ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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SampleTank2.5XLとSampleTank Freeは共存できない

Sonik Synth や SampleTron のプラグインはエフェクトとして CSR リバーブが選べないし、Miroslav のプラグインには CSR はついているが、エフェクトの数が大幅に制限されている。かといって、一番エフェクトが充実している SampleTank にシリーズ全てのサンプルを読み込ませるとなると凄く起動が遅くなるので、余りそれはしたくない。
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そこで、機能的に SampleTank と同等の SampleTank Free をインストールし、ライブラリの読み込みをその二つに分散すれば立ち上げ負荷が多少改善するのでは、と期待して SampleTank Free をインストールしてみたのだが、結果として上手くいかなかった。インストール時の初期設定のままだと製品版もフリー版も同じ場所にインストールされことになるので、これが駄目なのかと思ってインストール場所を分けてみたが、やっぱり駄目。どうも、この二つの中身は全く同じもののようだ。つまり、同じアプリを二重にインストールしたのと同じ結果になる。というわけで思惑が外れた。

因みに、今ままで IK 製品は全て一つ一つ別個にオーソライズを済ませねばならず、この方式が非常に面倒で評判が悪かったのだが、最近になって一箇所で一度にオーソライズができる Authorization_Manager というアプリがリリースされた。これだと一度オーソライズコードを獲得している製品は、画面に従ってログイン→シリアルをコピーして貼り付け→次の製品のシリアルをコピーして貼り付け、というように、一括して簡単に全ての製品をオーソライズできる…はずだったのでリカバリついでにやってみたが、実際に成功したのは五つのうち二つだけだった。しかも、一度失敗したコードは受けつけられないようになっていて、もうそれ以上このアプリではオーソライズはできなかった。仕方がないので、結局一つ一つ別個にオーソライズ。何なんだこれ。

SampleTank Free をインストールすると古いバージョンの Authorization_Manager が同時にインストールされるので、一旦それをアンインストールしてからもう一度新しいバージョンの Authorization_Manager をインストールしたのが不味かったのだろうか?しかし仮にそうだとしても、SampleTank Free を一旦インストールしてしまうともうそれ以外にはどうしようもないしなあ。というわけで、既にSampleTank をインストールしている人は Free版は入れない方がいいです。SampleTank しか持っていない人は、付属のライブラリだけは使えるけど。
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パソコンをリカバリしようと思ったが…

キーボードの「F11」ボタンが死んでいてリカバリできない。

ところどころキーが効かなくなった壊れかけのキーボードを
騙し騙し使ってきたが、そろそろ潮時のようだ。

大きさや値段、配線の位置やキータッチ、キーの配置など、
どれもどれかがいまいちで中々満足のいくものはないが、
妥協して適当なものを買ってくることにしよう。

競合相手の摩り替えによる希望の製造×忖度主義と祈り

「普通の人」を代弁してくれるのは誰だ?

