ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「叩き」の源泉

よく雑誌の商品レヴューなどに対し、スポンサーに気を使った行灯記事だ、というような不満が寄せられているのを目にすることがある。しかし、誰だって職場や職を得る過程で保身のために何らかの太鼓持ち行為をしていたりするだろう。多分、それらの記事はそれと同じことをしているだけなんだと思うが。そもそも、この国の風土(社会――つまるところ社会的趨勢や優位性――を批判する前に自分が変われ)を鑑みると、それが上手く出来ない者ははぶられてニートやひきこもりになるか、もしくは出世して特異な方針を持つ企業の上役にでもなるしかないだろう。或いは、もうこの人なら仕方が無いな、というようなある種の諦めの目で見られるような存在としてそのポジションを獲得するか。
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社会的趨勢や優位性への批判は未熟な人間のすることである、という妙な風潮が幅を利かせている以上、保身が必要な場所(集団内)で批判が批判として機能するのは難しいだろう。結局、批判をしたければ、保身を気にする必要がない匿名の場所か、もしくは趨勢側や優位性を帯びた側としてそれをするしかなくなる。逆に言えば、自身がその性質を獲得できないような場所に身を置けば、反論が許されないような形での一方的な批判を浴び続けなければならない。しかしそのような批判を浴び続ければ当然鬱憤も溜まっていく。そして大勢の抱えているそれらが一斉に、自身の安全を保ちながら一方的に批判を浴びせることが出来そうな対象へと向かい、それが「叩き」になる。つまり、「社会に文句をいう前に自分が変われ」という風潮が「叩き」という文化の源泉になっているんじゃないかと。その論理でいくと、叩かれるのが嫌なら叩かれないように変わればいい。叩かれるのはそれをしようとしない者の自己責任、という形で幾らでもその行為を正当化することが出来てしまうし。

――そういえば、「保身でしかない」というのが批判の根拠になるというのもよく考えてみれば妙な話だ。というのも、それが上手く出来ていない者はニートやひきこもりになるか以下略であって、そして稀有な例である以下略組みに入らないかぎり、それは同時に「非社会的」とされ、それ自体が批判の根拠になってしまうわけだから。むしろ保身こそが最も重要なんじゃないか、という。まあ、実際には「保身でしかない」という指摘は、「それは保身の仕方が下手ですよ」という実質的意味を持って機能していたりもするんだろうけど。
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自らが社会の一部であることを根拠として何かを要求するのなら…

ナイフで突然女性襲う=殺人未遂容疑で27歳女逮捕-警視庁(時事通信)

 12日午後9時ごろ、東京都文京区大塚の区立大塚公園で、歩いていた女性(35)が突然、女に背中などを刃物で切り付けられた。通行人からの110番で駆け付けた警視庁大塚署員が、殺人未遂容疑で、自称無職児玉恵子容疑者(27)=大田区鵜の木=を現行犯逮捕した。女性は命に別条ないという。
 同署によると、同容疑者は「人に裏切られ、誰でもいいから傷つけたかった」と話し、容疑を認めているという。

こういった行為は、一見筋の通らない奇怪な行為のように思われるかもしれない。しかし少し考えてみると、実のところそれは非常に理にかなった一般的行為非常に一般的な認識から生じた理にかなった動きだということが分かる。

(追記:4/24)「一般的行為」というと、まるで刃物で切りつけるのが一般的であるかのように読み取れるので訂正。
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というのも、自分という区分を儲け、その区分の内側を個人、外側を社会として認識した時、個人からすれば「人に裏切られ」たことは、そのまま社会に裏切られたことになる。そして大抵の者は、同じように個人と社会という区分を設け、自らが社会という集合体の一部であること、もしくはその代弁者であることを根拠として、誰か(個人)に対し何らかの要求を行い、そしてその要求通りに動かない者を攻撃してきたはずだ。つまり、大抵の者は個人/社会という対立軸の下で、よく知りもしない赤の他人であるところの個人に対し、社会としてある種の無差別性を持って要求をし、攻撃をしてきた。

