ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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自己愛とナルシズムに支えられる人間の存在価値×状況分断による不可視性

未来に行われる行為の是非を価値の測りに掛け始めると何も言えなくなるし、何もできなくなる。予め何らかの価値が担保されている発言や行為などというのは、ごく一部に限られているからだ。つまりそこではそれが、予め価値が担保されたものだけの特権になる。そして無価値なものは必要ない、そんなものは他人に迷惑が掛かるだけだ、という一般道徳に従って何もしないでいれば、その人間の価値は無価値のまま固定されることになり、その存在意義自体もまた社会的に否定されることになる。
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そもそも、「人間」を商品として“人間の外から”それを見た場合、「人間」の価値を担保するものは何も無い。よって価値を主軸とする一般道徳からすると、やはり価値を持たない「人間」はさっさと滅んだ方が良いということになる。もちろん「人間としての私」にとっては「人間(自己)」の価値はあるかもしれない。しかしそれは正に人間社会一般において忌み嫌われている自己愛そのものであり、世間の常識に従ってその自己愛を否定するならば、結局「人間」は存在すべきではないということになる。つまり、「人間」の存在意義を無条件に肯定する「神」を持たずに「人間」の存在を肯定する者は、それだけ強い自己愛を保有しているということになる。

 ▼(1)社会という名の鏡~自己の社会的評価確認というナルシズム

だがこの「自己愛」を、一般的にはそれと同等のものとして用いられている「ナルシズム」に置き換えてみると、また別の見方が出てくる。

ナルシズムというのは単なる自己愛とは違う。それはむしろ、何らかの限定的な条件の元でしか己を肯定することが出来ない状態と言った方が適切だろう。例えば髪型を気にしてしょっちゅう鏡を覗き込んでいる人がいたりするが、あれは自分の髪型が少しでも乱れればそれによって自身の価値もまた低下するのではないか、という不安に駆られ、何度も髪型を確認しているわけだ。もっと極端な、鏡に映った自分の姿に見とれるようなタイプにしてもその根本は同じこと。それは、その者の存在意義を支えている容姿を度々確認し、それによって己の存在意義を確認せねばならないような切迫した不安感を持っているが故のものだろう。だが自身の存在意義を容姿になど依存していなければ、そもそもそんなことをする必要はなくなる。

実際、己の存在意義について容姿に最も大きな比重を置いているタイプの人間は余りいないだろう。大抵の人間は、社会/世間という鏡に映った己の姿、即ち社会的評価に存在意義の大部分を依存している(髪型を気にするのも、本来はこちらの理由からだろう)。私は社会の役に立っている、私は社会に認められている、私は皆から好かれている、だから私は存在してよい、というように。だからこそ、多くの人間は世間の評価を気にせずにはいられない。つまり、社会的評価を気にせずにはいられなくなり、不安になってそれを確認するその行為こそが、鏡を覗き込む行為そのものなわけだ。そして社会的評価を得ることを目的とした動きは、ナルシズムに端を発する動きだと言ってよいだろう。そう考えた時、現代日本人の殆どは四六時中鏡を覗き込み、その鏡に映った己の姿に左右されていると言っても過言ではない。

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社会から否定されてなお、己の存在を誇り続けることができる人間はそう滅多にはいまい。また日本において、「人間」の存在意義を無条件に肯定する「神」を信仰している者もそう多くはないだろう。そうである以上、必然的に存在意義が持つナルシズムへの依存度はそれだけ大きくなる。よって自己を肯定するにせよ否定するにせよ、大抵はナルシズム・モデルによってそれがなされている。

とはいえ、「行為の是非を価値の測りに掛けると何も言えなくなるし、何もできなくなる」わけで、なんにせよ、まずは火種となる無価値な動きが必要だ。無価値なものは存在すべきではない、それは他人に迷惑になるだけだ、という一般道徳を打ち崩すことができる程度の、無条件の自己愛が。その自己愛が無ければ、価値は、存在意義は生まれ得ない。

 ▼(2)自己愛とナルシズムの躍動としての就活

つまるところ、多くの日本人の存在意義は、無価値な自己を肯定することで価値の火種を作る自己愛と、その動きに対する社会的評価の確認とそれへの依存であるところのナルシズムによって支えられている。そうである以上、それらに端を発する動きというのは珍しいどころか、むしろ非常に一般的なものであると言える。この社会は自己愛とナルシズムで溢れている。

とりわけ就職活動などは正に自己愛とナルシズムの試練と言ってよいだろう。その時点では無価値なはずの自身の動きがいずれ価値に転化されると無根拠に信じ込むと同時に、鏡(社会)に映し出された自己と他者との比較に打ち勝って己を肯定し続ける。そしてその自己肯定が尽きるまでに何とかして新たなる依存先である何かしらの組織/集団に自身の価値を認めさせる。それが就職活動だ。つまり、世間一般で称揚されている就活とは、自己愛とナルシズムの躍動に他ならない。

 ▼(3)「異常/正常」による状況分断の不可視性

ところが、自己愛とナルシズムの躍動という内容を持つ就活がそうやって称揚される一方、「ナルシズム」や「自己愛」という表現の方はすこぶる評判が悪い。それどころか、大抵は悪しきものの代名詞(レッテル)として用いられる。尚且つそれは、恰も一部のおかしな人間のみが保有している特殊なものであるかのようにして取り扱われる。そして自己愛/ナルシズム批判は、それそのものが対象より優である自己を確認するためのナルシズムに利用される。

