ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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江戸子守唄(貴野ユキ)

UTAUを使って有名な子守唄を歌わせてみた。

江戸子守唄(貴野ユキ)---2分55秒

といっても、内容は過去に作ったものの使いまわしだけど。

せっかく面白い道具が手に入ったのに、四六時中不安感や劣等感(何かしようとすると「自分に上手く出来るはずがない」という気持ちがよぎる)に苛まれて全く物事に集中することができないので、中々新しい曲を作れない。それ以前に、自分の場合UTAUを使おうと思っても、「歌詞が書けない」という問題が猛然と立ちはだかることになるのだが。
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今回使用した音源は「貴野ユキ(verSP)」。
<追記8/14:リンクが変っていたので修正>

比較的年齢層の低い人が音源を作成するケースが多いからなのか、UTAU用に配布されている音源は、幼声であることが圧倒的に多い。それも似たような感じの音色のものが多いのだが、この音源は比較的年齢が高く聞こえるのと、音色も他には余り無いタイプなのでちょっと使ってみたくなった。音も比較的よく録れていて、低音から高音まで安定した音が出る。

とはいえ、UTAUを使う場合、ノイズとの戦いになるのはどうしても避けられない。今回はそのために、幾つかのファイルをEQで処理を施したものと差し替えてみたりもした。例えば、「ね」の10kHz辺りから上をReaFirのゲートでバッサリ切り落としてみたり、後は6.8KHz辺りにヒスノイズが入っているものが多かったので、特に気になるファイルはそこらへんの帯域を削ったものに差し替えてみたりして。ただ、これをすると音色がちょっと暗くなってしまったりするのだが。ノイズを取り除こうとすれば音に質感がなくなり、質感を与えようとするとノイズが目立ち始めるというジレンマ。今回の曲は特に「ん」が強敵だった。

ただ、こういった処理は非常に面倒なものではあるが、一つ一つ問題のある箇所をつぶしていって何かを仕上げるという作業は、面倒であると同時にわりと面白いものであったりもする。それによってある種の目標ができるというか。実際の社会生活では何の目的も目標も持てないからなあ。

因みに、フラグは「g+10wH20」。フラグに「w」を付けたので、そのせいで余計にノイズが乗りやすくなったということもあるかもしれない。そちらの方が音色的にこの曲に合いそうだったので、そうしたわけだが。
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ピンポン7卓球ゲーム

難易度EASYでもラリーを続けるのが難しい卓球ゲーム「ピンポン7」 - GIGAZINE





難しいという触れ込みの割には、案外すんなりとクリアできた。
端っこの方に飛んでくるヤツをアウトにせずに上手いこと返せるかどうかがポイント。
ただ、二回クリアしたけど個人情報の入力に躊躇して、結局抽選の応募はせず。
なんせ当たっても五百円だしなあ。千円だったら迷わず応募していただろうけど。
でも、懸賞なんか殆ど当たったことが無いし、当たったらそれはそれで割と嬉しいかもしれない。後でまたチャレンジしてみようかなあ。
因みに、「締切りは2010年5月31日(月)まで」とのこと。

嫉妬が生み出す厳罰感情

ニュー速クオリティ:ノルウェーの刑務所がヤバイ、とにかくヤバイ

81 ソラスズメダイ(愛知県) 2010/05/14(金) 01:57:13.60 ID:Nzuoeumn
ノルウェーで悪いことしてくるわ

92 ゴマモンガラ(石川県) 2010/05/14(金) 01:59:52.85 ID:ou9VPnO+
ノルウェーって一番重い刑でも懲役21年とかなんだよな
軽すぎるだろ

220 オニイトマキエイ(東京都) 2010/05/14(金) 02:43:31.79 ID:5He5ZM5x
一般的な社会は先進国最低だろうけど、刑務所なら日本はそんなに悪いほうじゃないだろ
健康診断とかもちゃんとするし、労働時間も法律の範囲で決まってるし、食事は栄養バランス考えて作られてるし
読もうとすれば、本とかだって読めるし
一般的な日本の労働者に比べれば、賃金以外はかなりまともな生活送ってるよ

228 タイガーレッドテールキャットフィッシュ(catv?) 2010/05 /14(金) 02:45:29.15 ID:7hizmKEr
>>220
日本の労働者より受刑者のがまともな生活だからなw
アメリカの刑務所は借金負わされたりするw無限ループが待ってる

276 オニイトマキエイ(東京都) 2010/05/14(金) 03:04:01.73 ID:5He5ZM5x
犯罪者をどうするかってのは、世界的に解決されてない問題だからなぁ
放って置いたらまた犯罪して一般人に危害を加えるだろうから、行政が自立支援はせざる得ない
かといって、犯罪したら即死刑か終身刑なんてわけにもいかないし、
結局、やったもん勝ちみたいになってるんだよね、今のシステムは

犯罪行為を「やったもん勝ち」と評する意見は結構よく見かける。しかしこれは全く妙な主張だ。というのも、「やったもん勝ち」というのは先行者が有利になる状況を指して言うものだろう。犯罪行為の一体どこにそのような要素があるというのだろうか?今まで犯罪とされていなかったものが後に犯罪と規定されたことに対し、「あれはやったもん勝ちだった」と後から振り返るのなら分かるのだが。

まあ、犯罪を行って捕まらない人間もいるわけで、そういう状況を指してそのように言うのは分からなくはない…が、その状況を成立させるためには、その者がそれなりの特殊なスキルや条件を持ち合わせていることが必須となり、誰にでも出来ることではないため、やはり「やったもん勝ち」ということにはならない。
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▼(1)実際上の≪包括的犯罪行為≫と想像上の≪純粋犯罪行為≫