そうである以上、個人が外部として認識する社会への反発もまた、その一部として無差別に受け取るのが筋だろう。それが嫌ならば、初めから自らが社会の一部であることを根拠にして他人に何かを要求したりするべきではない。それをしていながら社会に対する反発を無差別的に受け取ることになった者が、「何故こんなことに」と言ったところで、それは筋の通らないただの我がままでしかないだろう。例えばそれは、人々から恐れられるある組織の一員を名乗り、その威光によって利益を得ていた者が、その組織に恨みを持つ者に襲われた時に、「何故こんなことに」と言うのと同じことなのだから。

要するに、理屈上、社会の一部として誰かに何かを要求するのなら、それへの反発もまたその一部として受け取らなければならない、ということ。

――まあ、とはいえそれはあくまで主張の一貫性を保持しようとする努力をしているかいないかの話であって、元々この世界は無差別性の上に成り立っているので、その者が普段どのような主張を行っていようとも、結局のところ、お互いに無差別に影響を及ぼしたり及ぼされたりする関係性からは誰も逃れることは出来ないのだが。

要するに「はみ子」問題

大人社会で「はみ子」になって、いきがれば「(スラングとしての)ニート」。いきがらなければ「ひきこもり」。

しかし、病気など、幾ら努力してもそうならざるを得なかったのだ、と他人を納得させることが出来るような、より具体的で分かりやすい理由を持ちながら「はみ子」になった者は、「名誉社会人※1」としての肩書きを獲得できる場合もある。



※1 本当は社会人でない人間なんて存在するはずもないのだが、一般性を帯びた者とそうでない者は、其々「社会(的)/非社会(的)」という枠組みで区分されることになる。

祖母が亡くなりました

享年88歳でした。こういう身分で後ろめたさがあるので、入院してから一度も顔を出したことは無かったけど、一応亡くなる前に顔を出すことは出来た。まあ、当人が自分のことを分かっているかといえばかなり怪しいけど。――というか、本当は自分が真っ先に死ぬべきなんだけど。勇気が無いのは生命力。
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その後のことだけど、普通の葬儀を執り行うお金は無いので、うちの家族と親戚数名だけが集まって焼香を行い、直葬という形を取りました。それでも二十万ほどの費用が掛かったようです。葬儀屋の言値だと、最低でも三十万以上は掛かるということだったらしいが、うちはそれが出せる費用の限界だということで、その金額に落ち着いた。でなけりゃ、こっちの生活も破綻しておだぶつになる。というか、直葬で三十万ってちょっとぼり過ぎだと思うけど。笑ってしまうほど大雑把な費用の内訳を見る限り、その殆どが人件費みたいだし。実際にはそう書かれてはいないけど。あれはちゃんと人件費として表示すべきだろう。その葬儀屋ではないが、父の知人なんかは、最初に提示された金額に加え、後から百万くら請求されたそうだ。あの業界は本当に胡散臭い。

そんなわけで、それはまあなんとかなったのだが、まだお墓の問題がある。すでに祖父の遺骨が納められているお墓があり、そこに祖母の遺骨も納めることになっているのだが、そのためには戒名をもらったり(なんなんでしょう?戒名一文字ごとに十万とか。金で故人への想いの大きさを示させるみたいな宗教は本当に最低だと思う)、墓を掘り返して埋めてもらったり、墓石に名前を彫ってもらったり、その他もろもろでまた相当な金額が必要になるということで、その費用が出来るまで(多分出来ないだろうけど)は当分自宅に遺骨を保管しておくことになった。