しかしながら前述したように、自己愛やナルシズムは誰も保有しているものだ。よってそれを問題化するなら、其々がどのような自己愛やナルシズムによって支えられ、生活を送っているか、ということが問われなければならない。またナルシズムというのは、外部に鏡となるものがなければ成立せず、一個人の内部だけでは生まれ得ない。つまり、「ナルシズムという状況」は個人と社会的環境(それを取り囲む不特定多数の個々人)とのコラボレーションによって形成されている以上、その「状況」からある特定個人や特定行為という一部分だけを切り取ってそこだけを調べてみても、確かなことは分からない。もし本当にそれを調べようとするのなら、それらがお互いにどのように繋がり合ってそのような状況を作り出しているか、ということを見なければならない。つまりそれを調べるためには、一方の側を見るだけでは駄目で、双方の側が観察されねばならない。そしてこれは別に自己愛やナルシズムだけに限ったことではなく、他の様々な事柄にも言えることだろう。

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だが実際にはそれがなされることは滅多に無い。大抵はその状況に、社会的・印象的趨勢が作り出した「異常/正常」という名の線引きがなされ、それによって分断された部分としての「異常者/異常行為」だけが観察され、研究される。例えばDSM分類などは、予めその線引きによって「異常/正常」で分断した上で、その分類が行われている。だが、もし人間を型によって分類するのならば、あらゆる人間の特徴を網羅し、分類しなければならないだろう。そもそも、そこで確認される「異常性という状況」は、「正常者」との繋がりによって初めて形成されているものである可能性だってあるわけだ。つまりそこで分類から漏れた「正常者」は「異常性という状況」の一部である可能性がある。だが、「異常/正常」モデルに頼って観察している限り、その内容は決して観察されることはない。そして結局それは、「自己愛」や「ナルシズム」と同じように、内容ではなく、良し悪しのイメージを伴ったレッテルとしての部分だけが剥ぎ取られ、単なる貶めやナルシズムのための道具として用いられてしまう。そしてそのようなレッテルを貼り付けられた人間が存在意義をナルシズム・モデルに比重を置いた形で獲得していた場合、その者は己の存在を否定しなければならなくなる。

要するに、「異常/正常」の線引きによって分断された「状況」の片鱗であるところの「異常者/異常行為」は、視姦のごとく観察・研究され続けてきた歴史がある一方、その線引きによって分断されたもう一方の側である「正常」が持つ内容は、未だに詳しく観察されたことも研究されたこともないという現状がある。そしてそうであるが故に、人々はそのような観察対象となることを恐れ、「普通」という名の聖域に逃げ込もうとする。そして上手くそこに逃げ込むことができた人間の多くは、一方的観察者として振舞う。そういった「異常/正常」による状況分断の不可視性という問題がある。所々でその都度形成される、そういった「正常(普通)」という名を持つ聖域は、この世界に残された最後のフロンティアなのかもしれない。
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人は幻想に溺れることでしか生きながらえることはできない

釣り - Wikipedia

* 釣り(電子掲示板)

インターネット掲示板で議論を盛り上げるために他人が憤りそうな話題をわざと出すのを「釣り」という例もある。逆に、発言自体は釣りではないのに、「釣り」のレッテルを貼って、その発言を無効化させる用法もある。

「インターネット掲示板で」とあるが、「他人が憤りそうな話題をわざと出す」ことで成り立っているのは何もネット掲示板だけに限ったことではなく、テレビや雑誌、新聞のようなものから、はたまた井戸端会議のようなものも含めて、それはあらゆるメディアに共通した事柄だろう。そして次はそこで生み出されたレッテルや盛り上がり方に対する対抗言説が出てきて、闘いが始まる。殆どのメディアはそういうある意味空虚でマッチポンプ的な活動によって生きながらえている。そしてその煽りや闘いで人の目を引く事ができなくなると、そのメディアは社会的な死を迎える。こういったことは、「他人が憤りそうな話題」を「他人を煽り立てる話題」と読み替えるならば、殆どの商品やサービス、思想体系にも当てはまる。

冷静になって考えてみると、こういった動きは実にバカバカしく思える。しかしながら、こういう「釣堀」で大漁旗をはためかせることができるからこそ資本主義は、そして社会は回り続けることができるという側面もある。そこで売り文句として用いられている効用が本当に得られるのか、それは本当に事実に即しているのか、或いはそこで述べられた大儀は本当に筋の通ったものなのか、という判断に対して多くの人間が本当に厳密な目を持ち始めると、人や物の動きは停滞する。何故なら、世の中には建前と内容が一致した活動やサービス、政策、規範などというのはそう滅多には存在しないからだ。そして人や物の動きが停滞すると、経済もまた停滞する。

結局のところ、人間社会においては、そこで説明された事柄が実態に則しているか否かなどということよりも、如何に活動を活発にし、それを持続可能にするか、ということの方が重んじられる。「生きる意味」は生まれる前には存在し得ないのと同じように、大儀があるから活動があるのではなく、活動が生まれるからこそ大儀が生まれ、むしろその活動を守るために大儀は――内容的にではなく、体裁的に――守られる。

しかしその出鱈目性が認識され、その不当性に囚われ始めると、活動を持続させ、状態を維持することは難しくなる。個人的にも社会的にも。つまり人間は、幻想に溺れることでしか生きながらえることはできない、そういう性質を持っている。

 ▼「釣堀」に穴を開ける行為

多くの社会問題はその幻想と実態との齟齬から生まれてくる。故に、それらの問題と向かい合うためには、その幻想に切り込まなければならない(別にそれと向かい合ったからといって問題が解決するとは限らないが)。だがそれは、既存の「釣堀」に穴を開ける行為でもある。だからこそそういった行為は忌み嫌われ、阻害される※1。そしてその阻害には、「幻想に溺れることでしか生きながらえることはできない」という人間の本質が関わっている。

