上、その者は立派なメンヘルであると言えるだろう。「ごく普通に存在している数多のパラノイア的振る舞いによって振るいに掛けられた非一般的な振る舞いだけが、パラノイア的であると認識されている」のと同じように、それらは余りにも普通であり過ぎるが故に、メンヘルであると認識され難いという違いはあれど。

 *(3)再生産されるメンヘル行為*

だがそのような(「メンヘル」であると認識され辛い)一般的メンヘル――「祭り」――行為は、むしろ所謂「メンヘル」がもたらすそれ以上に深刻な被害を人々にもたらすことも少なくない。というのも、それらのメンヘル形をなす者は所謂「メンヘル」よりも人数的に圧倒的に多く、その行為は集団として行われることが多い。尚且つ影響を及ぼす範囲もまた広範で、全く見ず知らずの者にまでそれは及ぶ。よって必然的にその被害もまた、より広く、より大きなものになる傾向がある。つまるところ、所謂「メンヘル」と一般的メンヘル形態のどちら側に転んでも被害は生まれる。そしてその被害は新たなメンヘル行為の燃料となり、それを再生産することになる。

▼(iv)メンヘル問題≒「祭り」を捨てられるか問題

 *(1)「メンヘル」と《祭り人》はコインの裏と表*

結局メンヘル問題の根本とは何なのか。それは、周囲の環境との関係によって作り出された状況により、その者が処理能力を超えるストレスを獲得してしまったり、自尊心や生の充足感を獲得出来なくなって難渋してしまうことだろう。そしてある者はそれを我慢してやり過ごそうとし、ある者は他人に触れ合いを受け入れてもらうことでその不安定さをカバーしようとする。またある者はバッシングやメシウマ、説教ナルシズムといった「祭り」に参加することでバランスを保とうとし、ある者は宗教やイデオロギー、及びそれらによる結びつきによってまとまりを得ている集団に所属することによって、その不安定さを解消しようとする。そうやってメンヘルは様々な形に派生していく。

だから、例えば「祭り」に依存することでそのバランスを保っている者がその手段を奪われてしまえば、その者は所謂「メンヘル」、もしくは他の何らかのメンヘル形態に変貌せざるを得ない運命が待ち構えている。一方、所謂「メンヘル」が社会的評価を受けた途端、今までと打って変わって典型的な《祭り人》へと豹変したりする現象があるのはよく知られているが、その場合もまた、その者が再びその社会的評価を失い「祭り」への参加資格が剥奪されてしまえば、またもや裏返って「メンヘル」へと逆戻りすることになるだろう。「メンヘル」と《祭り人》は、お互いにそういったコインの裏と表の関係にある。そして根本の部分が改善されない限り、単にその裏と表を行ったり来たりするだけにしかならない。

 *(2)*


その個人と環境との間で一定の状況が整ってしまっている以上、その部分が改善されない限り、その者のメンヘル問題もまた解決しない。パラノイア的なものでなく、実際に所謂「メンヘル」被害を受けた人も当然いるだろう。しかしその行為者に「「メンヘル」行為を止めろ」、と言ったところでどうにもならない。バッシングに依存している《祭り人》に「バッシングを止めろ」と言ったところでどうにもならないのと同じように。

そもそも、所謂「メンヘル」を問題視する者の中にも、「祭り」に依存することで「メンヘル」にならずに済んでいる人間が相当数含まれているはずだ。「祭り」への依存はごく一般的なものであり、むしろそれに依存せずにいられる者の方が少数派だろうから。つまり、所謂「メンヘル」でない多くの者が「メンヘル」行為を問題にする時、それは己自身が「祭り」を捨てることが出来るか、という問いになって自らに跳ね返ってくることになる。その「祭り」は「メンヘル」を再生産している面もあるのだから。

よって、一般的な傾向を持つより多くの者にとっての最も身近なメンヘル問題とは、「祭り」を捨てられるか問題ということになる。そしてその問題に取り組むことこそが、ひいては所謂「メンヘル」問題に取り組むことにもなる、というわけです。