しかし、あの世も自由意志も存在せず、“自分”とはあくまで状況でしかない。そして葬儀も墓石も生きている者達のためにある。だから死んだらその後はもうどうなってもいい、というような宗教観を持っている自分からすれば、こういう儀式や仕来りにはどうも違和感を感じてしまう。まあそう言いつつも、お別れの時はちゃんと心の中でお別れの挨拶はしたけど。他人の宗教を尊重するのも大切なことだと思うから。

にしても、次の世代には自分みたいな者やワーキングプア、そしてこの手の仏事宗教や利権に不信感を持っている者達の割合が一気に跳ね上がることになるだろうし、こういうある種の弱みにつけこんだビジネスモデルはいつまでもつんだろうな。盛大な葬儀を行って費用が高くつくならしかたがないが、そうでもないのに掛かる費用の最低金額が不透明な上に高すぎる。それを工面するために残された者の生活が破綻したらどうにもならないと思うが。

あなたのための子守唄(根音ネネ)

「「utau」バージョンも作る予定だった」と言っていた『あなたのための子守唄』のUTAU版をようやく完成させることが出来た。ライブラリは以前に一度試して使えることを確認しておいた「根音ネネ」を使用。

『あなたのための子守唄(根音ネネ)』(2分56秒)

もう嫌な思い出も
もう先の気がかりも
もう邪魔な肩書きも
全て荒野に流しましょう

ゆうら ゆらり
眠りにつきましょ

もう朝の憂鬱も
もう見慣れたあの空も
もう無二のあの人も
全て忘れてしまいましょう

ゆうら ゆらり
すべて捨てましょ

茨の鎧も 諸刃の剣も
あなたを縛る 毒の矜持さえ

もう群れへの憎しみも
もう大事なこの嘘も
もう無駄な生き恥も
大地に還して眠りましょう

ゆうら ゆらり
すべて流しましょう

UTAUの使い方は未だによく分かっていないので、「波打たせる」以外のピッチや「原音の設定」、その他よく分からない機能には一切手を付けず、使ったのは「波打たせる」と音量とエンベロープ、デュレーションだけ。このソフトは、いつものように自分で色々触ってみて挙動を確かめることによって使い方を学んでいく、というやり方はちょっと厳しいかもしれない。使い方を覚えるには、解説ページでも探して読むしかないか。昔は、例えばゲームを買ったりなんかしたら、説明書を端から端まで読んで使い方を完全に把握してからゲームを始めるタイプだったのだが、歳をとってからはいつの間にか、取り敢えず動かしてみる派になっていたという。単に未来がないから行動が投げやりになっただけかもしれないけど。

しかし、UTAUの入力作業も相当面倒だったが、全ての工程で一番時間が掛かったのはやはりミキシング作業。今回は前回のようにミキシング迷子に陥るほどの混乱はなかったが、結局一週間くらい、ミックスからマスタリング、マスタリングからまたミックスへという作業を延々と繰り返し、ようやくそこそこ納得のいく形になった。多分プロだったら一時間くらいで全て済ませてしまうんだろうけど、自分はそれだけの腕が無いので、ひたすら一つずつ問題のある箇所をつぶして行くしかない。それに、基本的にミックスは出来ればある程度期間を置いて寝かしてみた方がいい。そうすると耳がリセットされ、それまで気づかなかった問題にも気づき易くなる。

まあそんなわけで今回は時間もかけたし、前回のものを手がけた後に色々学んだこともあって、ある程度納得のいく出来にはなったが、ただ一つ心残りがある。それは「根音ネネ」に対するコンプの掛け具合。これはこのライブラリ特有のものなのか、それともutau用ライブラリ一般における特徴なのかは分からないけど、そのままだと音がけっこう横に平べったく広がっていて、定位がぼやけてしまう。だから定位をハッキリさせるためにはある程度コンプを掛けなければならないのだが、コンプを掛けて定位を絞ろうとするとその分だけ音が硬くなってしまう。一般的には、(もちろん、本物とサンプルでは扱い方が異なるだろうけど)ヴォーカルにコンプを掛ける場合は極力音が変化しない掛け方をすべきだということになっていて、尚且つ今回は余り音を硬くしたくなかったということもあって結構緩め掛けたのだが、今聞くとやはりもう少しスマートにした方が良かったかなあ、という思いもある。

