ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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人生に共通の目的や道筋は存在しない~労働に関する考察のまとめ

 *構成*

 (1)やってることは同じなんじゃないか?
 (2)ブランドとしての≪労働≫
 (3)人生に共通の目的や道筋は存在しない
 (4)≪労働≫は誰かの役に立つと同時に誰かの迷惑にもなっている
 (5)共通の目的が無ければ共通の役割も存在しない
 (6)社会的役割説の罠

この記事では、より広範な意味での労働を(括弧無しの)労働、個人的定義としての労働を「労働」、保守的で何となく善的なイメージを持つ一般的意味としての労働を≪労働≫として書き分けている。

  *導入*

たけしがニートに激怒 「働けよ、バカ野郎!」(ニッポンのミカタ!/テレビ東京)

少し前に、この番組に出演したphaという人物のブログが、番組を見た人達によって荒らされるなどして、ちょっとした騒ぎになっていたようだ。その時は心身ともに調子が悪かったので、精神衛生上良くないと思ってスルーしていたが、ようやく見た。今も調子悪いけど。
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 *(1)やってることは同じなんじゃないか?*

これを見てまず疑問に思ったのは、ビートたけし氏はこの人物に向かって「働けよ、バカ野郎!」と言うが、このphaという人物がやっていることは芸能人のやっているそれと何ら変わらないんじゃないか?ということ。ネットを使って広告代理業を行ったり、ある種のコンテンツを提供し、それによって人々の興味を引き付けることで収入を得ているわけだから。

――「ネットに「お金無くて困ってるんです」って書いたら 割と誰かが振り込んでくれたり。」

人によってはそれが物乞いみたいで卑しいと言う。しかし、物乞いはそういった何らかの態度をとって見せ、人々の心に訴えかけるという労働をすることによってお金を得ている。それはテレビだって同じことだろう。誰かが敢えてフザケタ態度を取るなどして人々の注目を集め、それを上手く利用してお金を得ている。「企業に「お金無くて困ってるんです」って言ったら、割と誰かが振り込んでくれたり。」みたいなものだ。そしてこれは、もっと一般的な職種でも似たようなものだろう。その場合もまた、組織/上役に従順な態度を取って見せるなどしてご機嫌を取り、それによってお金を得ている。

――いや、自分達はその活動によって利益を生み出し、社会に貢献しているから彼とは違う、と言う人もいるかもしれない。だがその主張を採用するならば、赤字の会社はむしろ社会に損害をもたらしていることになる。そして赤字の会社に勤める者は、給料をもらえないどころか、むしろ働けば働くほど大きな借金を背負わなければならない、ということになるだろう。…だが実際にはそうはなっていない。そもそも、完全にではなくとも、この社会もまたゼロサム的な側面を持っているのだから、単純に利益を上げたからそれが社会のためになる、というような見方もできない。結局のところ、所詮「金は天下の回り物」でしかない、というのが実際のところだろう。だから、金銭を獲得する際に最も重要な要件は、如何に金回りの良い場所や時代の傍にいるか、如何にそのポジションを獲得するか、ということに尽きる。そう考えれば、道徳的労働論と金銭との間に生じるような無理が生じることもない。――

話を戻すと、つまり芸能人とpha氏は、基本的には同じことをしている。ただし、一方は既存のルートを使い、旧来型枠組みの一員としてそれを行っている。それに対し、もう一方はネットという新しいルートを使い、(基本的に)個人でそれを行っている。ただそれだけの違い。だが何故か、既存の一般的ルートに於けるその活動は≪労働≫という何かもっともらしい肩書きが付され、もう一方のそれは卑しい活動であるかのようにみなされる。そしてその肩書きを得た側は、それを大儀としてもう一方の側に暴力的な態度を取ってみせる。

 *(2)ブランドとしての≪労働≫*

妙なのは、こういった新規ルートを使った活動が卑しいものであるかのように扱われる一方、坂本龍馬や織田信長などといった、新規ルートを一般化し、新しい時代を切り開いた象徴としてのイメージを持つ過去の偉人達は、常に高い人気を誇っているということだ。現にpha氏を卑しい者のように扱ったテレビは、何度となくそういった歴史上の人物の新規ルート開拓活動を称揚してきた。彼らの中には非道徳的どころか、非道の限りを尽くしたとさえ言える者だっているのに。そして一般視聴者の多くは、その称揚とこの罵倒をそのまま素直に受け取っているようなところがある。新しい時代を切り開いたとされる過去の偉人を好む者が、自らは頑迷なまでに保守的だったりするというのはよくある話だが、その傾向はここにも表れている。