※1 そもそも、この社会で「構ってちゃん」でない人間が普通の社会生活を送ることなんて不可能だと思うが。むしろ「構ってちゃん」であることが脅迫的に求められるのが今の社会なわけで(ex.「俺なんか100社近く面接受けてようやく試験に通ったぞ」「何事も自分の方からアクションを起こして働きかけないと駄目」)。この「構ってちゃん」騒動にしても、それによってその対象の動向を肴とするコミュニティを形成し、お互いが構い合うための場を作る行為でもある。先ず「構ってちゃん」ありきなのが現代社会なのだ。ところがその構ってもらいぶりが下手だと「構ってちゃん」と呼ばれて問題にされる一方、それが上手い「構ってちゃん」エキスパートは「構ってちゃん」とは決して言われることはないという…。

※2 厄介なことに、この混同で獲得したストレス自体は嘘ではなかったりする。

※3 その様子を積極的に他人に見せようとすることは、その時点で厳密には外部へとそのベクトルを向けているとも言えるが。

全体主義は競合する

これは完全に怨霊の仕業だろ。釣り人が65人水死した港で会社員3人が行方不明。:【2ch】ニュー速VIPブログ(`・ω・´)

ここの南堤の先はもう本当に凄い。今ぐらいの季節がまたいい。


大物がガンガンかかる。250人氏んだって言っても

毎年何万人も釣りに入ってるんだから、氏亡率は1%程度。


100人居て一人氏ぬかどうか。それなら釣らなきゃ損じゃね?

『俺は、釣りのためにこそ死ににいく』みたいな。
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しかし、この「釣りのためにこそ死ににいく」行為は随分とバカにされているようだが、《何のために》生き、《何のために》死ぬかなんて人其々のはず。当人がそれを死を賭してまで行う価値があるものだと思っているのならば、それは愚行とは言えないだろう。「釣りのためになんか死にたくない」と思う人間がそれをすれば愚行だが。

 ***

個人の《何のために》よりも「社会/国家のために」を上位に置き、本来人によってバラバラであるはずの前者の内容を後者に従わせて画一化しようとするのが全体主義。

全体主義というと何か特殊な思想であるかのように思える。だが、個人の《何のために》よりも「社会/国家のために」を上位に置くべきであるとする思想は極めて一般的なものだろう。同じように、極めて一般的で説得力があるとされている「他人に迷惑を掛けるな」というセリフも、そういった前提があるからこそ力を持つことが出来る。

というのも、その者が身も心も他人の奴隷になり切っていない限り、生存の意識的基盤となっている《何のために》よりも他人の望みである「他人に迷惑を掛けるな※1」が上位に来ようはずもないので。もちろん、何らかの共通の目的を持っている者同士がその目的に於いて「迷惑を掛けるな」と言うのならばそれは無理のあるセリフではない。だが、元々《何のために》が著しく異なっているであろう者同士の間に於いても、当たり前のようにそれが受け入れられる/受け入れるべきであるという考え方は、全体主義的な思想の支えがその後ろに無ければ(無理筋としてしか)成立しない。逆に言えば、そのセリフが一般的なものとして説得力を持っている社会には、それだけ全体主義的な思想が浸透しているということでもある。

つまり、日本に於いて(恐らく世界的に見てもそうだろうが)全体主義は極めてメジャーな思想であると。

 ***


但し、多くの者が全体主義思想を持っている日本が実際に全体主義国家となっているかと言えば、流石にそこまでは言えないだろう(もちろん、個別の事柄や集団に於いては既に全体主義的になっている部分は幾らでもあるだろうが)。

では何故そうならないかというと、それは其々の持つ全体主義思想そのものが競合しているからだ。一言で「社会/国家のために」と言っても、そこで指し示されている社会/国家とは、あくまで“其々が思い描く、よって実際には多様な”社会/国家でしかない。

