ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「これはネタです」と言いながら大路を走る行為について

「ネタにマジギレするマイノリティはキモイ」瓜田事件をめぐって

行為が行為だけに、ここではどうも分が悪いようにも見えるが、ネタだから批判するのはおかしい、という主張がこれまで堂々とまかり通り続けてきたこと、そしてそれが今も尚大きな力を持っていることは事実だ。これは虚構の物語、或いはイジリ、もしくはドッキリだから、その内容に関しての批判は一切なされるべきではない、といった主張も、内容的にはこれと同じものだろう。
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 ▼(1)全てのネタは内輪ノリでしかない

しかし、この批判(マジレス)に対する批判(ネタにマジレス格好悪い/すべきでない)は、全く的外れなものだ。というのも、「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」という言葉があるが、マジレスをしている側は、別にその者が「狂人の真似」としてそれを行っているのか、それとも「本気」でそれを行っているのかなんて端から問題にしておらず、「大路を走った」という行為自体を問題としているからだ。それに対して「いや、本気じゃないから」と言ったところで、それは行為を対象としたマジレス(批判)への批判にはなり得ないだろう。

そもそも、その者がそれをネタと思っているか否かなんてのは、当人の自意識の問題であり、他人からすればそんなもの知りようもないし、またどうでもいいことだ。私の、或いはあの人の自意識はそれをネタと認識した上で行っているのだから、批判すべきでない、と言われたところで、それに納得するのは、その行為をネタとして楽しむことができる集団だけだろう。つまり、全てのネタは基本的に、それをネタとして楽しむことができる感性を持った集団の内輪ノリでしかない。その内輪ノリで外部(それをネタとして楽しめない集団)と折衝しようとしたところで、それが通用するはずもない。予めそれがネタ(嘘)であるということが明記されていないなら、尚更のこと。ネタに走るのは結構だが、それくらいのことは最低限踏まえておくべきだろう。

冒頭のケースなどは、そもそもネタであるということ自体疑わしい※1。が、仮にそこに書かれている内容が全て嘘であっても、「書かれたこと」自体が事実であることには違いない。そしてマジレスは「書かれたこと」に対して行われている。つまり、その内容が嘘であったからといって、「書かれたこと」がそれそのものとして実在している以上、その批判が全て無効になるということはない。

そしてもし仮にそれが嘘であれば、それは意図的に流されたデマということになる。それを、デマを流すよりもデマに騙される方/デマを真に受ける方が悪い、ということにするのならば、あらゆるメディアは幾らでもデマを流してもよい、ということになる。全ては各々のメディア・リテラシー(この言葉もすっかり胡散臭くなった)でデマに対処すればよいだけだ、と。

だが、リテラシーも結構だが、人一人ができる情報の真偽の確認量なんてものはたかが知れている。特殊な専門知識が無いと真偽が判断できないケースも多いだろう。情報不足で、そもそも事実確認が実質的に不可能な場合も多い。つまり、氾濫する情報を目の前にして、そこに存在する嘘を全て嘘と見抜くことができる超人なんてどこにもいやしない。ましてや、相手がどのような気持ちでそれを行っているのか、という他人の内面を見透かすことができる超能力者などいるはずもない。嘘を嘘と見抜ける人間の存在というのは、それ自体がネタなわけだ。よってこういった思想が一般化すればするほど、必然的に情報に内包されるデマの含有率もまた増していくことになるだろう。

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また、ネタにマジレスする方が悪いとするなら、例えば、ある特定の人物の周辺で、その人物が持つ特徴を挙げながら、そこで想定された対象をバカにする話をしたり、直接その人物を罵倒するような言葉を投げつけておきながら、それにその人物が反応すると、「いや、これは別にお前のことを言っているわけではない。単なる架空の話だ。それに反応するのはお前が自意識過剰からだ」という、この手の嫌がらせ――これは虐めの常套手段だ――にも打つ手がなくなる。そして「いやこれはイジリだから」と言われれば、「ああそうか、イジリなら仕方ないな」として引き下がるしかなくなる。

しかし「ネタにマジレス格好悪い」思想が抱える問題はこれだけではない。その思想はもっと根本的な欠陥を抱えている。

 ▼(2)「ネタにマジレス格好悪い」思想は自意識偏重主義の産物

というのも、もし「ネタにマジレス」すべきでないとするなら、そのマジレスが実は「ネタにマジレスするネタ」かもしれないという可能性もまた考えなければならないだろう。そしてそれが「マジレスするネタ」だった場合、自らが設けた制約によって、それを批判してはならないということになる。よって、マジレスを批判するためには、まずそれがネタかマジかの真偽を見極めるため、他人の内面を覗き見て、その内容を把握しなければならない。だが、そんなことができる人間はいまい。つまり、「ネタにマジレスすべきでない」としてマジレス批判がなされた時、その批判者は、己が掲げたその主張を自ら踏みにじっているか、もしくは他人の内面を見透かすことのできる超能力者かのどちらか、ということになる。この主張そういった根本的な欠陥を抱えている。