しかしもしその者が、過去の偉人が行った事柄と言うより、その偉人の老舗ブランドとしてのイメージの方に惹かれているのだとすれば、それを好む者が保守的であるというのは、ある種当然のこととも言えるだろう。そして同じように、≪労働≫もまた、一般的にはむしろそういった保守的なブランド・イメージとしての部分に注目が集まっていることが多いのではないか。

例えば、ブック・オフなどに出没するセドラーは、忌み嫌われていることが多い。まあ店の利用者からすれば、彼らがやって来れば掘り出し物は全てゴッソリ持って行かれるので、余りいい気がしないのは確かだ。しかし安く仕入れて高く売るというのは、商売の基本中の基本だ。多くの企業は、内容的にはセドラーと同じことをして利益を上げている。或いは、ホームレスがやっているような、資源を集めてそれを売るという仕事もまた、非常に一般的なものだ。企業が行っていれば。そしてそれはpha氏がやっている広告代理業にしても同じことだ。これらが一般的≪労働≫と違うのは、それを組織的に行っているか否か、或いは既存の馴染みある形式やルートを使っているか否かの違いくらいだろう。

ところが、結果としてその両者の間には著しいイメージ的落差が生じる。どうやらこの社会では、馴染みのある形式や組織/集団を通さずに行われる活動は、著しく悪いイメージを伴ったものとして捉えられてしまうらしい。一方、内容的には同じことをしていても、一旦馴染みのある一般的ルートを通せば、むしろそのイメージは反転し、「人の役に立っている」という良いイメージでもって人々に迎え入れられる。

 *(3)人生に共通の目的や道筋は存在しない*


この手の「労働」論議は、何故いつも紛糾するのか。それは結局のところ、自身の存在意義の獲得を「(「他人の役に立っている」というなんとなく善的なイメージを持つ一般的意味としての)≪労働≫」に依存している人が多いからなのではないか。私は≪労働≫をすることで「他人の役に立っている」。だから存在してもよい、というように。そしてその感覚をそのまま他人に当て嵌めてみれば、≪労働≫をしていない――或いはブランドイメージの悪い「他人の役に立たない」労働をしている――人間は存在意義が無い、ということになる。

逆に言えば、存在意義を≪労働≫に依存している人間は、その重要性が他人に認められなければ、それによって己の存在意義自体が否定されたかのように感じてしまう。だから他人のそういった認識に対し、拒絶反応を示す者が出てくる。つまり、双方の間に相手の労働観を否定することでしか自身の存在意義を肯定できないような関係性が作り出され、結果、議論というよりは、お互いの存在意義を否定し合うことを目的とした泥仕合に発展してしまう。

…だが、そもそも生命は何か確固たる意味や価値、目的があって存在しているわけではない。それらは本来、今そこにそういう状況が形成されているという、ただそれだけの事実しか示さない。それは人間の存在や、≪労働≫という状況の形成にも言えることだろう。

しかし人間はそこに様々な意味を見出す。ただ一つ言えるのは、其々が見出したそれらは、決して一つには統一されることはないということだ。何のために生き、何に価値を感じ、世界をどのような意味で捉えているか。何をもって「労働」とし、何をもってそうでないとするのか。その解釈もまた人其々。元々人間はその資質からして、皆が同じ道筋を辿って同じ枠組みに納まるようには出来ていない。もちろん、全ての人間が共有すべき意味や目的があると主張する者もいるが、その主張はもやは信仰上のそれでしかないだろう。そしてそれを無理に統一しようとすれば、全体主義になる。だがそのベクトルを目指すことが多くの者にとって良い結果にはならないであろうことは、歴史的知識として既に蓄えられているはずだ。だからこそ、宗教には信教の自由という歯止めが掛けられ、全体主義は忌み嫌われる。

――予め設定された自明な労働定義など存在しない。神が事前にそれを設定していでもしない限り。だから労働というのは本来、常に其々が定義/イメージするそれでしかない。もちろん、信教の自由という観点からして、自らの定義する「労働」に何か特別な意味や価値を見出し、それを人生の目的の上位に置くのは自由だ。また、一般的意味としての≪労働≫をしている自分に誇りを抱くのも構わない。だが同じ観点からして、他者の「労働」解釈もまた尊重すべきだろう。

