ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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Sample Tank 2.5 XLの音色リスト

SampleTankを触ってみてまず思ったのは、音色選択画面が凄く小さくて見にくいということ。選択画面は、ウィンドウズ・エクスプローラーのようにフォルダを開いて音色を探していくシステムになっているのだが、画面が小さい上に、フリー版のREAPER上ではマウスホイールが効かない――スタンドアローン版では効くのだが――とうこともあって、フォルダを開いていくとどんどんカオス化していく。そこで、音色選択のための目安になるような音色一覧表みたいなものが何処かにないかと探してみたが、どうも見つからない(探し方が下手なだけかもしれないけど)。

で、このままだとどうも使いにくいので、ひたすら音色選択画面をコピペしていくという力業を用いて音色リストを作ってみた。

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ブログ管理画面で一部項目をクリックすることができない

ここ1、2週間ほど前から、何故かFC2ブログ管理画面の「ホーム」欄にある項目をクリックすることができなくなって困っていた。



しばらくは「Tab」で項目を選択するという苦肉の策を取りながら様子を見ていたが、どうも待っていても一向に直りそうにもない。仕方がないので調べてみたら、原因はAdblock Plusだった(IEだとこの症状は出ないので、Firefoxのアドオンが原因となっているであろうことは直ぐに予想がついた)。本来、「ホーム」欄の上には広告が表示されるようになっているのだが、これがAdblock Plusで封じられると、このような症状が出るようだ。

よって、管理画面に入った時だけ、設定で「Adblock Plusを有効にする」のチェックを外してやることで問題解決。

【追記2011/12/31】

記事の内容に問題があるので少し付け加えておきます。
この記事では「「Adblock Plusを有効にする」のチェックを外してやることで問題解決。」と書いていますが、正しくは下の画面のように、管理画面に入って「このページでのみ無効」にチェックを入れる、です。



因みに、確かこの記事を書いた頃はそうではなかったように思うのですが、今ではNoScriptを入れている場合は、幾つかのサイトに許可を出して広告を表示させないとブログの管理機能(ex.リアルタイム・プレヴューなど)をフルに使うことはできなくなりました。

IKのグループバイに参加した

迷ってたけど、結局参加してしまいました、コレに。通販でミロスラフ頼んだら、箱がベッコベコになった奴が来たよ。まあ所詮箱だから別にいいけど、何となく気ぃ悪い。
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参加数は1000人を突破したので、これで1個買ったら3つの音源がただで手に入ることになった。次の目標は1500人だけど、あと8日9日※1で1170なのでこれは届くか否か微妙なところ。もし届いたら、1個分の値段で5つの音源がセットになった「Total Workstation 2」が手に入るのと同じことになる(但しダウンロードで、ライブラリが落とせる期間は30日)。これだと、この後幾らこれ以上にふざけたセールがあっても、さほどガッカリすることもないだろう。とはいえ、お金に余裕のある人は最初から「Total Studio 2」の安売りを狙った方がいいけど。

<追記7/23※1>24時直前で9日だったので8日と書いたが、どうもこれは日本時間じゃなかったみたい。13時現在でまだ残り9日、尚且つ1217人まで伸びてるので、この勢いだと1500に届きそう。

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で、二日ほど掛けて今ようやくタンクとトロンを落とし終わったところ。次はソニック…だけどもう疲れた。というのも回線が結構重いので(しかも、室温が38度だったりするし)。分割ファイルが「19KB/sec」で「残り7時間」とか出てアホかと思った。どうも、ファイルや時間帯によってかなり速度に差が出るみたいなので、空いているファイルや時間帯を選んでコツコツ落としていく、というのがコツみたい。にしても時間がかかる。Macに乗り換えるつもりなんてないけど、一応Mac用のライブラリも落としておくことにしたので、倍の手間がかかる。しかもWinではdmgを解凍できないので、壊れていても分からないという。まあ恐らく自分は一生Macには縁がないだろうから、大した問題ではないかもしれないけど。

しかし、それにしてもかさばるなあ、これ。ライブラリだけ外付けに移した方がいいかなあ。とはいえ、まだライブラリをインストールしてないし、余っている外付けもないので、それで使えるかどうかも分からないけど。

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因みに、曲を作る予定はありません。というか、インストールする気にも余りならない。

万能感とは、状況と認識の因果の逆転現象のことを言う×万能感無しに努力神話は成立しない

▼(1)「生産者vs消費者」というよりも…

宮崎駿監督iPadについて「ぼくには、鉛筆と紙があればいい」と語る

あなたが手にしている、そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の感心も感動もありません。嫌悪感ならあります。その内に電車の中でその妙な手つきで自慰行為のようにさすっている人間が増えるんでしょうね。電車の中がマンガを読む人間だらけだった時も、ケイタイだかけになった時も、ウンザリして来ました。(中略)一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう。(中略)あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい。

生産に社会的価値が生まれるのは、それを消費する者がいるからだろう。逆に言えば、それを消費する者がいなければ、その生産は社会的価値を持ち得ない。よって消費を否定するなら、それは同時に生産の価値をも否定していることになる※1。もちろんそれが消費されずとも、その生産は個人的なものとしての価値を持ち得る。が、その時のその生産は――取り分け創作などは――周りから見れば正に自慰行為そのものだろう。彼の作品づくりとて、まずは純粋な自慰行為――もちろん、ここでのそれは自己満足のための行為を指す――からスタートしたものであるはずだ。そしてそれが消費されることによって初めて、その生産は単なる自慰行為という認識フレームから脱却することができている。

 ***


ここで重要なのは、自慰行為と生産は必ずしも排他的ではないということだ。自慰行為であると同時に、生産としての価値を持っている、という状況も当然あり得る。つまりこの対立は、生産者と消費者の対立というより、むしろ自慰行為で金儲けが出来る(している)人間とそうでない人間の対立と見た方が妥当なのではないか。

そしてそれ故にその対立の根は深い。何故なら、自慰行為で生計を立てられるような人間なんてほんの一掴みだし、金儲けとまでは行かなくとも、創作などの自慰行為を社会的価値を持った生産にまで引き上げることが出来るような人間もまた、やはり限られているからだ。もちろんそれで金儲けをしたり、それを社会的価値を持つ生産にまで引き上げるためには、それ相応の苦労が必要となるだろう。だが、多くの人間はそもそも、幾ら自慰行為と仕事とを一致させたくてもできなかった人間であり、幾らそれを価値ある生産へと昇華させようとしてもできなかった(できない)人間だ。そしてそうであるが故に、その満たされなさを個人的趣味としての自慰行為で補っている面がある(というか、全く自慰行為無しに生きていられる人間なんていったどれだけいるのだろう?「私はそうだ」と思う人がいても、大抵それは自身に対する自慰行為認定が甘いだけだろう)。