あと相変わらずよく分からないのは、音との距離の作り方。普通にやっていると、どうしてもスピーカーに張り付いたような音になってどうも気持ちが悪い。Omnisoneみたいなツールに頼る手もあるけど、いつまでもそういうものに頼ってばかりいるのもどうかと思い、今回はそれを使わなかった。でもどうしても上手く距離を作れないので、最初はセンド・リバーブだけで何とかしようとしていたのを、インサートも使うように変更。とはいえ、全てのパートにインサートするにはマシンスペックが足りないので、「根音ネネ」以外のパートはインサート用トラックを作って全てそこにまとめた。こうするとリバーブ後の個別パート調整が出来なくなるが、まあ仕方がない。しかし、基本的にはリバーブは特殊な効用を得る場合以外はセンドで使うべきだとされているのだが、他の人は本当にセンドだけで距離を作っているのだろうか。

まあどちらにせよ、これを刺せばある程度距離を作り、尚且つクリアでありながら適度な湿り気を帯びた音を作れる、なんて都合の良いものはないと思うので、結局EQとコンプとフェーダーとリバーブの兼ね合いでそれを作り出すしかないんだろうけど。

≪自然環境≫としてのハラスメント~「ヤンキー」は「大人」の一形態

義家弘介氏は、「ヤンキー」などではなく、いまや「へたれ」そのものだ

 しかし今日も、義家さんは延々と、今年の卒業・入学式における日の丸掲揚・君が代斉唱の実施状況を仔細に明らかにせよ。全部の学校で全部の生徒に歌わせろと迫っておりました。これがあの「ヤンキー先生母校に帰る」で有名になった人の末路かと思うと情けなくなりました。かつて義家氏は「ヤンキー先生」と呼ばれた北星余市高校在職中に雑誌「世界」の特集で、「教育現場に『日の丸・君が代』を持ち込めば、道徳教育を徹底すれば、日本人としての自覚や、国際協調の精神が培われると、文部科学省は本気で思っているのか、ということである」と述べていました。

 そして「安心しろ。卒業式には、お前たちを邪魔するものは何もない。卒業式のシンボルはお前たち自身だ。そしてテーマソングはお前たちが最後の学園祭で、大声で歌ったあの歌だ。胸を張ってあの舞台に立て。お前らは俺の夢だ!『なあ、みんな、学校は好きか?』」と呼びかけていたのです。それが今では、正反対の立場を国会の演壇から声高に叫ぶような人間に成り下がってしまったのですね。

まあ、学園祭で形式以上の意味が付加された青春の歌を大声で歌わされるよりも、純粋に形式的なものとしての君が代をボソボソ歌う方がまだましだ、とも思ってしまうが。というのも、前者の場合、その行為に妙な意味が付加されてしまっている以上、本気で歌っている素振りを見せなければその場の和を乱す者として青春野郎に糾弾されかねない。「お前たち(俺達)」のノリに従わなければ趨勢側から敵として認識されかねない。というか、合唱コンクールの時に実際にそういう経験をした。普段ふざけているくせに、ああいう時だけやたら乗り気になって、「真面目にヤレ!もっと口を大きく開けてでかい声を出せ!」と言い出す厄介なヤンキーがいたりするから。というか、先生自体もそういうノリだったりする。そういう熱血野郎のせいで合唱コンクールがただの大声大会になってしまうのが日本の音楽教育レベルの低さをよく物語っているわけだが。そこでの音楽は、「私はみんなと一緒に一生懸命物事に取り組んでいます」というような、社会的順応精神を育成することを目的としたイニシエーションのための宗教的道具に成り代わってしまっている。まあ、西洋音楽の発展の歴史は宗教(キリスト教)の発展の歴史と切っても切れない関係にあるので、ある意味それは千年後れくらいで西洋の歴史を追体験しているだけなのかもしれないが。