 *(4)≪労働≫は誰かの役に立つと同時に誰かの迷惑にもなっている*

では、自分は労働についてどのような認識を持っているか。少なくとも特に一般的意味としての≪労働≫については、考えれば考えるほど、それは手放しに賞賛できるような代物ではないとの思いが強まっていく、というのが本音だ。

――例えば、冒頭で取り上げたあのテレビ番組。あそこで行われている≪労働≫の内容とはどのようなものか。

あの番組はジャンル的に言えば、所謂「報道バラエティー」というものに当たるだろう。しかし扱っている問題は現実に起こっている社会問題であり、人の人生や生死、国の行く末にも関わる重大な問題だ。それ故、扱う話題上、どうしても報道という性質、つまりジャーナリズムとしての機能を伴ってしまうことは免れないだろう。そういう視点から見た時、幾ら後ろに「バラエティー」というエクスキューズが付こうとも、若年層に無職者が急増していることの原因が「ゆとり教育」にあるかのうように伝えるのは、報道として余りにもお粗末過ぎる。状況分析を行う頭脳労働の質としても、それは下の下だろう。

また、例によって無職者を極端にカリカチュアライズした形で伝えると同時に、失業問題を、恰も完全雇用社会下における個々の労働意識の欠如の結果であるかのように伝えている。彼らがジャーナリズムとして労働問題に真剣に向かい合おうとした姿勢は、あの番組からは露ほども見受けられない。つまりあそこでは、本来彼らの仕事に課されているはずの重要な役割の一つが、初めから放棄されている(――それは、彼らが彼らの立場に求められる社会的機能/役割のために≪労働≫をしているのではない、ということを示している)。これをもし、「いや、あくまで“報道バラエティー”であって、“報道”ではないから」と言うのなら、その態度は、「いや、虐めじゃないよ、イジリだよ」というあの態度と何ら変わらないだろう。

――人々の興味を惹くために、「ゆとり教育」のせいで無職者が増えたなどというような怪しげな情報を流して社会を混乱させ、問題の核心から目を背けさせる。或いは誰かを貶めることで人々の注目を集めようとする。それがあそこで行われている≪労働≫の内容だ。まあ確かに、それを娯楽として提供することによって人々に喜びをもたらしているということからすれば、この≪労働≫もまた誰かの役に立っているとは言える。だがそれは同時に、他の誰かに大きな迷惑を掛ける行為であることもまた間違いない。

そしてこれ――誰かの役に立っていると同時に、誰かに迷惑を掛けている――は何もテレビに限ったことではなく、多くの≪労働≫についても言えることなのではないか?「果たしてこの契約を結ぶことが、相手にとって本当に良いことになるだろうか?」「いきなり電話なんかかけたら迷惑なんじゃないだろうか?」「相手の気の弱さに付け込んで物を売りつけるのはいかがなものか」なんてことを考えていたら、営業成績が上がるはずもない。実際、相手に損をさせることを目的とした仕事なんて山のようにあるだから(――そういう意味では、VTR上における営業成績の悪い“仰天おゆとりさま”の「これ以上は もう無理です」は、むしろ道徳的には正しい態度と言えるだろう。それとも、「バイク王」のアレのように、相手の意向を無視した形で成績を上げるような活動がもっと活発化した方が良い社会になるのだろうか?)

それは≪労働≫行為の前提となる、≪労働≫環境獲得の段階でも言える。例えば就職活動というのは、自分という商品を他人に売り込む行為でもある。よって、自己評価の低い人間は、価値の無い商品を他人に売りつけるような気持ちでそれを行わなければならない。だがそういう認識がある以上、それはその当人にからすれば他人への迷惑行為ということになるだろう。しかしそんな気持ちでは、競争に勝ってまともな≪労働≫環境を手に入れることは難しい。エスカレーター式の終身雇用時代なら忍耐さえあればなんとかなったかもしれないが、今の時代はそれと同時に、まず前提としてある程度の自己評価が必要となる。それが無いと、内面に植えつけられた道徳感によって阻害され、競争の場に辿り着くことさえ難しくなる。

――つまり、自分の行為や他人との関わりが、誰かに迷惑を掛けることになるのではないか、などといちいち真剣に考えていたら、≪労働≫をすることはおろか、≪労働≫環境を手に入れることすらできなくなってしまう。そもそも、道徳的に「相手の立場に立ってものを考える」人間が、競争に勝てるはずもない。