ところが、その満たされなさを補うためのものとしての自慰行為を、それを社会的に価値あるものにまで昇華できる能力を持った者が非難してしまうわけだ。要するに彼の主張は、自慰行為批判というよりも、むしろ自慰行為批判という体をなした自慰行為の特権化なのではないのかと。

 ▼(2)人生における因果の認識は常に状況の後に作られる


彼は全能感を、恰も生産とは間逆のベクトルに位置するものであるかのように捉え、それを否定的に見ているように思える。だが、だとしたらそれは大きな誤りだ。では、何故それが誤りであるのか。それを説明するためには、まず全能感/万能感※2とは何か、ということを明らかにする必要があるだろう。

<追記7/20※2>途中から「全能感」という表現が「万能感」という表現に置き換わっていたことに気づいた。自分はこの二つを基本的に同じものとして解釈しているのと、間を置いて続きを書いたこともあって、より馴染みのある表現に摩り替わってしまった模様。仮に専門的に見てこの二つに厳密な違いがあったとしても、どちらも「状況と認識の因果の逆転」という要素が鍵となることには違いないはずなので、表現が入れ替わっても趣旨自体は変らないということで、ご理解をお願いいたします。
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――その者が果たしてどのような人間となり、どのようなことをなし、どのようなことをなさないのか。それは、その個がどのような資質と環境をもって生まれてきて、どのような人物や環境と出会い、そしてどのような経験を積んでいくか、ということで決定されていく。ところが個人の意思は、その内のどれ一つとして選ぶことができない。

経験などは、一見自分の意思である程度選択することができる余地があるようにも思えるかもしれない。だが、一応セオリーみたいなものはあるにしても、其々の条件は皆違っていて平等ではないから、未来を知ることができない以上、経験の選択というのはただサイコロを振っているようなものでしかない。少なくとも、其々で条件が余りにも違いすぎる「人生」という項目においては、最善の選択なんてものは元々存在し得ない。それが最善のものであったのか、それとも最悪の選択であったのか、というような判断は、常に後になってから意味づけられるものであるからだ。

さらに言えば、意思による自由な選択といっても、その選択は、その個人が持つ条件と、その個人がどのような環境に置かれているかという、二つの条件によって常に限定されている。意思による選択は、常にこの二つの条件の奴隷であって、そこには無限の可能性などありはしない。そして、その者はどのような選択の可能性を抱えているか/いたか、ということは誰にも分からない。

これらの条件からどのようなことが言えるかといえば、それは自意識が自分という状況をコントロールしているとするには、余りにも無理があるということだ。選択はギャンブルに過ぎず、選択を制限する条件は運によって決定される。そしてどのような選択が実際に可能であって、可能でなかったのかということは、実のところ誰にも分からない。その選択がその者の後の状態にどのように関係し、影響をもたらすことになるのか、ということも。実際には、後になってからもその因果の詳細を知ることはできないだろう。人生という、余りにも広範で、其々によって余りに条件が違いすぎるその枠組みにおいては。

要するに、まず何らかの状況が先にあり、意味づけや認識は、常にその後追いとして生み出されている。「こう思うから/思ったから」ある状況が作り出されるのではなく、ある状況が作り出された後に、その状況の解釈として、「こう思うから/思ったから」が生み出されている。自意識は常に状況の後続者なのだ。

例えば、「私は生産をしたい/私は生産をしようとしている/私は生産をしている」という認識は、自意識によってそのように認識されるような状態が先に成立しているが故のものであって、そのように認識したからその状況が作り出されているわけではない。そして、それ自体は同じ経験であっても、その後に作り出された状況によって、「今から思えばアレもいい経験だった」となることもあれば、「アレが原因でこんな酷いことになった」ともなり得る。それが確定されるのは未来の話であって、現在ではない。つまり、その者が預言者でもない限り、自意識が状況をコントロールしているなどと言うことは到底できない。

だがそれでももし、個人の自意識の努力(選択)具合によって状況をコントロールし得るのだと看做すのならば、それは誰かがサイコロを振って良い目が出たら、そこから過去へ遡って、「あの時自分が良い目が出るように努力をしたから良い目が出たのだ」とか、「あの時の自分の心がけがなっていなかったから悪い目がでてしまった」というような考えを肯定しているのに等しい。

ところが、それでも世間一般では、まるで個人の意思が自己を好き勝手に動かしてきた結果として、其々が持つ現在の状況が作り出されているかのように言われる。その状況が生み出されることになったのは、その者が持つ自意識がそうなるように選択したからそうなったのだと言う。つまり、まず先に自意識の認識と働きかけがあって、その自意識の働きかけによって後の状況が形成されていくと看做すのが、最も一般的な見方となっている。そこでは状況と認識の逆転現象が起こっているのだが、この逆転現象こそが万能感の正体と言えるだろう。

そして状況と認識の優位が逆転するということは、自意識は物事の因果をも見通すことができる、ということにもつながっていく。――例えば、「お前はもっと良い選択ができたはずだし、もっと努力できたはずだ。そしてそうしていればそんな状況に陥ることはなかったのだ」などと言う者がいるとしよう。しかしそれが真であるためには、その者の自意識がその対象が持つ選択の可能性と、それによって見出された其々の選択が今の状況にどのように関係しているか、いないかという因果を見通す力を持っていなければならない。つまりこの主張は、(その者自身はそのことを意識していないだろうが)己の自意識が、本来知ることなどできないはずの因果の詳細を見抜くことができている、という前提をもってなされている。そのような前提を持ちうるのも、この万能感の下支えがあってこそのものだろう。

 ▼(3)万能感が無ければ努力神話は成立しないし、生産もまた難しくなる


で、再び話を戻すと、――この万能感というのは、別に特殊なものでもなんでもない。多くの者は、元々この万能感を持っている。もしそれを失ってしまえば、己の存在意義の根拠を自己のコントロール機能に依拠している多くの自意識は、アイデンティティが崩壊し、やがて自己と共に自壊へと向かうことになるだろう。つまり、万能感を持っているということは非常に一般的であり、むしろそれを持っていない者の方が稀であり、尚且つ、それを失ってしまうことは、その者にとって余り良い状態とは言えないことの方が多い。そして何よりも、この万能感は努力神話の根源だ。この自意識万能論説が否定された時、努力神話は完全に瓦解する。何故ならそれが否定された時、「努力しようとする意志」は、実はある状態が作り出された後に、その状態を受けてそのように認識しているだけの単なる受身的感触であって、意志は努力という状態を生み出している功労者ではない、ということになるからだ。

よって、とりわけ努力神話を信じている者は、その根本をなしている自意識万能論説、つまり、自意識の万能感を否定することなどできないはずなのだ。だが、宮崎氏はどうみても努力神話の信仰者であろう。従って、むしろ彼は、本来なら万能感を擁護しなければならない立場のはずなのだ。

