ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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自己防衛のための同一化と「積極的踏み絵踏み」

Twitter / 岩屋たけし: 「自民党が徴兵制を検討!」なんていうニュース

「自民党が徴兵制を検討!」なんていうニュースはガセだが、「徴用制」なら検討の価値はあるかも。つまり、一定期間を国家社会のために費やす仕組みを設けるという案だ。介護でも森林整備でも海外協力隊でもいい。現政権の政策は国民をいたずらにスポイルし、腑抜けにしてしまうような気がしている。

「労働の義務」も「徴農制」もそうだけど、こういう主張って、「人民は国家の共有財である」という思想が根底にないと中々出てこない主張だよなあ。そういう考えがあるからこそ、国家の頭脳として相応しい私が、共有財としての人民の有効活用法を提案してみせましょう、とか、人民を甘やかしてはいけません、というような意味を持つ主張を平気な顔をして述べることが出来る。

しかしながら、「徴用制」で国家運営や国民生活を維持・向上させることが出来るような「甘い」現実があるなら、誰も政策で悩まないし、今頃世界中で資本主義の代わりに共産主義が大流行しているはずだ。要するにこの考え方こそが正に甘い見立ての上に展開された共産主義思想そのものなわけだけど、どういうわけか、そういう思想を持つ者が内容をそっちのけにした単なるレッテルとしての「共産主義」や「甘え」を用い、他人を批判するというような現象がよく見受けられる。
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 1.倒錯型批判

こういった現象は他の用語を巡っても見られる。

例えば「依存」。機能的に見れば、社会システム、資源、組織(群れ)、文化、様式、一般的思想・感覚傾向などへの巧みな依存の在り様を「自立」と言うわけだが、そういう状態を獲得するに至った依存上手な人間ほど、他人の依存性を悪しきものとして批判するというような傾向がある。そこでは、本来なら依存の難渋性や内容の偏り具合、継続困難性こそが問題とされなければならないケースにおいて、何故か依存そのものが問題とされ、批判がなされる。

つまり、機能的には依存の一形態であるはずの「自立」がイメージ上で依存と対立するものであるかのように捉えられてしまう――もちろん概念上では依存と自立は対立するものではあるが、実際には人間は依存なしに生きてはいけない――ために、依存上手である者が、自らが依存上手であることを正当性の根拠として、依存下手な人間を「依存」というレッテルの名の下に批判するというような倒錯した現象が起こる。だが、もし本気で依存や自立について考えてみたならば、それを思想のレベルにまで引き上げて俎上に載せてみたならば、それが如何におかしな主張であるかということに直ぐに気づくはずだ。「自立」が持つ「甘い」イメージを払拭した上でそれを捉えることが出来るはずだ。ところが実際には中々そうはならない。

 <自意識原因論思想が背後にないと、自意識批判は成立しない>

他にも「自意識過剰」なんかが、こういった倒錯型批判のレッテルとして用いられることが多い。本来、誰かが自意識過剰という状態に陥っていることをもってしてその者の自意識を批判するなんてことは、「自意識過剰ではない優れた私の自意識を見て!」という自己言及でしかなく、批判としては成立し得ない。しかし実際には、そういう倒錯した自意識批判が後を絶たないという。

――そもそも、社会的関係性よりも個人の自意識こそがこの状況をこの状況たらしめている主原因であり、故に自意識はこの状況を制御している/することがことが出来る、というような(セカイ系的な)自意識原因論思想に立たたなければ、其々の自意識に優劣を付けるなんてことは出来ないはずだ。何故なら、その思想の担保無しに行われる自意識批判は、単なる人格批判にしかなり得ないのだから(状況形成ベクトルの決定に大きな影響力を持たないはずの自意識をその状況を導いた者として批判するなら、それは中傷でしかない、ということになる)。つまり、その批判が人格批判でないとするならば、自ずとその者は自意識原因論思想を背後に持っているということになる。そうであるからこそ、個人の自意識に焦点を当てた物事の見方が採用される。だがそこでもまた、その思想を足場にしながら同じベクトル上にある「セカイ系」的なものを、未熟な自意識だとして、自意識に焦点を当てた形で批判してみせるという、何とも倒錯した批判がよく見受けられる※1

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一般的には、自分と似たような性質を持っている者を忌み嫌い攻撃するというこの手の現象は、同属嫌悪という概念を使って説明がなされることが多い。これは要するにアレルギー反応のようなものと考えてよいだろう。つまり、ある性質を持った者が、それを持っているが故に、単なる上辺だけの知識ではなく、自らの感覚を通して直接深いレベルでそれが持つネガティブな面を知ってしまう。その結果、その感覚とそれを否定する感覚とが内部で激しくぶつかり合い、アレルギー反応が起こる。そういった状態に陥った者が、自身が持つ否定されるべき感覚や性質を彷彿させる存在と接触してしまうと、その感覚がざわつき始め、より反応が悪化することになる。だから似たような属性や感性やを持つ者を、そうであるが故に憎まざるを得なくなる。