 ***

しかし、道徳は常に人に≪労働≫環境を獲得し、そこで成果を出すことを求める。そしてそれと同時に、他人に迷惑を掛けずにいることもまた迫る。少しでも≪労働≫や道徳について鑑みたことがある者ならば、その二つの要請の間で引き裂かれ、苦しんだことが必ずあるはずだ。それ故に≪労働≫環境の獲得や、≪労働≫の成果を逃してしまったこともあるかもしれない。

では、その獲得されなかった≪労働≫環境や成果はどうなるのか。多くの場合、他の誰かが持ち去ることになるだろう。だが、もしその者が道徳によって逡巡していなければ、それらはその者が獲得できていたかもしれない。にもかかわらず、それを持ち去られたことを、その原因の一旦でもある道徳を根拠にして再び誰かから叱責される。――そうして考えてみると、競争社会で道徳を吹聴し、その感覚を他人に植え付けるという行為は、他人を欺き、フェアな競争を疎外している大きな要因の一つにもなっているんじゃないか?それ自体が、誰かに迷惑を掛ける行為そのものであるとも言えるのではないか?

――だが。こうした道徳による欺きや、≪労働≫活動に伴う迷惑行為の発生は、ある種当然起こるべくして起こっていることとも言える。というのも、人間の社会生活もまた、他の生物と同じように、生存競争という一面を持っているからだ。その視点から見てみると、人が生き続けるということは、他人に迷惑を掛け続けるということでもある。道徳による欺きや≪労働≫による迷惑行為は、その一環として生まれて来ているものでもあるだろう。

要するに、≪労働≫の正しさの根拠を、道徳や「誰かの役に立っている」という理由に求めるのには無理がある。また、道徳と≪労働≫が一枚岩で、常に同じベクトルを向いている、などという単純な問題でもない。そもそも道徳自体が、根っからの詐欺師みたいな性質を持っているわけだから。

 *(5)共通の目的が無ければ共通の役割も存在しない*

では、一体≪労働≫とは何なのか。

社会を上手く泳いで渡ることが出来る人間が生き残り、それが下手な人間が死んでいく。その中で、前者の多くはある一定の枠組み――周りからそうであると認識される、大抵は労使関係を伴ったそれ――に収まる傾向が強い。そしてその枠組みに収まり続ける状態のことを、人は≪労働≫と呼ぶ。≪労働≫の存在は、それ以上のことは何も示さない。ただそれだけのもの。…というのが自分なりの≪労働≫に関する見方だ。

だが、多くの者はそれに何か重要な役割があるに違いないと信じる。――もちろんそれ自体は何も悪いことではないし、そこに何を見出そうがそれはその者の勝手だ。(ここからは「(2)」で述べたことと被る部分もあるが、)ただ一つ注意しておかなければならないのは、そこで信じられている役割とは、初めから個人の外部に存在しているものというよりは、後から個人の内部に思想として生み出されているものであろう、ということだ。

――例えば。多様性というのは、後から獲得されるものではない。それは、人類が既に獲得しているものだ。全ての人間が一つの枠組みに収まることが無い性質を持っていたからこそ、人類はここまで生き残って来れた。そこから逆算してみると、その多様性を支えて来たあらゆる類の人間は全て、今のこの状態の形成のために役に立っていた、ということになる。何故なら、それらの存在無しに今のこの世界は存在し得なかったのだから…。

役割説とは大抵こういったものだ。ただ、こういった役割説には大きな瑕疵があると言わざるを得ないだろう。地球は一つの生命体であり、地球上の全ての生物は、地球存続の役に立っている、というような考えに無理があるのと同じように。

というのも、それは結果として今そういう状態が作り出されているというだけの話であって、何も其々の生物は地球存続を目的として活動していたわけではないだろう。そこで言われる役割は、あくまで逆算から生み出された後付けのものでしかない。同じように、其々の人間は、人類を存続させるという共通の目的のために活動して来たわけではないし、社会のために生まれてきたのでもない(そもそも、統一的な意図や目的を持った主体としての「社会」自体存在しない。それはあくまで群集。よって、「社会のため」の「社会」は、「自身の内面に作り出された社会像」であり、即ち自分自身)。そして当然ながら、共通の目的が無ければ共通の役割も存在しない。つまり、社会という曖昧な枠組みを支える役割のために≪労働≫が行われているというよりは、そこにある状況(≪労働≫)に後から役割が見出されているといった方が適切だ。