 ***

そして万能感が努力神話と切っても切り離せない関係にあるのと同じように、それは生産とも高い親和性を持っている。というのも、――場合によっては社会的価値を持つ生産を特に意識することもなくなんとなくしていた、なんとなくできていた、という状況もあるだろうが――それがなされる場合の多くにおいて、その者が持つ自意識は、基本的に己の意識の力が目の前の状況をコントロールし、意図するように作り変えることができるという錯覚を抱いていることが殆どであるだろうから。逆に、その者が持つ自意識が、ある事柄をなすことに対して「できるわけがない」と認識していた場合、その者によって価値ある生産がなされることになる可能性は極めて低くなるだろう。つまり、その者がそのような錯覚――つまり万能感――を抱くことができるような状態になければ、それだけ生産行為は難しくなる。よって、万能感は生産と逆ベクトルにあるどころか、むしろ――例外はあるにせよ、多く場合において――その前提として必要とされるものなのだ。

だから全能感を否定しながら生産を奨励するというのは、一般的傾向から見てかなり無理がある。もちろん、努力神話を否定した上でそれをも否定し、それよりも生産のための環境を整える方が重要だ言うのなら、それは分かるのだが。どちらにせよ、遊び(自己満足)と生産が相反するようなものである、というような見方には、やはり納得できない。
<追記7/20> ↑自己満足(意義の感触)は、モチベーションの元にもなっている。蓄積されたものも含めて、それが完全に失われると廃人にならざるを得ない。



※1 おそらく彼の中では、生産を「消費者たり得ない純粋(神聖)な子供」への奉仕活動とすることで、その矛盾を解消しているのだと思うが。

廃棄ヒキへの道×マルウェアとしての道徳

<人生トリビア>

・「自分は嫌われている」と思い続けると…死に一歩近づく。

・「相手の立場に立ってものを考える」と…もう一歩死に近づく。

・「他人に迷惑をを掛けまい」とする人間は…基本的に死ぬ。
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一つ前の記事では、「「自分は嫌われている」という前提で行動すると嫌われない」という考え方について書いたが、あの考え方に引っかかったのは、あれがポジティブ思考批判という体をなしていながら実はそれ自体がポジティブ思考そのものであった、ということがポジティブ・アレルギーの自分にとっては見逃せなかったということもあるが、それよりも、そもそも本当に「自分は嫌われている」と思って人生を送って来た人間からは、まずこういう主張は出てこないはずだろう、という大きな違和感を感じたのが最大の理由。

というのも、実際にそれを実践してきた人間の多くは、それが孤立と不幸を生むということを身にしみてよく知っているはずだから。自分がこういう状況に陥り、そこから抜け出せないでいるのも、「自分は嫌われている」という感覚を払拭できなかったことが大きく関わっているように思うし。だからそういう人間の一人としては、「自分は嫌われている」と思うこと――実際には、そのように思わざるを得ない状況の成立と言った方が適切だが――の推奨に対して拒否反応を覚えざるを得なかったということがある。

 ▼(1)廃棄ヒキへの道

では、何故「自分は嫌われている」と思い続けると廃棄ヒキになるのか、その道筋を書いてみると…

自分は嫌われている≪開始≫

他人に関わると迷惑になる

とはいえ、他人と関わって自分を売り込まないと
社会的ポジションを獲得できず死んでしまう

死ぬのはいやだなあ

売り込み(就職)活動、人脈作りしなきゃ

でも自分みたいな欠陥商品が
社会という市場で上手く流通できるはずもないしなあ…
実際、今までことあるごとに「お前(゚⊿゚)イラネ」
と言われ続けてきたわけだし

でもやっぱり死ぬのはいやだなあ

下らない商品やサービスを強引に売りつけ、
一財を築くようなカリスマ営業マンにならなくては

しかし、相手の立場に立ってものごとを考えると、
自分が価値を感じることができないものを
他人に上手く売りつけることなんてできない

幾らそれをしようと努力してみても
後ろめたさで挙動不審になったり、
慣れない生兵法(コミュニケーション技能、儀礼的振る舞い)で
大怪我をして、やはり価値は暴落する一方

かといって生兵法で身を包まずに関わりに行くと、
文化/様式的・感覚的差異という大きな溝に阻まれ、
端から門前払いされる

もはや打つ手無し

もう廃棄ヒキでいいや。
というか、死にたくはないけど、かといって
よく考えてみたら生きたいという動機自体無かったわ。
そう思えるような――そのための糧となるような――
人生経験なんて何一つしてないし。

基本的に死を待つしかなくなる≪終了≫


「自分は嫌われている」と思わなければ上手く行くわけでもなんでもないが、「自分は嫌われている」と強く認識せざるを得ないような状況が続くと、上記のようなチャートに迷い込み、そこから脱出できなくなってしまう危険性がある。

まだ「自分は嫌われている」と思っているだけなら、そこから分岐して抜け出せる可能性もある。が、その者に「他人に迷惑を掛けてはいけない」「相手の立場に立って物事を考えなければならない」という道徳規範が強く埋め込まれていればいるほど、その可能性は低減する。それでもこのチャートを何度も行ったり来たりしているうちに、何らかのキッカケでいつかそこから抜け出せるかもしれない。そういう余地もまだ残されている。しかしながら、生きたいと強く思えるような、或いは、自分は(そこから抜け出すことが出来るほど)有能であると思えるような経験を積んでいないと、やはりその可能性もそれだけ低下する。動機(モチベーション)というのは永久機関でもなんでもないから、肥やしとなるものがなければ、それだけチャートを行ったり来たりするエネルギーも早く尽きてしまうわけだ。そしてそのための肥やしとなる経験は、運でしか獲得できない(最善の経験を積もうとしたつもりが最悪の経験につながるのが現実。預言者はいない。故に、自意識と結果に関する因果関係の認識は、常に後から形成される)。

というか、「自分は嫌われている」という前提を持った上で「相手の立場に立って」自分自身を評価すれば、自分自身に価値が無いということになるから、結果として自己否定せざるを得ないだろう。そして自己否定とは、自身から沸き起こるあらゆる動機を抹殺することでもあるから、そういう人間がやがて生きること自体の意義(動機)を失ってしまうのは、必然的な流れと言える。(かといって、じゃあ「自分は嫌われている」と思わなければ良い、とはならない。それは自意識原因論説であり自己責任につながる。問題は、自分の感覚を自分の自意識によって自由にコントロールすることはできないというところにあるのだから。――例えば、自分の意志で自分の趣味趣向や思想、感覚、体質や記憶を改変し、別人格になることができる人間などいないだろう)

 ▼(2)マルウェアとしての道徳~ボット化する個人

しかしそうして考えてみると、道徳というのはマルウェアみたいなもんだとつくづく思う。

人間もまた他の生物と同じように、生存競争を行っていることには変らない。そこでは生存のための協力関係が築かれることもあるが、それと同時に、生死を賭けた迷惑の掛け合い合戦もまた常に行われている。幾らそれが社会システムによって婉曲化され、その事実が意識の外に追いやられようと、その事実自体が消滅することはない。