実際、既存の「釣堀」に穴を開ける行為を行った人間もまた、別の「釣堀」に馴染むことができなければ生きていくことはできないだろう。自己が持つ状態の内容を建前と一致させようとすればするほど、その者の生命の存続自体が危うくなる。このことは、その人間が生き残ることができるか否かを分け隔てる一つの重要な鍵となっているように思う。



※1 その阻害は大抵、問題を個々人の問題解決の意欲の強さに置き換えることによってなされる。つまり、問題は既に解決しているのだが、其々の精神的未熟さ故に問題が生み出されている、というようなような形でそれはなされる。こういった、自己の状態は己の自由意志によってコントロールされている、という自由意志幻想は、近代以降の人間社会における最も一般的で、最も強靭な幻想と言っていいだろう。

来たれ、ローレンス二等兵、もしくはチャールズ・ホイットマン

Togetter - 「ニートとホームレスの実態の深刻さ」

やっぱり徴兵制が必要なのかもしれないね。2年間くらいぴっちり扱いてる間に精神疾患とかある子もそれを乗り越えたりするだろうし、乗り越えられなかった子は残念な結末を迎えていなくなるでしょ。そうすれば社会への負担は何も残らない
ss11223 2011-01-18 23:54:56

それ、徴兵制やない、戸塚ヨットスクールや。しかし、こういう提案をする人というのは、一体どこまで底抜けにポジティブなんだろう。自分はこの手の発言を目にするたびに『フルメタル・ジャケット』を思い出す。
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 ▼(1)信頼関係の欠落した「鍛錬」は外敵からの攻撃でしかない

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子供の頃この作品を見た時は、なぜわざわざ訓練所卒業の前日にもなって、ローレンス二等兵があの鬼教官を殺したのかがよく分からなかった。というのも、彼は訓練によって優秀な射撃主に生まれ変わり、最終的には鬼教官からも認められることになるからだ。しかし大人になってからそれを見た時、その意味がハッキリ分かった。それは、そもそも彼を生まれ変わらせる動機が復讐だったからだ。

 ***

ローレンス二等兵は訓練所に召集されて早々に鬼教官に目を付けられ、精神的、身体的に様々な方法でしごきを受ける。やがて訓練に付いていけない彼がミスをする度に、鬼教官は連帯責任として他の訓練生達に罰を科すようになる。それによって彼は益々疎まれるようになり、他の訓練生達全員からリンチを受けることになる。彼の補助役を負かされ、それまで懇切丁寧に手ほどきをしていた者までもがそれに加担する。

そんな四面楚歌な日々を送っていたある日、彼は鬼教官の講義に釘付けになる。そこで行われていたのは、テキサスタワー乱射事件におけるチャールズ・ホイットマン(元海兵隊)の優れた射撃術を例に取り、「目的を持った海兵が銃で何ができるか」――つまり鍛え抜かれた海兵隊が如何に凄い能力を発揮することができるか、ということを伝える講義だった。その日から彼は徐々に生まれ変わる。

そして卒業式を控えた前日、彼は銃で鬼教官を撃ち殺す。そう、彼はアメリカ合衆国のために生まれ変わったのではない。復讐のために生まれ変わったのだ。そして鬼教官を殺害することで、「目的を持った海兵が銃で何ができるか」を証明した。

しかし彼は結局優秀な海兵隊員になることはできなかった。それは単に彼が軍の規律を破ったから、ということだけではない。

どんな綺麗な大儀を掲げようと、結局のところ、最低限の信頼関係が欠落した間柄で行われる鍛錬の押し付けは、それを受ける側にとっては外敵からの攻撃でしかない。そして「敵」を殺す訓練をするのが軍隊だ。何故軍隊は人を殺して良いのか。それは相手が「敵」だからだ。そして「敵」の死体を沢山積み上げてこそ優秀な兵士と言えるだろう(もちろん優秀さに関しては他にも様々な指標があるだろうが、これは軍隊が持つ一つの普遍的価値でもあるだろう)。

もし彼が兵士として本質的に優秀であったならば、鬼教官だけではなく、リンチを行った訓練生達全員を、つまり「敵」を出来るだけ沢山殺害し、死体の山を積み上げたことだろう。しかし「俺はもうひでえ糞だぜ」というセリフからも分かる通り、彼にとって兵隊であること――即ち「「敵」だから殺す」――は本望ではなかった。そのため、鬼教官一人を殺害して最低限の目的を果たした後、彼は自殺する。

 ▼(2)「死ね」と言った相手からの貢献を期待する奇妙

さて、再び冒頭の発言に戻る。冒頭の発言では、「社会への負担は何も残らない」とあるが、社会というのは趨勢の側だけを指すのではない。趨勢に収まらない者達も含めてそこで初めて社会だ。つまりここで用いられている「社会」というのは社会のことではなく、「私の理想とする社会」のことであり、もっと言えばこれを述べた者自身のことであると言ってよいだろう。そして「2年間くらいぴっちり扱いてる」という部分では、双方の間における信頼関係の構築が全く無視されているのは言うまでもない。

さらに、「乗り越えられなかった子は残念な結末を迎えていなくなるでしょ」とあるように、そこでは実質的に、苦役を負わした末にそれでも自身の思い通りにならない人間は死ね(徴兵制で「いなくなる」はずもない)、と言うのと同じ意味の事柄が述べられている。そしてそれと同時に、それを実際の政策として実現させた方がよいのではないか、というような提案がなされている。