「ネタにマジレスするな」というのは、「相手に批判をさせまいとするための批判」の一種だが、そこで何を根拠としてその行為の可否が判断されているかと言えば、それはその対象がそれをネタと思っているか否か、という自意識によってだ。そして何故、本来見透かすことのできないはずの他人の内面を見透かすことができたという前提で話が進むかと言えば、それは自らの自意識が相手の内面をのぞき見ることができた、と感じるからだろう。つまり、そこでは実際に行われた行為の内容よりも、其々の自意識がそれをどのように感じているか、ということの方が重んじられている。そして自意識の在り様を根拠として、批判という行為自体を封じようとする動きが出てくる。だが、本来は批判をなすべきか否かの判断よりも、なされた批判が的を射たものか否か、という判断の方こそが重要なのではないか。

ところが実際には、行われた行為の内容や批判の内容としての妥当性よりも、本来知りえないはずの個人の内面の方にばかり注目が集まる。それを中心として物事が把握される。では何故そういうことになるのか。それは、日本社会の自意識偏重主義を受けてのものだろう。

何か上手く行かないことがあれば、「未熟な自意識」が原因として槍玉に挙げられ、何かが上手くいけば、「成熟した自意識」の手柄とされる。そして解決せねばならない問題が立ちはだかると、「意識改革」によってそれを乗り越えるべきだ、という処方箋が出され、其々の自意識は自己を改造することを迫られる。――あなたが苦しんでいるのは、あなたの苦しみから抜け出そうとする意識が弱いからです。私が成功した理由は、未熟な自意識を変革させたからです。社会に出て上手く行かないのは、あなたの自意識が病んでいるからです。あなたが枠組みに上手く収まれないのは、あなたの自意識が甘えているからです。…というように、自意識は常に結果や状況をコントロールする魔法の鍵だと認識されている。そして結果や状況の良し悪しから自意識の貴賎が導き出される。それが日本社会の特徴だ。

「キモイ」問題に関しても同じことが言える。――私は正しく、あなたは間違っている。何故なら、私が、そして多くの者がそれを「キモイ」と感じるであろうからだ、というように、個人の「キモイ」という感覚が、一般的・普遍的正しさの根拠にまでなってしまう。例の「必死だな」もそう。あなたの自意識は冷静さを欠き、私の自意識は冷静だ…よって私は正常であなたは異常である、という論理。主張の内容よりも、まず自意識の在り様が問題とされる。「ネタにマジレス格好悪い」思想が大きな力を持ち続けてきたのは、こういった日本社会の自意識偏重主義あってこそのものだろう。

 ▼(3)人はネタとどのように付き合っていくべきなのか

だが、その自意識偏重主義に支えられた「ネタにマジレス格好悪い」思想の行き着く先はこういう場所だ。

"なりきり厨”による被害…『現実世界で荒川アンダーザブリッジのロールプレイ』

もちろんこれもどこからどこまでが本当なのかは分からないが、仮に本当だとすれば、この場合、複数人によってそれが行われていることから、内輪での盛り上がり、つまりネタとしてそれが行われている可能性も十二分に考えられる。「いや、ネタだから」と。要するに、これは膨張した内輪ノリで外部と接触しようとした「ネタにマジレスするな」派の犯行である可能性も高く、その場合「ネタにマジレスすべきでない」という信念を持っている者は、これを批判することができない。

だが、その所業に巻き込まれた人間からすれば、それがネタかマジかなんてのはどうでもよいことだろう。それよりも、そこで行われた行為自体が問題だ。そもそも、実際のところネタとマジは元々渾然一体となったものであり、ここからはネタでここからはマジというように、綺麗に線引きして分けることはできない。つまりそれを行っている当人ですら、それを厳密に区別することはできない。そのようなあやふやな実感を根拠として物事の良し悪しや可否を判断するのは、余りにも危うすぎる。

…とはいえ、ひたすら行為だけを見て全てを判断していく、という考え方にも問題はある。例えば、「瀬戸大橋の光ケーブル切断してくる」や「小女子を焼き殺す」の場合どうなのか、その程度の書き込みで逮捕までされるべきなのか、そのネタにマジで対応する必要はあるのか、という問いは残る。これは警察側からすれば、万が一何かあった時の責任問題を懸念してのものなのだろうが、何も逮捕まで行かなくとも、注意程度でよいだろう、と。