だから、全ての人間が全体主義思想に染まったからといって、その国が全体主義国家になるとは限らない。多くの人間が全体主義思想を持つことと、その思想の中にある「社会/国家」の内容が一つのものに収斂されることや、《何のために》をそれに従わすべくするシステムが実際に具現化して動き出すことはまた別の話なのだ。



※1 生存競争という一面がある以上、生きるとは他人に迷惑を掛け続けることでもある。また、《何のために》が画一化されることがない以上、それらもまた競合し、お互いに迷惑を掛け合うことになる。即ち、元々社会は誰かが誰かに迷惑を掛けることを前提として成り立っている。「迷惑」もまた社会の一部。「他人に迷惑を掛けてはいけない」と本気で思うのならば、その者はこれ以上他人に迷惑を掛けないようにサッサと死ぬか、もしくは自分が掛ける迷惑に対する強力な鈍感力を身に付けるかしかない。

○○男の恐怖

今日の読売新聞から
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大家の顔をナイフでさす、無職男が殺人未遂容疑(読売新聞)


無職男が殺人未遂容疑

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女性警官、強姦被害者になりすまし容疑者逮捕(読売新聞)

 マンションに押し入り、女性に乱暴し、けがを負わせたとして、大阪府警は11日、大阪市此花区梅香、会社員瀬尾友章容疑者(23)を強姦(ごうかん)致傷容疑などで緊急逮捕した、と発表した。

サラリーマン男が強姦致傷容疑

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書店内で6歳女児に強制わいせつ容疑(読売新聞)

 岐阜県警関署は13日、岐阜市太郎丸、農業山内公男容疑者(64)を強制わいせつ容疑で現行犯逮捕した。

農業男が強制わいせつ容疑

REAPER0.999でsfz+を使用する際に於けるパラアウト設定の仕方

sfz+が無料化しました。これでもう、使用フォントの数だけsfzを複数台立ち上げる必要もなくなったわけです。ということで、小一時間ほど試行錯誤して漸くやり方が分かった、REAPER0.999上でsfz+を使用する場合に於けるパラアウト(マルチアウト)設定の仕方を書き留めておこうと思う。
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今回はsfz+に3つのフォントを読み込ませ、其々を別のトラックから鳴らすというケースを想定してみる。

(1)必要な分だけトラックを作成する(今回は5つ)。

(2)Tr1とTr2を1つのフォルダにし、Tr2でmidiの受信設定を行う。



(3)Tr1にsfz+を立ち上げ、「FILE」から任意のフォントを読み込む。同じように、「CHANNEL」を2、3にして其々任意のフォントを読み込む。この際、「CHANNEL」2の時は「OUTPUT」を2に、「CHANNEL」3の時は「OUTPUT」を3に設定する。



(4)Tr1の「I/O」をクリックし、「Track Channels」の項目を6(パラアウトさせたいパート数×2の数値)に設定。さらに、Tr1から直接音声を出力させないため、「Master/Parent Send」のチェックを外しておく。



(5)再びTr1の「I/O」をクリックし、Tr3、4、5の「Sends」にチェックを入れ、其々Tr3を「channel 1/2→channel 1/2」、Tr4を「channel 3/4→channel 1/2」、Tr5を「channel 5/6→channel 1/2」に設定。



これで後はシーケンサ側から指令を送るだけで、Tr3、4、5から、其々意図したパートの演奏だけが出力されるはずです。

所謂「情報の非対称性問題」

例のバイク王の話だけど。

なぜ中古バイク買い取りは、大量宣伝しても儲かるか(プレジデント)

 普通のバイクショップは、買い取った車両を整備して店頭で販売する。同社はそのバイクをオークション運営会社に持ち込んだ。このカラクリこそ中古バイク買い取りビジネスが儲かる秘訣である。オークションでは即時決済。さらに在庫の負担なしで多額のキャッシュを得ることができる。
 オークション価格以下で買い取れば、買い手を心配しなくても落札されれば、赤字にはならない。キャッシュリッチなうえに、極めて手堅いビジネスなのである。(中略)こうして今では主要オークション取り扱い台数45万6000台のうち約15万台を出品する文字通りの“バイク王”になった。