この発言だけに限らず、この手の問題において持ち出される徴兵制論の実体というのは、大抵このようなものだろう。

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しかしこの徴兵制論は実に奇妙だ。

というのも、「最低限の信頼関係が欠落した間柄で行われる鍛錬の押し付けは、それを受ける側にとっては外敵からの攻撃でしかない」わけで、その計画が信頼関係の構築を無視した前提で成り立っている以上、内容的には単なる対象への攻撃でしかない。つまり、特定の属性を持つ者へ攻撃をもくろみ、「死ね」という意味を持つ言葉を投げ付け、そして実際に「死ね」という状況を作り出すことを提案した者が、その対象に対して、自らへの貢献を期待している。

当たり前のことだが、誰かを攻撃したならば、当然その対象から「敵」と認識され、反撃を受ける可能性がある。そして「死ね」という状況を相手に提供するならば、「お前の方が死ね」という反応が返ってきてもなんらおかしくはない。だが、ここではそれらの可能性が一切忘却されてしまっている。それどころか、攻撃を加え、「死ね」という内容を投げつけたその相手の反応が、自身にとって都合の良い人間に生まれ変わるか、もしくは消滅するかの二択しか想定されていない。

 ▼(3)「敵」に「敵」を制圧/殺害するための訓練を行わせようとする奇妙

それだけでも十分奇妙なのだが、さらに輪をかけて奇妙なのは、そのような相手に対し、「敵」を征圧し、殺害するための鍛錬を積んでもらうおうとしていることだ。だが、自らが唱える、じゃまな奴は死ぬべきである、というような「社会」の常識に同意し、「敵」だから殺しても良い、という軍隊が持つ本質的価値を規範として受け入れた者が、それに準じた行動を取ったならどうなるだろう。そこで学んだ知識や技術を存分に生かし、「敵」である「社会」に反撃してきたら?

それがローレンス二等兵のような本質的に兵士に向いていないタイプだったらまだよい。一人一殺で済むわけだから。しかしそれが冒頭の人物のように、自分の役に立たない人間は死ね、というような思想を持っている者だったなら、そしてそれがチャールズ・ホイットマンのように本質的に兵士としての優れた資質を持っている人間だったとしたら、目も当てられない。

だがここでは、そういった当然予測されるべき可能性の数々が、一切消し飛んでしまっている。この手の徴兵制論は、そういった底抜けのポジティブさによって支えられている。

 ***

――いや、まあ確かに、実際日本人の多くは世間(社会的趨勢)を内面化し、心身共にそれによって形成される「正しさ」の奴隷になってしまっているため、その多くは「死ね」という状況を世間から突きつけられると、反撃もせず、勝手に「いなく」なってくれるという実情もあるわけだが。しかし、幾ら何でも日本はちょっと自殺という現象に社会計画を依存しすぎだろう。

REAPER3/トラック・テンプレート機能

REAPER3には、トラックの設定をテンプレに保存して好きな時にそれを読み込むことができる機能が付いている。これを使えばその都度設定をしなくとも、一度テンプレとして保存さえしておけば、良く使う設定をトラック単位ですぐさま呼び出すことができる(複数のトラックと関係性を持ったセット物も保存可能)。
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例えば、二つのトラックを作り、其々にMid/Sideを割り振るテンプレを作る場合を例に取って説明してみると…

・まず二つのトラックを作り、Tr1にMid、Tr2にSideと名前を付ける。

・Tr1に「bx_solo」を読み込ませ、Mボタンを点灯させる。

track_temp2.png

・同じくTr2にも「bx_solo」を読み込ませ、Sボタンを点灯させる。さらに、REAPERに付属している「channel mixer2」を読み込ませ、「right phase」を「invert」に設定。



track_temp3.png

・Tr1のIOを開き、「Sends」でSide(Tr2)を追加し、「Pre-FX」にチェックを入れる。これでTr1にステレオ・ファイルを読み込ませると、Tr1と2に其々MidとSideの音が割り振られる。

track_temp4.png

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↑ここまでが、Mid/Sideを割り振るためのセッティング。
↓ここからがトラック・テンプレート作成手順。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

・そしてこうして出来た二つのトラック(テンプレにしたいトラック)を選択し、右クリックから「Save tracks as track template」を選択。

track_temp5.png

そうするとテンプレートの保存画面が表示されるので、適当な名前を付けて保存。

track_temp6.png

・後はトラックコントロールパネル(TCP)上で右クリックし、「Insert track from template」から作成したテンプレを呼び出せば、いつでも簡単にMid/Side分離トラックを作成することができる。

track_temp7.png

 ***

M/S処理はイコール音圧を上げるためのものであるかのような扱いを受けることが多いが、実際にはむしろSide成分を削って圧迫感を解消するために用いられることの方が多いように思う。例えばGarritan Steinwayにおける「under the lid」の音色なんかは、そのままだとかなり圧迫感があって使いづらいため、そのような処理が非常に重要になる。なんせ、弦の目の前にマイクを置いて録音しているわけだから。

そんなわけで、この機能を使えばM/S処理付きのプラグインを持っていない人でも簡単に分離処理ができるので、M/S処理は邪道、みたいな偏見を持たずに、気軽に色々試してみてもいいんじゃないかと思う。まあそれで不自然な音になっても当方は一切責任は負わないが。

霜焼けの悪化

右足踵の霜焼けが悪化して中々直らない。

去年も同じような症状が出て、その時はもう踵の大部分がかさぶたになり、膿んでどうしようもなくなってから病院(皮膚科)に行った。それがあったので、今回は年末の症状が出始めた頃に直ぐに病院に通い始めたのだが、結局症状は改善せず、また前回と同じように悪化してきた。