だがこれはどちらかといえば、どのような原理原則でも、それを絶対視すると良い結果にはならない、という原理主義の問題と考えた方がよいだろう。「ネタにマジレスするな」は、内輪ノリを受け入れろ、ということだが、自分達の内輪ノリは常に受け入れられるべきだとする考え方も、それを受けれるか否かは外にいる者の勝手なので、“そんなものは一切考慮する必要はない”とする考え方も、どちらにも欠陥はある。そしてその時、どちらの原理原則がより大きな問題を抱えているかと言えば、やはり「ネタだから批判してはならない」の方だろう。そもそも、自身がその信念に基づき黙っているのは勝手だが、個人的実感を根拠にして、他人の批判まで禁止しようとするのは無理がある。さらに言えば、そこでは個人の内面を根拠としてその行為の良し悪しや可否が判断されるため、この考え方が敷衍され、より広く普及すれば、場合によっては内面の在り様を根拠として権力側から取り締まられる、という可能性だって出てくる。そういう面からしても、やはりこの原理原則は危うすぎる。

まあそれは今すぐにでも起こることではないかもしれないが(いや、そうでもないのか?)、少なくとも、どちらの原理原則の方が良いと信じるにしても、ネタというのは基本的に内輪ノリでしかない、ということくらいはハッキリとさせておくべきだろう。

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ところで、この問題はもっと掘り下げれば、人は道徳という嘘(ネタ)とどのように向き合って生きていけばよいか、という問題にまで辿り着く。現実には、道徳(嘘)を真に受けて生きていけるほど穏健な場所はそう滅多にない。現代社会では、社会システムを通し、婉曲化された形で生存競争という名の殺し合いが行われている。そこで最も強力な武器となるのが道徳という嘘だ。というのも、社会から道徳的であると判断されなければ生きていくのは難しいが、そのためには道徳を踏みにじらなければならない、という矛盾を道徳は抱えているからだ。

例えば、「他人に迷惑を掛けてはならない」という道徳があるが、実際のところ、他人に迷惑を掛けずに生きていける人間など存在しない。生きるとは即ち、それ自体が他人に迷惑を掛けることでもあるからだ。しかしそれを真に受け、なるべく他人に迷惑を掛けまいとすると、行為は萎縮せざるをえない。そうすると群れにおける社会的ポジションにおいて良い位置を獲得できない。そして「良い位置を獲得できない」とは即ち「人気が無い」ということだから、それを自覚した主体は、自分が誰かに関わると他人の迷惑になる、とより敏感に認識するようになり、人と関わることに大きな後ろめたさを感じるようになる。コミュニケーション原理主義のこの社会において、そのような状態に陥った人間が「生まれて来て良かった」と思えるような人生をつむぎ続けることができる余地など、あるはずもない。そして再び「他人に迷惑を掛けてはならない」という世間の目線で自らを顧みた時、その者は自分で自分の存在意義を否定しなければならなくなる。道徳に感染し、世間の常識に存在意義を依存するようになってしまっているからだ。

つまり、「他人に迷惑を掛けるな」という道徳を他人に植え付けることは、現代社会における最大の迷惑の一つでもある。よって、必然的に道徳をより強く内面化した者ほど淘汰され易くなる。これはあくまで一例でしかないが、全ての道徳は大抵こういう性質を隠し持っている。即ち、道徳というネタを真に受けすぎると生きてはいけない。だが一方で、その道徳という武器によって己の身が守られているという面があるのも事実。

――「批判の自由」というのが道徳であれば、「ネタにマジレスしてはいけない」というのも道徳であり、それは「道徳」対「非道徳」の問題ではなく、異なる道徳同士の競合問題だ。よってこのことは本件の論議に直接関わるものではない。だが、ちょっと付き合い方を間違えると命すら奪われかねない…ネタとはそれほどの大きな影響力を持っている、ということでは共通する面もあるだろう。



※1 瓜田純士、アメブロ強制退会か? 公式ブログに「仕返しに出る」「今晩からでもゲイ狩り」等書き込み - みやきち日記
どうやら次の犯行の予告が行われたようで、やはりネタでもなんでもなかったようだ。まあ、ネタで人を暴行するタイプの人なのかもしれないが、暴行される側からすればそれがネタか否かなんてどうでもいいわけで。しかし「ネタにマジレスするな」派は、これで実際に次の事件が起こったら、だから黙って我慢しているべきだと言っただろう、などと言い出しそうで怖い。
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「ハラキリ」できないサムライ企業~受け継がれる武士の商法

日本企業にそっぽ向く日本人留学生たち 大人気ボスキャリだが、海外有名企業は早々に青田刈り JBpress(日本ビジネスプレス)

 一方、ボスキャリに参加した米国トップスクールの女子学生B子さんは、「業界を絞り切れず就職戦線に出遅れたので、ボスキャリで起死回生を目指しています。間違っても、男性優位で風通しが悪く、給与の低い日本企業ではなく、外資系企業のポジションを獲得する」と意気込んでいた。