そのような状況にいながらにして本気で他人への迷惑を停止しようとするなら、結局行き詰って身動きが取れなくなり、死ぬしかなくなるだろう。つまり、本当は「他人に迷惑を掛けてはいけない」などという道徳を植え付け、それによって他人の動きを制御しようとすることこそが最大の迷惑行為なわけだ。この場合の道徳は、それを植えつけられた者を縛りつけ、内部から直接破壊行為を行っていることになる。まるで悪質なマルウェアのように。

そもそも、生活環境を整備するための競争がゼロサム化、トーナメント化しているような環境を持つ社会――日本もまたそうだろう――では、必然的に他人は生存を脅かす敵としての性質を帯びざるを得ない。しかし多くの一般道徳は、他人からもたらされ、他人へともたらすものだ。つまり、何らかの道徳が植えつけられるということは、その道徳規範が持つ特性を通して、“敵としての性質を持つ他人”から内部に直接大きな影響を及ぼされるということに他ならない。よって、「他人に迷惑を掛けてはいけない」「相手の立場に立って物事を考えなければならない」というような内容を持つマルウェアに感染し、それによって深い階層まで侵食されてしまった者は、生存競争において非常に不利な条件を背負わされていることになる。そしてそのような道徳回路を埋め込まれ、それに対抗する免疫機能を持たない者は、“敵としての性質を持つ他人”の仕掛けたマルウェアによってボット化せざるを得ない。

かくしてボット化した其々の個人は、己の内側に植えつけられたマルウェアによる制御を受けながら、自身もまたマルウェア(道徳)を複製して周囲にばら撒き始める。もちろん、どのような内容のマルウェアがばら撒かれるかということは、その者が接してきた文化によって異なる。ここ日本では、自意識万能論説(精神論や自己責任の基盤となる考え方)や社会的役割説(人間は社会の役に立つために生まれてきていて、社会の役に立つことによって初めて存在価値が認められる、という考え)的な内容を持ったマルウェアが最も流行しているから、そういった内容を持つマルウェアがばら撒かれ、またそういうものと遭遇する可能性が一番高いだろう。そしてそれによってボット化した個人はまた、そのマルウェアを複製して周囲にばら撒いていく。それでもって、たまにその規範から自由でいるように見える人間を見つけると、マルウェアの指示に従ってその対象を攻撃し始める。

そうやって多くの者がボット化し、お互いがお互いを攻撃し合い、マルウェアをばら撒き合っている。そしてそれによって他人を律し、縛り付けることで治安を守り、限られた枠組み――自分は消費財になるのか、廃棄物になるのか。それともそれらを管理する機能を持つ商品になるのか――の奪い合いを少しでも有利にできるようにと、マルウェアの植え付け競争を行っている。つまり、マルウェアによる足の引っ張り合い自体が生存競争のための重要な鍵として組み込まれている。それがこの現代日本社会なんだと思う。一度ボット化したら、自分でマルウェアの呪縛を解くことは難しいから、それならもう後は相手側を自分以上にもっと強く縛りつけるしかない、ということもあって。

これだけ物が溢れかえっている社会であるにもかかわらず、有利なポジションを獲得できなかった人間の多くが、ポジションを確保した者から力業によって奪うでもなく、非合法生存活動によって新たなポジションを作るでもなく、復讐するでもなく、ただただ勝手に大人しく生存という枠組みから降りて行ってくれるのは、そういうマルウェアのばら撒き合戦が一つの理由になっているように思う。そんな中で唯一、道徳に対する免疫を持った者だけが、その泥仕合から抜け出すことができる、と。まあ、ボット化してないからといって世渡りが上手くできるとは限らないが。

 ***

で、自分はどうかというと、もうBIOSレベルで道徳にやられているから手遅れ。もう一つ別の言い方をすれば、自分はハリガネムシ(道徳)に動機を食い尽くされてスカスカになったカマキリみたいなもの。だが水場には行かない。水場に行く気力や、水場に辿り着くことが出来るという自信すらも奴らに食い尽くされてしまったので。ボット化した者の中には、自らをぶち壊して内側をこじ開けることでそのハリガネムシを取り去り、その呪縛から解き放たれる益荒男(ますらお)もいるが、自分にはその勇気も動機も残っていない。仕方がないので、ここでハリガネムシと一緒に死を待っているという、そんなエブリデイ。

――とはいえそれは、あくまでこの「自分という状況」に対する認識であって、自分自身の意志による選択の結果としてのものではないが。それを意志の選択の結果とするためには、己の自意識が自分自身と自分の周囲の状況をコントロールすることが出来るほどの絶大な影響力を持っているという前提条件が必要となる。が、自分はそのような万能感/全能感を獲得し、それを維持し続けることが出来るような経験を積み重ねてくることが出来なかったので、そんな自意識の奇跡なんて到底信じることはできない。

というか、万能感/全能感はこの社会において、まるでそれが精神的な悪性腫瘍でもあるかのように扱われるのが常だが、「自意識を成熟化することで状況を打開しろ(できるはずだ)」という自意識万能論説を唱える人間が、そのような常識でもって他人の万能感/全能感を批判するって本当に無茶苦茶だよなあ。一体どっちなんだよ、という。まあ、万能感/全能感の意味を考えず、単にその単語が持つイメージの悪さだけを利用した結果としてのものなんだろうけど、一体いつになったらそのボケの垂れ流しに歯止めが掛けられることになるのだろうか。

同じ原理を用いた逆の主張(批判)は、ある意味賛同でもある

「自分は嫌われている」という前提で行動すると嫌われない

これ、ポジティブ思考批判という体をなしているものの、実際にはこの考え方自体がとてつもないポジティブ思考だよなあ。「自分は嫌われている」という考えで行動するするだけで嫌われない(つまり世渡りが上手くできる)なんて。

この考えが(処世術として)正しいものであるためには、自身の「他人から好かれている/嫌われている」という感覚を己の意志によって自由にコントロールできるという前提と、そのコントロールによって自身の周辺の状況もまたコントロールできるという前提が成立していなければならない。つまりそこには、自分の自意識は周囲の状況を制御することができる、というポジティブな希望がある。

しかしこの説が正しいとすると、世渡りに失敗する(他人に嫌われる)のは、その者が「自分は好かれている」という前提で行動しているから、ということになる。つまり、社会で上手くやっていけないことの原因が自意識に求められることになる。となればそれはまたぞろ、世渡り上手な人間に「お前が社会で成功できないのは、強すぎる自己愛が、未熟な自意識が云々…」という類の下劣な内面批判という武器を与えることになり、ただでさえ世渡りが下手で窮地に陥っている者は、それによってさらに苦しめられることになるだろう。
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 ▼原理的賛同としての批判

