ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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民主主義というより、感覚趨勢主義×「キモい」という正当性

・上からの圧力でマスゲームをやらされるのが北朝鮮。
・民意の盛り上がりによってマスゲームを強いられるのが日本。

…みたいなことも言いたくなるな、国母選手バッシングを見ていると。今回の騒動は、元々他人に対する暴力的な発言を繰り返していたことが発端となって行われた亀田バッシングとも全然出自も違うわけだし。

それにしても、先住民、つまり異質な文化への尊重と共生をテーマとして打ち出していたバンクーバー五輪で、異質な文化どころか、ちょっとズボンをずらして履いていただけの男が、趨勢の側の望むような態度を取らなかったというだけで袋叩きにされる事件が起こるというのは、何とも皮肉な結果だ。
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彼へのバッシングは、「服装の乱れ」とそれに伴う謝罪会見での態度の在り様が発端となって行われているようだが、実際のところ、具体的に何が悪くて批判されているのか、という論理的な理由が全く示されていない。

批判の根拠とされているのは、常識から外れる、世間体が悪い、代表としての自覚や誇りに欠けている、和を乱す、などだろう。しかし、例えばリンチが行われる現場では、リンチを行うことが常識となっている。そしてそれに加担する者は、その場所での世間体を考え、地位を守るためにそれに加担していたりする。そういうことから考えても、常識や世間体は何かの正しさの根拠にはならない。

また、代表としての自覚や誇りに欠けている、というのもおかしな話だ。彼は自分は代表選手だと“思っている”わけだから、当然「自覚」があることになる。インタビューなどから、彼は彼なりの理念があってオリンピックに出場していたということも明らかだ。あのファッションだって、誇りがなければ態々あんな格好をしないだろう。「そういうことじゃない」と言う人もいるかもしれないが、それ以上の「自覚」や「誇り」の内容は、個々人の感覚に拠るものでしかないだろう。初めから全ての人間に共有された真理としての「自覚」や「誇り」なんて無いわけだから。そして「個人の感覚」は好き嫌いの根拠にはなり得ても、批判の根拠にはならない。

それは「和」に関しても同じことだ。どのような形が「和」として望ましいものであるかということは、個々人で其々異なっていて、全ての者が納得するような「和」の形なんてものは存在しないだろう。ということは、「和」の在り様もまた数多存在するということであり、単に自分の感覚に依拠した「和」の形と照らし合わせてその状態が相応しくないというだけでは、批判の根拠にはならない。

要するに、これら批判の理由として挙げられているものは、全て個人の感覚に依拠するものでしかない。つまり結局のところ、その個人の感覚に「不快感を抱かせた(≒迷惑を掛けた)」ということがこの批判の本当の理由なのだろう。しかし、単なる「不快感」が批判の正当性になり得ないのは皆百も承知だ。だから、「常識」や代表としての「自覚」、「誇り」の欠如、という何となくそれらしい(しかしやはり個人の感覚に依拠するものでしかない曖昧な)理由に置き換えてそれが主張される。税金が云々と言う批判もあるようだが、それとて、個々人の快感・不快感の趨勢を根拠として税金が払われたり払われなかったりするわけではないので、やはり的外れなものでしかない。

晴耕雨読の信之介: 国母問題についてのスノーボードチームコーチの説明

どの団体に所属していても選手はほぼ100%プロのスノーボーダーです。しかし日本でオリンピック選手になるには全日本スキー連盟に選手登録をしてFIS 公認の大会を優先的に出場しなくてはなりません。プロとしての活動が全日本スキー連盟の選手登録をすることでかなり制限されてしまいます。全日本の選手として海外遠征中に現地で大きなプロの大会があったとしても、出場は不可能です。
オリンピック出場にからむFISのワールドカップが競技レベルで最高のものかというと残念ながらそうではありません。
問題点はスノーボードの強豪がそろうアメリカはこういった垣根無く選手にとって(賞金額も含めて)最良のイベントを選択して出場してくるという点です。アメリカ選手はFISのワールドカップには出場権を得るための最低限の出場をしてさっさと出場権を勝ち取りあとは高額賞金のイベントに出るのです。日本の選手たちに強いアメリカの選手と常に同じ舞台で戦わせて競わせたくても全日本スキー連盟や日本オリンピック委員会の意向で不可能なのです。