外国人、少数民族、女性、被差別部落、障害者、貧困者(ホームレス・労務者)等の属性に当てはまったら、

社民・共産とかリベラル左翼な人たちが立場を代弁してくれたり、生活を支援してくれたりする。

農家や経営者だったら自民党が、大企業のサラリーマンや公務員だったら民主党が、

その人達の利益に沿うような政策を掲げて、政権を取ったら政策を実現してくれる。

創価学会員なら公明党が動いてくれる。

ところが、普通の日本人男性で、労組もないような中小企業のサラリーマンの俺は、

どこに行っても利益を代弁してくれる人がいない。

俺のような日本社会でのマジョリティは、必然的に無党派にならざるを得ない。

「自分で労組作れよ」とか「自分で選挙に立候補しろ」ってのは、全く非現実的だ。

そんなことする労力の余裕なんかあるわけ無いし、労働運動して会社に睨まれたり、

立候補して落選したあとの生活を考えたら、とてもそんなことできない。

今のところ、マジョリティの利益を代弁してるのは、河村たかしみたいなポピュリストか、

「日本民族の利益」を代弁してる在特会あたりのネトウヨくらいしかない。

在特会は、暴力と無根拠な陰謀論があまりにもアレすぎて支持できないけど、

ポピュリストに減税を掲げられると、自分の利益を考えれば支持せざるをえない。

石原慎太郎も、橋下徹も、そりゃ大衆に支持されるだろう。

「皆さんの税金をマイノリティに分配するくらいなら、給付を削って財政再建します」って政策のほうが、

「マイノリティを助けるために増税します」よりも受けがいいのは当たり前だ。

この言説で一番問題なのは、本来大して脅威でもないはずの一部のマイノリティばかりが競合相手として強調され、本当に重要な「日本人男性で、労組もないような中小企業のサラリーマン」同士、或いは労組を組織することを妨げ、「自分で選挙に立候補」することを非現実的にしている世間との競合というという要素が完全に抜け落ちていることだ。
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 ▼(1)競合相手のすり替えによる希望の製造

もしこの者の生活水準が落ちているとするなら、それは日本経済が国際社会の中で競争力を失っていることだったり、この者自身が社会的競争力を失っていることこそがその主たる原因だろう。つまりそれは、この者が社会的趨勢というマジョリティが作った一般的枠組みの中で、それも主に一般的属性を持った者同士の競争において優位に立つ能力がないが故のものであり、一部マイノリティとの競合のせいではない。もちろん職に就けない人からすれば、障害者枠や外国人労働者というのは競合対象にもなりえるが、この者は既に職についているのだから、それらは主な競合相手にはなりえない。それに、もしこの者の生活水準が下がるベクトルに乗っているのなら、自身が貧困者になる可能性も十分あるわけで、にもかかわらず貧困者の立場の代弁や生活支援を敵としてみなすのは全く理にかなっておらず、自分で自分の首を絞めているのも同然だ。

要するにこの者にとってより大きな脅威となっている競合相手は、自分で立候補したり、労組を作ったり労働運動をすることを妨げる会社であったり、それを忌まわしいもの、汚らわしいものとして見る世間の目だ。或いはこの者と同等かそれよりも競争力のある「普通」のサラリーマン達だ。即ちそれはマジョリティといわれる存在。だが、それでは希望は見出せない。会社や世間に立ち向かい、自分よりも競争力を持ったサラリーマン達と争って競争に勝つことは難しいだろう。社会的趨勢によって作られた枠組みの形を変えるにしても、そのためにはまず趨勢と闘わなければならない。これもやはり困難だ。でも社会(要するに自分の生活)は変えたい。

その八方塞の状況に希望をもたらしてくれるのがマイノリティだ。主要な競合相手を、立ち向かい勝利することが極めて困難であろうマジョリティから、少なくとも簡単に立ち向かうことができるマイノリティに摩り替えることで、希望を獲得することができる。それによって闘いのためのモチベーションが生まれる。あいつらさえ倒せば、きっと社会は、自分の生活は良くなるはずだ、と。この競合相手のすり替えによる希望の製造こそが陰謀論の根源であり、そして――何故ここに在特会の名が登場するのかは意味不明だが、それはともかく――くしくもここに名前の挙がった河村たかし、石原慎太郎、橋下徹といった連中は、そのすり替えによる希望の製造と頒布が上手いからこそ人気を博しているのだろう。

 ***

一般的属性を持った者同士の競合という要素がクローズアップされれば、その属性を持った多数派である自分が、同じく多数派である相手側からより明確な形で敵とみなされる可能性もまた高まることになる。政治的提案者からしても、そこで求心力を得るための対立軸を作ることは難しいし、そうなればその群れの統率を取ることもまた難しくなる。それに、競争力の無いサラリーマンがもっと良い生活をしたいと言ったところで、「自分で何とかしろ」と言って世間(マジョリティ)から叩かれることになるのは必至だ(それは自身がマジョリティでなくなることをも意味している)。そんなわけで、「普通の人(自分はマジョリティであると信じて疑わない人、或いはそうでありたいと強く願う人)」がそのリスクを避け、矛先をより安全なマイノリティに向けようとすることになるのは、まあ自然なことといえば自然なことなのかもしれない。にしても、こういうのは本当に大人の社会も子供の社会も変わらない。