 ボスキャリ初日で見られる状況は、日本人留学生が、外資系企業のブースに長蛇の列を作る一方、日本企業のブースに閑古鳥が鳴いているのが現実だ。

 ここでも、日本企業の魅力度は低く映っているのである。そして、日本企業に勤めることが決まった学生は、心なしか肩身が狭いようにも見受けられる。

 それでも、ボスキャリに出展している日本企業は日本においては就職人気ランキング上位の企業ばかりである。そうした日本の人気企業であっても、有力な米国大学の優秀な日本人留学生からは敬遠されるのが実態である。

ボスキャリで学生を採用した某大手日本企業のC氏は次のように話す。

 「初めてボスキャリに参加しましたが、希望するトップスクールの学生からは全く応募がありませんでした。とりあえず、語学のできる学生を採用したものの、米国的に自分の権利だけ主張して、義務である仕事の内容はお粗末。もうボスキャリには参加しません」

雇用状況が極めて悪いのはアメリカでも同じこと。企業側にとって労働者を獲得し易い「買い手市場」なのは間違いない。しかし就職活動というのは、労働者側が「労働力」を売っているという側面があるのと同時に、企業側は「労働環境」を売っているという側面もある。その側面から見た時、とりわけ学生側としては、なんとかして「労働環境」を買い付けなければ、と思っていることだろう。しかもこういう場所だ。とにかくそれを買いたくてしかたがない、というような客ばかりがわんさか集まっている。「労働環境」という商品を売る側としては、絶好の機会。にもかかわらず――それだけ好条件がそろった場所・市場にありながらにして「閑古鳥が鳴いている」というのは、余程その商品に人気がなかったのだろう。

しかし、その不人気商品が売れないことに逆切れする某大手日本企業。これは正に武士の商法そのものだ。本来、市場原理からすればそういう商品は改善されるか、もしくは淘汰されることになっている。だが、日本においてはその原理が全く働かない。その必然性がないからだ。
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もし「労働力」の売り手である学生側が、何故自分を買わないんだ、ケシカランと言って逆切れすれば、きっと頭のおかしい人扱いされるだろう。よって多くの学生は、「労働力」としての自分を売るために、或いは頭のおかしい人扱いされないために、企業側にとって望ましい商品になろうと努める。そうやって買い手である企業側の望みに従って、「労働力」という商品は改善され、淘汰されていく。

そして企業側の望む労働者の姿とは、上意下達を絶対視し、それを体現することのできる「サムライ」だ。日本社会における人間は、その常識によって概ね二種類に分類される※1。「サムライ」と「不逞の輩」だ。そして企業側の「労働環境」を買うということは、自らが「サムライ」の一員になることを意味する。と同時に、それを買いそびれるということは、「不逞の輩」になることを意味する。そういう環境が成立しているからこそ、武士の商法は安穏としていられるわけだ。そして日本が――「サムライ」が生き残り続けることのできる――神秘の国であり続けるためには、市場原理は機能してはならない。市場原理主義が叫ばれる昨今の日本社会だが、実のところこの国には市場原理主義者なんてどこにもいない。日本で言うところの≪市場原理主義≫とは即ち、自らを体現することができる力こそが唯一の正義である、という結果論から導き出された力関係の真理化を言い換えたものでしかない。

――だが、神秘の国を一歩出てしまうと、武士の商法は通用しない。「サムライ」が「サムライ」でいられるのは、この日本という領域においてだけだからだ。ところが、この某大手日本企業は、ちょんまげに袴に帯刀という姿でそのまま外へ出て行き、堂々と武士の商法を始めてしまったわけだ。そりゃ白い目で見られて当然だろう。

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いずれにせよ、こういったサムライ企業が大手を振って歩くことができる環境が日本に成立している以上、日本企業が内容的にグローバル化することなんて先ずあり得ないだろう(グローバル化の脅威に晒されることはもちろんあるが)。何故なら、サムライ企業にとってのグローバル化とは、サムライとしての自己を否定することであり、「ハラキリ」そのものでもあるからだ。だが、いくら「サムライ」といえども、「ハラキリ」をするほど勇気のある者はそう滅多にはいないようだ。別に本当に死ぬわけでもないんだけどねえ。


※1<追記:9/13>「日本社会における人間は、その常識によって概ね二種類に分類される。」というのは極論に思えるかもしれないが、「サムライ」を「社会人」に言い換えてみると、それは必ずしも極論とは言えない、ということが分かると思う。

他人への「厳しさ」は、自分への「甘さ」によって成り立っている

【Sports Watch】“満塁男”駒田氏が、最近の虐待事件に怒り露わ

「また、幼児虐待の事件が。」というタイトルでブログ綴った駒田氏は、同事件を「90年以降、どんどん増える傾向にある」とし、「90年と言うと、僕らが親になった世代。親や先生にビンタを食らった最後の世代だ。それから、どんどん大人が子供に手を上げる事がなくなり、今の幼児の親達は全くそんな経験がない人がほとんどだ」と述べると、「それなのに、なぜ虐待が減らないのか。自分がされた事がない、一番嫌な事をなぜ子供に出来るのか、全く理解出来ない」と持論を展開する。