大体、本当にそれが「やったもん勝ち」だと思うのなら、やればいいじゃない。勝てばいいじゃない。しかしそう言っておきながらやらないのは、「絶対に儲かりますよ」と他人に言って置きながら自分はやらないのと同じで、結局本音では「やったら負け(割に合わない)」と思っているからだろう。

じゃあ何故、自分が割に合わないと思っていることを実際に行っている者に対して、恰もその者が得をしているかのように言う(感じる)のか。恐らくそれは、純粋な犯罪行為と、必然的にそれとセットになって付いてくる様々な条件――社会システムによって罰を受け、ハンデを背負わせられる可能性や、民衆に娯楽としてリンチされる可能性が高まる/罪悪感を感じることによって精神的に消耗する/衣食住に不自由している/犯罪行為でしか欲求を満たせない資質を有している、など――を切り離して考えているからだろう。そしてそれらを全て切り離した、実際には存在しない想像上の≪純粋犯罪行為≫による利益や快楽の取得だけを見ている。

つまり、自らの行動上における犯罪行為の可否は、それに伴う様々な条件を加味した≪包括的犯罪行為≫を見て判断をしている一方、他人の犯罪行為に対する損得勘定に関しては、想像上の≪純粋犯罪行為≫だけを見て判断を下している。だからこそ、自らは損をしないようにと忌避した行為を他人がしていると、その者が得をしているかのように思える。

――実際には、自意識によってそのように認識されているだけであって、人間の行為は必ずしもそういう理屈上における損得の打算だけで決定されているわけではないが。

▼(2)犯罪の果実への羨望、「勝者」と「敗者」の入れ替わり

ここで一つハッキリするのは、犯罪行為を「やったもん勝ち」と評する者は、他人の犯罪行為に対してある種の羨望を持っているということだ。わざわざ犯罪行為を実際には存在し得ない≪純粋犯罪行為≫にまで分解し、それを使ってその行為者を「勝者」に仕立て上げて羨むほどの、強い羨望を。そしてそれを羨むということは、そこに何かしらの――“善い”ではなく――“好い”を感じている証左だろう。何故なら、あらゆる意味でそれが“悪い”ことであるなら、その“悪い”を取得してしまった者を「勝者」と称したりはしないはずだから。ただ単に“悪い”ものを獲得してしまっただけなら、その者は「敗者」になるに決まっている。つまりこれは、犯罪行為の“悪”の中には、実は“好い”が含まれているということを意味する。

犯罪行為を包括的に見た時、それが“悪い”のは当然だ。これは単に道徳的に“悪”なだけではなく、具体的な損得勘定の上でも“好い”ものとは言えまい。何故なら、犯罪者がその行為によって取得するのと似たような利益や快楽を、犯罪という危ない橋を渡らずに手に入れている人間は幾らでもいるからだ。一口に犯罪者と言っても様々ではあるが、結局それらの人間は、一般道徳上においてはもちろん、そういった実際の一般的損得勘定の評価の上でも「敗者」であると言えるだろう。そして逆に、犯罪に手を染めずに済む者は基本的に「勝者」である。

しかし、これはあくまで犯罪行為を包括的に見た場合においての話だ。そうではなく、もし≪純粋犯罪行為≫上で両者を見比べてみた場合どうなるか。その場合、その行為によって利益や快楽を得た犯罪者は、ただ“好い”のみを獲得した「勝者」となり、それを行わなかった者は、その“好い”を獲得できなかった「敗者」ということになる。つまり、≪包括的犯罪行為≫を前提としてものごとを見た場合と、想像上の≪純粋犯罪行為≫を前提としてものごとを見た場合では、その「勝者」と「敗者」がそっくり入れ替わってしまう。だからこそ、一般道徳や損得勘定上での「勝者」が、本来「敗者」であるはずの犯罪者を、≪純粋犯罪行為≫によって“好い”を獲得した「勝者」として羨むという、ねじれた状況が生じてくる。

▼(3)
    とある強者の厳罰感情(ルサンチマン)

では、何故こういったねじれが生じてしまうのか。それは、その者が犯罪行為の全てを本心から拒絶しているわけではなく、そこに含まれる“好い”に魅力を感じ、他人がそれを獲得するのを羨みながらも、一般道徳や常識という呪縛に縛られているからという、どちらかというと消極的な理由でそれを為さないでいるからだろう。そのせいで、「総合的に見ると結局損をしていることにはなるが、とはいえ、犯罪者がそれによって得た利益や快楽だけを切り離して見ると正直羨ましくなる」というように、素直にそれを羨むことすらできない。他人から押し付けられた一般道徳や常識によって「自由」が奪われているが故に。その奴隷であるが故に――というのも、もしそれが他人によって押し付けられたものではなく、己自身の道徳観に基づく抑制の結果であるなら、他人がその行為によって何かを得たところで、全く羨む必要などないはずだから。

そしてこの「自由」という要素に着目し、「行為と利益の取得」を見てみた時、一方は他人から与えられた道徳や常識という呪縛を打ち破り、自らが欲した果実を手に入れるだけの強さを持っていた強者ということになる一方、他方は、その果実に魅力を感じながらも、他人から押し付けられた規範に立ち向かう勇敢さも、その呪縛を打ち破る力もなかったが故にそれに手を伸ばすことができなかった、弱者ということになる。しかもその者は、他人が手に入れたその果実に対する羨みを、ストレートに表現する力すら持っていない。つまり、他人に押し付けられた道徳や常識に束縛されているが故に犯罪行為を抑制している者は、その点において全く無力なのだ。だが、そうであってもやはり羨み自体が消滅するわけではない。だからどんどんフラストレーションは溜まっていく。となれば、何とかしてそれを解消しなければならなくなってくる。