そもそも、むしろ彼はお偉いさんの意向によって賞金獲得の機会を奪われてすらいる。そしてその意向に沿って大きな大会に出場することを自粛しながらも、自分の技術で大会への出場権と金を勝ち取ってきた。よって、税金が云々と言ったところで、別に彼のパトロンでもなければ、ましてや普段から特にスノーボードに興味すら持っていないような者達にゴチャゴチャ文句を言われる筋合いはない、ということになるだけの話だ。

まあ謝罪会見での態度が悪かったのは事実だが、確固たる理由も示されず、ただ世間の感覚的趨勢から外れる着こなし方をしていたという理由だけで入村式への参加を拒否され、出場停止の脅しまでかけられて謝罪せざるを得ないような状況に追い込まれれば、ああいう態度を取りたくなるのはむしろ自然なことなのではないか。それでも彼が生粋の嘘つきであれば、その「自然」を押し殺し、心の中では舌を出しながらも、最初の会見でもっと上手く立ち回ったことだろう。だが彼は嘘を付くのが下手だった。

もし彼が正直者でなければ、これ程大きな騒動になることも避けられたかもしれない。また、元々彼が感覚的趨勢の側にいれば、そもそもこんな批判を浴びることもなかっただろう。要するにこの社会は、常に世間の感覚的趨勢の側に拠って立ち、そのためにはそれに対して表立って異議を唱えたり疑問を投げかけたりせず、何かおかしいと思っても、場所によっては平気で嘘をついたりすることが出来るような、そういう術を身に着けていないと酷い目に遭ってしまう、そういう性質を持っている。

――正直、自分は彼の様なタイプの人間は苦手だ。というのも、過去の経験から、ああいうタイプの人間がもし自分の傍にいたら、その者によってきっと嫌な目に遭わされていたに違いない、と連想してしまうからだ。だから彼のようなタイプには余り良い感情は抱かない。とはいえ、実際に彼自身に嫌な目に合わされたことはないわけだし、過去の経験と連想、そして彼の持つ属性だけを理由にして、彼を批判することは出来ないだろう。嫌いだと言うことは出来ても。もし彼が何か問題のある行動や発言をしたならば、その時、その理由で批判をすればいいだけのことだ。

そうでもないのに、ただ彼が持つ属性やそこからなされる連想だけによって彼への批判に乗っかるなら、それは、例えばメディアなどで作り出された「ひきこもり」像やたった数行の文章などごく限られた情報に触れただけで、まるでその属性を持つ者の内面の全てを見通しているかのように言う――その限られた情報によって自身の内部に作り出された仮想人格を外部の実体と混同しながら、虚構の世界に逃げているなどと言う――そういう類の人間となんら変わりないということになる。

▼感覚的趨勢がそのまま正当性の根拠に置き換わる

晴耕雨読の信之介: 国母問題についてのスノーボードチームコーチの説明

別に日本政府が、または全日本スキー連盟が、または日本オリンピック委員会、が選手に出場権を与えている訳じゃない。

とはいえ、オリンピックは幾ら奇麗事で取り繕っても、その内実が「ナショナリズムの祭典」であるということは否定出来ない。よって、こういった国家との自己同一化から生じる代表へのイメージコントロール問題というのは、恐らく他の国でも抱えていることだろう(日本とは異なった形をして)。だから、それ自体は別に特別な問題ではないのかもしれない。

ただ問題だと思うのは、このような問題が起こった時、日本では(国家という大きな枠組みはもちろん、其々のコミュニティにおいても)感覚的趨勢がそのまま“何の理屈もなく”正当性の根拠に摩り替わってしまう、ということだ。そしてその時、その正しさ、もしくは誤りの訴えは、「世間(社会)」という実体を持たない曖昧な集合体のものとして提示される。それによって、発言の一貫性や責任の在りどころは実質的に匿名化され、消し飛んでしまう。例えば、今回の件では国母選手の側の態度は問題視され、責任を問われたが、それを批判する側の態度や暴力性に焦点が当てられたり責任が問われたりすることはない(際立った犯罪性を伴わない限りは)。批判の手法やその根拠となる正当性を精査し、その情報を今後に生かそうとする大きな動きが起きることもない。要するに、視線が完全に一方通行なのだ。