ポジティブ思考は、結果として他人にネガティブな部分を押し付けることによって成り立っている面がある。だから、他人のそれを鬱陶しく思う人間から、その思想に対してこういうカウンターが出てくるのは当然と言えば当然だろう。しかし、批判対象となる主張が供え持つ論理をそのまま利用して逆ベクトルに打ち返すという批判は、その批判対象が生み出す問題の根本的な解決にはつながらない。何故なら、それはただ単にそのベクトル(ポジティブに考えろ/ネガティブに考えろ)がどちらを向いているかという違いだけで、その根っこにある原理的な部分――この場合におけるそれは、自意識原因論説――では双方の主張は一致しているからだ。つまり、その批判は批判であると同時に原理的賛同でもある。よって、その批判が成功しようがしまいが、批判対象となる思想・文化によって生み出される根本的な問題は、そのまま温存されることになる。

例えばこの場合は、物事が「上手くいく/いかない」のは基本的に自意識の「手柄/問題」ということになる。そしてそうであるが故に、本来環境的下支えとして求められる文化的・システム的最低ラインは、どんどん後退していくことになる。何故なら、この考え方によると、個人の意志がその状況をコントロールし、選んでいるわけだから、その状況に問題があるなら、其々の個々人が再び自意識を改変し、その状況を変更することによって問題に対処すればいいだけ、ということになるからだ。つまり自己責任。だから結局この考えは、窮地に陥っているような「弱い人間は好きで弱くなったんだから、もっと強く踏みつけてやればいいのよ(by金美齢)」というような主張へとつながっていかざるを得ないだろう。

「批判をするな」「無駄だから止めろ」というイカサマ論法

どんな場所でも議論が巻き起こると必ず「批判をするな(批判は良くない)」と言って相手を批判し、一方の側の発言を妨げようとする人間が出てくるのは一体なんなんだろう。しかも、こういう余りにも明らかなイカサマ論法が、ツッコミらしいツッコミが入ることもなく、何となくその場の雰囲気を支配してしまったりすることも少なくないという、この残念具合。

そもそも、例えどんな人間であっても批判をする権利が認められている、というが民主主義の大前提だろう。もちろん、果たしてそれが本当に批判として成立しているか、ということは問われることになるが。そういう面から見ても、“「批判をするな」という批判”は単に一方的に――自らでさえ踏みつけにしている――その規範に従うよう要求しているだけであって、批判にすらなっておらず、二重に誤っている。
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相手の主張を遮るために用いられる似たような論法としては、他にも「無駄だ(その意見が力を持つことはない)から(批判を)止めろ」というものがある。だが、誰もが完全に納得するような状態なんてものは存在し得ず――独裁によって表面上それが作り出されることはあるが――、例えどのような状況が成立していようとも、常にそれに対して不平不満を述べる人間が出てくるというのが人間社会の大前提だろう。よって、本当にその考えが正しいと思っているのなら、自らが「無駄だから止めろ」と言うのを止めればいいだけの話だ。

つまり、これもまたただのイカサマ論法でしかない。いや、もちろん局所的にはその発言が社会的抑圧として機能することで、その小集団内で誰も表立って不平不満を言わなくなるような状況が作り出されることはある。だからそれは完全には無駄な行為であるとは言い切れない。が、その時のそれは、主張というよりもむしろ内容的には単なる脅しであり、ただの一方的要求になっているので、やはりそのような論法もまた、議論や対話の上で有効な意見として認められるべきではないだろう。大体、それが無駄になるという、恰も未来のことを知っているかのような前提で物事を言うこと自体、おかしな話だ。

 ▼人間は「無駄でないから」何かをするのではない

無駄云々についてもう少し言うなら、人々が怒ったり笑ったり悲しんだりするのは、別にそれによって何らかの目的が達成されるからではないだろう。だからといってそれが無駄であるとは言えまい。それは批判にしても同じことのはずだ。何らかの動機に突き動かされて批判をしているということは、その時点でもう既にその行為は無駄とは言い切れないわけだ。

そもそも人間は、予め何らかの達成すべき目的を持って生まれてくるわけではない(多くの宗教ではそういう説を採るが)。それでも人間は存在し、何かを行う。つまり、そこに意味や目的がある――無駄ではない――から人間は存在しているのではなく、人間が存在しているからこそ、何かが行われるからこそ、そこに意味や目的が生まれてくる。

これがもし、何かしらの目的を達成する可能性を持たないものは無駄であり、それはなされるべきでないとするならば、初めから存在に先立って何らかの目的を持っているわけではない人間自体が無駄であり、存在すべきでないものとなる。当然、人間の存在が前提となる、「無駄か否かの判断」自体も無駄ということになる。「無駄だからすべきでない」説は、人間の存在自体を、そしてありとあらゆる行為そのものを否定するものでもあるわけだ。

――まあそういう自分は、自分の存在も人間の存在も無駄だと思っているけど。でもそれはあくまで自分からしてであって、他人もそうだとは限らない。「無駄だからすべきでない」説の一番奇妙なところは、初めから人生の目的も意味も世界観も一致していないであろう他人にとっての必要・不必要を、勝手に自分の感覚で決めているところだ。あんたの感覚は「人間の総意」か何かなのか?と。

古代の逆襲?

精神論で大火傷。いや、比喩じゃなくて。

社員のやる気高めようと「火渡り」、足やけどして終わる

イタリアの大手不動産会社が、社員の士気を向上させる目的のイベントで、熱した石炭の上を裸足で歩く「火渡り」を行ったところ、9人がやけどを負い、病院で手当てを受ける結末となった。

 企業向けの自己啓発指導を12年間やっているというアレッサンドロ・ディプリアモ氏は、ロイターの取材に「火渡りは恐怖を克服して新たな目標を求め、限界というものはたいてい自分自身が作っていると理解するのに役立つ」と説明。

これって傷害罪とかにはならないのだろうか?この怪我によるコストは一体誰がどのように負担するんだろう。なんにせよ、企業からすれば大損であることには間違いないはずだが。
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恐怖を克服させることが目的なら、実際の業務を通して社員に自信を持たせるような経験をさせればいいだけのことだろう。この事件では、くしくも「限界というものはたいてい自分自身が作っている」という認識が誤りであるということが証明されてしまったわけだが、ディプリアモ氏はこれからもその誤りを正さずに、こういった主張や活動を続けるつもりなのだろうか。――できればこういう人達は、他人を啓発するよりも自己を教育し直すことにこそ力を注いで欲しいものだが。こういうものを採用する経営者も含めて。