もちろん、あるシステムや理念を設定した上での共通の役割というものは存在する。しかしシステムの理想像はこの世の全てを包括し得ないし(それに挑戦するのが全体主義)、一つの理念や理想、社会/世界観を全ての人間が共有することもない。つまり、社会的役割というのは基本的に個々人の内部に思想として見出されるものであり、個人の外部に初めから全ての者が共有し得るものとしてその実態が存在しているわけではない。――ただし。其々との間で何らかの理念を共有することができれば、当然そこに共通の役割というものも生まれ得る。権利と義務という関係は、そこで初めて誕生する。だがそれは、共通の役割を誰かに求めるならば、まず前提として、その者と何らかの理念を共有できるような信頼関係を築かなければならない、ということを意味する。

 *(6)社会的役割説の罠*

包括的な社会的役割説は、一見弱者に優しいようにも見える。「今そうしているあなたも、きっと何か社会の役に立っているはずですよ」と言われれば、自身を失っている者も自分の存在に何か価値を見出せるかもしれない。

だがこれは逆に言えば、現状をそのまま受け入れるということだから、今の状況を変える必要性が無いということにもなりかねない。pha氏のように、「今の状況がずっと続けばいい」と思う人はともかく、今の状況から抜け出したいと思っている者だっているはずだ。そういう者が、「いや、今のままのあなたで十分他人の役に立っていますよ」と言われたところで、それは果たして救いになるだろうか?例え本当にそれが何かの役に立っていたとして、その役割による状態と目的が自分の望むものと異なっていれば、やはりそれはその者にとって良いこととは言えないはずだ。というのも、社会的役割説を採れば、「あなたは社会のために苦しみ抜いて死ぬ、そういう役割を担わされて生まれて来たのですよ」みたいなことも十分にあり得るわけだから。「生贄」なんかは、正にそういう役割を担わせられている。

というわけで、自分は人間一般に課された画一的な社会的役割説という考え方は採らない。もちろん、自身が望んでやっていることが結果として誰かの役に立てば、それに越したことはないが、その逆であるべきではないだろう。

 *結び*


他にも色々書きたいことはあったが、そろそろ気力が尽きて来たので、もうここら辺で止めにしておく。余裕が無くなってくると、また曖昧な集合体としての“何か”と戦い始めてしまいそうになるので。そうなれば自ずと冷静さも失われ、後でそれを見てガッカリするような結果を生むだけだろう。
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努力のブレーキ機能、「努力」に逃げない考察・解説

時事ドットコム:野村克也氏が放送席で観戦=大相撲

NHKの『サンデースポーツ』で、この話題が取り上げられていた。

ここでは触れられていないが、そこで放映されたVTRの中で野村氏は、日本人力士の不甲斐ない成績の原因について訊かれたところ、ハングリー精神の無さや、努力の足りなさという理由でそれを説明していた。曰く、努力には即効性がないのに直ぐに効果が出ると思っているから、効果が出ないと直ぐに努力を止めてしまうのだと。そしてそのVTRあけに、ナントカ親方が一言。「その通り!」

一体この手のやり取りを何万回見せられてきたことか。しかし、実は「努力」という便利な概念に状況の説明を頼り切りにし、誰かの努力の足りなさを解消することだけで問題の解決を図ろうとしてきた、その思考の硬直化とルーチン・ワークこそが、様々な場所に於ける状況打開の機会を奪って来た、という面もあるのではないか※1
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・その者が本来どれ程の可能性を持っていて、努力によってそれをどれ程引き出すことが出来るのか、ということは実のところ誰にも分からない。

・世の中には様々な制限がある。心身共に無限のエネルギーと修復性が備わっているわけではないし、機会費用・比較優位の問題もある。つまり、誤った方向で努力をしてしまえば、努力故に身を滅ぼす結果にもなり得る。身を滅ぼすとまでは行かなくとも、実際にそういった失敗を繰り返して来た経験を持つ者も多いんじゃないか?要するに、どのような方向で努力をすればその者にとって良い結果になるのか、ということ自体が分からない。だからこそ人々は努力することを躊躇してしまう。