要するにバイク王って、「普通のバイクショップ」と違って個人から買い付けを行うタイプのセドラー集団なんじゃないか。そしてそれは売る側から見れば、ヤフオクの代行を、下手すれば売れた値段が還元されないかもしれないような形でやってもらっているということでもある。
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そういうことを考えてみると、金銭的な面だけを考えれば、一番いいのは自分でヤフオクをすることだ。どうせ整備もしないんだから、どのみち商品の質は変わらない。とはいえ、ヤフオクに不慣れな人間は、いちいちそれ一品だけのためにノウハウを覚えてまでそのシステムを利用しようとは中々思わない。

だとすれば、最初から普通のヤフオク代行業というものがあれば、そちらに任せた方がいいようにも思う。そして予め、例えば「代行手数料幾らとオークション手数料幾ら、そして売却価格の何パーセントを戴きます。事故車であるなど、後から意図的に隠された瑕疵が発覚した場合、その責任は情報を隠していた側が負うこととします」というような契約内容が知らされていれば、双方の間に生じる情報の非対称性問題はある程度解決され、明朗会計化してトラブルも減るんじゃないか(実際にやってみると、それはまたそれで色々とトラブルが生じてくるのかもしれないが)。

元々、一方が相場を知らされない/事前査定と現地査定での提示価格に極端な差が出る/査定は無料で価格に納得しなければ売らなくてもいいはずなのに、中々それをさせてもらえないような状況が作り出される、などの隠されている情報の存在がトラブルの大きな原因の一つとなっているわけだから。

まあそれだとどうしても商売としての旨みは減ってしまうのかもしれないが、少なくとも後ろめたさを感じる必要のない「労働」を作り出すことは出来るはずだ※1



※1 勿論、ああいう商売の仕方をする人達は元々後ろめたさを感じる感覚が鈍く、それを払拭する必要性も感じてはいないだろうけど。

「労働=善」とは言えない

バイク王呼んだら 女性社員に泣き脅しされたでござるよ の巻 - 『姉ログ』

阿漕な商売してるなあ。一般的に査定と言えば、調査した価格情報を双方が知ることを思い描くだろう。ところがこの場合、調査によって得た情報を調べた側だけが握り、それとはまた別の情報が相手側に告げられている。そうでなければ、“「ではぁ~、1万円でぇ~」”から“揉めにもめて「7万5千円でどうですか?」”というような大幅な提示価格の変更は起こりえないだろう。
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自ら査定が無料であるとうたっているのだから、価格に納得が行かないのなら売らなくても構わない。だが、それでも向こうから来てもらっていることに必要のない「申し訳なさ」を感じてしまうのが日本的道徳感に蝕まれてしまった者のサガ。おまけに個人情報を握られているという状況がある以上、気の弱い人間ならそのまま言い値で売ってしまうだろう。半端でない粘り方をするみたいだし、そういった対応に恐怖感を覚える者だって少なくないはずだ。

この商売は、初めからそういった人間の持つ心の弱さ、或いはもう早くこの状況を終わらせてしまいたいという心情的疲労を狙って行われているものなのだ。要するに、如何に相手に不利な状況で丸め込むか、というのがここで行われている労働の内容。これは法的にはセーフでも、モラル的にはアウトだろう。

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…とはいえ。ここまであからさまなものがゴロゴロしているわけではないかもしれないが、別にこういったタイプの労働は珍しいものでもなんでもない。よく鑑みてみると、大抵の労働は誰かに迷惑を掛けながら行われていることに気づくはずだ。それどころか、本気で一般的道徳を守り切ろうとしたり、誰かに迷惑が掛かることを本気で避けようとすれば、労働の継続どころか、仕事にありつくことさえ難しくなるだろう※1