また、その持論に賛否こそあるだろうが、ブログの最後では「原因は何であれ、甘やかされた子供が大人になって虐待事件を起こしているのは間違いない。綺麗事の教育では、今後もこのような事件が減らないと思うのは僕だけか」と語る駒田氏だった。

“虐待を減らすために「大人が子供に手を上げる事」を推奨する”という余りにも矛盾に満ちた主張。このような論理は、余程自分に甘い人間の口からしか出てこないだろう。というのも、このような余りにも大きな欠陥を持った主張は、その者が少しでも自らを疑い顧みる「厳しさ」を持っているなら、それによって、表に出てくる前に消し去られるか、出てきて直ぐに訂正されることになるはずだからだ。それが表に出てきて訂正されることもなく放置され続けるということは、その者が自らに対する「厳しさ」を元々持っていないか、もしくはその審査基準が余程甘く設定されているかのどちらかだ。つまり、他人への「厳しさ」を推奨するこの主張は、自分への「甘さ」によって支えられている。
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▼(1)≪厳しさ≫というブランドで隠蔽される、自分への「甘さ」

これに限ったことではなく、結局、他人へ「厳しさ」というのは、自分への「甘さ」が出自となっているものが殆どなのではないか。例えば、子供が自分の思い通りに動いてくれない時、それによって生まれる鬱積を、シバいたり怒鳴りつけたりして発散するのは非常に簡単だ(あくまで“それ自体”は。一連の流れを通しては、無間地獄に陥る可能性があるが)。一方、そういったストレスを抱えながらも、暴力的欲求を封印し、もっと他に上手くやる方法はないか、とあれこれ考え工夫するのは非常に骨が折れる。このどちらの方が自分にとってより辛く厳しいことであり、より楽で甘いことなのか、ということはわざわざ言うまでもないだろう。

これは何も子供相手の場合だけに限ったことではない。自らの方が腕力や立場において勝っている相手と接する時にも同じことが言える。その優位性に甘え、ごり押しによって一方的に自らの唱える「正しさ」を相手に押し付けた時、その「正しさ」は、「自らを体現することができない力なき正義は正義たり得ない。正義とは即ちそれを実現する力のことである」というような短絡的な「正しさ」にしかなり得ない。だが、そのような結果論から導き出された「正しさ」を、そのまま概念的な「正しさ」と一致させることが如何に危険なことかということは、少し考えれば誰でも分かることだ。そのような「正しさ」が絶対的なものとして幅を利かせ始めたとしたら、或いはその「正しさ」が自らに襲い掛かることになったら、今その時点で優位性を根拠として「正しさ」を押し通そうとしているその者も、きっと納得はしないはずだろう。つまりその「正しさ」は、その者にとってすら「正しく」ない。

その「少し考えれば誰でも分かること」に思いを馳せることもなく、整合性を保つための「正しさ」を模索する努力をすることもなく、ただ「できるからする」。立場的優位に依存しなければ力を持ち得ないであろう出来の悪い「正しさ」を、「押し通せるから押し通す」。ここから生まれる他人への「厳しさ」は、自分への「甘さ」が前提としてなければ成立しない。

要するに、“虐待を減らすために「大人が子供に手を上げる事」を推奨する”というようなどうしようもない出来損ないの論理がもっともらしい顔をして出歩くことができるのも、「非常に骨の折れる」工夫を放棄し、暴力的行為でストレスを発散するのも、腕力や立場的優位を根拠として「正しさ」を押し通すのも、≪厳しさ≫というブランドで隠蔽された、自分への甘さに他ならないわけだ。

▼(2)目的が「厳しさ」の遂行自体に摩り替わるという現象

もう一度冒頭の駒田氏の主張に話を戻すと――もし彼の言うように、自分が「嫌な事」をされたことが無いから人に「嫌な事」をするのだとすれば、人に「嫌な事」をしない人間を育てるには、その人に「嫌な事」をしなければならないことになってしまう。だが、そもそもそういった行為自体が問題とされているのだから、この主張は全く本末転倒だろう。