その一方、君が代なんかはドリフのオープニングにおけるいかりや長介みたいな調子で歌っていてもあまり文句を言われることはない。だから「まだましだ」になるわけだが、とはいえ、君が代に形式以外の妙な精神的意味を付加してしまう者がその場を支配していれば同じ結果になってしまう。こんな風に↓

asahi.com(朝日新聞社):橋下知事「思想の自由言ってられない」任命式で

 君が代斉唱は橋下知事の指示で今回の任命式から始められた。知事は「君が代歌えましたか。歌詞わかってますか」と新人職員に問いかけ、「僕が感ずるところ、まだ声が小さい。日本国家の公務員ですから歌うことは義務。しっかりお願いします」と語った。

こんなところにまで大声大会を持ち込んでしまう人間がいる。しかし、単に形式としての行為の有無だけでなく、権力側がその「歌い方」で下の者を査定するようになれば、それはもはや権力側が扱いやすい人間とそうでない人間を振り分けるための踏み絵として君が代を利用しているということにしかないだろう。態度の良し悪しなんてものは、権力側が恣意的に判断できてしまうものでもあるわけだし。つまり、形式的な行為として何かを要求するのと、その形式的行為に何か特別な意味を付加し、その意味を共有することを強要するというのは全く別のことなのだ。

 大阪府庁では、知事部局の新規採用137人の任命式があった。君が代斉唱などの後、橋下徹知事は「思想、良心の自由と言っている場合じゃありません。国家・国民を意識してもらうため、今後事あるごとに国歌斉唱を求めていきたい」と訓示した。

何が「思想、良心の自由と言っている場合じゃありません」なのかさっぱり分からないが、国家の基本原理である「思想、良心の自由」を否定――国歌斉唱に形式以上の一定の意味を付加し、その共有をパワハラ的に要求――している以上、むしろ橋下知事こそが国家に対する逆賊的存在であるということだけは確かだ。もちろん、その逆賊的行為が良いことなのか悪いことなのかという評価は其々で異なってくるだろう。しかし、国家を大儀としながら下の者に逆賊的要求を行うというのはなんとも妙な話だ。いや、それがそのまま世間に受け入れられてしまうことの方がもっと奇妙だけど。
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で、再び冒頭の「ヤンキー」についての話に戻すと、そもそも、強きと馴れ合い弱きをネタにしてのし上がろうとする性質こそがヤンキーの最大の特徴だと思うのだが。リンク先の記事を書いた宮本氏は、ヤンキーに妙な幻想を抱いているんじゃないか。それこそ少年漫画に描かれるソレのような。

暴れても骨を絶たれることがないような状況では趨勢の側から嫌な顔をされても意に介せず平気で暴れまわる一方、暴れると本当にヤバイ状況ではおとなしくしているか、むしろその場を支配している者に擦り寄る。そして社会的・経済的成功や一般性を獲得したあかつきには、過去の自らの悪行を「やんちゃ」「若気の至り」と表現を和らげながら自慢しつつ、或いはネタとして笑い飛ばしながら、獲得したそれを根拠にして、他人を道徳という武器で追い込む。それが出世ヤンキーの典型的行動パターン。お笑い芸人の多くも大抵こういうタイプの「ヤンキー」上がりだ。

どうもこの国では、社会的地位や経済的成功を手に入れると「更正」したことになり、生き方を変えたかのような前提で話が進められる。しかし実のところ出世ヤンキーは、脅しの対象を趨勢の側の趣向に沿った形で選び抜き、そのための道具を道徳を大儀とした社会的抑圧に持ち替えただけであり、その生き方自体は全く変わっていなかったりする。長田・杉浦姉妹がその良い例。単にカツ上げの的を絞り、それで生計を立てているだけだろう、という。