こんな風に(グロ注意)
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今回は両足に症状が出て、最初は左の方が腫れて症状が重かった。ところがその左足がようやく治ったかと思うと、今度は右足の前回患った部分にまた症状が出始め、その後はもう悪化する一方。前回の跡もモロに残っていたし、一度患った部分というのは弱ってクセになるんだな。前回は飲み薬と塗り薬によって直ぐに症状が改善し始めたと思ったが、アレはもう三月頃で、ちょうど寒さがなくなり始める頃だったから、それも関係していたのかもしれない。

病院では「ちゃんと対策を取らんと何度でもぶり返すで」と言われたが、寒いんだからどうしょうもない。いちおう石油ファンヒーターを付けてはいるが、経済的な配慮から設定は一番低くしているため、室温は大体11℃くらい。とにかく着込みまくってるので、それほど寒いということはないのだが、足だけはどうしても冷える(靴下を二重に履いて、履くタイプの薄手のスリッパを履いて、その上からさらにユニクロのふかふかスリッパ履いているのだが)。

運動した方がいいとも言われたが、患部が足なので歩けないし、靴を履くのも難しいため、出来ることは限られている。というか、そもそも二日続けて長距離を歩いたことが切欠になって症状が出始めている(前回もそうだった)わけだから、余り長距離歩くというのもまた危ない。いちおう片足づつ(片足だけではなく、一方を曲げて一方を伸ばすタイプ)のスクワットを40回(片方20回)、その他幾つかちょっとした運動を組み合わせたものを二セットだけやっているが、もっと増やした方がいいのかねえ。余りやりすぎるとヒザを痛めそうな気もするのだが。だが今はかさぶたが靴下に引っ付いて剥がれ、クレーター状態になってしまったので、その程度の運動ですら難儀する。

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しかし霜焼けというのはこんなにも悪化するものなのだろうか。いちおう病院に行く度に「本当にこれはただの霜焼けなんですか」と訊いてはいるのだが。医者が言うには、冬だけ、特定の部位だけというのであればそうだと言うのだが。「あなたの場合ものすごく血行が悪い」らしい。まあ確かに子供の頃はよくアカギレなんかになったりしたものだが。

にしても、こういう身分だと中々病院にも行きづらい。経済的にも精神的にも負担が大きい。多分それで病院に行けずに症状を悪化させて死んで行った人間も結構いるんだろうな。

普通という状態を失うと、痛みが無いとか、或いは歩いたり走ったり、誰もが当たり前にできることができるというのは、それだけで凄く恵まれた状態だということが良く分かる。しかしその普通を維持することこそが難しい。これは社会的な問題についても言えることだけど(――野生の動物なんかは、ちょっとした怪我が即死に繋がったりする。つまり「普通」というのは実はかかなり環境的に恵まれた状態にあることを意味する。そしてその状態の獲得は、個々の力による結果ではない。そういった環境的恩恵を受けられない他の動物は、そういう状況に追い込まれると、いくら各々が努力を尽くしても、結局そのまま死んで行く。そしてそれは人間という動物にも言えることだろう。つまり個人の努力が個人だけの努力であるうちは、いくらそれを尽くしても良い結果には繋がらない)。

権威主義は無知者の知恵

 ▼(1)内容よりも、立ち位置や属性ばかりが話題になる

Togetter - 読売:山崎正和氏「ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある」

2011年1月10日 読売新聞朝刊
日本の改新 識者に聞く 山崎正和氏

もう一つ心配なのが、大衆社会がより悪くなることだ。ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。これが新聞や本の軽視につながり、「責任を持って情報を選択する編集」が弱くなれば、国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある。

「今日の読売新聞の一面社説は最低」というのがRTされまくっているけど、文章で検索すればわかるけどこれ劇作家の山崎正和氏のインタビューじゃん…。読売のサイトを見れば、今日の社説は成人式の話だってわかる。山崎氏の発言が実証されちゃっている http://bit.ly/dJn5zf 
kanose 2011-01-10 15:24:49

ここで重要なのは、その問題提起の内容自体がどうであるか、ということであって、それが「社説であるか否か(より強力な権威を持っているか否か)」は瑣末な事柄だろう。そしてある情報に何かしら誤りがあれば、ただそれが誤りであると伝えればよいだけであり、わざわざ誤った情報を流した者達を見下したりする必要など全くない。

さらに言えば、新聞のように何重にもチェックが入った刊行物でさえ、誤った事実を報じてしまうことは多々あるわけで、この一つの間違いをもってしてネット/大衆社会の知的低下――そもそも、今より知的水準が明らかに高かった時代なんて本当にあるのか?単に今まで見えなかったものが見えるようになっただけなのではないか――が実証されることになるのなら、新聞もまた、遥か以前から既に知的低下を招いていたことになるだろう。むしろこういった間違いを犯すことよりも、(もちろん、誤りが発覚した後にどのような対応を取るかは重要だが)そういったちょっとした間違いをあげつらい、その対象に烙印を刻み付けようとする風潮の方こそが、人々の思考や関心の在り方を狭め、硬直化させる大きな原因となっているのではないか。

Togetter - 「東浩紀氏らの、『山崎正和』評」

山崎正和氏は、サントリー学芸賞をいただいた縁でいくどかお話したことがあるが、たいへんに見識のある、しかも柔軟な方だと感じた。だから、読売新聞談話の一節だけ取り上げて叩くって、ネットの連中はじつに愚かだと思う。本当の敵と「味方になってくれるかもしれないひと」の区別がついてない。
hazuma 2011-01-12 13:19:12