 ▼(2)忖度主義

この言説でもう一つ気になるのは、仮にこの者が本当に「普通」という水準を獲得しているなら、それ以上他人に何を望むのだろう、ということだ。(二つの概念は必ずしも排他的ではないが、ベクトルとして)全ての人々に「普通」の労働環境と生活水準を、というのが社会主義で、全ての人々に言論の自由という「普通」を保障するから、後は自分達で何とかしろ、というのが民主主義。どちらも「普通」以上のものは何も保証してくれない。

前者に重きを置くなら、自分の持つ労働環境や生活水準は「普通」よりも下回っているから何とかしてほしい、と主張すべきだし、後者なら、せっかくこれだけ注目を集めることができる場所があるのだから、立候補とまではいかなくとも、先ずは自分の生活が少しでも改善されそうな政治的提案をすれば良いだろう(それが思いつかないからこういう主張をしている、ということもあるかもしれないが)。或いは、それを妨げるような状況があるならば、その状況の改善こそを訴えるべきだ。だがこの者はそのどちらもせず、ただ「普通の人」である自分の思いを汲み取り、代弁してくれる者の登場を願う思いを書き綴るばかりだ。つまりこれは社会主義的でも民主主義的でもない。あえて言うなら忖度主義といったところか。

 *祈りによる主義の貫徹*

ただ実際、この忖度主義こそが日本に最も深く根付いた一般的イズムなのではないかとも思う。というのも、例えば「もういい帰れ→分かりました→おい、本当に帰る気か、このバカもんが!!」みたいな、相手はきっと自分の思いを汲んでくれるはずだ、それができない奴は常識はずれ、というような暗黙の了解で日本社会は成り立っていたりするからだ。そしてその裏ルールの方が実際に明示された表ルールよりも重んじられていることも多い。つまり、社会的振る舞いとしての事実上の正しさが必ずしもルールとして明示されていないどころか、むしろ間逆であることも珍しくないから、結果として評価者(他者)が望むものの当てっこ、即ち忖度競争が社会的ポジションの獲得において非常に重要な位置を占めることになる。そうやって忖度を迫られ続けてきた者からすれば、相手もまた自分の思いを忖度してくれて当然だ、政治家なら一般的属性を持つ自分の思いを代弁するのが仕事のはずだ、というような思いを抱くことになるのは決しておかしなこととは言えないのではないか。

そもそも、社会主義であっても結局ポジション争いに敗れれば悲惨な目に遭うし、民主主義であっても、折衝能力のない人間は地獄を見ることになる。ではそれらの能力の無い人間は何をなし得るのか?もう祈るくらいしかないんじゃないか。多くの国ではそれは宗教的分野にお任せ、ということになるのだが、日本には大勢が共有する明示された宗教的原理が存在しない。その一方、相手の気持ちを汲み取ることを最も重んじる忖度主義では、祈りはむしろその正統的な地位に位置することになる(誰かがその思いを汲んでくれるかもしれない)。つまり冒頭のあの記事は、祈りの書き付けであり、それによる主義の貫徹なのではないかと。

しかしながら、この手の忖度主義が大手を振って歩いている以上、当然公正な競争が行われることもない。明示されたルールよりも暗黙のルールの方が重んじられることも多いわけだから(ついこの前も、まだ仕事が残っているのにサビ残もせずに直ぐに帰ったあの後輩は駄目だな、みたいなツイッターの書き込みを見た)。また、その慮りの文化に頼り続けてきた者が国際的な交渉の場で下手うったり、その暗黙の了解を逆手に取った詐欺に騙されたり、相手との内面の読み合いに溺れて精神を病んだり、企業や行政※1がルールをやぶり、そのルール破りを世間が支持する、というようなこともまた低減することはないのだろう。

 ***

まあそういう自分もまた、その忖度主義に溺れた者の一人なわけだが(ex.きっと相手は社会的にも経済的にも自分の存在に価値を感じないだろうから、他人に関わると迷惑になるし、誰も欲しがっていない自分を企業に売り込むこともできない)。感覚と意識(理屈)は必ずしも一致するとは限らないわけです。そして理屈でその感覚を払拭するのもまた容易ではない。



※1 <追記> 行政のルール破りが支持されることは余りないか。ここでは尖閣ビデオの流出が念頭にあったのだが、あれは個人だった。しかし警察などの行為は、権限を逸脱したものでもわりと受け入れられ易い傾向にあるように思う。