つまり、彼らの振る舞いや主義主張には全く一貫性が無いように見えても、実はその一貫性の無さは、上記のようなヤンキー特有の現状追従主義的行動原理を貫き通した結果だったりするわけです。

義家弘介氏は、「ヤンキー」などではなく、いまや「へたれ」そのものだ

義家さん、あんた「ヤンキー」ちゃうやろ、あんたはなあ、同じく大阪起源の言葉で言うたら「へたれ」そのものやんけ。

まあだから、そういう意味からすれば義家氏は正真正銘の立派なヤンキーであると言えるでしょう。というか、「ヤンキー」が畏怖される一方、「へたれ」は蔑まれるというこの風潮にこそ、本当に重大な問題が潜んでいるんじゃないかと思うのだが。

 ▼≪自然環境≫としてのハラスメント

例えば、「ヤンキー」が「イジられキャラ」にハラスメント(「いじめ」よりもこちらの表現の方がしっくりくるのでこちらの表現を使う)を行った場合、それによって「ヤンキー」側は周りから畏怖の念を抱かれたり、笑いのネタを提供することで人気を獲得する一方、「イジられキャラ」は「へたれ」として蔑みの目で見られることになる。本来ならハラスメントを行った側の方が蔑まれてしかるべきなのにもかかわらず。逆に、自身が「イジられキャラ」であることを素直に受け入れ、それを上手く利用して地位を確保するような割り切りの良さや要領の良さを持った者は、「へたれ」とは認識されず、蔑まれることもない。

こういった成り行きには、社会的環境があたかも自然環境と同等のものであるかのように認識されてしまうという社会的風土が大きく関係しているように思う。自然環境に不平不満を言ったところでどうにもならないだろう。もちろん人間は常にその自然に手を加え続けてきたわけだが、そうそう簡単にそれを都合よく改造できるわけではない。例えば、地震のような自然災害や天候に不平不満を言ったところでどうにもならない。だから人間は自然の猛威を前提として受け入れ、それとどのように付き合っていくか、ということを考えなければならない。だが、社会的環境までもがそれと同等の扱いがなされてしまった場合、実際にそこかしこで実権を握り、その力を利用して無茶な要求やハラスメントを行う者が存在する以上、それは「自然」と同義であり、それを批判して変更を促すよりも、その環境を前提とし、それに如何にして順応するかということこそ考えなければならない、というような教義が導き出されることになる。つまり社会的環境と自然環境は同義であるという認識を前提とした場合、「≪自然≫としてのハラスメント」が起こるような環境に如何に上手く馴染み、順応することが出来るか、ということこそが成熟した大人になるための最も重要な課題である、ということになる。

これがさらに――社会的困窮状態にある者は、環境に対する不平不満ばかり言って現実を受け入れようとしない未熟な自意識を持っていたが故にそのような状況に陥り、そして抜け出せないでいるのだ、というような、多くの日本人が共有しているであろう非常にポピュラリティーのある――自意識原因論的な現実解釈と重なり合わさることで、むしろハラスメントを行った側よりもそれを受けた側の自意識(つまり人格)の方が問題視されることになる。それによって、ハラスメントを受けた側の方が、「未熟な自意識を持っていた者」として蔑まれることになる。この考え方は、社会的優位がそのまま「≪自然環境≫=現実」としての正当性を持ってしまい、歯止めが掛かりにくいため、やがてそれはどんどんエスカレートし、一方の側に過度の是認を与えてしまうことになる。「弱い者は自分の好きで弱くなったのだから、もっと強く踏みつけてやればいいのよ(by金美齢)」というように。