人間もまた他の生物と同じように、生存競争の渦中にいる。そういう視点から見れば、他者に迷惑を掛けずに生きて行くなんてことは先ずあり得ない。むしろ、生きることは他者に迷惑を掛け続けることである、と言っても決して言いすぎではないくらいだ。

この記事では一般的意味としての「労働」の性質について、「ただ社会を上手く泳いで渡ることが出来る人間が生き残り、それが下手な人間が死んでいくだけ。そして前者の多くは「労働」を獲得する傾向が強い。ただそれだけの話」と書いた。さらに付け加えると、それが生存競争という土台の上で生じているものである以上、そうやって獲得される「労働」の内容は必ずしも道徳と一致するとは限らない。むしろリンクした記事で紹介されていた仕事のように、それと相反するような内容を持つ迷惑な「労働」は幾らでも存在する。だがそれでも「労働」は「労働」。むしろ「労働」の内容が道徳と一致しないのは、ごく当たり前のことなのだ。

そんなわけで、“「労働」=善(道徳的)”であるかのような言説を目に、耳にすると、自分としてはどうしても気持ち悪さを感じてしまうわけです。労働や生存と善悪はまた別の問題でしょ、と。



※1 例えば、自分を欠陥品であると思っている人間は、商品としての自分を他者に売り込むことが出来ない。他人に迷惑が掛かるので。そうすると一般的な方法やルートによって仕事を入手することは極めて難しくなる。

物が売れない一つの理由として

やたら狭いワンルームマンション住まいの人が増えたから、ということが挙げられるような気がする。置く場所が無ければ幾ら物が安くたって買い控えてしまうだろう。

これは不況のせいで広い家に住めなくなったというより、人間生活の最低ラインを低く見積もることを全く厭わない日本人の文化意識があってこそのものだと思う。その結果定番化した住まいの蛸壺化――それは目先の経済性を優先した結果なんだろうけど――が今になって足かせとなって表れ出てきている…という面があるのではないかと。

いずれにせよ、住まいの蛸壺化は成長期の間になんとか解決しておくべきだった。だが、「働くために生活している」というのがこの国の常識。最低ラインが下方修正されることはあっても、それを押し上げようとする社会的意思が働くはずもない。その意思をこそ働かせるべきだったのに。この怠け者め。

それは本当にデフレせい?

どうも違和感があるなあこの記事。

千円CD人気、デフレが伴奏 若者離れ、安値でテコ入れ(朝日新聞)

円高について一切触れていないのは意図的なものだろうか?最近散策していないので断言は出来ないが、輸入盤でも最近のもの、とりわけ比較的マイナーなヨーロッパ盤なんかは、今でも結構な値段(二千円代後半とか)がするんじゃないのか。クラシックの旧譜に関しては以前から元々安かった(五年ほど前に、バッハのオルガン曲全集20CDを二千円で買った)ので今更驚くこともない。それに邦楽の新譜は未だに三千円とかするんでしょう?売れ難くなってはいるかもしれないけど、値段は昔から全く変わっていない。再販制度に守られているせいもあってか。

レコード会社も動き出している。EMIミュージックは今年6月以降、ジャズの名門レーベル「ブルーノート」の有名作100タイトルを1100円で再発売した。今月9日には、さらに50タイトル増やす。うたい文句は「かつてない低価格」だ。

いやいや、ジャズやクラシックの千円盤企画なんて過去に何度もあったし、別に珍しいものでもなんでもない。「かつてない低価格」というのは、単に今までラインナップに載らなかったものがそこに仲間入りしたくらいの意味なんじゃないか(もしくはJAROか)。その他の洋楽だって千二百円企画とかがあったはずだ(この記事に取り上げられているような中途半端な編集版ではなく)。