そもそも、曖昧な集合体としての「世間/常識」の代弁者達とは、積み重ねのある議論は不可能だ。それどころか、バッシングが「世間/常識」を後ろ盾にして行われることによって、まるでそれが自然現象か神罰であるかのような性質を帯びてしまう。そしてその正当性の根拠は元々感覚的な趨勢であってロジカルなものではないが故に、理屈による反論の機会は端から奪われているに等しい。また、それは自然・社会という、個人を超越した意思(つまるところ神のような存在)として捉えられているが故に、それを批判することは神への冒涜に近い意味合いすら持ってしまう。そういった背景を持つ社会で、注目度の高い人物、及び注目度の高い場所にいる人物がそれをするのは、決して賢明な行為とは言えないだろう(次はその人物がバッシング対象にされる可能性が高い)。

国母選手の服装問題、文科相も苦言 「代表の自覚欠く」(NIKKEI NET)

 川端達夫文部科学相は15日の衆院予算委員会で、バンクーバー冬季五輪スノーボード男子ハーフパイプ代表の国母和宏選手が服装の乱れで批判された問題で「代表の服装としては全く適切ではない。極めて遺憾だ」と批判した。

民主主義とは本来、其々が出来るだけ(前提となるルール上で)自由に意見を出し合い、活発な議論を交わすことで物事の正誤やルールを決定していくもののはずだろう。仮にも民主主義を標榜する国の文部科学相であれば、むしろそのことこそを促すべきであり、また、確固たる理由も無く雰囲気だけを後ろ盾にして行われているバッシングにこそ遺憾の意を述べるべきだろう。ところが、日本ではその議論の過程が省かれ、個々人の持つ感覚的趨勢がそのまま正当性の根拠に成り代わり、いきなり力を行使し始める。そして教育の長であるはずの者までもが、「賢明な行為」としてそれに加担する。感覚的趨勢自体が正当性の根拠であるが故に、そこから外れるものは、そのこと自体でもって誤りとして処理されるわけだ。よって、一般的傾向とそこから外れる個人との間で何か問題が起こった時、その問題の焦点はもはや、その個人が感覚的趨勢の側に収まるのかそうでないのか、ということに移り変わっている。

尚且つ、日本では個々人の自意識が世界の在り様を決定しているという精神論(セカイ系)的思想が一般的なものとして普及しているので、それは個人の自意識の問題へと置き換わる。そしてそうであるが故に、問題はさらに自意識批判、つまり人格批判へと移り変わっていくことになる(何か問題が起こったり上手く行かないことがあれば、その問題の原因は基本的に個人の自意識にある、と捉えるような文化を持つ社会がストレス社会になるのは当然だ)。

感覚的趨勢がそのまま正当性の根拠となり、全ての問題を自意識(人格)の在り様と結びつけてしまうそういった社会で、自由に意見を出し合ったり、議論と言えるようなものを成立させたりするのは極めて難しいだろう。趨勢の威勢が増す、注目度の高い問題になればなるほど、その難易度は増す。「趨勢から外れたら叩かれるに決まってるのに、敢えて自分の意思でそうしたのだから、その人格が世間によってバッシングされるのは自己責任※1」というような論理で動いている社会なわけだから。それは趨勢から外れる意見は出すな、と言っているのに等しい。要するに、日本は民主主義というよりはむしろ感覚趨勢主義である、と言った方が適切なんじゃないかと。

▼「キモい」という正当性

そしてそういう視点から見てみると、自身の暴力的行為の正当性を訴える時に、何の理屈もなく、いきなり「キモい」という最も感覚的に強烈なニュアンスを持つ単語を持ち出してくる者がいるという「キモい問題」も、そしてそれが実際にある程度の力を持ってしまうことにも、説明がつく。感覚的趨勢を形成してしまえば、その「キモい」という感覚自体が、同時に暴力の正当性の根拠になってしまうわけだから。

――NHEのオリンピック中継など、「心優しい国母選手」とか、彼の自意識に対して良いイメージを想起させることで悪いイメージを相殺し、バランスを取ろうとしていたところもあったようだ。途中から見たので、何が「心優しい」のかは分からなかったが。