個人的な相性の良さや感じ方を根拠にして「だから」と言われても納得のしようがないし、そもそもここで問題とされているのは山崎氏のパーソナリティではなく――いや、中にはそれを問題としている人もいるかもしれないが――、発言の内容についてだ。よって、もしそれに対してなされた発言に何か問題があるのだとすれば、その発言のどこがおかしいかを指摘すればよいだけのことだろう。それを、知的訓練を受けた/行う側の人間――この発言は大学教授としての肩書きを持つ人物によるもの――が、身びいきする側への批判を十派一からげに「ネットの連中」とひとくくりにした上で、内容的な批判によってではなく、「じつに愚か」などとレッテルを貼ることによってお手軽に糾弾してしまうのならば、それはむしろ山崎氏が唱える主張の正当性がかなり疑わしいものであることを示す一つの事例にしかならない。

大体、ここで言う「味方」というのは一体何の味方なのだろう。ネット上の連中の発言は信用できない、とネット上に書き込む人達が沢山いることからも分かるように、ネットは一枚岩でもなんでもないし、それは新聞やマスコミとて同じことだろう。つまり、「ネットvs新聞(識者)」などという対立の実体なんてのは、端から存在していない。

 ***

この例がそうであるように、何らかの主張が話題となった時、その内容自体が人々の興味の中心になることは滅多にない。それよりも、「ネットvs新聞(識者)」のように、元々存在しない妙な対立軸が作り出された上で、その「どちら側につくのか」や、その主張は敵によるものなのか味方によるものなのか、そしてどうすれば敵により大きなダメージを与え、どうすれば味方を増やすことができるのか、といったことばかりが焦点になることが多い。或いは、主張の内容それそのものよりも、それがどのような属性や肩書きを持つ者によってなされたものであるか、ということばかりに注目が集まることが多い。

そしてそのような印象に基づいて敵/味方の判別がなされると、先ほどの「じつに愚か」のように、批判の内容云々以前に、味方側に対する批判自体を予め封じ込めようとするような力が働き始める。社会全体の知的水準を憂えるなら、むしろこういった属性主義や内容をそっちのけにした二分法に陥ってしまいがちな風潮こそ問題にした方がよいのではないか。

 ▼(2)権威主義は無知者の知恵

で、冒頭の山崎氏の発言について見てみると、やはりこの主張は妙だ。というのも、彼は大衆社会の知的低下を憂えているにもかかわらず、権威主義を前提とした社会を形成し、それを維持することの必要性を唱えているからだ。しかし、そもそも権威主義/属性主義というのは無知者の知恵であり、知的なものとは相反するベクトルのものだろう。

ある事案に対して適切な知識や判断力、分析能力を持たない者は、それに対して積極的な評価を下すことができない。その場合、その者にとってはどちらに付くか、ということが問題の焦点になる。そしてどちらを選ぶことがより適切であり、自身にとって望ましい結果に繋がるのか、というギャンブルに身を投じるしかない。となれば、大抵の者はできるだけ優位な方に賭けようとするだろう。そしてその優位性を見分けるために、属性や肩書き、経歴などから生み出される権威性が利用される。要するにこれはギャンブルに身を投じる人々が「当たる」確立を少しでも上げようとするための一つの知恵なわけだ(と同時に、有限なリソースを節約するための知恵でもある)。

だが、権威というのはイメージによって支えられているものであり、同じ対象であってもそれにどのようなイメージを抱くかは、其々が獲得した経験や感覚によって異なってくる。つまり、権威主義とはイメージ主義であり、個人的な感覚を根拠とした物事の判断方法でもある。

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イメージによる誘引力や拒否反応を完全に払拭することはできない。全ての事柄に精通している人物もまた存在しない。直感が契機となって定説が覆される場合もある。それ故、イメージによる判断を完全に否定することは出来ない。とはいえ、そちらにばかり偏りすぎると危ういのは言うまでもないだろう。人間の持つそういった性質を積極的に利用して人を騙くらかそうと手ぐすねを引いている人間もいるし(というか、それを利用しないと資本主義は回らない)、実体とは全く乖離した方向での動きが取られる可能性もまた高まるわけだから。一方、無知な人間はおとなしくエリートの言うことを信じていればいい、その方が上手く行く、という考え方もあり、確かにその方が良い場合もあるので、どちらかが絶対に正しいとは言えないが、少なくともそのような偏りを帯びた状態が知的であるとは言い難い。つまり、もし大衆の知的低下を問題視するのなら、むしろ先ずはこういった権威/属性主義的偏重をこそ問題にしなければならない。

今回の騒動の在り様にも、権威主義的背景が少なからず関わっているのは間違いないだろう。権威であるというだけで信じてしまう人もいれば、権威であるというだけで批判する人もいる。また、それが権威としての強い力を持っていればいるほど、その影響力も大きくなり、その影響によってダメージを被った人々から恨みを買う可能性も高くなる。そしてその権威に一泡ふかしてやろうという動きが出てくる。だからこそ、「社説か否か」が問題の焦点になったりする。もし新聞が完全に権威を失っていたとしたら、「まあ新聞だから」として大した話題にもならないわけだから。つまり、これは山崎氏の主張が「実証されちゃっている」というより、むしろこういった騒動は彼の望む大衆社会にとっては付き物であると考えた方が適切だ。