 ***


しかし、この手の儀式は全く百害あって一利無しだと思うのだが、それがどれほど明らかであっても、やはり「無限の可能性を秘めた精神力の奇跡を引き出す儀式」みたいなものに頼ろうとする人間が現れてくるのが現実。しかもそれを信じている者は、一人で勝手に奇跡を起こしていればいいものを、他人にまでその奇跡を起こすよう要求してくるから全く困ったものだ。その上、その儀式の後に誰かが何らかの良い結果を出せば、それはその儀式のお陰ということになる一方、奇跡が起こらなければ、その者の精神が未熟だから奇跡が起こらない、というように結論付けられるので、いつまで経っても間違いは是正されない。

まあそれが是正されないのは、そういうものを信じる人間がそれを他人に強要できる立場に居座り続けるから、ということもあるが。というのも、何らかの分野で成功した者は、大抵自らの自意識の在り様とその成功(結果)を因果で結びつけて現実を理解しようとする。そして、こういった儀式による選別と、それに基づく承認もあいまって、次から次へとそういう成功者が再生産され、人の上に立っていく。その時、その者を取り囲む者達は、立場上、誰もそれを是正できない。

しかし、「労働」とか「教育」という肩書きが付くと、本来ならば問題視されるはずの行為が途端に免罪され易くなるというのは、どうも世界的にある傾向みたいだな。――いや、もしかしたらこれは、自意識は己の自意識を自由改変する力と、その改変によって周囲の状況をコントロールすることができる絶大な力を秘めているという、自意識原因(万能)論説が世界的に流行しているが故のものなのかもしれないが。だとすれば、ある意味日本は先進諸国の中でも最先端を走っている、ということになるのではないか。最先端といっても、その内容は「古代の逆襲」みたいなものだけど。

ロバート・ジョン・ゴッドフリー、ダイエットに挑戦する

いつの間にかYouTubeに、ロバート・ジョン・ゴッドフリーのチャンネルが出来てる。

Robert Slimming Day 90
エニドの壮大な音楽のクライマックスをきっかけに体重を量ってて笑った。なんかダイエットをしていたらしい。
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プログレの中でも、とりわけシンセ・オーケストレーションにこだわった作風がウリで、そのせいで――レイザーラモンRG風※1に言うと、「クラシック・コンプレックスとか言われて叩かれ勝ち♪」なロバート・ジョン・ゴッドフリー率いるThe Enid(MySpace)。

でも、当人がどのような思いでそれを作ったにせよ、出てきたものが魅力的ならそれでいいじゃないか、と自分は思うのだが。こういうものは結構そこらじゅうに転がっていそうでありながら、実際には余りないタイプのもののように思うし、マーラーっぽいとかよく言われるけど、じゃあエニド・ファンがマーラーをエニドの代用として聴いている、聴けるかと言えばそれはかなり疑問だし。マーラーにはギターもドラムもシンセの柔和さも無いしね。というか、内面批判は基本的に下らない。

エニドを聴いていると、シンセ・オーケストラというのは必ずしも本物のオーケストラの代用であるとは限らないのだな、と改めて思う。多分、エニドの曲のオーケストラパートを全て生楽器に置き換えても、決してプラスになるとは限らないだろうから。それに、エレキギターと生オーケストラは相性が悪いので、ライブのことを考えるとその組み合わせは余り好ましくないということもある。

The Enid Live at Hammersmith Odeon 1979 - Judgement - HD


この映像は、もう直ぐ日本でも発売されるという「Live at Hammersmith Odeon 1979」から。同時期に「Journey's End」と題された新作もリリースされるらしい。しかし、一昔前ならエニドのCDなんかプログレ専門店くらいでしか手に入らなかったのだが、何年か前に紙ジャケで再発されて以降はより簡単にそれを手に入れることが出来るようになったようで、これは良いことだ。エニドに限らず、いわゆるプログレのB級名盤も殆ど一通り全て再発されたようだし。出来れば、まだ金があった時に再発して欲しかったものだが。しかし今度は、CDという媒体自体が死にかかってるという問題が…。

英国シンフォニック・ロックのエニド、代表作2タイトルがリマスター復刻


そういえば、CDではずっと再録版のものしか出ていなかった1stと2ndのオリジナル・ヴァージョン・リマスターなんてものが出ていたらしい。とくに2ndはオリジナル・ヴァージョンの方が再録版よりもずっと出来が良いというもっぱらの噂で、これを待っていたという人も多いだろう。実際のところ、そんなにまで出来が違うものなのかどうかは分からないけど。

 ***

因みに、自分は名作と言われる1stや2ndよりもこの「White goddess」を聴くことの方が多い。

ホワイト・ゴッデスホワイト・ゴッデス
(2006/12/20)
エニド

商品詳細を見る

このアルバムは余りシリアスになり過ぎることもなく、いかにも大作という曲も無く、サウンドも比較的洗練されていて安心感があると共に、終始どこか柔らかく優しげで抱擁感がある雰囲気で統一されていて、何度聴いても余り聴き疲れしないのがよい。

あと、このアルバムには二曲のシークレット・トラックが収録されているんだけど、その内の一曲はエッジの効いたギターが印象的なヴォーカル・ナンバーで、「これ、フラワー・キングスの曲ですよ」と言われれば信じてしまいそうな、そんな感じの曲調でちょっとびっくり。エニドはこういう曲もやるのか、と。



※1 レイザーラモンRG (rgizubuchi) on Twitter
この人、こういうことに関してめちゃくちゃ詳しいな。しかもカバーしてる範囲が結構広い。でも、余りテレビとかでは使えそうにない、一部の人間にしかウケなさそうなネタばかり連発しているのがいかにも彼らしい。

「国家/社会/世間」という概念は、それ単独では正しさの根拠になり得ない

自国のチームがW杯に出場したよ。

◆<ケース1>チームが惨敗した場合

asahi.com(朝日新聞社):W杯惨敗フランス、政治問題に発展

サッカーのW杯南アフリカ大会で内紛の末に惨敗したフランス代表が24日、帰国した。排外的な与党議員有志らが、移民社会出身の選手らの再教育を求める趣旨の要望書を政府あてに提出。大のサッカーファンというサルコジ大統領はといえば怒り心頭の様子で、自ら代表の再生に乗り出した。(中略) 右派与党の民衆運動連合(UMP)の有志議員13人は23日、「もうたくさんだ」と題する要望書を政府に提出。国歌斉唱や祖国への忠誠など代表選手の義務を定めた憲章をつくり、選手全員に守らせるよう求めた。リベラシオン紙によると、UMP議員の中には、アネルカ選手ら移民社会出身者を「社会のクズ」とさげすむ人もいたという。


◆<ケース2>チームが善戦した場合

【W杯】TV観戦の橋下知事「意気揚々と国歌…教育現場はズレてる」(産経ニュース)

 サッカーのワールドカップ(W杯)をテレビ観戦していたという大阪府の橋下徹知事は30日、「惜しかった。PK戦は酷ですね。日本代表はあそこまでよくがんばった。国民は大いに盛り上がって感謝している」と話した。