ここ数年で虐待の認知件数が増える傾向にある(とニュースでは言っていた)、ということにしても、それは現象としてのそれが増えているというより、単に認知件数が増えたと考えた方が妥当だろう。なんせ、「奇麗事」によって、彼が推奨する「大人が子供に手を上げる」という「汚い事」が世間的に許されなくなってしまったわけだから。もちろん、死亡に至るほどの事件にでもならない限り、その実体を実数として明確に把握し、時代ごとに比較するのは難しいだろう。ただ、昔は虐待と認識されなかったものが、彼の否定する「綺麗事の教育」によって、虐待であると認識され、問題視されるようになってしまったということだけは事実だ。そうなれば、認知数としてのそれが増加することになるのは当たり前だろう。ここでは、その「認識の変化」も関係しているであろう虐待の認知件数の増加を受けて、それがより認知され易くなったことに一役買ったはずの「奇麗事」を否定し、それでは駄目だ、といって憂いてみせるという構図になっている。確かに、「汚い事」が許されるのであれば、認知数としての虐待は減少するだろう。今虐待とされているものが虐待とは認識されなくなってしまうわけだから。だが、そうなれば当然、現象としてのそれは増加することが予想される(躾や教育と称して暴力を振るうことが、世間的に良いこととされるので)。

そもそもこの問題で重要なのは、時代によってそれが増えているか否かではない。今そこで起こっているそれそのものだろう。よって、実体としての虐待や嫌がらせを本当に心配しているなら、過去と比べてどうこうではなく、今現在におけるそれを如何にして抑制するか、という視点からものを考えるはずだ。ところが彼は、むしろ「大人が子供に手を上げる」という、虐待と紙一重の行為を後押しするような説を打ち立てている。このことから見るに、彼はここで虐待や「嫌な事」がなされること自体を憂いているというよりも、「大人が子供に手を上げる事」や、教育によって他人に厳しく当たることが許されなくなった現状の方を嘆いていると見た方が妥当だ。つまり、ここでは虐待や嫌がらせが問題だというそもそもの目的や大儀が、結果として見事に消し飛んでしまっている。目的が他人への「厳しさ」そのものに摩り替わり、虐待云々はむしろそのための手段に成り代わっている。これを欺瞞と言わずしてなんと言おう。

――だが、このような無茶な論理を打ち立てた駒田氏を笑ってばかりもいられない。何故なら、こういった主張は別に特別なものでもなんでもなく、ごく一般的なものとして、今まで多くの人々に受け入れられてきたものでもあるからだ※1。彼は単に、その「古きよき伝統」の伝承者の一人でしかない。いつの間にか目的が「厳しさ」の遂行それ自体に成り代わっているということだって、決して珍しいことではない。そういう現象はいたるところで見受けられる。さらに言えば、立場的な優位性を振りかざし、無理のある「正しさ」を強引に押し通そうとしたことは、誰にでもあるはずだ。つまり、誰もが他人へ「厳しさ」を求めるという形を取って、自分を甘やかしたことがあるはずなのだ。その≪厳しさ≫という名の甘い誘惑に負けたことがあるはずなのだ。

▼(3)何故人は、他人に「厳しさ」を押し付けなければならなくなるのか

では、何故人は他人に「厳しさ」を求めてしまうのか。そうやって自分を甘やかさなければならなくなるのか。それには幾つかの理由があるように思う。

 <(i)「苦しみ」に意味がないことに耐えられない>

例えば駒田氏は、あの主張からすると、自分は厳しく育てられたと認識しているようだ。彼がそう認識しているのならば、彼にとってはそうなのだろう。だが、他人から受けた「厳しさ」には、当然「苦しみ」が伴う。人間は、この「苦しみ」に意味を見出そうとする傾向がある。ただ無駄に苦しんだとは思いたくないわけだ。大抵の人間は、あの時のあの「苦しみ」に耐えたから、自分はより大きく成長できたのだ。あの「苦しみ」による試練が、私を一段高いステージへと引き上げることになったのだ――というような物語を作り上げ、その物語によって現実を理解していく。そうやって自分という存在を世界に関連付け、安定した自我像を作り上げていく。

だが、もしその「苦しみ」に意味がなかったとしたらどうなるだろう。その場合、それを前提として「現実」を形作ってきた物語は崩壊し、今までその物語の主人公として活躍してきた「自分」は、単なるほら吹き道化と成り下がる。ただ一人虚空の世界にポツンと取り残されることになる。その時、その物語に依存することで自身の存在意義を保ってきた「自分」は、存在意義を完全に失ってしまう。故に、その物語の主人公である「自分」は、その物語の筋書きを、そして「苦しみ」の意味を守り続けなければならない。

だが、何らかの「正しさ」をただ一人だけで信じ続けるのは中々難しい。大抵の人間は、他人もまたそれを「正しい」と信じているから、という理由でもって、ようやくその「正しさ」を心の底から信じることができるようになる。――だからこそ、人は他人を崖へと突き落とす。突き落とされた者達が再び這い上がって来て、「この試練があったからこそ、自分は一回り大きく成長することができたのです」という姿を見るために。そうやって、自らが作り上げた物語の「正しさ」を他人の信心によって確認せねばならない。「苦しみ」の意味を守り、物語への新たな参加者を生み出し続けなければならない。