 2.自己防衛のための同一化と「積極的踏み絵踏み」

しかしこの現象――倒錯型批判の発生――を同属嫌悪だけで説明してみせるのならば、それはちょっと乱暴すぎるようにも思える。まあそれも一つの要素としてはあるのだろうが、ここで挙げた例などは、むしろ自己防衛反応が元となって生じている現象と捉えた方がもっとすっきりと説明がいくのではないか。

例えばここに挙げた「共産主義」や「甘え」「依存」「自意識過剰」「セカイ系」といった単語は、世間的に余り良いイメージをもって受け入れられていない。それ故、その“汚名”を着せられた者が糾弾される様を多くの者が目の当たりにして来たことだろう。或いはそういう予感くらいは感じてきたはずだ。だがそういった経験を積み重ねて行けば、自身もまたその肩書きを背負わされ、糾弾されるのではないか、という恐怖心が芽生え、精神的に不安定な状態な状態が作り出されることになる。そしてそれと同時に、そのような状況を如何にして回避するか、という課題が生み出される。

しかし精神論的にその恐怖を克服しようとしても、それが意識化されて感覚にフィードバックされるだけで、むしろ益々恐怖感が増幅され、より不安定な状態へと導かれる可能性の方が高い。また、仮にそれで幾ら精神的に強く――正確に言えば鈍感に――なることが出来ても、実際にその矛先を向けられてしまえば(集団内で)社会的に不利な状況へと追い込まれてしまうことは避けられず、問題は全く解決しない。

じゃあ一体どうすればその危機を回避することができるのか。一番合理的な方法は、自らが糾弾する側に回ることだ。糾弾する側と心情を一体化させることが出来れば、恐怖心を払拭し、精神的な安定を保つことが出来る。そして自ら率先してターゲットを見つけ出し、その者を糾弾して見せれば、積極的に進み出て踏み絵をガンガン踏みつけて見せれば、自身がそのレッテルを貼られ、ターゲットとされる可能性を低減させることができる…かもしれない。だからこそ、世間的に悪いイメージを持つものを踏み絵として、単にイメージが悪いからという理由だけで、その内容如何にかかわらず取り合えず踏みつけてみせる、というような現象が起こってくる。或いは、その者がレッテルを貼り付けられても、例えば「私はこの依存を恥ずかしいことであると思っていて、自立に向けて一生懸命頑張っています」「甘えたの自分が、自意識過剰な自分が全て悪いんです」という態度を採り、それを踏み絵として踏みつけてみせることで、己の“潔白”を晴らそうとする。そうやって矛先から逃れようとする、そのための行為としての対象批判が巻き起こる。

つまり、自己防衛反応として生じる趨勢側への心情的・振る舞い的同一化を出自とする、思想とは別レイヤーから巻き起こる批判やバッシングというものが存在するのではないか※2。しかし、その同一化は所詮思想とは別レイヤーで起こっているものでしかないため、必ずしもその過程において思想までもが同一化されるとは限らない。その結果、その者が自己防衛のための同一化によって矛先とするその思想が、実は自らが信念として抱え続ける思想そのものだった、というちぐはぐな結果が生まれてくることになる。そしてその同一化のための踏み絵踏みが新たな恐怖や危機感を生み出し、さらなる「積極的踏み絵踏み」を再生産するという構造。倒錯型批判が後を絶たない一つの原因として、そういうものがあるのではないか。

 ***


以前の記事で、日本は感覚趨勢主義である、というようなことを言ったが、人々からこういう恐怖心や危機感が払拭されない限り、結局議論はただのイメージ合戦に陥り、思想や理念を世間的なイメージの良し悪しではなく機能や理屈で捉え、その上で意見を交し合う行うことが出来るような土壌は中々育たないだろう。



※1 因みに自分は、創作物の外で繰り広げられるリアル・セカイ系的な主張は何度も批判しているが、創作物上に於けるそれを“セカイ系であること”だけで批判したことは一度もないので誤解なきよう。

※2 というか、自分自身がかつてこういうことをしてたわけだが。経験上、「普通」でない人間はこの社会では生きて行けないという危機感を抱いていた自分は、「普通」と同一化するために邪魔な己の感覚を踏みつけ、否定し続けた。だが結局後に残ったのは、「普通」と同一化することも出来ず、かといって自身の特徴を伸ばすことも出来なかった、自己否定でボロボロになった自分の姿だけだったという。
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synthfont.comがガンブラーの餌食に