 ▼透明化する「ヤンキー」~「大人」問題としての「ヤンキー」問題

もちろん、ハラスメントを行う側よりも受けた側の方が蔑まれるという状況は、他にも様々な要因が重なって起こっているのだろう。例えば、イメージの良し悪しで物事の正誤が決まってしまう文化的背景とか――それによって、ハラスメントを行った側と行われた側は其々、畏怖、勇猛さ、能動的、というイメージと、惨めさ、格好悪さ、受動的、といったイメージに置き換えられ、それらが比較対照された結果、良いイメージの方が「正しさ」を獲得してしまう。

ただここでは、自らを取り巻く社会的環境の欠陥や矛盾に疑問を持つよりも、それをそのまま「現実」として受け入れ順応しようとすることにこそ最大の注意と努力を払わなければならない――それができるか否かで、その者が成熟した大人であるか否かが決まる、という考え方の方に注目したい。こういった考え方は、「大人」の定義として最も一般的なものだろう。しかしながらこの定義が持つ「大人」理念は、ただその場に於ける社会的状況の潮流を読み、その流れに上手く乗ったり利用したりすべきであるという単なる処世術的教訓でしかなく、現状追従主義でしかない。これは実質的には、その者が「大人」であるならば、それが潮流である以上、論理的欠陥を持った要求や二重規範にも疑いを持たず、柔軟に受け入れなければならない、ということでもあるだろう。逆に言えば、冒頭の義家弘介氏や橋下知事のように、実際にその者が権力を握り、大勢の者達からの支持を得ている以上、そうした要求を突きつけることも「大人」理念からすれば「正しい」ということになる。その理念に照らし合わせて物事を見るならば、「できてしまうこと」は「正しい」ことなのだから。少なくともそれができてしまううちは。

しかしながらこの理念は、前半部分で述べたようなヤンキー特有の行動規範と全く同じ性質を持っている。つまり、「大人」と「ヤンキー」はその根本において同じ行動理念/原理を共有している。もちろん、だからといって「大人」と「ヤンキー」はイコールではないだろう。「ヤンキー」はあくまでその行動原理/理念を貫いた結果として表れる一つの文化傾向だ。だがその存在は、「大人」の行動理念を実践し続けている以上、「大人」の一形態であることは間違いないだろう。そしてその行動原理/理念にこそ問題があると思っている自分からすれば、「ヤンキー」問題はそのまま「大人」問題であり、「大人」問題は「ヤンキー」問題でもあると思えるわけです。そしてその行動原理/理念に納得がいかない「へたれ」の一人である自分としては、まるで「へたれ」をそのような行動原理/理念を持つ存在であるかのように扱う一方、「ヤンキー」を反骨精神の象徴であるかのように扱う主張を見ると、どうしても違和感を感じてしまう。

 ***

学生時代はあれほど沢山いたヤンキー系の者達が、大人になると忽然とその姿を消してしまう、という現象がある。これは単にそういう者達との接触の機会が少なくなったということもあるだろう。しかし「ヤンキー」が消失する理由はそれだけではないはずだ。一方で、行動原理に迷いのない「ヤンキー」ほど大人社会での出世が早い、という現象が存在することも忘れてはならない。つまり、多くの「ヤンキー」は「ヤンキー」でなくなったわけでもなんでもなく、「ヤンキー」特有の行動原理を貫いた結果、「大人」が持つ一般的傾向へと収斂していっただけなのではないか。そしてその結果、表面上の文化的特徴が失われ、透明化しただけなのではないか。

というか、学校や地域社会というコミュニティー内での社会的優位性を利用してパワハラを行う「ヤンキー」と、経済社会での地位や肩書きを利用してパワハラを行う「大人」。この両者に一体どのような内容的違いがあるというのか。幾ら姿形が一般性を帯びていても、いじめられっ子としての時代を送って来たことによって備わった自分の「ヤンキー探知機」がビンビン反応するわけですよ。世間の「大人」達に対して。