・逆に言えば、それらが分からないからこそ、何でも「努力」が原因であるかのように言うことが出来てしまう。それ故、物事を説明する際に安易にその概念に頼ってしまう人達が大勢出てくる。まあそれはその者が最大限の力を尽くした結果としての思考能力の限界なのかもしれないが、もしそうでないとすれば、そういった安易な「努力」概念の利用自体が思考の怠惰と言えるだろう。

・何らかの努力を続ける人間の多くは、その努力が功を奏しているという実感を持っている。それがモチベーションとなり、その継続を可能としている。そこには必然的な理由がある。

・だから、直ぐに効果が出ないが故に努力の継続を止めてしまうという現象は確かにあるだろう。しかし逆に、直ぐに効果が出始める者もいる。ということは、それはむしろ努力の持つブレーキ機能と考えた方がいいのではないか。つまり、効果が中々出ないということは、その方向での努力は限られた資源の無駄遣いになる可能性が高い、ということを示しているとも考えられるのではないか?

・大抵の事柄には競争相手がいる。そして結果はその相手との関係性によって形成される。仮に後から効果が出て来るとしても、直ぐに効果が表れる者とそうでない者の間には、大きな差が生じる可能性が高い。そしてその差が成果の大きさとして反映される。――もちろん、後の急成長という可能性も無くは無いが――効果の出なさ具合は、もっと他に努力の方向を向けた方が良いよ、という危険信号なのかもしれない。

・野球選手になれなかった者が、四十過ぎても「いつか俺もメジャーへ行ってイチローを超えてやる」と言って一日中バットを振り続けていれば、それはただの愚か者だろう。しかし、結果も出ないのに様々なものを犠牲にしてそれだけのことを続けていたのだとすれば、それは恐ろしいまでの努力継続能力だ。単純に外見上から見れば、その者の努力度合いの高さはそこいらのプロ野球選手を遥かに上回っていると言えるかもしれない。でもやっぱりその努力は愚行だとしか言いようがない。

・もしある者が誰かの吹聴による努力の継続で、人生に於ける貴重な資源を無駄遣いしてしまったとしたら、それが取り返しのつかない結果を生んでしまったとしたら、それを吹聴をした人間は、一体どうやってその責任を取るつもりなのだろう?

・逆に、相手のある方向での努力がお互いにとって必ず良い結果になるという確信があり、それ故にそれをさせたいと思うのならば、単にそれを無理矢理押し付けようとするのではなく(「やらされた努力」の効果は半減するだろうし、失敗した時に怨嗟を生む)、どういう状況を作ればその者がその方向で動いてくれるのか、ということを考えて実践することこそが、努力をするということなのではないか?つまり「あいつが努力をしないから悪いんだ」と言い続けるのは、それ自体が努力とは逆のベクトルなのではないか。

・例えば、実際には努力の効果が出ているのに、当人はそれに気づかないということもある。楽器練習などにおいてメトロノームを用いるのは、ちゃんと効果が出ていることを認識させ、モチベーションを持続させるため、という意味もあるだろう。努力を要求する側は、「相手が努力をしないという問題」に、そういった具体的な方法(提案)で臨む必要がある。

・あらゆる状況は常に、人と人、個人と環境といった、互いの相互的な関係性の連続の上に成り立っている。よって、もしある状況を変化させようとすれば、お互いが変化しなければならない。だが、誰だって自分を変えるのは苦しいし難しい。しかし、もし一方的に相手の努力の足りなさだけに問題の原因があるのだとすれば、その状況の打開において、「自分は変わらなくいい」ということになる。

・だからこそ、人はついつい「努力」という概念に頼ろうとしてしまうのではないか。つまり、「努力しろ」「お前の努力不足が原因だ」という言は、実は「俺は変わる努力をしないぞ」「俺には問題の原因は無いぞ」という言でもあるのではないかと。

 ***

もし小論文で「~が何故そうなったのか、その理由を考えなさい」という問題があったとして、「それは誰それの努力が足りなかったから」なんて答えを書いたとしたら、それはもうどうしようもなく駄目な回答だろう。

自分は壊滅的なまでに小論文とかが書けない人間なので、入試とか全くどうにもならない。だから試験開始と同時にバキバキ論文を書き始めることが出来る人達が羨ましくて仕方がないわけだけど、そういう試験に何度も通ってきたであろう優秀な人達が、こと実技となると、何故「努力云々」というそんな判で押したような陳腐な回答ばかりを出してくるのか不思議でならない。上で書いたように、その方が立場的に有利だから?