企画盤以外に関しても、過去に何十万枚も売れた流行り物なんかはファッション的価値が失われると同時に中古市場に大量に品が出回って中古価格が暴落するので、新品をいつまでもバカ高い値段で売っていても仕方がない。そして一度元が取れた旧譜を低価格で販売するというのは必ずしも不健全なこととは言えないだろう。競争のために人件費を削って無理して低価格商品を作るのが問題なのであって。むしろこの業界が持つ問題は、旧譜や編集盤に頼らざるを得なくなっていることの方だ。それはこの業界の舵取りが下手だからなのかもしれないし、単に時代の変化によるものなのかもしれない。だがそれにしたってもうかなり前からその傾向は表れていたはずだ。

勿論デフレは様々なところに影響を及ぼしているだろう。だからそれが全く影響を及ぼしていないとは言えないし、これからもっと顕著な形でそれが表れ出てくるのかもしれない。しかしながら、この記事に書かれている現象だけに限ってみると、それは必ずしもデフレが主要な要因となって生み出されているものには見えない。むしろこの記事の方が、「まずデフレありき」で周りを固めていった結果生み出されたものに見える。つまり「デフレ」のインフレ化によるものなんじゃないかと。まあ今まで音楽市場に興味が無かった人から見れば、そう見えてしまうのかもしれないけど。

予め設定された自明な労働定義は存在しない


「失業者は甘えすぎ」 「人手不足」社長の怒り : J-CASTテレビウォッチ

なんと正社員採用した人達が、次々に止めていくのだ。「体調が悪い」、「仕事が合わない」など様々な理由で、結局誰1人として会社に残らなかった。

その止めていった人達がこの会社の社員として役割を果たせなかったことは事実だろう。しかしこの未曾有の不況下で誰一人残らなかったというのだから、この社長もまた社長としての役割を全く果たせていない。この社長が言うように、芳しい「結果」を残せなかったことがその者の甘え(怠惰さ)を証明するのだとすれば、この社長はとんでもない甘えん坊ということになる。要するに、社長としての役割を上手く果たせなかったのは社員が悪かったからだ、というような一方的な見方しか出来ないからこそ、こういう非難の仕方が出来る。

絶えず求人広告を出しているのだが面接の際に絶句するという。履歴書を見ると、職歴が10個ぐらいズラズラ並べてあるケースが多いそうだ。

職歴の多さをまるで履歴書の傷であるかのように語っているが、自社が持つ離職率の高さという傷は気にならないのだろうか。この不況下で正社員として雇われた者が誰一人残らないような会社が存在することの方がむしろ絶句だ。

「失業者は甘えすぎだよ!昔は働かざるもの食うべからずで、働かなくちゃ生きていけなかったのに、今は働かなくてもいろいろと助けてもらえるからね」

助けてもらえずにいっぱい人は死んどるがな。仮に働かなくても誰かに助けてもらうことで生きていける者がいるとしたら、それはそいつの才能であり、スキルであり、環境適応能力だ。そもそも、働かずに人から助けてもらったり社会システムを上手く利用して生き続けるということは誰にでも出来る芸当ではない。尚且つ、そこにも当然競争がある。そしてその競争の激しさは、恐らく普通に働いて生きていくよりもずっと過酷なものだろう。
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▼(1)副次的存在としての労働

さらに言うなら、「働かざるもの食うべからず」というのは宗教上の戒律(真理としての「正しさ」は存在しない。神が予めそれを設定していない限り。正しさは思想によって初めて生まれる)であって、その宗教に帰依していない者にとっては全く与り知らぬ事柄だ。勝手にそういった思想的共同体を思い描き、誰もがそれ(即ち自分の思想)に貢献してくれるという考え方自体が甘すぎる。

そもそも、労働というのは社会生活の流れの中で副次的に生まれてくるものであって、労働があるから社会生活があるのではない。考え方の順序が逆なのだ。社会を上手く泳いで渡る人間の多くは、結果として「労働」というものを獲得している、というだけの話でしかない。