Pluginフォルダに入れたのにREAPERから見つけられないVSTがある時

VSTHostでは問題なく読み込めるのに、Pluginフォルダに掘り込んだそのVSTをREAPERのFX欄からプラグイン名やベンダー名で探してみても見当たらない、ということがたまにある。そういう時、「Container」という登録名で検索してみると見つかる場合がある。どうも、SynthEdit製のVSTでこういう症状が出ることがあるみたい。

いつも以上に疎外感を感じる日

だったなあ、エイプリルフールは。
他人が盛り上がっているのを見れば見るほど気分が盛り下がるよ。
クリスマスとかは別に何とも思わないのにねえ。

そんな中で唯一興味を惹いたのがこれ↓

http://www.megavideo.com/?v=JNBN8R5S

『インディー・ジョーンズ』の公式ページが『サウスパーク』に乗っ取られて、『インディー・ジョーンズ』をネタにしたこの回の動画がトップに貼り付けられていたという。まあこの動画自体はエイプリルフールとは直接関係ないわけだけど。

しかしこの風刺はそのまま今の日本の状況にも当てはまるなあ。チャイニーズ・フォビアとか「非実在青少年」規制とか。

  ***

それにしても、アメリカは暴力描写に対する規制が強く、『ドラゴンボール』のようなものまで問題視されることもあるというが、こういうのは大丈夫なわけか。それだけゾーニングが進んでるということか?

しかしこういうタイプの風刺は、日本では絶対に無理だなあ。だって、幾ら日本でゾーニングが進んだとしても、宮崎駿が幼女を脅して――いいから脱げ、何も言わずにやれ。ほらほら、叫んでごらん。ブタのように叫んでごらん。叫んでみろ、ほら、叫べ。「私をこのソープで働かせてください!」と叫べ。大声で叫べ、大声だ――みたいな風刺は絶対許されないもんねえ。いや、それって「非実在少年」を使って本人がやってることそのまんまなんだけど。

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↑「普通の感覚」の潮目を見極め、それが持つであろう他人へのコントロール欲――即ち道徳――を上手く利用して正当化すればこうなるだけであって。

その一方で、権威性を手に入れることも潮目も上手く読むことも出来ないロリ達は、そのコミュニケーション能力の低さ故に政治的に稚拙な態度でしか相手の批判に対抗することが出来ず、宮崎駿の分まで集中砲火を浴びることになる、と。これがロリと「名誉ノーマル」の違いですよ。要するに、本当は背景に理念やロジックなんて無いわけです。

――こういったことは別にこの問題だけに限ったことではない。例えば、今まで散々非道徳的な行いをしてそれをネタにのし上がって来た、一般性から遠く外れた位置にいたはずのお笑い芸人が、権威性や社会的成功手にした途端、今度は異端性から一般性や道徳に武器を持ち替え、持ち前のコミュニケーション能力を使い、「みんな」の代表として「みんな」から疎外された存在を抑圧し始める、というのはよくあるパターンだ。そして今度はそれをネタにすることで己の求心力を保ち始める。理屈で考えると全くおかしなことだが、実際、その道徳的欺瞞は概ね世間に受け入れられている。

現代社会の最大の権力者は、政治家でも官僚でも大企業のトップでもない。それは「普通の市民」という主体無き群集だ。そしてその群集の「普通の感覚」こそが本当に深刻な抑圧やハラスメントを生み出す。それこそが現代社会の権力構造の在り様であり、克服されるべき問題点だろう。それ故、「普通の感覚」が持つ無根拠な横暴さや横柄さ、その滑稽さを暴き出してみせてこそ、風刺は本来の機能を果たすことになる。ところが日本の場合、「普通の感覚」の側からそうでない者を嘲り哂うという形でしか風刺はその姿を現さない。というのも、日本では「普通の感覚」がある種の信仰対象になってしまっているから。要するに、それは不人気者への一方的なハラスメントにしかならない。

いや、まあ風刺が機能したからといって別に住み良い社会になるわけでもなんでもないけど。

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プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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