「国母は命を救ってくれた」 スノボ仲間が語る素顔(asahi.com)
もしかしたらこのエピソードなのかな、とも思うが。

しかし、彼へのバッシングに問題を感じた時、そのバッシング自体の正当性を問うのではなく、悪いイメージに良いイメージで対抗するというのは、全く象徴的だ。日本的な文脈で言えば、それは正解と言えるだろう。だがそれは同時に、そのベクトルは逆であっても、イメージを根拠として行われるバッシングと根っこの部分で繋がっている性質のものであるとも言えるのではないか。何故なら、もしイメージを取り繕うための材料を見つけ出すことが出来なければ、その者はバッシングされても仕方が無いと認めているようなものだから。

例えばそれは、キモいから虐められて当然なんだと主張する者に対し、いや、彼にはこんなキモくない一面もあるんですよ、だから虐めを止めましょう、といっているのと同じことだろう。本来その二つは分けなければならないことなのに。

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もちろん、日本のように感覚的趨勢によって押し殺されるという状況もあれば、理詰めで押し殺されるという状況も当然ある。そしてどちらに重きを置くにせよ、最終的には他人の感情に如何に上手く受け入れられるか否かということが問題になるわけだから、必ずしもどちらの方が良いとは言い切れない。ただ今回の件では、日本における「民主主義」とは、結局のところ「国母選手がついた綺麗な嘘」みたいなものでしかないよなあ、とつくづく思った。



※1 バッシングをする側からすれば、自分は趨勢から外れて叩かれないような努力を日々しているのだから、それをしない人間は叩かれて当然であり、むしろそうならなければ不公平だ、みたいな思いがあるのかもしれない。しかし些細なことでバッシングをするということは、その努力のハードルと自らが叩きに遭う可能性を自分自身で高めていることになる。
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あなたのための子守唄

メロディーとコードは既に出来上がっていたものの、イントロや伴奏をつけることが出来なくて三年ほど放置していた曲をようやく仕上げることが出来た。「子守唄」というわりにはやけに騒々しく、当初のイメージとは少し異なったものになってしまった感はあるが。

あなたのための子守唄(フルート)-------2分54秒

あなたのための子守唄(合唱)プレイヤーが対応していれば歌詞が表示されます。

かなり微妙なコード進行だったりすることもあって、苦肉の策の連続。合唱バージョンはさらにそれに苦肉の策を積み重ねてハーモニーをつけた。なんか隙間が開いていて寂しかったので。しかし何年も放置していた割には、いざ作り始めてみると三日ほどで出来上がってしまった。まあ自分の場合、作ろうと思って作れることは余りなくて、気分が盛り上がったりアイデアを思いついたりしなければ幾ら時間があってもどうにもならない不憫な体なので。
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それよりも思いのほか手間取ったのは、エクスプレッションやデュレーションの設定。ただ、それはもう気力が尽きそうな気配がしてきた(一度気力が尽きるとまた数年間放置しかねない)のである程度のところで切り上げたが、さらにその後にミキシング地獄が待っていた…。

それでも合唱バージョンの方は、とにかくおかしいところを一つ一つつぶして行くという先の見える作業だったからまだましだったが、フルートバージョンの方は、途中で前に進んでいるのか後ろに進んでいるのかすら分からなくなってかなり難渋した。で、散々色々試してみた挙句、最終的にピアノのヴェロシティの設定がどうしようもなく駄目だということに気づき、また最初からやり直し。演奏データが酷いと、ミキシングの力業だけではどうにもならないということを改めて思い知らされた。特にシンプルな編成だと、余計に細かい部分の粗が目立つ。

そしてようやく作業が終わったと思って、もはや滅多にCDを読み込んでくれなくなった壊れかけのミニコンポに繋いで試しに聴いてみると、とんでもなく酷いことになっていてまた一からやり直し。さらにその後、もう一度パソコンのスピーカーで聞いてみると、今度は別の部分の粗が目立って途方に暮れる、と。しかしそうやって何度も同じ曲を聴いていると、楽曲自体の在り様も含めて様々な粗が耳に飛び込んできて、どうしようもなく酷いものを作っているような気がすると同時に、吐きそうなってきたりして。実際自分の耳は全く頼りないので、常にそういう不安は抱えている。「これはいける!」と思って次の日に聴いてみると、「ナンダコリャ」だったりするというのはよくあること。