その時その崖下と崖上は、必然的に「正しさ」の境界線となり、人々を分け隔てることになる。それ故、崖下の惨状が崖上の人間から省みられることはない。物語の筋書き上、その惨状は自業自得でなければならないからだ。そしてこの「突き落とし行為」には、選民思想のようなものを生み出す効果も備わっている。そこでの這い上がり行為は、一種独特の自尊心を人々に植え付けることになるからだ。それ故この手法は、自己啓発セミナーや会社の研修、就労の社会的意味、形式の確保、或いは派閥の地盤固めなど様々な場所において、より積極的に活用されることとなっている。

 <(ii)人は平等に苦しまなければならないという思想>

幾ら「苦しみ」に重要な意味や価値があると自分に言い聞かせてみても、それはそのような「苦しみ」を獲得せざるを得なかった事実が前提としてあるが故のものであって、本当は誰だって、できることなら苦しみたくなんかない。だから、自身が何の見返りもない「苦しみ」を散々獲得しているのに、大した「苦しみ」も獲得せずに、大きな利益を得ている他人を見ると、どうしても不満が噴出することになる。この不満の根底には――これもまた「苦しみ」の無意味性への拒絶に関連したものでもあるが――、大きな「苦しみ」を得た人間ほど大きな見返りを得なければならない、或いは、大きな利益を得た者は、その分沢山苦しまなければならない、という平等への渇望がある。

「平等」という思想は、何も教育によって後天的に植えつけられるものばかりとは限らない。何故ならその思想は、元々人間が持っている不公平感を出自としているからだ。現に、普段「平等」を鼻で笑っているような人間も、大抵はこの(不公平は正さねばならないという)平等思想への強い信仰心を抱いている。そしてそれを信仰している者は、その教義に照らし合わせて納得がいくように、他人に「苦しみ」を与え、人々が受け持つ「苦しみ」のバランスを取ろうとすることになる。その信仰行為が、世間では「厳しさ」という言葉で言い表されている。

だが、人間は決して他人の感覚を知ることはできない。つまり、自分の「苦しみ」を感じることはできても、他人の「苦しみ」は想像力を通してしか感じる取ることができない。すると必然的に、幾ら相手を苦しめてもその「苦しみ」を自分は感じ取ることができないから、結果として自分の方がもっと苦しんでいると認識することになり、ついついバランスを整えるための「苦しみ」の付与が、行き過ぎてしまう。教育のためと称して行われる行過ぎた虐待やリンチには、この平等への渇望や他人の苦痛への不可知性が、少なからず関わっていることだろう。

 <(iii)他人を捻じ伏せることによって得られるカタルシスへの依存>

他人に「厳しさ」を求める時、それを求める側は大抵、相手が手出しすることができない安全地帯にいるか、もしくは自分の方が腕力や立場において優位に立っているかのどちらかの条件を満たしている。もし逆ならば、むしろ自分の方が相手がもたらす「厳しさ」に晒されることになるからだ。この、立場的優位を利用して相手を一方的にねじ伏せる行為には、その者に大きなカタルシスをもたらす効果がある。そこに先に挙げた物語性や、平等信仰上の摂理を正すという使命が加われば、尚のことその爽快感は増すことになるだろう。他人への「厳しさ」の遂行には、そういった娯楽性や快楽性が備わっている。だからついついそれに手を染めたくなる。

 <(iv)単純に楽>

どのような場所でも、状況は常に変化している。しかし、次から次へと移り変わる新しい状況を受けて、その都度より相応しい手法、より望ましい人との関わり方を模索し、新たにそれを作り上げていくのは非常に困難なことだ。それよりも、目の前の状況を予め用意された雛形の中に無理にでも押し込んでいくことの方が、遥かに楽だ。しかし、その自分が楽をするための雛形への押し込み行為が、他人への「厳しさ」となって現出する

▼(4)≪厳しさ≫による誤認現象

――とまあ、他人に「厳しさ」を求めざるを得なくなる理由を幾つか推測して挙げてみたが、何にせよ一つ確かなのは、他人への「厳しさ」は、自分への「甘さ」そのものだということ。これは、例えば自分は苦行をしているから、というのはその「甘さ」の言い訳にはならない。何故なら、“自分の好きで苦行をする”のと、他人に嫌々それをやらされるのでは全く意味が異なってくるからだ。また、自分の好きでやっている苦行は、あくまで個人的なものでしかない。それは他人が自分の思い通りに動いてくれないという「社会的な苦しみ」とは全く別の問題だ。「甘さ」への言い訳にならないのは、その者が過去に大変厳しい目に遭っていた、というケースでも同じことだ。幾らその者の過去に大きな「苦しみ」を受け取っていた事実があろうと、今その時点における双方の関係性の上で、その他人への「厳しさ」が、自身への甘やかしとなっていることには何ら変わりがない。