それ以前に、何を以って労働とするかに関してもまた真理としての形は存在しない。あらゆるものが「労働」になり得る。例えば、人間が生まれて来て死ぬまでに獲得する苦痛そのものが労働である、なんて定義の仕方も出来る。「そんなことはない、労働の正しい定義はこれだ」と言う人もいるだろう。だがそれが真であるためには、予め自明なものとしての労働定義が存在していなければならない。それはつまり、それを設定した神の存在が前提となる。故に、それ以降はもはや宗教論争にしかならない。

恐らく労働教を信じている人達は、予め自明なものとして定義された「労働」を誰かが行えばその分だけこの社会に“人を生かすエネルギー”みたいなものが蓄積されていき、人々はそのエネルギーを分け合って生きている、みたいなイメージを頭に思い描いているのではないかと思う。だから、「労働」によってそのエネルギーの蓄積に寄与しない人間が生き続けるのはおかしい、という話しになる。しかしそんな“人を生かすエネルギー”みたいなものは存在しない。ただ社会を上手く泳いで渡ることが出来る人間が生き残り、それが下手な人間が死んでいくだけ。そして前者の多くは「労働」を獲得する傾向が強い。ただそれだけの話なのだ。

▼(2)敵対的な関係にある者に共同体的規範が求められるおかしさ

大体日本人というのは、お互い不幸な目に遭えばメシウマし合い、窮地に陥っている者あれば自己責任といって追い討ちを掛け、相手を道徳という偽のルールで縛りつけて出し抜いたり、誰かを祭りの生贄に捧げることで己の求心力を高めようとしたり、その祭りに参加することでストレスを解消し、自尊心という快楽を手に入れようとしたり、そういう足の引っ張り合いばかりしている民族だろう。そういう現状がありながら、今更半分敗れかけている張りぼての共同体思想を持ち出してこられても、何を眠たいこと言うとんねん、としか思えない。同じ国籍を持つというだけで元々敵対状態に近い者に共同体規範を求めてどうするのかと。勿論その要求に応えてしまうお人よしの人間もいるだろうが、本来、相手から共同体的配慮を得ようとするのならば、まずお互いに良好な関係性を築き上げることの方が先のはずだ。ところがその手順がすっとばされ、敵対状態のままでいるはずの相手からいきなり共同体規範に従うことが求められたりする不可思議。

▼(3)労働環境/思想という商品

再び引用した記事の話題に戻るが、市場という視点から見てもこの社長の言い分には相当無理がある。就職活動は、求職者からすれば自分と言う商品を企業へと売り込む行為でもあるが、それは同時に、企業側からすれば“労働環境(条件)という商品”を求職者に売っているという側面もある。当たり前の話だが、市場というのはそういった相互的な関係の下に成り立っている。この社長はそこを完全に勘違いしている。市場を一方的なものであると思い込んでいるのだ。

会社の経営としては難しい時期かもしれないが、日本の法的緩さ、甘さも伴って、純粋に“労働環境という商品”を売る側からすれば、これ程恵まれた環境もないだろう。そういった恵まれた環境にありながら、その商品の返品や販売不振がそれだけ続くということは、よほど酷い商品を売りつけていたとしか思えない。

大して魅力もない商品を適当に並べて売ってみたものの、誰も買いに来なくて憤慨するというのは正に武士の商法そのものだ。それは市場というものを余りにも舐め過ぎた態度だろう。

そしてそれは彼の唱える規範の後ろ盾となっている共同体思想にも言える。もしそういった思想的共同体を作り、人々にそれが備え持つ規範に従ってもらおうとするのならば、その提唱者は単にそれを要求するだけでは駄目だ。それを唱える側の人間は、規範に従ってその共同体の一員となることの魅力や有益さを人々に説いて納得させなければならない。そのためには当然人望だって必要になるだろう。武士の商法のように偉そうに踏ん反り返って「お前らこれ(思想)を買え」と命令しているだけではお話にならないのだ。

Now FREE

ちょっと前に、今ならsfz+がフリーでダウンロード出来るという話を目にしたのだが、風邪を引いていて調子が悪い(今だに直っていない)し、いちいちアカウントを作らなければならないという話だったので、「もういいか」と思って放置していた。しかし今それを思い出して検索してみたところ、まだ普通にダウンロード出来るようだ(12/4、22時現在)。しかもアカウントを作る必要もないみたい。