そしてそれは、総合的見地から割に合わないものとして自らが忌避した行為を、――「日本の労働者より受刑者のがまともな生活だからなw」というように――割に合う行為であったかのように価値を反転させた上で、それを手に入れようとすれば簡単に手に入ったのに、強い自制心によって敢えてしなかったとして、他人から押し付けられた道徳の呪縛を打ち壊せない弱さが故の結果を、想像上で、欲に負けないストイックな強さの結果、に置き換えることで解消される。その価値の反転は既に述べたように、包括的状況と部分的状況を比較するという手法によってなされる。

しかしながらこの反転は、欲に負けた弱い心を持っていた方が得をし、強い自制心によって道徳的な「正しさ」を守った方が損をしている、という認識を生み出す。それが人々の不公平感を刺激する。それによって、ただの羨みであったものは――道徳によって外出を禁止されていたそれは――嫉妬に変換された上で表に姿を現すことになる。しかも犯罪者が手に入れている≪純粋犯罪行為≫による利益や快楽は、想像上にしか存在し得ないものであるが故に、例え実際に自分が犯罪を行ったとしても決して手に入らない、そういう貴重性を持っている。その上そこには、背徳感とセットでしか手に入らないプレミア的快楽も含まれるだろう。それを犯罪者は手に入れている(ことになる)わけだから、余計にその嫉妬は強くなる。となれば、何とかしてその「不公平」を埋め合わせようとして、その結果、厳罰化が叫ばれるようになるのは必然的な流れだろう。

即ち他人への厳罰感情というのは、ルサンチマンの一つの形なわけだ。

――まあ「276」自体は別に厳罰化を唱えているわけではないし、この「まとめ」の上では、厳罰化を望む声はさほど強くはないけど。だが、一般社会において、不公平感から生じた厳罰化への欲求がどんどん強まっていることは、今更言うまでもないだろう。

▼(4)虚構の不公平を埋め合わせる「罰としての嫌がらせ」

とはいえ、ここでは別にルサンチマン自体を批判したいわけじゃない。ルサンチマンというものは、人間の資質がある一定の環境におかれた時に必然的に形成されるものだから、それ自体は批判の根拠にならない。それを指摘するということは、怒っている者に対して「怒っている!」、笑っている者に対して「笑っている!」と指摘するようなものでしかない。

そうではなく、自分がここで言いたかったのは、ルサンチマンというのは必ずしも所謂「弱者」だけが抱くものではないということ。そしてもう一つ、自身が持つ包括的状況と他人が持つ(都合の良いものだけを選り分けた)部分的状況を比べるようなことをすれば、それによって不公平感が生まれてくることになるのは当然だということ。そしてそのような形での比較を止めない限り、どんどん虚構の不公平が生まれて来て、それが人々を厳罰化の欲求の渦に巻き込んでいくことになるのは避けれらないだろう。

これは別に犯罪に絡む事柄に関してだけの問題ではない。ごく一般的な人々が送る社会生活の上においても、そのような比較から生じた不公平を埋め合わせするための「罰としての嫌がらせ」が行われたり、或いは誰かの不幸が、罰による不公平の埋め合わせであるかのように言われたりするようなことは、よくある。「叩き」なんかも、その埋め合わせの一つの形として行われている、という面もあるだろう。

ニート、ひきこもり、障害者などが叩かれるのも、多分、単純にその属性が蔑まれているからだけではない。その叩きには、ある種の嫉妬心や不公平感が関連していると考えて間違いないだろう。自分はこれだけ(他人から押し付けられた道徳的要求に応えるために)苦労しているのに、あいつらそれをしないでいてズルい、というように。しかしながら、そういった不公平感が生まれるのは、それらが持つほんの一部分だけを切り取って、そこだけを見ているが故のものだ。そしてそれは、その者が他人に押し付けられた道徳に逆らうことができず、それによって苦しめられながらも、その道徳に依存した形で己の「正しさ」を獲得しているが故のものでもあるだろう。

マッドサイエンティストとしての神×精神論と科学の残念な邂逅

「「心」を変えてヒトは進化する チンパンジーとの差極少」:イザ!

≪良い遺伝子をオンにする≫

 心にも、ある種のエネルギーがあり、「思い」や「心の持ちかた」が遺伝子のオンとオフを変えるという事実である。

 つまり、心の働きを変えるだけで、遺伝子レベルでも高次の人間に進化できる可能性があるということが分かり始めた。(中略)

 そして今、ダーウィンの進化論を超える新しい進化論が生まれようとしている。

 私は、笑い、感動、感謝、生き生きワクワクした気持ち、さらには、敬虔(けいけん)な祈りまでもが、良い遺伝子をオンにすると考えている。

 これからの私たちは、意識して、よい遺伝子のスイッチをオンにすることで新しい人間性を生み出すことができる可能性がある。

 この新しい進化に貢献するのが人間の使命であり、すべての生き物の「いのちの親」の望みに添うのではないかと思っている。(筑波大学名誉教授・村上和雄)

「「いのちの親」の望み」って…インテリジェント・デザイン説の亜種か。
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▼マッドサイエンティストとしての神

しかし分からないな。仮にそういった全ての生き物を生み出した神とも言うべき存在がいるとして、その存在は何故、わざわざ低次の存在としての生命を生み出し、その者達に「高次」の存在に進化する使命なんてものを課すのだろう。何故そのために様々な試練を設けるのだろう。そんなことをせずとも、初めから「高次」の存在としてデザインされた生命を生み出せばいいじゃないか。