――この曲には歌詞もあるので、本当は「utau」バージョンも作る予定だったのだが、もはや精根尽き果ててしまったので今回はこれまで。また気が向いたら、「utau」の使い方を覚えてもう一度チャレンジしてみるかもしれない。

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因みに今回使用したピアノの音源は、以前にフォント化したsonartの「YAMAHA C7 GRAND PIANO」。ただ、sonartのサンプルはレイヤーが変わると急に音色が激変してかなり使いにくい。仕方がないのでヴォリュームとのコンビネーションを用いざるを得ない箇所も。自分のフォントの組方にも問題があるのかもしれないが。もう一度組み直した方がいいかもしれない。サンプラーで使うとあの音色の急変は回避できるのだろうか?

あと「TripleS Cflute」は、特に350Hz辺りがピアノとモロにぶつかって嫌な圧迫感を生み出したりするので要注意。

テンキー依存症からの脱却

キートップを外して掃除をしてはみたものの、やはりキーの故障は直らなかった(ミスって一つ内部のプラスチックを割ってしまった。今のところ機能的には問題ないけど)。こうなったらもう新しいブツを購入するしかないか…と思っていたが、しかしよくよく考えてみると、壊れているのは「-」と「→」だけなのだから、テンキーを使わない覚悟さえすれば、まだまだ十分こいつを使うことができるじゃないか。

ちょうどmuseで曲の打ち込みしている最中に壊れて、テキスト入力なだけにものすごく不便していたのだけど、それも自分が数字、及び「+&-」をいつもテンキーで入力する癖がついていたが故。というか、そもそも最上段のブラインドタッチができない。

でもせっかくだから、最上段のブラインドタッチができるように練習するなどして、もうしばらくこの機体で踏みとどまってみようかと思う。ネットで色々散策してみたものの、キーの配置とか配線の位置とか大きさとか、低価格ものは中々条件の合うものが無さそうだし。まあどちらにせよ、近々店に様子を見に行こうとは思うが。でも価格的にはamazonの方が実店舗よりもかなり安い場合が多いみたいで、これだと、店に様子だけ見に行って購入はamazonで、という選択をする人も結構いそうな気がする。

キーボードが壊れた

昨日まで何も問題なかったのに、今日パソコンをつけてみると、テンキーの「-」が反応しなくなっていた。しかし「-」くらいなら代用がきくのでまあいいか、と思っていると、今度はさっきまで問題なかったはずの「→」までもが突然反応しなくなった。なんだこりゃ。こんな風に、同時期に一度に複数のキーが壊れたりすることってよくあることなのかなあ。なんか釈然としない。

とはいえ、「-」だけならまだしも(こちらも代用はきくとはいえ)「→」がないと流石に不便なので、新しいキーボードを入手するほかないか。全く想定外の出費だ。でもPS/2ポート自体がいかれてたらどうしよう。

『アリとキリギリス』はユートピア寓話

『アリとキリギリス』という寓話がある。知らない人はいないと思うが、その内容は大体以下のようなものだ。

アリとキリギリス - Wikipedia

夏の間、アリたちは冬の間の食料をためるために働き続け、キリギリスは歌を歌って遊び、働かない。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、アリたちに頼んで、食べ物を分けてもらおうとするが、「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだ?」と断られる。

要するに、――働き者のアリは夏の間に備蓄した食糧で冬を越すことができた一方、怠け者のキリギリスは、冬が来ると寒空の下で飢えて死んでしまいました。怖いですね。だから皆さん、このキリギリスみたいに痛い目に遭いたくなければ、アリのように一生懸命働きましょうね――というお話。
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(1)『アリとキリギリス』の世界が持つ秩序性

もちろんこれはあくまで道徳教育(他者コントロール)のために作られた寓話でしかない。だが世間を見渡してみると、現代社会の出来事を、この虚構の異世界が持つ秩序性を下地にして読み解こうとするかのような言説に直面することも少なくない。実際つい最近も、「貧困は「キリギリス」的態度の帰結」、みたいなことを言っている人を目にしたばかりだ。