なってるみたい(2010年3/18現在)。

<追記>2010年3/21、googleから警告が消え、gredでも「SAFE」と出るようになりました。aguseでも感染時に見られた「外部と接続するオブジェクト」における正体不明のscriptが消えています。どうやら復旧したようです。ただガンブラーは同じサイトが何度も改ざんされる(――感染したパソコンで対処してまたやられる?)というケースが結構あるようなので、今後も一応注意はしておいた方がいいかも。

ずっと古いバージョンのVienaを使っていたので、久しぶりに新しいバージョンを入手してみようかと思い、googleで「synthfont」を検索してみたら以下のような警告が。



gredでチェックしてみたら、ガンブラーだそうです。↓




ガンブラー(Gumblar)ウイルスからパソコンを守る"6つの対策"(無題なブログ)

(1) 「Windows Update」(Microsoft Update)の”自動更新”を有効にする
(2) PDF閲覧ソフト「Adobe Reader」を最新版に更新する
(3) PDF閲覧ソフト「Adobe Reader」の設定でJavaScript機能を無効にする
(4) インターネット閲覧ソフト用アドオン「Adobe Flash Player」を最新版に更新する
(5) 「Java」を最新版に更新する (不要なら削除、あえて導入する必要なし)
(6) 「Apple QuickTime」を最新版に更新する (不要なら削除、あえて導入する必要なし)

今のところ、これらの対策を全て行っていれば感染することは無いと言われてはいるようだが、気味が悪いのでしばらくsynthfont.comには訪問しない方がいいかな。

穴も埋めてるし別に踏んだわけでもないのだが、なんか怖くなったので@nifty ウイルスチェックサービス(エンジンはカスペルスキー)で無駄な時間を過ごしてしまったよ。取り合えず何も見つからなかった。

***

そういえば、gredが「tumblr.com」と付くアドレスを全てフィッシングサイトと判定するんだけど、これはどう捉えればいいんだろう。



同じように、aguseの「ブラックリスト判定結果」でも「RBL.JP」が「CAUTION」の判定を出す。

宗教的無自覚が生み出すアンタッチャブルな現実

日本では「労働」が「労道」になっている。 ニートの海外就職日記

海外ニートさんのエントリを読んでいて思ったのですが、日本では労働が「労道」になっちゃってますよね。

労働は本来は単なる生活手段なのに、精神性や自己実現といった価値観が過剰になり、「労道」という一種の修行と化してます。

完全に宗教でしょ日本人の労働信仰って。最終的に見捨てられるのが信者(弱者)なところも一緒。トップはそもそもその信仰なんかしてすらいないし。

宗教的道路族みたいなものか。
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まあ、その者が自分の好きで道としての労働を信仰し、そこにその身を捧げ続けるのは全く構わないのだが。問題は、人々の命や生活を支える基盤となっている社会・文化システムがその宗教を前提として成り立っていることだろう。これは要するに、実質的には信教の自由が認められていないということを意味する。

しかも「労道」は自らの宗教性に恐ろしく無自覚なので、信教の自由という観点からそれを批判しても全くなしのつぶて。また、正当性を担保するための明確な根拠を持たずとも成立するという宗教の性質上、幾ら理屈でそれを批判しても、決してそれは向こう側には届かないという。故にこの硬直化した現状が、いつまでもアンタッチャブルなものとして幅を利かせ続ける、と。

 ***


宗教というのは結局のところ、「条理の生成」のこと。故に、無宗教な人間なんてこの世に誰一人として存在しない(条理が無ければ不条理すら生まれない)。にもかかわらず、この国では自らのそれに全く無自覚でいながら、他人の宗教性“それそのもの”を悪であるかのように扱うことを良しとしてきた。その結果として、このようなアンタッチャブルな現状が生み出されている、ということもあるのではないか。

つまりこの国は、まず其々が自らが持つ宗教性を自覚し、信教の自由の重要さを認める、というところから始めなければならないのではないか。まあこういった認識は近代国家であるならば本来言うまでも無いほど当たり前過ぎることなんだけど、どうも、「古代」から「近代」を経ず、いきなり「現代」がやって来た、みたいな感じなんだよなあ、日本って。それが状況を益々ややこしくしている。

 ***

因みに自分が持っている宗教性というのは、個人の意志による状況コントロール不可能性(人生は攻略不能なギャンブル――その上で人間は足掻き続ける)とか、誕生の暴力(生まれて来なかったこと以外にこの不幸を回避することは出来なかった)とか、そんな感じ。もちろん最初からそうだったわけではなく、紆余曲折あった末に今のこの考え方に辿り着いたわけだけど。少なくとも自分の人生にはチャンスなんて一度も無かった。

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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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