自意識は自己をコントロールし得ない×「自己変革」という硬直化

まるで小さな悪魔 ロシアの野生ハムスターがやたら攻撃的(動画) : フィストリア

これもまた人生、か。断定はできないが、YouTubeのコメント欄にも指摘がある通り、このハムスターは狂犬病である可能性が高いのではないか。「小さな悪魔」はハムスターじゃなくてウィルスの方。その危険性を分かっていればこんな危険な賭けはしないのだろうが、人生というのはいつも後になってからその時の状態の意味を知ることになる。その時点で知らないものを知ろうとしても、何を知ればいいのかすら分からない。知らないものは見つけられない。よって必要なことを知るための努力はできない。逆に何か有益な情報を知ったとしても、それは知ろうしたから知ったのではない(後から自意識がそういう認識を作り出すだけで)。未来を見通すことができる預言者はいない。だからこそ其々は、「自由意志による自己決定」という自意識(内部)の奇跡に頼らず、外部における蓄積と構築物によって自己の状態を支えなければならない。いや、支えられている。
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 ▼(1)自意識は自己をコントロールし得ない

ここでこのハムスターとの接触を避けることができたとしたら、それはその時そういう状態が成立していただけの話で、それは自意識のお陰ではない。逆にこの者がそれを避けることができなかったのは、そのような状況が成立していただけの話であり、自意識が未熟だったせいでも危機感が足りなかったせいでもない。

もう何度も言っているし、これからも何度も言い続けるつもりだが――我々は誰一人として自分が生まれるか否かを選択することはできない。どのような環境と資質を持って生まれてくるかも、どのような経験を積むかも、何一つ選択できない。その経験がどのような結果につながるかも分からない。それは状態が成立した後になってから意味づけされ、評価されることだからだ。そしてその意味を「過去たる現在」から先取りすることはできない。だがそれによって其々の自己の状態は決定されていく。そこに自意識の介在する余地などありはしない。つまり、自意識は常に状況の後追いであり、後からそれに意味をつけて返しているだけであり、自己をコントロールする機能なんて端から持っていない。

もちろん、意味づけによるフィードバックは自己の状態にある程度影響を及ぼすことになるだろう。だが、それによって自己をコントロールしているなどとは言えない。何故なら、そもそもそのフィードバック自体が状況の産物であり、従属物であるからだ。つまり、原理的にいって自意識は自己をコントロールし得ない。自意識の原因が状況なのであって、状況の原因は自意識ではない(――これを否定するためには、輪廻による“状況から独立した魂の継続”という条件が必要になる)。だが其々の自意識は、自らがその状態をコントロールした/し得たのだと勝手に解釈する。この状況と認識の逆転現象こそが万能感の根源。

しかし、幾ら理屈上において自意識が自己をコントロールすることは不可能であるという明白な解答が目の前に転がっていても、殆どの自意識はそれを認めたりはしないだろう。そして自意識が事後的に生み出す認識とそれによる実感の方を重んじるはずだ。つまり、自意識とは天性の詐欺師でもある。そしてそれ故――万能感を非難の的にする者は多いが、それに反し――殆どの人間は自意識が持つその天才的な詐術によって万能感を維持し、それを抱えたまま死んでいく。「危機感」だとか「甘え」だとか「精神的成熟さ/未成熟さ」だとか、そういう自意識原因論は全てその者が持つ万能感の産物だと考えていいだろう。

しかし、自意識による自己の制御不可能性という現実を意味で覆い隠して見ずに済むのならば、むしろその方が幸いだろう。少なくとも事物の存在意義を「必要」に見出すとするならば、自己の制御者であることに存在意義を依存する「自意識として私」はその存在意義を失ってしまうわけだから。そもそも、自意識が詐欺師としての能力を失ってしまう――つまり万能感が消失してしまうのは、大抵その自己が大変な窮地に陥ってしまったが故のものであり、余り望ましい状態とは言えない。