それを何故、わざわざ低次の存在としての生命を生み出し、尚且つ、「使命」である「高次」の存在への進化にハードルを設け、それを簡単にはクリアできないように設定する必要があるのか。要するにそれは、“本物の生命を使ってシミュレーションゲームを作ってみた”みたいなものだろう。そしてそのゲームの様子をみながら、「ああ、全くなんて愚かなんだ、人間は…」とか、「おおっ、やるじゃないか、こいつら」とか、「このままだ思った方向へ進化しそうにないから、ちょっと疫病でも流行らせてみるか」とか言ってるわけでしょう?その存在は。とてつもなく趣味の悪い遊びだよ、それ。娯楽のために生命を弄ぶ、ただのマッドサイエンティストだよ。そんな存在を一体どうやって尊べというのか。

というか、もしこの世界を神が設計したとするなら、その者は、この世界を多くの不幸や苦痛、矛盾で溢れかえるように設計した、諸悪の根源ということになる。それに、何らかのベクトルを所望しながら意志を持って物事を論理的に考える存在は、根本的には「人間」となんら変わらないだろう。よって、意志を持った存在としての神が実在するとしたなら、それは単に「絶大な力を持った人間」でしかない。だからこそ、自分は意志を持った存在としての神には全く興味を抱けない。何故なら、そこには何の神秘もないし、もし本当にそのような存在が実在するとしたら、それはこの世に多くの不幸や苦痛、矛盾をもたらした諸悪の根源ということになるから、その存在を憎まずにはいられない。でも、そんな空想上の存在を憎んだところでどうにもならないわけで、であるなら、初めから興味の対象としてスルーしておいた方がいいだろう、と。

▼精神論と科学の残念な邂逅、或いは希望と存在意義を賭けた闘い

ただそういったID説的な部分よりも、「これからの私たちは、意識して、よい遺伝子のスイッチをオンにすることで新しい人間性を生み出すことができる可能性がある。」というこの部分こそが、この説の本旨なのだと思う。

というのも、キリスト教的な条理性が信じられている文化圏では、世界の成り立ちの在り様がその条理性を成立させるための重要な案件となるため、今最も信頼されている「科学」というブランドとの間で、その成り立ちに関するすり合わせを図る必要性が出てくる。これが所謂ID説の出自となる。だが、それが全く信じられていない日本では、世界の成り立ちやそれが存在する意味は基本的に余り重要な案件ではない。だからそれは本旨にはならない。

それよりも、日本で最も多くの者に熱心に信心されているのは精神論、つまり自意識原因論的な条理性に基づいた奇跡の存在だ。実際、もはや精神論が起こす奇跡にしか希望を見出すことができないような人間がこの国には大勢いるのではないか。即ち、多くの者にとってもはやそれが唯一の希望の供給元となってしまっているような現実がある。そしてそれと同時に、私は己の意志の力によって社会に“成果”をもたらしている、だから私は存在してよい、というような自意識原因論的な原理と社会的役割説によって己の存在意義を獲得している者も沢山いるはずだ。つまり、精神論が今世界中で最も大きな求心力を持っている「科学」によって否定されてしまった時、多くの者の希望や存在意義が奪われてしまうことになりかねない。そうなってしまえば、この社会は大きな混乱の渦に巻き込まれることになるだろう。そしてそうであるが故に、日本では精神論と「科学」とのすり合わせを図る必要性が出てくる。己の希望や存在意義を守ろうとする動きが出てくる。

事実、「高次の人間に進化」という“成果”の象徴を意味するものが生み出される原因を、心の「ある種のエネルギー」、つまり個人の自意識の努力具合に見出そうとするところや、その“成果”に「貢献するのが人間の使命」、即ち、“何者か”に設定された社会的役割への貢献を自身の存在意義とするところなど、これは原理的に精神論と完全に一致している。

要するに、希望や存在意義を守るために、それを支える精神論の正しさがどのような原理によって成り立っているかということを、無理矢理科学的な視点から説明しようとした結果、「ある種のエネルギー」が「良い遺伝子のスイッチをオンにする」という妙な説が生み出されることに相成った、と。多分、そういう文脈の上でこういう説が生まれてくるんだと思う。



※注意 このブログには、「ある種のエネルギー」によって多数の悪い遺伝子をオンにして、人間をチンパンジーにする仕掛けがなされている…かもしれません。そうなりたくない人は、「笑い、感動、感謝、生き生きワクワクした気持ち、さらには、敬虔(けいけん)な祈り」によって「良い遺伝子のスイッチをオン」にして対抗…した方がいいかもしれません。

増殖する「弱者の報い」の伝道師

自分は弱いからこうなって苦しんでいるそして世間はその苦しみを、弱さを克服しなかった人間が受ける当然の報いなのだと言う。それは「正しい」ことなのだと言うその状況に対して異を唱える者も結局はそれを変えることが出来ず、全く無力である力を持たない「正しさ」に一体何の意味があるのか?「正しさ」とは、実際に起こってくるこの状況そのものなのではないかそう、弱さを克服しなかった人間に報いとして苦痛がもたらされるのは、そういう状況が成立している以上「正しい」ことなんだ。私がこうやって苦しみ続けているのも「正しい」ことなんだ。だから私はこの「正しさ」を伝道する。

暴力が立場の弱い者、力なき者に向けられるのは、必ずしも物理的要件だけではなく、こういったある種の道徳(∈宗教)観を熱心に伝道して回る者が沢山いるから、ということもあるのではないか。そしてその伝道師達によって報いを受けた者が、さらに新たな伝道師となってまたその教えを他の者に伝道していく。そうやって鼠算式に伝道師が増殖していった結果生み出されたのが、この自己責任社会なんじゃないかと。