さらに、sfz+以外にも四つ程のVSTがフリーでダウンロード出来る。取り合えずSquareIとsfz+をUniExtractで取り出して立ち上げてみたが、普通に使えそう。まあただvsthostで立ち上げてみただけなので、実際のことろは分からないけど。他の三つはインストール時にシリアルが必要みたいなのでまだインストールしていないが、解凍したフォルダのテキスト中にそれらしいものがあるので、多分これでいけるんじゃないかな。これもまた実際にやったわけではないので確証は無いですが(インストール型はどうしても敬遠しがちになる)。

これらはその内フリーではなくなるかもしれない、という話もあるので、興味のある人は取り敢えず落とせるうちに落としておいた方が良いでしょう。

一休さんと労働問題

義満「この屏風の中の虎は、日がな一日寝そべってばかりでまったく動こうともせん。そのくせ一丁前に腹だけは減るとみえ、夜な夜なここから抜け出して来ては家畜を襲う始末で、家臣一同ほとほと困り果てておる。そこでこの怠け者の虎をなんとか――せめて餌になる家畜に見合う分だけでも――働かせてもらおうと思ってそちを呼び寄せた次第じゃ。どうじゃ、この一件、引き受けてくれるか?一休」

一休「かしこまりました。わたくしが説得してこの虎を働かせましょう。それではまず、この虎が存分に活躍出来る仕事場をお作りください」

風邪ひいた×精神論を否定する物語が不足しています

風邪をひいてからもう一週間近く経つのにまだ直らない。まあ症状は咳が止まらないくらいで大したことはないが、もういい加減に直ってもらいたい。もし働いていたら大打撃だよ。まあ働いてないからいいけど。
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それでなくとも普段からずっと疲れ気味で、温度がちょっとでも変わるだけで鼻水が止まらなくなるし、おまけに慢性便秘で年中苦しいし、そのお陰で熟睡出来ることなんて滅多にないし、冷え性だし、ちょっとしたことでももの凄くストレスを感じてそれが長々と尾を引いたりして、ほんと脆弱なんだよな、この身体と感覚は。

その上自分の存在自体に後ろめたさを感じているから、ちょっとしたコミュニケーションを取るだけでもものすごい抵抗感を感じながらそれを行わなければならない。その結果、どうしてもその振る舞いが不自然で挙動不振なものになってしまうという。とにかく会話を成立させなければならないと思って無理やりそれを推し進めると、いつの間にか自分が思っていることと正反対のことを言っていて、それ以後それを前提に話を進めなければならなくなったりして。

この脆弱な感覚・性質を「努力と根性さえあれば何とかなる」と言って憚らない人間――つまり、己の意思で自分の周りの状況をコントロール出来る/してきたと思っている精神論者達に感染させることが出来る能力があればいいのに、と時々思う。その能力を使えば、一、二ヶ月でターゲットとする立派な社会人を駄目人間へと追い込むことが出来そうな気がする。そうなればその者達も、自分達が他人に押し付けてきたその考え方が如何に罪深いものであったかということに気づかざるを得なくなるだろう。

 ***

日本で作成される物語の殆どは、非精神論者が悔い改めて精神論へと改宗するというようなものばかり。ならばそのカウンターとしてそういった逆の物語がもっと作成されていてもよさそうなものだが、実際には殆ど無い。まあ相手の主張や手法をただ反転させただけの批判というものが批判として如何に駄目なものであるかということは分かっているけど、それはまた別として、娯楽としてそういうものがもっとあってもいいはずだと思うんだけど。しかしそれが殆どないということは、やはりそれだけ精神論が幅を利かせているということなんだろうな。自分の思想が精神論を前提としたものであるということに気づいていないために、限定的な「精神論」を批判している精神論者も多いことだし。

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後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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