 そのうえで「会場では国旗が掲げられ、国民は意気揚々と国歌を歌っていた。うちでも子供たちに歌わせた。教育現場と国民の感覚はずれている。国旗、国歌は日本の象徴であり、しっかりと教えるべきだ」と述べた。

この手の人らは何かあるたび、それにかこつけてこういうこと言い出すからなあ。物事が上手くいかなければ、それはその者達の国歌斉唱/祖国への忠誠心の度合いが足りなかった結果であり、よって人々にそれを義務づけなければならないと言い出し、逆に物事が上手くいったらいったで、それは国歌斉唱/祖国への忠誠心のお陰であり、だからもっとそれを推し進めるためにやはりそれを義務化しなければならないと言い出す。結局どっちに転がっても自分の都合の良いように持っていけるという無敵論法。こういった手法は、「社会のクズ」のように、「国」の部分を「社会」に入れ替えて用いられることも多いが、むしろこういう無敵論法にこそ「もうたくさんだ」が突きつけられるべきなんじゃないのか。

というか、国歌を一生懸命歌った/歌わなかったことと結果の良し悪しを結びつけるなんてのは、完全にオカルトでしかないだろう。それに、国歌斉唱や祖国への忠誠心を示すためのより強固なシステムが確立されている国の代表としては北朝鮮が挙げられるが、あそこはそんなに良い国だろうか。国の代表、象徴を称える、国民の鬼気迫る笑顔はそんなに素晴らしいものに見えるだろうか。

別にこれに限ったことではないが、どんなことであれ、その当人が無理矢理それをやらされていると感じていれば、その者が持っている本来の力を上手く発揮できるはずもない。当人が望んでそれをやっているからこそ、その者が持つ本来の力が引き出される可能性が生まれ、その者がその物事に関わることの価値もまた生まれてくるわけであって。それを脅しによって無理矢理自分の思い通りに動くよう仕向け、それによって相手が実際に嫌々自分の思い通りに動いてくれたところで、そんな恐怖に裏づけされた自作自演に一体何の価値があるのだろう。そんなやり方では、表向きは方針通りに動いているようであっても、人々の内心では不平不満の大合唱が巻き起こっているであろうことを想像するのに難しくないし、そういう集団のまとまりは、何かちょっとしたきっかけで脆く崩れ去りかねないだろう。まあそういうことを思い浮かべる想像力が無い、もしくはそれを何とも思わないからこそ、こういう形での要求を平気で他人に突きつけることができるのかもしれないが。
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 ▼「×国を愛せ→○俺を愛せ」「×社会に従え→○俺に従え」

これは「国家」だけでなく、「社会」でも「世間」でも同じことだが、それらは確かに組織/群れとしての実体はあるものの、かといって実際に実体を持った主体としてそれらが存在しているわけでもなんでもない。何故なら、それらはあくまで概念上の存在だからだ。

そうである以上、国家像や社会像、世間像もまた人の数だけ存在する。それが何か統一的な内容を持った一つの主体として統合され、実体化するなんてことは在り得ない。そして其々の持つそれらは、それがどのような形であるべきか、ということで常に競合し合っている。つまり、この世界は個々人の持つセカイ観がぶつかり合うことによって成り立っている。だから絶対的な真理としての「国家」や「社会」は存在しないし、その概念はそれ単独では何らかの正しさの根拠にはなり得ない。このことは、「どのような国家や社会が正しいのか」ということは設問になり得ても、「(特定のそれではなく、概念としての)国家や社会は正しいか」ということは設問として成立しない、ということを考えてみればよく分かるだろう。

ところがこの手の人達は、その概念そのものを自身の正しさの根拠とし、他人に何かを要求する。それが何を意味するかと言えば、本来ならば数多存在し、競合し合っているそれらの中でも、とりわけ自身の抱く国家像や社会像――個人的なセカイ観――を恰もその場所における唯一無二としてのそれ、つまりその概念における真理としてのそれであるかのように特権化しているということだ。そうであるが故に、自らが「国家」や「社会」、「世間」の代弁者であるとして、他人に何かを要求できる。或いは、自らの抱くセカイ観に照らし合わせて芳しくない状況が作り出されていることを見て、“「国家」や「社会」が、「世間」が軽んじられている”と言って憤ることになる。

だが実際には、そこで言うところの「国家」や「社会」、「世間」とは、しょせん自分自身の持つセカイ観のことであり、個人的感覚のことでしかない。そこで軽んじられているのはあくまで「俺の国家観」であり「俺の社会観」でしかない。そしてむしろその“軽んじ”は、――その者達が実際にそれを「国家」や「社会」と呼ぶかどうかはともかく――基本的に其々が持つそれらの概念(「国家/社会」)を重んじたが故に起こる、セカイ観同士の衝突としての結果なわけだ。

つまり、「国を愛し、忠誠を誓え」と言って他人に何かを要求するということは、結局「俺(のセカイ観・感覚)を愛し、俺への忠誠を誓え」と言っているに等しく、「社会に従え」と言って他人に何らかの態度を取ることを要求することは、自分自身の個人的感覚以外に何の根拠も示すことなく、ただ単に「俺に従え」と言って他人に迫っているだけでしかない。そこでは、「どのような国家や社会が正しいのか」という問いを通り越し、いきなり「(概念としての)国家や社会は正しい」という意味不明な結論が導き出され、それを理由として要求が行われている。

 ▼ジャンルとしての≪セカイ系≫は、現実社会におけるセカイ系願望によって否定される

数多ある内の一つでしかない個人的なセカイ観を真理に置き換え、その真理を根拠として他人に何かを要求する――そういう意味では、こういった態度はセカイ系願望の表れとして見ることも出来るだろう。

しかしそうしてみると、どうもバランスが悪い。というのも、現実社会においては、個人的な「国家/社会/世間像(セカイ観)」を真理化し、それを根拠として他人に何かを要求するという手法――セカイ系的前提を必要とするそれ――が、非常に一般的なものとして人々に重宝されている一方、創作物におけるジャンルとしての≪セカイ系≫は大変イメージが悪く、人気がないからだ。

創作物において、何をもってして≪セカイ系≫とするかということは、ちゃんとした定義は存在せず、其々見解は分かれることだろう。ただ一つ言えるのは、そもそも娯楽作品としての物語は、元々其々の持つ個人的なセカイ観を如何に魅力的なものとして拡充し、提供できるか、ということで成り立っているわけで、そういう視点から見ると、分類としてのそれはともかく、実は全ての物語はそういったセカイ系的な側面を兼ね備えている、ということだ。さらに言えば、そもそも人間は自らの持つ固有の条理性によって様々な事象を因果で繋ぎ合わせ、物語化することで現実を理解している。というか、人間はそういう形でしか現実と触れ合うことができない。そういう意味では、基本的に「現実物語」自体がセカイ系そのものとも言えるわけだ。