レッテル貼りは思考の整理術であり、規定路線上のリソース確保でもある

心をザワつかせる何らかの事象に出会った時、取り敢えず頭の中にある適当な棚にそれらを次々と放り込んで収めてしまえば、思考の部屋が今以上の≪問題≫によって散らかることはない。それによって色々と悩まずに済むことになり、その分だけ思考のリソースを節約することができる。また、そこで行われる“片付け”行為は、解決のカタルシスをもたらす作用もあるだろう。

つまり、その整理術が身に付いていれば、新しいものの見方や発想を生み出すことは難しくなるものの、その一方で、節約したその分のリソースを予め定まった規定路線上において存分に利用することができる。この整理術にはそういうメリットがある。さらに、その“片付け”行為によって得たカタルシスは成功体験となり、新たな自信と活力の源にもなるだろう。レッテル貼りというのは、そういう思考の整理術やリソース確保として機能している側面があるんだと思う。

だからそう簡単にはなくならない。

むしろ常識や道徳を真に受けた者がひきこもりになっているんだと思うが

“引きこもり”へまっしぐら どうする?わが子が「4ナイ生」だ(ゲンダイネット)

 就職もダメとなると、4ナイ生はそのまま“引きこもり”になりかねない。北海道では、無職の長男(23)が両親を包丁で刺し、母親(55)が死亡、父親(57)は重傷を負う悲劇が起こった。

 長男は大学を中退してから仕事をしておらず、「両親から〈働くように〉と日頃から言われていて、うっぷんがたまっていた」と供述している。

 最悪の事態だけは避けたい。

「早いうちから、社会とのつながりを持たせることが重要です。友達がいないのではないかと感じたら、嫌がられてもいいから学校生活のことをしつこく聞くなどして接点を持つこと。定期的に親子で外食に行く機会をつくってもいい。子供が親に対して反発心を持っているようであれば、自分の兄弟や親戚、会社の同僚などを同席させ、会社や就職の話をしてもらう。親ではない他人の話なら、子供のほうも納得して聞きやすいものです」(石渡氏=前出)

ゲンダイネットの記事にいちいちマジレスしても、と思う人もいるだろうけど、残念ながらこういう考え方こそが世間の一般常識だと思うので言っておくと――「嫌がられてもいいから学校生活のことをしつこく聞く」なんてしたら、「早いうち」からうっぷんが蓄積され、「最悪の事態」が起こる可能性を高めるだけだろう。しかも、「自分の兄弟や親戚、会社の同僚などを同席させ」たらその者達を巻き込む可能性だって出てくる(そもそも、親自体が親戚や兄弟、同僚と上手くやっていけていないケースが考慮に入れられていないのも妙な話だ)。それで事件が起こったら、こういう動きを取ることを勧めたこの人物は一体どう責任を取るつもりだろう?まあ、どうせその提案を真に受けた者、そしてその動きに連動して事件を起こした者の自己責任ということで済ませるんだろうけど。何にせよ、こんな危険な賭けを何の留保もなく勧めるなんて、余りにも無責任だ。
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▼(1)出口を防がれてなお注ぎ続けられるストレスの行方

この記事のように、日本には“はみ子”になる(友達がいない)ことがまるで道徳的に悪であり、恥ずかしいことであるかのように思わせる風土がある。大抵の人間はそれを自身の感覚として内面化してしまう。だが、全ての人間がある一つの枠組みに上手く収まり切るなんてことは現実的にまずありえない(――「現実を見ろ」と言う人間の多くは、この事実を決して「現実」として受け入れようとはしない)。枠組みの形が一様であれば、どうしてもそれに上手く馴染める人間とそうでない人間がでてくる。そして“そうでない人間”がその常識を内面化してしまった場合、その者は内と外の両方からひっきりなしにストレスを受け続けることになる。

ストレスが掛かるのが外からだけだったら、その環境から離れればストレスから逃れることが出来る。外から発せられるそれを真正面から受け止めず、上手くイナすことでダメージを軽減させることも可能だろう。また、何らかの方法で憂さを晴らし、溜まったストレスを低減させることも出来る。しかし常識が内面化されている場合、自分自身がストレスの出所になってしまっているので、それを体現出来ていない以上、どのような環境に居ようともストレスからは逃れられない。よって気晴らしをすることも難しく――さらに言えば、そういった者は気晴らしは現実逃避であり、悪であるという一般的道徳を内面化している可能性も高い――常に大きなストレスを抱え続けていなければならなくなる。

そういった状態に陥った者は、それ以降どうなるか。その流れを幾つかに分けてみると、

(1)常識を体現できるようになってストレスから開放される
(2)常識的感覚が薄らぐことで抱えるストレスの量が減る
(3)キャパシティーを超えたストレスを抱え続けたために精神的に消耗し、自滅する
 (これは道徳的に悪である自分を自身の手によって滅ぼした、とも考えられる)
(4)抱え続けてきたストレスを一気に吐き出して暴発する
(5)自身が世間にとって悪であることを完全に受け入れ、より悪らしく振舞うようになる

大体こんな感じになるだろう。

どうも当該記事では一つ目の流れしか想定されていないようだ。しかし、こういった状況が成立している以上、当然二つ目以降の流れに収まる可能性だってある。記事で触れられているタイプの事件なんかは、(4)と(5)の二つの内のどちらかに収まったケースだろう。そういった危険性について全く鑑みず、“はみ子”により大きなストレスを掛けることで一つ目の流れに追い込むこと/追い込めることだけを考えてそれを行うのだとしたら、それは余りにも無謀な行為なのではないか。