ところが、本来自分への甘やかし行為であるはずの「他人への厳しさ」が趨勢側によってなされると、それが一種特有の≪厳しさ≫というブランドとして機能し、そのイメージによって、「自分への甘さ」というその内容が隠蔽されてしまう。逆に、そのブランドの威光によって、まるで「厳しさ」を求められた側こそが甘えているかのように認識されてしまう。この≪厳しさ≫というブランドがもたらす錯誤効果、及びそれが生み出す問題は、もっと広く知られてもよいのではないか。

 ***

その「厳しさ」や「甘さ」が其々にとってどのように機能し、其々をどこへ導くことになるのか。それは分からない。だから、一概に甘い方が良いとか厳しい方が良いとか、そういうことは言えない。ただ、自分への甘やかしを「厳しさ」と言い換えることによって押し通そうとするような因習は、そろそろ止めにした方がいいんじゃないかと。

因みに、自分は体罰絶対禁止派ではない。しかしもしそれを行うのであれば、いずれ立場や腕力が逆転した時に、その優位性によって逆に自らがねじ伏せられ、蹂躙されるという可能性があることくらいは頭にいれておき、それを覚悟した上でなすべきだろう。体罰とは、そういった一か八かのギャンブルなのだ。



※1 実際、一昔前は「しつけ=シバく」が常識だった時代がある。現に、自分はそういった常識を真に受けた父に、母や妹と揉めていると、或いは単に母が機嫌が悪いというだけで、訳を訊かれることもなく、取りあえずシバかれた。教育に理念を持つことができず、それを世間の常識で埋め合わせることしかできなかった父にとっては、シバくこと“それそのもの”が教育だったわけだ。

世間の手先としての自分

<今日の一首>

「ゆとり」と言えば 俺の勝ち
これが私の お仕事なのよ――とある名も無きCO2

30歳で会社を辞めて“寂れた喫茶店”を開くのが夢!?
仕事と恋愛に情熱を持てない「ゆとりくん」の無気力さ(ダイヤモンド・オンライン)


≪労働≫が如何に下劣で迷惑な性質を帯びているかということを、自らの≪労働≫によって日々告発し続ける歴戦の勇士、ダイヤモンド・オンライン。今回のお仕事も、全くお見事です。でも、こんな仕事に情熱を燃やし続ける人の気が知れない。

少なくとも、“氷河期くん”のうちの一人である自分は、梅田氏よりも“ゆとりちゃん”の方につきますよ。ゲームなんてもう長らくしていないけど。
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だって、それはあらゆる外的要因がなければ、家でずっとゲームしているのが楽しいってことでしょう。それって引きこもり的な体質を持っているってことだよ。

むしろ、何かを「楽しい」と思えているうちは、まだ人生的にも社会的にも成功するチャンスがあるということなのだが。

本当にヤバい状態になると、そもそも「楽しい」という感覚自体が理解できなくなる。だから何かをする時は常に、「せねばならない」という(内面化された)義務感に突き動かされる形でしか動けなくなる。例えそれが趣味のようなものであっても。そして、動機が義務感だけになってしまうと、何をするにしても直ぐガス欠になり、長続きしない。人生が苦役のための苦役でしかなくなってしまうからだ。それが社会的なポジション争いに破れ、脱落していく人達の大きな特徴。廃人になる人の典型的パターン。そして世間に価値判断を委ね、それによって自分の価値観を否定して生きてきた人間の哀れな末路。

世間に価値判断を委ねてきた人間は、世間から自らの商品としての価値を否定されると、自らもまた自分自身の存在に価値を感じることができなくなってしまう。それどころか、むしろ世間の側に付いている自分にとって、自分自身が“敵”になってしまう。だからこの国では自分殺しが流行るわけです。

そしてそのような、世間を重んじる「道徳」というマルウェアを埋め込まれた人間の内部では、そのマルウェアによる扇動と生命力や理性が常にぶつかり合い続けることになる。その内紛が苦しみを生み出し続けることになる。そして自分もまた、そのマルウェアを植えつけられた者の一人だ。だからこそ自分は、世間や道徳が、そして何よりもそのようなマルウェアを他人に植え付けようと目論む人間達が、憎くてしかたがない。だからこそ、それらに戦いを挑んだ人達に共感を覚えてしまう。自身がそれから自由になれないが故に、尚更。

フリーのVSTコンプあれこれ

IKグループバイのおまけは、結局「Opto Compressor」をもらった。

今までは、「コンプなんてどうせどれも似たようなものだから、使い易いやつを使っておけばいいや」くらいの考えしか持っていなかったのだが、おまけ選びを契機として様々なフリーコンプの効き具合を色々と聞き比べてみることにより、其々が如何に多用なキャラクターを持っているか、ということに気づいたので、その際の印象を忘れないように書き留めておこうと思う。今回試してみたのは全部で11個のフリープラグイン。因みに、紹介の順に深い意味はない。

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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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