しかしながら、現代社会の問題を『アリとキリギリス』的な文脈に当てはめて解釈しようとするのは誤りだろう。というのも、この物語と現代社会の間には、その前提条件において余りにも大きな隔たりがある。

  • 『アリとキリギリス』の物語には、アリ同士の関係性から生まれる摩擦、つまり社会性が存在しない。そこには(一まとめにされた)アリとキリギリスという一対一の関係しか存在しない。いや、単にそこがクローズアップされているだけと考えた方がいいのかもしれない。しかしどちらにせよ、クローズアップされていない部分(社会性)がその世界の秩序に大きな影響を与えることはない。

  • そしてその世界の根底には、自分の見つけたものは自分のものとして自由に持ち帰ってよい、という秩序がある。アリの労働とは即ち、自分の見つけたものを自分の物として持ち帰って蓄える作業のことだ。そして持ち帰る資源が枯渇することもない。

  • そこには社会が存在しないため、その作業を妨害する競合相手がいない。キリギリスもまた、競合相手にはなり得ない。彼は生存の危機に晒されているにもかかわらず、殺るか殺られるかのサバイバルに持ち込もうとせず、大人しく死んでくれるわけだから。

『アリとキリギリス』の物語は、こういった前提の上に成り立っている。

(2)労働は自由に出来ても、≪労働≫は自由には出来ない

――さて、ではかの世界に住む働き者のアリが、現代社会に人間としてやって来たとすればどうなるか。当然、大変な働き者である彼は、せっせと仕事をこなそうとするだろう。その仕事とは、自分の見つけた土地をねぐらとして占拠し、そこに自分の見つけた物を自分の物として自由に持ち帰ることだ。だがそこで彼は、かの世界には存在しなかった社会性というものの壁にぶち当たることになる。

というのも、この世界には何をしようとしても常に競合相手がいる。彼が見つけた土地だからといって彼が自由に利用出来るわけではない。彼が見つけた物だからといって、それを自由に持ち帰ることが出来るとは限らない。それどころか、この世界ではありとあらゆる資源は既に何らかの集団/システムによって囲い込まれてしまっている。だから彼の労働の前には、常にその何らかの集団/システムが立ちはだかり、それを妨害しようとするだろう。

彼の得意とするタイプの労働は、この世界では一般的に犯罪と呼ばれるものに該当する。なんせここはゴミを持ち去っただけでも、盗みを働いたとして牢屋にぶち込まれたりすることさえある世界だ。ましてや、空き家に寝泊りすることなど許されようはずもない。つまり、かの世界で(労働信仰的視点から見て)善の象徴だったはずの彼の労働は、この世界では悪行そのものとなる。従って、彼が彼であり続ける限り――当の本人はかの世界でそうしていたのと同じように、持ち前の勤勉さを発揮しているだけに過ぎなくとも――彼はこの世界に於いては悪人にならざるを得ない。二つの世界は、その根底部分が余りに異なり過ぎているのだ。

現代社会では、ありとあらゆる資源は既に集団/システムの手中にある。よって、生きるために何かを手に入れようとすれば、まず何とかして既存の集団・組織に取り入らなければならない。或いは、それらが作った文化/システムを上手く利用する術を身につけなければならない。その条件をクリアすることが出来た者達だけが、物資を得るための社会的資格を手に入れることが出来る。世間/システムが認可した公式利益活動――つまり、曖昧でなんとなく善的なイメージを持つ一般的意味としての≪労働≫を始めることが出来る。

とはいえ、予め自明なものとして定められた労働定義など存在しない。よって、その一般的意味としての≪労働≫は、あくまで数多ある労働の内の一つでしかない。実際、この世界にもアリの彼と同じようなタイプの労働で生計を立てている者もいるだろう。しかしながら、先ずは主流派の集団・組織に上手く取り入ることが出来なければ、労働は出来ても≪労働≫をすることは出来ない。

(3)「世界の在り様は、個人の自意識によって決定されている」という思想

この世界に於けるあらゆる問題は、常に環境(及びそれを形作る個々人)と個人との関係性の上に生じている。≪労働≫をしている者であろうとそうでなかろうと、困窮者は基本的に周囲の環境との関係性を上手く保つことが出来ないが故に苦しんでいる。一方、実質的には社会が存在しない『アリとキリギリス』の世界では、問題は常に当該主体の「やるかやらないか」という意向の上にしか発生しない。そこでは自意識のあり方がそのまま結果を決定することになっている。つまり、かの世界とこの世界では、問題の形成過程が全く異なっている。