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――にしても、これが「マスコミが権威を持つ」ではなく、「マスコミが信頼される」であれば、こんな風に紛糾することもなかったんじゃないだろうか。もしこれがネット上で行われた主張であり、それが単なる言葉尻の問題であったとするなら、直ちにそれを訂正するという手もあったのだが。テレビなどでもそうだが、ある情報が大々的に報じられ世間に周知された後になって誤りが発覚し、その後それを訂正はしたものの、その訂正の方は全く世間に届いていなかった、というのはよくある話。そうやって広まったデマや偏見がそのまま常識として定着してしまった、というような事例も数多くあることだろう。そこら辺はテレビや新聞が持つ一つの大きな弱点と言えるかもしれない。

REAPER3のIO画面のバグ

かねてから、REAPER4が発売されたら製品版を購入しようと思っているのだが、中々リリースされない(アルファ・バージョンは既に出ているが)。公式ページには年末か年始にリリースされる予定と書いてあるが、未だに3.74なので、予定よりもかなり遅れるのかもしれない。
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でまあ、そんなわけで痺れを切らして取り合えず3.74を入れてみた(30日は無料で使える)ところ、どうもIO画面の表示がおかしい。

ReaperBug1_IO.png

こんな風に、画面が途中で欠けていて見えない部分がある。これは不便。v0.999ではこんなことなかったのに。

あと、midiファイルを読み込むと文字化けする部分がある。

ReaperBug2_moji.png

姫rogram。

フォーラムが活発でアップデートも頻繁に行われるため、そこで報告がなされたバグも比較的早く改善される可能性が高い、というのがREAPERの持つ一つの大きな強み。なのになぜ、未だにこんな派手なバグが残っているのかと思ったら、どうもこれらのバグは日本語環境特有のものらしい。ということは、このことを書き込む日本人が誰もいなかったということか。日本には英語ができる人も、ああいう場所に積極的に参加する人も少ないからなあ。REAPER使用者みたいに母数が小さければ尚更のこと。

 ▼PayPalかFastSpringか

ところで、REAPERの購入方法はPayPalとFastSpringの二種あるようだが、これは一体何が違うのだろう。FastSpringは国によって税金が掛かる可能性があると書いてあるようだけど、表示が日本語で、料金が幾らになるか直ぐに表示される。去年の年末にIIEQProを買ったときは、これしか購入方法がなかったので、これを利用して買った。途中でクレジットカードかPaypalかを選ぶことが出来て、そこでPayPalを選べば結局PayPalを利用することになるんだけど。Garritan Steinwayを買った時は、PayPalの取引相手はGarritan Corporationだったが、これを利用した場合、取引相手はFastSpringだった。要するに、ネット上の店舗を介して商品を購入したということになるわけか。

一方、PayPalの方をクリックすると、NoScriptを入れている場合、「XSSの可能性のあるアクセスを遮断しました」と出てPayPalのログイン画面が表示される。何となく怖いので、この処理を実行するとどうなるのかまだ試していない。まあ大丈夫だと思うけど。あと、Garritan Steinwayを買ったときは、通貨換算として¥200プラスされていたが、FastSpringとの取引の時は、履歴上この加算は無かった。これは最初に表示される価格に既にその手数料も含まれているということなのだろうか?

にしても、ネット上において、FastSpringとは一体何なのか、PayPalを選んで購入するのとどう違うのか、という情報が全くないのは結構不思議。

競争原理のパラドックス

 (1)競争原理はユートピア感覚無しには成立しない

この世がユートピアでないということを知ってしまう人間が増えれば増えるほど、競争原理は衰退していくことになる。何故なら、この世界を「頑張ればなんとかなる世界(即ちユートピア)」であると感じることができなくなってしまった者は、新しい競争へと参加することが出来なくなってしまうからだ。また、既にその者が「競争への参加」という状態を獲得していたとしても、ひとたびユートピア感覚を失ってしまうと、その者が保有する世界観の中で「競争の先にある悲惨な未来」が決定づけられることになり、やはりその状態を維持することは難しくなる(悲惨な未来のために努力する人間はいない)。よって、社会が備え持つ「人々からユートピア感覚を引き出す能力」が弱まれば弱まるほど、その分だけ競争原理もまた尻すぼみになっていく。

 ***

競争をポジティブに捉えることができるのは、「頑張ればなんとかなる」というユートピア感覚を獲得し、それを維持することができている者だけだ。競争をポジティブに捉える者がそれをネガティブに捉える者に対して、「この世はユートピアではないのだ」と言って説教※1をするような場面はいたるところで見受けられるが、そこには、ユートピア感覚で満たされた人間が、それ故にユートピア感覚が低減化した、或いは枯渇した人間を、ユートピア感覚で満たされているがために競争に積極的でなくなっているかのように言って非難するというねじれた構図がある。

要するに、競争原理を活発化させるためには、より多くの人間から「頑張ればなんとかなる」というユートピア感覚を引き出し、それを維持することができるような環境作りを行わなければならない。

 (2)競争原理のパラドックス

――しかしここには一つのパラドックスがある。

というのも、より多くの人々がそのようなユートピア感覚で満たされた時、その者達の多くは、己の意志の力と結果を直接結び付けて世界を解釈するような状態――即ち己の努力具合が自己の状態、及び(その状態を決定付けているもう一方の要因である)自己を取り巻く外的環境の在り様をコントロールしているかのような錯覚(万能感の横溢)に陥ってしまうからだ。そうなれば必然的に、社会は精神論を前提とした文化やシステムを形作る方向へと傾いていくことになるだろう。