※1 大相撲の場合、外国人力士が沢山入ってきた時点で、日本人力士がこれまで通りの戦績を残すことが出来るような余地はもう余り残されてはいないだろうけど。そもそも、身体にも健康にも悪い上、閉鎖的でリンチが蔓延り、若い者に人気もない。無理矢理つれてこられた人達が嫌々練習をし、そして度々部屋を逃げ出す。成績を出さなければお前の努力が足りないからだと一方的に責め立てられ、成績を出しても態度が悪いといって嫌がらせを受ける。そんなスポーツに有望な人材が集まってくるはずもない。まずはそこら辺をどうにかしないと、益々尻すぼみになるだけだろう。

「LoopDrive」がversion4にメジャー・アップデートしてた

LoopDrive updated to version 4(yedey)

version3では――他のDAWでは分からないが少なくともREAPERでは――DAW側でプロジェクトを保存しても、「LoopDrive」内に読み込んだwavファイルの設定が保存出来なかった。だがその問題も今回のアップデートで改善されている。これでかなり使い易くなった。

Vienaメモ

QLSO Freeのサンプルをフォント化する際に気づいた個人的なメモ。
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・サンプルを読み込む前に一度全てのサンプルに耳を通し、修正の必要なものがないかどうかを確認しておく。(←書き忘れていたので追記:1/6)

・「Arr Splits」はなるべく使用せず、出来るだけ一覧表で数値の入力を済ませたほうがよい。二つを余り併用しすぎるとファイルが壊れる可能性が高まるような気がする。「Arr Splits」を使用するのは、一覧表で「Root Key」を入力した後に「Key Range」を設定する時だけに留めておいた方がよさそう。

・「Sample Mood」をループにするとバグり易くなる?ループの設定をする場合はなるべく最後にした方がよいかも。

・読み込んだサンプルのファイル名には長さ制限があり、それを超えるものは一部が欠損してしまう。よってファイル名が長く、最後に目安となる数値など重要な記述がある場合、予め短い名前に変更して読み込んだ方がよい。

・インストゥルメントはレイヤーごとに分けて作り、さらに「Velocity Range」はインストゥルメントよりもプリセット側で指定した方がよい。その方が入力作業を大幅に減らせる上、作成したインストゥルメントの使いまわし※1も利く。

・「Preset」ナンバーはGMの音色番号から1マイナスした数値で設定する(GMの音色番号は1から始まっているが、「Preset」は0から始まるので)。

※1 例えばレイヤーがピアノとフォルテしか用意されていない場合、「Velocity Range」が指定されていないレイヤーごとの個別のインストゥルメントを使えば、プリセット側の「Bank」指定でサンプル(ピアノ/フォルテ)を切り替えるタイプのものと、二つのサンプルをベロシティで切り替えるタイプのものを簡単に作ることが出来る。この場合プリセットは、2つのレイヤー(インストゥルメント)が混在するものと、ピアノのみのものとフォルテのみのものの3つ必要になる。もちろん、色々数値をいじったプリセットをもっと沢山作ってもよい。

 ***

因みに、QLSO Freeのサンプルの中身は大体以下のようなもので構成されていた(この他にも音の切れ際の音?みたいなサンプルが結構入っている)。

「スレイベル」
「タンバリン」
「トライアングル」
「クロタル」
「オーケストラチャイム」
「マリンバ」
「ソロ・バスーン」
「ソロ・イングリッシュ・ホルン」
「ソロ・フルート(Qレガート)」
「ソロ・トロンボーン(Qレガート)」
「2トランペット(Qレガート)」
「2トランペット(スタッカート)」
「ソロ・フレンチ・ホルン(Qレガート)」
「6フレンチ・ホルン(スタッカート)」
「ストリングス関連(ソロは無い)」
・ヴァイオリン
・チェロ
・ヴィオラ(ピッチカート)
・コントラバス(刻み)

上の三つとスタッカート以外は全てフォント化し終わった。但し、ループ設定は面倒な上に中々上手くいかないので殆どいじっていない。後、「Root Key」の数値をサンプル番号に合わせるだけでは上手く行かない(オクターブ違いや1音ズレなど)ものが幾つかあった。ヴァイオリンはアタック・ノイズがかなり煩いサンプルが結構あったのでそれらをEQで補正してからフォント化。「Qレガート」はそのままではちょっと使いにくい感じなので、頭の部分を切り取ってからフォント化した。いやはや正月早々よく働いた。

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後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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