仮に自分の子供が(1)の流れに収まっても、全ての人間が一つの枠組みに上手く収まりきることがありえない以上、それは他の家族に於ける二つ目以降の流れを再生産することになるだろう。何故なら、“はみ子”になるのは悪であるという常識を肯定したまま社会的成功を収めた者は、きっと集団に馴染むために行った――そのために邪魔であった――自己の感覚否定と成功体験を結びつけ、そこにアイデンティティを見出すことでより先鋭的な常識布教者になるだろうからだ。そしてその者が他人からされたように、今度は自らが世間の一部として、自身の成功体験から獲得した実感主義的価値観を常識/道徳として他人に植え付け、“収まりきれない者”に自己否定を迫ることでストレスの絶対量を増大させる要因となるだろう。後は既に述べたことの繰り返しだ。

つまり、そのような常識や道徳観によってこういったループ状況が作り出されること自体が問題視されなければならないのではないか。

▼(2)その者の存在をも否定する、猛毒としての道徳

記事には「子供のほうも納得して聞きやすいものです」と、まるでその常識/道徳を納得させることが出来れば問題が解決するかのよう書かれている。しかしこれはとんでもない勘違だろう。というのも、そういった常識/道徳にある程度納得し、それを内面化するほどまでに強く内に取り込んでいるのにもかかわらず、そこに馴染めない人間がいることこそが問題なのだから。

もしその者が、やろうとすれば出来るが敢えてやっていない、というように、敢えて常識や道徳に抗っているのだ、という認識を持っていればまだ事態は穏便に収まる可能性もある。しかし、その者がその常識や道徳に納得して必死に従おうとしているのに、つまり、やろうとしているのに出来ないという認識を持っていた場合、それはその常識/道徳に照らし合わせてみる限り、己自身の本性は悪であり、存在することすら憚られる恥ずべき存在であるということになる。そしてそれは同時に、己の自意識は自分自身を全く制御することが出来ていないということをも意味するため、アイデンティティを“自分を制御している”ことに依存している自意識――殆どの自意識はそういう認識を持っているだろう――は、その存在意義を失ってしまう。

だからこそ、自分の正体が実は悪であるということを、そして自身が存在意義すら持たない恥ずべき存在であるということを隠すため、家族を避けるようになるわけだ(もちろん、家族を避けるのは必ずしもそれだけの理由とは限らないが)。そのような道徳観を内面化し、抱え込んだままでいる者から「しつこく聞く」ことで学校で“はみ子”になっている事実を無理に聞き出すことは、その者からすれば、家族から自身の悪と恥を暴き出され、その存在意義の無さを正式に通告されるのと同義だ。これはある種の死刑宣告にも近い。実際、その事実が発覚した後、家族がその道徳観に基づいてさらなる抑圧を掛けるということは、その者に対して“今の自分”を殺せと迫ることでもあるわけだから。「やろうとしているのに出来ない」と認識していながらそういう状態に陥っている者からすれば、それはただの「死ね」だ。ましてやそれを「兄弟や親戚、会社の同僚などを同席させ」た場所で行うということは、その糾弾会を公の場に持ち出すということであり、尚更その者を窮地に追い込むことになるだろう。

▼(3)何の考えも無しに「しつこく聞く」は一か八かのギャンブル行為

つまり、ここでこのジャーナリスト(及びゲンダイネット)が勧めている方法は、「出来ないなら死ね」とはっぱをかける行為であり、一か八かのギャンブル的行為だと言える。しかしそうであるなら、ギャンブルが失敗した時の危険性もまたちゃんと情報開示として通告しておかなければならないだろう。そのギャンブルによって子供が「じゃあ死ぬ」と言って自殺するかもしれないし、「むしろお前が死ね」と言って親を殺しに掛かってくる可能性だってあるわけだから(現に、記事で触れられている事件ではそうなったわけで)。

自己責任という概念は、選択の自由と適切な情報開示という二つの前提条件が成立している時にのみ認められる極めて限定的な枠組みだ。常識や道徳の抑圧で選択肢を奪い、情報を隠蔽しながら特定のベクトルへと追い込んでおいて、起こった結果は全て追い込まれた者達の自己責任と言うのは、詐欺師や恫喝師のやることだ。

▼(4)「“はみ子”は恥であり悪である」の内面化は孤立を固定化する作用がある

問題はそれだけではない。「“はみ子”になることは恥であり悪である」という道徳観が厄介なのは、孤立をより堅固に固定化してしまう機能をも持ち合わせているということだ。というのも、自分の本質が悪であり、その存在が恥であると感じている人間にとっては、その後ろめたさ故に、他人と上手く接することが極めて難しいものになる。尚且つ、それが「他人に迷惑を掛けてはならない」や「相手の立場に立ってものを考えなければならない」といったこれまた非常に一般的な道徳と混ぜ合わされてしまうと、よりその毒性が強まることになる。何故なら、自身が悪であれば他人に関わること自体が悪行となるし、自身の存在が恥じであると感じているような自己評価の低い人間が他人の目線で自分のことを見れば、自ずとその他人にとっても自分自身は価値が無いということになるからだ。自分から売り込みのアクションを起こさなければならないコミュニケーション原理主義の現代日本社会において、これ程大きなハンデを背負わされることは他にあるまい。

▼(5)後ろめたさが生存競争の鍵

逆に言えば、こういった常識的・道徳的感覚を他人に上手く植え付けることが出来れば、その者の社会的競争力を骨抜きにして追い落とすことが出来る、という見方も出来る。そういう視点から見れば、現代社会においては、如何に後ろめたさを抱かせるか/抱かずにいられるか、ということが生存競争の一つの鍵になっているとも言える。くしくも、そのちょうど分かりやすい例を当該記事は自ら体現して見せてくれている。

「〈ヘタな会社に入ったら、子供が大変だ〉なんて考えるのもよくない。仮にブラック企業だったとしても、働いて苦労することで成長する例はゴマンとあります」(石渡氏=前出)