 ▼(2)自己決定という名のギャンブル

しかし、自己は己をコントロールし得ないのだとしたら、それはどのようにしてより望ましい状態を手に入れればよいのか。まあ結論から言えば全ては運、としか言いようがないのだが、今更そんな分かりきったことを言ってもしょうがないだろう。だから一つの見方を提示すると…自己は原理的にいって、己の意思によって直接自己(内部)を変えることはできない(変えたという認識を持つことができるだけで)。だが――制御は無理だとしても――自己が己を変えることができる可能性が一つだけある。それは外部環境としての「何を入力すれば何が返ってくるか分からないブラックボックス」にボールを投げ入れることだ。そしてその「ブラックボックス」からどのような反応が返って来るか、という賭けをする。外部にシステムやロジックを構築し、知識や知恵の蓄積を行うことは、この賭けにある程度の規則性を持たせ、制御しようとする試みではあるだろうが、実際のところはそれもまたこの賭けに含まれるだろう※1

なんにせよ、自己という状況はその者が生まれ持った資質と環境の組み合わせの連続性の上に成り立っているから、その一方が変化すれば自ずと自己の状況も変化する。

要するに、自己が己を変えるには、一旦外部におけるギャンブルを経由しなければならない。そして誰もが日常的に、知らず知らずのうちにこの賭けを行っている※2。だが、「人生ギャンブル」は全員が違う条件でもってそれを行っているので、統一化された定石やオッズのようなものは存在しない。しかもそれはいつの間にか始まり、いつの間にか終わっている。その繰り返し。その結果として、狂犬病らしきハムスターに噛み付かれたりもする。或いは最善の選択をしたつもりが最悪の結果に繋がったりする。それが人生。そして現代社会ではその「人生ギャンブル」によって導き出された結果を、「自由意志による自己決定」と呼んでいる

 ▼(3)「自己変革」という自己の硬直化現象

とはいえその賭けが衰退すれば、即ち「ブラックボックス」にボールを投げ入れることができなくなればなるほど、自己は今現在の状態のまま硬直化していくことになる。つまり、自己が内部の変革(ex.自意識の成熟化)によって問題を乗り越えようとする時、それはその思惑に反し、現状維持によって問題解決を図ろうとしていることになる。もちろんそういう状態が生み出されるのもまた「人生ギャンブル」の結果によるものだろう。例えば、そのギャンブルで痛い目に遭えば遭うほど、学習によってそれに手を出さなくなっていく。また、初めから負けることが分かりきっている賭けにわざわざ手を出す者はいない。だからそのような環境に身を置く者は、極力ギャンブルに手を出すまいとする。だがその傾向が余りに強くなれば、もはやその者を取り囲む外的環境がその者以外によって投げられたボールで変化でもしない限り、その硬直化から抜け出せなくなる。

恐らく日本社会のこの閉塞感というのは、社会を構成する殆どの人間がこの「自己変革」というベクトルに大きく傾いているが故の結果だろう。

例えば、「社会を変えようとするよりも自分を変えろ」と周りに主張することは、その字議上の意味に反し、実際には自己(内部)ではなく他人としての社会(外部)を変えようとする行為だ。しかしそれは、今現在の外的環境が変化するのを妨げるベクトルに力を加え、変わるはずの外部を変わらないように変えようとすることであり、つまりその主張は、個々人の外部にある環境を今のまま固定化するべきだという訴えであり、誰かに「自己変革」という硬直化を迫るための訴えでもある。要するにこの「自己変革」とは、それを感覚として内面化する側だけでなく、それを外部に訴えかける側にとっての硬直化でもある。

 ***


日本社会がこの閉塞状態から抜け出すためには、外部に今までとは異なったベクトルを持つ環境を増やし、ギャンブルの参入者を増やすしかない。先に言ったように、初めから負けると分かっている賭けに乗る者はいない。日本のシステムにおける「人生ギャンブル」はトーナメント方式のようなものが殆どで、そこで負けると後はもう殆ど「負けると分かっている賭け」くらいしか残っていない。それでも多くの者は、その賭けを「一生懸命さ」の奇跡で乗り越えようとするわけだが、やがて疲弊し、脱落していく。そうやって「ブラックボックス」にボールを投げ入れる者がどんどん低減化していき、自己は、社会は硬直化していく。これが今現在の状態。