いわゆるセカイ系的な世界観には社会性が欠如していて、個人的な自意識の在り様がそのまま世界の在り様とリンクし、連動していると言われる。そして『アリとキリギリス』の寓話や、その裏にある精神論/努力信仰などの思想もまた、それと同じような構造を持っている。もちろん実際には、全てが自意識によって決定されているかのようなあからさまな形でもってその思想が表出することはない。何処から何処までが自意識の反映であり、何処から何処までがそうでないのか、という境目を個々人の実感主義的判断に任せるという形でそれは表れ出てくる。

(4)アリはまだ現代社会の問題に直面していない

かの世界は、自分の「やるかやらないか」の意志決定がそのまま結果に反映される――つまり、世界の秘密は全て明らかにされている――完全なる自己責任世界。そして自由な活動を阻害する社会性も存在しない。そうであるが故に、別に働かなくとも誰かから責められることはないし、それで自責の念に駆られて苦しむ必要もない。自分は冬を越そうとするのか、それとも越さずに死ぬのか。前者を目指すなら働けばいいし、後者でいいのなら働かなくてもよい。かの世界の住人は、ただそれを自由に選択すればよい。競合相手はいないし、個と社会(他人という集団)とが交じり合うことによって生まれる摩擦や不確定要素も存在しないから、その選択がそのまま結果に反映される。この世界のように、≪労働≫に辿り着く前に集団/システムとの関係性という壁が立ちはだかることもなく、自分の意向だけで自由にその世界に於ける一般的意味としての≪労働≫を行うことが出来る。死を、生存を選び取ることが出来る。

即ち、『アリとキリギリス』の世界はある種のユートピアであり、アリはそのユートピアの住人だ。そしてこの世界はそのようなユートピア性を持ち合わせていない。故に、そのユートピアの秩序性でもって現代社会の問題を読み解こうとしても、それは見当違いの見立てしか生み出すことは出来ないだろう。また、その世界の住人が持つ「勤勉さ」をそのままこの世界の「勤勉さ」に置き換えるのも、大きな誤りだと言わざるを得ない。かの世界のアリにしても、ユートピアに留まっているからこそ――現代社会が持つ社会的関係性という問題にまだ出会っていないからこそ――「勤勉さ」の象徴でいられるのであって、一度ユートピアを抜け出してこの世界にやって来れば、その魔法は解けてしまい、結局前述したような問題に直面してしまうわけだから。そうなれば彼もまた、この社会の問題の一部にならざるを得ないだろう。

ウザい生徒

教師「遅刻の理由を言え」 生徒「」←合理的な事を言わせろ - スチーム速報 VIP

教師「遅刻の理由を言え」 

生徒「そもそも、意識は状況をコントロールする術を持ち合わせていません。よって、私の意識にそれを尋ねられたところで、意識はこの状況に対し、自己同一性を保つための捏造としての“解釈”を申し上げることしかできず、従ってもしその問いが実在的理由を問うものであるとするならば、それは著しく不合理な問いであると言わざるを得ません。また、それが論理的理由を問うものであるとするならば、それは即ちどのような“解釈”を述べるかということでしかなく、そして私の意識が既にそのことを知ってしまっている以上、私はこう述べるほかないのです。私にも何故だか分からない、と。」

なんも言えねぇ

北島康介とは逆の意味で。

でも何か言った方がいいような気もする。さもないとこのままずっと黙ったまま人生を終えそうだ。
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ものを言うというのは、様々な行為の中で最も簡単なこととされている。しかし、その行為を行うべきか否かをいちいち意味や価値の秤にかけて判断するようになれば、口を開くことさえ難しくなる。――自分の存在に意味や価値を感じることができない者であれば尚のこと(価値が無い者の行いもまた価値が無い、ということになる)。

多分、今自分に一番必要なのは、意味や価値という秤を捨て去ることだろう。まあどのみち後は死を待つだけの人生だが、そうであるが故に尚更、それが必要なのだと思う。

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プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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