法的・人道的に問題のある活動を低減させるのではなく、そういった活動が行われることを前提とした上で、それへの順応(=成長)を迫ることの一体どこに正当性を見出せばいいのだろう?なぜ、そういった活動の是正を訴えるのではなく、それへの順応の方を訴えるのか。ブラック企業の広報がそういう主義主張を並べ立てるのならわかるのだが、仮にもジャーナリストの名を名乗る人物がそういう主張を行って恥ずかしくないのだろうか?このようなゴシップ記事を次から次へと生み出し続けることに罪悪感は感じないのだろうか?――恥ずかしくないのだろう。罪悪感を感じないのだろう。少なくとも、それを問題なく継続できる程度にしか。

つまり、恥を感じる感覚が薄く、世間の常識や道徳などものともしない強靭な自己肯定があるからこそ、この者達は立派な社会人としての地位を獲得し、その活動を維持することが出来ている。要するに、常識的・道徳的感覚なんてものは、社会生活を送る上で一切必要ないものなのだ。そんな感覚よりも、ただその場その場の状況に合わせて上手く振舞うことが出来る能力さえあればそれでいい。感覚として内面化され、固定化された道徳感や常識的感覚は、刻一刻と変化していく環境への適応ということからすれば、邪魔なものでしかないだろう。

▼(6)常識/道徳への最適化と自主性の抹殺は背中合わせ

そもそも、周囲の常識に合わせるために無理して自身の感覚を殺し続けるということは、同時に個の内側から出でる自主性そのものを抹消しようとする行為でもある。それが行き過ぎれば、例えその場所の常識に自身を最適化することが出来たとしても、一度自らを規格化するために参照した環境を失ってしまったら、その時点でもうジ・エンドだ。自分殺しによる最適化なんてそう何度も出来るわけではないし、自らを否定し続けたそんな人間から生きる動機が湧き出てくるはずもないから。仮にその環境に上手くしがみつき続けることが出来たとしても、それはもはやただの奴隷でしかないだろう。

即ち、周りの言いなりになって世間一般の常識や道徳を(知識として教えるだけならともかく)感覚化して子供にホイホイ植えつけるということは、その者の自主性や生きる動機を抹殺し、世間に生贄として差し出す行為に他ならない。そしてその行為は恐らく、自身が常識的・道徳的に優れた者であることを世間に証明するために行われるのだろう。結局それは、親自体が既に世間の奴隷となっていたということでもある。だが、そうやって作られた家族は、ある種の奴隷栽培工場みたいなものだ。そしてその末路は悲惨なものだ。

 大学を卒業したら自活するように今から言い聞かせておく。カネを稼ぐのは厳しいことだと教えておけば、必要以上の依存心は抱かなくなる。

これにしても、どう考えても逆だろう。「カネを稼ぐのは厳しい」、そして自分にはその能力が無い、と思うからこそ、そのための動きを取ることが出来なくなるのであって。そもそも、自身の存在意義を一般常識や道徳に依存した形で獲得している人間、或いは他人の存在意義をそれによって判断している人間が、「依存心云々」と言ったところで何の説得力もない。自主性を重んじるなら、必要以上に一般常識や道徳に惑わされないよう、それらが余りに強く内面化されてしまうのを防ぐことをまず考えなければならない。

まあだから、どうせギャンブル的な賭けを行うなら、まず自らの存在価値を世間の目に依存した形で獲得することを止め、その子供を奴隷たらしめるカセにもなっている常識/道徳の起爆装置を外しに掛かることを目指した方がいいだろう。但し、失敗すれば自らも爆発に巻き込まれることになるが。

▼(7)「昔ながらの日本人」は時代に取り残される

就活で苦労している子供に、〈しばらくフリーターでもいいから、ゆっくりやればいい〉なんて言うのも大間違いだ。

うちもこういう考えだった。今の若い人は知らないかもしれないが、昔はフリーターが今のニートに近い扱いを受けていた。でまあ、ちょっと髪を染めた者でも「不良だ!」というような時代錯誤の価値観を受け継いでいたうちの家族は、自分も親も、フリーターなんて到底受け入れがたかった。だからその選択肢を初めから捨てて、正社員だけに狙いを定めていたわけだが、特別秀でた能力があるわけでもなく、ただでさえ自分を売り込むことがど下手な上に、さらに就職氷河期が重なったこともあって、自分には余りにもその壁は高すぎた。今考えてみれば、初めからそれを諦めてフリーターを目指していれば、もしかしたら何らかの職にはありつけていたかもしれない。まあ無理して何かを続けている以上、どの道最後は同じ結果に落ち着くことになるだろうが、もしかしたらそうでない道を見つけられていたかもしれない。つまり、時代はどんどん変化しているのに、こういう時代錯誤の道徳感や価値観を植えつけられ、いつまでもそれを捨てることが出来なかった昔ながらの古いタイプの日本人は、時代に取り残され、ニートやひきこもりにならざるを得ない(もしくは世間の奴隷として生きながらえるか)。ニートやひきこもりは、恰も最近出てきた新しいタイプの人間であるかのように言われることが多い。だが、実際のところはむしろその逆だろう。

そもそも、刻一刻と変化する社会環境に柔軟に適応しろ、という要求と、古い価値観を守れ、という要求を同時にすること自体に無理がある。というか、今の日本経済(企業)はフリーターのような低賃金・不安定雇用の上に成り立っているという事実を知らないのだろうか。ゲンダイネットを運営している会社、及びこの手のフリーター批判に同調する者が所属する会社だって、そういった存在に依存した形で成り立っているという面もあるはずなのだが。