逆に言えば、もしかしたらよい結果になるのではないか、自分も参加できるのではないか、というような思いを抱かせるようなものがそこにあれば、自ずと人は集まってくる。つまり本当に他人の変化を望んでいる者は、より多くの者にそういう外的環境を成立させるようなベクトルを持つ主張を述べ、動きを取るだろう(この方法は詐欺師にも使われるわけだが)。だがそのようなベクトルでの主張や動きが活発化したことは未だかつてない。というか、おそらくそいういう動きが見られれば、一斉にそれを叩きつぶそうとするのではないか。すなわち、日本社会は未だ大きな変化を望んだことはない。

もちろん、外的環境が変わることが、自己が変化することが其々にとって良いことになるという保証は全くない。少なくとも大枠としての環境が変化すればするほど「人生ギャンブル」における不確定性もまたそれだけ増すことになる。そしてその環境変化への不安や恐怖が硬直化を生み出す。しかし同時に、この閉塞感を何とかしたいという思いもまた沸きあがってくる。その結果人々は「自己変革」に希望を見出すことになる。つまり「自己変革」への礼賛は、自己が持つ硬直化を維持しようとするベクトルと、変化したい/させたいという意思の衝突によって生み出される現象なわけだ。



※1 このギャンブルを完璧に管理しようとしたのが共産主義だが、その賭けは失敗に終わった。そして今は共産主義の代わり資本主義に規則性を依存し、それによってギャンブルを管理すべきだという考え方が主流になっている。だがこれもまた行き過ぎれば共産主義の失敗と同じ道を辿る運命にある。というのも資本主義的価値観の下では、あらゆる物や者はすべて商品として経済的価値の測りにかけられ、それによって存在意義が判断されることになるからだ。結果、“みんな”のためのシステム(共産/資本主義)に順応できず(役に立たず)その和を乱す者(経済的にマイナスをなす者)は排除、という同じ場所に辿り着くことになる。

※2 asahi.com(朝日新聞社):橋下知事「小さい頃からギャンブルを。国民を勝負師に」

小さい頃からギャンブルをしっかり積み重ね、全国民を勝負師にするためにも、カジノ法案を通してください」と議員らにカジノ合法化を求めた。

こんな主張をなす者もいるようだが、そんなことをせずとも、全ての人間はもう既に「人生ギャンブル」に巻き込まれている。そしてそのギャンブルの結果として今現在がある。確かにこの案は一つの変化をもたらすものではあるが、ここでの「ギャンブル」とは、「胴元が客から金銭を吸い上げるより大きなシステム」のことだろう。そんなものを作ったからといって、それが多くの者にとって良い結果に繋がるとは中々考え難い。むしろそれは更なるポジションの固定化を生み出すだけなのではないか。また、ここでは心的、経済的ダメージの蓄積という条件への配慮が完全に欠如している。そもそも、勝負師になれば上手く行くという考えの根拠はなんなのか。成功する勝負師なんてのはほんの一掴みのはずだ。だからこそ勝負師なのであって、そうでなければ勝負師でもなんでもない。これでは『カイジ』における兵藤和尊の「命はもっと粗末に扱うべきなのだ。丁寧に扱いすぎると澱み腐る」という主張となんら変わらないように見える。

鳥肌ものの歌唱

Bloch: Psalms for Soprano/Poems D'AutomnBloch: Psalms for Soprano/Poems D'Automn
(2000/02/14)
BlochDelunsch

商品詳細を見る

久しぶりにブロッホのこのCDを聞いたけど、やはり Poems D'Automn における Brigitte Balleys の歌唱はほんとに神がかっている。鳥肌もの。ちょっと妖怪っぽくもあるけど、それがまた良い。能みたいな歌い方になるパートがあるのも面白い。無論、曲自体もいい(Amazon.comでちょっとだけ視聴できる)。

ちなみに、この人はこんなCDも出していたりするみたい。

シャン・ドゥ・ジャポン~フランス語で歌う日本のうたシャン・ドゥ・ジャポン~フランス語で歌う日本のうた
(2004/02/25)
バレーズ(ブリジット)バレイ(ブリッジド)

商品詳細を見る

これはこれでちょっと聴いてみたいかも。

それはさておき、このCDには他にもディーリアスを軽やかにして聴き易くしたような感じの Hiver-Printemps For Orchestra や、ドビュッシーとハンソンの合いの子みたいな感じの In the Night などが収められていたりして、内容も中々充実している。