もちろんここでいうセカイ系とは、一般的に言われるジャンルとしてのそれとは意味も内容も異なる。が、人間は本質的にそういった個人的セカイ観という制限から逃れることはできないということから考えても、単にそれがことさら強調されているという理由だけで、ジャンルとしてのそれを否定するなんてことはできないだろう。もちろんだからといって、それが持つ内容自体が批判を免れるわけではない。そこに何か無理や欠陥、手抜きがあり、そこで提示されたセカイ観が破綻していれば、やはりそれは批判されるし、倫理的な面から咎めを受ける場合もあるだろう。他の創作物と同じように。が、ジャンルそのものが否定される言われはどこにもないはずなのだ。

――だが、現実社会における折衝においてはそうはいかない。というのも、現実社会ではそもそも、其々異なったセカイ観を持った者同士がその場所でどのように折り合いをつけて暮らしていくか、ということが常に議題となっているからだ。つまり現実社会では、其々のセカイ観が常に競合し合っているということが先ず大前提としてある。そしてその上で、それらをどう整理していくか、というのが議論であり対話であり其々の主張であるわけだから、その大前提をいきなり否定し、「私の持つこれこそが本物のセカイ観(「国家/社会/世間像」)である。だから人々は無条件にそれに従うべきだ」というようなセカイ系的主張は認められるべきではない。ところが何故か、創作物における≪セカイ系≫――ジャンルとしてのそれ――は否定され勝ちなのに対して、現実社会におけるセカイ系は大人気という。一体なんなんだろうね、これは。

 ***


いやまあ、自分のセカイで世界を塗りつぶしたいという強いセカイ系願望を持つ者からすれば、他人のセカイ観の拡充であることがことさら強調される≪セカイ系≫的創作物は競合対象としてもとりわけ目立ったものとして認識せざるを得ないだろうから、その者がそれに対して特別腹立たしく思うというのはある意味当然と言えば当然であり、その憤りは理屈としては分かるのだが…。

にしても、現実社会でそういったセカイ系願望を撒き散らしている者達が、それ故に創作物におけるジャンルとしてのそれをゴミ扱いするという日常的風景には、いつまで経っても中々馴染めない。相手のそれを否定することによって自身のセカイ観に相対的な価値をプラスしようとするよりも、素直に「他人のセカイ観が例えどれだけ世間から評価されようとも、俺にとっては俺のセカイ観こそが最高だ」と言って胸を張っていればいいのに。それが認められるのが創作や空想なわけだから。そして相手が個人的セカイ観を現実社会における正しさの根拠として持ち出した時のみ、それを精一杯否定すればいい。

万能ワード

【40×40】潮匡人 見かけ倒しの敬礼動作 - MSN産経ニュース

 それがなぜ、こうなったのか。原因は小欄であろう。もし欠礼すれば、全国紙の産経紙上で非難される。だから敬礼した。だが、下げた頭のどこにも、国家への敬意はない。文字通りの見かけ倒し。悪いが、小欄はだまされない。

は?「原因は小欄であろう」「小欄はだまされない」だって?
…こ、これは使えるじゃないか!
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▼使用例1「原因は小欄であろう」


・先ほどからなにやら外でカラスが騒いでいる。
原因は小欄であろう。

・太陽の黒点活動が低下しているという。
原因は小欄であろう。

・なんだか急に腹が痛くなってきた。
原因は小欄であろう。

・W杯でフランスとイタリアが一次リーグ敗退した。
原因は小欄であろう。

・ん?この感じ…
原因は小欄であろう。

・この付近では、最近不審者の出没が相次いでいるらしい。
原因は小欄であろう。

・なんだか凄く嫌な臭いがする…
原因は小欄であろう。

・電車の到着が遅れている。
原因は小欄であろう。

・真っ裸で意味不明なことを叫びながら走り回っている男がいる。
原因は小欄であろう。

・東映の社運を賭けた『北京原人』が大コケした。
原因は小欄であろう。

・裕木奈江が叩かれた
原因は小欄であろう。

・コロンブスが新大陸を発見した
原因は小欄であろう。

・パソコンがウイルスに感染した。
原因は小欄であろう。

・自然は、沈黙した。うす気味悪い。
原因は小欄であろう。

・あれ?…声が…遅れて…聞こえるよ。
原因は小欄であろう。

・そういえば最近あいつ見ないな。
原因は小欄であろう。

・日本のティッシュの年間消費量は世界一だという。
原因は小欄であろう。

・盗んだバイクで走り出す
原因は小欄であろう。

・ランバダが大流行した
原因は小欄であろう。

・ソクラテスが処刑された
原因は小欄であろう。

・とある有名人のブログが大炎上した。
原因は小欄であろう。

・137億年前にビッグバンが起こった
原因は小欄であろう。

・セックスレス夫婦が急増してるらしい。
原因は小欄であろう。

・お隣の家ではこの春、待望の初孫が誕生したという。
原因は小欄であろう。

▼使用例2「小欄はだまされない」

・店じまいセールだって?
小欄は騙されない。

・なにやら世間ではラブプラスなるものが流行っているらしい。
小欄はだまされない。

・諦めなければきっと夢は叶う。
小欄はだまされない。

・大丈夫、怖い話じゃないって。
小欄はだまされない。

・一緒にゆっくり走ろうな。
小欄はだまされない。

・やばい、全然勉強してない。
小欄はだまされない。

・二兎追うものは一兎をも得ず。
小欄はだまされない。

・今日は4月1日か…
小欄はだまされない。

・どちらのケーキもさほど大きさは変わらないじゃない。
小欄はだまされない。

・このプリクラ写真の子、可愛くない?
小欄はだまされない。

・きっとあなたにも何か生まれてきたことの意味があるはずよ。
小欄はだまされない。

・おすぎも絶賛!
小欄はだまされない。

・ハンター×ハンター連載再開?
小欄はだまされない。

・部員が少ないから部費に余裕があるんだよ。
小欄はだまされない。

・ジャック・バウアー「本当に…済まなかったと思っている」
小欄はだまされない。

・そして、全ての子供達におめでとう
小欄はだまされない。

・風鈴の音を聞いていると暑さが和らぐよね。
小欄はだまされない。

・お客様、お似合いですよ。
小欄はだまされない。

・そんなの都市伝説だって。
小欄はだまされない。

・嘘じゃないもん。サンタクロースは本当にいるんだもん。
小欄はだまされない。

・トリックアート?
小欄はだまされない。

・ねえ「ピザ」って十回言ってみて。
小欄はだまされない。

・今回はアタリだったな^^
まさか本当に生でヤらせてくれるとわww
てか、なんであんな薄いゴム一枚であんなにも気持ちよさが違うんだ??
小欄はだまされない。

・この夏話題の一大スペクタクルロマン大作
『小欄はだまされない』

・壷の中の塩をたくさんよくもみ込んでください。
小欄はだまされない。

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後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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