▼(8)「問題」とは常に「つながり」そのもののことである

社会とのつながりを持たせることが重要です。

この者が言う「社会」とは一体何のことなんだろう。社会と「つながり」を絶つことができる場所なんて、一体この地球上のどこに存在するというのか。ニート、ひきこもりという概念が生まれるのも、誰かにその肩書きが付されるのも、その者が社会の渦中に身を置いて「つながって」いるが故のものだろう。本当に一人でいれば、その者は決してニート、ひきこもりにはなり得ないわけだから。つまり、この問題に限らずこの社会に存在するありとあらゆる問題は、元々社会との「つながり」の中で生み出されている。即ち、「問題」とは常に「つながり」そのもののことなのだ。

そしてこの問題は特に、一方では社会における一般常識や道徳を、自分殺しを行うほどまでに強く内面化してしまう、それほど深い社会との「つながり」を持ってしまったが故のものであると同時に、もう一方では、一度その経歴を持ってしまえばそこから脱出することは極めて困難になるという、「つながり」の在り方の硬直化によってその状態が固定化されてしまうというものだ。つまり、むしろこの問題は、その非常に深く硬い「つながり」の在り方を如何にして変えるか、ということこそが問われるべき性質のものなのだ。よって、つながりを持たせれば解決、というのは、その問題をその問題のまま温存させよ、と言っているのと同じことになる。

 ***

それにしても、ものを考えることを生業としている者達がこれなんだから、所詮労働の機能なんて建前であり、役割なんて嘘っぱちだということがよく分かる。実際は、機能や役割、そして(他人に押し付けるものではなく、自身のものとしての)道徳や常識なんてのはどうでもいいことで、本当に重要なのは処世なんでしょ、という。そういった情報を常識/道徳によって隠蔽しておきながら自己責任も何もあったもんじゃない。

運命があるか無いかが問題なのではない

問題は、例えどちらであろうとも、自意識は単独で「自分」という状況をコントロールすることが出来ないということだ。

「自意識(認識)=自分(状況)」ではない

はてなブックマーク - とあるアイドルの話。

Amerikan 「大変だ!ゾンビが襲ってきたぞ!」と言いながら、既にゾンビに噛まれていて感染していた人の図(ということでいいのか)

言い得て妙。

しかし、こういったことが起こってくるのは必然的なことと言えるだろう。というのも、起こっている状況に後から意味づけをして返すことこそが自意識の主な機能であり、それは“自分という状況”を思い通りにコントロールし、管理する力なんて端から持ち合わせていないだろうから。勿論、意識化によるフィードバック効果で“自分という状況”にある程度影響を及ぼすことは出来るだろう。しかしそれとて単独で“自分という状況”を大きく左右することが出来る程の力までは持っていないはずだ。「自分」は、個体と環境との関係性に規定され、その状況が成立しているわけだから。そもそも自意識は常に状況を受けて受身的に作り出されているものだから、意識化すらコントロール出来ているとは言えないかもしれない。むしろそれは、ただ環境の副次的産物として存在しているだけと言った方がいいようにも思う。自意識が「自分」を上手くコントロールすることが出来ていると感じるのは、“自分という状況”の在り様と自意識が認識する欲求のベクトルがたまたま似たような方向を向いているが故に起こる、単なる錯覚でしかないだろう。

例えばこの場合、「ゾンビ」に噛まれて既に自分も「ゾンビ」になっている、というのがこの人(自分)のおかれた状況なわけだが、自意識はまだ(この記事を書いた時点では)そのことに気づいていない(――もちろん、他人の内面を覗くことは出来ないので、あくまで記事の内容から判断すれば、の話だが)。「自意識(認識)=自分(状況)」ではないため、“自分という状況”と自意識の認識の間には自ずとズレが生じてくるわけだ。そしてもし、当該人物が自身のおかれた状態に気づいたり、それによって「ゾンビ」であることが解消されたとしても、それは他人(或いはそれらが発する情報)や時間経過などの環境との関わり合いの中でその状況が生み出されているだけであり、自意識は後からその結果を認識するだけに過ぎないだろう。所詮自意識が持っている力なんてのはその程度のものなわけですよ。

まあだから、自意識自体を的にして行われる自意識批判(それは裏を返せば、自分の自意識の方が優れている、という自意識の優劣競争でもあるだろう)は下らない、と思うのだが。何故なら、その批判が批判として成立するためには、自意識は“自分という状況”を上手くコントロールし、管理することが出来るだけの力を基本的に持っている、という前提条件が成立していなければならない。それはつまり、自意識が――例えば霊魂のように――個体や環境から完全に独立したものとして存在しているという条件と、尚且つそれが個体と環境との関係性に割って入り、その状況決定を大きく左右するだけの絶大な力を持っている、という二つ条件がその前提として必要になるということでもあるわけだが、そんな前提条件が実際に成立しているとは到底思えないので。

逆に言えば、霊魂が存在していて、それが誰かに憑依してその者を大きくコントロールすることが出来る、というようなことを主張する者がその流れで自意識批判をするのなら、それは一応理屈としては筋が通っているようにも思う。その考え方の上では、自意識(霊魂)が独立して“(個体としての)自分という状況”をコントロールすることが出来る、ということが前提になっているから。ただその場合、この世界ではどちらの魂が強いか、という魂力合戦みたいなものが常に起こっていて、肉体はそれらの代理戦争を行っているだけに過ぎない、ということになるが。「ソウルパワーたったの5か、ゴミめ!」「私のソウルパワーは53万です」みたいな。そういう意味では、『ドラゴンボール』の世界においてあの世が存在し、肉体を失っても強さがそのまま継承されるというあの設定は非常に理にかなっているわけだ。

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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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