ただ、8曲目になると急に大航海時代をテーマにした昔の映画のBGMで使われていうそうな俗っぽい感じの曲が登場。曲自体は悪くないんだけど、それまでの静謐な雰囲気がぶち壊しに(でも多分こっちのベクトルがブロッホの本分なんだろうな。ブロッホのCDはこれしか持っていないのでよく分からないが)。ソプラノもちょっとヒステリックだし。一番最後のバリトンの曲はプレミアレコーディングらしいけど、正直これはいらなかったような気が。

しかしこのソプラノの人がそうであるように、なぜクラシックの人はみんながみんなこういう型に嵌った歌い方をするんだろう。もっと素直に歌えないのか、といつも思ってしまう。ヴィブラートの入れ方がエレキギターみたいだったりするし(まあそれは他のジャンルでも似たようなものかもしれないが)。ミクにクラシックの曲を歌わせたりしている人がいたりするけど、ヒステリックでない分だけそっちの方がまだ聴き易かったりするんだよなあ。まあミクではどう頑張っても Brigitte Balleys には勝てないが。

なんにせよ、この Brigitte Balleys の壮絶かつ面妖な歌唱を聴くためだけでもこのCDを手に入れる価値はあると思う。

復讐という平等主義思想の発露

復讐というのは、感覚上における他者とのダメージの差異を改善し、均衡を取ろうとすることであり、その意味では平等主義思想の発露であるともいえる。

復讐心を捨てることができる人間はそう滅多にはいないだろう。つまりそれは、平等主義思想を捨てることが如何に難しいか、ということもまた表している。

≪競争社会≫において「人間同士」の団結なんてあり得ない

「クマがかわいそうだから殺さないで」と感じる皆さんへ - 紺色のひと

* かわいいクマは、人間にとって恐ろしい生き物でもあるということ。
* 日常的に、クマの被害に怯えて生活している方が現実にいるということ。
* 自分の命や生活がクマによって脅かされているとき、「かわいそうだから殺さないで」と言えるか、ということ。

この説は、現代社会において「人間VS熊」という構図を共有し得る者なんて実のところ殆どいない、という事実を完全に見落としているように思う。むしろ殆どの人間は、熊よりも人間に生活を脅かされる可能性の方が圧倒的に高い。なんせ、人間同士のつぶし合いとしての≪競争社会≫に誰もが身を置いているわけだから。つまるところ、大抵の人間が抱えているより身近でより深刻な問題は、「人間VS熊」ではなく「人間VS人間」という構図の上で生じている。この「かわいそうだから殺さないで」自体もまた、その構図より生じているものだろう。
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 ▼復讐と贖罪としての自然保護

人間同士のつぶし合いたる≪競争社会≫で恐怖や苦痛がもたらされたことに対する「人間」への復讐(或いは、席が空いたことへのお祝いでもあり、苦痛へのモルヒネ)が「メシウマ」。よって≪競争社会≫にメシウマはつきもの。≪競争社会≫において人間同士が本当に団結できるのは、そして他人を心から信頼できるのは、このメシウマ祭りにおいてだけだ。≪競争社会≫というのはそういうもの。

そして自然保護思想にもまた、この意味での復讐という思惑が含まれているのはまず間違いないだろう。ここでの自然とは、≪競争≫で滅ぼされゆく者という性質を帯びているからだ。つまりそこで自然を滅ぼす者は、≪競争≫で「我々」に苦痛や恐怖をもたらす復讐対象としての「人間」でもある。と同時に、誰もが「人間」に淘汰される危険性を抱えている一方、自らが他者を滅ぼしているという側面もまた併せ持っている。自然保護は、その罪悪感より生まれる贖罪としての側面もまた持ち合わせている。

 ***

要するに、普段からお互い熊以上に生活を脅かし脅かされしている関係性を持つ者同士の間で、「我々人間」の生活を守ることこそが重んじられべきだとする主張を唱えるのは、どうも無理があるのではないかと。

まあこれは、自分が≪競争≫に敗れてもうすぐ自己責任で「人間」に滅ぼされる立場にいる者だからこそ、そんな風に考えてしまうということもあるのかもしれないが。

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プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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