そしてそこでは、世界は元々個人の努力でどうにかなるように出来ているのだから、各々はそれによって種々の問題に対処すればよいだけ、ということになる。より多くの人間を競争に参加可能にし、その状態を持続させることができるような環境整備などする必要はなく、むしろ個々人を追い詰め、その者が本来持っている秘めたる意志の力を目覚めさせれば自ずと競争原理は働くはずだ、と※2。となれば結局、競争原理は衰退するベクトルへと向かわざるを得なくなるだろう。

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これらのことから分かるのは――人々が競争に積極的になるためにはユートピア感覚の獲得が不可欠となる。さりとて、多くの者がその感覚に完全に飲み込まれてしまえば、社会全体における競争原理は衰退する方向へと向かう、ということだ。つまり、(その良し悪しはともかく)もし競争原理をより活発に働かせようとするならば、より多くの人間がユートピア感覚を獲得・維持しながら、認識上ではそれを否定できるような状態を作り出さねばならない。

例えば、静止画が動いて見えるような錯覚があるが、だからといってアレが本当に動いているという前提で物事を考えたりはしないだろう。ユートピア感覚に関しても、そのような理解が必要になる。



※1 この手の説教は、この世界が「頑張ればなんとかなる世界」であるということを広めるための布教活動であると同時に、それを自分自身に言い聞かせ、その正しさを再確認するための行為でもある。困窮している者は、頑張らなかったツケとして苦しんでいなければならない。――「悲劇」として娯楽化される一部の例外を除いて――頑張ってもどうにもならない者は、私達が住むこの世界には存在してはならない。何故なら、そのような者の存在は、この世界が「頑張ればなんとかなる世界」であることを否定することになるからだ。そして世界がそうであったからこそ生まれてくることができた希望や、私が一生懸命努力したからこそこの成功を勝ち取ることができたのだ、という人間としての誇り(存在意義)をも消し去ることになる。この手の説教の根っこには、そういった不安がある。

※2 こういった発想は、リンチや躾を理由とした虐待などにも少なからず関係していることだろう。

プロパガンダ広告化する日本の風景

教育学術新聞 : 教育学術オンライン 第2405号|日本私立大学協会

さて、「就職力」だが、2階建ての瀟洒なキャリア支援センターの入口には1万円の札束が山積されている。2つの札束の山がある。大きいほうが2億9000万円、もうひとつは、半分ぐらいで9120万円。キャリア支援センター事務部長の久保裕道に聞いた。
 「正社員とフリーターの生涯賃金です。このように、卒業後の現実をわかりやすく形にすれば、学生も真剣に就職に取り組むのではないか、とつくりました」。むろん本物の1万円札ではない。

最近思うのは、現実の風景が益々昔の共産主義国家のプロパガンダ広告のようになってきたなあ、ということ。
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流石に実際に札束(の模造品)の山を積み上げているような大学はそう多くはないだろうが、どこの大学でも大抵はこういった情報を学生に耳がたこになるほど教え込んでいるだろう。また、別に大学でそれを聞かなくとも、殆どの人間はどこかしらからかこういった情報を仕入れて来て、既にそれを知っているだろう。にもかかわらず、それを知っていて尚、フリーターになったり職に付けなかったりする者が出てくる、というのが問題の出発点なのだ。

なのに、今更このような分かりきった情報をことさら強調することに一体どのような意義があるのだろう。それは単なる精神論――就活に真剣に取り組みさえすれば誰もが2億9000万を手にすることができる※1チャンスがあるというユートピア――への逃避なのではないか。

そもそも、この格差が事実であるということは、この社会が一回勝負であるという事実を証明することでもある。そしてそれが強く意識に焼き付けられるということは、その勝負で負ければ後はもう少なくとも経済的にはロクな状況が待っていない、と思わざるを得なくなることをも意味するわけで、それを焼き付けられながらそこでの勝負の在り様について行けなかった人間は、その後、完全に(賃金収入という要素に関する)競争意欲を失ってしまうだろう。つまり、社会全体から見た競争原理の活性化という点からすれば、この現実の風景は、本来の思惑とは逆の最悪のプロパガンダ広告として機能しているのではないか。



※1 そもそも、正社員になったからといって2億9000万を手に入れることができる保証なんてどこにもないが。

正当性に固執すると逆に信頼性を失う

「あけましておめでとうございます」と言う人/言われる人達のうち、一体どれ程の人が本当におめでたいのだろう。
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実際に用いられる言葉は、その言葉が持つ本来の意味とは乖離した形で用いられていることが多い。同じように、実際に行われる行為は、その行為の大儀とされていることとは間逆の行いである場合も多い。よって、意味や行為の正当性に縛られ、この両者を一致させようとすると、身動きがとれなくなる。かといって、不一致に不当性を感じながら仕方がなく行為を行うと、その後ろめたさから動きがぎこちなくなり、挙動不審になる。となれば、その者がその集団の中で良い社会的ポジションを獲得することは難しくなるだろう。しかも、物事の正誤の判断にはその社会的ポジションが大きく関わってくることになるから、結果として、正当性に固執すればするほど、逆にその者の信頼性が疑われることになる。そしてそれによってさらに、今度はその者自身の正当性が問われることになるという悪循環。

――そもそも、大抵の人間はこういった不一致を特に意識することもなく、自然に行っている。それはその者が理屈ではなく感覚を参照して活動していることを意味する。つまり、元々平均的な感覚を持ち、それを参照して活動している者達の集まりの中で、(それを獲得できなかったが故に、元々不一致であることが多い)理屈を参照してその集団に順応しようとしたところで、その努力自体に既に大きな無理がある。そして無理があればその努力も長くは続かないだろう。よってそういった者のチャンスは、そのタイミングも期間もそれだけ限定されることになる。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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